ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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親鸞 5
親鸞 (4)

親鸞 像 5
(長崎県 長崎市寺町 深崇寺)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成13年
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
深崇寺の山門横におられます。
親鸞 (1)
笠を被り杖を持った托鉢姿です。

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親鸞 4
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親鸞 像4
(山口県 柳井市 柳井津 白潟山誓光寺境内)

撮影日:2014年9月30日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
台座に「親鸞聖人ご幼少の像」とあるように、親鸞の幼少の像です。
小ぶりな像ですが、手を合わせてしっかりと前を見つめる目が特徴的です。


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親鸞 3
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親鸞 像3
(山口県 柳井市 柳井津 白潟山誓光寺境内)

撮影日:2014年9月30日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
白潟山誓光寺境内におられます。
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せいこうじ
東京にある1、2の像と基本スタイルは、同じです。

親鸞 2
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親鸞 像2
(東京都 港区 元麻布 善福寺)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和11年
分 類:僧
評 価:☆☆☆

◆元麻布にある麻布山善福寺は、真言宗の開祖空海により創建。
鎌倉時代に親鸞が布教に訪れ、以後浄土真宗に改められて現在に至っています。
親鸞上人像は、昭和11年7月に建立。
幼い我が子を亡くした廣瀬精一氏が、これをきっかけに真宗の教えに深く感じ、像を作って寄進したといわれます。
境内には他に福沢諭吉夫人の墓や、初代アメリカ公使、タウンゼント・ハリスの記念碑(公使館が置かれていた)、樹齢約750年という天然記念物の逆さ銀杏などがあります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
善福寺の敷地内におられます。
築地本願寺別院にある1と同じ旅姿でよく似ていますが、こちらが小さめです。

親鸞 1
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親鸞 像1
(東京都 中央区 築地 築地本願寺)

撮影日:2010年12月12日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

親鸞
親鸞聖人 熊皮の御影
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

親鸞(しんらん)
(1173年-1263年)
鎌倉時代の僧

承安3年生まれ。
日野有範の子。
妻は恵信尼。浄土真宗の開祖。
比叡山で修学し,建仁元年源空(法然)の門にはいり,専修念仏に帰依。
念仏教団禁圧により越後(新潟県)に流罪となる。
建暦元年ゆるされ,関東で布教。
60歳ごろ京都にもどり,著述と門弟の指導につとめた。
絶対他力・悪人正機説をとなえ,肉食妻帯の在家主義を肯定した。
弘長2年11月28日死去。90歳。
著作に「教行信証」「和讃」,語録に唯円編「歎異抄」など。
【格言など】善人なおもて往生をとぐ,いわんや悪人をや(「歎異抄」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆親鸞は鎌倉時代初期の僧です。浄土宗の開祖といわれる法然を師とし、その教えを継承し、昇華させて浄土真宗開宗への道を拓きました。
布教・教化のため、各地に念仏道場を開きましたが、その教えが広まるにつれて既存の仏教勢力や宗派の攻撃の的となりますが、これが逆に浄土真宗の教義と信徒の結束をより強固なものとしたようです(浄土真宗の開宗は親鸞没後)。
銅像は、築地本願寺別院(京都西本願寺の別院)の正門を入って左の駐車場脇にあります。
台座も含めて5メートル余りの立像で、各地の仏教道場を巡って教えを広めていたであろう旅の姿を描いています。
築地本願寺は元和3年(1617年)に浅草近くに建立されましたが、明暦の大火で焼失。
同地に再建することが叶わなかったため、八丁堀沖を埋め立てて代替地とし、再建されました(この埋め立て工事が築地の名の由来)。
なお、現在の伽藍は関東大震災後の火災により焼失したものを1934年に再建したもので、古代インド様式の造りは一見の価値があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
築地本願寺別院の敷地内におられます。
笠を被った旅姿のい像は、大きくじっと寺院を見守っているような感じです。

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日蓮 4
本蓮寺 (9)

本蓮寺 (8)
日蓮 像 4
(長崎県 長崎市筑後町 本蓮寺) 

