ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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本多 庸一
本多 (2)

本多 (3)

本多 (4)
本多 庸一 像
(東京都渋谷区渋谷青山 青山学院大学)

撮影日:2016年2月29日
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

本多 庸一(ほんだ よういつ)
(1849年-1912年)

明治時代の宗教家、教育者
嘉永元年12月13日生まれ。横浜に遊学中、キリスト教に入信。
明治7年郷里の青森県弘前にかえって東奥義塾塾長となり、弘前公会を創立。
民権運動にたずさわり、青森県会議員に当選、同議長をつとめたあと教育と伝道に専念。
アメリカ留学後、青山学院院長などを歴任し、日本メソジスト教会初代監督となった。
明治45年3月26日死去。65歳。幼名は徳蔵。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1890年(明治23年)6月に帰国後、東京英和学校の校主(校長)に就任し、1894年(明治27
年)、青山学院と改称し第2代院長となり、17年間院長職に就き学院発展の基礎を築く。
その教育理念として“希くは神の恵みにより、我輩の学校より所謂Manを出さしめよ”と
いう言葉を残し、青山学院は“Man”を育てる学校であると述べている。ここでいう“Man”
とは、Sincerity(至誠ーきわめて誠実であるということ)、Simplicity(質直ー飾り気がな
くまじめであること)という2つの資質を兼ね備えた人物であり、その精神はスクールモ
ットーである「地の塩・世の光」へと繋がっている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
青山学院大学のキャンパスの間島記念館入口の横におられます。
本多 (1)
上半身の像で、長い口髭が特徴的です。

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大木 金次郎
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大木 金次郎 像 
(東京都渋谷区渋谷青山 青山学院大学)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成2年
分 類:教育者
作 者:小坂 圭二
評 価:☆☆☆

山梨県甲府市出身。
1929年に青山学院高等学部商科を卒業。
1931年、同学院の第1回留学生としてアメリカのオハイオ・ウェスレアン大学に留学し、
コロンビア大学大学院でM.A.を取得する。
1932年に青山学院専門部商科教授に就任。
戦後の1958年に青山学院大学学長に就任。その後、同学院院長・理事長を歴任。
大学の学部・大学院の研究科の増設と拡充、世田谷・厚木キャンパスの開学、総合研究所
の設置など、大学の充実と発展に尽力した。
1961年に幼稚園を開設し園長を兼任。
1986年には中等部と高等部の6年制一貫教育実現のため、大学組織に「高中部」を設置。
文部省私立大学審議会会長、日本私立大学連盟会長、キリスト教学校教育同盟理事長など
を歴任した。1978年勲一等瑞宝章を受章した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
青山学院大学のキャンパスの間島記念館入口の前方におられます。
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上半身の像で、記念館を見つめています。

張 二男松
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張 二男松 像
(佐賀県佐賀市城内 佐賀県立美術館)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和62年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

張 二男松(ちょう におまつ)
(1865年-1952年)
教育功労者で、佐賀県師範学校校長
トヨタ自動車元社長・会長 張富士夫の祖父


[感  想]
佐賀県立美術館の敷地内におられます。
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服のしわなど細かい部分まで表現してある上半身の像です。
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銅像の石碑の裏


山田 方谷
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山田 方谷 像
(岡山県 高梁市 向町 高梁市郷土資料館)

撮影日:2014年9月13日
建設年:昭和51年
分 類:儒者
作 者:宮本 隆
評 価:☆☆☆

山田方谷
山田 方谷(やまだ ほうこく)
(1805年-1877年)

江戸後期-明治時代の儒者
文化2年2月21日生まれ。
佐藤一斎らにまなび、天保8年備中(岡山県)松山藩藩校有終館学頭。
藩主板倉勝静のもとで財政改革をおこない、勝静が老中につくと顧問となる。
維新後は岡山県閑谷学校の再興につくした。
明治10年6月26日死去。73歳。
名は球。字は琳卿。通称は安五郎。著作に「古本大学講義」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎方谷の思想は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという。
安岡正篤は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している。

◎嘉永5年(1852年)に牛麓舎の隣家に住まう一藩士が病没し、その寡婦が方谷宅の門を叩いた。寡婦は父を亡くした自らの7歳の娘に、母子家庭の娘と侮られぬよう、男性と互して能うほどの学問を施してもらうよう方谷に請うた。方谷は忙しい最中ではあったが、それを快く引き受けて男女の別を気にする事無く、その才気ある娘を牛麓舎に通わせ、自らの学を与えたとされる。その娘こそが、後に高梁の地で女子教育の普及に努める事となる福西志計子であった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
高梁市郷土資料館の前におられます。
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裃を着て、右手に扇子を持った立ち姿で、おだやかな表情が印象的です。

安部 能成
安倍IMG_1900 (3)

安倍IMG_1900 (1)
安部 能成 像
(愛媛県 松山市 持田町二丁目 松山東高校)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和41年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

