ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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伴氏
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菅公母子(伴氏) 像
(兵庫県 神戸市須磨区天神町 綱敷天満宮)

撮影日:2016年8月26日
分 類:その他
評 価:☆☆

伴氏(ともし)
(?~872年)
平安時代の女性。菅原道真の母。菅原是善の室。
出自に関しては、正確な記録が残されておらず伴氏(大伴氏)出身以外は不明であり、伴氏が菅原是善の室となった時期も一切未詳である。
承和12(845)年、伴氏は道真を出産。
幼少時の道真は、体が弱く、伴氏も苦労したが、道真が学問の道に進むように献身的に導き育てた。貞観4(862)年には、道真は文章生となる。やがて文章得業生となった道真は、貞観12(870)年に、方略試を及第。道真の未来が、これから拓けようとする矢先の貞観14(872)年正月に、伴氏は、その生涯を終える。
「よろパラ ~文学歴史の10~日本史人物列伝」から 

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菅公母子像
(菅原道真公の母君に抱かれる像)
父は菅原是善(これよし)、菅原道真公の母は伴(とも)氏(名は不詳)。菅原氏は、道真公の祖父清公(きよきみ)のとき土師(はじ)氏より氏を改め、祖父と父は文章博士(もんじょうはかせ)を務めた学者の家系でした。母方の伴氏は、家系には大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人がいる。
「綱敷天満宮ホームページ」から

[感  想]
綱敷天満宮の境内におられます。
赤ん坊の菅原道真をしっかりと抱いた像です。

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楫取 美和子
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楫取 美和子 像
(山口県 防府市松崎町 防府天満宮)

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久坂 文(楫取 美和子)(くさかふみ(かとりみわこ))
(1843年-1921年)
吉田松陰の妹

撮影日:2016年8月21日
建設年:平成27年
分 類:その他
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

はじめ文(文子とも)と称し、のちに美和子と改称した。
1857年、15歳のときに久坂玄瑞と結婚するも、元治元年(1864)禁門の変で夫が落命し、22歳の若さで寡婦となる。
同年9月、玄瑞の生前に養子としていた楫取素彦・寿子夫妻の次男道明(久米次郎)が家督を継ぐと、文は彼を支え久坂家の復興に努めた。ところが、道明は明治12年(1879年)に楫取家を継いだ。なお、時期は不明だが、毛利元徳の夫人安子に女中として仕え、元徳の嫡子元昭の誕生後はその守役として仕えたといわれる。
明治14年(1881年)群馬県令の任にあった素彦の妻、姉寿子が逝去し、明治16年、41歳のときに素彦と再婚。群馬を去った後も貴族院議員などの公務で多忙な素彦を支えた。明治30年、素彦が明治天皇第十皇女貞宮の御養育主任に任じられると、貞宮に御付として仕えた。晩年は防府市で過ごした。
「萩市観光協会 萩の人物データベース」から

『山口・防府に楫取素彦・文夫妻の銅像 地味な2人知名度アップを』
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主役で吉田松陰の妹の文と、準主役で文の再婚相手である楫取素彦。
松陰や久坂玄瑞、高杉晋作など幕末の逸材を多数輩出した長州藩においては、かなり地味な存在だ。
楫取夫妻の終焉の地、山口県防府市では、大河ドラマを機に2人の知名度アップを図るキャンペーンが展開されており、29日には同市の防府天満宮に銅像が初めて完成した。(将口泰浩)
楫取素彦は文政12(1829)年、長州藩医の松島家の次男として萩に生まれ、小田村家の養子となって小田村伊之助と名乗る。
後に幕府の追及を逃れるため、藩命で「楫取」に改名した。藩主の毛利敬親の側近として薩長同盟を推進し、維新を迎える。松陰が「正直者すぎて困る」と評すほどの、まさに「至誠の人」だった。
維新後、群馬県の初代県令(現在の県知事)に任じられ、蚕糸業の発展などに尽くす。
だが、明治14年に最初の妻を亡くし、16年、文と再婚した。
文も、夫である松陰門下の久坂玄瑞を明治維新期の禁門の変で亡くしていた。
再婚した楫取と文は明治26年、防府に移住し、2人ともここで亡くなった。
大河ドラマでは、文を井上真央さん、楫取を大沢たかおさんが演じている。
松陰の志を受け継ぎ、大きな功績を残した楫取だが、知名度は低い。
大河ドラマは地味な夫妻の知名度アップ、そして縁の深い防府をアピールするのに絶好の機会だ。
このため、地元のライオンズクラブが2人を顕彰する銅像の建立を計画し、29日、除幕式を迎えた。
銅像は、防府天満宮にある貞宮遙拝所のそばに建つ。
楫取は明治天皇皇女、貞宮多喜子内親王の御養育主任も務めていたが、内親王は3歳で夭逝。
楫取は防府天満宮に遺品を奉納し、遙拝所が建った。
楫取夫妻の銅像は優しい表情で遙拝所を見守っている。
除幕式には山口県の村岡嗣政知事が出席し、「県内外から多くの観光客に足を運んでいただきたい。
銅像建立を契機に地域全体が元気になってほしい」とあいさつした。
2015.3.30産経新聞

[感  想]
防府天満宮の境内におられます。
着物姿の立像で、夫婦一緒の像です。
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遙拝所を見守っておられます。

田中 鐵三郎
田中 (5)

田中 (1)

田中 (6)
田中 鐵三郎 像
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和43年
分 類:財界人
評 価:☆☆☆

田中 鐵三郎(たなか てつさぶろう)
(1883年-1974年)
大正-昭和時代の銀行家
明治16年1月20日生まれ。
大蔵省から日銀にうつり、第一次大戦中ヨ-ロッパ駐在員をつとめる。
日銀理事、満州中央銀行総裁をへて昭和17年朝鮮銀行総裁。
戦後は日本海外移住振興社長、日本外交協会会長。
昭和49年12月2日死去。91歳。佐賀県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

田中 (2)

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
田中 (3)

上半身の像で、鼻の下の髭が特徴的です。

岸 清一 2
岸 (4)

岸 (5)

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岸 清一 像 2
(東京都 渋谷区神南 岸記念体育会館)

撮影日:2016年2月29日
建設年:昭和39年
分 類:弁護士、スポ-ツ功労者
作 者:西田 明史
評 価:☆☆☆

岸 清一(きし せいいち)
(1867年-1933年)
明治-昭和時代前期の弁護士、スポ-ツ功労者
日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。

