ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!


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谷口 弥三郎
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谷口 弥三郎 像
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部) 

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和39年
分 類:医師
作 者:今里 龍生
評 価:☆☆☆


谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう)
(1883年-1963年)
明治-昭和時代の産婦人科学者、政治家。

明治16年8月13日生まれ。
熊本医学校を卒業。
大正10年後身の県立熊本医専(現熊本大)教授。
翌年谷口病院を開設、実験医学研究所所長をへて昭和28年久留米大学長。
この間の22年参議院議員(当選3回、自民党)、25年日本医師会会長。
優生保護法の制定につくした。
昭和38年8月19日死去。80歳。香川県出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
久留米大学医学部の校内におられます。
ふくよかな顔立ちで優しそうな印象です。

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溝口 喜六
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溝口 喜六 像
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和33年
分 類:医師
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

溝口 喜六(みぞぐち きろく)
(1876年-1953年)
医者

佐賀県杵島郡に生まれる。
明治33年第三高校岡山医学部卒業。
翌年から東大外科で研修。
明治36年九大外科教室で実地研修。
明治39年ドイツのウルツブルク大学医学部に留学して学位を受ける。
明治42年福岡市須崎で外科開業。
大正8年、医学博士、福岡県医師会長になる。
昭和2年に医専設立を企画し九州医学専門学校創立、委員長となった。
翌年、初代理事長兼教授となった。
昭和17年には南方派遣診療団(六九名)の団長として、スマトラ島パレンバンで診療と熱帯医学研
究に活躍。
昭和21年、久留米医大初代学長に就任し、その後久大名誉学長の称号を受ける。

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[感  想]
久留米大学医学部の校内におられます。口髭とオールバックの髪型が特徴的です。


伊東 祐彦
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伊東 祐彦 像
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和44年
分 類:医師
評 価:☆☆☆

伊東 祐彦(いとう すけひこ)
(1865年-1936年)
医師

米沢藩の名門に出生。
明治25年東大医学部を卒業し、母校小児科で研究。
34年欧州留学、ドイツで医学を研究し、フランスを廻って二年後に帰国。
37年京都帝大福岡医科大学教授に任官。
39年医学博士。44年同附属病院長。
大正2年九州帝大医科大学長となり、昭和2年に退官し、名誉教授。
昭和3年新設の九州医学専門学校長兼附属病院長に赴任した。
それより6年間、創立期の経営に心血を注ぐ。
建築家 伊東忠太の父。

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[感  想]
久留米大学医学部の校内におられます。口髭と笑顔が特徴的です。


石橋 正二郎 2
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石橋 正二郎 像 2
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部) 

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和44年
分 類:実業家
作 者:清水 多嘉示
評 価:☆☆☆

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[感  想]
久留米大学校内におられます。
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スーツ姿の全身像でこちらの像は、眼鏡をかけておられません。


石井 光次郎
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石井 光次郎 像
(福岡県 久留米市 東櫛原町 久留米総合スポーツセンター)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和52年
分 類:政治家
作 者:毛利 陽出春
評 価:☆☆☆

石井 光次郎
1960年頃
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

石井 光次郎(いしい みつじろう)
(1889年-1981年)
昭和時代後期の政治家。

明治22年8月18日生まれ。
久原(くはら)房之助の娘婿。
台湾総督府参事官などをへて大正11年朝日新聞社にはいり、昭和15年専務。
21年衆議院議員(当選10回)。
22年商工相、27年運輸相。29年自由党幹事長となって保守合同をまとめる。
自民党石井派の領袖として総裁選に2度出馬したが敗れる。
通産相、法相をへて、42年衆議院議長。
昭和56年9月20日死去。92歳。
福岡県出身。東京高商(現一橋大)卒。

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[エピソード]
◎神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部在学中は相撲選手として活躍。
◎1928年(昭和3年)、朝日新聞勤務時代に合気道創始者植芝盛平に入門、朝日新聞社内に合気
道を広めた。
◎1949年(昭和24年)に日本ゴルフ協会会長に就任。
◎第8代日本体育協会会長を1962年(昭和37年)11月から1975年(昭和50年)3月まで務
めた。在任期間の間に1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック、1967年(昭和42年)開
催の東京ユニバーシアード、1972年(昭和47年)開催の札幌オリンピックと国際大会を成功さ
せた。会長退任後は名誉会長に就任した。
◎横綱審議委員会委員長なども務めた。
◎妻の久子は、立憲政友会総裁や逓信大臣等を歴任した久原房之助の長女。
4人の子があり、次女はシャンソン歌手・エッセイストの石井好子。
長男の石井公一郎はブリヂストンサイクルの元社長で、現在は日本会議副会長。
次男の石井大二郎は昭和海運元会長。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
久留米総合スポーツセンターの陸上競技場の駐車場近くにおられます。
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スポーツ振興に尽力された功績もあってなのか、競技場をじっと見守ってもられます。
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眼鏡をかけた上半身の像です。


井上 伝 2
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井上 伝 像 2
(福岡県 久留米市 寺町 徳雲寺)

撮影日:2015年2月2日
建設年:平成13年
分 類:その他
作 者:立体写真像(代)盛岡公彦
評 価:☆☆☆

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[感  想]
徳雲寺の墓所の近くにおられます。
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1と同じく着物を着た上半身の像ですが、
こちらの像の方が、表情がおだやかな感じがします。




井上 伝 1
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井上 伝 像 1 
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和50年(建立昭和51年)
分 類:その他
評 価:☆☆☆

