ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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久坂 玄瑞
久坂1

久坂2

久坂3

久坂4

久坂6
久坂 玄瑞 像
(山口県 萩市江向 萩市中央公園)

撮影日:2016年7月14日
建設年:平成27年
分 類:幕末藩士
作 者:江里 敏明
評 価:☆☆☆☆

久坂 玄瑞
久坂 玄瑞(くさか げんずい)
(1840年-1864年)
幕末の武士

天保11年5月生まれ。久坂玄機の弟。
生家は長門萩藩医。松下村塾にまなび、吉田松陰の妹と結婚。
文久2年高杉晋作らとイギリス公使館を焼き討ちし、3年下関外国船砲撃に参加するなど、
尊攘運動をすすめる。
禁門の変で負傷し、元治元年7月19日自害。25歳。
名は通武。通称は義助。
【格言など】諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎吉田松陰による評
●『久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。』
-安政4年(1857年)12月5日
「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」
●『久坂玄瑞は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。
しかも、その志気を才で運用する人物である。
僕はかねてから長州藩の若手中では、君を第一流の人物であると、つねに、推奨してきた。
今、京都をすぎて江戸にゆこうとしている。
すでに、世の中は大変革する兆候があらわれている。君は僕たち仲間の中心人物である。
僕は、君の出発にあたって、君に非常の言葉を贈りたい。
京都や江戸には、この大変革ととりくむ英雄豪傑が大勢いる。
ゆえに、君は、彼らと大いに論じて、何をし、何をすべきかをはっきり見定めて、日本の
ゆくべき道をあきらかにしてほしい。
それができないで、僕が第一流の人物と推奨してきた言葉を単なる私見におわらせるよう
なこと
があれば、君は、天下の有志に対して、大いに恥ずべきである。』
-安政5年(1858年)2月
「久坂玄瑞の壮行を祝して」
●『僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。
その後、高杉晋作を同志として得た。
晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。
しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。
そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。
そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、晋作の学業は大いに進
み、議論もいよいよすぐれ、皆もそれを認めるようになった。
玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、晋作を推すようになっ
た。晋作も率直に玄瑞の才は当世に比べるものがないと言い始め、二人はお互いに学びあ
うようになった。
僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発し
たものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはない
と思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。
晋作よ、世に才のある人は多い。
しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。』
-安政5年(1858年)7月
「高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞」

◎西郷隆盛による評
お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られ
ませんがなア。
-「明治維新後、木戸孝允に対して」
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

【銅 像】
久坂玄瑞進撃像
▽設置場所 中央公園(江向)の平安古・萩城城下町側
▽銅像本体の高さ 約1.8m(台座を含めた高さは約3m)
▽銅像制作者   江里敏明(日展審査員、京都市在住 萩城跡の毛利輝元公銅像、
晋作広場の高杉晋作立志像を制作)
「ぶらり萩あるきホームページ」から

[感  想]
萩市の中央公園広場におられます。
久坂5
尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の像で、右手を上げて力強く東を指す、りりしい立ち姿です。

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金子みすず 3
金子みすず (1)

金子みすず (4)

金子みすず (6)

金子みすず (5)
金子みすず 像 3
(山口県 長門市仙崎 みすず通り)

撮影日:2016年7月14日
建設年:平成27年
分 類:その他
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

『金子みすゞブロンズ像 長門で除幕 長女・ふさえさんら参加 /山口』
童謡詩人・金子みすゞ(1903~30)のブロンズ像が長門市仙崎のみすゞ通りの一角に設置
され、8日、設置に関わった実行委員会のメンバーや近くの園児ら約100人が参加して
除幕式をした。
ブロンズ像は、岩国市出身でもある東京造形大学の小川幸造教授の提案を受け、金子みすゞ
顕彰会(木下敬介理事長)が昨年1月に実行委員会を発足。全国のみすゞファンなどに呼
びかけ、407人から940万円を集めた。
ブロンズ像は、金子みすゞ記念館から北側のみすゞ通りの市有地に設置。
台座(高さ110センチ)の上に全身像(同170センチ)が立つ。
像の題字は安倍晋三首相が揮毫した。
除幕式には、安倍昭恵首相夫人や同記念館の矢崎節夫館長らが参加。
園児が風船を飛ばして祝った。
制作した小川教授は「詩を何度も読み返しみすゞさんらしさを出すのに苦労しました」と
エピソードを語った。
金子みすゞの長女・上村ふさえさん(89)は「胸がいっぱいで涙が出てきました。母は
私が3歳の時に亡くなっており記憶はありませんが、大変喜んでいると思います」と話し
た。【川上敏文】
〔山口版〕毎日新聞2015年12月9日 地方版

[感  想]
みすず通りの一角におられます。
金子みすず (2)
作者の小川さんによると、像は18歳の頃のみすゞさんで、無垢で純情で純粋で温かい
彼女のイメージを表現されたそうです。
等身大の全身像で、指の先をくっつけたかわいい仕草の像です。
金子みすず (3)
代表作「私と小鳥とすずと」の石碑も設置してあります。
台座には、“みんなちがってみんないい”

金子 みすず 2
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金子 みすず 像 2
(山口県 長門市 仙崎)

撮影日:2012年2月19日
建設年:平成15年
分 類:詩人
評 価:☆☆

[感  想]
金子みすず記念館の中庭におられます。
白い大理石の小振りな像です。
着物を着て詩を書いている姿が印象的です。

金子 みすず 1
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金子 みすず 像 1
(山口県 長門市 仙崎)

撮影日:2007年8月13日
分 類:童謡詩人
評 価:☆☆☆

金子みすず
金子みすゞ肖像(提供:金子みすゞ著作保存会)
山口県ホームページ「ふるさとの文学者63人」から

金子 みすゞ(かねこ みすず)
(1903年-1930年)
大正-昭和時代前期の童謡詩人

明治36年4月11日生まれ。
大正12年から「童話」「金の星」などに童謡を投稿し,西条八十にみとめられる。
「大漁」「繭(まゆ)と墓」「夢売り」などの作品を発表したが,夫に反対されて筆をたった。
離婚ののち,昭和5年3月10日自殺。28歳。
57年矢崎節夫により遺稿512編が発見され,「金子みすゞ全集」として出版された。
山口県出身。大津高女卒。
本名はテル。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「作品」
代表作には「わたしと小鳥とすずと」や「大漁」などがある。
仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。
鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。
金子みすゞは鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている。
自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集
の原点とも言われ、「お魚」「大漁」などに繋がっている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
長門市は、金子みすずが生まれ育ったまち。
近年は、みすず関係の記念館や公園などいろいろ整備されています。
銅像は、「大漁」の詩碑の前にあります。
ふくよかな顔立ちが印象的です。

