ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!


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秋山 好古 3
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秋山 好古 像 3
(愛媛県 松山市 梅津寺町 梅津寺公園)

撮影日:2013年3月21日
建設年:昭和45年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

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[感  想]
梅津寺公園の高台におられます。
サーベルを左手に持った立ち姿で、髭が特徴的です。
少し劣化が進んでいるのが気になります。

好古ポスター
民芸伊予かすり会館に貼ってあったポスター

FC2 Management

秋山 好古 2
秋山好古IMG_1750 (1)

秋山好古IMG_1750 (2)
秋山 好古 像 2
(愛媛県 松山市 文京町 松山北高校)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:軍人
作 者:池川 直
評 価:☆☆☆

秋山好古IMG_1750 (3)
「秋山好古と松山北高校」
北予中学校時代の1924年(大正13年)から約6年間、元陸軍大将で日露戦争に功のあった秋山好古が校長を務めた。彼は旧制北予中学に馬で毎日学校に通ったことでも有名である。

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校長室の秋山好古の書と小像。
この像が秋山好古生誕地にある銅像の復元モデルとなった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
松山北高校敷地内の八十周年記念館前におられます。
校長時代と思われる、スーツ姿の上半身の像です。
毎日馬で通ったというのも、すごいと思いました。


秋山 好古 1
秋山好古2IMG_1830 (2)

秋山好古2IMG_1830 (6)

秋山好古2IMG_1830 (3)

秋山好古2IMG_1830 (4)

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秋山 好古 像 1
(愛媛県 松山市 歩行町 秋山兄弟生誕地・生家)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成16年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆☆

秋山好古 肖像
秋山 好古(あきやま よしふる)
(1859年-1930年)
明治-大正時代の軍人

安政6年1月7日生まれ。
秋山真之の兄。
陸軍乗馬学校長、清国駐屯軍守備隊司令官、近衛師団長、朝鮮駐箚軍司令官、教育総監などを歴任。
大正5年大将。
騎兵を育成して戦術・訓練を研究し、日清・日露戦争で名をあげた。
昭和5年11月4日死去。72歳。
伊予(愛媛県)出身。陸軍大学校卒。
通称は信三郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

秋山好古2IMG_1830 (5)
「秋山兄弟生誕地」
秋山家は、江戸末期の天保年間から現在地に家を構えていました。
好古が北予中学校の校長時代に住んでいたのは、自分が生まれた当時の家(4部屋と土間、台所の質素な家)に若干手を加えただけのものだといわれています。
現在の建物は、当時の設計図がないことから、好古が住んでいた時にしばしば訪問していた親戚の石井悦子さん(群馬県在住)や、好古四女:米田治子さん(故人)などからの聞き取りや、当時の写真を検証して建設されたものです。
当時の湧水を今に残す井戸など、在りし日の暮らしが再現されています。
「松山市ホームページ」から

[エピソード]
◎風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。

◎青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。
フランス留学中の秋山
フランス留学中の秋山

◎酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいの事が出来部下たちを感嘆させた。しかし酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。

◎極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

◎福澤諭吉を尊敬しており、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとした。

◎書に長けており、退役後は揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。

◎晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。

◎愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。

◎弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。

◎欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。

◎第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。

◎フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

◎陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
昭和11年に道後公園に建てられた好古の銅像は、昭和18年に、戦時中の供出で消滅した。そのレプリカが、秋山家親族や地元の設立功労者に配られており、今日まで残っていたので、それをもとにして、生家の復元に合わせて、原寸大の騎馬銅像を復元したもの。

[感  想]
日本騎兵の父と言われた、秋山好古の騎馬像です。
黒光りする像で、彫の深い顔や髭、軍服など細かいところまでよく造られています。

秋山好古2IMG_1830 (1)
じっと弟の真之の銅像を見つめています。


秋山 真之 2
秋山真之3IMG_2210 (3)

秋山真之3IMG_2210 (4)


秋山真之3IMG_2210 (2)
秋山 真之 像 2
(愛媛県 松山市 梅津寺町 梅津寺公園)

撮影日:2013年3月21日
建設年:昭和38年(昭和43年移設)
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

[銅 像]
秋山真之の最初の銅像は、昭和6年に、真之の13回忌と日本海海戦25周年を記念して、道後公園内に建てられたが、昭和18年、戦争による金属供出で撤去された。
その銅像のポーズは、三笠艦橋の東郷平八郎を擬した双眼鏡を手にしたものであった。
戦後になり、昭和38年石手寺境内に再建され、その後、昭和43年に、梅津寺公園の大丸山に移された。
台座の文字の揮毫は、東郷平八郎による「智謀如湧」。
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[感  想]
梅津寺公園の高台(好古像よりさらに上)におられます。
本を手に持った立ち姿で、
「三笠艦橋の図」での真之の姿がモデルと思われます。
三笠艦橋の図
三笠艦橋の図
(右から3番目が秋山真之)


秋山真之3IMG_2210 (1)
じっと瀬戸内海を見つめておられます。

真之ポスター
民芸伊予かすり会館に貼ってあったポスター


秋山 真之 1
秋山真之1IMG_1802 (2)

秋山真之1IMG_1802 (3)