安倍 能成(あべ よししげ)
(1883年-1966年)
明治-昭和時代の哲学者、教育者

明治16年12月23日生まれ。
夏目漱石の門下。
岩波版「哲学叢書」の編集にくわわる。
昭和15年一高校長、21年幣原内閣の文相、のち学習院院長となる。
昭和41年6月7日死去。82歳。
愛媛県出身。東京帝大卒。
著作に「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」「平和への念願」など。
【格言など】現実に触れよとは切実な経験をせよということである
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎1906年、東京帝国大学1年生時に、友人が夏目漱石の元を訪問するのに同行して以来、漱石を深く尊敬師事し、後年には小宮豊隆・森田草平・阿部次郎(鈴木三重吉とする説もある)と並んで「漱石門下の四天王」と称された。

◎在学中、夏目漱石や波多野精一、高浜虚子の影響を受けた。
同窓生の一人に、藤村操がおり、その妹・恭子と結婚した。
また、一高を中途退学した同期の岩波茂雄との交流は終生続き、後年岩波書店経営方針に深く関与し、岩波の没後には、公式伝記も執筆した。

◎鈴木三重吉や寺田寅彦との出会いも、漱石を通じてのものであった。
漱石が修善寺の大患(1910年)に陥った時、安倍たちが駆けつけると、来たからには「あんばいよくなる」と言われたとの挿話があった
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
母校である松山東高校の校庭におられます。
安倍IMG_1900 (2)
松山東高校は、夏目漱石が教鞭をとり、小説「坊ちゃん」の舞台となったところです。
漱石門下であった安倍のきりっとした表情で前を見据えている胸像です。

加藤 彰廉
加藤彰IMG_1729 (4)

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加藤 彰廉 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山大学)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

加藤彰廉先生
加藤彰廉(かとう あきかど)
(1862年-1933年)
明治-昭和時代前期の教育者

文久元年12月27日生まれ。
明治42年大阪高商校長となる。
大正4年衆議院議員。
翌年郷里愛媛県松山の北予中学校長、12年松山高商校長に就任。
昭和8年9月18日死去。73歳。
東京大学卒。本姓は宮城。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

加藤彰IMG_1729 (2)
◆ 加藤彰廉先生
本学園三恩人の一人で、松山藩士宮城正脩の二男として生まれ、東京帝国大学文学部(現東京大学)に学び西欧の新思潮を身につけた。
卒業後は文部省、大蔵省在任の後教育界に入り、山口高等中学教諭を経て大阪高等商業学校長となった。
晩年、要請されて北予中学(現県立松山北高等学校)校長に就任し、高等商業学校設立をいちはやく加藤恒忠松山市長に提案するなど設立運動に尽力した。
松山高等商業学校創設に際しては、初代校長に就任し、第一回卒業式において「真実・実用・忠実」を説いた訓示は校訓「三実主義」に確立され、人間形成の伝統原理として今日に受け継がれている。
「松山大学 ホームページ」から

[感  想]
松山大学三恩人の像がキャンパスの庭に並んでいます。
松山大学IMG_1741

髭が特徴的な胸像で晩年の姿だと思われます。

石井 素
石井IMG_1709 (1)

石井IMG_1709 (2)
石井 素 像
(愛媛県 松山市 文京町 愛媛大学教育学部)

石井 素
(1896年-1926年)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和41年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

碑文から
「胸像ハ大東亜戦争ノタメ供出シタルモ 母校創立九十周年ニ当リ 原型ニ依ッテ茲ニ復元ス 昭和四十一年十一月十二日 愛媛大学教育学部同窓会」
石井素は、槍ヶ岳登山の途次梓川に落ちた生徒を救うべく雪溶けの激流に身を投じて、三十三年の生涯を教育に殉じた人物。

[感  想]
愛媛大学教育学部の校庭におられます。
石井IMG_1709 (3)
大きな目と太い眉が印象的な胸像です。

新造 節三
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新造 節三 像
(山口県 宇部市 文京町 宇部フロンティア大学短期大学部)

撮影日:2011年5月5日
建設年:昭和57年
分 類:教育者
作 者:向井 良吉
評 価:☆☆☆

新造 節三
新造 節三(しんぞう せつぞう)
(1906年-1976年)
教育者

新造節三氏は宇部市の香川学園・宇部短期大学の創設者で、初代学長である。
胸像としては従来のものとは破調である。
台座に近い下部の方はかたちなき断片がささくれだって集合しながら上方の胸部、頭部へと次第にかたちがくっきりと姿を現わし、顔部に至ってある気品が漂っていく。
教育者、創設者としての苦労の過程がしのばれる像でもある。
「宇部市デジタルアーカイブ宇部蔵くん」から

[感  想]
宇部フロンティア大学短期大学玄関前の中庭におられます。
銅像の下部が、破壊された感じで芸術作品のような珍しい像です。

香川 昌子
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香川 昌子 像
(山口県 宇部市 文京町 宇部フロンティア大学附属香川高等学校)

