ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!


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大村 能章
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大村 能章 像
(山口県 防府市 緑町 防府市公会堂前庭)

撮影日:2014年5月14日
建設年:平成3年
分 類:作曲家
評 価:☆☆☆

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1948年(左)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大村 能章(おおむら のうしょう)
(1893年-1962年)
大正-昭和時代の作曲家

明治26年12月13日生まれ。
昭和10年代に東海林太郎のうたう「野崎小唄」がヒットし、以後純日本調の作品を数おおくのこした。
12年日本歌謡学院を設立。
58年、作曲者不詳といわれていた「同期の桜」の作曲者とみとめられた。
昭和37年1月23日死去。68歳。
山口県出身。本名は秀弌。
作品はほかに「明治一代女」「麦と兵隊」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

中山晋平、古賀政男、江口夜詩とともに歌謡界の四天王として昭和の歌謡界にその名を残した。約8000曲を作曲し、多くの歌手を育てた。

[感  想]
防府市公会堂の前庭におられます。
上半身の像で、眼鏡と髭が特徴的です。
コンサートも行われる公会堂をじっと見つめておられます。

FC2 Management

児玉 源太郎 3
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児玉 源太郎 像 3
(山口県 周南市 花畠町 周南市美術博物館)

撮影日:2014年5月14日
分 類:軍人
作 者:大熊 氏広
評 価:☆☆☆

[銅 像]
この作品は大熊氏広作と伝えられています。
ブロンズ製の像で 
奥行 12㎝
横  35.3㎝
高さ 43.0㎝
ブロンズ部分の重さは10.3㎏。

[感  想]
周南市美術博物館で特別展示されていました。
小ぶりな像ですが、人馬ともに精巧に作られており、馬上の姿が凛々しいです。
靖国神社の大村益次郎を制作した大熊氏広の作です。
公園等に大きい像を建立してもらいたいです。


児玉お知らせ

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児玉 源太郎 2
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児玉 源太郎 像 2
(山口県 周南市 児玉町 児玉公園)

撮影日:2011年11月20日
建設年:平成23年
分 類:軍人
作 者:林昭慶(原型:新海竹太郎)
評 価:☆☆☆

[銅 像]
『児玉源太郎の銅像を建立、命日に除幕式
明治期の軍人・政治家の児玉源太郎の銅像が、山口県周南市の児玉公園に建立され、命日の2011年7月23日(土)、除幕式が行なわれた。
児玉は周防国都濃郡徳山村(現周南市)で生誕。明治政府では陸軍大臣など要職を歴任。日露戦争では満州軍総参謀長として日本を勝利に導いたとされる。
銅像は彫刻家の新海竹太郎が制作した国立台湾博物館の銅像を基に、台湾の彫刻家、林昭慶さんが複製を制作、今年2月から市美術博物館に仮展示されていた。
NHKで「坂の上の雲」が放映されたのをきっかけに、市民が像の製作設置委員会を結成、約510万円の寄付金を集めて制作費をまかなった。』
『2011年7月26日 毎日jpより引用』

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[感  想]
周南市出身の児玉源太郎の今年夏に設置されたばかり像です。
軍服を着て、右手で帽子、左手でサーベルを持った立ち姿です。
髭をたくわえた穏やかな表情が印象的です。


児玉 源太郎 1
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児玉 源太郎 像 1
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和13年
分 類:軍人
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

児玉源太郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

児玉 源太郎 (こだま げんたろう)
(1852年-1906年)
明治時代の軍人

嘉永5年閏2月25日生まれ。
明治20年陸軍大学校初代校長となり軍制を整備。
陸軍次官,台湾総督,陸相,内相,文相などを歴任。
日露戦争では満州軍総参謀長をつとめ,大山巌満州軍総司令官を補佐。
39年参謀総長。陸軍大将。
明治39年7月23日死去。55歳。
死後伯爵。周防(山口県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎性格的には情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。
しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。

◎日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。

◎児玉と乃木は旧知の間柄であった。
千葉県佐倉における東京鎮台第二連隊長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。
「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。

◎児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。
己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。
児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。

◎晩年、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩き寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。

