ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ジョン・ウェスレー
ジョン (3)

ジョン (2)
ジョン・ウェスレー 像 
(東京都渋谷区渋谷青山 青山学院大学)

撮影日:2016年2月29日
分 類:外国人
作 者:小島 弘
評 価:☆☆☆

ジョン・ウェスレー(John Wesley)
(1703年- 1791年)

18世紀のイングランド国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を
指導した人物。
この運動から生じたのがメソジスト派というプロテスタント教会であり、アメリカ合衆
国・ヨ-ロッパ、アジアで大きな勢力をもつに至った。
特にアメリカではプロテスタント系で信徒数第2の教派である。
聖化を強調し、『キリスト者の完全』を唱えた。これはウェスレ-派のメソジストときよめ
を強調するホ-リネスに継承されている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
青山学院大学のキャンパス正門の右手におられます。
ジョン (1)
右手を大学のキャンパスの方向へ挙げ、左手に聖書を持った立ち姿です。

スポンサーサイト
シーボルト 2
シーボルト① (5)

シーボルト① (6)

シーボルト① (9)
シーボルト像 2
(長崎県 長崎市鳴滝2丁目 シーボルト記念館前)

撮影日:2015年3月21日
建設年:昭和54
分 類:外国人
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆

[感  想]
シーボルト記念館の前におられます。
シーボルト① (12)
「若き日のシーボルト」像という題のとおり、軍服を着て、サーベルを持った若いシーボ
ルトの立ち姿です。

シーボルト 1
シーボルト② (16)

シーボルト② (8)

シーボルト② (10)
シーボルト像 1
(長崎県 長崎市鳴滝2丁目 シーボルト宅跡地)

撮影日:2015年3月21日
建設年:昭和38年
分 類:外国人
作 者:原型:水谷鉄也(大正13年)
評 価:☆☆☆

250px-シーボルト_川原慶賀筆
シーボルト肖像画(川原慶賀筆)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
シーボルト【Philipp Franz Balthasar von Siebold】
(1796年-1866年)
ドイツの医師、博物学者

1796年2月17日生まれ。楠本いねの父。
文政6年(1823年)長崎出島のオランダ商館医として来日。
鳴滝塾などで医学、博物学をおしえ、日本の洋学発展につくす。
11年国禁の地図の海外持ち出しが発覚し、国外追放となる(シーボルト事件)。
帰国後「日本」「日本植物誌」などをあらわす。
安政6年再来日。長男、次男ものち日本で外交官として活躍。
1866年10月18日死去。70歳。ビュルツブルク出身。

シーボルト生誕200年を記念した日本の切手
シーボルト生誕200年を記念した日本の切手

シーボルト生誕200年を記念したドイツの切手
シーボルト生誕200年を記念したドイツの切手

シーボルト② (7)

シーボルト② (1)

■日本学における貢献
シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理
学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。
シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。
この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボ
ルトの研究継続を経済的に助けた。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残
されている。
また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師と
して来日していたハインリッヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査を続
行するよう依頼した。これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与した。日本語に関
しては記述は少なく、助手だったヨハン・ヨーゼフ・ホフマンが多く書いている。
2005年にはライデンでシーボルトが住んでいた家が資料館として公開され、シーボルトの
事跡や日蘭関係史を公開している。

■生物学
生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物に
ついて重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。
これらの多くはライデン王立自然史博物館に保管されている。
植物の押し葉標本は12,000点、それを基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で
『日本植物誌』を刊行した。その中で記載した種は2300種になる。植物の学名で命名者が
Sieb.et Zucc.とあるのは、彼らが命名し現在も名前が使われている種である。アジサイなど
ヨーロッパの園芸界に広まったものもある。
動物の標本は、当時のライデン王立自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、
シュレーゲル、デ・ハーンらによって研究され、『日本動物誌』として刊行された。
日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、日本動物誌で初めて学名が確定して
いる。

■献名
シーボルトに対する献名として、学名に"sieboldi"または"sieboldii"が命名されている生物
は数多い。
植物
サクラソウ Primula sieboldii
ミセバヤ Hylotelephium sieboldii
ヘビノボラズ Berberis sieboldii
キセルアザミ Cirsium sieboldii
ウスバサイシン Asiasarum sieboldii
スダジイ Castanopsis sieboldii
チョロギ Stachys sieboldii
ゴマギ Viburnum sieboldii
ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii

動物
アコメガイ(イモガイの一種)Conus sieboldii (Reeve,1848)
ベニガイ(サクラガイに近縁の二枚貝)Pharaonella sieboldii (Deshayes,1855)
シーボルトミミズ(大型のミミズ)Pheretima sieboldi (Horst,1883)
オニヤンマ(日本最大のトンボ)Anotogaster sieboldii Sélys,1854
ヌマムツ(コイ科の淡水魚)Nipponocypris sieboldii (Temminck et Schlegel,1846)
ヒメダイ(フエダイ科の海水魚)Pristipomoides sieboldii (Bleeker,1857)
アオバト(森林性のハトの一種)Treron sieboldii (Temminck,1835)

[感  想]
シーボルト宅跡地の広場におられます。
髭が特徴的な胸像で、斜め前方をしっかりと見つめています。
身近な植物・動物の学名に「sieboldii」が付いているのには驚きました。

トーマス・グラバー
グラバー (17)

グラバー (24)

グラバー (16)

グラバー (32)
トーマス・グラバー 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:外国人
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆☆

トーマス・グラバー
トーマス・グラバー【Thomas Blake Glover】
(1838年-1911年)

イギリスの貿易商。スコットランドのフレーザーバラ生れ。
父はイギリス沿岸警備隊一等航海士。
アバディーンのギムナジウムに在学した後、上海を経て、1859年(安政6)9月19日長崎に
来日。
61年5月にグラバー商会を設立し、ジャーディン・マセソン会社の代理店もかねた。
設立当初はおもに日本茶を輸出したが、64、65年ころより薩摩、佐賀、土佐、熊本等西南
雄藩をはじめ幕府諸藩への艦船武器類の販売を中心に発展し、上海にも支店をもつ長崎最
大の貿易商となった。
「世界大百科事典 第2版」から

グラバー (20)