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秋山 真之 像 1
(愛媛県 松山市 歩行町 秋山兄弟生誕地・生家)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成16年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

秋山真之 肖像
秋山 真之(あきやま さねゆき)
(1868年-1918年)
明治-大正時代の軍人

慶応4年3月20日生まれ。
秋山好古の弟。
日清戦争に従軍後、アメリカに留学。
帰国後、常備艦隊参謀となる。
日露戦争では連合艦隊作戦参謀として海戦の作戦を指揮。
日本海海戦での「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の報告文は有名。
大正3年軍務局長。6年海軍中将。
戦略家として知られた。
大正7年2月4日死去。51歳。
伊予(愛媛県)出身。海軍兵学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎参謀としての真之の功績は、長らく東郷の影に隠れ、広く一般に知られている人物とは言い難かったが、戦後、島田謹二『アメリカにおける秋山真之』(初版・昭和44年(1969年))によって紹介され、司馬遼太郎が発表した歴史小説『坂の上の雲』(初版・昭和47年(1972年))で主人公になった結果、国民的な知名度を得ることになった。

◎同郷の俳人・正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、東京へ行った後も共立学校の同級生として交遊し、和歌なども学ぶ。また、大蔵官僚となった勝田主計も真之や子規の松山時代からの友人として知られている。

◎日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでも僅か20文字という驚異的な短さで説明しているため、今でも短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として高く評価されている(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。またZ旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も真之の作である。

◎日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における、東郷の訓示(聯合艦隊解散の訓示)の草稿も真之が起草したものとされている。この文章に感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布した。これらから名文家・文章家としても知られており、後に「秋山文学」と高く評価されるようになる。

◎東郷は「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と真之の作戦立案能力を評価した。

◎幼少の頃は腕白なガキ大将だった。多くの子供を引き連れて戦争ごっこをするにとどまらず、本を参考に花火を作って打ち上げたりするほどだった。あまりにも腕白がすぎるため、貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いた。他に絵や水泳、かけっこが得意であった。

◎海軍兵学校時代、同校で野球チームを編成し、海軍野球の創始者となった。

◎少尉候補生時代、食事中にパンくずでビスマルクやナポレオン、豊臣秀吉などの頭像を作って遊んでいた。
同じく候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか?」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる」と、答えた。

◎煎り豆が好物で、ポケットに忍ばせてよく食べていた。
この豆の種類であるが、明治37年(1904年)11月23日付の母宛て手紙に「何か幸便あれば豌豆及空豆二三斗計りイリテ御送被下度候」とあり、エンドウマメとソラマメの2種であった。

◎軍服の袖で鼻水を拭いたり、作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすなど、身なりを全く気にしない性格であったと伝えられる。また人前で放屁や放尿をすることもあった。

◎アメリカからの帰国中、賭博詐欺にあった。イカサマだと気づいた真之は、リーダーの男を部屋に連れ込み「黙ってやらせておけばいい気になりおって。このままでは侍の名折れだ、金を返せ」と、語気鋭く短刀の鞘を払った。怯えた男は金を返して逃げ出したという。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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道後公園内に建てられていた真之の銅像は、写真しか残っていなかったため、それと同じ銅像の復元がきわめて難しいことから、旧海軍大学校(現、海上自衛隊幹部学校)にある真之の胸像をモデルにして、復元したものである。

[感  想]
秋山兄弟生誕地・生家に兄好古と共におられます。
軍服を着た、サーベルを両手で押さえている上半身の像で、細かいところまでよく造られています。
兄の好古の銅像を見つめています。
秋山真之1IMG_1802 (5)

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村上 元吉
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村上 元吉 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆☆

村上 元吉(むらかみ もとよし)
(1553年-1600年)
戦国-織豊時代の武将

能島村上水軍の頭領。
毛利元就から一字を拝領した。
父は村上武吉、母は村上通康の娘。弟に村上景親。妻は小早川隆景の養女。子に村上元武。官途は掃部頭。

能島村上水軍を率いる村上武吉の嫡男として生まれる。
1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでは村上水軍を率いて織田水軍を壊滅に導いた。
1586年(天正14年)の四国征伐において村上元吉も父や弟ともに、豊臣秀吉に協力しなかったため、追討されかける。
同年には、宣教師ガスパ-ル・コエリョに要請されて、元吉は瀬戸内海を安全に通行できるよう、村上水軍の旗を与え、コエリョの安全を保障した。
天下統一を進める秀吉は1588年(天正16年)に海賊停止令を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。後に海賊停止令に違反したとして、村上元吉も父とともに筑前国加布里(現在の福岡県前原市)へと追いやられた。
1598年(慶長3年)豊臣秀吉が没すると、毛利輝元は村上元吉を父とともに安芸国竹原に移して、4700石を与えた。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、阿波国の蜂須賀氏の所領を攻撃。
阿波国猪山城を落城せしめた。9月になると興居島に上陸後、四国伊予国三津浜(現在の松山市古三津)に上陸。加藤嘉明の居城・伊予国松前城を攻撃。
しかし、同年9月17日夜から翌18日朝にかけての佃十成の夜襲であえなく討死した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鎧兜姿で、腕を組んで前を見つめている石像です。
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父親の村上武吉像の動に対して静のイメージの像です。