[感  想]
日露戦争で活躍した山口県徳山出身の軍人です。
像は、北村西望の彫刻園の中に展示されています。
馬に跨り敬礼する姿が印象的です。


孔子 5
20100514孔子 (3)

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孔子 像 5
(山口県 周南市 安田 徳修館)

撮影日:2014年5月10日
建設年:平成21年
分 類:思想家
評 価:☆☆☆

20100514孔子 (5)

[感  想]
徳修館前におられます。
20100514孔子 (2)
中国の山東省政府から贈られた石像です。
表情や着物などが、日本の銅像とは少し違う中国的雰囲気を醸し出しています。


2010510孔子説明文


孔子 4
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孔子 像 4
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和8年
分 類:思想家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

[感  想]
井の頭自然文化園の庭におられます。
長い髭が特徴的で、着物も中国的な感じがします。


孔子 3
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孔子 像 3
(東京都 新宿区 早稲田 大隈庭園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:平成20年
分 類:思想家
評 価:☆☆☆

大隈庭園の孔子像
2008年6月16日、大隈庭園では中国政府より贈られた孔子像設置のための式典が行われました。
青々とした緑の中、大隈庭園の孔子像は日中友好のゆくすえを見守るようにして佇んでいます。
「早稲田大学ホームページ」から

[感  想]
庭園に入れなかったので、写真が横からしか撮れませんでした。
中国から贈られた像で剣を差し、手を組む姿が印象です。


孔子 2
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孔子 像 2
(山口県 山口市 吉敷 維新公園)

撮影日:2007年11月27日
建設年:平成19年
分 類:思想家
作 者:王 黎明
評 価:☆☆☆
[感  想]
平成19年に山口県と友好関係にある中国山東省から贈呈された「孔子杏壇講学像」(孔子が5人の弟子にレクチャーしている様子)が山口維新公園の広場にあります。
巻物を手に持った孔子を中央に五人の弟子が取り囲んでいる中国的雰囲気の像です。

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弟子も真剣に聴いています。


孔子 1
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孔子 像 1
(東京都 文京区 湯島 湯島聖堂)

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和50年
分 類:思想家
作 者:開 明徳
評 価:☆☆☆

孔子
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

孔子(こうし)
(前552年~前479年)
中国、春秋時代の学者・思想家

魯の陬邑(山東省曲阜)に生まれる。
名は丘。字は仲尼。諡は文宣王。
早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。
晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。
後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。
弟子の編纂になる言行録「論語」がある。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆孔子は、紀元前の中国・春秋時代の思想家です。
氏は孔、字は仲尼(ちゅうじ)ですが、一般的には孔子(孔先生という意味)と呼ばれています。出自には諸説あり、またどのように学問を積んだのかも不明な点が多いのですが、有名な歴史書『史記』では52歳で魯国の宰相になったという記述があります。
のちに国政を離れて多くの弟子とともに諸国を巡る旅に出ますが、これは苦難の旅になりました。
この間に仁・礼を規範とする国家の理想像を得るに至りました。
官僚として国政にたずさわることを望みましたが叶わず、不遇のうちに世を去りました。
しかし孔子とその高弟の言行録『論語』は、後にヨーロッパの啓蒙思想家に大きな影響を与え、また国家経営や官吏の道を学ぶテキストともされました。
銅像は、湯島聖堂の敷地内にあります。
湯島聖堂は儒学振興を目的として徳川綱吉が建設を命じたもので、後に幕府直轄の教育機関「昌平坂学問所」へと発展します。
明治維新により儒学教育の機関としての歴史は幕を閉じますが、その地には日本初の博物館(現在の東京国立博物館)や日本初の図書館が置かれたほか、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)などが設置され、近代教育萌芽の苗床となりました。
現在は国の史跡に指定されています。
像の場所は、仰高門から入り、楷の巨木が見える通路を少し入った斯文会館の真裏になります。
昭和50年(1975)に中華民国台北市ライオンズ・クラブより贈られたもので、台湾師範大学の開明徳教授の製作です。
高さは4.5メートルあり、孔子の銅像では世界最大のものだそうです。
また楷の木は孔子と縁が深く、孔子の墓所や孔子を祀った孔子廟や像のそばに植えることが習わしとなっているようです。
枝葉の様子に均整のとれた美しさがあり、楷書体の元になったといわれます。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
湯島聖堂におられます。
世界最大の孔子の銅像というだけあって大きさに圧倒されます。
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孔子を祀っている大成殿
中国的な建物です。