撮影日:2011年5月5日
建設年:昭和57年
分 類:教育者
作 者:柳原 義達
評 価:☆☆

香川昌子アーカイブズ
絵を描く昌子
「宇部フロンティア大学短期大学部図書館ホームページ」から

香川 昌子(かがわ まさこ)
(1872年-1953年)
明治-昭和時代の教育者

明治5年1月1日生まれ。
36年山口県藤山村(宇部市)に裁縫塾をひらき,37年香川裁縫女学校,昭和11年香川高女(現香川高)へと発展させた。
26年香川学園園長。
昭和28年12月17日死去。81歳。
愛媛県出身。

香川昌子は、宇部市に中学・高校・短大をかかえる香川学園の創設者。
和服姿の胸像だがあの鴉や裸婦像の激しいムーブマンや量塊感を創出した作者にしては実にもの静かな作風だ。
教育者という人柄に寄り添った意図があるだろう。
「宇部市デジタルアーカイブ宇部蔵くん」から

[感  想]
香川学園高校の中庭におられます。
顔が長い和服姿の像です。

濱尾 新
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濱尾 新 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和7年
分 類:教育者
作 者:堀 進二
評 価:☆☆☆☆

濱尾 新
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

濱尾 新(はまお あらた)
(1849年-1925年)
明治-大正時代の教育行政家

嘉永2年4月20日生まれ。
但馬(兵庫県)豊岡藩士の子。
明治5年文部省にはいり,南校監事,東京開成学校長心得などをへて26年帝国大学総長。
30年第2次松方内閣の文相となる。
38年東京帝大総長。
のち東宮御学問所副総裁,枢密院議長などをつとめた。
大正14年9月25日死去。77歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆濱尾新は、幕末に豊岡藩士の子として生まれ、明治維新後は慶應義塾大学などで学びます。
明治5年(1872)に文部省に出仕してからは教育行政の第一線で活躍し、明治26年に東大(当時は帝国大学)の第3代総長に就任します。
その後、入閣して文部大臣を務めますが、明治38年に第8代総長として東大(当時は東京帝国大学)に復帰し、以後7年間総長職を務め、施設や教育機関としての機能強化を進めました。
現在、多くの学生に愛されている正門から銀杏並木、大講堂に至る施設の配置や意匠は濱尾新のアイデアが反映されたものといわれています。
銅像は、没後7年目の1932年に建立。
ソファーに腰をかけ、足を組んでリラックスした姿は古市公威像も手がけた堀進二の手によるものです。
安田講堂と三四郎池の間の道に面して、安田講堂を見つめるように置かれています。
台座も含めると約4メートルという大きさが目を引きます。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
東京大学安田講堂南側に座っておられます。
台座も立派な大きな像です。
ニヒルな笑いがいいですね。

浜尾のアイデアによる銀杏並木から大講堂を望む

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古市 公威
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古市 公威 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和12年
分 類:学者
作 者:堀 進二
評 価:☆☆☆☆

古市 公威
「デジタル大辞泉」より

古市 公威(ふるいち こうい)
(1854年-1934年)
明治-昭和時代前期の土木工学者

嘉永7年閏7月21日生まれ。
播磨(兵庫県)姫路藩士古市孝の長男。
開成所,大学南校にまなぶ。
フランス留学後,内務省に勤務。
明治19年帝国大学工科大学初代学長となり,のち内務省土木局長をかねる。
日本の土木工学,土木行政の近代化につくした。
土木学会会長,理化学研究所長,万国工業会議会長,日仏会館理事長などをつとめた。
貴族院議員,枢密顧問官。
昭和9年1月28日死去。81歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆古市公威は、幕末に姫路藩士の子として誕生し、開成学校(元は旧幕府学問所)を初めとして学業の道に進みました。
20歳を過ぎて新政府派遣の海外留学生としてフランスに渡り、欧州の進んだ土木・工学を学んで帰国。
内務省(建設省、国土交通省の前身)の技師として職務に就くかたわら、東大講師として教鞭を執りました。
後に統合により東大工学部となる工科大学の初代学長に就任。
日本の土木の技術・行政面の近代化に大きな足跡を残しました。
また日本初の工学博士でもあります。
技師(土木工学技術者)は、技術・行政全般に通じ、兵ではなく将帥、指揮者でなければならない。
将に将たる人であれ、と説いたことでも知られています。
銅像は、長年の業績を称えて製作され、1937年に建立。
堀進二製作の像は、杖を持ちソファーに腰をかけた姿を描いており、穏やかな表情が印象的な像です。
正門を入って左、工学部11号館横に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎古市は公平無私であり、よく学生を導いたといわれる。
また、日本工学会の初代会長として、世界の中で、日本の工学技術の声価を高めることに寄与した。
作家三島由紀夫の本名“公威”は、内務官僚であった彼の祖父平岡定太郎が恩顧を受けた古市の名をとって命名したといわれている。

