ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!


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菊池 武光 2
菊池 太刀洗 (7)

菊池 太刀洗 (3)

菊池 太刀洗 (6)

菊池 太刀洗 (9)

菊池 太刀洗 (1)

菊池 太刀洗 (10)

菊池 太刀洗 (4)




菊池 武光 像 2
(福岡県 三井郡 太刀洗町山隈 太刀洗公園)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和12年
分 類:武士
作 者:緒方 敏雄
評 価:☆☆☆☆☆

【菊池武光 銅像】
正平14年(1359)8月7日大保原(小郡市)で武家方の小弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隅原まで進出した。
この方面で戦っていた小弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。
武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。
しかし夜明け前からの激戦で死傷者は小弐方1万8千人、菊池方6千9百人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。
「帰来河水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって、紅雪をふく」頼山陽
「そのかみの血しおの色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川」乃木希典
古人は、このありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。
勇ましい姿のこの銅像はゆかりの菊池渡りの地に昭和12年建立されたものである。
なお、馬腹や台石の弾痕は昭和20年3月の大刀洗飛行場爆撃時の名残。
「大刀洗町ホームページ」から
菊池 太刀洗 (2)

[感  想]
大刀洗町という地名の由来にもなっている逸話を表した像。
右手に刀を左手に手綱をしっかりと持った菊池武光の立ち姿が素晴らしいです。
馬も躍動感あふれる姿です。

菊池 太刀洗 (5)
大戦の弾痕も生々しく見ることができます。
菊池武光像は、1に続き、2も満点の5つ星です!


菊池 太刀洗 (11)

菊池 太刀洗 (12)

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菊池 武光 1
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菊池 武光 像
(熊本県 菊池市 亘 菊池市民広場)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成4年
分 類:武将
作 者:中村晋也
評 価:☆☆☆☆☆

菊池 武光(きくち たけみつ)
(不詳-1373年)
南北朝時代の武将

菊池武時の子。
肥後(熊本県)菊池氏惣領15代。
貞和4=正平3年征西将軍懐良親王を肥後にむかえ,九州の南朝勢力の中核となる。
九州探題一色範氏らをやぶり,大宰府に征西府をうつす。
のち新探題今川貞世に追われて大宰府を放棄した。
応安6=文中2年11月16日死去。
通称は豊田十郎。法名は聖巌。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「菊池武光騎馬像」
今から約650年程前の南北朝時代の武将、第15代当主菊池武光公の騎馬像。
後醍醐天皇の御子である懐良(かねなが)親王を征西将軍に迎え、南朝方として室町幕府と戦い、一時は九州を平定するなど活躍しました。
菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像は、日本有数の大きさを誇り、騎馬像のある菊池市民広場は、市民や訪れる人々の憩いの場となっています。
「菊池観光協会ホームページ」から

[感 想]
菊池市民広場の中央に堂々とおられます。
騎馬像、大きさ、迫力、細かい部分の表現と非の打ち所が無く、満点です!
一見価値有りです。
作者である中村晋也氏は、鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」の作者でもあります。
これからも多くの素晴らしい銅像を造ってもらいたいと思います。


本田 保
本田  (3)

本田  (5)
本田 保 像
(福岡県 三井郡 太刀洗町 今村カトリック教会)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:司祭
作 者:中田 秀和
評 価:☆☆☆

本田
本田保(ほんだ たもつ) 
(1855年-1932年)

1896(明29)年9月今村教会の主任司祭となる。立派な教会堂をつくることが、宣教布教の第一歩であるとの信念を固め、老朽教会の改築を計画した。(建設予算3万円)
本田師は自分の食事までも倹約したり、節約して貯蓄に努める一方、ドイツの雑誌「カトリッシェン・ミッショネン」にラテン語で寄稿するなどの活動で、フランスやドイツの信者からも建築資金が寄付された。
また今村から海外移民した人々の協力も得て、今村信徒の労働奉仕により工事が進められた。
1912(大1)年着工、1913(大2)年12月
双塔ロマネスク赤レンガ造りの現聖堂を完工。
本田師は(昭3)年までの32年間、主任司祭(在任善牧者)を務めた後、長崎蔭ノ尾教会に転任、聖堂を改築して司祭館を建てた。
本田  (4)

本田  (6)

本田  (1)

[感  想]
今村カトリック教会の敷地内におられます。
髭が特徴的な、上半身の像です。
本田  (2)

本田  (7)
じっと、レンガ造りの教会を見つめておられます。


聖徳太子
聖徳太子 久留米 (1)

聖徳太子 久留米 (5)
聖徳太子 像
(福岡県 久留米市 篠山町 久留米城跡)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:皇子
評 価:☆☆☆