慶応3年7月4日生まれ。帝国大学在学中ボ-ト選手として活躍。
卒業後弁護士となり、民事訴訟法の権威として知られる。
大日本体育協会会長、IOC委員もつとめた。
昭和8年10月29日死去。67歳。
遺志による寄付金をもとに岸記念体育館がたてられた。出雲(島根県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[岸記念体育会館]
第2代大日本体育協会会長・岸清一の遺言により100万円(現在の28億円程に当たる)が
寄付されて1940年に東京府神田駿河台に建設。
1964年のオリンピック開催時に現在地に移転。
建物前に岸清一の銅像が設置されている。
地下1階に体育協会資料室が併設され、スポーツ関連の書物が閲覧可能になっている。
岸 (3)

[感  想]
岸記念体育会館の敷地内におられます。
上半身の像で、彫りの深い顔と口髭が印象的です。

岸 清一 1
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岸 清一 像 1
(島根県 松江市 殿町 松江県庁前)

岸 清一(きし せいいち)
(1867年-1933年)
弁護士,スポーツ功労者

撮影日:2010年8月10日
建設年:昭和10年  
分 類:文化人
作 者:内藤 伸
評 価:☆☆☆

岸 清一
岸 清一
「松江市ホームページ」から

慶応3年7月4日生まれ。
帝国大学在学中ボート選手として活躍。
卒業後弁護士となり,民事訴訟法の権威として知られる。
大日本体育協会会長,IOC委員もつとめた。
昭和8年10月29日死去。67歳。
遺志による寄付金をもとに岸記念体育館がたてられた。出雲(島根県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

現在も東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。
岸記念体育館は岸の死後に遺言により100万円の寄付がなされ1940年(昭和15年)にお茶の水に建設されたが、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催を機会に、同年7月に渋谷の代々木に移転されたものである。
1924年(大正13年)3月に紺綬褒章を受章。
故郷の松江市の島根県庁には銅像があり、1964年に除幕式が行われた際にはアベリー・ブランデージIOC会長が参列し、『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』と讃辞を述べ、彼の功績を讃えた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
島根県庁前の広場に堂々と立っておられます。

玉川庄右衛門、清右衛門
玉川兄弟 (2)
玉川庄右衛門、清右衛門 像
(東京都 文京区本郷 東京都水道歴史館)

撮影日:2016年2月27日
分 類:その他
作 者:松野 伍秀
評 価:☆☆

玉川 庄右衛門(たまがわしょうえもん)
(?-1695年)
江戸時代前期の玉川上水工事請負人
江戸の人。幕命により、弟清右衛門とともに承応3年武蔵羽村より江戸の四谷大木戸にいたる上水路を完成させた。
この功で200石の扶持をあたえられ、上水役に任じられ、玉川姓をゆるされた。
元禄8年6月6日死去。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

玉川 清右衛門(たまがわ せいえもん)
(?-1715年)
江戸時代前期の玉川上水工事請負人
江戸の人。幕命により、兄庄右衛門とともに承応3年武蔵羽村より江戸の四谷大木戸にいたる上水路を完成させた。
この功により上水役に任じられ、玉川姓をゆるされた。
正徳5年1月1日死去。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

■玉川兄弟
製作:松野伍秀
玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は江戸時代初期の人物で、出自や生没年には不明な点が
多いですが農民出身あるいは土木工事業者の束ね役(口入れ業)ともいわれています。
兄弟が歴史の舞台に登場したのは、人口急増期を迎えた江戸の水不足(後には武蔵野の新
田開発の水源不足)を解消するため、新たな上水道の建設が計画されたときでした。
江戸幕府は承応元年(1652、諸説あり)に多摩川からの取水と水道建設を計画。
老中・松平信綱を総奉行にして建設に着手します。その事業を請け負ったのが玉川兄弟で
した。
水路の設計は、松平信綱の家臣である安松金右衛門(異説あり)が担当し、日野、福生、
羽村の3取水地案が提案されます。日野・福生は失敗に終わりましたが、最後の羽村案に
より着工翌年の承応2年に、羽村取水堰から水路の終点である四谷大木戸までの総距離約
52キロの水路が完成しました。水路の一部は今も東京都水道局により使用されています。
工事予算は約6千両(現在の金額で2億近い)ありましたが、当初の工事失敗や「水喰土
(みずくらいど)」と呼ばれた関東ロ-ム層対策(浸透性の高い赤土層に対し、木造や石積
みの水路を構築するなど)により予想外に費用がかさみ、兄弟は家などの私財をなげうっ
て工事を進めました。
幕府は工事完成後、兄弟の功績に対して「玉川」の姓を名乗ることを許して士分相当とし、
200石の扶持を与えるとともに上水を管理する「玉川上水役」に任じてその努力に報いました。
銅像は、羽村取水堰近くの羽村公園内にあります。
兄弟の遺徳を偲ぶ声が地元・羽村を中心に高まったことを受け、昭和33年(1958)に、羽
村水源愛護会により建立されました。
「玉川兄弟の像」と名付けられたこの像は、工事に臨んだ姿を描いています。
左手に測量用の測縄を持っている立像が兄の庄右衛門、右手に木(竹)製の尺杖らしきも
のを持つ片膝の座像が弟の清右衛門といわれ、その表情からは難工事に挑む強い意志を感
じさせます。
江戸庶民の恩人であった兄弟の往時の姿を想像させてくれる像です。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
東京都水道歴史館の2階におられます。
玉川兄弟 (1)
羽村公園内にある銅像のレプリカだと思います。
工事に臨んだ姿を描いた兄弟の小ぶりな像です。

日本二十六聖人
日本二十六聖人 (17)

日本二十六聖人 (1)

日本二十六聖人 (11)

日本二十六聖人 (12)

日本二十六聖人 (13)

日本二十六聖人 (7)
日本二十六聖人 像
(長崎県 長崎市西坂町 日本二十六聖人殉教地(西坂公園))

撮影日:2015年3月21日
建設年:昭和37年
分 類:その他
作 者:舟越保武
評 価:☆☆☆

日本二十六聖人は、1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された
26人のカトリック信者。
日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初め
てであった。
この出来事を「二十六聖人の殉教」という。
26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」
と呼ばれることになった。

1962年には、列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)
と彫刻家の舟越保武による記念碑が建てられた。