井上伝
井上 伝(いのうえ でん)
(1789年-1869年)
江戸時代後期の女性。

天明8年12月30日生まれ。
父は筑後久留米の米穀商平山源蔵。
久留米絣の創始者。
12歳ごろ、白糸をくくり藍でそめておる技法を考案した。
おおくの弟子におしえ、お伝絣の名で普及した。
明治2年4月26日死去。82歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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21歳のときに原古賀町の井上八次に嫁ぎ二男一女を儲けるが、伝が28歳のとき八次は病死。
嫁いでからは試行錯誤しながら久留米絣を「阿伝加寿利」として売り出した。
3人の子をかかえながら井上の織物の美しさは評判になり、最初は二十人前後だった弟子が
井上が40歳のころには3400人を超えた。
そのうち400人は各地に散ばり久留米絣は久留米藩の特産品となる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

江戸後期、久留米絣の創始者井上伝と東芝の創業者田中久重は、五穀神社(通外町)の近所で生
まれました。
五穀神社は7代藩主 有馬頼徸によって創建された神社で、境内には伝と久重の胸像が建てられて
います。この2人にはある繋がりがありました。
久重の手記とされる「年譜」に『文化10年絵がすり発明』とあります。文化10年(1813)
といえば、伝は26歳、久重は15歳です。「かすり」は、伝が13歳のときに創製した紺地に白
い斑紋の綿織物のことで、模様が掠れて見えたことから『加寿利』と名づけて販売していました。
どうして久重は『絵がすり』の発明をすることになったのでしょうか。
あるとき、伝は機織りの手を止めました。また絵の模様がうまく織れなかったのです。伝は城下・
原古賀町(現・久留米市本町)の井上家に嫁いでからも、寝る間を惜しんで織っていました。どう
しても紺地に白い部分を規則的にあしらった模様に満足できないのです。
「これまでと全く違った方法が必要なのだわ。あの少年なら何か分かるかもしれない」
それが「発明少年」の久重でした。わずか9歳で大人も驚くような『開かずの硯箱』をつくって
から、次々に箱や箪笥に独創的な細工を加えていると評判だったのです。伝は迷いました。自分
の生家の近くにある鼈甲細工屋の息子とはいえ、当時の男女関係の風習から親しくはなかったの
です。しかし、意を決して伝は久重に会いに行き、たずねました。
「紺の中に、花や鳥のような模様を織りたいの。よい方法はないかしら」
久重は、『加寿利』で名の知れた伝を知っていました。その女性が絵の模様をうまく織り出せずに
苦心しているというのです。久重は首を傾げました。
「紺と白のまだらの模様が織れたのだから、同じことだろうに。どうしてだろう」
久重は大人が驚くような理屈をいう少年でした。その頃、家業の鼈甲細工に興味がもてなくなり、
五穀神社の祭礼で自分のからくり人形を披露しようと、2階の部屋にこもって考案と製作にふけ
っていたのです。興味を覚えた久重は、機の構造や織り方について伝に何度も質問しました。年
齢の差はあっても、2人には相通じるものがあったのです。それは、新しいモノを創り出す喜び
でした。久重は熱心に耳を傾けて、こう答えました。
「からくり人形とは違いますが、やってみます」
久重はすでに構想を練っていたのでしょう。部屋に戻って何日も考え、ついにある案を思いつき
ました。それは「板締め技法」といわれるものです。板面に絵の模様を彫刻して、それから織り
糸をその板に張り、もう1枚の板で挟んで、かたく締めて染めたら絵模様が織り出せるのでした。
伝は少年の才能に感服しました。
「絵の模様を織る方法は分かったわ。後は、私の腕しだいね」
今度は、伝が試作を繰り返しました。そうして、ようやく心に描いていた花の柄が浮かび上がっ
たのです。さらに久重は、機の改良や糸の組み方なども教えたとされています。こうして、久重
の考えた『絵がすり』が生まれ、伝に新しい技術が加わったのです。
それからの2人は全く異なる道を歩みます。伝は久留米の地に留まり、数千人にも及ぶ弟子に自
分の技術を教えました。久重は、からくりの才から「からくり儀右衛門」と呼ばれ、大阪・京都
などに出て、時計師、近代科学の技術者として活躍しました。
伝と久重は、子どもの頃から折に触れて五穀神社にお参りしたことでしょう。郷学の森に並んで
建つ2人の胸像は、お互いの偉業を称えるようにほほ笑んでいます。
主な参考資料=『久留米絣200年のあゆみ』・『先人の面影・久留米人物誌』・
『田中久重伝』・『からくり儀右衛門』他 取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
「久留米市観光コンベンション協会ホームページ」から

[感  想]
五穀神社境内の郷学の森におられます。
着物を着た上半身の像です。
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久留米絣でつながりのある田中久重像と並んでいるのが良いです。


田中 久重
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田中 久重 像 
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和32年(建立昭和51年)
分 類:その他
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

田中 久重
田中 久重(たなか ひさしげ)
(1799年-1881年)
幕末・明治の機械技術者。

久留米のべっこう細工師の長男として生まれ、幼時より機巧の才にたけ、〈からくり儀右衛門〉と
呼ばれた。
1824年、諸国遍歴に旅立ち、長崎を経て、大坂、京都に移り、天文暦学の土御門家に入門、嵯峨
御所より御用時計師に与えられる近江大掾の称号を授かり、京都に機巧堂という店舗をかまえた。
各種の高級時計、無尽灯、雲竜水、須弥山儀などを製作し、また江戸期最高の万年時計を完成し
たが、これらは買手がつかず、見世物のからくり興業で渡世していた。
「世界大百科事典」から