撮影日:2015年3月21日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

寺院の歴史日本最初のキリシタン大名大村純忠は大村の藩主ですが長崎のこの地にはじめ
サンラザロ病院(日本で最初のハンセン氏病の病院)が建てられ、それに続いて修道院が
でき、サンジョアン・バウチスタ教会ができたのでした。
純忠の子喜前は加藤清正公と親交があり、法華経の素晴らしさを知ることになります。
大村領内を見直し、大村の地には本経寺を建て、本経寺の二代目本瑞院日恵上人は本蓮寺
を建てるに至ります。
キリシタンでいっぱいの長崎の布教には、清正公より拝領の兜をかぶり、身を守って活躍
したと伝わります。
加藤清正公はお題目の五文字に因み、九州に五ヶ寺を建てようと発願されました。
即ち、熊本に本"妙"寺、大分、鶴崎に"法"心寺、長崎に本"蓮"寺、水俣に法"華"寺、大村に
本"経"寺の五山であります。
元和六年(1620)長崎港を一望できる丘の上、サンジョアン・バウチスタ教会のあとに本
蓮寺は建立されました。
山号の『聖林山』は清正公の母君の法号『聖林院殿天室日光大法尼』より二字をいただい
たものです。
それは、開山本瑞院日恵上人が幼少の頃、加藤清正公の母君に撫育された時期があり、そ
の御恩を思い山号に聖林の二字をいただいたのです。
正面に座られている日蓮上人像は、開山上人が脇差と共に徳川秀忠公より拝領致しました。
江戸より長い道中を運んで参ったものです。
途中箱根の関所をはじめて通った荷であると伝えられます。元禄の大火にも難を逃れました。
前の大戦にては長崎に原爆が落ちた時に本蓮寺は堂宇が灰となりましたが、この祖師像は
無事でした。
「日蓮宗本蓮寺ホームページ」から

[感  想]
本蓮寺の境内おられます。
本蓮寺 (3)
左手に巻物を持った堂々とした立ち姿で迫力があります。

日蓮 3
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日蓮 像 3
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)
(一人立正)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和55年
分 類:僧
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

[感 想]
彫刻園の中に展示されています。
小さい像ですが、袈裟を着て、巻物か何かを右手に持ち、訴えかける表情で立っている姿が印象的です。

日蓮 2
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日蓮 像 2
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園)
(快傑日蓮)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和29年
分 類:僧
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

[感 想]
武蔵野市の井の頭自然文化園内彫刻園におられます。
快傑日蓮と題が付いるとおり、口を大きく開けて何かを叫んで、すごい形相でこちらを指差す裸のポーズに圧倒されます。
気合いを入れられる銅像です。

日蓮 1
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日蓮 1 像
(福岡県 福岡市 博多区 東公園)

撮影日:2007年12月4日
建設年:明治37年
分 類:僧
作 者:竹内 久一
評 価:☆☆☆☆

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波木井の御影
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

日蓮(にちれん)
(1222年-1282年)
鎌倉時代の僧

承久4年2月16日生まれ。
日蓮宗の開祖。
安房(千葉県)の天台宗清澄寺で出家し,是聖房蓮長と称した。
建長5年4月28日清澄寺で立教開宗。
このころ日蓮と改名。
文応元年「立正安国論」をあらわして浄土教を非難,はげしい弾圧をうけ伊豆,佐渡に流される。
赦免後は甲斐身延山に隠棲し,弟子の育成につとめた。
弘安5年10月13日死去。61歳。
安房出身。墓所は久遠寺(山梨県身延山)。
幼名は薬王丸。
著作に「開目鈔」「観心本尊鈔」など。
【格言など】われ日本の柱とならん,われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん(「開目鈔」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅  像]
像本体10.6m。
市指定文化財。
元寇記念碑建設運動に触発された日蓮宗僧侶の佐野前励(日菅)が提唱。
東京美術学校の岡倉天心に依頼、竹内久一が原型制作、岡崎雪声が鋳造。
1904年11月8日に除幕式を挙行。
本体は分割して鋳造したものをボルトで結合する工法がとられる。
奈良・鎌倉の大仏に次いで日本で3番目に大きい銅像。