重光 葵
20140203 重光葵 (1)

20140203 重光葵 (2)

20140203 重光葵 (3)
重光 葵 像
(大分県 国東市 安岐町下山口 山渓偉人館)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和40年
分 類:政治家
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

20140203 重光葵 (8)
重光 葵(しげみつ まもる)
(1887年-1957年)

大正-昭和時代の外交官、政治家。
明治20年7月29日生まれ。
中国公使時代の昭和7年上海爆弾事件で右脚をうしなう。
駐英大使などをへて、東条・小磯・東久邇内閣の外相。
20年首席全権としてミズーリ号上で降伏文書に調印。
27年改進党総裁、29年日本民主党結成に参加。
鳩山内閣の副総理・外相として、日ソ国交回復、国連加盟を実現した。
昭和32年1月26日死去。69歳。
大分県出身。東京帝大卒。
【格言など】アメリカはいずれ日本を必要とする(戦犯として拘留されていたときに)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

20140203 重光葵 (5)

[山渓偉人館]
(故)重光葵元外務大臣の遺徳を偲び、後世にその功績を伝えるために建てられたのが「山渓偉人館」です。
重光葵氏は明治20年7月29日、大野郡三重町において、当時大野郡長であった父直愿と母松子の次男として生まれます。しかし、母松子の実家(重光家本家)に子どもがなかったため葵氏が養子(明治31年)となり重光家26代目となります。
杵築中学校から熊本第五高等学校(現熊本大学)へ、明治44年東京帝国大学卒業と同時に外交官補となり、日本の外務省の第一人者としての道を歩みます。
歴代内閣の外務大臣を務めますが、昭和20年東久邇内閣の時ミズリー号艦上で降伏文書に調印し、A級戦犯として巣鴨へ行くことになります。
昭和23年極東裁判にて禁固7年とされ、27年3月に追放解除となり、のち政界の道へと進みます。
大分県から衆議院に3回当選する中、29年鳩山内閣の副総裁兼外務大臣を務め31年の国連総会において、「日本は東西の懸け橋となる」という有名な演説をしました。
葵氏は重要な歴史場面に立ち会った証人であり、幾多の重要な使命を果たした人でもあります。
葵氏を偲ぶため、「山渓偉人館」には戦中、戦後の歴史を証明する貴重な遺品の数々が展示されています。
【主な展示品】巣鴨日記原本、戦争資料、旧宅近くの墓地、スクラップ、巣鴨内作成手工芸品等
「国東市ホームページ」から

[エピソード]
◎重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。

◎重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難だったにもかかわらず、彼自身はその事を気にする素振りはなかった。後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦するアメリカの水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという(もっとも、松葉杖を落とすなど署名にかなりもたつき、これを見苦しい引き延ばしと解釈したハルゼーに一喝されたという逸話も伝えられる)。

◎巣鴨プリズンに収監されている頃に、障害者ながら社会福祉事業家として活躍していたヘレン・ケラーのニュースが耳に入ってきた際、元将官たちが「あれは盲目を売り物にして居るんだよ」とこき下ろしたことに対して、重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判し彼らの見解の偏狭さを嘆いている。

◎戦後、鳩山一郎内閣で外相を務めた際、鳩山が「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と無神経に発言したため外交官出身の重光は鳩山との関係が悪化した。また鳩山が日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
山渓偉人館前におられます。
少し、はにかんだ表情の上半身の像です。
作者は、朝倉文夫氏です。

20140203 重光葵 (6)


三浦 梅園
2014 三浦(3)

2014 三浦(1)
三浦 梅園 像
(大分県 国東市 安岐町中園 安岐総合支所)

撮影日:2014年2月3日
建設年:平成4年
分 類:哲学者
作 者:小川 誠
評 価:☆☆☆

三浦 梅園(みうら ばいえん)
(1723年-1789年)