聖徳太子(しょうとくたいし)
(574年-622年)
飛鳥時代、用明天皇の皇子

敏達天皇3年生まれ。
母は穴穂部間人皇女。
推古天皇の皇太子、摂政となり、十二階冠位の制定、憲法十七条の発布、遣隋使の派遣などをおこなう。
また慧慈にまなび、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」をあらわした。
豊聡耳命、上宮王ともいう。
推古天皇30年2月22日死去。49歳。
墓所は磯長墓(大阪府太子町叡福寺)。名は厩戸(うまやどの)皇子。
【格言など】財物は亡び易くして永く保つべからず。
ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし(遺詔)

聖徳太子 久留米 (2)
「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画

聖徳太子1万円札
聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)

聖徳太子500
聖徳太子の肖像が描かれた500円収入印紙(1948年発行)

[紙  幣]
聖徳太子の肖像画は1930年、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。
また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。
特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。
なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。
1948年発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画が採用されている。

[エピソード]
◎豊聡耳
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。
我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。
この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から


[感  想]
久留米城跡の石垣の上の広場におられます。
小ぶりな像ですが、昔の1万円札の肖像と同じで懐かしさを感じる像です。

聖徳太子 久留米 (3)

聖徳太子 久留米 (4)


真木 和泉
真木 (4)

真木 (2)

真木 (3)
真木 和泉 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和43年
分 類:尊攘運動家
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

真木 和泉(まき いずみ)
(1813年-1864年)
江戸時代後期の尊攘運動家。

文化10年3月7日生まれ。真木旋臣の長男。
筑後(福岡県)久留米の水天宮祠官。
江戸、水戸に遊学し、会沢正志斎の影響をうける。
尊攘を説き、嘉永5年久留米藩政改革をめざしたが失敗、幽閉の身となった(嘉永の獄)。
文久2年脱藩し討幕に奔走するが、禁門の変に敗れ、元治元年7月21日天王山で自害。52歳。
名は保臣。字は興公、定民。号は紫灘。変名に浜忠太郎。
【格言など】我一歩を退くれば彼一歩を進め、我一日優游すれば彼一日精熟す(「魁殿物語」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

楠木正成の崇拝者として知られ、今楠公と呼ばれた。
毎年、楠木正成の命日には楠公祭をおこない、その思想と実践は、のちの湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた

「辞世の歌」
大山の 峯の岩根に 埋にけり わが年月の 大和魂
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
水天宮の境内におられます。
堂々とした立ち姿で、台座も立派でかなりの高さがあります。
真木 (1)


宗像 小平太
宗像 (1)

宗像 (3)

宗像 (2)
宗像 小平太 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

宗像 小平太(むなかた こへいた)
(1876年-1926年)
撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和28年
分 類:警察署消防主任
評 価:☆☆☆

明治33年福岡県警察官となり、
大正5年(1916)久留米警察署消防主任を拝命。
消防における献身的努力が認められ昭和6年功績をたたえ銅像建立、
第2次大戦に伴い銅を供出されたが昭和28年再建立された。

[感  想]
水天宮の境内におられます。
久留米の消防活動に尽力された方のようです。
制服制帽姿の上半身の像です。


貝島 太助
貝島 (2)

貝島 (3)
貝島 太助 像
(福岡県 直方市 山部 雲心寺境内)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和29年
分 類:実業家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

貝島
貝島 太助(かいじま たすけ)
(1844年-1916年)
明治-大正時代の実業家

天保15年1月11日生まれ。
明治3年炭鉱事業に従事。
西南戦争で巨利をえて17年大之浦炭鉱を入手。
のち井上馨の援助を得、日清戦争を契機に事業をひろげ31年貝島鉱業合名を設立、貝島炭鉱の基礎をきずいた。
大正5年11月1日死去。73歳。
筑前(福岡県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

筑豊御三家と称された貝島財閥の創始者であり、「筑豊の炭坑王」の異名を取った。

[感  想]
雲心寺の境内裏におられます。
羽織、袴を着た、堂々とした立ち姿です。
北村西望の作です。

貝島 (1)


米田 正文
米田 (3)

米田 (2)
米田 正文 像
(福岡県 福岡市 直方市 下境 遠賀川水辺館近く)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和49年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

米田 正文(よねだ まさふみ)
(1904年-1984年)
日本の内務・建設官僚、政治家。
参議院議員(3期)。
福岡県田川郡添田町出身。

米田 (1)

[感  想]
遠賀川沿いを走る「のおがた水辺マラソン」に出場した後、水辺館近くで偶然発見しました。
眼鏡をかけた上半身の像です。


藤堂 高虎
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藤堂 高虎 像
(愛媛県 今治市 通町 今治城)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