◎死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。
そのため、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
東公園を走っていると、突如大きい頭が見えてきました。
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とにかくこの像は、でかいです!
大きさで圧倒されます!
台座にもレリーフが施されており、皆が触るためか日蓮上人の部分だけ黒光りしていました。
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日蓮絵はがき
東公園の日蓮上人像(大正時代~昭和前期)の絵はがき。
福岡市博物館ホームページから

黙子如定
黙子 (4)

黙子 (5)
黙子如定 像
(長崎県 長崎市諏訪町 眼鏡橋近く)

撮影日:2015年3月20日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

黙子如定(もくすにょじょう)
(1597年-1657年)
明末清初に来日した中国僧

江西省建昌府建昌県の生まれ。
揚州にある興福禅院において出家。
1632年(寛永9年)に来日し、長崎の興福寺に入寺した。
明版の大蔵経を持参していた。真円の没後に第2代の住持となった。
1634年には、眼鏡橋の建設指導にあたったともされる。
同様に、象嵌技術などにも通じており、中国の先進技術の導入に一役買った。
また、能書家でもある。
その後は、興福寺の諸堂の造立に尽力した。
1645年、逸然性融に法席を譲り、東盧庵に隠退するも、逸然が傾注した隠元隆琦の招致運
動を援助した。
1657年12月、自坊で没した。享年61。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

黙子 (8)

[感  想]
眼鏡橋近くの川沿いにおられます。
黙子 (1)
袈裟を着た全身像です。

黙子 (11)
眼鏡橋をじっと見守っている感じがします。

一遍 2
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一遍 像2
(大分県 別府市 鉄輪 白池地獄)

撮影日:2015年1月31日
分 類:僧
評 価:☆☆

一遍は、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
布教の旅に出た一遍上人が、この鉄輪を訪れ、荒れ狂う地獄を鎮め「むし湯」のほか「熱の湯」「渋の湯」など、今も人々に愛される温泉を作ったとされています。
ここ鉄輪では、毎年9月には温泉山永福寺にある上人像を温泉で洗い清める「湯あみ法要」が行われ、一遍上人ゆかりの土地です。
「鉄輪湯けむり倶楽部ホームページ」から

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湯あみ祭り

[感  想]
白池地獄をめぐる順路の途中におられます。
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像は、コンクリート製だと思われます。
湯あみ祭りは、おもしろい行事だと思いました。

一遍 1
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一遍 像 1
(広島県 尾道市 海徳寺)

一遍(いっぺん)
(1239年-1289年)
鎌倉時代の僧

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成3年  
分 類:僧
作 者:矢形 勇
評 価:☆☆☆

延応元年2月15日生まれ。
時宗の開祖。
浄土宗西山派の聖達にまなぶ。
信濃(長野県)善光寺などに参籠し念仏往生をさとる。
紀伊熊野権現(和歌山県)で神託を得,全国を遊行。
踊り念仏をひろめ,おおくの庶民をはじめ公家,武家にもあがめられた。
正応2年8月23日死去。51歳。
伊予(愛媛県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
海徳寺の敷地内におられます。
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腰をかがめ手を合わせる姿が印象的です。

禅海 2
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禅海像 2
(大分県 中津市 本耶馬渓町)

撮影日:2012年2月6日
建設年:平成2年  
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
青の洞門を抜けた、駐車場の一角におられます。
髭と髪が伸びた姿で、一心不乱に岩を掘る姿が印象的です。

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銅像の裏には、「恩讐の彼方」の作者である菊池寛のレリーフがあります。

禅海 1
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禅海像 1
(大分県 中津市 本耶馬渓町 青の洞門内)