◎司馬遼太郎は自著『国家・宗教・日本人』において、フランスに留学中、あまりの猛勉強ぶりに体を壊しはしないかと心配した下宿先の女主人が休むように勧めると、古市は「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたというエピソードを井上ひさしとの対談の中で語っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
杖を持ち椅子に座った姿は、静かな存在感があります。
安田講堂へのイチョウ並木をしっかりと見ておられるような感じがします。
三島由紀夫の本名がこの人の名前からとられたとは驚きです。

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下山 順一郎
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下山 順一郎 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:大正4年
分 類:教育者
作 者:武石弘三郎
評 価:☆☆☆

下山順一郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう)
(1853年-1912年)
明治時代の薬学者

嘉永6年2月18日生まれ。
ドイツに留学後,明治20年帝国大学教授。
生薬学の基礎を確立し,薬学博士第1号となる。
東京赤羽に私設の薬草園を設立。
日本薬剤師会初代会長,日本薬学会副会頭などをつとめた。
明治45年2月12日死去。60歳。
尾張(愛知県)出身。東京大学卒。
著作に「生薬学」「薬用植物学」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆幕末に尾張藩校助教であった犬山藩士の子として誕生。
明治6年(1873)に第一大学区医学校製薬学科に入学、明治11年に首席で卒業しました。
その後ドイツに4年間留学し、帰国後は新設された医科大学校薬学科の教授(新設された生薬学の初代教授)に就任しました。
明治21年には東京薬科大学の前身である私立薬学校になるなど、以後も日本の薬学発展に尽力しました。
日本初の薬学博士号を取得しています。
私財を投じて薬草園を開設するなど、薬用植物の研究や栽培に大きな足跡を残しています。
銅像は胸像で、薬学系総合研究棟東側にミュルレル像の奥に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
武骨な感じの顔でちょっとゴリラーマンに似ています…

山川 健次郎
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山川 健次郎 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和5年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

山川 健次郎
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

山川 健次郎 (やまかわ けんじろう)
(1854年-1931年)
明治-大正時代の物理学者,教育者

嘉永7年閏7月17日生まれ。
山川浩の弟。大山捨松の兄。
エール大にまなび,東京開成学校教授補をへて明治14年東京大学教授。
日本初の理学博士のひとり。
東京帝大,九州帝大,京都帝大の総長を歴任。
貴族院議員。枢密顧問官。
昭和6年6月26日死去。78歳。
陸奥会津(福島県)出身。
【格言など】物理学を学ぶ者の心得は「一に数学,二に数学,三に数学」
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆幕末に会津藩士の三男として生まれました。
しかし会津戦争の敗北の結果、謹慎・逃亡の末に長岡藩士の書生となり、それをきっかけに学業を志すことになります。
明治維新後に国費留学生に選抜されて渡米。
エール大学で物理学を学び、学位を得て帰国。東京大学設立後は、外国人教授の助手を経て、明治12年(1879)日本人初の物理学教授になりました。
明治21年には東大初の理学博士号を得るなど、物理学の普及と後進育成に尽力しました。
途中、辞任なども経験しましたが、1920年まで東大(東京帝国大学)総長を務めました。
胸像は昭和5年(1930)の製作で、曾孫から大学に寄贈され、台座を新造して安田講堂真裏(理学部1号館前)に設置されました。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
安田講堂近くにおられます。
かくしゃくとした感じの上半身の像です。

三好 晋六郎
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三好 晋六郎 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:大正3年
分 類:教育者
作 者:武石 弘三郎
評 価:☆☆☆

三好 晋六郎(みよし しんろくろう)
(1857年-1910年)
明治時代の造船学者

安政4年7月21日生まれ。
明治12年イギリスに留学。
16年帰国して工部大学校助教授,19年帝国大学教授となり,造船学を担当。
20年築地工手学校を設立して校長となった。
明治43年1月28日死去。54歳。
江戸出身。工部大学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆幕臣の子として誕生。
明治維新後は造船の近代化を志し、1879年に工学大学校機械工学科を卒業したのちイギリスへ留学しました。
グラスゴーの造船所で当時世界をリードしていたイギリスの造船技術を実地で学び、その経験と知識を日本へ持ち帰ります。
帰国後は造船技術科助教授を経て、1886年に教授へ昇格しました。
明治中期以降、日本海軍はその近代化と戦力拡充の課程でイギリス式の造艦技術に範をとるようになりましたが、こうした技術的な基礎確立や新技術の導入に大きな功績がありました。
銅像は、書籍に手を乗せた姿を描いた胸像で、工学部5号館の奥に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
積み重ねられた書籍に手を乗せた姿が印象的です。
荒い感じで仕上げられています。

鳩山 春子
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鳩山 春子 像
(東京都 文京区 音羽 鳩山会館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和5年
分 類:教育者
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