[感  想]
二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑です。
豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師
6人と日本人信徒20人が処刑された丘にある、悲しい記念碑です。

日本二十六聖人 (18)

ルドピコ茨木
聖ルドビゴ (7)

聖ルドビゴ (2)

聖ルドビゴ (8)
ルドピコ茨木 像
(長崎県 長崎市本尾町 浦上天主堂)

撮影日:2015年3月20日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

ルドビコ茨木
スケッチ/茨木舟越
(日本二十六聖人記念館蔵)

ルドビコ茨木(1585~1597)
<26聖人殉教者・聖ルドビコ茨木像>
殉教の1年前に受洗。
京都の聖フランシスコ会修道院で侍者として仕える。
司祭が逮捕された時、彼は除外されたが、捕えるよう願い出た。
「自分の十字架はどこ」と刑場で尋ねた話しは今も語り継がれる、最年少者。
殉教時の年齢12歳

[感  想]
浦上天主堂の敷地におられます。
十字架を胸に抱いた立ち姿です。
しっかり前を見つめる、きりりとした表情が印象的です。

眞崎 今一郎
眞崎

JA (3)
眞崎 今一郎 像
(長崎県 長崎市出島町 長崎県農協会館)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和52年
分 類:その他
作 者:米林 勝二
評 価:☆☆☆

眞崎 今一郎
まさきいまいちろう
(1906年-1979年)

北高来郡森山村(現 諫早市森山町)生まれる。
家業の農業を継いで以来、農業の発展に一生をささげた。
村農業会長などを務めた後、県農協の重役を歴任し、県農業界のリーダーとして敏腕を振るった。
この功績が認められ、森山町では初めての名誉町民となり、昭和52年には勲三等旭日綬章を受章した。
昭和54年、73歳で他界。その偉業をたたえ、県農協会館に胸像が設置されている。
「広報諫早」から

[感  想]
長崎県農協会館敷地の一角におられます。
眼鏡をかけた上半身の像です。

井上 伝 2
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井上 伝 像 2
(福岡県 久留米市 寺町 徳雲寺)

撮影日:2015年2月2日
建設年:平成13年
分 類:その他
作 者:立体写真像(代)盛岡公彦
評 価:☆☆☆

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[感  想]
徳雲寺の墓所の近くにおられます。
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1と同じく着物を着た上半身の像ですが、
こちらの像の方が、表情がおだやかな感じがします。



井上 伝 1
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井上 伝 像 1 
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和50年(建立昭和51年)
分 類:その他
評 価:☆☆☆

井上伝
井上 伝(いのうえ でん)
(1789年-1869年)
江戸時代後期の女性。

天明8年12月30日生まれ。
父は筑後久留米の米穀商平山源蔵。
久留米絣の創始者。
12歳ごろ、白糸をくくり藍でそめておる技法を考案した。
おおくの弟子におしえ、お伝絣の名で普及した。
明治2年4月26日死去。82歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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21歳のときに原古賀町の井上八次に嫁ぎ二男一女を儲けるが、伝が28歳のとき八次は病死。
嫁いでからは試行錯誤しながら久留米絣を「阿伝加寿利」として売り出した。
3人の子をかかえながら井上の織物の美しさは評判になり、最初は二十人前後だった弟子が
井上が40歳のころには3400人を超えた。
そのうち400人は各地に散ばり久留米絣は久留米藩の特産品となる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

江戸後期、久留米絣の創始者井上伝と東芝の創業者田中久重は、五穀神社(通外町)の近所で生
まれました。
五穀神社は7代藩主 有馬頼徸によって創建された神社で、境内には伝と久重の胸像が建てられて
います。この2人にはある繋がりがありました。
久重の手記とされる「年譜」に『文化10年絵がすり発明』とあります。文化10年(1813)
といえば、伝は26歳、久重は15歳です。「かすり」は、伝が13歳のときに創製した紺地に白
い斑紋の綿織物のことで、模様が掠れて見えたことから『加寿利』と名づけて販売していました。
どうして久重は『絵がすり』の発明をすることになったのでしょうか。
あるとき、伝は機織りの手を止めました。また絵の模様がうまく織れなかったのです。伝は城下・
原古賀町(現・久留米市本町)の井上家に嫁いでからも、寝る間を惜しんで織っていました。どう
しても紺地に白い部分を規則的にあしらった模様に満足できないのです。
「これまでと全く違った方法が必要なのだわ。あの少年なら何か分かるかもしれない」
それが「発明少年」の久重でした。わずか9歳で大人も驚くような『開かずの硯箱』をつくって
から、次々に箱や箪笥に独創的な細工を加えていると評判だったのです。伝は迷いました。自分
の生家の近くにある鼈甲細工屋の息子とはいえ、当時の男女関係の風習から親しくはなかったの
です。しかし、意を決して伝は久重に会いに行き、たずねました。
「紺の中に、花や鳥のような模様を織りたいの。よい方法はないかしら」
久重は、『加寿利』で名の知れた伝を知っていました。その女性が絵の模様をうまく織り出せずに
苦心しているというのです。久重は首を傾げました。
「紺と白のまだらの模様が織れたのだから、同じことだろうに。どうしてだろう」
久重は大人が驚くような理屈をいう少年でした。その頃、家業の鼈甲細工に興味がもてなくなり、
五穀神社の祭礼で自分のからくり人形を披露しようと、2階の部屋にこもって考案と製作にふけ
っていたのです。興味を覚えた久重は、機の構造や織り方について伝に何度も質問しました。年
齢の差はあっても、2人には相通じるものがあったのです。それは、新しいモノを創り出す喜び
でした。久重は熱心に耳を傾けて、こう答えました。
「からくり人形とは違いますが、やってみます」
久重はすでに構想を練っていたのでしょう。部屋に戻って何日も考え、ついにある案を思いつき
ました。それは「板締め技法」といわれるものです。板面に絵の模様を彫刻して、それから織り
糸をその板に張り、もう1枚の板で挟んで、かたく締めて染めたら絵模様が織り出せるのでした。
伝は少年の才能に感服しました。
「絵の模様を織る方法は分かったわ。後は、私の腕しだいね」
今度は、伝が試作を繰り返しました。そうして、ようやく心に描いていた花の柄が浮かび上がっ
たのです。さらに久重は、機の改良や糸の組み方なども教えたとされています。こうして、久重
の考えた『絵がすり』が生まれ、伝に新しい技術が加わったのです。
それからの2人は全く異なる道を歩みます。伝は久留米の地に留まり、数千人にも及ぶ弟子に自
分の技術を教えました。久重は、からくりの才から「からくり儀右衛門」と呼ばれ、大阪・京都
などに出て、時計師、近代科学の技術者として活躍しました。
伝と久重は、子どもの頃から折に触れて五穀神社にお参りしたことでしょう。郷学の森に並んで
建つ2人の胸像は、お互いの偉業を称えるようにほほ笑んでいます。
主な参考資料=『久留米絣200年のあゆみ』・『先人の面影・久留米人物誌』・
『田中久重伝』・『からくり儀右衛門』他 取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
「久留米市観光コンベンション協会ホームページ」から