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じっと海を見つめる後姿


村上 武吉
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村上 武吉 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆☆

村上 武吉(むらかみ たけよし)
(1533年-1604年)
戦国-織豊時代の武将

天文2年生まれ。伊予(愛媛県)能島を本拠とした能島村上氏。
来島、因島の村上氏とともに村上水軍を形成した。
厳島の戦いで毛利元就に助勢、以後毛利氏に属したが、豊臣秀吉の海賊禁止令で勢力をうしなう。
子孫は長門(山口県)萩藩の船手組頭。
慶長9年8月22日死去。72歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

海賊として粗野なイメ-ジが強いが、大山祗神社にて一族の結束を固める為に連歌会を多く催しており、武吉個人も非常に多くの連歌を残し、武だけではなく教養にも秀でていた事が垣間見られる。
ルイス・フロイスは、彼を「日本最大の海賊」と評している。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
村上水軍博物館の敷地で、村上元吉と共に迎えてくれます。
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鎧兜姿で、右手に采配を持った躍動感のある石像です。

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海に向かって采配を振る後姿


村上 景親
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村上 景親 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆

村上 景親
村上 景親(むらかみ かげちか)
(1558年-1610年)
戦国時代-江戸時代初期の武将

小早川氏・毛利氏家臣。父は村上武吉、兄に村上元吉。
1578年(天正6年)の上月城の戦いに出陣した。
その後は、兄と行動をともにした。
1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役では吉川広家に従って、兄ともども朝鮮に渡海している。
小早川隆景が隠居すると、父と兄は毛利氏に帰参したが、景親はそのまま小早川家中に残り、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。
しかし1597年(慶長2年)に小早川隆景が死去すると毛利氏に帰参して安芸国竹原に所領を得た。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、兄の元吉とともに水軍を率いて、蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し、落城させた。
その後は毛利軍の一員として、関ヶ原の戦いに参加した。
防長移封後、細川忠興や池田輝政も景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親はこれを辞退して父とともに屋代島に移住、毛利家御船手組の組頭となった。
1610年(慶長15年)に死去、墓所は山口県大島郡周防大島町にある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
村上水軍博物館の玄関前に座っておられます。
侍烏帽子を被り、裃を着た座像で、ひげが印象的です。



河野 通有
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河野IMG_1892 (1)
河野 通有 像
(愛媛県 松山市 北立花町 井出神社)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成7年
分 類:武将
作 者:溝淵 清美
評 価:☆☆☆

河野 通有(こうの みちあり)
(1250年-1311年)
鎌倉時代の武将

河野通継の子。
弘安4年(1281)の蒙古襲来の際、伊予(愛媛県)の水軍をひきいて参戦。
博多湾の上陸阻止用の石塁を背に陣をはり、豪胆ぶりをうたわれる。
志賀島の戦いでも、元船に夜襲をかけ敵将を捕らえる。
のち幕府の命で西国の海賊を追捕した。
応長元年7月14日死去。
通称は六郎、弥九郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「元寇での活躍」
弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。
博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。
これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。通有は志賀島の戦いにおいて叔父の河野通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。

『蒙古襲来絵詞』
『蒙古襲来絵詞』

竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には、季長が負傷した通有を見舞った様子が描かれており、絵巻の注釈に河野の家では合戦が落居しない間は烏帽子を着けないこと、通有の直垂は平家との戦いで祖先の河野通信が源氏の味方に参上した時着けていたものである事が描かれている。
縁側には通有の嫡子河野の八郎が座っており、庭には通有の旗指しが控えている。奧の妻戸は本来なかった所を絵師が書き誤ったものという注釈がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
井出神社境内におられます。
烏帽子に鎧の武者姿で、右手に笏、左手に刀を持った立ち姿の石像です。


伊藤 隣一
伊藤IMG_1846 (4)

伊藤IMG_1846 (1)
伊藤 隣一 像
(愛媛県 松山市 三番町4 愛媛県林業会館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和45年
分 類:その他
評 価:☆☆☆

伊藤 隣一
(1887年-1968年)

〔碑文内容〕
伊藤隣一翁は本県林業の父である。
大正四年、東大卒業以来、半世紀にわたり、県林務課長、県森連会長として、一筋に林業の振興に盡痒した。
全國に誇る林業愛媛の業績は、翁の愛郷精神と不抜の信念に基づく唱導と感化によるものであり木材しいたけ共販市場の開設は、森林組合の先駆活動として知られている。
茲にその尊像を建立して餘香を拝せんとするゆえんである

[感  想]
愛媛県林業会館前におられます。
伊藤IMG_1846 (3)

太い眉と細い目が特徴的な胸像です。
伊藤IMG_1846 (2)
じっと愛媛県林業会館を見つめています。


井上 正夫
井上IMG_1865 (3)

井上IMG_1865 (1)
井上 正夫 像
(愛媛県 松山市 湊町5丁目 松山市駅前)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和27年
分 類:俳優
評 価:☆☆☆

