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ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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五代 友厚 5
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五代 友厚 像 5
(大阪府 大阪市中央区北浜1丁目 大阪証券取引所旧本館)

撮影日:2016年8月27日
建設年:平成16年
分 類:実業家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

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[大阪証券取引所設立]
大阪は江戸期の金相場会所以来、金融取引の活発な地であり、今日まで大阪経済の発展を担ってきた。
薩摩出身の五代友厚は明治11年(1878年)、大阪株式取引所の設立に尽力し、大阪の発展に多大なる功績を残した。
大阪証券取引所の前身、大阪株式取引所もまた、友厚の尽力によって設立された。
政府は明治7年(1874年)10月、株式取引所条例を発布し、東京、大阪に各一か所の取引所を置くこととした。
株式会社設立の気運が高まってきたことと、政府発行の公債が巨額にのぼっていたことが背景にある。
しかしながら、この条例は当時の経済事情と相容れないものがあったので、友厚は有志と図ってその実施延期と改正とを要望、政府もこの意見を容れて根本的改正を行い、明治11年(1878年)5月、改めて株式取引所条例を発布した。
友厚は鴻池、中井由兵衛(三井)、広瀬宰平(住友)、白木保三(加納)らとともに発起人となり、さらに広瀬とともに創立事務委員に就いた。
4月13日の仮会議の席上、友厚は次のようなあいさつを行っている。
「もともと、この企ては、社会全般の人々に、なんらかの利益を与え、なんらかの幸福を招くものであります。・・・株式取引会社の設立を広く全国民に知らせるならば、国民の皆様も、その設立が社会に便益を与えることを知り、とくに膨大な額に上る金禄公債証書などが、将来広く売買されるようになれば、本社の仕事も必ず盛んになることでありましょう。しかしながら、事業が盛んになるかどうかは、お互いの信用が厚いか薄いかによるものであります。したがって、どんなことをするにしても、誠意をつくし、しっかりした規律を立てて、ちょっと見ただけでも、国民の信用が得られるようにしなければなりません。昔の人は『成立の難き(かたき)は天にのぼるがごとく、覆墜の易きは燎毛のごとし』といっております」
「会社が栄えるか滅びるか、評判をよくするか悪くするかは、その経営に携わるわれわれが、これを招き、これを迎えるものであることを心に銘じ、辛抱と努力を続けて、会社の組織をしっかりしたものにしなければなりません。・・・会社に関する義務を果たすことはもちろん、会社外における普段の付き合いにあっても、お互い親密にし、友情をもって、互いに助け合わなければならないと、私は考える次第であります」
友厚の経営哲学・理念を明確に表した発言といえよう。
友厚は6月4日、創立願書を大蔵卿大隈重信に提出し、同月17日許可がおりた。
大阪株式取引所の創立株主は130名にのぼった。友厚は所有株数150株(持株率7.5%)で筆頭株主となったが、自らは役員に加わらず、渋沢栄一(第一国立銀行)系の中山信彬を頭取に推した。
五代と渋沢という東西の両雄はすでに明治6年(1873年)頃から、このような関係を持っていたのである。
もっとも開業当初、定期取引に付した物件は、秩禄公債、新公債、旧公債の三種で、間もなく金禄公債も加えられたが、株式会社はわずかに二、三の国立銀行と堂島米会所しかなく、しかも資本金はいずれも30万円以下のものだったため、定期取引に付すべき株式はあまりなく、明治12年(1879年)秋には、金銀貨幣取引も行うようになり、一時盛況となったが、明治14年(1881年)には半額減資して資本金10万円としている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
大阪証券取引所旧本館の前におられます。
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右手をズボンのポケットに突っ込み、左手でスーツの下襟の下を握っているすらっとした立ち姿です。
設立に尽力した大阪証券取引所前に堂々と立っており、大阪の街を見守っておられます。

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五代 友厚 4
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五代 友厚 像 4
(大阪府 大阪市中央区北浜2丁目 光世証券本社)

撮影日:2016年8月27日
分 類:実業家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

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[感  想]
光世証券本社1階のピロティーにおられます。
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鹿児島中央駅前の広場にある1の若き薩摩の群像の中の五代の像と同じものだと思われます。
椅子に座り、右手を前に突き出した姿で、群像は高い位置にあって、見えにくいですが、こちらは、間近で見ることができます。

五代 友厚 3
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五代 友厚 像 3
(大阪府 大阪市中央区本町橋 大阪商工会議所隣)

撮影日:2016年8月27日
建設年:昭和28年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

[大阪商法会議所設立]
明治初期、維新変動の波を受け、大阪経済が低迷する。
銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失が主な原因であった。
この事態を打開し大阪経済の復活を願って財界指導者の有志15名が明治11年(1878年)7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を大阪政府に提出。
これが今日の大阪商工会議所の礎となる。
設立背景は、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れ悪辣な金儲けをする者が増えるのを防ぐため、また互いを助け合うために実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに起因する。
嘆願書の集め方は五代らしい強引な勧誘で、決め文句は「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」で、結果的に60人の同志を獲得した。
初代会頭は五代友厚。
大阪商法会議所を設立した目的は大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資するといった教育勅語的な趣旨に基づいた遠大な意図だった。
役員の構成は、五代を初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)、田中市兵衛(第四十二国立銀行)らの150株を筆頭に皆で立ち上げた。五代は初代会頭となった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

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[感  想]
大阪商工会議所ビルの隣におられます。
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歴代会長が三人並んでおり、道路から一番手前になります。
右手を差し出し、左手を腰に当てた立ち姿で、きりりとした表情が印象的です。

土居 通夫
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土居 通夫 像
(大阪府 大阪市中央区本町橋 大阪商工会議所隣)

撮影日:2016年8月27日
建設年:昭和31年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

土居通夫
土居 通夫(どい みちお)
(1837年-1917年)
明治-大正時代の実業家

天保8年4月21日生まれ。
伊予(愛媛県)宇和島藩士の子。
維新後、司法官をへて明治17年鴻池家の顧問となり財界にはいる。
以後大阪電灯、長崎電灯、京阪電鉄などの社長を歴任した。
27年衆議院議員。28年大阪商業会議所会頭。
大正6年9月9日死去。81歳。本姓は大塚。通称は保太郎、彦六。俳号は無腸(むちょう)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
大阪商工会議所ビルの隣におられます。
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歴代会長が三人並んでおり、真ん中になります。
フロックコートを着た立ち姿で、手を前に組んで前を見つめている表情の像です。

稲畑 勝太郎
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稲畑 勝太郎 像
(大阪府 大阪市中央区本町橋 大阪商工会議所隣)