撮影日:2012年2月6日
分 類:僧
評 価:☆☆

禅海(ぜんかい)
(1691年-1774年)
江戸中期の禅僧

越後(新潟県)の人
最初江戸浅草で,全国66カ所の霊場に法華経を納めて回る行脚僧の六十六部になる。
諸国行脚の途中,1715年に豊後(大分県)別府に至り,得度して禅海と称した。
豊前国下毛郡耶馬渓の曹洞宗羅漢寺に参詣し,灌漑工事のため参詣路が水没し,断崖にかけられた桟道が通行の難所となっているのを知り,ひとり羅漢寺の塔頭智剛寺に住して開削工事を始めたとされる。
以後30年余の歳月を費やして青の洞門を完成させた。
禅海の業績は菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の題材となった。
「朝日日本歴史人物事典」から抜粋

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「青の洞門」
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれている。
この逸話を元にして書かれたのが菊池寛の『恩讐の彼方に』である。
現在は、自動車を通過させるため(旧国道212号)、完成当時よりかなり変形しているが一部にノミの跡が残っている。
地形の関係上車幅が狭く、信号を使った交通整理(片側交互通行)が行われている。
開通後、禅海が通行人から通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
青の洞門の中におられます。
石像でノミと槌を振るう姿です。
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明り取り窓が当時のまま残っています。

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青の洞門入り口

法然
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法然 (勢至丸)像
(東京都 港区 芝公園 増上寺)

撮影日:2010年12月18日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

法然
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

法然 (ほうねん)
(1133年-1212年)
平安後期-鎌倉時代の僧

長承2年4月7日生まれ。
比叡山で源光,皇円,叡空に師事し,黒谷で法然房源空と称した。
源信や唐(中国)の善導の思想的影響によって,安元元年専修念仏の教えを確立し,比叡山をくだり東山大谷で浄土宗をひらく。
帰依者がふえると,既成仏教教団の反感をまねき,念仏は禁止され,承元元年四国へ流されたが,のちゆるされて京都にかえった。
建暦2年1月25日死去。80歳。
著作に「選択(せんちやく)本願念仏集」など。
【格言など】一丈の堀を越えんと思わん人は,一丈五尺を越えんと励むべし(「勅修御伝」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆芝公園の増上寺の境内には、浄土宗の開祖、法然(法然房源空・1133-1212)の幼少時代(勢至丸)の像があります。
9歳で父を亡くした勢至丸は比叡山延暦寺に上り、出家して仏門に帰依します。
延暦寺より下った後は浄土宗を開いて教えを広め、親鸞も法然の弟子でした。
昭和57年(1982)に当時の増上寺執事長が寄進したものです。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
法然の幼少時代の像が、増上寺の前にあります。
手を合わせた座った姿が印象的です。
幼少期の像は、徳川家康に次いで2像目です。

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増上寺と東京タワー

良寛
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良寛 像
(新潟県 新潟市 古町)

良寛(りょうかん)
(1758年-1831年)
江戸時代中期-後期の僧,歌人,書家

撮影日:2009年3月23日
建設年:平成12年
分 類:僧
作 者:茂木 弘次
評 価:☆☆☆

宝暦8年生まれ。曹洞宗。
越後(新潟県)出雲崎の名主の子。
備中(岡山県)円通寺の国仙の法をつぐ。
のち帰郷して国上山の五合庵にすみ,托鉢の合間に詩歌や書をたのしんだ。
詩集に「草堂集」,歌集に弟子の貞心尼編「蓮の露」がある。
天保2年1月6日死去。74/75歳。
【格言など】うらを見せおもてを見せて散るもみぢ(辞世)

良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。
良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたという)。
名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた(現在でもその凧は残っている)。
ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。
しかし、日が暮れて暗くなり、子供達は、良寛だけを探し出せないまま、家に帰ってしまった。
翌朝早くに、ある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので、驚いて問い質すと、良寛は、「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。
このような類いの話が伝えられ、子供向けの童話などとして紹介されることで、良寛に対する親しみ深い印象が、現在にまで伝えられている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
小さい像と詩碑が一体となっています。
小さいですが良寛の特徴がよく表現されています。

月性
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月性 像
(山口県 柳井市 大畠)

月性(げっしょう)
(1817年-1858年)
江戸時代後期の僧

撮影日:2007年11月12日
分 類:僧
評 価:☆☆☆。

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月性肖像(柳井市月性展示館蔵)