[感  想]
五穀神社境内の郷学の森におられます。
着物を着た上半身の像です。
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久留米絣でつながりのある田中久重像と並んでいるのが良いです。

田中 久重
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田中 久重 像 
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和32年(建立昭和51年)
分 類:その他
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

田中 久重
田中 久重(たなか ひさしげ)
(1799年-1881年)
幕末・明治の機械技術者。

久留米のべっこう細工師の長男として生まれ、幼時より機巧の才にたけ、〈からくり儀右衛門〉と
呼ばれた。
1824年、諸国遍歴に旅立ち、長崎を経て、大坂、京都に移り、天文暦学の土御門家に入門、嵯峨
御所より御用時計師に与えられる近江大掾の称号を授かり、京都に機巧堂という店舗をかまえた。
各種の高級時計、無尽灯、雲竜水、須弥山儀などを製作し、また江戸期最高の万年時計を完成し
たが、これらは買手がつかず、見世物のからくり興業で渡世していた。
「世界大百科事典」から

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【工夫し続けた「東洋の発明王」】
からくり儀右衛門・田中久重
からくり儀右衛門は、本名を田中久重といい、江戸時代後期の寛政十一年(1799年)、今の久留
米市通町でべっ甲細工をつくる家の長男として生まれました。
幼いころから仕事場に座り込んで、父弥右衛門の手元をじっと見つめ、「たいまい」と呼ばれる海
亀の甲らが、櫛やめがねの縁に変わっていく様子を面白そうに見ている子どもでした。
あるときは近所の鍛冶屋へ出かけ、真っ赤な鉄の塊が鎌や包丁などに形が変わっていく様子を一
心に見ています。またあるときは、道具屋でかんなで板をけずるやり方を見ています。そのうち
に刃物のつくり方や傘づくり、漆塗り、人形づくりなど、どうやってつくっていくのかをすっか
り覚え込んでしまいました。
儀右衛門が九歳のとき、寺子屋ですずり箱にいたずらをされたことがありましたが、儀右衛門は
引出しのつまみをちょっと回しておけば、決して開くことのできないような仕掛けをつくって、
友だちや先生をびっくりさせました。
また、近所には、久留米かすりを発明した井上伝という人が住んでいました。儀右衛門は十五歳
のとき、もっと新しい模様がつくれないかという伝の悩みを聞いて、それまでの十字模様やあら
れ模様とは違った花や鳥や人の形をした絵模様の美しいかすりを織ることができる機械をつくり
出し、織り方や下絵の描き方まで教えたので、久留米かすりの評判がいっそう高くなりました。
二十歳になると、さまざまなからくり人形をつくっては人々を驚かせ、その人形を持って大阪、
京都、江戸などを回りました。からくり人形はどこへ行っても大評判で、「からくり儀右衛門」の
名は日本中に知れわたりました。
ところが、父親の死後、儀右衛門の発明工夫を陰ながら見守り、励まし続けてくれた母親が亡く
なりました。自分の好きな仕事に夢中になっていて、何の恩返しもできず両親を失ったことに、
深い悲しみと後悔に暮れていた儀右衛門の耳に、先に亡くなった父親の声がよみがえってきまし
た。
「立派な発明家になって国のため、人のためにつくす」という約束の言葉です。儀右衛門は、は
っとしました。からくり人形を工夫する知恵は、もっと大切なことに使わなければならない…。
そこで、さらに勉強し自分の力が十分に発揮できる場を求めて、妻や子どもを連れ大阪に住まい
を移しました。儀右衛門、三十六歳の出発です。
当時大阪では、幕府に不満を持った武士たちの反乱が相次いでいました。大塩平八郎の乱による
大火事で町は焼かれ、儀右衛門も家や家財道具、発明道具をすべて失いました。焼け出されて知
人宅に世話になっていた儀右衛門は、ちょろちょろとしか水の出ない「竜吐水」というポンプを
何とか工夫して、水を高く出せないか一生懸命に考えました。そして四人がかりの手押しポンプ
「雲竜水」をつくり、見物人の目の前で一〇メートルもの水を勢いよく出して見せました。
人々は大いに喜び、たくさんの注文がきました。
儀右衛門はからくり人形をつくるときに、ぜんまい仕掛けやばね仕掛けの工夫をした経験から、
壊れた時計の修理をよく頼まれました。外国製のとても複雑な機械の時計もたちまち直してしま
うので、とうとう自分の力で外国製に負けない時計をつくろうと決心しました。
こうして完成したのが、日本最高の作品といわれる万年時計で、「万年自鳴鐘」と呼ばれる六角形
の時計です。
万年自鳴鐘は、一面は西洋の時間、二面は日本の時間、三面は曜日、四面は季節、五面は今夜の
月の大きさ、六面は子丑寅(ねうしとら)などの刻(とき)をあらわし、一番上には赤い球と白い球が
くるくると回るようになっており、太陽と月の動く様子が一目見て分かるようになっていました。
 五十二歳になってもなお熱心に西洋の天文学や蘭学を学んだことが、儀右衛門の発明をさらに
進歩させていきました。儀右衛門の名声を聞いた佐賀藩では、彼を招き、初めて日本人の手によ
ってつくられた蒸気機関をすえ付けた汽船を完成させました。
明治時代を迎えると、儀右衛門は七十五歳で東京に移り、現在の東芝のもととなる工場をつくり、
明治十四年(1881年)、八十二歳で亡くなるまで活動し続けました。
【出典、参考文献】
「ふるさと久留米をきずいた人びと」久留米市先達顕彰促進協議会

万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)
万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)