藤堂 高虎
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

藤堂 高虎(とうどう たかとら)
(1556年-1630年)
織豊-江戸時代前期の大名

弘治2年1月6日生まれ。
浅井長政、羽柴秀長、豊臣秀吉につかえる。
秀吉没後は徳川家康にちかづき、関ケ原の戦いでは東軍に属し戦功をあげた。
伊予(愛媛県)今治藩主から慶長13年伊勢津藩主藤堂家初代となる。32万3950石。
大坂夏の陣では真田幸村のため苦戦していた家康をたすけた。
寛永7年10月5日死去。75歳。近江(滋賀県)出身。
【格言など】
上として人を御疑い候えば、下また上を疑い、上下疑いこれあるときは、上と下との心離れ申候
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。

◎慶長の役において加藤嘉明と功を競い、仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
◎別の話もある。会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという。

◎高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。

◎秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し、「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」という言葉を残している。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。

◎家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。

◎関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。

◎武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。

◎三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
今治城の前の広場におられます。
躍動感あふれる馬に堂々と跨った姿です。
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今治城をバックにした姿が映えます!


加藤 嘉明
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加藤 嘉明 像
(愛媛県 松山市 大街道)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成22年
分 類:武将
作 者:田畑 功
評 価:☆☆☆☆

加藤 嘉明
加藤嘉明像(藤栄神社蔵)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

加藤 嘉明(かとう よしあき)
(1563年-1631年)
織豊-江戸時代前期の武将、大名

永禄6年生まれ。
豊臣秀吉につかえ、賤ケ岳の戦いに七本槍のひとりとして活躍。
小田原攻め、朝鮮出兵などに参加。
関ケ原の戦いでは東軍に属し、戦後伊予松山藩主となる。
大坂の陣にも活躍し、寛永4年会津40万石に転封となった。
寛永8年9月12日死去。69歳。
三河(愛知県)出身。初名は茂勝。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳七本槍の一人として名を馳せた。武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将であり、「沈勇の士」とその活躍ぶりを謳われている。

◎嘉明は南蛮渡来の焼物を多く持っており、その中に虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品があった。ある日、客を饗応する準備の最中に、嘉明の近習が誤って1枚を割ってしまった。それを聞いた嘉明は、近習を叱るどころか、残り9枚の小皿をことごとく打ち砕いた。そして言うには「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。およそ着物・草木・鳥類を愛でる者はそのためにかえって家人を失う。主たる者の心得るべきことである」と述べている。

◎あるとき、小姓らが主君の不在をよいことに、囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに嘉明がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て嘉明は、素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てたという。

◎築城や城下町の建設などにも力量を発揮した。愛媛県においては、現在でも松山城築城の評価は高く、嘉明の騎馬に乗った銅像が建立されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
松山城へのロープーウェイのりば近くにおられます。
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鎧兜姿で槍を右手に持ち馬に跨った姿です。
軽やかに走り出しそうな感じがします。
兜の蛇の目の家紋が特徴的です。


正岡 子規 3
子規3IMG_2094 (3)

子規3IMG_2083
正岡 子規 像3
(愛媛県 松山市 道後公園 子規記念博物館)

撮影日:2013年3月21日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規記念博物館の風除室におられます。
子規3IMG_2094 (1)
着物と羽織を着て脇息に手を置き正座している姿の小ぶりな像です。
晩年の頃の姿だと思われます。


正岡 子規 2
子規1 IMG_1832 (1)

子規1 IMG_1832 (2)
正岡 子規 像2
(愛媛県 松山市 二番町4丁目 番町小学校)

撮影日:2013年3月20日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規堂にある1と同じ像と思われます。
こちらの像には、笠と荷物がありません。

子規1 IMG_1832 (3)
横に句碑があります。

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國なまり 故郷千里の 風かをる  
正岡子規
東京で伊予弁なまりを聞いて故郷松山を想ったのではと思います。


正岡 子規 1
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正岡 子規 像1
(愛媛県 松山市 末広町 子規堂前)

撮影日:2013年3月20日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

正岡子規 肖像
正岡 子規(まさおか しき)
(1867年-1902年)
明治時代の俳人、歌人

慶応3年9月17日生まれ。
明治25年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。
28年以降は病床にあり、30年創刊の「ホトトギス」、31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。
野球の普及にも貢献、平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。
明治35年9月19日死去。36歳。
伊予(愛媛県)出身。帝国大学中退。
本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、竹の里人。
著作に句集「寒山落木」、歌集「竹乃里歌」、ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。
【格言など】柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。

◎別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。
「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。

◎松山に漱石が居た時に鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせた。

◎「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。

◎本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、『陳腐、平凡』という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。

◎子規と野球
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまでやっていた。
ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚が始めである。)。
また「まり投げて見たき広場や春の草 」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」
などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。
これらのことが評価され子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。
なお、子規が「野球」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年(明治23年)である。
つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
子規堂の前におられます。
わらじの緒を締め直し、旅立とうとする若い子規の姿です。

子規2IMG_1871 (3)


夏目 漱石 5
夏目2 IMG_2108 (4)