和泉式部 
和泉 (1)

和泉 (2)

和泉 (4)
和泉式部 像
(佐賀県 嬉野市塩田町 和泉式部公園)

撮影日:2016年3月28日
建設年:平成7年
分 類:歌人
作 者:橋本 次郎
評 価:☆☆☆

和泉式部
和泉式部(いずみしきぶ)
生没年不詳
平安中期の女流歌人

越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。
和泉式部は女房名で、江式部、式部などとも呼ばれた。
すぐれた抒情歌人として知られ、「和泉式部集」正・続1500余首の歌を残し、「和泉式部日記」の作者として名高い。「後拾遺集」をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。
式部の父は、朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に、太皇太后宮大進として仕え、母も同内親王に仕えていたから、式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。
「世界大百科事典 第2版の解説」から

恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。
また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。
真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛された。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

『和泉式部公園』
平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。
その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています。
「一般社団法人 佐賀県観光連盟ホームページ」から

[感  想]
和泉式部公園におられます。
和泉 (3)

十二単衣を着て、扇子を持った立ち姿で、高さ5mの巨大な像です。
和泉 (5)

和泉 (6)
両側に和泉式部の歌碑が有ります。
現代人っぽい美人の顔立ちだと思いました。

鍋島 茂義
なべしま (2)

なべしま (3)

なべしま (4)

なべしま (5)
鍋島 茂義 像
(佐賀県 武雄市武雄町 武雄市文化会館庭園)

撮影日:2016年3月28日
建設年:平成3年
分 類:武士
作 者:武藤 三男
評 価:☆☆☆

sigeyosi02.jpg
鍋島 茂義(なべしま しげよし)
(1800年-1863年) 
江戸時代後期の武士

寛政12年10月25日生まれ。肥前佐賀藩家老。
天和3年同藩武雄領主となる。
高島秋帆に洋式砲術をまなび、領内でモルテ-ル(臼砲)を鋳造。のち藩砲術師範となり、軍備の近代化につくした。
文久2年11月27日死去。63歳。
別名は紀義。通称は十左衛門。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

なべしま (6)

『茂義の科学研究』
武雄には現在も138冊の蘭書コレクションや、地球儀や天球儀、測量器具や時計、薬品などの輸入物品が残されているが、これは茂義の時期にオランダから購入されたものである。
それに加えて、武雄では、天保年間、塚崎城(武雄領主の館、現武雄高校)で理化学実験用シリンダーなどのガラス製品や、蘭引(蒸留装置)や乳鉢、乳棒などの磁器が製造されている。
茂義やその家臣は、これらの実験器具を用いて理化学実験を行っており、特に、火薬や雷管の研究を行っていたと言われる。
佐賀藩では、嘉永4年(1851年)に精煉方(理化学研究所)を設け、本格的に理化学研究に取り組むが、このような武雄領の研究結果は、その際、大いに参考にされたものと思われる。
また、嘉永7年(1854年)に、茂義は斉正から精煉方における蒸気船建造の責任者に任命されるが、これも茂義がすでに蒸気機関についての知識を有していた表れと考えられる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

武雄鍋島邸の庭園(現在の武雄市文化会館)
江戸時代、武雄鍋島家の屋敷は、武雄のシンボル御船山の北麓にあった。1868(慶応4)年に、この屋敷が火災で焼失したため、別邸に移った。
別邸跡は現在、武雄市文化会館となっているが、庭園は残されている。
武雄領主第28代鍋島茂義によって造られた、九州屈指の庭園。
写真右手に武雄への蘭学導入に功績のあった鍋島茂義の像、左手には、多くの貴重かつ膨大な資料が保管されていた蔵が見える

[感  想]
武雄市文化会館庭園におられます。
なべしま (1)
本を左手に、扇子を右手に持った立ち姿です。
研究熱心だった姿をよく現しています。

鍋島 直彬 2
鍋島2 (4)

鍋島2 (1)
鍋島 直彬 像2
(佐賀県 鹿島市大字高津原 佐賀県立鹿島高等学校)

撮影日:2016年3月27日
分 類:大名、華族
作 者:雨宮 治郎
評 価:☆☆☆

[感  想]
佐賀県立鹿島高等学校の敷地内におられます。
鍋島2 (2)

鍋島2 (3)
ここは、旭ヶ岡公園に隣接する旧鹿島鍋島藩の鹿島城跡で、その城門(赤門)は現在も校門として使用されいます。
1の像と同じと思われますが、こちらは小ぶりで、穏やかな感じがします。

鍋島 直彬 1
鍋島1 (2)

鍋島1 (3)

鍋島1 (4)

鍋島1 (5)
鍋島 直彬 像1
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和44年
分 類:大名、華族
作 者:雨宮 治郎
評 価:☆☆☆

鍋島 直彬1

nabeshima02.jpg
鍋島 直彬(なべしま なおよし)
(1844年-1915年)
幕末-大正時代の大名、華族

天保14年12月11日生まれ。
鍋島直永の長男。嘉永元年肥前鹿島藩(佐賀県)藩主鍋島家11代となる。
文久3年本藩の佐賀藩主鍋島閑叟の代理で京都にはいり、公武合体を進言した。
維新後、初代沖縄県令、貴族院議員。子爵。
学校をつくり育英事業につくす。
大正4年6月14日死去。73歳。幼名は熊次郎。号は絅堂(けいどう)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
モーニングコートを着用している全身像で、かなり大きく圧倒されます。
鍋島1 (1)
鹿島の街を見守っておられます。

松尾 静磨
松尾 (2)

松尾 (4)

松尾 (3)
松尾 静磨 像
(佐賀県 武雄市若木町大字川古)

撮影日:2016年3月28日
建設年:昭和51年(平成15年移設)
分 類:官僚
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

松尾 静磨
松尾 静磨(まつお しずま)
(1903年-1972年)
昭和時代の官僚、経営者

明治36年2月17日生まれ。
東京瓦斯(ガス)電気から逓信省にうつり、大阪飛行場長、航空局次長をつとめる。
昭和24年航空保安庁初代長官。26年日本航空の設立で専務、36年社長、46年会長となる。
安全運航のための整備を重視し、現場主義を説いた。
昭和47年12月31日死去。69歳。
佐賀県出身。九州帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

九州最大のゼネコン松尾建設会長で、弘学館中学校・高等学校を創設した松尾幹夫は甥にあたる。御巣鷹の尾根での日本航空123便墜落事故を主題にした山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』に登場する名経営者「桧山社長」のモデルとも言われる。