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【工夫し続けた「東洋の発明王」】
からくり儀右衛門・田中久重
からくり儀右衛門は、本名を田中久重といい、江戸時代後期の寛政十一年(1799年)、今の久留
米市通町でべっ甲細工をつくる家の長男として生まれました。
幼いころから仕事場に座り込んで、父弥右衛門の手元をじっと見つめ、「たいまい」と呼ばれる海
亀の甲らが、櫛やめがねの縁に変わっていく様子を面白そうに見ている子どもでした。
あるときは近所の鍛冶屋へ出かけ、真っ赤な鉄の塊が鎌や包丁などに形が変わっていく様子を一
心に見ています。またあるときは、道具屋でかんなで板をけずるやり方を見ています。そのうち
に刃物のつくり方や傘づくり、漆塗り、人形づくりなど、どうやってつくっていくのかをすっか
り覚え込んでしまいました。
儀右衛門が九歳のとき、寺子屋ですずり箱にいたずらをされたことがありましたが、儀右衛門は
引出しのつまみをちょっと回しておけば、決して開くことのできないような仕掛けをつくって、
友だちや先生をびっくりさせました。
また、近所には、久留米かすりを発明した井上伝という人が住んでいました。儀右衛門は十五歳
のとき、もっと新しい模様がつくれないかという伝の悩みを聞いて、それまでの十字模様やあら
れ模様とは違った花や鳥や人の形をした絵模様の美しいかすりを織ることができる機械をつくり
出し、織り方や下絵の描き方まで教えたので、久留米かすりの評判がいっそう高くなりました。
二十歳になると、さまざまなからくり人形をつくっては人々を驚かせ、その人形を持って大阪、
京都、江戸などを回りました。からくり人形はどこへ行っても大評判で、「からくり儀右衛門」の
名は日本中に知れわたりました。
ところが、父親の死後、儀右衛門の発明工夫を陰ながら見守り、励まし続けてくれた母親が亡く
なりました。自分の好きな仕事に夢中になっていて、何の恩返しもできず両親を失ったことに、
深い悲しみと後悔に暮れていた儀右衛門の耳に、先に亡くなった父親の声がよみがえってきまし
た。
「立派な発明家になって国のため、人のためにつくす」という約束の言葉です。儀右衛門は、は
っとしました。からくり人形を工夫する知恵は、もっと大切なことに使わなければならない…。
そこで、さらに勉強し自分の力が十分に発揮できる場を求めて、妻や子どもを連れ大阪に住まい
を移しました。儀右衛門、三十六歳の出発です。
当時大阪では、幕府に不満を持った武士たちの反乱が相次いでいました。大塩平八郎の乱による
大火事で町は焼かれ、儀右衛門も家や家財道具、発明道具をすべて失いました。焼け出されて知
人宅に世話になっていた儀右衛門は、ちょろちょろとしか水の出ない「竜吐水」というポンプを
何とか工夫して、水を高く出せないか一生懸命に考えました。そして四人がかりの手押しポンプ
「雲竜水」をつくり、見物人の目の前で一〇メートルもの水を勢いよく出して見せました。
人々は大いに喜び、たくさんの注文がきました。
儀右衛門はからくり人形をつくるときに、ぜんまい仕掛けやばね仕掛けの工夫をした経験から、
壊れた時計の修理をよく頼まれました。外国製のとても複雑な機械の時計もたちまち直してしま
うので、とうとう自分の力で外国製に負けない時計をつくろうと決心しました。
こうして完成したのが、日本最高の作品といわれる万年時計で、「万年自鳴鐘」と呼ばれる六角形
の時計です。
万年自鳴鐘は、一面は西洋の時間、二面は日本の時間、三面は曜日、四面は季節、五面は今夜の
月の大きさ、六面は子丑寅(ねうしとら)などの刻(とき)をあらわし、一番上には赤い球と白い球が
くるくると回るようになっており、太陽と月の動く様子が一目見て分かるようになっていました。
 五十二歳になってもなお熱心に西洋の天文学や蘭学を学んだことが、儀右衛門の発明をさらに
進歩させていきました。儀右衛門の名声を聞いた佐賀藩では、彼を招き、初めて日本人の手によ
ってつくられた蒸気機関をすえ付けた汽船を完成させました。
明治時代を迎えると、儀右衛門は七十五歳で東京に移り、現在の東芝のもととなる工場をつくり、
明治十四年(1881年)、八十二歳で亡くなるまで活動し続けました。
【出典、参考文献】
「ふるさと久留米をきずいた人びと」久留米市先達顕彰促進協議会

万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)
万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)


久留米駅前
久留米駅前(まちなか口)には旧駅舎時代の2005年ごろからからくり時計が設置されている。
再開発に伴い新駅舎完成直後から一時撤去されていたが、2011年3月上旬に再設置された。

[感  想]
五穀神社境内の郷学の森におられます。
着物を着た上半身の像で、髭が特徴的です。


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石橋 正二郎 1
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石橋 正二郎 像 1
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和45年(建立昭和51年)
分 類:実業家
作 者:清水 多嘉示
評 価:☆☆☆

石橋正二郎2
公益財団法人石橋財団ホームページから

石橋 正二郎
1952年に撮影
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

石橋 正二郎(いしばし しょうじろう)
(1889年-1976年)
大正-昭和時代の実業家。

明治22年2月25日生まれ。
大正12年ゴム底の地下足袋を発売して巨利をえる。
昭和6年ブリヂストンタイヤを創立し、自動車タイヤの国産化を実現。
32年日本合成ゴム初代社長。
美術品の収集家として知られ、27年ブリヂストン美術館を開設。
国立近代美術館(東京)の建設費を提供した。
昭和51年9月11日死去。87歳。福岡県出身。久留米商業卒。
【格言など】人はすべからく大智大才を志さねばならぬ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
眼鏡をかけた上半身の像で、兄弟で並んでおられます。


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石橋 徳次郎
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石橋 徳次郎 像
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和51年
分 類:実業家
作 者:能登原 弘芳
評 価:☆☆☆

石橋 徳次郎(いしばし とくじろう)
(1886年-1958年)

実業家。
久留米生まれ。
日本足袋取締役。久留米商工会議所会頭、日本ゴム名誉会長。
父の経営する「しまやま足袋」を継承し次第に拡張し、日本足袋株式会社を組織した。
のちゴム底地大足袋の改善、運動靴・子供靴の廉価製造の成功を経て、ブリジストン・タイヤ工
場を設立した。石橋正二郎の兄。
「美術人名辞典」から