撮影日:2016年8月27日
建設年:昭和31年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

稲畑勝太郎(63歳、大大阪博顧問、大正14年)
「関西大学年史編纂室ホームページ」から

稲畑 勝太郎(いなはた かつたろう)
(1862年-1949年)
明治-昭和時代の実業家

文久2年10月30日生まれ。
京都師範在学中の明治10年フランスに留学、染色をまなぶ。
23年生地京都に稲畑染料店(現稲畑産業)を開業。
のち大阪に進出して、軍服用カーキ色染めを創案する。
大正5年日本染料製造の創立にくわわり、15年社長。
活動写真を輸入し、明治30年大阪で初公開した。
大阪商業会議所会頭。貴族院議員。
昭和24年3月29日死去。88歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◎大阪商工会議所前の銅像について
•大阪商工会議所ビル南隣りには、大阪商工会議所の会頭3人の銅像が設置されています。
•3人の会頭は、それぞれ大阪の近代化や国際化に多大な功績があった方々で、向かって左から初代会頭の五代友厚、7代会頭の土居通夫、10代会頭の稲畑勝太郎です。
◎若宮商工稲荷神社について
•銅像の奥にある若宮商工稲荷神社は、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」と内本町の大阪商工会議所移転建設用地内にあった「若宮稲荷神社」のご神体と合祀され、新たに建立されたものです。
「大阪商工会議所前の銅像と若宮商工稲荷神社についてホームページ」から

[感  想]
大阪商工会議所ビルの隣におられます。
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歴代会長が三人並んでおり、道路から一番奥になります。
タキシードを着た立ち姿で、前をしっかりと見据えて表情が特徴的です。

山根 徳太郎
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山根 徳太郎 像
(大阪府 大阪市中央区大手前4丁目 大阪歴史博物館10階)

撮影日:2016年8月27日
建設年:昭和60年
分 類:学者
作 者:河合 隆三
評 価:☆☆☆

山根徳太郎(やまね とくたろう)
(1889年-1973年)
大正-昭和時代の日本史学者

明治22年1月12日生まれ。
西田直二郎に師事。
大阪商大予科教授、戦後はその後身の大阪市立大教授。
昭和29年からはじまった難波宮址の発掘調査を指導し、史跡保存の重要性をうったえた。
昭和48年7月28日死去。84歳。
大阪出身。京都帝大卒。
著作に「難波の宮」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[難波宮]
難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。
1913年(大正2年)大阪城外堀南の法円坂で奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。1945年(昭和20年)、日本敗戦によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。
そこで山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに1954年(昭和29年)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では難波宮のあとなのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した。 しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、686年(朱鳥元年)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。 1961年(昭和36年)山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根徳太郎は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり」という名言を残した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
上半身の像で、大阪歴史博物館10階におられます。
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10階は、古代(奈良時代)の世界の展示フロアーで難波宮の大極殿が再現されています。
幻の大極殿を発見した山根徳太郎の像を置くにふさわしい場所で、
史跡公園として整備された難波宮大極殿をじっと見守っておられます。

池上 四郎
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池上 四郎 像
(大阪府 大阪市天王寺区茶臼山町 天王寺公園)

撮影日:2016年8月27日
建設年:昭和34年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆

池上 四郎Shiro_Ikegami
池上 四郎(いけがみ しろう)
(1857年-1929年)
明治-昭和時代前期の官僚

安政4年4月18日生まれ。池上三郎の弟。
明治10年警視庁巡査となる。麹町警察署長などをへて、31年から千葉県、兵庫県、大阪府の警察部長をつとめた。
大正2年大阪市長に転じ、在任10年。
昭和2年朝鮮総督府の政務総監。
昭和4年4月4日死去。73歳。陸奥耶麻郡(福島県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎11歳のときに戊辰戦争を経験する。会津戦争時に四郎は、兄の三郎と共に会津若松城に篭城した。白虎隊への入隊を強く希望したが、15歳以上の規約のため数えで12歳の四郎は除外された。敵に城を包囲され、一日に約二千五百発の砲弾が撃ち込まれる中で、四郎は年少組の仲間と共に唐人凧をあげて自軍の士気を鼓舞したというエピソードが残っている。

◎御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は、池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現し、大大阪時代の全盛期を迎えることとなった。

◎市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電灯株式会社を買収し、電気供給事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。

[銅  像]
◎1935年、池上の功績をたたえ、大阪市民の手によって銅像が建立された。
この銅像は太平洋戦争最中の1942年、金属供出により撤去されたが、戦後の1959年6月に市政70周年を記念して再建された。

[感  想]
天王寺公園におられます。
立ち姿で、立派な口髭が印象的です。
黄土色の珍しい色の像です。
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公園の広場と天王寺動物園を見守っておられます。

関 一
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関 一 像
(大阪府 大阪市北区中之島1丁目 大阪市立東洋陶磁美術館隣)

撮影日:2016年8月27日
建設年:昭和31年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

関一Seki_Hajime
関 一(せき はじめ)
(1873年-1935年)
明治-昭和時代前期の経済学者、政治家

明治6年9月26日生まれ。
母校東京高商(現一橋大)の教授をつとめ、大正3年大阪市助役となり、12年市長(3期)。
大阪港、御堂筋、地下鉄、中央市場、市営住宅の整備・建設などにつくした。
貴族院議員。
昭和10年1月26日死去。63歳。
静岡県出身。著作に「住宅問題と都市計画」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎「大阪の父」などと呼ばれた。
◎政治活動に並行し学問研究活動にも邁進し、「シティプランニング」という外来語に対して「都市計画」という訳をあて、最初にその用語を使ったとも言われる。
◎大阪アルカリ事件においては、科学的調査に基づいて、あえて行政側の責任を認めた。この事件は裁判となり、加害企業側が敗訴している。さらに、裁判に並行して積極的に被害者の救済策に乗り出すなど、環境政策の先駆者としての一面も持つ。
◎室戸台風による災害復旧を陣頭指揮する最中、1935年大阪市天王寺区の自宅でチフスのため死去。享年63。天王寺公園運動場で大阪市初の市葬が営まれた。のち、大阪市政への功績がたたえられ、没後20周年を記念して中之島にその銅像が建立された(現存)。
◎学者から政治家に転身したのは、自身の研究を実行してみたいとの思いからだったと述べている。市長就任後も、質素な生活を続けており、遺産はわずか1万円足らずであった。東京高等商業学校で同僚だった佐野善作からは「特徴のない特徴」「地味」などと評される。

[感  想]
大阪市立東洋陶磁美術館の隣、大阪市中央公会堂の対面におられます。
モーニングコートを着た立ち姿で正面をしっかりと見つめている像です。
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大阪の街を見つめられておられます。

織田 作之助
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織田 作之助 像 
(大阪府 天王寺区生玉町 生国魂神社)

撮影日:2016年8月27日
建設年:平成25年
分 類:文学者
評 価:☆☆☆☆


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織田 作之助(おだ さくのすけ)
(1913年-1947年)
昭和時代の小説家