『語 録』
臆病者と言われる勇気を持て。安全航行こそ、最大の使命であり、責任である。 臆病者と言われるのを恐れないと言われることも多い。
企業というものは社長一人が優れていても、たいしたことではないんです。全社員がそれぞれの能力を十分に発揮できるような、一人一人が気持ちよく働けるような職場づくりをしなければ業績は上がりません。 ワンマン経営を批判した発言としてよく引用される。
… 祖先のこころうけついだ この空この地このからだ はえあるその名 若木のように 希望明るく手をとって つくるよい郷(さと)よい日本 母校・武雄市立若木小学校の校歌の締めくくり部。57歳の時に頼まれて作詞したもので、日本の未来を託す子供たちに寄せる靜磨の温かい期待があふれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
若木公民館近くにおられます。
松尾 (1)
上半身の像で、彫りの深い顔立ちと口髭が印象的です。

田中 鐵三郎
田中 (5)

田中 (1)

田中 (6)
田中 鐵三郎 像
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和43年
分 類:財界人
評 価:☆☆☆

田中 鐵三郎(たなか てつさぶろう)
(1883年-1974年)
大正-昭和時代の銀行家
明治16年1月20日生まれ。
大蔵省から日銀にうつり、第一次大戦中ヨ-ロッパ駐在員をつとめる。
日銀理事、満州中央銀行総裁をへて昭和17年朝鮮銀行総裁。
戦後は日本海外移住振興社長、日本外交協会会長。
昭和49年12月2日死去。91歳。佐賀県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

田中 (2)

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
田中 (3)

上半身の像で、鼻の下の髭が特徴的です。

愛野 興一郎
愛野興 (3)

愛野興 (4)

愛野興 (5)

愛野興 (2)
愛野 興一郎 像
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:平成17年
分 類:政治家
作 者:高岡鋳芸社
評 価:☆☆☆

愛野 興一郎(あいの こういちろう)
(1928年-1998年)
実業家・政治家
父は実業家で元衆議院議員の愛野時一郎。

愛野興 (6)

衆院議員(民政党)、元・経済企画庁長官
経歴民政党代議士だった父の跡を継ぎ、農協組合長、県議。
昭和47年自民党から衆院議員に当選。
外務政務次官、総理府総務副長官、衆院文教委員長を経て、平成元年竹下改造内閣の経済企画庁長官に就任。
竹下派、羽田派、5年6月新生党を経て、6年新進党、10年1月国民の声結成に参加。
9期務めた。
平成10年3月20日死去。
佐賀県鹿島市出身。中央大学法学部卒
家族父=愛野 時一郎(衆院議員) 弟=福岡 政文(佐賀日産社長) 愛野 克明(東日本観光バス社長) 愛野 孝志(愛野耳鼻咽喉科院長)
「政治家人名事典 明治~昭和の解説」から

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
愛野興 (1)
上半身の像で、丸い顔が特徴的です。

愛野 時一郎
愛野時一郎 (7)

愛野時一郎 (3)

愛野時一郎 (4)

愛野時一郎 (2)
愛野 時一郎 像
(佐賀県 鹿島市古枝 祐徳博物館近く)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和43年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

愛野 時一郎(あいの ときいちろう)
(1900年-1952年)
大正-昭和時代の実業家・政治家

明治33年2月19日生まれ。
佐賀県農業会初代理事長、佐賀米穀取引所理事長などを歴任。
祐徳自動車、東日本観光バス社長をつとめた。
昭和11年衆議院議員(当選4回、改進党)。
昭和27年12月31日死去。52歳。佐賀県出身。中央大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
祐徳稲荷神社敷地の祐徳博物館近くにおられます。
愛野時一郎 (1)
上半身の像で、祐徳稲荷神社をじっと見守っておられます。

愛野時一郎 (6)

太田 道灌 3
太田道灌 (3)

太田道灌 (1)

太田道灌 (7)

太田道灌 (4)

太田道灌 (6)
太田 道灌 像 3 
(東京都 荒川区西日暮里 JR日暮里駅東口)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成元年
分 類:武将
作 者:橋本 活道
評 価:☆☆☆☆

DSCN0481.jpg

太田道灌は室町時代の武将で、武人としてのみならず文化人としても多くの足跡を残しま
した。
今回紹介する銅像は、JR日暮里駅の駅前ロ-タリ-にあります。
円柱状の台座がついた高さ約8mの騎馬像で、都内の道灌像としては最大のものです。
僧侶でもある彫刻家・橋本活道氏(北村西望の弟子でもあります)の製作で、狩衣装束で
右手は手綱、左手は弓を持って高く掲げ非常に躍動感があります。
獲物を射た道灌が、同行者に誇らしげな顔を見せた瞬間、というイメ-ジでしょうか。
有名な山吹伝説は、狩りの際に雨に降られた道灌が農家に立ち寄った際のエピソ-ドなの
で、それを考えると像の姿は和歌への精進を決意するきっかけとなった出来事へと繋がる、
まだ武人らしさ全開だった道灌の雄姿とも思えます。
設置は1989年で、東京荒川ライオンズクラブ会員有志による寄贈で、寄贈者名と東京都知
事・鈴木俊一氏による書が刻印された石板も設置されています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
JR日暮里駅前におられます。
太田道灌 (5)
弓を高く掲げた躍動感あふれる騎馬像です。

太田 道灌 2
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太田 道灌 像2
(東京都 新宿区 西新宿 新宿中央公園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和53年
分 類:武将
作 者:山本 豊市
評 価:☆☆☆

◆「山吹伝説」
太田道灌には数多くのエピソードがありますが、その中でも特に有名なのが“山吹”の伝説です。
道灌はある日、鷹狩りに出かけた際に急な雨に降られ、一軒の民家に立ち寄ります。家にいた若い女性に「蓑を貸して欲しい」と頼んだところ、女性は黙って山吹の花を一輪差し出しましたが、道灌は「花を求めたのではない」と憤慨します。
このことを後日語ると、歌道に明るい近臣がこう語ります。
「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」(醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王)という歌の“みの”を蓑にかけ、山吹の花を示すことで貧しくて用立てられないことを言いたかったのではないか、と。
貧しい庶民といえど和歌に親しみ、その心を知るのに自分はなんと不明ではないか、と大いに恥じた道灌は歌道に精進したというものです。
このエピソードをそのまま描いた銅像が、新宿中央公園内にあります。
像は「久遠の像」と呼ばれ、彫刻家・山本豊市の製作。
女性が道灌に山吹の枝を差し出すというそのものズバリのシーンを描いています。
像の周囲には八重の山吹も植えられており、花が咲く4月下旬頃は、山吹の花とともに像も“見頃”となります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
新宿中央公園に行きましたが、案内板にも表示が無く、かなり探しまわって端の方に有るのをやっと見つけました。
「山吹伝説」を再現した像です。
東京フォーラムにある像に比べ、なんとなく丸っこい感じがします。

太田 道灌 1
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太田 道灌 像 1
(東京都 千代田区 丸の内 東京国際フォーラム内)