スコットランド出身のグラバーは1859年、彼が21歳の時、開港と同時に長崎に来日し、
グラバー商会を設立しました。
幕末の激動の時代の中、志士達を陰で支え、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど、若い人
々への多大な援助を惜しみませんでした。
また明治以降は純経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献しています。
とび色の瞳と赤い顔のため、彼が経営した炭坑の坑夫からは「赤鬼」とあだ名されました
が、その性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情
の持ち主だったようです。
同様に家族に対しても、妻ツルとの間に子供をなし、温かな家族をつくり、仲むつまじく
日本で終生を過ごしました。
1911年、73歳の生涯を閉じたグラバーは現在でも長崎市の坂本国際墓地でツルと、息子
の倉場富三郎夫婦とならび眠っています。
「GLOVER GARDEN」ホームページから

[エピソード]
◎経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟
麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。

◎太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打
診していた。
キリン

◎キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。

◎龍と馬が組み合わさった麒麟(きりん)は、中国の伝説上の生き物で、幸運の象徴とさ
れています。グラバーは、ジャパン・ブルワリ・カンパニーというビール会社を発足させ
ましたが、温室のそばに座っている愛嬌のあるこま犬がその時のラベルに使われた麒麟の
絵のモデルだといわれています。そしてラベルの麒麟のヒゲはグラバーの口ヒゲを元にし
たものとか…。

◎私生活では五代友厚の紹介で、ツルとの間に長女ハナをもうけている。また、息子に倉
場富三郎(Tomisaburo Awajiya Glover)がいる。


[感  想]
グラバー園の旧グラバー住宅の近くにおられます。
グラバー (42)

グラバー (39)

上半身の像で、もみ上げと髭が特徴的です。
グラバー (27)
邸宅を見守っておられます。


プッチーニ
プッチーニ (4)

プッチーニ (5)

プッチーニ 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
建設年:平成8年
分 類:外国人
作 者:ジルベール・ルビーブル(Gilbert Lebigre)フランス人
評 価:☆☆☆

GiacomoPuccini.jpg
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
プッチーニ【Giacomo Puccini】
(1858年-1924年)
イタリアの作曲家。

ベルディ以後イタリアの生んだ最大のオペラ作曲家。
5代続いた音楽家の家系に生まれ、ミラノ音楽院でA.ポンキエリに学び、学友P.マスカー
ニと親しくなった。
1884年最初のオペラを発表。
93年3作目のオペラ《マノン・レスコー》で成功を収め、《ラ・ボエーム》(1896)、《トスカ》
(1900)、《蝶々夫人》(1904)と傑作を書き続け、《トゥランドット》(未完。F.アルファーノが
完成させて1926年初演)まで10曲のオペラを作曲した。

プッチーニ (8)

プッチーニ (3)

「蝶々さん」は誰か?
揚羽蝶「蝶々夫人」の舞台となった日本では長らく「『蝶々夫人』のモデルは誰か?」とい
うことが議論されてきた。
ロングの実姉サラ・ジェニー・コレルは、1890年代初頭から鎮西学院五代目校長で宣教師
でもあった夫とともに長崎の東山手に住んでいた。
ロングは、姉のコレル夫人から聞いた話から着想を得て、小説を執筆したとされている。
長年、有力視されていたのは、幕末に活躍したイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバー
の妻、ツルである。これは彼女が長崎の武士の出身であることや、「蝶」の紋付をこのんで着
用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する。長崎の旧グラバー邸が長崎湾を見下ろす南山
手の丘の上にあることも、物語の設定と一致する。しかし、ロングの小説で具体的に記述さ
れている蝶々夫人の経歴に、ツルの生涯と似ている部分があるが、重要部分で異なる点も多
いため、モデルと考えるのは不自然との意見もある。
一方、グラバーとツルの間に生まれた長男の倉場富三郎がペンシルバニア大学に留学してい
たこと、ロング本人が、「姉は倉場富三郎に会ったことがある」と語ったと言われることな
どは、「蝶々夫人=グラバー・ツル」説を裏付ける要素とされている。但し、ロングは小説
が実話に基づくとは明言しておらず、また、彼自身がアメリカ士官を貶めているともとれ
る小説の人物設定について多くの批判を受けていたこともあり、真相は曖昧にされたまま
現在に至る。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
グラバー園中央付近の広場の植え込みの中におられます。
プッチーニ (1)
左手をズボンのポケットに入れ、右手にハットを持った立ち姿で、空を見上げています。
白い大理石で造られています。大理石の肖像も蝶々夫人像の近くに有ります。

プッチーニ肖像


ベルナール・プティジャン
プチジャン神父 (2)

プチジャン神父 (1)
ベルナール・プティジャン 像
(長崎県 長崎市南山手町 大浦天主堂)

撮影日:2015年3月20日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

Bernard-Thadée Petitjean
ベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean)
(1829年-1884年)
フランス人宣教師

パリ外国宣教会の神父として1863年長崎に上陸し、すでに大浦天主堂の建設に着手して
いたフュレLouis‐Théodore Furet(1816‐1900)神父と協力して65年2月19日その献
堂式を挙行、同年3月17日には天主堂の聖母像の前で浦上の〈隠れキリシタン〉を発見
し、劇的なキリシタン復活が起こった。
この後、長崎、五島地方で数多くの信者が発見され、プティジャンはその指導に専念する。
「世界大百科事典 第2版」から

[感  想]
大浦天主堂に続く広場におられます。
プチジャン神父 (14)
白い大理石の全身像で、髭が特徴的です。
ヨハネ2世③ (1)

ヨハネ・パウロⅡ世 3
ヨハネ2世③ (6)

ヨハネ2世③ (5)

ヨハネ2世③ (2)
ヨハネ・パウロⅡ世像 3
(長崎県 長崎市南山手町 大浦天主堂)

撮影日:2015年3月20日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

[感  想]
大浦天主堂に続く広場におられます。
ヨハネ2世③ (8)
1とほぼ同じ感じの上半身の像ですが、表情が少し違う気もします。


ヨハネ・パウロⅡ世 2
ヨハネ2世② (7)