久留米駅前
久留米駅前(まちなか口)には旧駅舎時代の2005年ごろからからくり時計が設置されている。
再開発に伴い新駅舎完成直後から一時撤去されていたが、2011年3月上旬に再設置された。

[感  想]
五穀神社境内の郷学の森におられます。
着物を着た上半身の像で、髭が特徴的です。


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林 勇蔵
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林 勇蔵 像
(山口県 山口市 小郡上郷)

撮影日:2014年11月22日
建設年:昭和46年
分 類:幕末の尊攘運動家
評 価:☆☆☆

林 勇蔵(はやし ゆうぞう)
(1813年-1899年)
幕末の尊攘運動家

文化10年7月16日生まれ。
新田開拓、椹野川堤防工事などにつくし、安政2年(1855)周防(山口県)吉敷郡小郡宰判の大庄屋となる。
元治元年からの萩藩内部抗争では庄屋同盟を結成して改革派を財政的に援助し、勤王大庄屋とよばれた。
明治5年から県租税課につとめ、地租改正にかかわった。
明治32年9月24日死去。87歳。本姓は山田。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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高杉晋作らを支えた小郡の大庄屋
幕末の農民
1813(文化10)年、吉敷郡矢原村(現 山口市)に生まれ、小郡宰判の林家の養子となりました。
上中郷(現 山口市小郡上郷)の庄屋となりますが、当時上中郷は椹野川の洪水によって米を収穫できない年が度々ありました。
勇蔵は1851(嘉永4)年、仁保津の丘の上に水田を作ることを考え、鉱山を掘る技術を取り入れて池や水路用トンネルなど(椎の木峠トンネル)を作り、その後、約10ヘクタールの水田を完成させました。
1855(安政2)年、勇蔵は小郡宰判の大庄屋となりました。
1864(元治元)年、幕府から萩藩征討の命令が出され、藩の主導権を幕府に従う人たちが握り、それに反発して高杉晋作らが挙兵します。
勇蔵は翌年、晋作らの改革派を財政的に援助し、また、庄屋同盟を結成して支え、勤王大庄屋と呼ばれるようになりました。
明治維新後は山口県租税課に勤め、農民のための地租改正の仕組みを作りました。
また、洪水を防ぐため椹野川を改修し、小郡の人々のために力を尽くし、満86歳で亡くなりました。
「山口県の先人学習コーナー」施設内の参考資料 山口県人づくり財団ホームページから

[感  想]
山口市小郡上郷児童館の近くにおられます。
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着物で正座をした姿の像で、前をしっかりと見つめた、きりりとした表情が印象的です。

本田 保
本田  (3)

本田  (5)
本田 保 像
(福岡県 三井郡 太刀洗町 今村カトリック教会)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:司祭
作 者:中田 秀和
評 価:☆☆☆

本田
本田保(ほんだ たもつ) 
(1855年-1932年)

1896(明29)年9月今村教会の主任司祭となる。立派な教会堂をつくることが、宣教布教の第一歩であるとの信念を固め、老朽教会の改築を計画した。(建設予算3万円)
本田師は自分の食事までも倹約したり、節約して貯蓄に努める一方、ドイツの雑誌「カトリッシェン・ミッショネン」にラテン語で寄稿するなどの活動で、フランスやドイツの信者からも建築資金が寄付された。
また今村から海外移民した人々の協力も得て、今村信徒の労働奉仕により工事が進められた。
1912(大1)年着工、1913(大2)年12月
双塔ロマネスク赤レンガ造りの現聖堂を完工。
本田師は(昭3)年までの32年間、主任司祭(在任善牧者)を務めた後、長崎蔭ノ尾教会に転任、聖堂を改築して司祭館を建てた。
本田  (4)

本田  (6)

本田  (1)

[感  想]
今村カトリック教会の敷地内におられます。
髭が特徴的な、上半身の像です。
本田  (2)

本田  (7)
じっと、レンガ造りの教会を見つめておられます。

宗像 小平太
宗像 (1)

宗像 (3)

宗像 (2)
宗像 小平太 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

宗像 小平太(むなかた こへいた)
(1876年-1926年)
撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和28年
分 類:警察署消防主任
評 価:☆☆☆

明治33年福岡県警察官となり、
大正5年(1916)久留米警察署消防主任を拝命。
消防における献身的努力が認められ昭和6年功績をたたえ銅像建立、
第2次大戦に伴い銅を供出されたが昭和28年再建立された。

[感  想]
水天宮の境内におられます。
久留米の消防活動に尽力された方のようです。
制服制帽姿の上半身の像です。

伊藤 隣一
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伊藤 隣一 像
(愛媛県 松山市 三番町4 愛媛県林業会館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和45年
分 類:その他
評 価:☆☆☆

伊藤 隣一
(1887年-1968年)

〔碑文内容〕
伊藤隣一翁は本県林業の父である。
大正四年、東大卒業以来、半世紀にわたり、県林務課長、県森連会長として、一筋に林業の振興に盡痒した。
全國に誇る林業愛媛の業績は、翁の愛郷精神と不抜の信念に基づく唱導と感化によるものであり木材しいたけ共販市場の開設は、森林組合の先駆活動として知られている。
茲にその尊像を建立して餘香を拝せんとするゆえんである

[感  想]
愛媛県林業会館前におられます。
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太い眉と細い目が特徴的な胸像です。
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じっと愛媛県林業会館を見つめています。

鍵谷 カナ
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鍵谷 カナ 像
(松山市 松山市 久万の台 民芸伊予かすり会館)

撮影日:2013年3月20日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

鍵谷 カナ(かぎや カナ)
(1782年-1864年) 

江戸時代後期の伊予絣(いよがすり)の創案者。
天明2年生まれ。生家は伊予(愛媛県)の農家。
金刀比羅宮参詣の途中、久留米商人のきていた久留米絣に着想をえて考案。
一説にはわら屋根ふきかえのとき、竹をしばった跡の斑紋をみて案出したという。
元治元年死去。83歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
民芸伊予かすり会館前におられます。
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着物姿の胸像です。雨が降っていたのが残念でした。

菅原 利鑅
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菅原 利鑅 像
(愛媛県 今治市 通町 今治城)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和30年
分 類:織物技師
作 者:大西 甚平
評 価:☆☆

菅原利鑅
菅原 利鑅
(1891年-1958年)