撮影日:2007年6月5日
分 類:武将(室町時代)
評 価:☆☆☆

太田 道灌
太田 道灌
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

太田 道灌(おおた どうかん)
(1432年-1486年)
室町時代の武将
江戸城を築城した武将として有名

永享4年生まれ。
太田資清の子。
康正元年家督をつぎ,上杉定正の家宰となる。
3年江戸城を完成させ,居城とする。
文明8年におきた長尾景春の乱を12年に鎮定。
軍法師範と称され,また歌人としても知られ,万里集九らとまじわった。
文明18年7月26日定正に暗殺された。55歳。
相模(神奈川県)出身。幼名は鶴千代。名は資長。通称は源六郎。
【格言など】かかる時さこそ命の惜しからめかねてなき身と思ひしらずば(「常山紀談」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎山吹伝説
道灌が父を尋ねて越生の地に来た。
突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。
その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。
道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。
後でこの話を家臣にしたこところ、
それは後拾遺和歌集の
「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(みの)一つだに なきぞ悲しき」
の兼明親王の歌に掛けて、
家が貧しく蓑(みの)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。
古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだという。

◎謀反鎮圧
あるとき、道灌の家臣が謀反を起こして館に立てこもった。
道灌は兵士を差し向け、突入時に後方から「あの者は殺すな」と叫んだ。
すると謀反した家臣はもしかして自分だけ助かるのではないかと思い、剣先が鈍くなり、全て討たれてしまった。

◎将軍の猿
将軍足利義政は一匹の猿を飼っていた。
この猿は御所に参内する大名たちに飛びかかって引っ掻き、大名たちは難渋していたが、将軍の猿のために苦情も言えなかった。
太田道灌が上洛して御所に参り、猿はいつものように飛びかかろうとするが、道灌がにらみつけると怯えて縮こまってしまった。
大名たちは道灌の威に驚いた。
道灌は上洛するとこの猿のことを知り、猿師に賂を渡して猿をしたたかに打ちすえておいたのである。
そのため、猿は道灌に睨みつけられると怯えてしまった。
大名たちはこれを知り道灌の知恵にさらに驚いた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅  像]
この像は、ここに都庁舎があった昭和33年、当地に設置され、長らく都庁のシンボルの一つとして親しまれてきました。
都庁の移転後、ここが東京国際フォーラムとして新たに生まれ変わったことに伴い、平成8年5月、ゆかりの深いこの地に復帰することになり、以前と同様に、居城であった旧江戸城(皇居)を望んでいるそうです。

[感  想]
東京国際フォーラムの建物内に有ります。
弓矢を持った姿は、堂々としています。


千代の富士
千代の富士1

千代の富士 2

千代の富士3

千代の富士 4

千代の富士5
千代の富士 像
(東京都 台東区谷中 玉林寺)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成23年
分 類:力士
作 者:小張 隆男
評 価:☆☆☆

千代の富士
千代の富士貢(ちよのふじみつぐ)
(1955年-2016年)
昭和後期-平成時代の力士

昭和30年6月1日生まれ。
昭和45年九重部屋に入門。50年入幕。
ウルフとよばれ、右まわしをひきつけての速攻相撲で昇進し、56年58代横綱となる。
昭和63年53連勝を記録。平成3年引退。
通算1045勝は史上最多。優勝31回は大鵬の32回につぐ。平成4年九重部屋をつぐ。
平成元年国民栄誉賞受賞。20年日本相撲協会理事。北海道出身。本名は秋元貢。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

千代の富士1

[エピソ-ド]
◎岳父は玄洋社記念館館長、玄洋ビル社長を務めた進藤龍生。
夫人は進藤喜平太(第2代・第5代玄洋社社長)の曾孫で、進藤一馬(第十代玄洋社社長、元福岡市長)の姪孫。
次女はファッションモデルの秋元梢で、他に長男の秋元剛と長女の秋元優(梢の兄と姉)も同じくファッションモデルとして活動している。
◎次女はモデル・タレントの秋元梢。秋元はモデルとして成功するまで父が千代の富士である事を公表していなかったが、専属モデルや広告モデルに起用されるようになってからバラエティ-で公表し、「二世タレント」としてバラエティ-などに出演しているが、相撲を知らずさらに千代の富士の現役時代を知らない世代が中心の環境であり、千代の富士自身もバラエティ-に出演があまりないため、ほとんど実力で芸能活動をしている。
なお、1988年5月場所に千代の富士が23回目の幕内優勝を果たし、千代の富士が天皇賜杯を抱いての記念撮影を行う際には賜杯と共に当時生後10か月の秋元を抱いて記念撮影を行った。
◎尊敬する力士として貴ノ花を名を挙げている。新入幕後に十両から幕下で低迷してしまいやけになって煙草の本数が増え、一時は1日3箱も吸うヘビ-スモ-カ-となってしまったが、貴ノ花から禁煙を勧められたことに「尊敬していた大関がそんなに自分の事を心配してくれているのか」と感激し、50万円のダンヒルの金のライタ-を隅田川に投げ捨て、さらに飴玉を使って禁煙を遂げた。これがきっかけで体重が増え、後の横綱昇進に繋がる。

◎その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg、体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。
幕内から大関、横綱へ一気に昇進してからは絶大な人気を誇った。

現役引退
◎横綱昇進が決まった日の夜、九重は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士はこの言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは、栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山に語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。

◎1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった貴花田と千代の富士の初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退も頭をちかつかせる程だったが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日がんばれよ」と言った。このために気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまい、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時、千代の富士と共に九重も思わず二人で男泣きしたという。

◎千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュ-スを放送していた。しかし夜になって、千代の富士自ら九重部屋にて突如引退会見を行うことになったため急遽ニュ-スを中断、駆け付けた大勢のマスコミ陣の前で会見の生中継を行った。
この際千代の富士は「長い間、本当に皆様には、大変お世話になりました。まああの月並みの、引退ですが…」と語ったその後、言葉に詰まらせながら目を赤くして、「体力の限界…気力も無くなり、引退することになりました…以上です。」
と振り絞るようにコメント、記者陣の目の前でハンカチで涙を拭っていた。
後年千代の富士が自ら語ったところによると、1991年5月場所3日目の夜に九重から「明日、発表しよう」と言われたがその日の夜に『サザエさん』を見ていた際に額の上に自身の引退を報じる速報が確認され、そうして慌てて会見に臨んだという。
尚丁度20年前の1971年5月14日には、大鵬も当時新鋭だった貴ノ花に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。
ちなみに、千代の富士が幕内初優勝を果たした1981年1月場所は、奇しくも貴ノ花が現役引退を表明した場所でもあった。