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【碑 文】
石橋徳次郎翁はわが国独特の労働履き地下足袋を発明し履物界に一大革命を起し日本の経済発展
に大きく貢献すると共にゴムの町久留米の礎を築いた。
また市民の要望に応え当地に初めて百貨店を開業した。
翁は郷土愛篤く医学専門学校や工業専門学校の創立に多大の尽力をなし文教の振興に努めた。
翁は更に名誉市長としてまた多年商工会議所会頭として郷土久留米市に尽くした功績は甚大である。
従ってここに記念碑を建立してその遺された偉業を称える。
昭和51年7月20日

[感  想]
眼鏡をかけた上半身の像で、弟の正二郎と顔が良く似ています。

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倉田 泰蔵
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倉田 泰蔵 像
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和51年
分 類:実業家
作 者:笠置 季男
評 価:☆☆☆

倉田 泰蔵(くらた たいぞう)
(1887年-1978年)
実業家

元つちや足袋(現・ムーンスター)社長

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【碑 文】
倉田泰蔵翁は郷土が生んだ大実業家で、ゴム王国久留米の声価を高めた功績は甚大である。
翁は一貫して地元産業の振興に尽力すると共に公安委員、産業安全協会長等の要職につき公共福
祉の増進に努めた。
また遍照院庭園の建設など多額の私財を投じて郷土の発展に貢献した。
ここに翁の長寿を祝い、碑を建立して、高い功績と至誠温厚の人柄を末永く称える。

[感  想]
上半身の像で、石橋兄弟と並んでおられます。
恰幅の良い身体つきと口髭が印象的です。

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楢橋 渡
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楢橋 渡 像
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和56年
分 類:政治家
作 者:毛利 陽出春
評 価:☆☆☆

楢橋 渡
1953年
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

楢橋 渡(ならはし わたる)
(1902年-1973年)
昭和時代の政治家。

明治35年3月22日生まれ。
炭鉱ではたらいたのち独学で弁護士試験に合格。
フランスのリヨン大などでまなび、昭和17年衆議院議員(当選7回、自民党)。
戦後、幣原内閣の書記官長や第2次岸内閣運輸相をつとめた。
36年武州鉄道汚職事件で逮捕され、有罪となった。
昭和48年11月17日死去。71歳。福岡県出身。著作に「激流に棹さして」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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容貌魁偉な風貌と政治手腕から怪物の異名を取った。

[感  想]
五穀神社境内の郷学の森で他の銅像とは、少し離れたところにおられます。
建立も他の像より5年後です。
眼鏡をかけた上半身の像で、口髭が特徴的です。

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高山 彦九郎 2
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高山 彦九郎 像 2
(福岡県 久留米市 寺町 遍照院)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和13年
分 類:尊皇思想家
評 価:☆☆

[感  想]
遍照院の墓所の近くにおられます。
光明山遍照院は、自刃の地から約400m離れた場所で墓地です。
長く伸びたひげが特徴的です。
コンクリート製と思われ、かなり劣化が進んでいます。
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高山 彦九郎 1
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高山 彦九郎 像 1
(京都府 京都市 三条大橋東詰)

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう)
(1747年-1793年)
江戸時代後期の尊皇思想家

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和36年
分 類:思想家
作 者:伊藤 五百亀
評 価:☆☆☆☆

江戸時代中期-後期の尊王運動家。
延享4年生まれ。京都で河野恕斎にまなぶ。
諸国をまわり、藤田幽谷、中山愛親らとまじわったが、九州遊説中、幕府の追及をうけ寛政5年6月
27日自刃した。47歳。
林子平、蒲生君平とともに寛政の三奇人といわれる。
上野(群馬県)出身。
【格言など】朽果てて身は土となり墓なくもこころは国を守らんものを
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

銅像
京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の
銅像がある。
初代は1928年に作られ、法華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、東郷平八郎が台座の揮毫
をした。
しかし、1944年11月に金属回収令で供出され、現在の銅像は1961年に伊藤五百亀によって再建さ
れたものである。
2代目は若干西に移動し、初代の台座跡には「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」が建てられている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
台座から飛び出しそうな勢いを感じる迫力満点の銅像です。


江藤 新平
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江藤 新平 像
(佐賀県佐賀市神園 神野公園)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和51年
分 類:幕末藩士
作 者:中島 快彦
評 価:☆☆☆

江藤
「近代日本人の肖像」から

江藤 新平(えとう しんぺい)
(1834年-1874年)
幕末-明治時代の武士、政治家

天保5年2月9日生まれ。肥前佐賀藩士。
枝吉神陽の義祭同盟に加わる。
文久2年脱藩し尊攘活動をおこなう。
維新後新政府の文部大輔をへて明治5年司法卿となり、司法権の独立、司法制度の整備につくす。
6年参議。征韓論がいれられず辞職。
7年佐賀で挙兵し、敗れて4月13日処刑された(佐賀の乱)。41歳。名は胤雄。号は南白。
【格言など】ますらをの涙を袖にしぼりつつ迷ふ心はただ君が為め(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎江藤は藩校の弘道館に入学した頃、髪の毛はぼさぼさでぼろぼろの服を着ていた。
女中がひやかそうとすると高い声で書物を読み上げ、驚かせたという。
◎明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金
が残った。
◎江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。その代表として「国の富強の元は国民の
安堵にあり」という意見書の一文がある。他方、外交については積極的な対外進出を主張してお
り、明治4年(1871年)3月に岩倉具視に提出した意見書には清をロシアとともに攻めて占領し、
機会を見つけてロシアを駆逐し、都をそこに移すといった内容のことが書かれている。
◎江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」といわ
れ、参拝客が多かった。そのため、県庁が柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する
者がいたという。

「維新の十傑」の1人。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
神野公園におられます。
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紋付き袴を着た堂々とした立ち姿で、大きさも結構有り、迫力があります。



佐野 常民
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佐野 常民 像
(佐賀市川原町 日本赤十字社佐賀県支部)