高級なジャカ-ド織りの今治タオルの生産に尽力した。


[感  想]
今治城内の公園におられます。
小ぶりな胸像で、腰の部分が細くなっている珍しい像です。

佐藤 寛子
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佐藤 寛子(さとう ひろこ)
(1907年-1987年)
内閣総理大臣佐藤栄作の妻

佐藤一家
夫栄作が鳥栖運輸事務所長時代の佐藤一家
(左から寛子、二男信二、夫栄作、長男龍太郎、母フジエ)

[エピソ-ド]
◎1969年沖縄返還協定調印のため、夫に同行して渡米した際に、ミニスカートを穿いて話題となった。

◎栄作が東京・築地の料亭「新喜楽」で脳卒中発作のため倒れた時、行き届いた治療ができる病院への搬送を勧める医師らの申し出を頑として拒み続けた。
脳卒中は動かしてはならないという俗説をかたくなに信じたからだといわれている。

◎栄作の死後も女性週刊誌の対談等に登場するなど、マスメディアに多く取り上げられた。

◎越路吹雪のファンとしても有名で、越路吹雪後援会長を務めた。
また1975年4月6日放送の「アップダウンクイズ」(ネットチェンジに伴うTBS系での初放送)ではシルエットゲストを務めたほか、晩年までワイドショーなど多くのテレビ番組に出演している。他にも船橋予備校名誉理事長を務めた。

◎著書に「花-追想」、「宰相夫人秘録」(朝日新聞社、文庫でも再刊)等がある。


[感  想]
眼鏡をかけ、着物姿の上半身の像です。
ファーストレディとして活躍されたようです。

岸 良子
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岸 良子 像
(山口県 熊毛郡 田布施町 下田布施 田布施町郷土資料館)

撮影日:2013年3月12日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

岸 良子(きし りょうこ)
(1901年-1980年)
内閣総理大臣岸信介の妻

岸家族
左から良子、信和、佐藤栄作、岸信介、吉田寛(大正12年)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
[エピソ-ド]

◎佐藤栄作の総理在職中、短刀を持った男が世田谷区代沢の私邸に押し入ったことがある。幸い男は捕まり、佐藤も無事だったが、あとでその件を聞かされた気丈であるはずの妻・寛子はガタガタと震えあがった。
一方、岸が退陣後、右翼に刺された時、良子は一切取り乱すことがなかった。
政治家としての夫の命は、国に捧げたものとハラがすわっていた。
「総理大臣の妻たち 小林吉弥著」から抜粋

[感  想]
岸信介の横におられます。
眼鏡をかけた着物姿が印象的です。

木原 六郎
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木原 六郎 像
(山口県 下松市 末武上 花岡八幡宮)

撮影日:2013年3月12日
建設年:昭和43年
分 類:その他
作 者:長嶺 武四郎
評 価:☆☆☆

木原 六郎(きはら ろくろう)
(1891年-1957年)
山口県養鶏組合連合会長、下松市議

かすてらせんべい
「かすてらせんべい」
戦後に生まれてから、素朴なカタチと昔懐かしい風味で親しまれてきた「かすてらせんべい」。
小麦粉や卵などを混ぜた生地を板状に焼いた後、温かいうちに巻いて直径5cm、長さ25cmのロール状にしたお菓子です。
切りやすいようにブリキ製小型のこぎりが付いています
「かすてらせんべいの歴史」
「かすてらせんべい」を考案したのは、木原六郎さん。
花岡小学校隣の児童公園に銅像があります。
花岡養鶏共同組合を設立し、初代組合長を務め、割れた卵や無精卵を有効利用するために鶏卵せんべいやボーロなどの製造を始めたそうです。
「ほうえい堂ホームページ」から

[感  想]
下松市の花岡八幡宮へ上る階段横の公園におられる上半身の像です。
下松市の発展に尽力された人のようです。
「かすてらせんべい」も一度食べてみたいです。

谷 玉仙尼
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谷 玉仙尼 像
(山口県 下関市 吉田 東行庵)

撮影日:2012年12月31日
建設年:平成21年
分 類:その他
作 者:田村 務
評 価:☆☆☆

谷 玉仙尼(たにぎょくせんに)
(1920年-1989年)
東行庵の3代目 庵主

本名 末成チカ。
大正9年 下関市外浜町(現中之町)に生まれ、5~6歳の時に相次いで両親を亡くし、親戚の手によって東行庵につれてこられた。
26歳のときに、3代目庵主となり、昭和41年 東行100年記念事業として、維新の志士たちの功績を人々に伝えるため、県内だけでなく東京、大阪の企業をまわっては、頭を下げて寄付金を集め、東行記念館を設立。
さらに昭和46年からは、各地を訪ね歩いて、忘れ去られた諸隊士の墓を持ち帰り、東行庵に安置して供養した。
また東行庵の隣接地に、吉田保育園をつくり、東行120年祭の記念イベントとして「海峡ウォーク」を行った。
「ぶちしものせきホームページ」から

「晋作の慰霊と顕彰に尽力 東行庵3世庵主・玉仙尼の銅像完成」
東行庵に完成した3世庵主、谷玉仙尼の銅像。
建立実行委員長の古川薫さんらが除幕した
吉田の東行庵に1日、高杉晋作の慰霊と顕彰に尽力した3世庵主、谷玉仙尼(1920~89年)の銅像が完成した。
除幕式があり、関係者や地元住民ら約150人が出席した。
玉仙尼は1946年に庵主となり、晋作の墓所の整備や遺品の保存、奇兵隊の慰霊墓地開設に心血を注いだ。
吉田緑保育園の設立やカンボジアの難民キャンプ支援など教育、福祉にも力を入れた。
今年10月で没後20年となる。
銅像は市内の有志らでつくる実行委員会が建立。制作は梅光学院大教授で、彫刻家の田村務さん(61)が担当した。
高さは台座と合わせて約1.7メートルで、池のほとりに座して訪れた人を静かに見守る様子を表現している。
制作費約650万円は協賛企業や賛助者から募った。
「山口新聞 2009年10月2日(金)掲載」から引用

[感  想]
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東行庵の敷地内の池のほとりおられます。
袈裟を着て座っている姿でやさしい表情が印象的です。
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じっと東行庵や晋作のお墓を見つめられています。



平 時子
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平 時子 像
(山口県 下関市 みもすそ川町 みもすそ川別館)