文化14年9月27日生まれ。
周防(山口県)浄土真宗本願寺派妙円寺の住職。
諸国を遊歴し,帰郷して私塾清狂草堂をひらく。
吉田松陰,頼三樹三郎らと親交をむすぶ。
尊王攘夷,海防の必要をとなえて海防僧とよばれた。
安政5年5月11日死去。42歳。
字は知円。号は清狂。
著作に「仏法護国論」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

長門国萩では益田弾正・福原越後・浦靭負(うらゆきえ)などに認められ、吉田松陰とも親しかった。
1856年(安政3年)西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、和歌山藩へ赴き海防の説得にあたるなどしたが病没した。
「人間到る処青山有り」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」の作者としても名高い。
著書に「仏法護国論」がある。

男児立志出郷関 
学若無成不復還 
埋骨何期墳墓地 
人間到処有青山 

<読み下し文>
男児(だんじ)志(こころざし)を立てて郷関を出づ
学、もし成るなくんば、また還らず
骨を埋(うず)む、何ぞ期せん墳墓(ふんぼ)の地
人間(じんかん)到る処(ところ)青山(せいざん)あり

<意訳>
男子が一度(ひとたび)志を立てて故郷を旅立つからには
目的が成就しない限り2度と故郷の地を踏むことはできない
骨を埋めるのに、どうして墓所を決めておく必要などあろう
世の中にはどこにでも青山(墓地)があるというのに
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
この像は、国道188号沿いにあります。
黄金色に輝きながら、右手に刀を持ち、瀬戸内海をじっと見つめておられます。
上記漢詩は、すごいです。
肖像と銅像は、ちょっと違うような気がします。
肖像の方が、いいですね。

重源
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重源 像
(山口県 山口市 徳地)

重源(ちょうげん)
(1121年-1206年)
平安後期-鎌倉時代の僧

撮影日:2007年10月18日
分 類:僧
評 価:☆☆

保安2年生まれ。
仁安2年宋(中国)にわたり,明庵栄西とともに帰国。
焼失した東大寺再興の大勧進職を命じられる。
文治元年大仏開眼会を,建久6年大仏殿落慶法要をおこなった。
建永元年6月5日死去。86歳。京都出身。
俗名は紀重定。字は俊乗坊。号は南無阿弥陀仏。法名は「じゅうげん」ともよむ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

治安四年(1180年)平重衡の兵火により東大寺が焼失すると、東大寺再建の議が起こり、翌年、重源上人が東大寺勧進職に任ぜられた。
その時、重源上人は61歳の高齢であった。
まず大仏の鋳造がはじまり、文治元年(1185年)8月・大仏開眼供養がいとなまれた。
文治2年3月、東大寺再建のため、周防国が東大寺営科国にあてられ、重源上人がその国務管理に任ぜられた。
直ちに周防国に下向し、4月18日には宗人の陳和卿、日本の大工物部為里等十余人を率いて、佐波川をさかのぼり、佐波郡の奥地(現徳地町)で杣始めの式を行った。
柱1本の長さ30m、直径1.5mの巨木をはじめ多量の材木を山から伐り出す作業は困難をきわめたが、重源上人のたゆみない努力によって再建事業はすすみ、建久元年(1190年)10月大仏殿上棟、正治元年(1199年)6月南大門上棟、建仁3年(1203年)11月東大寺総供養が行われた。
重源上人は建永元年(1206年)東大寺において86歳の生涯を終わった。
東大寺の再建によって徳地町は重要文化財月輪寺薬師堂をはじめ、法光寺の仏像、佐波川関水、石風呂等多くの遺跡と重源に関する言い伝えを残し、この時期に飛躍的発展をしたのである。
『徳地町ホームページ』から

[感 想]
防府市から徳地町(合併して今は山口市ですが)へ入る玄関口にこの銅像は、おられます。
東大寺の材木を佐波川で運んでいる姿です。
よく見ると、銅製では無いので塗装がはがれているところがあるのが、少し残念です。






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