撮影日:2015年2月2日
分 類:政治家
作 者:古賀 忠雄
評 価:☆☆☆

佐野
「近代日本人の肖像」から

佐野 常民
佐野 常民 (さの つねたみ)
(1823年-1902年)
幕末-明治時代の武士、政治家

文政5年12月28日生まれ。肥前佐賀藩士。藩医佐野常徴の養子。
医学、蘭学、化学をまなび、藩の精煉方主任となり、日本初の蒸気船をつくる。
ヨーロッパ視察後、新政府で海軍創設につくす。
明治10年博愛社(のち日本赤十字社)を創設。
元老院議長、農商務相をつとめた。
明治35年12月7日死去。81歳。本姓は下村。通称は栄寿、栄寿左衛門。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1877年(明治10年)2月に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する
赤十字社の知識を元に、「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可となり、5月に熊本で
有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。
博愛社総長に東伏見宮嘉彰親王が就任

有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民
有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民

「佐賀の七賢人」に挙げられている
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
博愛社(のち日本赤十字社)を創設者なので、故郷の日本赤十字社佐賀県支部の前におられます。
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しっかりと前を見つめられている上半身の像です。


張 二男松
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張 二男松 像
(佐賀県佐賀市城内 佐賀県立美術館)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和62年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

張 二男松(ちょう におまつ)
(1865年-1952年)
教育功労者で、佐賀県師範学校校長
トヨタ自動車元社長・会長 張富士夫の祖父


[感  想]
佐賀県立美術館の敷地内におられます。
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服のしわなど細かい部分まで表現してある上半身の像です。
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銅像の石碑の裏



市村 清
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市村 清 像
(佐賀県佐賀市城内 市村記念体育館)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和38年
分 類:実業家
作 者:古賀 忠雄
評 価:☆☆☆

「三愛会ホームページ」から
市村 清(いちむら きよし)
(1900年-1968年)
昭和時代の実業家

明治33年4月4日生まれ。
昭和4年福岡で理研の感光紙販売のための代理店をつくり、大河内正敏にみとめられる。
11年理研感光紙(現リコー)を設立した。
戦後、三愛商事、明治記念館、三愛石油、日本リースなどを創立、リコー・三愛グループとして統括した。
昭和43年12月16日死去。68歳。佐賀県出身。中央大中退。
【格言など】人を愛し、国を愛し、勤めを愛する
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。
◎1945年終戦を迎えると、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに三愛商事(現・三愛)を設立、銀座4丁目角の土地を取得し食料品店を開業する。後に婦人服専門店に転業し現在に至る。銀座の土地は買収に難航したが、ある地権者の老婦人が大雪の中断りに出向いた時、彼女の濡れた足元を見た女性事務員が自分のスリッパを履かせ、抱きかかえるように3階まで案内したことに感激し、交渉がまとまったというエピソードは有名である
◎1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした
◎「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。
◎産業界・学界で功労者を顕彰する市村賞にその名を遺す。
◎語録
「書いたものより口約束こそは守れ。うそをついてはいけない。」
「もし成功に秘訣があるとすれば、他人の立場を理解し、他人の立場から物事をみる能力を持つことである。」
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

◆市村記念体育館
県内の体育と文化の振興を図り、あわせて県民の体育やその他の健康で文化的な各種の催し物の用に供するため、郷土出身の元リコー社長・故市村清氏が私財2億1千万円を投じ、昭和38年3月11日に佐賀県に寄贈された体育館です。

『“か”と“け”の違い』
“か”と“け”の違いは、市村清の事業家としての信念といえるものです。
「儲ける」ことではなくて、自然に「儲かる」ような仕事に手をつけるべきだというものです。
このことは、戦後、今では結婚式場として有名な明治記念館を市村が創立したとき、市村の予想に反して利用者が多く、開業早々から黒字となり大成功となったことで悟ったようです。以後、市村の経営に適用したことは言うまでもありません。
“か”(儲かる)と“け”(儲ける)の違い
…私が、結婚式場で有名な、明治記念館の創立者であることは、あまり知られていない。
 敗戦後まもないころ、ある人の紹介で明治神宮の宮司から、
「…市村さん!これから、神宮関係の多くの人たちが、どうして食べていったらいいか、ホトホト困っているのです。なんとか、お力を貸していただけないでしょうか」
と、相談を持ちかけられた。…(中略)
 「どうでしょうね。今日まで戦争のため結婚出来なかった多くの人々のためにも、神宮の方針としても、厳粛にして簡素な結婚式場を経営されては…」
という意見を述べた。…(中略)
…敗戦により全国民が自信と希望を失っているとき、明治神宮と国民大衆を結びつける大いなる意義があると信じた。
 それは明治時代こそ、日本民族の黄金時代であり、その中心が明治大帝であらせられたので、この時代を回顧することにより国民全体に奮起をうながしたかったのである。従ってこの経営は暴利はもちろん、すべての点で最大の注意を払わなければならないと自ら戒めたのである。と同時に、あのようにもったいぶったところで結婚式場をやっても、おそらく利用者は多くないだろうと、赤字覚悟ではじめたのだが、開店早々の黒字なのである。
 このとき、私は、ハッと、悟るものがあった。というのは、私は、若いころ、一儲けしようと思って一生懸命やった仕事が、なかなか儲からない。
 ところが、この場合、私は、結婚式場で儲けようなんてケチな考えからでなく、前記のような主義と精神で、たくさんの人たちの人生の首途を祝福してあげたい、という一片の至情から出発したのであるし、利益などは、夢にも考えていなかった。
 しかるに開業早々、黒字になったというのは、今まで私が数多く手がけてきた事業のなかでも、明治記念館が、最初であった。
 結局、(儲けようなんて気持ちが強くては、駄目だ。儲かるようにならなければ駄目だ。儲けようという気持ちでは、限度がある。いくら一生懸命にやっても、大したことは出来ない。しかし、道に則ってやれば、自然に儲かる。…そして、儲かる方は、無限である…)と、明治記念館経営で、悟ったのである。
 その後、“三愛”の経営に、“か”と“け”の違いを、適用したことはいうまでもない。
出典:『儲ける経営法 儲かる経営法』p40~42
参考:『そのものを狙うな』p172~176
「三愛会ホームページ」から