◎引退相撲が行われた1992年2月1日はTBSで放送され、最後の横綱土俵入りでは露払いに引退直後の旭富士、太刀持ちには弟弟子の北勝海の両横綱を従えた。大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。

◎ロンドンにある蝋人形館、マダム・タッソ-では最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。
ウルフと呼ばれていたことなどが記されていた。
現在はデックス東京ビ-チ内にあるマダム・タッソ-東京で展示されている。

その他
◎角界屈指のゴルフ好きで知られるが、元々は趣味としていなかった。休みの日は麻雀やファミリ-コンピュ-タに夢中の彼に対して、九重が「健康的な休みを取らないとダメだ」と無理やりゴルフに連れて行ったことがきっかけだった。しかし初めてのゴルフのハ-フで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かったことに「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」とすっかり上
機嫌になって九重のメンツは丸つぶれ、以後ゴルフにのめり込んだ。

◎ゴルフの他にもジグソ-パズルを趣味としていた時期もあった。1986年4月から8カ月をかけて5146ピ-スもある古い世界地図が描かれたパズルを完成させたという。これが良い気分転換となってか千代の富士の土俵人生は絶頂期に突入し、特に1987年1月場所の辺りで最後の1ピ-スをはめて完成させた頃の相撲を見た当時の春日野理事長は「この相撲なら2、3年は大丈夫だな」と
語ったそうだが、実際に引退に至ったのは4年後の1991年5月場所であった。

◎横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ)には1985 - 1987年まで3回、特別ゲストとして番組オ-プニングからエンディングまで出演している。
これは当時の同番組司会者であり、千代の富士・九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演だったと言われている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

【銅 像】
●千代の富士の銅像が横綱千代の山・千代の富士記念館(北海道福島町)、
九重部屋玄関前(東京都墨田区)、
玉林寺(東京都台東区)
の3箇所に建立されている。
●出身地や卒業した小学校とも千代の山と同じで、これは非常に珍しいケ-スで他に例がない。
故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館があり、千代の山と千代の富士の土俵入りの様子をモデルにした銅像がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
玉林寺の境内におられます。
千代の富士6
右手に刀を持った、堂々とした立ち姿で、強かった横綱の雰囲気がよく出ています。

徳川 好敏
徳川 (3)

徳川 (5)

徳川 (4)

徳川 (1)
徳川 好敏 像
(東京都 渋谷区代々木神園町 代々木公園 航空発祥之地)

撮影日:2016年2月29日
建設年:昭和39年
分 類:軍人
作 者:市橋 敏雄
評 価:☆☆☆

徳川 好敏

Tokugawa_Yoshitoshi.jpg
飛行機を操縦する徳川好敏
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
徳川 好敏(とくがわ よしとし)
(1884年-1963年)
明治-昭和時代の軍人、飛行家

明治17年7月24日生まれ。
43年12月19日、東京代々木の練兵場でファルマン複葉機を操縦、グラ-デ単葉機にのっ
た日野熊蔵とともに日本初の公開飛行に成功。
以後、明野、所沢の各飛行学校長、航空兵団司令官、航空士官学校長を歴任した。
昭和10年陸軍中将。
昭和38年4月17日死去。78歳。東京出身。陸軍士官学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

■徳川好敏は、明治から昭和にかけて、日本の航空分野の発展のために尽力した軍人です。
徳川御三卿の清水徳川家第7代当主・徳川篤守の長男として誕生。
高等師範学校附属の小、中学校(現在の筑波附属小・中学校)で学んだのち、陸軍士官学
校を経て明治42年(1909)に陸軍工兵大尉となります。
翌明治43年、好敏は陸軍の命により日野熊蔵歩兵少尉とともに操縦技術習得と、機体購入
のためフランスに派遣されて専門教育を受けます。
当時、ヨ-ロッパでは航空機の発達が著しかったためです。
日本人初の操縦士資格を得たのちに帰国。
同年12月19日、代々木練兵場(現在の代々木公園)にて、会式一号機(アンリ・ファル
マン複葉機)を駆って日本初の航空機動力飛行(高度約70メ-トル、距離約3000メ-ト
ル)に成功しました。
明治44年に完成した日本初の航空機専用飛行場である陸軍所沢飛行場(現在は所沢航空記
念公園)でも、その完成を記念した展示飛行を行っています。
その後も一貫して航空畑を歩み続け、航空兵科が独立したのちは工兵科から転じて後進の育成に力を注ぎます。
一時期現役を離れるものの、終戦時には陸軍航空士官学校長の座にありました。
最終階級は陸軍中将で、長年の功績を賞されて昭和3年(1928)には男爵の爵位も得てい
ます。昭和38年(1963)没。
銅像は代々木公園内にあり、園内順路より少し外れた木々に囲まれた場所にあります。
鳥が翼を広げた姿を意匠にした「日本航空発始之地」の記念碑(昭和15年建立)があり、
その近くに日野熊蔵の像と共に建てられています。
製作発起は航空同人会で、昭和39年に除幕。
製作は鋳金家・市橋敏雄の手によります。
初飛行以後も一貫して航空発展に尽力した徳川好敏だけに、その姿は飛行服・飛行帽着用で描かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
日本初飛行の地である代々木公園におられます。
徳川 (2)

徳川 (6)
飛行服と飛行帽を着用した上半身の像です。

日野 熊蔵
日野 (1)

日野 (2)

日野 (3)

日野 (4)
日野 熊蔵 像
(東京都 渋谷区代々木神園町 代々木公園 航空発祥之地)

撮影日:2016年2月29日
建設年:昭和49年
分 類:軍人
作 者:小金丸 幾久
評 価:☆☆☆

日野 熊蔵

日野 熊蔵2
日野 熊蔵(ひの くまぞう)
(1878年-1946年)
明治-大正時代の軍人

明治11年6月9日生まれ。
43年陸軍大尉のときドイツで飛行機の操縦術をまなび、グラーデ単葉機を購入して帰国。
同年12月19日東京代々木練兵場で徳川好敏(よしとし)と日本最初の公開飛行に成功した。
大正5年陸軍中佐。
昭和21年1月15日死去。69歳。熊本県出身。陸軍士官学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