撮影日:2012年12月30日
建設年:昭和45年
分 類:その他
評 価:☆☆

平 時子(たいらのときこ)
(1126年-1185年)
平安時代後期,平清盛の妻

大治元年生まれ。
平時信の娘。宗盛,知盛,重衡,徳子(建礼門院)の母。
出家後,従二位をおくられて二位尼とよばれた。
平氏一門とともに都落ちし,元暦2年3月24日壇ノ浦の戦いで,安徳天皇をだいて海に身をなげた。60歳。
【格言など】浪のしたにも都のさぶらうぞ(「平家物語」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
みもすそ川別館の庭におられます。
二位尼が安徳天皇を抱いて入水しようとしている姿を表している備前焼の像です。

天璋院
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天璋院 像
(鹿児島県 鹿児島市 城山町 黎明館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成22年
分 類:その他
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

天璋院 てんしょういん
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天璋院(てんしょういん)
(1837年-1883年)
幕末-明治時代、徳川家定の正室

天保7年12月19日生まれ。
島津斉宣の孫。島津忠剛の娘。
はじめ島津斉彬、ついで近衛忠煕の養女となり、安政3年13代将軍家定と結婚。
5年家定の病死後は出家した。
明治16年11月12日死去。48歳。
薩摩(鹿児島県)出身。名は敬子(すみこ)。通称は篤姫。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても最後尾は依然、藩邸にいたという。
安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。
なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。

◎慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。
その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、これを実現した。
そして、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた。
慶応4年(1868年)4月に新政府から従三位の位階を剥奪されている。

◎明治維新後は、自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していた。
そのため、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったという。

◎明治維新後も、東京を離れることはほとんどなく、明治10年に箱根塔ノ沢で病気療養中の和宮を見舞うため箱根を訪れたのが生涯唯一の旅行となった。
ただし箱根に到着したのは和宮が薨去した後になったため、天璋院は和宮を弔い、和歌を贈っている。

◎2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』では小松帯刀と共に過ごすシ-ンが多くあったが、両者の接点を記す史料は確認されていない。

◎愛犬家であり、結婚前には狆(チン)を多数飼っていたが、夫・家定が犬嫌いだったため大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。
その猫の費用は25両/年、世話係は3人もおり、その一人が大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪にあたり、後に大奥の内情を三田村鳶魚に語った御中臈・ませである。

◎日本人として初めてミシンを扱った人物と言われている。因みにミシンを贈ったのはペリ-提督だという説が一般的である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
薩摩藩主島津氏の拠点となった鹿児島(鶴丸)城本丸の跡に建つ、鹿児島県の歴史資料センタ-黎明館の敷地におられます。
NHKの大河ドラマで一躍人気となった篤姫の像です。
装束姿で、前をしっかり見つめる凛とした姿が印象的です。

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黎明館をじっと見つめておられます。


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像の後ろの石壁には、
「私事一命二かけ是非是非御頼申候事二候」という
嘆願書の一節が彫られています。

岩永 三五郎
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岩永 三五郎 像
(鹿児島県 鹿児島市 浜町 石橋記念公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成2年
分 類:石工
評 価:☆☆☆

岩永 三五郎(いわなが さんごろう)
(1793年-1851年)
江戸時代後期の石工

肥後藩と薩摩藩で活躍した石工であり、種山石工の中心的人物である。
妻は藤原林七の長女・三与、嘉八の娘を養女とした。
父と、藤原林七に学び、アーチ式の石橋をつくる技術を学んだ。
三五郎作と言える最初のものは、25歳の時に現在の美里町(旧砥用町)につくった水路橋・雄亀滝橋(文化14年(1817年)架橋)であり、後に通潤橋の手本となった。
これにより名声を得た三五郎は文政3年(1820年)、現在の八代市の干拓工事に従事し、石工共総引き回し役となる。
岩永という姓は、このとき肥後藩より工事期間中に限り名乗ることを許されたものであるが、10年後に工事が完了すると、この功績により正式に苗字帯刀を許された。
その後も肥後藩内に聖橋をはじめとするアーチ式石橋を架け続けた三五郎に、天保11年(1840年)薩摩藩より依頼が来る。
三平らを従え薩摩に赴いた三五郎は、鹿児島の町中を流れる甲突川に甲突川五石橋を川の護岸工事と併せて架けた。
中でも西田橋は参勤交代に藩主が利用する橋だったため、三五郎のつくった橋の中で最も豪華な装飾が施されている。
鹿児島県内には、三五郎作の石橋がこのほか複数残されている。
石橋の建造中、石橋建造技術の漏洩防止のため、三五郎達を永送り(暗殺)するのではないかという噂が立った。
これは三五郎が藩の内情に通じ過ぎたためとも言われる。
かねてよりこの事を心配していた三五郎は、連れてきた仲間たちを様々な口実をつけて肥後に返した。
最後まで残った三五郎自身も、嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。
薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。
故郷に戻った三五郎は嘉永4年(1851年)、鏡町(現八代市)にて59歳で没する。
同地には現在でも墓が存在する。

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「甲突川五石橋」
鹿児島市を流れる甲突川にかつて架かっていた石橋群。
上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の順。
現在はこのうち玉江橋、西田橋、高麗橋の3橋が石橋記念公園に移設保存されている。

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「高麗橋(こうらいばし)」
1847年(弘化4年)架設。
4連アーチ橋。
アーチ径間は中央2つが12.8m、両端2つが11.2mであった。
水害に伴う河川改修により石橋記念公園へ移設、保存されている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
石橋記念公園におられます。
像は、石工にあやかったのか、石像です。
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右手に物差しを持ち、自分が造った高麗橋をじっと見つめておられます。

ヤジロウ
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ヤジロウ 像
(鹿児島県 鹿児島市 東千石町 ザビエル公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成11年
分 類:キリシタン
評 価:☆☆☆

アンジロ-(Angero)
(1512/13年-?) 
戦国時代のキリシタン

永正9/10年生まれ。
マラッカでザビエルに洗礼をうけ、日本人初のキリシタンとなる。
天文18年ザビエルを案内して郷里の薩摩鹿児島にもどり、布教をたすけた。
貿易商池端弥次郎と同一人とする説もある。
名は安次郎ともかく。
別に弥次郎、里見ヤジロウとも。
洗礼名はパウロ=ダ=サンタ=フェ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソ-ド]
◎薩摩国或いは大隅国(両国とも鹿児島)の出身。
彼自身やザビエルの書簡に寄れば若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れていたがその罪を告白するためザビエルを訪ねてきたという。
もとは貿易に従事していたと考えられている。
ルイス・フロイスの『日本史』では海賊(“八幡”(ばはん))であったとも書かれている。