夏目2 IMG_2108 (3)
夏目 漱石 像 5
(愛媛県 松山市 道後湯之町 道後温泉本館内)

撮影日:2013年3月21日
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

夏目2 IMG_2108 (2)
「坊ちゃんの間」
昭和41年(1966年)、正岡子規や柳原極堂の生誕100年祭を催した際に、本館3階の一室を夏目漱石ゆかりの部屋として定めました。
当時、漱石が湯上りにくつろいだ部屋を再現したもので、室内には漱石の見合い写真や胸像などが飾られており、入館された方は、自由に見学できます。
「松山市ホームページ」から

夏目2 IMG_2108 (6)
「漱石と道後温泉本館」
文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任したのは、本館の完成した翌年のこと。
漱石はその建築に感嘆し、手紙や、後の小説『坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と絶賛している。
実際に、頻繁に通ったという。
手紙によれば、8銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また3階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである。
小説には「住田」の温泉として登場する。
これにあやかり、本館は「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。
1階の男湯浴室内には、『坊つちやん』の主人公が湯船で泳いで注意の張り紙をされたことにちなんだ「坊っちゃん泳ぐべからず」の札が掲げられている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
道後温泉本館内の坊ちゃんの間の板の間におられます。
腕を組んだ着物姿で、大きな目が特徴的です。

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夏目 漱石 4

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夏目 漱石 像 4
(愛媛県 松山市 末広町 正宗寺境内)

撮影日:2013年3月20日
分 類:文学者
作 者:阿部 誠一
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規堂の向かいの広場で、坊ちゃん列車の前におられます。
髭が特徴的な首から上の像で、若い頃松山で教鞭をとっていた頃の姿だと思われます。

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夏目1 IMG_1876 (3)


夏目 漱石 3
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夏目 漱石 像 3
(熊本県 阿蘇市 内牧 山王閣)

撮影日:2011年8月8日
建設年:平成7年
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

夏目漱石
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感 想]
ホテル山王閣の中庭におられます。
閲覧は自由にできます。
良く目にする肖像と似た感じで、手を頭に当てた像です。
ちょっと眠そうな目と髭が特徴的です。
結構な大きさで、バックの阿蘇山とよくマッチしています。


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夏目 漱石 2
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夏目 漱石 像 2
(東京都 早稲田 漱石公園内)

撮影日:2007年6月20日
建設年:平成3年
分 類:文学者
作 者:富永直樹
評 価:☆☆☆

◆明治時代から大正初期にかけて活躍した小説家・英文学者です。
江戸・牛込(現在の新宿区喜久井町)の生まれで、帝国大学(後の東京帝国大学)英文科を卒業後、教員生活を経てイギリスへ留学。
帰国後は東京帝大講師を務めるかたわら、本格的な執筆活動を開始しました。
『我輩は猫である』で注目を集め、以後『坊ちゃん』『三四郎』など、現在もなお愛される小説の数々を執筆。
明治期を代表する文豪の一人です。
朝日新聞に連載された長編小説『明暗』が最後の作品(連載188回で絶筆・未完)となりました。
1984年から20年間発行された千円札に肖像が使用されたことは記憶に新しいところです。
銅像は、地下鉄東西線「早稲田」駅から10分ほど歩いた場所にある「新宿区立漱石公園」の入り口にあります。
夏目漱石が終焉までの10年間を過ごした場所で、現在は公園として整備され、園内には『我輩は猫である』のモデルとなった初代飼い猫の13回忌に建てられた猫塚(現在のものは再建された二代目で猫のほか鳥や犬も供養)もあります。
銅像は彫刻家・富永直樹製作の胸像で、平成3年(1991)に除幕。
お札の肖像などでもお馴染みの背広姿で、台座には漱石自筆の俳句も刻まれています。
このほかに英語教師として4年余りを過ごした熊本市にも立像があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

千円
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
銅像のある公園は、早稲田の住宅街の中にひっそりとあります。
ランニングでかなり探しました。
像は、ちょと前の千円札でおなじみの顔です。


夏目 漱石 1
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夏目 漱石 像 1
(熊本県 熊本市 上熊本駅前)

撮影日:2006年10月20日
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

夏目漱石1

夏目漱石2
「近代日本人の肖像ホームページ」から

夏目 漱石(なつめ そうせき)
(1867年-1916年)
明治-大正時代の小説家,英文学者

慶応3年1月5日生まれ。
松山中学,第五高等学校で英語教師をつとめ,明治33年文部省留学生としてイギリスに留学。
36年母校東京帝大の講師となり「文学論」「十八世紀英文学論」を講じる。
38年「ホトトギス」に発表した「吾輩は猫である」が好評を得,40年東京朝日新聞社に専属作家としてむかえられ,近代日本の知識人の自我をめぐる葛藤(かっとう)をえがいた作品をあらわす。
正岡子規とまじわり,俳句や漢詩にしたしむ。
門下には寺田寅彦,森田草平ら多数。
大正5年12月9日死去。50歳。江戸出身。
本名は金之助。
作品に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草(ぐびじんそう)」「三四郎」「それから」「門」「こゝろ」「明暗」など。
【格言など】則天去私(晩年のことば)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「漱石」の名前の由来
漱石の名は、『世説新語』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いことの例えである。尚、「漱石」は当初、親友の正岡子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、夏目は正岡からこれを譲り受けている。