ヨハネ2世② (8)
ヨハネ・パウロⅡ世 像 2
(長崎県 長崎市上野町 長崎カトリックセンターユースホステル)

撮影日:2015年3月20日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

[感  想]
長崎カトリックセンターユースホステルの玄関前におられます。
ヨハネ2世② (3)
1と同じく手を組んだ上半身の像ですが、表情が少し違います。

ヨハネ・パウロⅡ世 1
ヨハネ2世① (4)

ヨハネ2世① (10)
ヨハネ・パウロⅡ世 像 1
(長崎県 長崎市本尾町 浦上天主堂)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和57年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

ヨハネ2世① (7)

img_0.jpg
ヨハネ・パウロⅡ世【Johannes Paulus】
(1920年-2005年)
正式にはヨハネス・パウルス。第264代ローマ教皇(法王)。

本名カロル・ウォイティワ。
ポーランド南部バドビチェに生まれる。
第二次世界大戦のため大学の勉学を中断、労働しながら神学を学び、1946年司祭となる。
67年枢機卿に指名され、78年、455年ぶりにイタリア人でない教皇として選任された。
共産圏出身者であったため、とくに平和への関心が強く、世界各地を訪問するなど精力的に
活躍、訪問国は129か国にもおよび、「空飛ぶ聖座」とよばれた。
そのなかには社会主義国のキューバや、東西キリスト教会分裂以来の教皇の訪問となったギ
リシアも含まれている。
81年(昭和56)に来日した。大学生時代から演劇活動にも従事、アンジェイ・ヤビエニの
筆名で戯曲も書いた。
「日本大百科全書(ニッポニカ)」から

<教皇ヨハネ・パウロ二世>
 私は、栄光と悲劇の跡をとどめている歴史の町、ここ長崎を訪れ、栄光を勝ち取り悲劇を
乗り越えた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話できることを神に感謝します。私
は大きな愛情と、この地方教会の素晴しいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって
皆さんにご挨拶の言葉をのべます。 (二十五日の説教の冒頭のお言葉)
 教皇は浦上の司教座聖堂に於いて、1981年2月25日司祭叙階のミサを司式され、翌
26日に修道女達にお話をなされた。(銘板碑文)

◎ヨハネ・パウロ2世は「旅する教皇」といわれたパウロ6世を遥かに凌ぐスケールで全世
界を訪問し、「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどであった。
最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、
2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまでに実に世界100ヶ国以上を
訪問している。
勉強熱心で、飛行機の中などでも学習し、訪問先の言語で簡単な演説をすることで有名だ
った。
1981年2月23日のローマ教皇として初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、日本語で
「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた。

[感  想]
ヨハネ2世① (1)
浦上天主堂の前におられます。
ほほえんだ、優しい表情が印象的な上半身の像です。

ヨハネ2世① (2)

フランシスコ・ザビエル 8
DSCN0506.jpg

DSCN0514.jpg

DSCN0500.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 8
(山口県 山口市 亀山町 サビエル記念聖堂前)

撮影日:2014年10月25日
建設年:平成10年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

山口サビエル記念聖堂
サビエル記念聖堂は、昭和27年にサビエルが山口を訪れてから400年を記念して建てられました。内部にはサビエルの一生を描いた美しいステンドグラスがあり、聖堂からは15分おきに時を告げる美しい鐘音が市街に響いていましたが、残念ながら平成3年9月5日に焼失してしまいました。

ac_sabieru02_02.jpg

ac_sabieru02_01.jpg
※焼失前の山口サビエル記念聖堂

その後、再建に向けて募金活動なども行われ、焼失から6年と7か月経った平成10年4月29日、白亜に輝く待望の新しい記念聖堂が完成しました。
新しい記念聖堂は、高さ53メートル(十字架と鐘を含めて)の2本の塔と屋根が建物全体を覆う三角錐となった斬新なデザインです。
「西の京 やまぐちホームページ」から
DSCN0501.jpg

[感  想]
新しい山口サビエル記念聖堂の玄関前におられます。
右手に司教杖を持ち、左手で十字架を掲げている立ち姿で、
白い大理石でできており、後ろの聖堂とマッチしています。

DSCN0509.jpg

フランシスコ・ザビエル 7
IMG_0795.jpg

IMG_0804.jpg

IMG_0800.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 7
(鹿児島県 鹿児島市 東千石町 ザビエル公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成11年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

IMG_0808.jpg

[感  想]
ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの群像です。
ザビエル来航450周年を記念して、1999年ザビエル公園内に設置されたもの。
ヤジロウ、ベルナルドの後ろで、左手を横に掲げておられます。
ザビエルの顔は、他の像と比べるとちょっと違った印象です。

フランシスコ・ザビエル 6
IMG_0786.jpg

IMG_0787.jpg

IMG_0790.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 6
(鹿児島県 鹿児島市 東千石町 ザビエル公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和24年
分 類:外国人
作 者:柳田 昇
評 価:☆☆☆

IMG_0806.jpg

◎ザビエル来鹿記念碑
元は記念教会だったが太平洋戦争中に空襲で焼失。
1949年、ザビエル来航400年を記念して教会の廃材を使用し設置。
奥にはザビエルの胸像がある。
鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいの「ザビエル公園」内。

[感  想]
記念碑の壁中央の開口部の後ろにおられます。
横を向いた上半身の像です。

IMG_0794.jpg
向かいの教会をじっと見つめておられます。

フランシスコ・ザビエル 5
IMG_0816.jpg

IMG_0810.jpg

IMG_0811.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 5
(鹿児島県 鹿児島市 照国町)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和24年(平成19年設置)
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

IMG_0812.jpg

[感  想]
鹿児島カテドラル・ザビエル教会の前におられます。
大理石で出来た、イタリア製の真っ白な像です。
左手を上げ右手に十字架を握り、天を見上げておられます。
細かい服のシワまで表現された像です。

IMG_0817_20130209202522.jpg

フランシスコ・ザビエル 4
IMG_0843_20130209204207.jpg

IMG_0844.jpg

IMG_0845_20130209204219.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 4
(鹿児島県 日置市 大田 城山公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成11年
分 類:外国人
作 者:竹 道久
評 価:☆☆