大正2年10月26日生まれ。
昭和15年同人雑誌「海風」に発表した「夫婦善哉」でデビュー。
戦後、大阪をえがいた「世相」「競馬」などで坂口安吾、太宰治とならぶ無頼派の人気作家となる。
「読売新聞」に「土曜夫人」を連載中に喀血し、昭和22年1月10日急死。35歳。
大阪出身。第三高等学校中退。
【格言など】天才は昔から無一文(夫人にあてた遺書の一部)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎作之助は仕出屋の出身だが、当時、路地裏=長屋の仕出屋の息子が三高に入学を果たすということは極めて稀な話だった。母校・東平野第一小学校から「(三高の)入学式の日に児童総出で見送る」という申し出があったという逸話もある(作之助は同小学校の卒業生では初めての三高生に当たる)。

◎映画監督・川島雄三とは生前親交があり、川島と共に日本軽佻派を結成したこともある。後に川島は、作之助の作品を数本映画化している。

◎大阪名物・難波『自由軒』の「元祖・混ぜカレー」を好んで食べていたらしい。自由軒本店には、「トラは死んで皮をのこす/織田作死んでカレーライスをのこす」と書かれた額縁入りの写真が、今でも大切に飾られている(自由軒と織田作之助【自由軒オフィシャルサイト】)。

◎現在、大阪文学振興会により、作之助の名前を冠した織田作之助賞が主催されている。

◎代表作「夫婦善哉」に別府温泉を舞台とした続編が存在していたことが、奇しくも没後60年目にあたる2007年に判明。

◎家紋は織田信長と同じ「織田木瓜」である。

◎愛妻家であり、最初の妻・一枝の死後、最期まで一枝の写真と遺髪を肌身離さず持ち歩いていた(現在は、一緒に持ち歩いていたライターや注射器〈結核治療用の抗生物質を打つため。ただこの注射器を使ってヒロポンを打っていたとも言われている〉と共に、日本近代文学館〈東京都目黒区〉に保管されている)。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

『木の都』
織田作之助
『大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。
それは生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでゐるといはれて怖くて近寄れなかつた樟の老木であつたり、…』

[感  想]
生国魂神社の境内におられます。
中折れ帽にマントを羽織り、たばこをふかす姿は、絵になっていてカッコいいです。
『木の都』の冒頭に生国魂神社の境内の描写が出てきます。

井原 西鶴
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井原 西鶴 像
(大阪府 天王寺区生玉町 生国魂神社)

撮影日:2016年8月27日
建設年:平成4年
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

井原 西鶴
井原 西鶴(いはら さいかく)
(1642年-1693年)
江戸時代前期の俳人、浮世草子作者

寛永19年生まれ。大坂の富商の出。
西山宗因の談林俳諧をまなび、延宝年間に天下一の速吟で知られた。
天和2年「好色一代男」を刊行、これが浮世草子のさきがけとなった。
つづいて好色物「好色一代女」、武家物「武道伝来記」、町人物「日本永代蔵」「世間胸算用」などを雅俗折衷文で発表、文学史上に一時期を画した。
元禄6年8月10日死去。52歳。
別姓に平山。通称は藤五。別号に鶴永、西鵬、松風軒、松寿軒など。
【格言など】浮世の月見過しにけり末二年(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

一昼夜の間に発句をつくる数を競う矢数俳諧の創始を誇り、またそれを得意とした(最高記録は23、500句)。
その奇矯な句風から阿蘭陀流(オランダりゅう)と腐される。
天和2年(1682年)に『好色一代男』を出版し好評を得、その後様々なジャンルの作品を出版。
従来の仮名草子とは一線を画する物として、現在では以後の作品を浮世草子と区別している。
代表作は『一代男』の他に『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』など。
また代表的な発句に、
長持に春かくれゆく衣がへ
鯛は花は見ぬ里もあり今日の月
大晦日定なき世の定かな
浮世の月見過しにけり末二年
がある
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[銅 像]
寛文13年(1673年)、32歳の西鶴は生國魂神社で、俳人200人を集めて大規模な万句興行を主催しました。
また延宝年(1680)には、当地で一昼夜独吟4000句の矢数俳諧に成功。
発句「天下矢数二度の大願四千句也」が伝えられています。
西鶴像は平成4年(1992)に西鶴生誕350年記念として建立されたものです。

[感  想]
生国魂神社の境内におられます。
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正座をし、物語を語っている姿です。

役小角
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役小角 像
(大阪府 大阪市中央区高津1丁目 報恩院) 

撮影日:2016年8月27日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

役小角(えんのおづぬ)
飛鳥時代の呪術者
大和(奈良県)葛城山にすむ。
文武天皇3年(699)妖言によって人をまどわすと弟子の韓国広足に中傷され、伊豆に流される。「日本霊異記」の説話にもみえ、真言密教の呪法をおさめ、神仙術をおこなう人物となっている。平安中期以降山岳宗教の修験道とむすびつき、やがてその開祖とされた。
通称は役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[肖 像]
修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
報恩院の境内におられます。
右手に杖、左手に巻物を持ち、石で作られたほこらに座った像です。
すねを露出させ、一本歯の高下駄を履いた姿が特徴的です。


本木 昌造 2
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本木 昌造 像 2
(大阪府 大阪市天王寺区四天王寺 天王寺北墓地)