江戸時代中期の哲学者。
享保8年8月2日生まれ。
豊後(大分県)国東郡富永村の庄屋、医師。
綾部絅斎、藤田敬所にまなぶ。
独創で天地造化の「条理」をきわめ、梅園三語とよばれる「玄語」「贅語」「敢語」をあらわした。
仕官せず、郷里で門人を教育し、思索と著述の生涯をおくった。
寛政元年3月14日死去。67歳。名は晋(すすむ)。字は安貞。
【格言など】学問は飯と心得べし(「戯示学徒」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎梅園は三度旅をした以外は、故郷の大分県国東半島を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、その坦々とした生涯を終えた。複数の藩主から招聘の声もあったが、断ったという。
◎地元安岐町に梅園自身が設計した旧宅があり、近くには宿泊施設、キャンプ場、天文台、梅園などが整備された梅園の里があり、設備の完備した資料館に膨大な自筆稿本類すべてが保存されている。
メルカトル図法で描かれた世界地図(梅園自身の筆写)や南天図・北天図(南半球・北半球の星図。同前)などがある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
国東市安岐総合支所前の庭におられます。
優しそうな表情の上半身の像です。

2014 三浦(2)


八坂 善一郎
2014八坂 (3)

2014八坂 (1)

2014八坂 (2)
八坂 善一郎 像
(大分県 杵築市 杵築 杵築城)

八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう)
(1953年-1980年)

撮影日:2014年2月3日
分 類:政治家
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

大分県八坂村に生まれる。
昭和8年早稲田大学を卒業、昭和21年から22年まで衆院議員。
昭和30年杵築市誕生と共に、5期20年に渡り杵築市長を務める。
日の丸バッジを市の職員につけさせたことから「日の丸市長」、「タカ派市長」として有名だった。
[感  想]
杵築城内の公園におられます。
しっかりと前を見つめる上半身の像です。

2014八坂 (4)


河合 操
2014河合 (4)

2014河合 (3)

2014河合 (2)
河合 操 像
(大分県 杵築市 杵築 杵築城内)

撮影日:2014年2月3日
分 類:軍人
作 者:日名子 実三
評 価:☆☆☆

河合操
河合 操(かわい みさお)
(1864年-1941年)

明治-大正時代の軍人。
元治元年9月26日生まれ。
日露戦争では満州軍参謀として出征。
陸軍省人事局長、陸軍大学校長、第一師団長、関東軍司令官などを歴任し、大正10年大将、12年参謀総長となった。枢密顧問官。
昭和16年10月11日死去。78歳。
豊後(大分県)出身。陸軍大学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
杵築城内の展示スペースにおられます。
2014河合 (5)
軍服を着た立ち姿で、髭が特徴的です。
八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことで有名な日名子実三の作。


一松 定吉 2

一松② (1)

一松② (2)
一松 定吉像 2
(大分県 杵築市 南杵築 一松邸)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和16年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

[感  想]
玄関脇におられます。
勲章を多く付けた上半身の像で、1に比べ若い頃の姿だと思われます。

一松② (3)


一松 定吉 1
一松① (8)

一松① (9)

一松① (10)
一松 定吉像 1
(大分県 杵築市 南杵築 一松邸)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和42年
分 類:政治家
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

一松定吉(ひとつまつ さだよし)
(1875年-1973年)

大正-昭和時代の司法官、政治家。
明治8年3月18日生まれ。
大審院検事をつとめ、大正9年退官。弁護士となる。
昭和3年衆議院議員(当選8回、民主党)。
第1次吉田内閣の国務・逓信相、片山内閣の厚相、芦田内閣の建設相。
25年参議院議員(当選2回)。
昭和48年6月8日死去。98歳。
大分県出身。明治法律学校(現明大)卒。旧姓は波多。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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一松① (7)
「一松邸」
一松邸は、杵築市の初代名誉市民となった一松定吉氏の邸宅で、昭和32年に杵築市に寄贈され、その後は「一松会館」として市民の憩いの場として開放されていた。その後、市庁舎の移転に伴って、杵築城と海を望む絶景の場所(現在地)に移築されたもの。
一松氏は現在の豊後高田市にあたる美和村の出身。杵築藩の剣術や槍術の指南役であった一松家の家督を継ぐ養子として入り、その後政界で活躍。昭和初期には、国務大臣ほか、通信、厚生、建築大臣などを歴任。
その邸宅は、杉の柾目の一枚板を敷いた縁側、二条城二の丸御殿や日光東照宮外陣や城、著名な寺や神社で特徴的に見ることができる格天井(ごうてんじょう)を客人用のトイレに施すなど、贅沢で洗練された趣が屋敷を包む。その一方で、取り外し可能な掛障子、戸袋を減らすために雨戸を直角に回転させる工夫を施した「回り戸」など、機能的で合理的な技術は現在でも十分に通用する。
「大分県杵築市観光協会公式ホームページ」から