[感  想]
市村記念体育館の玄関横におられます。
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黒縁の眼鏡と細身の顔が印象的です。


梅ヶ谷 藤太郎
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梅ヶ谷 藤太郎 像
(福岡県 朝倉市 原鶴温泉サンライズ広場)

撮影日:2015年2月1日
建設年:平成13年
分 類:力士
作 者:塙 和道
評 価:☆☆☆

梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう)
(1845年-1928年)
力士

15代横綱。福岡県朝倉郡杷木町梅ヶ谷出身。本名小江藤太郎。
大阪の大関となった1870年に上京、初め本中に付け出されたが、逆境に発奮し74年入幕。
以来5敗のみで84年の天覧相撲に際し横綱免許。
176cm、124kgの強豪で、維新後不況の角界復興の端緒をつくった。
その人情家ぶりは落語や芝居の《幸助餅》の報恩美談になって現在も上演されている。
引退後は取締雷権太夫となり、国技館建設に功績があり、隠居後も協会は給金を贈った。
「世界大百科事典」から

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[主な成績]
幕内通算成績:116勝6敗18分2預78休 勝率.951(歴代横綱最高勝率)。
優勝相当成績:9回

[エピソード]
◎巨体とも伝わるが、実際には歴代横綱の中で小柄な方。右上手を浅く引きつけ、左は筈かのぞかせて寄る堅実な取り口だったとされている。
◎人望が非常に厚く、1904年に大相撲常設館建設が計画された際には、安田銀行本所支店長だった飯島保篤から自分の信用だけで40万円(現在なら100億円に相当するという)を無担保で借りることに成功した。協会は飯島に感謝し、毎場所初日に飯島家へ赤飯を届けるようになったという。
◎一斗酒の酒豪で、4斗樽を片手で差し上げる無双の怪力、研究熱心で寝た間も二の腕を脇から離したことがなく、彼の下駄は親指に力を入れて歩くため、その辺がひどく窪んだという。

[銅 像]
1959年11月24日、出身地である朝倉市の原鶴温泉で「初代梅ヶ谷記念碑」の除幕式が行われた。2001年11月3日には、同じ原鶴温泉のサンライズ広場にブロンズ像が完成した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
朝倉市原鶴温泉道の駅近くの広場におられます。
左手に刀を持ち化粧まわしを着けた堂々とした立ち姿です。
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銅像の台座のまわりが土俵になっています。
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一遍 2
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一遍 像2
(大分県 別府市 鉄輪 白池地獄)

撮影日:2015年1月31日
分 類:僧
評 価:☆☆

一遍は、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
布教の旅に出た一遍上人が、この鉄輪を訪れ、荒れ狂う地獄を鎮め「むし湯」のほか「熱の湯」「渋の湯」など、今も人々に愛される温泉を作ったとされています。
ここ鉄輪では、毎年9月には温泉山永福寺にある上人像を温泉で洗い清める「湯あみ法要」が行われ、一遍上人ゆかりの土地です。
「鉄輪湯けむり倶楽部ホームページ」から

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湯あみ祭り

[感  想]
白池地獄をめぐる順路の途中におられます。
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像は、コンクリート製だと思われます。
湯あみ祭りは、おもしろい行事だと思いました。


一遍 1
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一遍 像 1
(広島県 尾道市 海徳寺)

一遍(いっぺん)
(1239年-1289年)
鎌倉時代の僧

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成3年  
分 類:僧
作 者:矢形 勇
評 価:☆☆☆

延応元年2月15日生まれ。
時宗の開祖。
浄土宗西山派の聖達にまなぶ。
信濃(長野県)善光寺などに参籠し念仏往生をさとる。
紀伊熊野権現(和歌山県)で神託を得,全国を遊行。
踊り念仏をひろめ,おおくの庶民をはじめ公家,武家にもあがめられた。
正応2年8月23日死去。51歳。
伊予(愛媛県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
海徳寺の敷地内におられます。
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腰をかがめ手を合わせる姿が印象的です。


山本 哲次郎
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山本 哲次郎 像
(大分県 別府市 鶴見 鶴見台病院)

撮影日:2015年1月31日
建設年:昭和57年
分 類:医学者
作 者:長谷 秀雄
評 価:☆☆☆

山本 哲次郎(やまもと てつじろう)
(1906年-1962年)
別府市の山本病院、鶴見台病院の設立者。

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[感  想]
別府市内の鶴見台病院で偶然発見しました。
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聴診器を首にかけた姿が印象的です。




高杉 晋作 7
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高杉 晋作 像 7
(山口県 下関市 長府 功山寺)

撮影日:2014年12月30日
建設年:昭和47年
分 類:幕末藩士
作 者:般若 純一郎
評 価:☆☆☆☆☆(満点!)