撮影日:2016年8月27日
建設年:昭和60年
分 類:その他
評 価:☆☆☆

「なにわ人物伝 -光彩を放つ-」
本木 昌造 ―もとき しょうぞう― 
活版印刷界に多大な功績 
本木昌造は、鉛活字の始祖。大阪の活版印刷界に残した功績はまことに大きい。
彼は文政七(一八二四)年、長崎の北島三弥太の四男に生まれた。名は永久、通称昌造。幼いころ本木庄左衛門の養子にやられる。庄左衛門は語学の才能があり、英語、オランダ語、ロシア語が達者で、通訳としてひっぱりだこ。また門人を集めて外国語塾を開き、盛況であった。幕府に頼まれ砲術の書物を翻訳、ほかに日常会話の手引書なども刊行している。
昌造は養父から語学を習うが暗記力抜群、単語を覚えるスピードの速さは、養父も舌を巻くほど。青年時代ロシアの外交官プチヤーチンが長崎に来たとき通訳を務めるが会話にロシアの古い格言や言い伝えを織り込み、盛んに機知に富んだジョークを連発したため、気難し屋のプチヤーチンも感嘆し、「なんじはわがはいの国に何年住んでいたのか」と尋ねたといわれる。
だが昌造は語学の道には進まなかった。知識欲旺盛(おうせい)で西洋の諸文献を読みあさるうちに、たまたまオランダ船の船長から通訳のお礼だと古ぼけた活字式印刷機を譲り受け、その精巧さに驚嘆、文明文化の進歩の根源は文字印刷にあると悟る。さっそく手元にある外国の書物を印刷して人々に与え大喜びされるうち、漢字やかなの印刷ができないかと印刷機を解体し研究を始めた。
安政二(一八五五)年、苦心に苦心を重ね、試作品が完成、医書や兵害を復刻印刷したところ、今までの版木よりはるかに鮮明で美しいので評判になるが、幕府は秘匿の情報を公開する不届きな仕業として印刷を禁止、強く叱責(しっせき)されて機械はとりあげられる。憤慨した昌造は造船技術の開発に転向、文久元(一八六一)年自分で設計した新型の蒸気船に試乗して航海中、事故を起こして漂流、命からがら八丈島に漂着する。
明治維新後ふたたび活版印刷に取り組むが、日本の文字の複雑さは西洋と比較にならぬ。失敗、また失敗をくり返し貧苦のどん底にあえいでいたころ、米国人技師ガンブルと知り合い、彼の指導と援助でついに明治三(一八七〇)年、「電胎法母型による活字鋳造」に成功した。神奈川県令今井関盛良はこの話を小耳にはさみ、さっそく昌造の印刷で「横浜毎日新聞」を刊行。そのすばらしい出来栄えを、知人の大阪の実業家五代友厚にみせびらかす。西洋通で知られた友厚は、かねがね英和辞書を刊行したいと思っていたので大喜び、北久太郎町(現・中央区)に「大阪活版所」を設立、「辞書は印刷技術だけではない。語学に堪能な貴殿なら適任だ」と、昌造のプライドをくすぐって勧誘、資金五千円也を提供した。昌造が大阪の活版事業に大きく貢献するのはこれからである。
活字所は設備が不十分だったので昌造は、ガンブルの仲介で中国の上海でとりあえず五千部の辞書を印刷する。これが友厚の功績の一つ「薩摩辞書(別称・南海事典)」である。薩摩辞書が明治期の西洋文化の吸収に、どれほど役に立ったかを考えると、活字印刷の重要性が改めて認識されよう。
大阪活版所はやがて「大阪日報」「大阪新聞」の発行を助け、諸資料・文献、あるいは珍籍奇書を矢継ぎ早に刊行し、学界に恩恵をもたらせた。全国各地もまねて活版所を創設するが、大阪活版所はそのさきがけとなる。
昌造と大阪のかかわりは活版だけではない。この二年前大阪府知事後藤象二郎から高麗橋を鉄橋に変えたいとの依頼を受ける。高麗橋は慶長九(一六〇四)年すでに架けられていた大坂の名橋で、何度も架け直されるが慶応四(一八六八)年の淀川大洪水で流失したままである。象二郎はそれで長崎で日本最初の鉄橋を架けた昌造に頼んだわけだ。昌造は長さ六四メートル、幅五・四メートルの鉄橋を設計するが、あまりにも巨大すぎて日本の技術では間に合わず、象二郎は英国のオールト社に発注、明治三年に完成する。「くろがね橋」と呼ばれて錦絵にまでなる名物、昭和四(一九二九)年、現在のコンクリート橋に変わるまで、なにわっ子の自慢のタネであった。
しかし過労がつのったのか、昌造はたった五年後の明治八(一八七五)年九月、まだ働き盛りの五十一歳で世を去った。四天王寺(天王寺区四天王寺一丁目)の北墓地に「本木昌造記念碑」が残り、昭和六〇(一九八五)年には銅像も建立された。また中央区大手通二丁目に「大阪活版所跡」碑がある。
緒方洪庵の門下で医学者の長与専斎は、昌造から英語を学び、オランダ語はもう古い、これからは英語の時代だと悟ったという。
三善 貞司
「大阪日日新聞 2006/07/15」から引用

[感  想]
天王寺北墓地の中におられます。
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墓地の中には入られなかったので、遠くから撮影しました。
笠をかぶり、羽織袴を着て、杖を持った立ち姿の像です。

本木 昌造 1
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本木 昌造 像 1
(長崎県 長崎市 上西山町 長崎公園)

本木 昌造(もとき しょうぞう)
(1824年-1875年)
江戸後期-明治時代の通詞、技術者

撮影日:2010年11月21日
建設年:昭和29年
分 類:通詞、技術者
評 価:☆☆☆

本木 昌造
本木 昌造
「宮崎徹が教える書体の世界ホームページ」から

文政7年6月9日生まれ。
オランダ通詞本木家の養子。
造船,航海術などをまなび,万延元年(1860)長崎製鉄所御用掛,のち頭取となる。
明治2年アメリカ人技師ガンブルをまねいて活字鋳造に成功。
翌年長崎に民間初の活版所をひらいた。
明治8年9月3日死去。52歳。肥前長崎出身。
本姓は北島。名は永久。号は梧窓,点林堂。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
長髪で袴を着て、すっと立っている感じの像です。

緒方 洪庵
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緒方 洪庵 像
(大阪府 大阪市中央区北浜 適塾)

緒方 洪庵
緒方 洪庵(おがた こうあん)
(1810年-1863年)
江戸時代後期の医学者、蘭学者

撮影日:2016年8月27日
建設年:平成9年
分 類:医学者
作 者:川合 敏久
評 価:☆☆☆

文化7年7月14日生まれ。
大坂にでて中天游に、天保2年江戸で坪井信道に入門。
長崎に遊学の後、大坂に適々斎塾(適塾)をひらく。
門人は3000人ともいわれ、大村益次郎、福沢諭吉らがいる。
文久2年幕府にまねかれ、奥医師と西洋医学所頭取をかねた。
文久3年6月10日死去。54歳。備中(岡山県)出身。
本姓は佐伯。名は章。字は公裁。通称は三平。別号に華陰、適々斎。
著訳書に「病学通論」「人身窮理小解」など。
【格言など】病者に対しては唯病者を視るべし、貴賤貧富を顧ることなかれ(「扶氏医戒」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎洪庵の功績としてもっとも有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。

◎人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。

◎福澤諭吉が適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。

◎洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。

◎診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。とくに和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな。」という悲痛な作品を残している。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
適塾の横におられます。
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本を開き、正面を見つめた正座姿で、
門人達に教えている姿です。

前島 密 3
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前島 密 像 3
(大阪府 大阪市中央区北浜東 日本郵政グループ大阪ビル前)

撮影日:2016年8月26日
分 類:官僚
評 価:☆☆☆

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[感  想]
日本郵政グループ大阪ビルの前におられます。
上半身の像で、つやのある緑色の像です。
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郵便局を見守っておられます。

前島 密 2
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前島 密 像 2
(愛媛県 松山市 道後樋又 四国郵政研修所敷地内)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和59年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆

[感  想]
四国郵政研修所の前庭の植え込みの中におられます。
前島IMG_1697 (1)
「郵便制度の父」と呼ばれる前島の像は、郵便局関係の施設に設置されているようです。
少し白っぽくなっているのが、残念です。