IMG_0847.jpg

IMG_0848.jpg
1549年9月、伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。
ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室と好んで宗教論争を行ったとされる。
後に日本人初のヨ-ロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
日置市のちょっと小高い山の上の城山公園におられます。
左手に十字架を持った、ちょっと丸っこい感じの石像です。

フランシスコ・ザビエル 3
IMG_0628_20130209204754.jpg

IMG_0632.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 3
(鹿児島県 鹿児島市 祇園之洲町 ザビエル上陸記念碑)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和53年
分 類:外国人
作 者:ルイ・フランセン(Louis Fransen)
評 価:☆☆☆

IMG_0634.jpg

◎ザビエル上陸記念碑
ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年に設置。
かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。
実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
IMG_0626.jpg

[感  想]
ザビエル一行が、初めて日本に上陸した場所におられます。
記念碑の壁画の横の柱に設置されており、宙に浮かんでいる珍しい像です。
手を広げ、天を見上げておられます。

フランシスコ・ザビエル 2
IMG_0074HE.jpg

IMG_0066.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 2
(大分県 大分市 大手町 遊歩公園)

撮影日:2008年2月3日
分 類:宣教師
作 者:佐藤  忠良
評 価:☆☆☆

1551年に府内を訪れてキリスト教の布教を行ったフランシスコ・ザビエルの彫像。
彫刻家佐藤忠良の1969年の作品。
日本までの航路を示した世界地図を背景に、左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルが描写されている。
公園北端の交差点の南西側角地にある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
後ろの壁に世界地図が描かれており、航海の道のりが記されています。
その前に立つ、像は堂々としています。
山口の像とは、かなり顔が違った感じです。

フランシスコ・ザビエル 1
DSCN0489.jpg

DSCN0495.jpg

DSCN0492.jpg

DSCN0494.jpg
フランシスコ・ザビエル 像 1
(山口県 山口市 亀山町 山口サビエル記念聖堂)

撮影日:2014年10月25日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

300px-Franciscus_de_Xabier.jpg
フランシスコ・ザビエル肖像
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)
(1506年-1552年)
スペインの宣教師

1506年4月7日生まれ。
ナバラ王国の貴族の子。
1534年イグナチウス=デ=ロヨラらとともにイエズス会をおこす。
インド,モルッカ諸島で布教。
マラッカであった日本人アンジロ-の案内で,天文18年(1549)鹿児島に上陸,日本にはじめてキリスト教をつたえた。
平戸,山口,豊後などで2年あまり伝道。
インドにもどり,さらに中国をめざすが1552年12月3日広東港外で病死。46歳。
パリ大卒。
シャビエルともよむ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

DSCN0496.jpg
「山口での宣教」
ザビエルは、平戸に置き残していた献上の品々を携え、三度山口に入った。
1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。
それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。
献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などがあったとされる。
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。
また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。
ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2カ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。
彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎となった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
銅像の説明文によると
ザビエルは、毎日2回大殿小路という通りに出かけ、そこにあった井戸端で集まって来る人々に向かい布教したそうです。
その時の様子の銅像です。
教科書によく出てくるザビエルの肖像とは、感じが全然違います。
どっちが本物に近いのだろうかと思いました。


アンデルセン 2
DSCN8835.jpg

DSCN8837.jpg

DSCN8848.jpg
アンデルセン像 2
(岡山県 倉敷市 JR倉敷駅北口)

撮影日:2014年9月14日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

[感  想]
JR倉敷駅北口のアンデルセン広場からちょっと外れた、ロータリーの植え込みの中におられます。
DSCN8845.jpg
右手に本、左手にステッキを持ち、椅子に座った姿で、横を向いて遠くを見つめています。
シルクハットと鷲鼻が印象的です。

アンデルセン 1
DSCN8824.jpg

DSCN8828.jpg

DSCN8834.jpg
アンデルセン像 1
(岡山県 倉敷市 JR倉敷駅北口 アンデルセン広場)

撮影日:2014年9月14日
建設年:平成10年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

アンデルセン
アンデルセンの肖像(1869年)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

アンデルセン 【Hans Christian Andersen】
(1805~1875)
デンマークの童話作家・小説家・詩人

創作童話で世界的に有名。
小説「即興詩人」「絵のない絵本」、童話「親指姫」「マッチ売りの少女」など。
デンマーク語名アナセン。

[エピソード]
◎大学を卒業しなかったアンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴー、シュポーア、ケルビーニ、ダヴィッドなど旅先で多くの作家や学者、芸術家と交友を深めた。生涯独身(未婚)であった。

◎アンデルセンが亡くなった時は、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになった。世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続だった。要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューした事、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。この著作は死後約50年経て発見された。それ等によると生涯に三度、こうした手紙類を記したことが分かっている。探検家デイヴィッド・リヴィングストンの娘との文通は有名である。

◎彼の肖像は、デンマークの旧10クローネ紙幣に描かれていた。
10クローネ

◎首都コペンハーゲンには人魚姫の像とダンス博物館に王立バレエ団時代の資料が、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家(一般公開)とアンデルセン博物館がある。また、1956年には彼の功績を記念して国際児童図書評議会 (IBBY) によって「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として国際アンデルセン賞が創設され、隔年に授与が行われている。この賞は「児童文学のノーベル賞」とも呼ばれ、高い評価を得ている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
JR倉敷駅の北側にある、倉敷駅周辺第一土地区画整理事業の記念として作成されたアンデルセン広場の階段の途中に座っておられます。
DSCN8853.jpg
本を片手に持ち、バイキング像とからくり時計の童話の主人公たちをやさしく見つめておられます。

蒋 介石
DSCN8819.jpg

DSCN8815.jpg
蒋 介石 像
(岡山県 倉敷市 鶴形 昭和大戦博物館準備展示室前)

撮影日:2014年9月14日
建設年:昭和60年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

蒋介石2

蒋介石
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
蒋 介石(しょう かいせき)
(1887年-1975年)
中国の軍人、政治家