鳩山春子
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

鳩山 春子(はとやま はるこ)
(1861年-1938年)
明治-昭和時代前期の教育者

文久元年3月23日生まれ。
鳩山和夫と結婚。
明治19年共立女子職業学校(現共立女子学園)を創立,大正11年校長となる。
昭和3年共立女子専門学校,11年共立高等女学校を設立。
長男一郎は首相,次男秀夫は東京帝大教授。
昭和13年7月12日死去。78歳。信濃(長野県)出身。
東京女子師範(現お茶の水女子大)卒。
著作に「婦人の修養」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎息子一郎の第一高等学校入学が決まり、当時、皆寄宿寮制度であった一高の不衛生で蛮カラな寮に息子を入れる事を嫌がった母・春子が、当時の校長の狩野亨吉と自宅通学の可否を巡り悶着を起こすが、結局狩野校長に『入寮がお嫌いなら他の学校を選びなさい』と言われ、それでも『鳩山家には鳩山家の家庭教育が御座いますから』と食い下がる春子に、狩野は『じゃ、学校も廃して家庭教育にしたらよいでしょう』と言われ、しぶしぶ一郎を入寮させる。
結果として一郎は春子が懸念するまでも無く、快適な寮生活を過ごした。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鳩山和夫像の横に座っておられます。
着物を着てやさしそうな顔ですが、エピソードをみるとなかなかきつい性格だったようです。

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鳩山会館
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鳩山会館内部
岡部 平太
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岡部 平太 像
(福岡県 福岡市 中央区城内 平和台陸上競技場)

岡部 平太(おかべ へいた)
(1891年-1966年)
大正-昭和時代の体育指導者

撮影日:2010年12月5日
分 類:体育指導者
評 価:☆☆☆

岡部 平太
「岡部平太小伝 日本で最初のアメリカンフットボール紹介者」

明治24年9月10日生まれ。
東京高師の柔道選手として活躍。
大正7年渡米し,シカゴ大で体育理論をまなぶ。
東京高師講師などをへて11年満州体育協会理事長。
昭和26年ボストンマラソンの監督として田中茂樹を優勝にみちびいた。
福岡市の平和台競技場の名付け親。
昭和41年11月6日死去。75歳。福岡県出身。
著作に「コーチ五十年」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「マラソン界再建の業績と平和台陸上競技場」
1945年(昭和20年)福岡に戻り、戦後は金栗四三らとマラソン界の再建に努力。
「オリンピックマラソンに優勝する会」を発足させ、各地の有力選手を発掘すると共に、合宿による徹底指導を行った。
日本人が初参加した1951年ボストンマラソンでは監督として田中茂樹選手を優勝させ、その後も西田勝雄、広島庫夫、山田敬蔵、浜村秀雄、貞永信義ら第一級選手を育成している。
岡部はその活動の破天荒さ、革新性ゆえ「スポーツ界の奇才」「在野の巨人」「風雲児」などと称され、組織原理や精神主義に重きをおきがちな体育団体とぶつかることも多かったが、近年その業績が再評価されつつある。
現在の福岡市の平和台陸上競技場は、1948年(昭和23年)の福岡国体(第3回国民体育大会)当時、国体事務局長であった岡部が、国体の主競技会場(福岡城址の一角にあった旧日本陸軍兵営跡地)に、「兵(つわもの)どもの夢の跡を平和の台(うてな)にする」として、英語で「Peace-Hill」(平和の丘)を意味する「平和台」と名付けたことが由来である。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
第64回福岡国際マラソン出場前に撮影。
岡部平太は、日本のマラソン再建に尽力した人で、「平和台陸上競技場」の名付けの親でもあります。
42キロを走り競技場に帰ってきたランナーを見守っているようです。
ちなみに後ろに写っているのは、放送用マイクです…

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遠藤 薫
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遠藤 薫 像
(鳥取県 鳥取市 尚徳町 鳥取県立図書館)

遠藤 薫(えんどう ただす)
(1853年-1945年)

撮影日:2010年7月16日
建設年:昭和27年  
分 類:教育者
作 者:長谷川 塊記
評 価:☆☆☆

鳥取県の教育・文化の父として知られる。
図書館、女学校、盲聾学校を設立した。


[感  想]
木陰の下にたたずむ、髭が印象的な像です。

岸本 辰雄
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岸本 辰雄 像
(鳥取県 鳥取市 尚徳町 鳥取県立文書館前)

岸本 辰雄(きしもと たつお)
(1852年-1912年)
明治時代の法律家。

撮影日:2010年7月16日
建設年:平成18年  
分 類:文化人
作 者:入江 博之
評 価:☆☆☆

岸本 辰雄
岸本 辰雄
「明治大学ホームページ」から

嘉永5年11月8日生まれ。
鳥取藩士の子。
明治9年司法省初の留学生としてフランスに留学。
帰国後大審院判事などをへて,弁護士となる。
この間14年に明治法律学校を創設し,21年初代校長,36年明治大学に改組後は学長に推され,45年4月4日死去するまでつとめた。61歳。司法省明法寮卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
明治大学の創設者です。
優しそうな顔が印象的です。

三橋 喜久雄
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三橋 喜久雄 像
(鳥取県 鳥取市 吉成3丁目 鳥取市民体育館)