前島 密 1
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前島 密 像 1
(東京都 中央区 中央郵便局前)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和37年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆

前島密
「近代日本人の肖像ホームページ」から

前島密 (まえじま ひそか)
(1835年-1919年)
明治時代の官僚

天保6年1月7日生まれ。
慶応2年幕臣前島家の養子。
明治4年イギリスから帰国し,駅逓頭となり近代郵便制度の確立につとめる。
14年官を辞し,15年結党された大隈重信の立憲改進党にくわわる。
19年東京専門学校(現早大)校長,21年逓信次官。
貴族院議員。国字改良論者としても知られる。
大正8年4月27日死去。85歳。
越後(新潟県)出身。本姓は上野。
【格言など】治国の要は通信の快速四速に在り(「鴻爪痕」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

前島1円
1円切手

前島 1
前島密の銅像を描く記念切手(1946年)
この切手の銅像は、新潟県上越市の前島記念館にあります。

[感  想]
1円切手の肖像画で有名な前島密の像
郵便発祥の地である中央郵便局前の黒光りする上半身の像です。

林 市蔵 1
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林 市蔵 像 1 
(大阪府 大阪市中央区北浜 淀屋橋南詰)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和28年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆

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林市蔵(はやし いちぞう)
(1867年-1952年)
明治-大正時代の官僚

慶応3年11月28日生まれ。
三重・山口県知事をへて、大正6年大阪府知事。
7年米騒動に際し小河滋次郎とともに方面委員を創設。
現在の民生委員制度の始まりで、市蔵は民生委員の父といわれる。
のち日本信託銀行頭取などをつとめた。
昭和27年2月21日死去。84歳。
肥後(熊本県)出身。帝国大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
淀屋橋近くの川沿いにおられます。
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羽織袴姿の座像で、ちょっと強面の顔立ちが印象的です。

源 満仲
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源 満仲 像
(兵庫県 川西市 JR川西池田駅)

撮影日:2016年8月26日
建設年:平成元年
分 類:武士
作 者:久保田 俶通
評 価:☆☆☆☆☆

源 満仲(みなもとのみつなか)
(912年-997年)
平安時代中期の武人

延喜12年生まれ。
源経基の長男。
摂津多田荘(兵庫県)を本拠とする多田源氏の祖。
安和の変で藤原千晴らを密告。
以後藤原摂関家とむすび、武門としての源氏の地位をきずく。越前、摂津などの国守、鎮守府将軍を歴任。
晩年出家して多田新発意とよばれた。
長徳3年死去。86歳。法名は満慶。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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「三ツ矢のマークはどこからきたのか?」
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「三ツ矢」という名前の由来は、平安時代にまでさかのぼることができます。
清和源氏の祖、源満仲が城を築くため、現在の大阪にある住吉大社に祈念したところ、『矢の落ちたところを居城にせよ』と白羽の鏑矢(かぶらや)を与えられました。
お告げどおり、満仲が鏑矢を天に向けて放つと、矢は火を吹いて飛び、見えなくなりました。射った鏑矢は、現在の兵庫県にある多田沼に棲みついて住民を苦しめていた”九頭の龍(くずのりゅう)”に命中。
そこで源満仲は、多田沼に居城を定めて多田源氏と名のりました。
満仲の放った矢を見つけた孫八郎には領地ともに三ツ矢の姓と三本の矢羽根の紋を与えました。
そんな満仲がある日、鷹狩りに出かけたとき、居城に近い塩川の谷間の湧き水で一羽の鷹が足の傷を治して飛び立つのを目の当たりにし、湧き水が霊泉(れいせん)であることを知ります。
それが、多田村平野(現在の兵庫県川西市)の天然鉱泉です。
以来、明治初年頃まで、霊泉を沸かした平野温泉郷は永く繁栄してきました。
明治時代に平野温泉の水は「平野水」という鉱泉水として認知され、その後、伝承にちなんだ名称をとりいれた「三ツ矢平野水」「三ツ矢タンサン」として市販されるようになりました。
これが、後の三ツ矢という商標になったのです。
「Asahi アカデミー三ツ矢豆知識ホームページ」から

[感  想]
JR川西池田駅前のロータリーにおられます。
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高さ約6メートルの騎馬像で、馬が前足をあげ後ろ足で立ちあがった竿立ち姿で、迫力があります。
鎧甲や顔の髭まで細かく表現されています。
弓矢を持った姿ですが、「三ツ矢サイダー」の三ツ矢の由来が源満仲というのも興味深いです。

楠木 正成 2
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楠木 正成 像 2
(兵庫県 神戸市中央区新開地 湊川公園)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和10年
分 類:武将
作 者:斎藤 素巌
評 価:☆☆☆☆☆(満点)

楠木正成は、湊川の戦いで殉死し、その地に彼を祭る湊川神社が明治5年(1872)に
建てられました。昭和10年(1935)5月25日楠正成公600年祭が挙行されたときに
15万人の寄付金3万円余で、銅像が建設されました。
地鎮祭は昭和10年3月25日、除幕式は同年5月22日に挙行され、7月1日に神戸市に
寄贈されました。 
「神戸新聞社の文章の石碑」より
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[感  想]
湊川公園におられます。
雲から抜け出て、空に向かって馬と共に伸びていくような騎馬像で、躍動感にあふれ迫力が有ります。鎧甲や矢などの細部もよく出来ています。
皇居の1の像とは違った楠木正成像で、どちらも良く満点です。

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楠木 正成 1
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楠木 正成 像 1  
(東京都 千代田区 皇居前広場)

楠木正成(くすのき まさしげ)
(不詳-1336年)
鎌倉-南北朝時代の武将

撮影日:2007年6月4日
建設年:明治33年
分 類:武将
作 者:高村 光雲 他
評 価:☆☆☆☆☆
(満点です!)

河内(大阪府)赤坂の土豪。
元弘元年(1331)後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵。
配下の武士団をうごかして奇策を駆使,赤坂城・千早城の戦いなどで幕府軍をくるしめる。
建武政権下で摂津守,河内守。
建武3=延元元年足利尊氏と摂津湊川(兵庫県)でたたかい,5月25日敗れて自刃した。
【格言など】誉れを求めんより恥をいとえ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆楠木正成(銘板は楠 正成)は、鎌倉幕府時代末から南北朝時代初期にかけて活躍した武将です。
河内周辺を根拠地とした独立性の強い豪族・武士集団、いわゆる「悪党」の出身ともいわれますが、出自には謎が多い武将です。
後醍醐天皇が企図した反北条・反鎌倉幕府の運動に荷担。
鎌倉幕府滅亡の端緒となった千早城籠城戦で名を上げ、足利尊氏と後醍醐天皇の対立が激化した後も官軍の中心人物として戦いましたが、湊川の合戦で寡兵をもって善戦するも討ち死にしました。
『太平記』では尊王の志厚い忠義の武将として描かれていますが、「政権の安定を考えるなら新田義貞を排除して足利尊氏と結んだほうがよい」という現実的な考えをもっていたという説もあります。
銅像は、明治23年(1890)に住友財閥の第14代住友吉左衛門(住友友親)の発案により、当時岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に製作を依頼。
同校の彫刻科教授であった高村光雲らが中心となって製作にあたりました。
完成は明治30年(1897)、明治33年に現在の皇居前広場に建立されました。
像の姿は、六波羅探題滅亡後、新政権樹立のために京都に向かう後醍醐天皇を出迎えた時を描いたもので、高さ3.96メートルの堂々たる騎馬武者姿です。
武者銅像の極致とも言えるダイナミックかつ精緻な銅像で、馬具や甲冑の造形はもちろん、口を結んだ大楠公(楠木正成)の緊張感あふれる表情や馬体の隅々に至るまで、まったく隙のない描写は見ていてため息が出るほどです。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