■日野熊蔵は、明治から昭和にかけて活躍した軍人・航空技術者です。
明治11年(1878)に旧相良藩士の子として熊本県で生まれ、成長して陸軍士官学校に進み
ます。
卒業後は陸軍歩兵科に属し、技術審査部で兵器研究も手掛けています。
明治43年には徳川好敏工兵大尉とともにフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ
校で学びますが、航空機の買い付けは不調に終わり、熊蔵は単身ドイツと交渉してグラ-
デ単葉機を購入して帰国します。
明治43年12月19日、熊蔵は徳川好敏とともに日本初の動力飛行に挑みます。
彼の乗機は自ら買い付けたグラ-デ単葉機で、自重・エンジン出力ともアンリ・ファルマ
ン機の半分とコンパクトな機体(操縦席は降着車輪架兼用式で主翼直下に懸吊され、地面
すれすれの低位置でした)で約1000メ-トルの距離を飛行。
10万人以上といわれた観客の喝采を浴びました。
その後は、自らの設計による日野式飛行機の開発を行うなど技術開発の分野に力を注ぎ、
操縦装置など航空機関係の技術のほか、日野式拳銃に代表される銃器設計にも特許取得の
実績を残しました。
最終階級は陸軍歩兵中佐で、退役後は困窮と自身の大病との戦いの中で技術開発に挑んで
います。昭和21年(1946)没。
なお、地元熊本では、日本初の動力飛行の偉業達成100周年を記念して、ドキュメンタリ
―ドラマの制作などの記念事業が行われているそうです。
銅像は代々木公園内にあります。「日本航空発始之地」の記念碑の近くに、徳川好敏の像と
並んで建てられています。航空五〇会の発起で昭和49年に建立。
長崎県出身の彫刻家・小金丸幾久の製作で、退役が40歳と早く、技術開発の多くを民間人として行っていたこともあり、洋装(ス-ツ)の姿で描かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から
日野 (5)

[感  想]
日本初飛行の地である代々木公園におられます。
日野 (6)
スーツ姿の上半身の像で、徳川好敏像と並んで建っています。


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東郷 平八郎 3
東郷 (2)

東郷 (3)

東郷 (4)
東郷 平八郎 像 3
(東京都 渋谷区神宮前 東郷神社社務所)

撮影日:2016年2月29日
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

[感  想]
東郷神社の社務所におられます。
東郷 (1)
サーベルを左手に持ち、帽子を脱いで右手に持った立ち姿の小ぶりな像です。

東郷 平八郎 2
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東郷 平八郎 像 2
(岡山県 倉敷市 鶴形)

撮影日:2014年9月14日
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

[感  想]
鳥居と小さい社の間におられます。
後ろに二宮金次郎像があり、乃木希典ではと思われる石像と向かい合っている珍しい風景の中にあります。
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右手に双眼鏡、左手にサーベルを持った、立ち姿で、連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる姿を表わしたものだと思われます。


東郷 平八郎 1
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東郷 平八郎 像 1
(鹿児島県 鹿児島市 清水町 多賀山公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和32年
分 類:軍人
作 者:雨田 光平
評 価:☆☆☆☆

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出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

東郷1
「近代日本人の肖像」から

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう)
(1848年-1934年)
明治-大正時代の軍人

弘化4年12月22日生まれ。
もと薩摩鹿児島藩士。
維新後イギリスに留学。
日清戦争では浪速(なにわ)艦長。
日露戦争では連合艦隊司令長官として、旅順港封鎖作戦、日本海海戦を指揮。
バルチック艦隊を撃滅し、「東洋のネルソン」と称された。
海軍大将、元帥。
昭和9年5月30日死去。88歳。
名は実良。
【格言など】
皇国の興廃この一戦にあり各員いっそう奮励努力せよ(バルチック艦隊との交戦にあたり)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎イギリス留学
留学時の東郷(1877年)明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポ-ツマスに官費留学する。
東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。
イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。
大久保の後西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。東郷の才能を軍人にあると見込んだ西郷の人物眼の確かさをも物語るものであろう。
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留学時の東郷(1877年)

◎日露戦争
明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。
6月6日には大将に昇進する。
そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨ-ロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキ-提督率いるロシアのバルチック艦隊を迎撃する。
この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。
本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。
また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。
各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。
東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・タ-ン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。
この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。
その年に同国で生まれた子供たちの中には、ト-ゴ-と名づけられる者もおり、また「ト-ゴ-通り」と名付けられた通りもあった。
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷、1905年

◎太平洋戦争時のアメリカ海軍の諸提督の多くは、若き日に東郷と接した事もあり東郷を英雄として崇拝していた。
特にチェスタ-・ニミッツは太平洋戦争でアメリカに勝利をもたらしたことで、「ト-ゴ-の血筋はヤマモト(山本五十六)ではなく、ニミッツへと受け継がれた」とも表現された。
ニミッツ本人も東郷への英雄崇拝の念が非常に強く、若い頃来日して東郷と出逢い、話した時の感激を生涯忘れることはなかったという。

◎第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。
戦後、戦艦三笠は荒れ果て、アメリカ軍人のため娯楽施設「キャバレ-・ト-ゴ-」や水族館が設置さたり、上部構造物はおろか取り外せそうな金属類は機関部に至るまで全て盗まれ、チ-ク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされるなど荒廃していた。
ニミッツはその姿を憂い本を著して売り上げを寄付するなどして、東郷と若い頃への思いを込めて三笠の復興と保存に協力した。

◎一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。
晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」と発言し、陸軍大将であり、諧謔のセンスの乏しい乃木希典院長を激昂させ、同時に半ば呆れさせたというエピソ-ドがある。

◎日本海海戦時カ-ル・ツァイスの双眼鏡を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。
この双眼鏡は発売されて間もない明治37年(1904年)に小西屋六兵衛店(現コニカミノルタホ-ルディングス)が輸入したもの。
現在は三笠記念館に収蔵されている。

◎平成22年(2010年)2月16日に放送されたテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」には、東郷平八郎が大正天皇から下賜されたという刀が出品され、鑑定額は5000万円と評価された。

◎東郷の郵便切手
逓信省(現在の日本郵便)が1937年(昭和12年)に発行した普通切手のうち、当時の封書基本料金用の4銭切手に東郷の肖像が使われている。
その後、郵便料金の改定に伴い5銭と7銭の額面の切手が発行されている。
4銭(1937年発行)
4銭(1937年発行)

5銭
5銭(1942年発行)

7銭(1944年発行)
7銭(1944年発行)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
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小高い山も上にある多賀山公園を狭い階段を上っていった高い所におられます。

軍服姿で、左手にサ-ベル右手に帽子を持ち、正面を見据えた立ち姿です。
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じっと錦江湾と桜島を見つめておられます。

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桜島から上る朝日がきれいでした。
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公園内には、お墓も有ります。




岸 清一 2
岸 (4)

岸 (5)

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岸 清一 像 2
(東京都 渋谷区神南 岸記念体育会館)

撮影日:2016年2月29日
建設年:昭和39年
分 類:弁護士、スポ-ツ功労者
作 者:西田 明史
評 価:☆☆☆

岸 清一(きし せいいち)
(1867年-1933年)
明治-昭和時代前期の弁護士、スポ-ツ功労者
日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。