三橋 喜久雄(みはし きくお)
(1888年-1969年)
体育指導者

撮影日:2010年7月16日
建設年:昭和48年  
分 類:文化人
作 者:早川 巍一郎
評 価:☆☆☆

三橋 喜久雄
三橋 喜久雄
「玉川大学、玉川学園ホームページ」から

大正-昭和時代の体育指導者。
明治21年10月20日生まれ。
母校鳥取師範の教諭をへて,大正3年永井道明にまねかれ,東京高師助教授となる。
14年教授にすすむが同年退職。
昭和2年三橋体育研究所を設立,スウェーデン体操を改良した「生命体操」を創案して普及につとめた。
日本オリンピック協会常務理事。
昭和44年9月24日死去。80歳。鳥取県出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
鳥取市体育館駐車場横におられます。
ランニング姿の珍しい像です。
穏やかな笑顔が印象的です。
鳥取出身で日本の体育界に大きな影響を与えた人です。

八田 三喜
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八田 三喜 像
(新潟県 新潟市中央区 西海岸公園)

八田 三喜(はった みき)
(1873年 - 1962年)
教育者

撮影日:2009年3月23日
建設年:昭和46年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

八田 三喜

金沢出身。
東京帝国大学文科大学哲学科卒。
新潟県立佐渡中学校の校長を経て、東京府第三中学校(現・両国高校)の校長に就任。
厳しいながらも生徒の自律精神を高める教育をおこない、府立三中の基礎を築いた。
府立三中の校長を18年続けた後、1919年に旧制新潟高等学校の初代校長となり、「自由・進取・信愛」をモットーに学校発展に尽力した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
チョビ髭が似合うりりしい顔が印象的です。

新渡戸 稲造
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新渡戸 稲造 像
(北海道 札幌市 北海道大学)

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)
(1862年-1933年(昭和8年))
明治-昭和時代前期の教育者

撮影日:2008年10月28日
分 類:教育者
作 者:山本 正道
評 価:☆☆☆

新渡戸 稲造
新渡戸稲造
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

新渡戸稲造夫婦
新渡戸稲造と妻メアリー

文久2年8月8日生まれ。
新渡戸十次郎の3男。
札幌農学校にまなび、内村鑑三らとキリスト教に入信。
欧米に留学後、母校の教授となる。
明治27年札幌に遠友夜学校を設立。
京都帝大、東京帝大の教授をへて大正7年東京女子大学長となる。
9年国際連盟事務局次長。
「太平洋の橋」になることをねがい、世界平和をとなえた。
昭和8年10月15日カナダのビクトリアで死去。
72歳。陸奥盛岡出身。著作に「武士道」「修養」など。
【格言など】信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり、芝居である
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

5千円
五千円紙幣
D号券からは肖像に文化人が採用されており、五千円券には新渡戸稲造が選ばれた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感 想]
旧五千円札、武士道精神で有名な新渡戸像は、北海道大学のポプラ並木の近くにあります。
誠実そうな顔が印象的です。

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高田 早苗
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高田 早苗 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

高田 早苗(たかた さなえ)
(1860年-1938年)
明治-昭和時代前期の教育家,政治家

撮影日:2007年10月26日
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

高田 早苗
高田 早苗
「早稲田大学ホームページ」から

安政7年3月14日生まれ。
大隈重信に協力し立憲改進党の結成や東京専門学校(現早大)創立に参画。
明治23年衆議院議員(当選6回,改進党)。
外務省通商局長,第2次大隈内閣の文相などを歴任。
大正12年から昭和6年まで早大総長。
昭和13年12月3日死去。79歳。
江戸出身。東京大学卒。
号は半峰。著作に「教育時言」「半峰昔ばなし」など。

[エピソード]
◎妻は前島密の長女
◎早稲田大学の式服や式帽、校旗などを定めることを発案し、職制なども定め、また、早稲田大学教旨の制定を発議した。
◎現在、早稲田大学にある高田早苗記念研究図書館は、高田の早稲田大学への功績をたたえて名づけられた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
早稲田大学の大隈像の近くの中庭に座っておられます。
足を組んだ座り姿は、きりりとした感じです。

塩澤 昌貞
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塩澤 昌貞 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

塩澤 昌貞(しおざわ まささだ)
(1870年-1945年)
明治-昭和時代前期の経済学者

撮影日:2007年10月26日
分 類:教育者
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

塩澤 昌貞
塩澤 昌貞
「早稲田大学ホームページ」から

明治3年10月20日生まれ。
アメリカ,ドイツに留学後,早大で経済学をおしえ,大正12年同大学総長に就任。
大隈重信の知恵袋とよばれ,国際連盟協会国際会議の日本代表,協調会付属社会政策学院院長などをつとめた。
昭和20年7月7日死去。76歳。
常陸(茨城県)出身。東京専門学校(現早大)卒。
旧姓は関。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
この胸像は、昭和15年古希の寿として後輩の寄付金により建てられたそうです。
髭と頭の特徴を良く表した像です。

安部 磯雄
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安部 磯雄 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