◎漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。

◎精神医学上の研究対象
漱石は、生前に神経衰弱やうつ病を患っているが、このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対して如何に影響を及ぼしているのかが、精神医学者の格好の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。

◎神格化
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、後の多くの批評家、研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、広辞苑にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残した訳ではなく、漱石の発言を弟子達が書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない(人が生きるうえでの指針のように捉える説と、創作上の態度と捉える説などがある)。故人を神格化し、権威を与えるように使われてきた語だとする説もある。

◎言葉遊び
夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字等言葉遊びの多用が見られる。例「単簡」(簡単)、「笑談」(冗談)、「八釜しい」(やかましい)、「非道い」(ひどい)、「浪漫」(ロマン)、「沢山」(たくさん)、「流石」(さすが)等。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもある。

◎ある学生の死
第一高等学校の講師だった頃、ある日の授業で学生の藤村操が遅刻したので、漱石は彼を叱責した。
数日後、藤村は華厳の滝に身を投げて自殺した。
彼が日本初のノイローゼによる自殺者とされている。(ただし諸説あり)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

◎移築の駅舎に漱石しのぶ
1896年4月、旧制第五高等学校(現熊本大学)の英語講師として熊本市にやってきた夏目漱石は、上熊本駅(旧名池田停車場)に降り立った。漱石の熊本生活は4年3カ月。この間、結婚して、長女が誕生している。
当時の面影が今も残っていると聞き、上熊本駅に向かった。といっても、JR上熊本駅の駅舎ではなく、すぐ隣にある熊本市電の電停「上熊本駅前」のそれ。近くには漱石の銅像も立っている。
1913年の建築。漱石が降りた時から17年後に建てられたが、屋根に朱色の飾りが施され、当時の趣は伝わってくる。ただ、駅舎は完全な建物ではなく、電停ホームの上屋でしかない。壁と屋根にだけ、当時の駅舎の部材が用いられている。
漱石が「森の都」と呼んで愛した熊本の街並み。九州新幹線の開業を控え、新たな姿に変わりつつあるが、古き良き光景もしっかりと残されている。
(熊本総局・新志有裕)
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西日本新聞ホームページから抜粋


[感  想]
実はこの夏目漱石銅は、銅像コレクションの記念すべき第1号です。
熊本市へ出張に来ていて、仕事が終わって夕方走っていると、上熊本駅前に夏目漱石がいるではありませんか。
記念に写真を撮っておこうと思って撮ったのが、はじまりでした。
銅像は、等身大の大きさで、熊本にいた頃の夏目漱石らしく若い感じです。


伊佐庭 如矢
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伊佐庭 如矢 像
(愛媛県 松山市 道後湯之町 道後温泉本館横)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成7年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

伊佐庭如矢
「松山市ホ-ムペ-ジ」から

伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや)
(1828年-1907年)
明治時代の町長

文政11年9月12日生まれ。
維新後、愛媛県吏員、高松中学校長、金刀比羅宮禰宜などを歴任。
明治23年初代道後湯之町町長となり、温泉の町営、三層楼本館の建築、道後鉄道設立などに尽力した。
明治40年9月4日死去。80歳。
伊予(愛媛県)出身。
本姓は成川。通称は斧右衛門。号は震庵など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
道後温泉本館近くにおられます。
道後温泉本館建設百年を記念して建てられたもので、
オールバックの髪と大きな目が特徴的な胸像です。
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道後温泉本館をじっと見つめておられます。


秋山 好古 3
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秋山 好古 像 3
(愛媛県 松山市 梅津寺町 梅津寺公園)

撮影日:2013年3月21日
建設年:昭和45年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

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[感  想]
梅津寺公園の高台におられます。
サーベルを左手に持った立ち姿で、髭が特徴的です。
少し劣化が進んでいるのが気になります。

好古ポスター
民芸伊予かすり会館に貼ってあったポスター


秋山 好古 2
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秋山 好古 像 2
(愛媛県 松山市 文京町 松山北高校)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:軍人
作 者:池川 直
評 価:☆☆☆

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「秋山好古と松山北高校」
北予中学校時代の1924年(大正13年)から約6年間、元陸軍大将で日露戦争に功のあった秋山好古が校長を務めた。彼は旧制北予中学に馬で毎日学校に通ったことでも有名である。