井上 正夫
井上 正夫(いのうえ まさお)
(1881年-1950年)
俳優

本名小坂勇一、愛媛県出身。
少年期に大阪で成美団を観劇して新派に参加、上京して認められ、「破戒」の主役丑松を演じたが、あきたらずに1910年新時代劇協会をつくりショ-の「馬盗坊」などを上演した。
大正期再び新派に戻り「酒中日記」「大尉の娘」の当り役を得たが、36年井上演劇道場を創設して進歩的行動をとる。
42年道場を解散、のち再び新派に参加した。
49年に芸術院会員に選ばれたが、翌年1月新橋演舞場の「恋文」が最後の舞台となった。
「世界大百科事典 第2版の解説」から

[感  想]
松山市駅前におられます。
井上IMG_1865 (2)
茶色っぽい像で、彫の深い顔が印象的です。


村上 半太郎
村上IMG_1859 (1)

村上IMG_1859 (3)

村上IMG_1859 (4)
村上 半太郎 像
(愛媛県 松山市 南堀端町 JA愛媛)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和46年
分 類:実業家・俳人
評 価:☆☆☆

村上半太郎
(1869年-1949年)
農業指導者、俳人

伊予農業銀行頭取、今出産業信用組合長、県信用組合連合会長、県信用購買利用組合連合会長、愛媛銀行頭取などの要職を務め、その傍ら句作に励み、子規に先んじて蕪村を推重し、子規の句友として活躍した。
正岡子規のほか、夏目漱石、高浜虚子などとも親交があった。

[感  想]
JA愛媛会館入口におられます。
村上IMG_1859 (2)
長く伸ばした髭が特徴的な胸像です。


村瀬 寶一
村瀬寶一之IMG_1758 (1)

村瀬寶一之IMG_1758 (2)

村瀬寶一之IMG_1758 (3)
村瀬 寶一 像

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和54年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

村瀬 寶一
(1907年-1976年)
実業家、六時屋初代社長

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「屋 号」
時計で六時は長針と短針がまっすぐになることから、「まっすぐ正直な心で商売をしよう」と命名されました。
この考え方は、創業以来、受け継がれています。
創業者の理念「針はまっすぐ正直に」の伝統はそのまま受け継がれております。
「株式会社六時屋ホームページ」から

[感  想]
お土産物で有名な一六タルトの六時屋初代社長で、本社の前におられます。
村瀬寶一之IMG_1758 (4)
眼鏡をかけた胸像です。
屋号のこだわりがいいなと思いました。


安部 能成
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安部 能成 像
(愛媛県 松山市 持田町二丁目 松山東高校)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和41年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

安倍 能成(あべ よししげ)
(1883年-1966年)
明治-昭和時代の哲学者、教育者

明治16年12月23日生まれ。
夏目漱石の門下。
岩波版「哲学叢書」の編集にくわわる。
昭和15年一高校長、21年幣原内閣の文相、のち学習院院長となる。
昭和41年6月7日死去。82歳。
愛媛県出身。東京帝大卒。
著作に「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」「平和への念願」など。
【格言など】現実に触れよとは切実な経験をせよということである
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎1906年、東京帝国大学1年生時に、友人が夏目漱石の元を訪問するのに同行して以来、漱石を深く尊敬師事し、後年には小宮豊隆・森田草平・阿部次郎(鈴木三重吉とする説もある)と並んで「漱石門下の四天王」と称された。

◎在学中、夏目漱石や波多野精一、高浜虚子の影響を受けた。
同窓生の一人に、藤村操がおり、その妹・恭子と結婚した。
また、一高を中途退学した同期の岩波茂雄との交流は終生続き、後年岩波書店経営方針に深く関与し、岩波の没後には、公式伝記も執筆した。

◎鈴木三重吉や寺田寅彦との出会いも、漱石を通じてのものであった。
漱石が修善寺の大患(1910年)に陥った時、安倍たちが駆けつけると、来たからには「あんばいよくなる」と言われたとの挿話があった
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
母校である松山東高校の校庭におられます。
安倍IMG_1900 (2)
松山東高校は、夏目漱石が教鞭をとり、小説「坊ちゃん」の舞台となったところです。
漱石門下であった安倍のきりっとした表情で前を見据えている胸像です。


加藤 彰廉
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加藤 彰廉 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山大学)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

加藤彰廉先生
加藤彰廉(かとう あきかど)
(1862年-1933年)
明治-昭和時代前期の教育者

文久元年12月27日生まれ。
明治42年大阪高商校長となる。
大正4年衆議院議員。
翌年郷里愛媛県松山の北予中学校長、12年松山高商校長に就任。
昭和8年9月18日死去。73歳。
東京大学卒。本姓は宮城。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆ 加藤彰廉先生
本学園三恩人の一人で、松山藩士宮城正脩の二男として生まれ、東京帝国大学文学部(現東京大学)に学び西欧の新思潮を身につけた。
卒業後は文部省、大蔵省在任の後教育界に入り、山口高等中学教諭を経て大阪高等商業学校長となった。
晩年、要請されて北予中学(現県立松山北高等学校)校長に就任し、高等商業学校設立をいちはやく加藤恒忠松山市長に提案するなど設立運動に尽力した。
松山高等商業学校創設に際しては、初代校長に就任し、第一回卒業式において「真実・実用・忠実」を説いた訓示は校訓「三実主義」に確立され、人間形成の伝統原理として今日に受け継がれている。
「松山大学 ホームページ」から