慶応3年7月4日生まれ。帝国大学在学中ボ-ト選手として活躍。
卒業後弁護士となり、民事訴訟法の権威として知られる。
大日本体育協会会長、IOC委員もつとめた。
昭和8年10月29日死去。67歳。
遺志による寄付金をもとに岸記念体育館がたてられた。出雲(島根県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[岸記念体育会館]
第2代大日本体育協会会長・岸清一の遺言により100万円(現在の28億円程に当たる)が
寄付されて1940年に東京府神田駿河台に建設。
1964年のオリンピック開催時に現在地に移転。
建物前に岸清一の銅像が設置されている。
地下1階に体育協会資料室が併設され、スポーツ関連の書物が閲覧可能になっている。
岸 (3)

[感  想]
岸記念体育会館の敷地内におられます。
上半身の像で、彫りの深い顔と口髭が印象的です。

岸 清一 1
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岸 清一 像 1
(島根県 松江市 殿町 松江県庁前)

岸 清一(きし せいいち)
(1867年-1933年)
弁護士,スポーツ功労者

撮影日:2010年8月10日
建設年:昭和10年  
分 類:文化人
作 者:内藤 伸
評 価:☆☆☆

岸 清一
岸 清一
「松江市ホームページ」から

慶応3年7月4日生まれ。
帝国大学在学中ボート選手として活躍。
卒業後弁護士となり,民事訴訟法の権威として知られる。
大日本体育協会会長,IOC委員もつとめた。
昭和8年10月29日死去。67歳。
遺志による寄付金をもとに岸記念体育館がたてられた。出雲(島根県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

現在も東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。
岸記念体育館は岸の死後に遺言により100万円の寄付がなされ1940年(昭和15年)にお茶の水に建設されたが、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催を機会に、同年7月に渋谷の代々木に移転されたものである。
1924年(大正13年)3月に紺綬褒章を受章。
故郷の松江市の島根県庁には銅像があり、1964年に除幕式が行われた際にはアベリー・ブランデージIOC会長が参列し、『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』と讃辞を述べ、彼の功績を讃えた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
島根県庁前の広場に堂々と立っておられます。

ジョン・ウェスレー
ジョン (3)

ジョン (2)
ジョン・ウェスレー 像 
(東京都渋谷区渋谷青山 青山学院大学)

撮影日:2016年2月29日
分 類:外国人
作 者:小島 弘
評 価:☆☆☆

ジョン・ウェスレー(John Wesley)
(1703年- 1791年)

18世紀のイングランド国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を
指導した人物。
この運動から生じたのがメソジスト派というプロテスタント教会であり、アメリカ合衆
国・ヨ-ロッパ、アジアで大きな勢力をもつに至った。
特にアメリカではプロテスタント系で信徒数第2の教派である。
聖化を強調し、『キリスト者の完全』を唱えた。これはウェスレ-派のメソジストときよめ
を強調するホ-リネスに継承されている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
青山学院大学のキャンパス正門の右手におられます。
ジョン (1)
右手を大学のキャンパスの方向へ挙げ、左手に聖書を持った立ち姿です。

本多 庸一
本多 (2)

本多 (3)

本多 (4)
本多 庸一 像
(東京都渋谷区渋谷青山 青山学院大学)

撮影日:2016年2月29日
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

本多 庸一(ほんだ よういつ)
(1849年-1912年)

明治時代の宗教家、教育者
嘉永元年12月13日生まれ。横浜に遊学中、キリスト教に入信。
明治7年郷里の青森県弘前にかえって東奥義塾塾長となり、弘前公会を創立。
民権運動にたずさわり、青森県会議員に当選、同議長をつとめたあと教育と伝道に専念。
アメリカ留学後、青山学院院長などを歴任し、日本メソジスト教会初代監督となった。
明治45年3月26日死去。65歳。幼名は徳蔵。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1890年(明治23年)6月に帰国後、東京英和学校の校主(校長)に就任し、1894年(明治27
年)、青山学院と改称し第2代院長となり、17年間院長職に就き学院発展の基礎を築く。
その教育理念として“希くは神の恵みにより、我輩の学校より所謂Manを出さしめよ”と
いう言葉を残し、青山学院は“Man”を育てる学校であると述べている。ここでいう“Man”
とは、Sincerity(至誠ーきわめて誠実であるということ)、Simplicity(質直ー飾り気がな
くまじめであること)という2つの資質を兼ね備えた人物であり、その精神はスクールモ
ットーである「地の塩・世の光」へと繋がっている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
青山学院大学のキャンパスの間島記念館入口の横におられます。
本多 (1)
上半身の像で、長い口髭が特徴的です。

大木 金次郎
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大木 金次郎 像 
(東京都渋谷区渋谷青山 青山学院大学)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成2年
分 類:教育者
作 者:小坂 圭二
評 価:☆☆☆

山梨県甲府市出身。
1929年に青山学院高等学部商科を卒業。
1931年、同学院の第1回留学生としてアメリカのオハイオ・ウェスレアン大学に留学し、
コロンビア大学大学院でM.A.を取得する。
1932年に青山学院専門部商科教授に就任。
戦後の1958年に青山学院大学学長に就任。その後、同学院院長・理事長を歴任。
大学の学部・大学院の研究科の増設と拡充、世田谷・厚木キャンパスの開学、総合研究所
の設置など、大学の充実と発展に尽力した。
1961年に幼稚園を開設し園長を兼任。
1986年には中等部と高等部の6年制一貫教育実現のため、大学組織に「高中部」を設置。
文部省私立大学審議会会長、日本私立大学連盟会長、キリスト教学校教育同盟理事長など
を歴任した。1978年勲一等瑞宝章を受章した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
青山学院大学のキャンパスの間島記念館入口の前方におられます。
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上半身の像で、記念館を見つめています。

尾台 榕堂
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尾台 榕堂 像
(東京都 中央区京橋 東京駅八重洲口近く)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成23年
分 類:医師
評 価:☆☆

尾台 榕堂(おだい ようどう) 
(1799年-1871年)
幕末の医師

寛政11年生まれ。
江戸にでて尾台浅岳にまなび、浅岳の没後、跡をついで尾台姓を名のる。
吉益東洞の「類聚方」を研究し、「類聚方広義」をあらわした。
明治3年11月29日死去。72歳。越後(新潟県)出身。
本姓は小杉。名は元逸。字は士超。通称は良作。別号に敲雲(こううん)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
東京駅八重洲口近くの道路の歩道におられます。
子供達の治療をする姿を表した、丸っこい感じの小ぶりな像です。

笹川 良一
笹川 (2)

笹川 (3)

笹川 (1)
笹川 良一 像
(東京都 港区三田 笹川記念館)

撮影日:2016年2月29日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

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笹川 良一(ささかわ りょういち)
(1899年-1995年)
昭和時代の右翼運動家