[感  想]
一松邸の庭におられます。
一松① (11)

一松① (6)
モーニングを着た立ち姿で、杵築城をじっと見つめておられます。


菊池 武光 2
菊池 太刀洗 (7)

菊池 太刀洗 (3)

菊池 太刀洗 (6)

菊池 太刀洗 (9)

菊池 太刀洗 (1)

菊池 太刀洗 (10)

菊池 太刀洗 (4)




菊池 武光 像 2
(福岡県 三井郡 太刀洗町山隈 太刀洗公園)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和12年
分 類:武士
作 者:緒方 敏雄
評 価:☆☆☆☆☆

【菊池武光 銅像】
正平14年(1359)8月7日大保原(小郡市)で武家方の小弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隅原まで進出した。
この方面で戦っていた小弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。
武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。
しかし夜明け前からの激戦で死傷者は小弐方1万8千人、菊池方6千9百人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。
「帰来河水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって、紅雪をふく」頼山陽
「そのかみの血しおの色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川」乃木希典
古人は、このありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。
勇ましい姿のこの銅像はゆかりの菊池渡りの地に昭和12年建立されたものである。
なお、馬腹や台石の弾痕は昭和20年3月の大刀洗飛行場爆撃時の名残。
「大刀洗町ホームページ」から
菊池 太刀洗 (2)

[感  想]
大刀洗町という地名の由来にもなっている逸話を表した像。
右手に刀を左手に手綱をしっかりと持った菊池武光の立ち姿が素晴らしいです。
馬も躍動感あふれる姿です。

菊池 太刀洗 (5)
大戦の弾痕も生々しく見ることができます。
菊池武光像は、1に続き、2も満点の5つ星です!


菊池 太刀洗 (11)

菊池 太刀洗 (12)


菊池 武光 1
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菊池 武光 像
(熊本県 菊池市 亘 菊池市民広場)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成4年
分 類:武将
作 者:中村晋也
評 価:☆☆☆☆☆

菊池 武光(きくち たけみつ)
(不詳-1373年)
南北朝時代の武将

菊池武時の子。
肥後(熊本県)菊池氏惣領15代。
貞和4=正平3年征西将軍懐良親王を肥後にむかえ,九州の南朝勢力の中核となる。
九州探題一色範氏らをやぶり,大宰府に征西府をうつす。
のち新探題今川貞世に追われて大宰府を放棄した。
応安6=文中2年11月16日死去。
通称は豊田十郎。法名は聖巌。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「菊池武光騎馬像」
今から約650年程前の南北朝時代の武将、第15代当主菊池武光公の騎馬像。
後醍醐天皇の御子である懐良(かねなが)親王を征西将軍に迎え、南朝方として室町幕府と戦い、一時は九州を平定するなど活躍しました。
菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像は、日本有数の大きさを誇り、騎馬像のある菊池市民広場は、市民や訪れる人々の憩いの場となっています。
「菊池観光協会ホームページ」から

[感 想]
菊池市民広場の中央に堂々とおられます。
騎馬像、大きさ、迫力、細かい部分の表現と非の打ち所が無く、満点です!
一見価値有りです。
作者である中村晋也氏は、鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」の作者でもあります。
これからも多くの素晴らしい銅像を造ってもらいたいと思います。


本田 保
本田  (3)

本田  (5)
本田 保 像
(福岡県 三井郡 太刀洗町 今村カトリック教会)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:司祭
作 者:中田 秀和
評 価:☆☆☆

本田
本田保(ほんだ たもつ) 
(1855年-1932年)