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校長室の秋山好古の書と小像。
この像が秋山好古生誕地にある銅像の復元モデルとなった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
松山北高校敷地内の八十周年記念館前におられます。
校長時代と思われる、スーツ姿の上半身の像です。
毎日馬で通ったというのも、すごいと思いました。


秋山 好古 1
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秋山 好古 像 1
(愛媛県 松山市 歩行町 秋山兄弟生誕地・生家)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成16年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆☆

秋山好古 肖像
秋山 好古(あきやま よしふる)
(1859年-1930年)
明治-大正時代の軍人

安政6年1月7日生まれ。
秋山真之の兄。
陸軍乗馬学校長、清国駐屯軍守備隊司令官、近衛師団長、朝鮮駐箚軍司令官、教育総監などを歴任。
大正5年大将。
騎兵を育成して戦術・訓練を研究し、日清・日露戦争で名をあげた。
昭和5年11月4日死去。72歳。
伊予(愛媛県)出身。陸軍大学校卒。
通称は信三郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

秋山好古2IMG_1830 (5)
「秋山兄弟生誕地」
秋山家は、江戸末期の天保年間から現在地に家を構えていました。
好古が北予中学校の校長時代に住んでいたのは、自分が生まれた当時の家(4部屋と土間、台所の質素な家)に若干手を加えただけのものだといわれています。
現在の建物は、当時の設計図がないことから、好古が住んでいた時にしばしば訪問していた親戚の石井悦子さん(群馬県在住)や、好古四女:米田治子さん(故人)などからの聞き取りや、当時の写真を検証して建設されたものです。
当時の湧水を今に残す井戸など、在りし日の暮らしが再現されています。
「松山市ホームページ」から

[エピソード]
◎風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。

◎青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。
フランス留学中の秋山
フランス留学中の秋山

◎酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいの事が出来部下たちを感嘆させた。しかし酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。

◎極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

◎福澤諭吉を尊敬しており、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとした。

◎書に長けており、退役後は揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。

◎晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。

◎愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。

◎弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。

◎欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。

◎第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。

◎フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

◎陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
昭和11年に道後公園に建てられた好古の銅像は、昭和18年に、戦時中の供出で消滅した。そのレプリカが、秋山家親族や地元の設立功労者に配られており、今日まで残っていたので、それをもとにして、生家の復元に合わせて、原寸大の騎馬銅像を復元したもの。

[感  想]
日本騎兵の父と言われた、秋山好古の騎馬像です。
黒光りする像で、彫の深い顔や髭、軍服など細かいところまでよく造られています。

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じっと弟の真之の銅像を見つめています。


秋山 真之 2
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秋山 真之 像 2
(愛媛県 松山市 梅津寺町 梅津寺公園)

撮影日:2013年3月21日
建設年:昭和38年(昭和43年移設)
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

[銅 像]
秋山真之の最初の銅像は、昭和6年に、真之の13回忌と日本海海戦25周年を記念して、道後公園内に建てられたが、昭和18年、戦争による金属供出で撤去された。
その銅像のポーズは、三笠艦橋の東郷平八郎を擬した双眼鏡を手にしたものであった。
戦後になり、昭和38年石手寺境内に再建され、その後、昭和43年に、梅津寺公園の大丸山に移された。
台座の文字の揮毫は、東郷平八郎による「智謀如湧」。
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[感  想]
梅津寺公園の高台(好古像よりさらに上)におられます。
本を手に持った立ち姿で、
「三笠艦橋の図」での真之の姿がモデルと思われます。
三笠艦橋の図
三笠艦橋の図
(右から3番目が秋山真之)


秋山真之3IMG_2210 (1)
じっと瀬戸内海を見つめておられます。

真之ポスター
民芸伊予かすり会館に貼ってあったポスター


秋山 真之 1
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秋山 真之 像 1
(愛媛県 松山市 歩行町 秋山兄弟生誕地・生家)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成16年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

秋山真之 肖像
秋山 真之(あきやま さねゆき)
(1868年-1918年)
明治-大正時代の軍人

慶応4年3月20日生まれ。
秋山好古の弟。
日清戦争に従軍後、アメリカに留学。
帰国後、常備艦隊参謀となる。
日露戦争では連合艦隊作戦参謀として海戦の作戦を指揮。
日本海海戦での「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の報告文は有名。
大正3年軍務局長。6年海軍中将。
戦略家として知られた。
大正7年2月4日死去。51歳。
伊予(愛媛県)出身。海軍兵学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎参謀としての真之の功績は、長らく東郷の影に隠れ、広く一般に知られている人物とは言い難かったが、戦後、島田謹二『アメリカにおける秋山真之』(初版・昭和44年(1969年))によって紹介され、司馬遼太郎が発表した歴史小説『坂の上の雲』(初版・昭和47年(1972年))で主人公になった結果、国民的な知名度を得ることになった。