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「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」
元治元年(1864)12月、雪の長府・功山寺において、
高杉晋作は打倒萩政府の兵を挙げました。
従う者わずかに八十名……。
幕末、アジア諸国を蹂躙した西洋列強は、次に日本を狙っていました。
上海に渡航し、半植民地と化した中国を見て強烈な危機感を抱いた晋作は、攘夷実行のために、身分を問わぬ精鋭部隊「奇兵隊」を結成します。
そして長州藩は攘夷を決行、下関を通過する外国船に砲撃を加えます。
しかし、四カ国連合艦隊の強烈な報復攻撃を受け、
さらに幕府の征討軍を前に、藩は屈服の道を選んだ。
「このままでは長州が、そして日本が滅ぶ」
晋作は奇兵隊に決起を促すが、肯んじる者はいませんでした。
「ならば一人でも起つ!」
晋作の、この捨て身の決断が、奇跡を起こしました。
彼に従う者は次第に増え、ついに晋作らが藩の実権を握るに至ったのです。
長州藩内の動きを察知した幕府は、再び長州征伐の軍を起こし、四境戦争が勃発。
兵の数では数十倍の幕府軍が相手でしたが、晋作らの奮闘でこれを撃退。
幕府の権威は地におち、明治維新に向けての大きな一歩を進めることができました。
それは高杉晋作の一つの決断 から始まったといっても過言ではないでしょう。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された晋作。
破天荒で型破りながら、一片の私利私欲もなく、維新回天の事業に短い生涯を捧げた男。
「歴史街道」かわら版 から

[感  想]
下関市長府にある功山寺、
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ここは、
1864年12月15日
高杉晋作が、三条実美ら五卿に
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!」
と言いはなち、挙兵したまさにその場所です。
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「回天義挙」の記念碑も入り口にあります。
そして、この高杉晋作騎馬像は、まさにその瞬間をとらえた素晴らしい像です。
桃型の兜を頸に掛け紺糸威の小具足に身を固めた高杉の等身大の銅像です。
高杉晋作という人物、銅像の出来栄え、銅像の建っている場所と全てにおいて満点です!
長州男児として高杉晋作を見習いたいと思います。

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高杉 晋作 6
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高杉 晋作 像 6
(山口県 下関市 竹崎町 竹崎公園)

撮影日:2014年12月30日
建設年:平成21年
分 類:長州藩士
作 者:濵野 邦昭
評 価:☆☆☆

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[銅 像]
「維新の地に晋作記念彫像完成 下関・竹崎公園」
幕末の長州藩士、高杉晋作の生誕170周年を記念した彫像「風の予言者 高杉晋作と奇兵隊」が20日、下関市のJR下関駅近くにある竹崎公園に完成した。現地で除幕式があり、関係者ら約60人が出席した。
ブロンズ製で高さ約3メートルの彫像は、同市の企業や文化団体などでつくる「志士の杜推進実行委員会」が建立。わき上がり、流れていく歴史の雲をつかみ取る高杉晋作を、奇兵隊士に見立てた岩が支える様子を表現している。制作費2500万円は有志から募った。
同実委の山本徹会長は「維新志士たちの息吹を現代によみがえらせた。下関の未来につなげていけたら」とあいさつし、来賓らと除幕。制作を担当した同市出身の彫刻家、濵野邦昭さん(58)は「命を懸けて国を動かした晋作と奇兵隊の彫像。市民の皆さんで新たな命を宿してもらいたい」と話した。同実委の顧問を務める直木賞作家の古川薫さんは「維新胎動の地、下関を象徴するモニュメントになるはず」と期待を寄せていた。
同実委による維新志士のモニュメント建立は、晋作と坂本龍馬の友情をテーマに2003年に同市あるかぽーとに完成した「青春交響の塔」に続いて2点目。除幕後は市に寄贈された。
2009年8月21日(金) 山口新聞掲載

[感  想]
下関市の市街地の竹崎公園におられます。
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「風の予言者」という題が付いています。
穏やかな優しい表情が印象的です。


高杉 晋作 5
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高杉 晋作 像 5
(山口県 下関市 豊前田町 晋作通り)

撮影日:2014年12月30日
建設年:平成元年
分 類:長州藩士
作 者:中村 重雄
評 価:☆☆

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[感  想]
「夢みる晋作像」という題が付いています。
おちょこを手に持った上半身の石像です。


高杉 晋作 4
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高杉 晋作 像 4
(山口県 萩市 呉服町 晋作広場)

撮影日:2011年4月12日
建設年:平成22年
分 類:幕末志士
作 者:江里 敏明
評 価:☆☆☆

高杉晋作肖像(山口県立山口博物館所蔵)
高杉晋作肖像(山口県立山口博物館所蔵)

「生誕の地・萩に初!高杉晋作立志像」
幕末の志士、高杉晋作の銅像「高杉晋作立志像」が、高杉晋作誕生地向かいの晋作広場(呉服町)に完成し、10月31日除幕式が行われました。
式典には、晋作終焉の地・下関市から中尾友昭市長が、またNHK大河ドラマ「龍馬伝」で晋作役を演じた俳優の伊勢谷友介さんらが出席。
銅像を制作した彫刻家の江里敏明さんは「萩に立つ晋作の銅像ならば、立志を立てた20歳頃のまげ姿でなければと思いました」、野村市長は「萩の新しいシンボルとして、多くの皆さんに親しまれてほしい」とあいさつしました。
「萩市ホームページ」から

[感  想]
他の像とは、少し感じが違います。
キリリとした立ち姿が良い若き晋作像です。


高杉 晋作 3
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高杉 晋作 像 3
(山口県 下関市 吉田 東行庵)

撮影日:2014年12月30日
建設年:平成24年
分 類:幕末藩士
作 者:奈部 雅昭
評 価:☆☆☆☆


2014山口新聞
2014年3月31日山口新聞

[感  想]
東行庵に新しく出来た、2番目の銅像です。
資料館間の池のほとりにおられます。
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陶製の2よりすこし、顔の表情が厳しい感じです。

足元に梅の彫刻を発見しました。
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高杉晋作の変名のひとつに谷梅之助が有り、梅が好きだったようで、東行庵にも梅の木が多く有ります。こういった細工は、おもしろいです。


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高杉 晋作 2
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高杉 晋作 像 2
(山口県 下関市 吉田 東行庵)

撮影日:2014年12月30日
建設年:昭和31年
分 類:長州藩士
作 者:伊勢埼 陽山
評 価:☆☆☆☆

幕末志士 高杉晋作1
「下関吉田郵便局風景印」

幕末志士 高杉晋作2
「下関小月郵便局風景印」

[感  想]
下関市吉田の東行庵の敷地内におられます。
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東行庵は、明治17年かつての同士らによって建立されました。
日和山公園の1の像と同じく陶像ですが、こちらの像のほうが小ぶりで、顔がやさしい感じです。