明治32年5月4日生まれ。
昭和6年国粋大衆党を組織して総裁となり、17年翼賛選挙で衆議院議員に当選。
戦後、A級戦犯として収監されたが、不起訴。
釈放後、全国に競艇を普及させ、全国モ-タ-ボ-ト競走会連合会会長、日本船舶振興会
会長として競艇収益の配分権をにぎり、政界のフィクサ-となった。
57年国連平和賞。
平成7年7月18日死去。96歳。大阪出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎社会奉仕活動
日本船舶振興会の活動により社会奉仕活動家として知られ、振興会の支援を通して、船舶・
造船事業の振興、海運安全の推進、福祉・国際援助活動、各種武道・スポ-ツ団体への協
力などさまざまな慈善事業を推し進めていった。
日本船舶振興会のテレビコマ-シャルに自ら出演。
子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。
なお高見山(高見山の後援会長でもあった)、山本直純、子供たちと共に「一日一善」等の
シ-ンは1975年(昭和50年)から会長を務めた財団法人日本防火協会(現・公益財団法
人日本防火・防災協会)のCMにも使われた。
CM全体のイメ-ジが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。
ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年(昭和51年)
から1994年(平成6年)まで。
ちなみに1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる“曜日変
わりバ-ジョン”も存在した。
この時期に小中学生であった者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「『戸締まり用
心、火の用心』のおじいさん」として認識されていた。

【孝養の像】
笹川記念会館、船の科学館、箕面市及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子
像が存在する。何故か日本財団ビルにはない。
これは、笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って金毘羅参りのため、785段の石段
を登っている様子を表しているとされる。
「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
「世界は一家、人類は皆兄弟」
との碑文が刻まれている。
なお同銅像は、笹川の生前に建立され開示されたものである。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
笹川記念館の横におられます。
笹川 (4)
母親を背負い、杖を持ち、金比羅の石段を上る姿です。
小さい頃、「一日一善」のおじさんのCMをよく目にしていました。

玉川庄右衛門、清右衛門
玉川兄弟 (2)
玉川庄右衛門、清右衛門 像
(東京都 文京区本郷 東京都水道歴史館)

撮影日:2016年2月27日
分 類:その他
作 者:松野 伍秀
評 価:☆☆

玉川 庄右衛門(たまがわしょうえもん)
(?-1695年)
江戸時代前期の玉川上水工事請負人
江戸の人。幕命により、弟清右衛門とともに承応3年武蔵羽村より江戸の四谷大木戸にいたる上水路を完成させた。
この功で200石の扶持をあたえられ、上水役に任じられ、玉川姓をゆるされた。
元禄8年6月6日死去。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

玉川 清右衛門(たまがわ せいえもん)
(?-1715年)
江戸時代前期の玉川上水工事請負人
江戸の人。幕命により、兄庄右衛門とともに承応3年武蔵羽村より江戸の四谷大木戸にいたる上水路を完成させた。
この功により上水役に任じられ、玉川姓をゆるされた。
正徳5年1月1日死去。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

■玉川兄弟
製作:松野伍秀
玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は江戸時代初期の人物で、出自や生没年には不明な点が
多いですが農民出身あるいは土木工事業者の束ね役(口入れ業)ともいわれています。
兄弟が歴史の舞台に登場したのは、人口急増期を迎えた江戸の水不足(後には武蔵野の新
田開発の水源不足)を解消するため、新たな上水道の建設が計画されたときでした。
江戸幕府は承応元年(1652、諸説あり)に多摩川からの取水と水道建設を計画。
老中・松平信綱を総奉行にして建設に着手します。その事業を請け負ったのが玉川兄弟で
した。
水路の設計は、松平信綱の家臣である安松金右衛門(異説あり)が担当し、日野、福生、
羽村の3取水地案が提案されます。日野・福生は失敗に終わりましたが、最後の羽村案に
より着工翌年の承応2年に、羽村取水堰から水路の終点である四谷大木戸までの総距離約
52キロの水路が完成しました。水路の一部は今も東京都水道局により使用されています。
工事予算は約6千両(現在の金額で2億近い)ありましたが、当初の工事失敗や「水喰土
(みずくらいど)」と呼ばれた関東ロ-ム層対策(浸透性の高い赤土層に対し、木造や石積
みの水路を構築するなど)により予想外に費用がかさみ、兄弟は家などの私財をなげうっ
て工事を進めました。
幕府は工事完成後、兄弟の功績に対して「玉川」の姓を名乗ることを許して士分相当とし、
200石の扶持を与えるとともに上水を管理する「玉川上水役」に任じてその努力に報いました。
銅像は、羽村取水堰近くの羽村公園内にあります。
兄弟の遺徳を偲ぶ声が地元・羽村を中心に高まったことを受け、昭和33年(1958)に、羽
村水源愛護会により建立されました。
「玉川兄弟の像」と名付けられたこの像は、工事に臨んだ姿を描いています。
左手に測量用の測縄を持っている立像が兄の庄右衛門、右手に木(竹)製の尺杖らしきも
のを持つ片膝の座像が弟の清右衛門といわれ、その表情からは難工事に挑む強い意志を感
じさせます。
江戸庶民の恩人であった兄弟の往時の姿を想像させてくれる像です。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
東京都水道歴史館の2階におられます。
玉川兄弟 (1)
羽村公園内にある銅像のレプリカだと思います。
工事に臨んだ姿を描いた兄弟の小ぶりな像です。

山縣 有朋 2
山縣下関 (1)

山縣下関 (5)

山縣下関 (4)

山縣下関 (2)
山縣 有朋 像 2
(山口県 下関市吉田 東行庵)
  
撮影日:2015年4月30日
建設年:平成27年
分 類:幕末藩士、第3・9代内閣総理大臣 
作 者:奈部 雅昭
評 価:☆☆☆

【高杉の陶像と山縣の銅像】
地元吉田の住民は、東行庵のために尽力した山縣に対する感謝の念と、近代日本のために
尽力した彼の功績を称えて、昭和8年(1933)軍服姿の立派な銅像を建設した。
しかし大東亜戦争の戦局苛烈に伴い昭和18年頃、国へ供出した。
国家に尽した山縣の本懐であっただろうか。
残った台座の上には昭和31年(1956)11月、現存する高杉晋作の備前焼の陶像が建立さ
れた。
平成27年4月14日の東行忌に、若き日の山縣の銅像が、高杉陶像の近くに再建された。
台座の「山縣狂介(有朋)像」の文字は、玄孫山縣有徳氏の筆。

[感  想]
東行庵におられます。
高杉晋作と共に活躍した若い頃の像です。
左手に刀を持ち、立て膝の全身姿で、前を見据えています。
山縣下関 (3)
高杉晋作の陶像の下におられます。