楠公銅像
「楠公銅像」
最新東京名所写真帖(明治42.3刊行)
宮城前楠木正成公銅像
「宮城前楠木正成公銅像」
最新東京名所写真帖(明治43.7刊行)
楠公銅像2
「楠公銅像」
最新東京名所写真帖(明治44.4刊行)
「写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳ホームページ-」から
明治時代の東京名所写真帳の掲載写真です。

[紙  幣]
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小額日本銀行券(い五銭券)
(1944年)
戦局の悪化により、補助貨幣の素材金属が極度に不足したための緊急措置として初めて「円」未満の10銭、5銭の小型紙幣として日本銀行券が発行された。
楠木正成の銅像が紙幣(い五銭券)の図柄となっています。
ホームページ「日本銀行金融研究所 貨幣博物館」から

[感  想]
これは、すごい迫力!
躍動感溢れる像です。
感動しました!
銅像の作者を調べると、
有名な彫刻家、高村光雲作です。
肖像では無く、銅像自体が紙幣の図柄にもなっていますし、
やはりこの銅像は、ちょっと別格です。
明治時代から現在まで東京の名所です。

平 清盛 3
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平 清盛 像 3
(兵庫県 神戸市兵庫区平野 平野交差点)

撮影日:2016年8月26日
建設年:平成24年
分 類:武将
作 者:喜多 敏勝
評 価:☆☆☆

[感  想]
こちらは、2とは対照的な感じで、
若かりし頃の武者姿。
閉じた扇子を右手に持って、前へと進む勢いのある凜々しい立ち姿です。

平 清盛 2
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平 清盛 像 2
(兵庫県 神戸市兵庫区平野 平野商店街(平野交差点東南角広場))

撮影日:2016年8月26日
建設年:平成23年
分 類:武将
作 者:津野 充聡
評 価:☆☆☆

[福原遷都]
1180年6月、平清盛の強い意向で、現在の神戸市兵庫区平野の地に、天皇・上皇以下が大挙して訪れました(6月2日平安京出発、6月3日福原到着)。
やがて、都造りが計画されますが、途中から反平氏勢力の挙兵がはじまり、遷都反対も根強く、未完に終わって、約170日の後京都に帰還します。
これをふつう福原遷都とよんでいます
『神戸市文書館ホームページ』から

[感  想]
平野商店街近くの広場におられます。
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この地に平清盛像があるのは、福原遷都に関係があるようです。
もしかしたら都になっていたかもしれない地です。
平清盛 日招(ひまねき)像
像は、平清盛日招伝説(日宋貿易や厳島神社参拝のための航路を開く難工事を1日で終わらせるため、沈みかけた夕陽を扇で招き戻した。)基づくものです。
扇子を右手で高く掲げた、袈裟姿の立ち姿です。

平 清盛 1
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平 清盛 像 1
(兵庫県 神戸市兵庫区切戸町 清盛塚)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和43年
分 類:武将
作 者:柳原 義達
評 価:☆☆☆

平 清盛(たいらの きよもり)
(1118年-1181年)
平安時代後期の武将

元永元年生まれ。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とする説もある。
平治の乱で源氏の勢力を一掃し、後白河上皇や二条天皇の信任をえる。
仁安2年従一位、太政大臣となり翌年出家。娘の徳子を高倉天皇の中宮とし、平氏一門で官職を独占するが、鹿ケ谷事件を契機に後白河法皇との対立がふかまり、治承3年法皇を幽閉し、政権を完全掌握する。
以仁王や諸国の源氏の平氏打倒の挙兵にあうなか、治承5年閏2月4日没した。64歳。
通称は平相国、六波羅殿、六波羅入道。法名は静(浄)海。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎『平家物語』における悪虐、非道、非情の描写から、かつての清盛は成り上がりの暴君・傲慢な性格の持ち主だという評価が定着していたが、現在では実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったとも言われている。(実際、後の源頼朝や源義経など義朝の遺児を殺さずに伊豆への流罪、仏門入りで済ませたことが災いして後に平家を滅ぼすことにもなった。しかしこれは池禅尼、もしくは彼女の背後の上西門院や頼朝の母方の実家の熱田大宮司家の意向も働いていると言われている。)

◎平治の乱前後の清盛について『愚管抄』では、如才なく諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし大きな権力を持つようになると、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、悪評も増えていった。

◎『源平盛衰記』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、経が島では清盛が人柱を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。

◎政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、経が島築造に見られる公共事業の推進、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治を打ち破り、(貴族的要素が強いとは言え)日本初の武家政権を打ち立てるなど、優れた功績も残している。中途で失敗に終わってしまったとはいえ、福原(今の神戸)に目をつけ、交易を通じて第二の都として発展させようとしたことから、先見性も高かったことが伺える。

◎軍記物で政治上手の戦下手と書かれることも多いが、平治の乱で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破し、御所や市街地の被害も最低限に抑えることに成功しており「洗練された戦法(評:元木泰雄)」を得意とする優秀な武将でもあったとされる。

◎京都・奈良で大きな勢力を持ち始めていた仏教勢力の抑制に努めた。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったが、強大な武力をもつ宗教勢力が重大な政治問題に関わることを阻止した意義は無視できない。皮肉なことに、この政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

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[清盛塚]
長らく清盛の墓所と考えられていたのが、神戸市兵庫区の清盛塚です。
高さ約8.5メートルの十三重の石塔で「弘安9年(1286年)2月」の年号が刻まれています。
もともとは現在より南西11メートルの場所にありましたが、大正12年に旧神戸市電の道路拡張工事に伴い移転されました。
そのときの調査で遺骨は発見されず、墓ではなく供養塔であることが判明しました。
現在、石塔の隣には柳原義達氏の作になる平清盛像と、琵琶の名手・平経正にちなんだ「琵琶塚」碑が建てられています。
また、兵庫の町は良好な港のある町として平安時代からよく知られており、鎌倉新仏教のひとつ「時宗」の開祖・一遍の墓がある「真光寺」、松王丸の人柱伝説を伝える「来迎寺(築島寺)」、日本ではじめて施餓鬼修法=(仏教で死者が迷い込む世界のひとつ・餓鬼道に落ちた者を供養する)が行われたといわれる「薬仙寺」など、史跡が豊富です。
これらの史跡を結ぶ散策ルートは、一般公募により「兵庫津の道」と名づけられています。
(県指定重要文化財)
「神戸市ホームページ」から