◎ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。

◎日本でキリスト教の布教をした場合についてザビエルに問われ、スム-ズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。

◎1549年4月19日、ザビエルに従いゴアを離れ8月15日に鹿児島に上陸。
ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。

◎ヤジロウ伝説
鹿児島県には、ヤジロウが身を潜めて宣教を続けていたとする伝承がいくつかある。
甑島には同地の天上墓はヤジロウの墓であり、クロ教(クロ宗)はヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰であるという伝説がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
ザビエル公園にザビエル、ベルナルドと一緒におられます。
聖書を手に持ち真っ直ぐ前を見つめる像です。

ベルナルド
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ベルナルド 像
(鹿児島県 鹿児島市 東千石町 ザビエル公園)

ベルナルド
(?-1557年)
戦国時代のキリシタン

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成11年
分 類:キリシタン
評 価:☆☆☆

日本人最初のヨ-ロッパ留学生。
天文18年(1549)生地鹿児島でザビエルから洗礼をうけ、平戸、山口、京都へ同行。
20年ザビエルとゴアにわたり、22年リスボンでイエズス会に入会。
ロ-マ法王庁でイエズス会総長にあい、ポルトガルのコインブラ大で勉強中、弘治3年1月病死した。
通称は鹿児島のベルナルド。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
ザビエル公園にザビエル、ヤジロウと一緒におられます。
手を胸の前で組みお祈りをしている姿と思われます。

お龍 2
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お龍 像 2
(鹿児島県 鹿児島市 与次郎)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和54年
分 類:その他
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

[感  想]
龍馬とお龍が鹿児島を新婚旅行した時の姿です。
お龍馬は、龍馬をじっと見つめています。

お龍 1
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お龍 像 1
(鹿児島県 鹿児島市 大黒町、いづろ交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:幕末志士
評 価:☆☆

楢崎龍であるとされた女性の写真。明治5年頃撮影。
楢崎龍であるとされた女性の写真
明治5年頃撮影

楢崎 龍(ならさき りょう)
(1841年-1906年)
坂本龍馬の妻

江戸時代末期から明治時代の女性
名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。
中川宮の侍医であった父が死んで困窮していた頃に坂本龍馬と出会い妻となる。
薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。
龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる。
龍馬の暗殺後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。
晩年は落魄し、貧窮の内に没した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[エピソ-ド]
◎寺田屋遭難で龍馬は両手指に重傷を負い、西郷隆盛の勧めもあって刀傷治療のために薩摩へ下ることになった。
龍馬とお龍は3月4日に薩摩藩船「三国丸」で大坂を出帆した。
船上で龍馬は「天下が鎮まったら汽船を造しらえて日本を巡ろうとか」と言い、お龍が「家などいりません。船があれば十分です。外国まで廻ってみたいです」と言い返すと、龍馬は「突飛な女だ」と笑い出した。
後でこの話を聞いた西郷も「突飛な女だから君の命は助かった」と大笑いしたと後年、お龍は回想している。
◎船は10日に鹿児島に到着し、龍馬とお龍には薩摩藩士・吉井幸輔が同道して温泉療養に向かった。
一行は日当山温泉、塩浸温泉に行き、犬飼滝を見物したり、山に入って拳銃で鳥を撃ったりして過ごした。
また、霧島山の頂にある天の逆鉾を見るために高千穂峰を登ると、龍馬とお龍は同行していた田中吉兵衛が止めるのも聞かずに逆鉾を引き抜いてしまう悪戯までした。
この薩摩旅行の様子を龍馬は慶応2年12月4日付の姉・乙女宛ての手紙で絵図入りで詳しく書き記している。
また、明治になってお龍もこの旅行についての回顧談を残した。
◎土佐藩士・佐々木高行は、お龍のことを「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり」(大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。善にも悪にもなるような女)と評している。

◎お龍自身は龍馬の事業や仕事には全く興味が無く、知らされるまで彼の業績を知らずにいた。全てを知るのは明治政府から伝えられたときだったという。

◎1867年11月15日、龍馬は京都・近江屋で暗殺された(近江屋事件)。
後年、お龍はこの晩、血だらけの龍馬が夢枕に立っていたと語っている。
龍馬の訃報は12月2日に下関に伝えられ、覚悟をしていたお龍は髪を切って仏前に添えて大泣きしたという。龍馬との間に子はいなかった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
龍馬との旅姿で、静かに龍馬を見つめています。

阿米
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阿米 像
(山口県 周南市 速玉町)

撮影日:2011年12月20日
建設年:平成14年
分 類:その他
評 価:☆☆

阿米(およね)
(1791年-1852年)
「都濃の三孝女」の一人

父は日庸の金左衛門。母は河内村の農民・茂左衛門の娘。
1791年、徳山の貧しい家に生まれる。
1796年、母が死去し、母方の祖父である茂左衛門に引き取られて養育された。
1802年に父が病気となったので、父の看病のために帰宅し、父の看病をしながら、昼は近所の米つきに雇われ、夜は父の側で糸を紡ぐという生活が続いた。
米つきをする際には、体が軽いため、石を腰につけたと伝えられている。阿米は純孝な性格で、労苦を厭わず、父が満足するのを自分の楽しみとした。このことが藩主・毛利広鎮の耳に入り、たびたび表彰され、米穀や恩賞を賜った。
1832年、阿米の31年にわたる看病の末、父の金左衛門は68歳で死去する。
後に阿米が病にかかり、病状が重くなると、近所の人々に多年の厚意を拝謝し、自分の死後に遺骨を父母の墓の傍に埋めるよう頼み、1852年に62歳で死去する。
法名を慈順といい、川端町の徳応寺に葬られた。
1860年11月28日、阿米の孝養を称えるために石碑が建立された。
碑文は安積艮斎が撰文し、書は楷書の大家である中村春秀による。
また、「阿米顕彰会」では、毎年阿米の命日に徳山市(現在は周南市)内の親孝行な児童・生徒を表彰し、今もその孝養を称えている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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[感  想]
孝女阿米という人物も初めて知りました。
父を背負っている珍しい像で、阿米のやさしい表情が印象的です。





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