[感  想]
松山大学三恩人の像がキャンパスの庭に並んでいます。
松山大学IMG_1741

髭が特徴的な胸像で晩年の姿だと思われます。


加藤 恒忠
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加藤 恒忠 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山大学)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

加藤恒忠(拓川)翁
加藤 恒忠(かとう つねただ)
(1859年-1923年)
明治-大正時代の外交官、政治家

安政6年1月22日生まれ。
フランスに留学後、外務省にはいり、ベルギ-公使などを歴任。
明治41年(1908)衆議院議員。のち貴族院議員。
北浜銀行頭取、大阪新報社長をつとめた。
大正11年松山市長。大正12年3月26日死去。65歳。
伊予(愛媛県)出身。司法省法学校中退。
旧姓は大原。号は拓川。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆ 加藤恒忠(拓川)翁
本学園三恩人の一人で、松山藩儒学者大原有恒(観山)の三男として生まれ、俳人正岡子規の叔父にあたる。幼くして儒学に親しみ、フランス留学を経て外務省に入り、外務大臣秘書官・大使・公使を歴任後、衆議院議員・貴族院議員に選任された。
後年、松山市長への就任を要請され、第5代市長となり、北予中学校加藤彰廉校長からの高等商業学校設立の提案に理解を示し、文部省との設置折衝を行うと共に、友人新田長次郎(温山)翁に設立資金の支援を依頼するなど、設立運動の中心的な推進役として松山高等商業学校創設に多大な貢献をした。
「松山大学 ホームページ」から

[感  想]
松山大学の校庭におられます。
加藤恒忠IMG_1724 (2)
短い頭髪と髭が特徴的な、じっと前を見つめている胸像です。


新田 長次郎
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新田 長次郎 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山大学)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

新田長次郎
新田 長次郎(にった ちょうじろう)
(1857年-1936年)
明治-昭和時代前期の実業家

安政4年5月29日生まれ。
明治18年大阪で製革業をはじめ,ベルト工業などの事業に成功。
私財を投じて44年大阪の有隣小学校,大正12年松山高商(現松山大)を設立した。
昭和11年7月17日死去。80歳。
伊予(愛媛県)出身。号は温山。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆ 新田長次郎(温山)翁
本学園三恩人の一人で、松山市山西の出身。
20歳にして志をたて大阪に旅立ち10余年の歳月を経て日本初の動力伝動ベルトの製作に着手し、至難とされた帯革製造業の確立を始め、膠・ゼラチン、ベニヤの製造をも手がけるなど、日本産業の発展に多大な貢献をした。
青少年を愛し学問を愛する温山翁は、高等商業学校設立の提案に賛同し、設立に際しては、「学校運営に関わらない」ことを条件に、設立資金として巨額の私財を投じ、我が国の私立高等商業学校では第3番目の設置となる松山高等商業学校(本学の前身)を創設した。
本学園では「学園創設の父」としてその功績が今日に伝承されている。
「松山大学 ホームページ」から

[感  想]
松山大学には、本学園三恩人の胸像がキャンパス内に設置されています。
新田IMG_1717 (2)
新田長次郎像は、坊主頭でちょっと強面の感じで、着物を着た胸像です。


石井 素
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石井 素 像
(愛媛県 松山市 文京町 愛媛大学教育学部)

石井 素
(1896年-1926年)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和41年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

碑文から
「胸像ハ大東亜戦争ノタメ供出シタルモ 母校創立九十周年ニ当リ 原型ニ依ッテ茲ニ復元ス 昭和四十一年十一月十二日 愛媛大学教育学部同窓会」
石井素は、槍ヶ岳登山の途次梓川に落ちた生徒を救うべく雪溶けの激流に身を投じて、三十三年の生涯を教育に殉じた人物。

[感  想]
愛媛大学教育学部の校庭におられます。
石井IMG_1709 (3)
大きな目と太い眉が印象的な胸像です。


井上 要
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井上 要 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山北高校)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和13年
分 類:政治家
評 価:☆☆

井上 要(いのうえ かなめ)
(1865年-1943年)
明治-昭和時代前期の実業家、政治家

慶応元年5月5日生まれ。
明治39年愛媛県の伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などを合併。
松山商工会議所会頭などを歴任し、松山高商(現松山商大)の創立にも尽力した。
35年衆議院議員(当選3回、憲政本党)。
昭和18年3月18日死去。79歳。
伊予(愛媛県)出身。旧姓は有友。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
松山北高校の校庭におられます。
井上IMG_1748 (1)
白っぽい石での小ぶりな像ですが、保存状態があまり良くないのが残念です。


前島 密 2
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前島 密 像 2
(愛媛県 松山市 道後樋又 四国郵政研修所敷地内)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和59年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆


[感  想]
四国郵政研修所の前庭の植え込みの中におられます。
前島IMG_1697 (1)
「郵便制度の父」と呼ばれる前島の像は、郵便局関係の施設に設置されているようです。
少し白っぽくなっているのが、残念です。


前島 密 1
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前島 密 像 1
(東京都 中央区 中央郵便局前)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和37年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆

前島密
「近代日本人の肖像ホームページ」から

前島密 (まえじま ひそか)
(1835年-1919年)
明治時代の官僚

天保6年1月7日生まれ。
慶応2年幕臣前島家の養子。
明治4年イギリスから帰国し,駅逓頭となり近代郵便制度の確立につとめる。
14年官を辞し,15年結党された大隈重信の立憲改進党にくわわる。
19年東京専門学校(現早大)校長,21年逓信次官。
貴族院議員。国字改良論者としても知られる。
大正8年4月27日死去。85歳。
越後(新潟県)出身。本姓は上野。
【格言など】治国の要は通信の快速四速に在り(「鴻爪痕」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

前島1円
1円切手

前島 1
前島密の銅像を描く記念切手(1946年)
この切手の銅像は、新潟県上越市の前島記念館にあります。

[感  想]
1円切手の肖像画で有名な前島密の像
郵便発祥の地である中央郵便局前の黒光りする上半身の像です。


鍵谷 カナ
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鍵谷 カナ 像
(松山市 松山市 久万の台 民芸伊予かすり会館)

撮影日:2013年3月20日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

鍵谷 カナ(かぎや カナ)
(1782年-1864年) 

江戸時代後期の伊予絣(いよがすり)の創案者。
天明2年生まれ。生家は伊予(愛媛県)の農家。
金刀比羅宮参詣の途中、久留米商人のきていた久留米絣に着想をえて考案。
一説にはわら屋根ふきかえのとき、竹をしばった跡の斑紋をみて案出したという。
元治元年死去。83歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
民芸伊予かすり会館前におられます。
鍵谷IMG_1682
着物姿の胸像です。雨が降っていたのが残念でした。


松下 幸之助
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松下 幸之助 像
(愛媛県 今治市 宅間甲 コンテックス敷地内)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和61年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

松下 幸之助
松下幸之助(1960年代初期頃)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

松下 幸之助(まつした こうのすけ)
(1894年-1989年)

大正-平成時代の実業家
明治27年11月27日生まれ。
農家の3男。小学校を中退してはたらきはじめ,明治43年大阪電灯(現関西電力)に入社。
大正6年改良ソケットを考案,翌年松下電気器具製作所を創業。
昭和10年松下電器産業(現パナソニック)に改組して社長となる。
事業部制,連盟店制など独自の経営で「経営の神様」とよばれた。
のちPHP研究所,松下政経塾を創設。
平成元年4月27日死去。94歳。
和歌山県出身。
【格言など】青春とはこころの若さである(座右銘)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[銅  像]
大阪府門真市に所在するパナソニックミュージアム内に、松下幸之助の銅像「松下幸之助翁寿像」が建立されているが、この像は労働組合に理解を示していた幸之助に感謝する形で、松下電器労組が贈呈したものである。

[エピソード]
◎米「タイム」誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家である(1人目は戦前に登場した日本郵船の各務鎌吉)

◎自分に対して厳しい松下は交通渋滞が原因で会議に間に合わなかった際、社内処分として自らの給与を10%を減給した(1カ月間)

◎晩年、雑誌の取材で「何かひとつ夢を叶えるとしたら何を望みますか?」と質問されたところ「今の全財産を渡すからもう一度二十歳に戻して欲しい。それが出来たら私はもう一度今と同じだけの財産を築いてみせる。」と答えたと言う。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
タオル繊維会社のコンテックス工場敷地内におられます。
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松下電器労組が贈呈した「松下幸之助翁寿像」と同じものではないかと推測されます。
コンテックスとパナソニック株式会社が関連会社である関係で設置されたのではと思われます。
右手を前に出して握手をしようとしている立ち姿で、眼鏡など細かい部分まで精巧に作られています。


近藤 宗一
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近藤 宗一 像
(愛媛県 今治市 宅間甲 コンテックス敷地内)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和59年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

近藤 宗一(こんどう そういち)

コンテックス(kontex)は、愛媛県今治市に本社を置くタオル繊維メーカーである。
1934年 近藤宗一の個人事業として近藤タオル工場として設立した。

[感  想]
コンテックスの創業者で、工場敷地内におられます。
上半身の像で皺など細かい部分まで、よく表現されている像です。


檜垣 俊幸
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檜垣 俊幸 像
(愛媛県 今治市 通町 今治城入口)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成23年
分 類:実業家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

檜垣 俊幸(ひがき としゆき)
(1928年- )
愛媛県今治市生まれ。
43年今治造船入社。同社常務、専務、副社長を経て、92年社長に就任。
99年から四国経済連合会常任理事、2001年から今治商工会議所会頭、03年からは社団法人日本造船工業会副会長(再任)など、多くの要職も務めている。02年勲二等瑞宝章。

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[銅  像]
銅像の制作者である中村晋也氏の銅像制作の説明を兼ねた祝辞
「檜垣さんの船造り一筋に歩まれたその男の世界、それをどう表現すれば良いのか、それとの戦いの制作でありました。
銅像の右腕がくの字に少し曲がって前に出ているのは、次へ行動する、挑戦する男の戦いの始まりを表わしています。
また、銅像は真東を向いており、そこには東京がありますが、目線は東京を遥かに超え、太平洋を渡ってアメリカ大陸、その向こうの大西洋を超えてヨ-ロッパ大陸、アジア大陸へと、まさに世界を股に掛ける造船の王者の目線、檜垣さんの目指すもの、そのものを表現させていただきました。末長く今治市民の皆様に親しんでいただきたい。檜垣さんの益々のご活躍をお祈りします。」