安部 磯雄(あべ いそお)
(1865年-1949年(昭和24年))
明治-昭和時代の社会運動家、教育者
日本における野球の発展に貢献した人物としても知られる。

撮影日:2007年10月26日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

安部磯雄の肖像写真
安部磯雄の肖像写真
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

元治2年2月4日生まれ。
アメリカ留学後キリスト教社会主義をとなえ,明治34年社会民主党,大正13年日本フェビアン協会を創立,のち社会民衆党,社会大衆党の委員長。
昭和3年衆議院議員(当選4回)。この間早大教授となり,野球部を創設した。
昭和24年2月10日死去。85歳。
筑前(福岡県)出身。同志社英学校卒,ハートフォード神学校卒。
旧姓は岡本。著作に「土地国有論」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「野球との関わり」
「知識は学習から、人格はスポーツから」形成されると考え、特に日本に伝えられて日の浅い野球の普及・発展に力を注いだ。
1901年には早稲田大学野球部の初代部長に就き早慶戦の糸口をつくっただけでなく、日露戦争まっただ中の1905年には同部で野球史初の海外遠征を強行し野球発祥国アメリカで行われている数多くの技術・練習法などを持ち帰った。
安部らはこれを早稲田部内の秘伝とせず著書や指導などによって日本全国に伝えた。
このことによって日本の野球技術発展の基礎をもたらしたほか、嘉納治五郎らとともに大日本体育協会を創立した。
1930年東京六大学野球連盟初代会長就任(1932年の早稲田大学野球部の連盟脱退問題で引責辞任)
1946年日本学生野球協会初代会長就任。
こうした数々の功績から「日本野球の父」と呼ばれる。
早稲田野球部の本拠地であった戸塚球場は安部が創設者大隈重信を説得して築いたもので、没後「安部球場」合宿所を「安部寮」と名称を改められた。
没後の1959年、この年創設された日本野球殿堂入り(特別表彰)。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
日本野球の父と呼ばれた人物だそうで、初めて知りました。
台座には、野球道具をモチーフにした飾りがはめ込まれています。

飛田 穂洲
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飛田 穂洲 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

飛田 穂洲(とびた すいしゅう)
(1886年-1965年)
明治-昭和時代の野球人
日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、「学生野球の父」と呼ばれる。

撮影日:2007年10月26日
分 類:野球評論家
評 価:☆☆☆

飛田 穂洲
飛田 穂洲
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治19年12月1日生まれ。
早大野球部で主将。
大正8年早大野球部監督となり,その黄金時代をきずく。
15年朝日新聞社にはいり,大学野球と高校野球(戦前は中等学校野球)評論に健筆をふるい,「学生野球の父」とよばれた。
昭和35年野球殿堂入り。昭和40年1月26日死去。78歳。
茨城県出身。本名は忠順(ただより)。著作に「熱球三十年」など。
【格言など】甲子園の浜風心して吹け
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

一球入魂(いっきゅうにゅうこん)は、野球に取り組む姿勢を穂洲が表した言葉である。
西洋伝来のスポーツであるベースボールを、穂洲は日本発祥の武道に通じる「野球道」と捉え、試合よりも練習に取り組む姿勢を重要視し、学生野球は教育の一環であると説いた。
また、試合でいかなる状況においても実力を発揮しうるために、練習では常に最善をつくすべしという「練習常善」の言葉を作り、過酷な猛練習の末に真の実力が備わると説いた。
こうした考えの背景には早慶の台頭前に全盛期を誇っていた一高の存在(晴雨寒暑にかかわらず、あたかも修行のごとき厳しい練習をしていた)と、「知識は学問から、人格はスポーツから」と説いていた早大野球部長安部磯雄の影響が大きい。
穂洲の評論は日本の野球指導者・ジャーナリストたちの間で長い間教本として扱われた。
そのため、穂洲は日本の精神野球の源ともいえる。
穂洲は早大監督を辞任した後も新聞記者として自らの主張を訴え、また母校の後輩たちにことある毎に訓示を行ってきた。
特に早慶戦前は選手たちを前にその歴史と心構えを長時間滔々と述べ、決戦の重みを訴え続けた。
彼の教えは、野球技術(プレーだけでなく選手の体格・力量、トレーニング理論なども)が進化した現代においては古い時代の精神論として軽視、ときには敵視される事が多い。
しかし練習でできないことは試合ではできない、といった考えや目の前の一球の大切さを説く穂洲の主張は決して色あせてはおらず、プロからアマに至るあらゆる野球チームの中に息づいている。
早大野球部においては石井連藏を経て孫弟子野村徹へと引き継がれている。
早稲田大学のグラウンドを見下ろせる地に建立された穂洲の胸像の側に「飛田穂洲先生を偲ぶ」と題されたサトウハチローの詩碑が置かれ、ひとつのものを貫き、ひたむきにそれと取り組む姿勢を賛美する詩が刻まれている。
飛田の像は、かつて主戦場としていた戸塚球場跡にもあり、安部磯雄の傍らに寄り添うようにして建っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
「学生野球の父」といわれる人です。
「一球入魂」は、この人が言った言葉だったとは驚きでした。
早稲田大学のグラウンドを見下ろせる地にある上半身の像です。