光緒13年10月31日生まれ。
日本に留学し、孫文の中国同盟会にはいる。
帰国して辛亥革命に参加。
黄埔軍官学校校長、国民革命軍総司令などをへて1928年国民政府主席となる。
共産党を弾圧したが、西安事件で抗日のための第2次国共合作に合意。
1948年中華民国総統。
翌年国共内戦に敗れて台湾にのがれ、以後その死まで中華民国総統をつとめた。
1975年4月5日死去。89歳。
浙江省出身。字は中正。
【格言など】怨みに報いるに徳を以てす(敗戦国日本に対して)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎陽明学の信奉者だった。

◎戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。

◎遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。

◎総統に就任してからも、毎朝5時に起床し、朝食までの時間を漢書を主とした読書などといった勉強の為にあてるなど、普段から規則正しい生活を送り続け、終生生真面目さを失わなかったと伝えられている。

◎慈湖紀念雕塑公園-中華民国の民主化に伴い、次々と撤去され始めた蒋介石像を収集して展示している公園。
蒋介石の遺体が安置された慈湖にある。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上ると言われている。

◎紙幣-没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蒋介石の肖像が使われてきた。
李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。
ただし、日本の2000円札同様、市中での流通量は極めて少ない。
なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。
twd1000f.jpg

[銅 像]
蒋介石による「暴をもって暴に報ゆる勿れ」の演説が行われた四十周年を記念して建立されたものです。

[感  想]
昭和大戦博物館準備展示室前におられます。
DSCN8816.jpg
右手に山高帽、左手にステッキを持ち、座った像で、引き締まった表情が印象的です。


ウィリアム・ウィリス
IMG_0763.jpg

IMG_0764.jpg
ウィリアム・ウィリス 像
(鹿児島県 鹿児島市 山下町 県民交流センター横)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成22年
分 類:外国人
評 価:☆☆

ウィリアム・ウィリス

ウィリアム・ウィリス(Willis、 William)
(1837年-1894年)
イギリスの医師

1837年5月1日生まれ。
文久2年(1862)駐日イギリス公使館の医官として来日。
戊辰戦争で、薩摩(さつま)鹿児島藩や新政府軍の傷病兵の治療にあたる。
明治2年鹿児島藩にまねかれ、医学校と病院をひらいた。
14年帰国。
1894年2月14日死去。56歳。
アイルランド出身。エジンバラ大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
鹿児島への医学の普及に貢献したイギリス人です。
髭と頭が特徴的な、杖をついた全身像です。

バルザック 2
IMG_0954.jpg

IMG_0955.jpg
バルザック 像 2
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

撮影日:2012年11月18日
分 類:外国人
作 者:オーギュスト・ロダン
評 価:☆☆☆

[感  想]
長島美術館の玄関におられます。
「裸のバルザック」という題が付いています。
オーギュスト・ロダンは、いくつもの習作を経てバルザック像を完成させたようで、いろいろな銅像があるようです。
腕を組んで両足を広げた裸の像です。

IMG_0957.jpg

アルフレッド・コルトー
IMG_0137.jpg

IMG_0126.jpg
アルフレッド・コルトー 像
(山口県 下関市 豊浦町 川棚 下関市川棚温泉交流センター)

撮影日:2012年10月20日
建設年:平成24年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

コルトーwi
アルフレッド・コルトー
Alfred Cortot
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

アルフレッド・コルトー(Alfred Cortot)
(1877年-1962年)
ピアニスト

フランスのピアノ奏者。
ショパン演奏に一時期を画した。
パリ音楽院を卒業,翌1897年デビューして輝かしい成功をおさめた。
その後ワーグナーに傾倒してバイロイトに行き,1902年「神々のたそがれ」と「パルジファル」のパリ初演を指揮。
05年チェロのカザルス,バイオリンのティボーと結成したカザルス・トリオは、20世紀最高のピアノ三重奏団といわれた。
17年母校のピアノ教授に就任したが意見が合わず辞任、19年エコル・ノルマル・ド・ミュジックを創立、後進の育成に力を注いだ。
「世界大百科事典」から

IMG_0129.jpg

『Alfred Cortot アルフレッド・コルトー
川棚を愛し、思いを馳せた、世界的なピアニスト』

コルトー1
世界が酔いしれたショパンの名手
豊かな詩情と多彩な感情、そしてどこまでも艶やかな響き…。
その比類なく美しい演奏で、世界中の聴衆に感動を与えた20世紀前半のフランスを代表する大ピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877-1962年)。
スイス・ジュネーブ近郊に生まれ、幼時期にパリに移ったコルトーはパリ音楽院に進学。
そこで、ショパンの薫陶を受けたエミール・デコム(ドゥコンブ Émile Descombes)に師事し、次第にその天賦の才を開花させていきました。
第一次世界大戦後はピアニストとして欧米を巡演。
とりわけ、ピアノの詩人と謳われたショパンを弾けば、アルトゥール・ルービンシュタインとともに世界を代表するピアニストと絶賛されました。
日本でもショパンのピアノ曲が浸透し始めた昭和初期、コルトーの弾くショパンのSPレコードは、つねにベストセラーになりました。
さらに、コルトーはピアニストだけでなく、指揮者、教育者としても活躍。
1919年には、オーギュスト・マンジョとともに自らの音楽学校「エコール・ノルマル音楽院」を設立し、音楽教育にも惜しみない情熱を注ぎました。

最初で最後となった念願の日本公演
昭和27年(1952年)、晩年期を迎えたコルトーは念願の日本公演を果たし、9月から11月まで全国各地で公演を行いました。
山口県では宇部と下関でコンサートを開催し、この間、コルトーが宿泊したのが川棚温泉のホテルでした。
来日して2週間目を迎えていたコルトーは、まろやかな海となだらかな山に包まれた、やさしい川棚の美しさに魅了され、「私はこれまで世界の美しい海や山を見てきたが、こんなに美しい夢のような島はみたことがない。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。」「日本は素晴らしい。」そういえる国はたくさんあるものじゃない。永久にここに住んでも悔いはない」と、同行していた愛弟子にもらしたと言われています。