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[感  想]
平清盛のイメージで有名なのでは、六波羅蜜寺の僧形坐像(伝平清盛像)ですが、
六波羅蜜寺の僧形坐像(伝平清盛像)
これに似たイメージの僧の立ち姿の像。
穏やかな表情が印象的です。

武内 宿禰
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武内 宿禰 像
(兵庫県 神戸市兵庫区和田宮通3丁目 三石神社)

撮影日:2016年8月26日
建設年:平成18年
分 類:その他
作 者:山辺 宗孝
評 価:☆☆☆

肖像 武内宿禰
武内 宿禰(たけのうちのすくね)
(景行天皇14年-没年不詳)

記・紀にみえる人物。
孝元天皇の孫とも、曾孫ともされる。景行から仁徳にいたる5代の天皇につかえ、蝦夷地視察、神功皇后の新羅出兵をたすけるなどし、大臣をつとめたとされる。大臣をおおくだした葛城、平群、巨勢、蘇我ら28氏の共通の祖先とされている。「古事記」では建内宿禰。「たけのうちのすくね」ともよむ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

武内宿禰は忠臣とされることから、日本銀行券の肖像としても採用されている。
武内宿禰肖像(明治22年発券の改造壹圓券)
明治22年(1889年)発券の改造壹圓券

丙5円券
大正5年(1916年)の丙五圓券

武内宿禰と神功皇后(歌川国貞画

[感  想]
当初は、神功皇后の像だけでしたが、平成18年に応神天皇を抱く武内宿禰の像が横に建立されました。
歌川国貞の浮世絵の姿をあらわしている感じです。

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神功皇后
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神功皇后 像
(兵庫県 神戸市兵庫区和田宮通3丁目 三石神社)

撮影日:2016年8月26日
建設年:平成5年
分 類:皇族
作 者:山辺 宗孝
評 価:☆☆☆

神功皇后(じんぐうこうごう)
仲哀天皇の皇后
父は気長宿禰王
「日本書紀」によれば、仲哀天皇8年天皇の熊襲征討にしたがい筑紫におもむいたが、天皇が急死。翌年みずから兵をひきいて新羅を征し、百済、高句麗を帰服させた。
帰国後、応神天皇を出産。国政を69年間とり、100歳で没したという。
名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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【肖像が描かれた紙幣と切手】
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政府紙幣(一円券) 1878年(明治11年)
明治時代の改造紙幣にその肖像が用いられ、これが日本における最初の女性肖像紙幣となった。
その原版はイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネが作成したため、西洋風の美人に描かれている。なお、中央銀行たる日本銀行発足以前の事であるためこの紙幣は日本銀行券ではなく、不換紙幣の「政府紙幣」であった。

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旧高額5円切手1908年
逓信省は1908年に5円と10円の高額切手を発行したが、皇后の肖像が使われた。
この肖像は紙幣のそれを参考にしたものであったが、当時5円と10円は高額であり郵便料金よりも電信電話料金の納付用に使われることが多かった。
また1923年に関東大震災で印刷所が被災し印刷原版が破損したため1924年から日本人風の肖像に図案が変更された。そのため切手収集家から前者を旧高額切手、後者を新高額切手と呼ばれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
三石神社の境内におられます。
武装した勇ましい立ち姿です。

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徳川 光圀
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徳川 光圀 像
(兵庫県 神戸市中央区多聞通 湊川神社)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和30年
分 類:大名
作 者:平櫛田中
評 価:☆☆☆

徳川光圀像(狩野常信画、水戸徳川博物館蔵)

徳川 光圀
徳川 光圀(とくがわ みつくに)
(1628年-1701年)
江戸時代前期の大名

寛永5年6月10日生まれ。
徳川頼房の3男。寛文元年常陸水戸藩主徳川家2代となる。
殉死を禁止、社寺を整理、水戸の上水道を敷設する。
江戸藩邸に史局(彰考館)をたて「本朝之史記」(のちの「大日本史」)の編修を開始し、また明(中国)の朱舜水をまねく。
元禄3年権中納言。
4年藩主の座を兄の讃岐高松藩主松平頼重の子綱条にゆずり、久慈郡新宿村(常陸太田市)の西山荘に隠居。領内巡視、文化財の保護などにつとめた。
中納言の唐名「黄門」により水戸黄門の名で知られる。
元禄13年12月6日死去。73歳。初名は光国。号は梅里、西山。字は子竜。諡は義公。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。

◎光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
・日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。
・肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれた。
・オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。
・蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けている。
・鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。
・朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もある。

◎『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えた。

◎テレビの時代劇である『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊しているが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度足を運んだ程度である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

【銅  像】
御墓所には徳川光圀公(水戸黄門)の銅像があります。
光圀公は、水戸藩主を辞して西山荘に隠居された後も、大日本史の編纂を行うなど活躍され、正成公をひたすらお慕いされて墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立されました。
これら御事蹟は天下に顕彰され、偉大な御功績をのこされました。此の御功績を追慕して御尊の建設が尊願され、昭和30年7月に完成しました。
銅像の原型は、平櫛田中の作で、その頌徳碑は、徳富蘇峰の文によるものです。
「湊川神社ホームページ」から

[感  想]
湊川神社におられます。
水戸黄門のイメージにふさわしい頭巾と杖をついた全身像です。

モーツァルト
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モーツァルト 像
(兵庫県 神戸市中央区加納町 東遊園地)

撮影日:2016年8月26日
建設年:平成3年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年。

ヨーゼフ・ランゲ作 鍵盤に手を置くモーツァルト(首より下未完成[15])妻・コンスタンツェいわく「モーツァルトに最もよく似た肖像画
モーツァルト【Wolfgang Amadeus Mozart】
(1756年-1791年)
オーストリアの作曲家
一八世紀のウィーン古典派を代表する巨匠。
古典派器楽形式を確立し、生涯に六〇〇曲以上を作曲した。
作品には、四〇曲余の交響曲、各種協奏曲、歌曲、ピアノ曲、室内楽、宗教曲、オペラ「フィガロの結婚」「ドン=ジョバンニ」「魔笛」などがある。
「大辞林 第三版の解説」から