◎同郷の俳人・正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、東京へ行った後も共立学校の同級生として交遊し、和歌なども学ぶ。また、大蔵官僚となった勝田主計も真之や子規の松山時代からの友人として知られている。

◎日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでも僅か20文字という驚異的な短さで説明しているため、今でも短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として高く評価されている(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。またZ旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も真之の作である。

◎日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における、東郷の訓示(聯合艦隊解散の訓示)の草稿も真之が起草したものとされている。この文章に感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布した。これらから名文家・文章家としても知られており、後に「秋山文学」と高く評価されるようになる。

◎東郷は「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と真之の作戦立案能力を評価した。

◎幼少の頃は腕白なガキ大将だった。多くの子供を引き連れて戦争ごっこをするにとどまらず、本を参考に花火を作って打ち上げたりするほどだった。あまりにも腕白がすぎるため、貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いた。他に絵や水泳、かけっこが得意であった。

◎海軍兵学校時代、同校で野球チームを編成し、海軍野球の創始者となった。

◎少尉候補生時代、食事中にパンくずでビスマルクやナポレオン、豊臣秀吉などの頭像を作って遊んでいた。
同じく候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか?」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる」と、答えた。

◎煎り豆が好物で、ポケットに忍ばせてよく食べていた。
この豆の種類であるが、明治37年(1904年)11月23日付の母宛て手紙に「何か幸便あれば豌豆及空豆二三斗計りイリテ御送被下度候」とあり、エンドウマメとソラマメの2種であった。

◎軍服の袖で鼻水を拭いたり、作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすなど、身なりを全く気にしない性格であったと伝えられる。また人前で放屁や放尿をすることもあった。

◎アメリカからの帰国中、賭博詐欺にあった。イカサマだと気づいた真之は、リーダーの男を部屋に連れ込み「黙ってやらせておけばいい気になりおって。このままでは侍の名折れだ、金を返せ」と、語気鋭く短刀の鞘を払った。怯えた男は金を返して逃げ出したという。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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道後公園内に建てられていた真之の銅像は、写真しか残っていなかったため、それと同じ銅像の復元がきわめて難しいことから、旧海軍大学校(現、海上自衛隊幹部学校)にある真之の胸像をモデルにして、復元したものである。

[感  想]
秋山兄弟生誕地・生家に兄好古と共におられます。
軍服を着た、サーベルを両手で押さえている上半身の像で、細かいところまでよく造られています。
兄の好古の銅像を見つめています。
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村上 元吉
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村上 元吉 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆☆

村上 元吉(むらかみ もとよし)
(1553年-1600年)
戦国-織豊時代の武将

能島村上水軍の頭領。
毛利元就から一字を拝領した。
父は村上武吉、母は村上通康の娘。弟に村上景親。妻は小早川隆景の養女。子に村上元武。官途は掃部頭。

能島村上水軍を率いる村上武吉の嫡男として生まれる。
1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでは村上水軍を率いて織田水軍を壊滅に導いた。
1586年(天正14年)の四国征伐において村上元吉も父や弟ともに、豊臣秀吉に協力しなかったため、追討されかける。
同年には、宣教師ガスパ-ル・コエリョに要請されて、元吉は瀬戸内海を安全に通行できるよう、村上水軍の旗を与え、コエリョの安全を保障した。
天下統一を進める秀吉は1588年(天正16年)に海賊停止令を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。後に海賊停止令に違反したとして、村上元吉も父とともに筑前国加布里(現在の福岡県前原市)へと追いやられた。
1598年(慶長3年)豊臣秀吉が没すると、毛利輝元は村上元吉を父とともに安芸国竹原に移して、4700石を与えた。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、阿波国の蜂須賀氏の所領を攻撃。
阿波国猪山城を落城せしめた。9月になると興居島に上陸後、四国伊予国三津浜(現在の松山市古三津)に上陸。加藤嘉明の居城・伊予国松前城を攻撃。
しかし、同年9月17日夜から翌18日朝にかけての佃十成の夜襲であえなく討死した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鎧兜姿で、腕を組んで前を見つめている石像です。
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父親の村上武吉像の動に対して静のイメージの像です。

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じっと海を見つめる後姿


村上 武吉
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村上 武吉 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆☆

村上 武吉(むらかみ たけよし)
(1533年-1604年)
戦国-織豊時代の武将

天文2年生まれ。伊予(愛媛県)能島を本拠とした能島村上氏。
来島、因島の村上氏とともに村上水軍を形成した。
厳島の戦いで毛利元就に助勢、以後毛利氏に属したが、豊臣秀吉の海賊禁止令で勢力をうしなう。
子孫は長門(山口県)萩藩の船手組頭。
慶長9年8月22日死去。72歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