ホテルの部屋で手紙を書くコルトー
ホテルの部屋で手紙を書くコルトー
子息ジャン・コルトー氏との記念写真
子息ジャン・コルトー氏との記念写真

私の思いはひとりあの島に残るだろう
そして、宿泊したホテルの窓から眺めた川棚の美しい風景…。
とりわけ厚島と響灘の美しい風景に魅せられた彼は、当時の川棚村長に「天国のようなあの島でこっそり死にたい。ぜひ買いとりたい」と言ったそうです。
居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、その熱心な気持ちに心打たれた村長と村民は「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と快諾。
コルトーは感激して「トレビアン(感激)」を連発。
「必ずまた戻る」、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。
また、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大いに感動したと伝えられています。
そして、川棚村長は記念碑を建てるため、碑文の揮毫をコルトーへ頼みました。
「この上なく美しいこの島に 友情によって書かれたこの碑文が、願わくば絶えず夢の中に住む精神を持ったいちフランス人音楽家の思いをいつまでもとどめておくができますように」と言い、「音楽は精神の炎を噴出せねばならぬ」というべートヴェンの言葉を自らの信条として日本の音楽学徒に残しました。
帰国後コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。
また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。
しかし、既に75歳だったコルトーは帰国後、病に倒れ、思いは果たせぬまま10年後にこの世を去りました。
その後、川棚村は合併、川棚観光ホテルも廃業となり、やがて孤留島の話は過去のものとして細々と語り継がれるのみとなっていました。
コルトーが感激した景色は今も変わらない
コルトーが感激した景色は今も変わらない

川棚に、コルトーの夢ふたたび
コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。
近年、コルトー没後40年の記念事業として、生前コルトーが周囲に話していた「『カワタナ』で見つけた夢の島」探しが始まり、同校の中沖玲子教授に「コルトーのその夢の島はどこにあるのか調べてほしい」と依頼。
中沖教授が日本の関係者と協力して調査した結果、パリのエコール・ノルマル音楽院から川棚のホテルに1本の問い合わせの電話が入りました。
これをきっかけにコルトーが愛した「カワタナで見つけた夢の島、厚島」と「孤留島」がふたたび結びつきました。
フランスで語り継がれていた「美しい夢の島」の思い出や、彼を取り巻く人たちの輪によって、途絶えかけていたコルトーと豊浦の関係は、数十年ぶりに結ばれることとなりました。
もしかするとコルトーの魂は、彼のもう一つの故郷である厚島に今も住み続けているのかもしれません。
平成15年(2003年)10月、孤留島(厚島)の縁で川棚温泉まちづくり協議会が2007年4月、パリ市のエコール・ノルマル音楽院を訪ね、アンリ・ウジェル校長とコルトーの息子ジャン・コルトー氏と面会。
そして、日仏交流150周年にあたる2008年11月に再びパリで下関市とエコール・ノルマル音楽院とのパートナーシップを結ぶ調印式が執り行われました。

コルトーホール完成。あたらしい歴史が始まる。
2010年1月17日に、コルトーが滞在したホテル跡地に「下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜」が完成。
国際的な建築家、隈研吾氏設計による「川棚の杜」は川棚の豊かな自然と呼応するような有機的な建築になることを目指して設計され、コルトーがこよなく愛した厚島や豊浦のまろやかな山並みを、そのまま具現化したような美しいシルエットを持っています。
地元川棚の文化やアートが楽しめる「烏山民俗資料館」も併設された「川棚の杜」には、音楽ホールとしても使用される大交流室が設けられ、その名も「コルトーホール」と命名されました。
コルトーホールのこけら落としとして「コルトー音楽祭」が開催され、コルトーが設立したエコールノルマル音楽院の最高過程を首席で卒業され、マルタ・アルゲリッチ国際コンクール優勝など輝かしい経歴で世界中で活躍される広瀬悦子さんと、同音楽院教授の中沖玲子さんによる素晴らしい演奏が披露されました。
コルトーの思いは長い年月を経て再び川棚の地に新しい夢を育み始めました。
そして、これから川棚から音楽を中心とした日仏文化交流がはじまろうとしています。
「豊田町観光協会ホームページ」から

[感  想]
完成したばかりの銅像です。
光沢のある上半身の像で、彫りの深い顔立ちが特徴的です。
厚島「孤留島(コルトー)」の話も興味深いものです。
「コルトーホール」も有る「川棚の杜」をじっと見つめられています。
また、厚島「孤留島(コルトー)」の方向を見ているそうです。

IMG_0131.jpg

李 舜臣
IMG_0604.jpg

IMG_0605.jpg

IMG_0607.jpg
李 舜臣 像
(韓国 釜山 龍頭山公園)

撮影日:2012年1月7日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

李 舜臣2
李 舜臣(イ・スンシン)
(1545年-1598年)
文禄・慶長の役時の朝鮮の将軍

文禄・慶長の役においては、朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った。
死後から20世紀になるまで無名であったが現在の韓国においてはその功績が評価されて国民的英雄となっており、肖像画が紙幣や硬貨に描かれている。
現在、韓国ソウルの官庁街である世宗路には、李舜臣の銅像が建てられている。
これは軍事政権下(1961年 - 1988年)の力の象徴として設置されたと言われる。
なお、世宗路の他にも釜山龍頭山公園や木浦など、朝鮮半島南海岸に数多くの李舜臣の銅像が建てられている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
海外で初めての銅像です。
豊臣秀吉が朝鮮出兵した時に、日本軍と戦った将軍です。
結構な大きさで、迫力があり、釜山タワーとマッチしていい感じです。
雰囲気が日本銅像とはちょっと違った感じです。

安 煕済
IMG_0531.jpg

IMG_0533.jpg
安 煕済 像
(韓国 釜山 龍頭山公園)

撮影日:2012年1月7日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

安 煕済(アン・フィジェ)
(1885年-1943年)