[容 姿]
肖像画や銅像ではいずれも“神童”に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子どもの姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。
最初の伝記作者ニーメチェク(英語版)によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何一つ、その大きな才能を示すものはなかった。」という。
有力なのは「21歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり丸鼻で近眼というものである。
本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹ゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。
19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、未だに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。
体躯に関しても「小男である」、「肥満が著しかった」という説がある。
検死による実際の身長は163センチメートルであった。
左耳は奇形で対耳輪上脚と耳垂が欠けていた。
この形の耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。
また末子のフランツも同様の耳をしており、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
東遊園地内におられます。
楽譜を持った右手を突き出し、足元には女性が寄り添っているという像です。
没後200年を記念して建立されたようです。

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モラエス
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モラエス 像
(兵庫県 神戸市中央区加納町 東遊園地)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和39年
分 類:外国人
作 者:長谷川 雅司
評 価:☆☆☆

モラエス(Moraes)
(ジュゼ・ジ・ソウザ・ジ・モライシュ)(Wenceslau José de Sousa de Moraes)
(1854年-1929年)
ポルトガルの外交官、作家

1854年5月30日生まれ。海軍士官、マカオ港務副司令。
明治22年(1889)からしばしば来日し、31年日本移住を決意。
神戸・大阪領事となり、福本ヨネを内縁の妻とした。のち総領事。
大正2年亡妻ヨネの故郷徳島に隠棲、ヨネの姪斎藤コハルとくらす。
日本風俗の紹介記事を故国におくり、それを著書にまとめた。
昭和4年6月30日死去。75歳。リスボン出身。著作に「日本通信」「徳島の盆踊」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎著書に『おヨネとコハル』、『日本精神』、『ポルトガルの友へ』、『徳島日記』がある。
ポルトガル語で著述したこともあり、生前には日本ではほとんど注目されることがなかったが、死後、日本語への翻訳がなされ、昭和初期の時代の風潮もあり、日本賛美として取り上げられるようになった。

◎モラエス自身を取り上げた小説に、新田次郎の『孤愁 サウダーデ』(未完)がある。
また、絶筆となった本作のポルトガルへの取材旅行の際、新田次郎は詳細なメモ、スケッチ、俳句などを残しており、それを元に、次男で数学者・エッセイストの藤原正彦が、単身、レンタカーを駆って追体験している。
その様は、『父の旅 私の旅』として出版されており、それぞれの「サウダーデ」を問う旅として見ることが出来る。
2012年には正彦が父の小説を引き継ぐ形で続きを書いたものが出版された。

◎池内紀は“ヘンなガイジン第一号。とともに「第二の人生」の手本を示したぐあいである”と『モラエスの絵葉書書簡』の書評の中で書いている。

◎徳島市のモラエスの旧宅の一部は現在眉山山上の博物館施設「モラエス館」の内部に移築されて保存・活用されており、また壮年期を過ごした神戸の文学館ではモラエスに関する資料が展示されているなど、後世に伝えるべき文筆家として高く評価されている。
以前旧宅のあった徳島市伊賀町一帯には「モラエス通り」と名付けられた通りがある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
東遊園地内におられます。
緑に囲まれた中にある、髭が特徴的な上半身の像です。

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エルヴィス・プレスリー
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エルヴィス・プレスリー 像
(兵庫県 神戸市中央区東川崎町 神戸ハーバーランド 神戸情報文化ビル前)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和62年(平成21年移設)
分 類:外国人
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆


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エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)
(1935年-1977年)
出身地 : アメリカ/ミシシッピ州トゥーペロ
本名は、Elvis Aron Presley。
父は農夫、母はミシン工場勤めという貧しい家庭に生れる(双子だったが兄弟は死産)。
幼い頃からカントリー等に親しみ、5歳から教会のコーラスに参加。
11歳で地元ののど自慢大会で2位となり、父からギターを買ってもらう。
やがてメンフィスに移り、高校卒業後、トラック・ドライバーになる。
18歳の時、母の誕生プレゼントとして『マイ・ハピネス』を自前でEPにしたことからレコード会社の目に止まり、55年にプロ・デビュー。すぐさまメンフィスで火が付きRCAビクターと契約。瞬く間にティーン・エイジのアイドル的存在となって熱狂的支持を受けた(『ハートブレイク・ホテル』は週に12万枚もの売れ行きだったという)。
56年にパラマウントに招かれ、同年FOXから「やさしく愛して」で映画デビュー。興行的に大ヒットして以降、多くの作品に主演。
58年に召集され西ドイツに駐留。ここで空軍大佐の娘、プリシラと知り合い67年に結婚。しかし俳優として演技が出来るわけでもなく、型にはまった作品群は次第に飽きられ、ステージからも遠のいていたために再起不能の噂が流れたが、69年ラスベガスのショーでこれを払拭。70年の同ショーを記録した「エルビス オン ステージ」は世界的ヒットとなって“キング・オブ・ロックンロール”は完全復帰を果たした。
しかしその3年後、長年の薬物摂取が原因で心臓発作を起こし、77年、メンフィスの自宅で死亡しているところを発見された。プリシラとは73年に離婚。プリシラはその後女優となり、愛娘リサ・マリー・プレスリーはマイケル・ジャクソン、ニコラス・ケイジと結婚したが共に離婚に至っている。

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[エピソード]
◎ジェームズ・ディーンの大ファンで、目標としていた。ディーンの代表作「理由なき反抗」の台詞を全て覚え、周りを驚かしたこともある。
ちなみに、プレスリーの代表作「闇に響く声」は、ディーンのために書かれた作品であった。評論家たちはこの作品を、プレスリーの映画の中で最良の演技をしたと言った。

◎F1チームのB・A・Rの元オーナーのクレイグ・ポロックがかなり古いハーレー・ダビッドソンを約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出しシートを開けたらシートの裏に“親愛なるジェームズ・ディーンへ、エルビス・プレスリー”と書かれており、プレスリーからジェームズ・ディーンにプレゼントされたものとわかった為オークションに出展したところ、およそ1億2千万円の値がついた。

◎意外と知られていないが日本神話なども知っているようなところもある親日家であり、日本の首相だった小泉純一郎が大ファンで、プレスリーと誕生日が同じである。
首相として訪米時にジョージ・W・ブッシュ大統領と共にグレイスランドを訪問し、このとき小泉は、大統領たちの前で遺族から借りたサングラスをはめてエア・ギターをしながら、「グローリー グローリー ハレルーヤー」と唄った。
自身がいかにプレスリーの大ファンであることを示そうと、リパブリック讃歌を曲の一節に取り入れたプレスリーの代表曲「An American Trilogy(邦題:アメリカの祈り)」を自らの判断で披露したものであるが、この小泉の予期せぬ行動はブッシュ大統領夫妻らから苦笑を買った。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
神戸ハーバーランドの神戸情報文化ビル前におられます。
東京から移設されたようですが、賑やかな街並みにギターを抱えた立ち姿が、よく映えています。

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