また、ここには、晋作のお墓があります。
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そして有名な、伊藤博文が高杉晋作を評した言葉が書いてある顕彰碑があります。
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「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、
衆目駭然、敢えて正視する者なし。
これ我が東行高杉君に非ずや…」
(一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。
周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。
それこそ我らが高杉さんのことだ)
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東行庵の横には、東行記念館があり、高杉晋作にまつわる品々が展示してあります。
上は、記念館にあった垂れ幕。

2階に長峰武四郎作の「高杉晋作馬上姿像」が展示してありました。
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ぜひ、銅像にしてもらいたいです。



高杉 晋作 1
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高杉 晋作 像1
(山口県 下関市 丸山町 日和山公園)

撮影日:2014年12月30日
建設年:昭和31年
分 類:幕末藩士
作 者:関野 聖雲(原型)
    伊勢崎 陽山
評 価:☆☆☆☆

高杉晋作
「近代日本人の肖像ホームページ」から

高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は山田顕義)
高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は山田顕義)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

高杉 晋作(たかすぎ しんさく)
(1839年-1867年)
幕末の武士

天保10年8月20日生まれ。
高杉小忠太の長男。長門(山口県)萩藩士。
松下村塾にまなぶ。
文久2年江戸品川のイギリス公使館焼き打ち,3年奇兵隊の創設,第2次幕長戦争での幕府軍撃退など,尊攘運動の先頭にたった。
慶応3年4月14日下関で病没。29歳。
墓所は東行庵(山口県下関市)。
名は春風。字は暢夫。変名は谷梅之助,谷潜蔵。号は東行。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅 像]
昭和11年に銅像として建てられましたが、戦時の金属不足から徴収され失われました。
戦後の昭和31年に、没後90年を記念して備前焼の陶像として再び建立。
備前焼の陶像としての大きさも日本一です。

幕末志士 高杉晋作4
「下関丸山郵便局風景印」

幕末志士 高杉晋作3
「下関豊前田郵便局風景印」

[エピソード]
◎人物評
伊藤 博文
「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」

中岡 慎太郎
「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西の一奇才」

勝 海舟
「年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ」(海舟言行録)

◎高杉は長身ではなく小柄であり本人もそれを気にしていたため直立して撮った写真は現存しない。また小柄ではあったが長い刀を好んで愛用していた。
その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。

◎師である吉田松陰は高杉の非凡さを逸早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない高杉を奮起させるためあえて、同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。
高杉は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。久坂と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなどとても優秀であったという。

◎公金と私金の区別がつかない(つけない?)人物だった。
藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。

◎一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれ刀を見せた事があったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われその事を遺憾に感じた高杉はそれ以後決して見せる事は無かったという。

◎高杉が上海で購入したピストルが、坂本龍馬に贈られたという。
S&W モデル
◎のちに伊藤博文は彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。

◎都々逸「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている(木戸孝允作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。

◎辞世の句
「おもしろき こともなき世に おもしろく」
辞世の句は「おもしろきこともなき世におもしろく」であり、下の句は看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。
また都々逸(どどいつ)の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」は一般に晋作の作であると言われている。(木戸孝允作の説も有り)この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。


[感  想]
この像は、下関市の中心街に近い日和山公園にあります。
ここは、高台にあり、関門海峡を見ることができます。
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像は、陶像で、かなりの大きさが有り、刀を手に持った立ち姿は、りりしく顔は少し怒ったような感じで、迫力があります。


林 勇蔵
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林 勇蔵 像
(山口県 山口市 小郡上郷)

撮影日:2014年11月22日
建設年:昭和46年
分 類:幕末の尊攘運動家
評 価:☆☆☆

林 勇蔵(はやし ゆうぞう)
(1813年-1899年)
幕末の尊攘運動家

文化10年7月16日生まれ。
新田開拓、椹野川堤防工事などにつくし、安政2年(1855)周防(山口県)吉敷郡小郡宰判の大庄屋となる。
元治元年からの萩藩内部抗争では庄屋同盟を結成して改革派を財政的に援助し、勤王大庄屋とよばれた。
明治5年から県租税課につとめ、地租改正にかかわった。
明治32年9月24日死去。87歳。本姓は山田。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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高杉晋作らを支えた小郡の大庄屋
幕末の農民
1813(文化10)年、吉敷郡矢原村(現 山口市)に生まれ、小郡宰判の林家の養子となりました。
上中郷(現 山口市小郡上郷)の庄屋となりますが、当時上中郷は椹野川の洪水によって米を収穫できない年が度々ありました。
勇蔵は1851(嘉永4)年、仁保津の丘の上に水田を作ることを考え、鉱山を掘る技術を取り入れて池や水路用トンネルなど(椎の木峠トンネル)を作り、その後、約10ヘクタールの水田を完成させました。
1855(安政2)年、勇蔵は小郡宰判の大庄屋となりました。
1864(元治元)年、幕府から萩藩征討の命令が出され、藩の主導権を幕府に従う人たちが握り、それに反発して高杉晋作らが挙兵します。
勇蔵は翌年、晋作らの改革派を財政的に援助し、また、庄屋同盟を結成して支え、勤王大庄屋と呼ばれるようになりました。
明治維新後は山口県租税課に勤め、農民のための地租改正の仕組みを作りました。
また、洪水を防ぐため椹野川を改修し、小郡の人々のために力を尽くし、満86歳で亡くなりました。
「山口県の先人学習コーナー」施設内の参考資料 山口県人づくり財団ホームページから

[感  想]
山口市小郡上郷児童館の近くにおられます。
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着物で正座をした姿の像で、前をしっかりと見つめた、きりりとした表情が印象的です。





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