[感  想]
今治城入口近くにおられます。
堂々とした立ち姿です。


菅原 利鑅
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菅原 利鑅 像
(愛媛県 今治市 通町 今治城)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和30年
分 類:織物技師
作 者:大西 甚平
評 価:☆☆

菅原利鑅
菅原 利鑅
(1891年-1958年)

高級なジャカ-ド織りの今治タオルの生産に尽力した。


[感  想]
今治城内の公園におられます。
小ぶりな胸像で、腰の部分が細くなっている珍しい像です。


矢野 七三郎
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矢野 七三郎像
(愛媛県 今治市 通町 今治城)

撮影日:2013年3月20日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

矢野 七三郎
「愛媛県生涯学習センター愛媛人物博物館ホームページ」から

矢野 七三郎(やの しちさぶろう)
(1855年-1889年)
明治時代の実業家。
安政2年2月生まれ。
明治19年和歌山で紀州ネルの製織技術を研究し、織機をかいいれ、職人をともなって帰郷。
同年愛媛県今治に綿ネル工場を設立、伊予ネルの市場の開拓につとめた。
明治22年12月24日死去。35歳。
伊予(愛媛県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
今治城内の公園におられます。
タオルを右手に持った立ち姿で、七三分けの髪型が特徴的です。


佐藤 栄作
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佐藤 栄作 像
(山口県 熊毛郡田布施町 下田布施 田布施町郷土資料館)

撮影日:2013年3月12日
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

佐藤栄作1961年頃に撮影
1961年頃に撮影

佐藤 栄作(さとう えいさく)
(1901年-1975年)
昭和時代後期の政治家
内閣総理大臣(第61・62・63代)

明治34年3月27日生まれ。
佐藤市郎、岸信介の弟。
運輸次官をへて、昭和23年第2次吉田内閣の官房長官。
翌年、衆議院議員(当選10回)。
25年自由党幹事長となるが、造船疑獄事件で辞任。
のち蔵相、通産相などを歴任し、39年自民党総裁、首相。
7年8ヵ月政権をにない、日韓基本条約を締結し、沖縄返還を実現した。
49年ノーベル平和賞。
昭和50年6月3日死去。74歳。
山口県出身。東京帝大卒。
【格言など】沖縄が祖国に返らなければ、日本の戦後は終らない
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

内閣総理大臣を3期務めた。
総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。
20世紀生まれ初の総理である。
自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。
また、第56・57代内閣総理大臣岸信介の実弟にあたる。
なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。

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アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンと(1972年)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[エピソ-ド]
◎彫りの深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。
その見開いた目で睨みつけられると誰もが戦慄を禁じ得なかったという。
「ギョロ目の睨み」といえば歌舞伎の世界では「市川團十郎」の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった1962年(昭和37年)は團十郎ブームに湧いていた。
佐藤もその恩恵をうけて、ついたあだ名が「政界の團十郎」。
評論家の佐々淳行も著書のなかで「團十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた」と記している。

◎癇癪持ちで、じっと我慢は苦手だったという。
発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。
手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。
寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若い頃主人に殴られたことがある」と洩らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。


◎短気な一面については、長男の龍太郎が父・栄作について「『待ちの政治家』と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...」と述べている。

◎首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。
1972年(昭和47年)に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出て行ったという。

◎自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。
東宮の侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言した時は、「無礼じゃないか! おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた。

◎三木武吉は岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と呆れたように言ったという。

◎田中義一元首相の長男田中龍夫は「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」と述べている。

◎倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記 (全7巻)』が朝日新聞社より、1996年(平成8年)から1997年(平成9年)に刊行された。

◎『佐藤栄作日記』では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが伺い知れる。好まれた一人に宮澤喜一がおり、宮澤の知性を佐藤が評価したためといわれる。一方、政敵河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた(日記にも残忍たげたげしい人が去ったという趣旨の記述がある)。
◎マスコミ嫌いで知られ官房長官時代から社説に酷評されていた。特に朝日新聞を毛嫌いしており日記において名指しで「征伐にかからねばならない」と書かれたことがある他、秘書官を務めていた楠田実に新聞記事や週刊誌の記事に対する抗議を命じ時には楠田自身も板ばさみで悩んでいた様子が楠田の著書や日記に記されている。特に自らの意図と違う報道をされた際には激怒したという。しかし前述の通り、没後に日記は朝日新聞社から刊行された。

◎大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた。但しこれは本心からの発言ではない。佐藤と大野は犬猿の仲で知られ、佐藤は大野には庶民性しか褒めるところがないからそう言ったのだと回想している(これを受けてか横山ノックが佐藤に“栄ちゃん”と呼びかけたことがあるが、これに対して佐藤は非常に不快そうな表情を浮かべたとされる。青島幸男も"栄ちゃん"と呼んだとされるが横山の方が周知されている)。

◎1971年(昭和46年)10月19日の夜半、総理私邸内に若い男の刺客が侵入したが、難を逃れた。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
岸夫婦と同じく夫婦並んで像です。
彫りの深い顔の特徴をよく捉えた像です。
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佐藤栄作遺品展示室には、ノーベル平和賞をはじめ主要な文書、書簡、扁額、愛用の遺品、誠心誠意の国政を記録したパネル等が展示してあります。
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ノーベル平和賞のメダル・沖縄返還記念メダル