海賊として粗野なイメ-ジが強いが、大山祗神社にて一族の結束を固める為に連歌会を多く催しており、武吉個人も非常に多くの連歌を残し、武だけではなく教養にも秀でていた事が垣間見られる。
ルイス・フロイスは、彼を「日本最大の海賊」と評している。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
村上水軍博物館の敷地で、村上元吉と共に迎えてくれます。
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鎧兜姿で、右手に采配を持った躍動感のある石像です。

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海に向かって采配を振る後姿


村上 景親
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村上 景親 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆

村上 景親
村上 景親(むらかみ かげちか)
(1558年-1610年)
戦国時代-江戸時代初期の武将

小早川氏・毛利氏家臣。父は村上武吉、兄に村上元吉。
1578年(天正6年)の上月城の戦いに出陣した。
その後は、兄と行動をともにした。
1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役では吉川広家に従って、兄ともども朝鮮に渡海している。
小早川隆景が隠居すると、父と兄は毛利氏に帰参したが、景親はそのまま小早川家中に残り、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。
しかし1597年(慶長2年)に小早川隆景が死去すると毛利氏に帰参して安芸国竹原に所領を得た。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、兄の元吉とともに水軍を率いて、蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し、落城させた。
その後は毛利軍の一員として、関ヶ原の戦いに参加した。
防長移封後、細川忠興や池田輝政も景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親はこれを辞退して父とともに屋代島に移住、毛利家御船手組の組頭となった。
1610年(慶長15年)に死去、墓所は山口県大島郡周防大島町にある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
村上水軍博物館の玄関前に座っておられます。
侍烏帽子を被り、裃を着た座像で、ひげが印象的です。



河野 通有
河野IMG_1892 (2)

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河野 通有 像
(愛媛県 松山市 北立花町 井出神社)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成7年
分 類:武将
作 者:溝淵 清美
評 価:☆☆☆

河野 通有(こうの みちあり)
(1250年-1311年)
鎌倉時代の武将

河野通継の子。
弘安4年(1281)の蒙古襲来の際、伊予(愛媛県)の水軍をひきいて参戦。
博多湾の上陸阻止用の石塁を背に陣をはり、豪胆ぶりをうたわれる。
志賀島の戦いでも、元船に夜襲をかけ敵将を捕らえる。
のち幕府の命で西国の海賊を追捕した。
応長元年7月14日死去。
通称は六郎、弥九郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「元寇での活躍」
弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。
博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。
これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。通有は志賀島の戦いにおいて叔父の河野通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。

『蒙古襲来絵詞』
『蒙古襲来絵詞』

竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には、季長が負傷した通有を見舞った様子が描かれており、絵巻の注釈に河野の家では合戦が落居しない間は烏帽子を着けないこと、通有の直垂は平家との戦いで祖先の河野通信が源氏の味方に参上した時着けていたものである事が描かれている。
縁側には通有の嫡子河野の八郎が座っており、庭には通有の旗指しが控えている。奧の妻戸は本来なかった所を絵師が書き誤ったものという注釈がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
井出神社境内におられます。
烏帽子に鎧の武者姿で、右手に笏、左手に刀を持った立ち姿の石像です。


伊藤 隣一
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伊藤 隣一 像
(愛媛県 松山市 三番町4 愛媛県林業会館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和45年
分 類:その他
評 価:☆☆☆

伊藤 隣一
(1887年-1968年)

〔碑文内容〕
伊藤隣一翁は本県林業の父である。
大正四年、東大卒業以来、半世紀にわたり、県林務課長、県森連会長として、一筋に林業の振興に盡痒した。
全國に誇る林業愛媛の業績は、翁の愛郷精神と不抜の信念に基づく唱導と感化によるものであり木材しいたけ共販市場の開設は、森林組合の先駆活動として知られている。
茲にその尊像を建立して餘香を拝せんとするゆえんである

[感  想]
愛媛県林業会館前におられます。
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太い眉と細い目が特徴的な胸像です。
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じっと愛媛県林業会館を見つめています。


井上 正夫
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井上 正夫 像
(愛媛県 松山市 湊町5丁目 松山市駅前)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和27年
分 類:俳優
評 価:☆☆☆

井上 正夫
井上 正夫(いのうえ まさお)
(1881年-1950年)
俳優

本名小坂勇一、愛媛県出身。
少年期に大阪で成美団を観劇して新派に参加、上京して認められ、「破戒」の主役丑松を演じたが、あきたらずに1910年新時代劇協会をつくりショ-の「馬盗坊」などを上演した。
大正期再び新派に戻り「酒中日記」「大尉の娘」の当り役を得たが、36年井上演劇道場を創設して進歩的行動をとる。
42年道場を解散、のち再び新派に参加した。
49年に芸術院会員に選ばれたが、翌年1月新橋演舞場の「恋文」が最後の舞台となった。
「世界大百科事典 第2版の解説」から

[感  想]
松山市駅前におられます。
井上IMG_1865 (2)
茶色っぽい像で、彫の深い顔が印象的です。





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