1896(明29)年9月今村教会の主任司祭となる。立派な教会堂をつくることが、宣教布教の第一歩であるとの信念を固め、老朽教会の改築を計画した。(建設予算3万円)
本田師は自分の食事までも倹約したり、節約して貯蓄に努める一方、ドイツの雑誌「カトリッシェン・ミッショネン」にラテン語で寄稿するなどの活動で、フランスやドイツの信者からも建築資金が寄付された。
また今村から海外移民した人々の協力も得て、今村信徒の労働奉仕により工事が進められた。
1912(大1)年着工、1913(大2)年12月
双塔ロマネスク赤レンガ造りの現聖堂を完工。
本田師は(昭3)年までの32年間、主任司祭(在任善牧者)を務めた後、長崎蔭ノ尾教会に転任、聖堂を改築して司祭館を建てた。
本田  (4)

本田  (6)

本田  (1)

[感  想]
今村カトリック教会の敷地内におられます。
髭が特徴的な、上半身の像です。
本田  (2)

本田  (7)
じっと、レンガ造りの教会を見つめておられます。


聖徳太子
聖徳太子 久留米 (1)

聖徳太子 久留米 (5)
聖徳太子 像
(福岡県 久留米市 篠山町 久留米城跡)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:皇子
評 価:☆☆☆

聖徳太子(しょうとくたいし)
(574年-622年)
飛鳥時代、用明天皇の皇子

敏達天皇3年生まれ。
母は穴穂部間人皇女。
推古天皇の皇太子、摂政となり、十二階冠位の制定、憲法十七条の発布、遣隋使の派遣などをおこなう。
また慧慈にまなび、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」をあらわした。
豊聡耳命、上宮王ともいう。
推古天皇30年2月22日死去。49歳。
墓所は磯長墓(大阪府太子町叡福寺)。名は厩戸(うまやどの)皇子。
【格言など】財物は亡び易くして永く保つべからず。
ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし(遺詔)

聖徳太子 久留米 (2)
「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画

聖徳太子1万円札
聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)

聖徳太子500
聖徳太子の肖像が描かれた500円収入印紙(1948年発行)

[紙  幣]
聖徳太子の肖像画は1930年、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。
また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。
特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。
なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。
1948年発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画が採用されている。

[エピソード]
◎豊聡耳
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。
我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。
この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から


[感  想]
久留米城跡の石垣の上の広場におられます。
小ぶりな像ですが、昔の1万円札の肖像と同じで懐かしさを感じる像です。

聖徳太子 久留米 (3)

聖徳太子 久留米 (4)


真木 和泉
真木 (4)

真木 (2)

真木 (3)
真木 和泉 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和43年
分 類:尊攘運動家
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

真木 和泉(まき いずみ)
(1813年-1864年)
江戸時代後期の尊攘運動家。

文化10年3月7日生まれ。真木旋臣の長男。
筑後(福岡県)久留米の水天宮祠官。
江戸、水戸に遊学し、会沢正志斎の影響をうける。
尊攘を説き、嘉永5年久留米藩政改革をめざしたが失敗、幽閉の身となった(嘉永の獄)。
文久2年脱藩し討幕に奔走するが、禁門の変に敗れ、元治元年7月21日天王山で自害。52歳。
名は保臣。字は興公、定民。号は紫灘。変名に浜忠太郎。
【格言など】我一歩を退くれば彼一歩を進め、我一日優游すれば彼一日精熟す(「魁殿物語」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

楠木正成の崇拝者として知られ、今楠公と呼ばれた。
毎年、楠木正成の命日には楠公祭をおこない、その思想と実践は、のちの湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた

「辞世の歌」
大山の 峯の岩根に 埋にけり わが年月の 大和魂
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
水天宮の境内におられます。
堂々とした立ち姿で、台座も立派でかなりの高さがあります。
真木 (1)


宗像 小平太
宗像 (1)

宗像 (3)

宗像 (2)
宗像 小平太 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

宗像 小平太(むなかた こへいた)
(1876年-1926年)
撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和28年
分 類:警察署消防主任
評 価:☆☆☆

明治33年福岡県警察官となり、
大正5年(1916)久留米警察署消防主任を拝命。
消防における献身的努力が認められ昭和6年功績をたたえ銅像建立、
第2次大戦に伴い銅を供出されたが昭和28年再建立された。

[感  想]
水天宮の境内におられます。
久留米の消防活動に尽力された方のようです。
制服制帽姿の上半身の像です。


貝島 太助
貝島 (2)