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佐藤 寛子
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佐藤 寛子(さとう ひろこ)
(1907年-1987年)
内閣総理大臣佐藤栄作の妻

佐藤一家
夫栄作が鳥栖運輸事務所長時代の佐藤一家
(左から寛子、二男信二、夫栄作、長男龍太郎、母フジエ)

[エピソ-ド]
◎1969年沖縄返還協定調印のため、夫に同行して渡米した際に、ミニスカートを穿いて話題となった。

◎栄作が東京・築地の料亭「新喜楽」で脳卒中発作のため倒れた時、行き届いた治療ができる病院への搬送を勧める医師らの申し出を頑として拒み続けた。
脳卒中は動かしてはならないという俗説をかたくなに信じたからだといわれている。

◎栄作の死後も女性週刊誌の対談等に登場するなど、マスメディアに多く取り上げられた。

◎越路吹雪のファンとしても有名で、越路吹雪後援会長を務めた。
また1975年4月6日放送の「アップダウンクイズ」(ネットチェンジに伴うTBS系での初放送)ではシルエットゲストを務めたほか、晩年までワイドショーなど多くのテレビ番組に出演している。他にも船橋予備校名誉理事長を務めた。

◎著書に「花-追想」、「宰相夫人秘録」(朝日新聞社、文庫でも再刊)等がある。


[感  想]
眼鏡をかけ、着物姿の上半身の像です。
ファーストレディとして活躍されたようです。


岸 信介
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岸 信介 像
(山口県 熊毛郡 田布施町 下田布施 田布施町郷土資料館)

撮影日:2013年3月12日
分 類:政治家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

岸1961
1961年頃に撮影
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

岸 信介(きし のぶすけ)
(1896年-1987年)
昭和時代の官僚、政治家
内閣総理大臣(第56・57代)

明治29年11月13日生まれ。
佐藤栄作の兄。
昭和11年満州国実業部次長、16年東条内閣の商工相となり、戦時経済体制を推進。
17年衆議院議員(当選10回)。
20年A級戦犯容疑で拘留され、23年釈放。
日本民主党、自民党の各幹事長をへて、32年首相。
35年反対運動のなかで日米安保条約改定を強行して総辞職。
その後も保守長老として隠然たる勢力をもちつづけた。
昭和62年8月7日死去。90歳。
山口県出身。東京帝大卒。
旧姓は佐藤。
【格言など】本当の幸福を実現するためには、政治の力こそ最大である
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

岸佐藤
岸信介(左)と官房長官時代の佐藤栄作。
戦犯容疑が晴れて巣鴨プリズンから釈放された岸は、その足で官房長官公邸に弟を訪ねてきた(1948年12月24日)。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[エピソ-ド]
◎総理大臣を退任してからも影響力を行使し、フィクサー、黒幕、「昭和の妖怪」とも呼ばれた。
なお、正力松太郎などとともに中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる

◎岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている。
1度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯容疑で捕まった時、3度目は安保改訂の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時の3度である。

◎戦時中の1945年(昭和20年)、座骨神経痛を病み、郷里山口で保養中だった。
ところが同年鈴木貫太郎内閣で内務大臣になった同郷の安倍源基から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)地方総監府の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い広島にして欲しい」と答えると「広島は昨夜内務省の先輩の大塚惟精を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後広島市への原子爆弾投下で被爆死した。

◎戦後政治史上において吉田茂とは鋭く対立したが、安保改定に当たっては、同条約締結時首相の任にあった吉田に敬意を表し、神奈川県の大磯町の別荘に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという。

◎鳩山一郎内閣時代のソ連との交渉などでは、賛成反対の旗幟をなかなか鮮明にせず、その二股・風見鶏な行動は姓にもじって「両岸」と言われた。

◎岸は内閣総理大臣として3度、通常国会で施政方針演説を行ったが、1957年(昭和32年)の石橋湛山内閣時に内閣総理大臣臨時代理として石橋総理大臣の代役で施政方針演説を行っている。尚、日本国憲法下で内閣総理大臣臨時代理による施政方針演説はこの時の岸信介のみである。

◎晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。

◎公職追放後、一時行方不明との報道がなされた。
その間は、藤本万次郎の出身地である、祝島の藤本家で体力と英気を養い、この際に、岸と藤本の盟友関係は更に深くなり、後年、現職の周東英雄後援会長でありながら、岸、佐藤に懇願され岸の娘婿である落選中の安倍晋太郎後援会長を藤本は引き受け、当選に導くに至った。

岸 記念切手
◎2010年(平成22年)6月23日に日本郵便が発行する「日米安全保障条約改定50周年」記念切手の一種に署名式の岸とアイゼンハワーの姿が描かれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
田布施町郷土資料館2階に夫婦で並んでおられます。
北村西望作で、目や鼻などの特徴がよく捉えられた像です。
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岸信介遺品展示室には、国連平和賞をはじめ各国の勲章、主要な文書、書簡、扁額、愛用の遺品、信念を貫いた生涯を記録したパネル等が展示してあります。
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各国の勲章


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