安煕済氏は、釜山を代表する独立運動家で、教育、言論の世界にいたるまで幅広く活動をした運動家でした。
慶尚南道宜寧郡富田面立山里で生まれた安煕済は、ソウルで勉学を修めた後、故郷で啓蒙活動に勤め、1910年の韓日併合により、国勢が悪化すると、ウラジオストックに渡り、独立運動を開始しました。
ところが、活動を共にする仲間のうち一人が肺結核に倒れると、その仲間の休養を兼ねて気候の暖かい釜山に。
しかし、その当時の釜山は商権までをも日本人が掌握している状況、それを見た安煕済氏は、日本の経済力に対抗するため1914年「白山商会」を設立します。
白山商会は、もともとは穀物と海産物などを売る個人店舗でしたが、その後株式会社になり、規模も大きく拡大します。
安煕済氏はこの「白山商会」での売り上げの一部を上海にあった臨時政府に資金として送金し、独立運動の資金援助をしていました。
また、「白山商会」は独立運動家たちの拠点としても使われて、独立運動のアジトとなっていました。
安煕済氏は独立運動の資金調達だけではなく、釜山市内の韓国人学校の設立要求、優秀な若者を留学に送るなどの教育活動もおこないましたが、「白山商会」は、厳しい取締り、資金の供給と負債のために1937年に倒産し、安煕済氏も釜山を離れることになります。
その後も『中外日報』の社長に就任し、言論を通して総督政治を批判する言論活動、また、1933年には満州にわたり大規模な農場を作り移民者の定着や教育活動、太?教(韓民族の始祖である檀君を祀る韓国固有の宗教)を通した民族独立運動にも力を注ぐなど、投獄生活(1942年に逮捕、1943年に病身保釈)の後、1943年病院で息を引き取るまで、絶え間なく民族独立活動に生涯を捧げました。
「釜山観光旅行ガイド プサンナビ」から

[感  想]
釜山の龍頭山公園の釜山タワーに上がる坂道の前におられます。
釜山出身の独立運動家です。
上半身の像で、きっりとした表情が印象的です。

レオポルド・ミュルレル
121IMG.jpg

122IMG.jpg
レオポルド・ミュルレル 像 
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和50年
分 類:外国人、医学者
作 者:藤田 文蔵
評 価:☆☆☆

レオポルド・ミュルレル(Leopold Muller)
(1824年-1893年)
ドイツ帝国の陸軍軍医
お雇い外国人

◆ドイツ陸軍軍医で、日本の医学教育の整備とドイツ式医学の普及に大きな影響を与えた人物です。
明治4年(1871)に、ドイツ海軍軍医のテオドール・ホフマンとともに来日。
ミュルレルは解剖学・外科学・眼科・婦人科などを担当、ホフマンは内科学を担当しました。
ミュルレルの日本滞在は3年ほどでしたが、当時の日本の医学は漢方から西洋医学へと大きく舵を切り始めた頃で、大学教育に先進のドイツ医学の教育を根付かせた功績は大きかったといわれています。
銅像は、ピッケルハウベを被ったドイツ(プロイセン)伝統の軍服姿の胸像で、薬学部の東側の木立の中に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

123IMG.jpg

[胸 像]
1895年三回忌にあたってミュルレルの胸像が帝国大学構内に設置された。
作者は藤田文蔵で、台座に島田重礼撰、田口米舫筆の碑文が彫られた。
第二次世界大戦中の金属供出の準備としてコンクリートによる複製が作成されたが、結局供出に至る前に終戦を迎えた。
しかしこの胸像は1959年に何者かにより盗まれてしまった。
1964年ミュルレルの縁者が来日するということで、コンクリート複製像を着色して設置したが、十年あまりで老朽化してしまった。
1975年に改めてブロンズ像が設置されて現在にいたる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
なんといっても、この像の特徴は、頭にかぶった帽子です。
恰幅のいい髭の軍服姿が印象的です。

エドワード・ダイヴァース
124IMG.jpg

125IMG.jpg


126IMG.jpg
エドワード・ダイヴァース 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治33年
分 類:外国人、化学者
作 者:長沼守 敬
評 価:☆☆☆

エドワード・ダイヴァース(Divers,Edward)
(1837年-1912年)
明治期に来日したお雇い外国人
イギリス人化学者

ロンドン生まれ。
王立化学カレッジを卒業後,アイルランドで教職につきながらダブリンのクイーンズ・カレッジで医学博士を取得。
その後も病院付属医学校に勤務しつつ,次亜硝酸塩類を発見した。
明治6(1873)年,工学寮の実地化学の教師として来日し,ダイアーを助けて同校の発展に寄与した。
15年にダイアー帰国後はそのあとを継いで教頭となり,工部大学校が東大に合併後も引き続いて化学の研究と教育に貢献し,32年まで在職。
31年勲2等に叙せられたが,昇叙の上申書につけられた論文一覧には,来日前に発表のもの9件,来日後門弟と共同執筆したもの52件,彼の指導で門弟が発表したもの11件が挙げられている。
実験中の事故で右眼の視力を失ったが,1日の欠勤もなく研究に打ち込み,日本における無機化学の基礎を築いた。
帰国時に,東京帝大はその功績をたたえ,名誉教師とした。
32年に帰国後はイギリス学士会員,イギリス化学会副会長,化学工業会長など学界や産業界で活躍した。
東大で工学教師を務めたスミスが工部大学校の教育を批判したことに対し,『エンジニア』誌に反論を載せ,ダイアーの教育実験を弁護したことは有名である。
死没時には日本においても追悼会が催された。
「朝日日本歴史人物事典の解説」から

127IMG.jpg

◆明治6年(1873)に化学の講師として来日したイギリス人理化学研究者・教師。
工部大学校、理科大学で教鞭を執りました。
来日時は36歳の若さでしたが、本国イギリスでは次亜硝酸塩の発見などですでに研究者としての名声も高く、ヨーロッパの理学・化学研究の最先端に立つ人物の一人でした。
日本滞在は26年の永きに渡りました。
銅像は、帰国の翌年に長年の功績を顕彰して建立されました。
豊かな髭を蓄えた姿が印象的な胸像で、理学部7号館のバス通り側角に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
建造されて110年も経っている像ですが、古さを感じさせません。
髭が特徴的で、台座も含めスマートな感じがします。

チャールズ・ウェスト
128IMG.jpg

129IMG.jpg

130IMG.jpg
チャールズ・ウェスト 像
(東京都 文京区 東京大学)

ウェスト (West, Charles Dickinson)
(1847年-1908年)
イギリスの機械工学者

撮影日:2010年12月18日
分 類:外国人、機械工学者
作 者:沼田 一雅
評 価:☆☆☆

1847年1月生まれ。
明治15年(1882)工部大学校(のち東京帝大)教師として来日。
造船学科創設に尽力。
舶用機関学などをおしえ,おおくの造船技術者をそだてた。
明治41年1月10日東京で死去。61歳。
アイルランド出身。ダブリン大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