貝島 (3)
貝島 太助 像
(福岡県 直方市 山部 雲心寺境内)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和29年
分 類:実業家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

貝島
貝島 太助(かいじま たすけ)
(1844年-1916年)
明治-大正時代の実業家

天保15年1月11日生まれ。
明治3年炭鉱事業に従事。
西南戦争で巨利をえて17年大之浦炭鉱を入手。
のち井上馨の援助を得、日清戦争を契機に事業をひろげ31年貝島鉱業合名を設立、貝島炭鉱の基礎をきずいた。
大正5年11月1日死去。73歳。
筑前(福岡県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

筑豊御三家と称された貝島財閥の創始者であり、「筑豊の炭坑王」の異名を取った。

[感  想]
雲心寺の境内裏におられます。
羽織、袴を着た、堂々とした立ち姿です。
北村西望の作です。

貝島 (1)


米田 正文
米田 (3)

米田 (2)
米田 正文 像
(福岡県 福岡市 直方市 下境 遠賀川水辺館近く)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和49年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

米田 正文(よねだ まさふみ)
(1904年-1984年)
日本の内務・建設官僚、政治家。
参議院議員(3期)。
福岡県田川郡添田町出身。

米田 (1)

[感  想]
遠賀川沿いを走る「のおがた水辺マラソン」に出場した後、水辺館近くで偶然発見しました。
眼鏡をかけた上半身の像です。


藤堂 高虎
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藤堂 高虎 像
(愛媛県 今治市 通町 今治城)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

藤堂 高虎
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

藤堂 高虎(とうどう たかとら)
(1556年-1630年)
織豊-江戸時代前期の大名

弘治2年1月6日生まれ。
浅井長政、羽柴秀長、豊臣秀吉につかえる。
秀吉没後は徳川家康にちかづき、関ケ原の戦いでは東軍に属し戦功をあげた。
伊予(愛媛県)今治藩主から慶長13年伊勢津藩主藤堂家初代となる。32万3950石。
大坂夏の陣では真田幸村のため苦戦していた家康をたすけた。
寛永7年10月5日死去。75歳。近江(滋賀県)出身。
【格言など】
上として人を御疑い候えば、下また上を疑い、上下疑いこれあるときは、上と下との心離れ申候
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。

◎慶長の役において加藤嘉明と功を競い、仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
◎別の話もある。会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという。

◎高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。

◎秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し、「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」という言葉を残している。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。

◎家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。

◎関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。

◎武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。

◎三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
今治城の前の広場におられます。
躍動感あふれる馬に堂々と跨った姿です。
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今治城をバックにした姿が映えます!


加藤 嘉明
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加藤 嘉明 像
(愛媛県 松山市 大街道)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成22年
分 類:武将
作 者:田畑 功
評 価:☆☆☆☆

加藤 嘉明
加藤嘉明像(藤栄神社蔵)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

加藤 嘉明(かとう よしあき)
(1563年-1631年)
織豊-江戸時代前期の武将、大名

永禄6年生まれ。
豊臣秀吉につかえ、賤ケ岳の戦いに七本槍のひとりとして活躍。
小田原攻め、朝鮮出兵などに参加。
関ケ原の戦いでは東軍に属し、戦後伊予松山藩主となる。
大坂の陣にも活躍し、寛永4年会津40万石に転封となった。
寛永8年9月12日死去。69歳。
三河(愛知県)出身。初名は茂勝。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳七本槍の一人として名を馳せた。武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将であり、「沈勇の士」とその活躍ぶりを謳われている。

◎嘉明は南蛮渡来の焼物を多く持っており、その中に虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品があった。ある日、客を饗応する準備の最中に、嘉明の近習が誤って1枚を割ってしまった。それを聞いた嘉明は、近習を叱るどころか、残り9枚の小皿をことごとく打ち砕いた。そして言うには「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。およそ着物・草木・鳥類を愛でる者はそのためにかえって家人を失う。主たる者の心得るべきことである」と述べている。

◎あるとき、小姓らが主君の不在をよいことに、囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに嘉明がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て嘉明は、素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てたという。

◎築城や城下町の建設などにも力量を発揮した。愛媛県においては、現在でも松山城築城の評価は高く、嘉明の騎馬に乗った銅像が建立されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
松山城へのロープーウェイのりば近くにおられます。
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鎧兜姿で槍を右手に持ち馬に跨った姿です。
軽やかに走り出しそうな感じがします。
兜の蛇の目の家紋が特徴的です。


正岡 子規 3
子規3IMG_2094 (3)

子規3IMG_2083
正岡 子規 像3
(愛媛県 松山市 道後公園 子規記念博物館)

撮影日:2013年3月21日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規記念博物館の風除室におられます。
子規3IMG_2094 (1)
着物と羽織を着て脇息に手を置き正座している姿の小ぶりな像です。
晩年の頃の姿だと思われます。


正岡 子規 2
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子規1 IMG_1832 (2)
正岡 子規 像2
(愛媛県 松山市 二番町4丁目 番町小学校)

撮影日:2013年3月20日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規堂にある1と同じ像と思われます。
こちらの像には、笠と荷物がありません。

子規1 IMG_1832 (3)
横に句碑があります。

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國なまり 故郷千里の 風かをる  
正岡子規
東京で伊予弁なまりを聞いて故郷松山を想ったのではと思います。


正岡 子規 1
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子規2IMG_1871 (2)
正岡 子規 像1
(愛媛県 松山市 末広町 子規堂前)

撮影日:2013年3月20日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

正岡子規 肖像
正岡 子規(まさおか しき)
(1867年-1902年)
明治時代の俳人、歌人

慶応3年9月17日生まれ。
明治25年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。
28年以降は病床にあり、30年創刊の「ホトトギス」、31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。
野球の普及にも貢献、平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。
明治35年9月19日死去。36歳。
伊予(愛媛県)出身。帝国大学中退。
本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、竹の里人。
著作に句集「寒山落木」、歌集「竹乃里歌」、ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。
【格言など】柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。

◎別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。
「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。

◎松山に漱石が居た時に鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせた。

◎「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。

◎本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、『陳腐、平凡』という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。

◎子規と野球
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまでやっていた。
ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚が始めである。)。
また「まり投げて見たき広場や春の草 」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」
などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。
これらのことが評価され子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。
なお、子規が「野球」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年(明治23年)である。
つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
子規堂の前におられます。
わらじの緒を締め直し、旅立とうとする若い子規の姿です。

子規2IMG_1871 (3)


夏目 漱石 5
夏目2 IMG_2108 (4)

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夏目 漱石 像 5
(愛媛県 松山市 道後湯之町 道後温泉本館内)

撮影日:2013年3月21日
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

夏目2 IMG_2108 (2)
「坊ちゃんの間」
昭和41年(1966年)、正岡子規や柳原極堂の生誕100年祭を催した際に、本館3階の一室を夏目漱石ゆかりの部屋として定めました。
当時、漱石が湯上りにくつろいだ部屋を再現したもので、室内には漱石の見合い写真や胸像などが飾られており、入館された方は、自由に見学できます。
「松山市ホームページ」から

夏目2 IMG_2108 (6)
「漱石と道後温泉本館」
文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任したのは、本館の完成した翌年のこと。
漱石はその建築に感嘆し、手紙や、後の小説『坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と絶賛している。
実際に、頻繁に通ったという。
手紙によれば、8銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また3階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである。
小説には「住田」の温泉として登場する。
これにあやかり、本館は「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。
1階の男湯浴室内には、『坊つちやん』の主人公が湯船で泳いで注意の張り紙をされたことにちなんだ「坊っちゃん泳ぐべからず」の札が掲げられている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
道後温泉本館内の坊ちゃんの間の板の間におられます。
腕を組んだ着物姿で、大きな目が特徴的です。

夏目2 IMG_2108 (1)


夏目 漱石 4

夏目1 IMG_1876 (2)

夏目1 IMG_1876 (1)
夏目 漱石 像 4
(愛媛県 松山市 末広町 正宗寺境内)

撮影日:2013年3月20日
分 類:文学者
作 者:阿部 誠一
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規堂の向かいの広場で、坊ちゃん列車の前におられます。
髭が特徴的な首から上の像で、若い頃松山で教鞭をとっていた頃の姿だと思われます。

夏目1 IMG_1876 (4)

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