131IMG.jpg

◆チャールズ・ウェストは、1847年にアイルランドのダブリンで生まれました。
大学で機械工学を修めたのち、製鋼所で働くかたわら造船技術を修得しています。
日本政府の招きで明治15年(1882)に来日。
工部大学校講師として機械工学、造船学を教えました。
周囲を海に囲まれた日本においては、産業の根幹となる機械工業の発展と同時に造船と海運の近代化もまた急務であり、チャールズ・ウェストの教壇で学んだ学生の多くがこれらの分野に巣立ち、その近代化に邁進しました。
来日後はそのまま日本に滞在しましたが、1908年、惜しまれつつ世を去っています。
銅像は、台座付きの胸像で彫刻家・沼田一雅(ぬまたいちが)の手によるものです。
像の周囲にはライトが設置されており、夜間はコンドル像とともにライトアップされますが、胸像でライトアップの設備を持つものは非常に珍しいといえるでしょう。
なお、この像の原型となった石膏像も工学部機械工学科に所蔵(非公開)されています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
工学部1号館前におられます。
ちょと斜めを向いた姿が、いい感じです。
台座も凝っています。

132IMG.jpg

リウス・スクリバ
133IMG.jpg

134IMG.jpg

135IMG.jpg
リウス・スクリバ 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治40年
分 類:外国人、医学者
作 者:長沼守 敬
評 価:☆☆☆☆

リウス・スクリバ(Scriba, Julius Karl)
(1848年-1905年)
ドイツの医学者

1848年6月5日生まれ。
明治14年(1881)来日し,シュルツェの後任として東京大学の外科教師となる。
皮膚病学,梅毒学,眼科学,裁判医学も担当。
34年大学を退職し,聖路加病院の外科主任となる。
日本外科学の恩人といわれる。
明治38年1月3日鎌倉で死去。56歳。
ワインハイム出身。ハイデルベルク大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

136IMG.jpg

◆1881年から東京大学医学部で外科の教鞭を執った(眼科・皮膚科も担当)ドイツ人医学者です。
ベンツ同様、当時、日本人教授が不足していた状況で外科教育の発展に残した功績は大きく、退職後は聖路加病院の外科主任も務めましたが、1905年、57歳の若さで亡くなりました。
銅像は、1907年に日本医学界への貢献を称えて建立されました。
ベンツ像・スクリバ像ともに台座を備えた胸像で、画家・彫刻家の長沼守敬の製作です。
ほぼ同時期に東大に在籍し教壇に立った2人の像は、並んで御殿下グラウンド脇に設置されています。
像の解説文には「内科学外科学を教授指導しわが国近代医学の真の基礎を築いた恩人」とあります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[[エピソード]
◎下関での李鴻章負傷事件、ロシアの皇帝が負傷した大津事件などで、日本政府の要請により現地に出張した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
100年以上も経っている像です。
ベルツ像とともに並んでおられます。
後ろの台座も素晴らしく、シンメトリーで優れたデザインの像です。

エルヴィン・ベルツ
137IMG.jpg

138IMG.jpg

139IMG.jpg
エルヴィン・ベルツ 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治40年
分 類:外国人、医学者
作 者:長沼守 敬
評 価:☆☆☆☆

エルヴィン・フォン・ベルツ
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

エルヴィン・ベルツ (Bälz, Erwin von)
(1849年-1913年)
ドイツの医学者

1849年1月13日生まれ。
ベルツ花の夫。
明治9年(1876)東京医学校の教師として来日し,生理学,内科学,病理学などをおしえた。ツツガムシ病,脚気(かっけ),日本人の身体的特徴などを研究し,温泉の効用も紹介した。
宮内省御用掛。
38年帰国。
「ベルツの日記」をのこした。
1913年8月31日死去。64歳。
ビーティヒハイム出身。ライプチヒ大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

130MG.jpg

◆ベルツは、ドイツ人の医師・医学者で、1876年に来日。
最初は東京医学校で生理学と薬物学を教えましたが、翌年の東京大学医学部発足に伴って内科学の教壇に立ちます。
当時の医学教育は、まだ日本人教授が足りなかったため外国人教授に期待するところが大きく、ベルツは産婦人科学まで任されていたそうです。
教授職は1902年に退きましたが、そのまま日本に留まり、宮内庁侍医も務めました。
1905年帰国。1911年没。
銅像についてはスクリバ像を参照してください。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎蒙古斑
1885年(明治18年)、エルヴィンの医学的貢献でよく知られているのは蒙古斑の命名である。
◎ベルツ水
1883年(明治16年)、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、「ベルツ水」を処方する。
現在ではグリセリンカリ液として日本薬局方・薬価基準に収載されており、17.80円/10ml。

◎草津温泉との関わり
草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。
1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。
「もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。

◎エルヴィンは、親友のシーボルトの影響を強く受け蒐集活動にも取り組む。
花夫人(シーボルト夫人の名も同じ(岩本)ハナ)の協力を得ながら、江戸時代中後期から明治時代前半にかけての日本美術・工芸品約6000点を収集した。
特に、絵師の河鍋暁斎を高く評価し、親しく交わった。
ベルツ・コレクションは現在、シュトゥットガルトのLinden-Museum(リンデン民族学博物館)に収蔵されており、2008年(平成20年)-2009年(平成21年)には「江戸と明治の華-皇室侍医ベルツ博士の眼」展として日本各地で公開された。
展覧会図録がある。

◎文化の面にしてもシーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞に出掛け、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流の榊原鍵吉に弟子入りもしている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
※夏目漱石の有名な小説「三四郎」の中にこの銅像が登場します。
『二人はベルツの銅像の前から枳殻寺の横を電車の通りへ出た。
銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱った』

[感  想]
スクリバ像と並んでいますが、髭を生やした顔は二人よく似ており、同時期に教壇に立った当時間違えられなかったのでしょうか?
蒙古斑の命名者というのも驚きです。
漱石が三四郎の中でこの銅像はどうですか?と問っているのも面白いと思いました。





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。