正木 直彦
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正木 直彦 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

正木 直彦(まさき なおひこ)
(1862年-1940年)
明治-昭和時代前期の美術行政官,教育者

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和11年
分 類:教育者
作 者:沼田一雅
評 価:☆☆☆

正木直彦
「東京藝術大学ホームページ」から

文久2年10月26日生まれ。
明治34年から昭和7年まで東京美術学校長をつとめる。
明治39年文部省美術展覧会(文展)創設を建議,40年の開催につくした。
昭和6年帝国美術院長。
茶人としても知られる。
昭和15年3月2日死去。79歳。
大坂出身。帝国大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
芸大アートプラザ入り口辺りの建物の中におられます。
椅子に座った陶製の珍しい像です。

大村 西崖
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大村 西崖 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

大村 西崖(おおむら せいがい)
(1868年-1927年)
明治-大正時代の美術史家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和3年
分 類:美術史家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

大村 西崖
大正10(1921)年、美術史研究のため中国へ渡った折の大村西崖
「東京文化財研究所ホームページ」から

明治元年10月12日生まれ。
35年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授となり東洋美術史をおしえる。
大正9年「密教発達志」により学士院賞。
昭和2年3月8日死去。60歳。
駿河(静岡県)出身。
本名は塩沢峯吉。別号に無記庵。
著作はほかに「東洋美術大観」「支那美術史彫塑篇」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
岡倉天心の像を囲むように、森の周りに教授の銅像があります。
像は、朝倉文夫の作品で、実物大と思われ、表情が良く現れています。

嘉納治五郎
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嘉納 治五郎 像
(東京都 文京区 春日 講道館前)

嘉納 治五郎(かのう じごろう)
(1860年-1938年)
明治-昭和時代前期の教育者,柔道家
「柔道の父」と呼ばれる。

撮影日:2007年6月20日
建設年:昭和33年
分 類:教育者
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

嘉納治五郎1

嘉納治五郎2
「近代日本人の肖像ホームページ」から

万延元年10月28日生まれ。
学習院教授,第五高等中学・第一高等中学の校長をへて高等師範(のち東京高師)校長をつとめる。
東京大学在学中から天神真楊流,起倒流の柔術をまなんで柔道を創始し,明治15年(1882)講道館をひらく。
日本初のIOC委員。大日本体育協会初代会長。貴族院議員。
昭和13年5月4日死去。79歳。
摂津兎原郡(兵庫県)出身。
【格言など】柔術は,はたしてこのままでよいのか。ただ敵を倒しさえすればいいのか
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆嘉納治五郎は、明治から昭和初期にかけて活躍した柔道家、教育者です。
幕末の万延元年(1860)に摂津御影村 (現在の神戸市東灘区御影町)の名家の三男として誕生。
明治に入ると、政府に招聘された父に付いて上京し、明治10年(1877)には東京大学に入学します。
小柄だった治五郎は柔術の道を志しますが、師と仰げる人物はなかなかみつからず、やがて江戸末期から続く天神真楊流柔術の福田八之助と出会います(後に流派家元の磯正智や起倒流柔術の飯久保恒年に師事)。
天神真楊流は、起倒流と共に、後に治五郎が創始する講道館柔道の基礎となりました。
治五郎は修行と研究の結果、二流派の理論を整理・統合して独自の流派を編み出し、明治15年に柔道場“講道館”を設立します。現在も続く日本柔道の隆盛の礎となった講道館柔道の誕生です。
また講道館設立と同年に学習院教頭に就任するなど、柔道の普及とともに教育にも力を注ぎました。
他の武道の研究にも熱心で、スポーツ振興にも自ら率先して尽力するなど、日本における近代スポーツの普及にも大きな役割を果たし、明治42年(1909)には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)の委員になっています。
東京オリンピックの招致に成功するなど、大きな功績を残した治五郎でしたが、昭和13年(1938)IOC会議からの帰途、氷川丸の船内で死去。77歳でした。
治五郎の悲願であった東京オリンピックは、戦争のため開催権の返上という無念な結果となりましたが、戦後に改めて開催されます。
没後26年目の昭和39年(1964)のことでした。
銅像は、文京区本郷の講道館本館前にあり、白山通りに面して置かれています。
この銅像は再建されたもので、最初の建立は昭和11年(1936)で、嘉納治五郎の喜寿を記念し、朝倉文夫の手により製作され、旧東京文理科大学本館前広場で除幕されました。
紋付羽織姿の凛として緊張感のある立像です。
しかし、これは戦時中の金属供出で行方不明になり、戦後、朝倉文夫の手元に残された原型を元に昭和33年に復元されたもの。
講道館本館のほかに旧東京教育大学の跡地に造営された占春園にも同じ原型から復元されたものが建立された。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎明治24年(1891年)1月、欧米視察より帰国する船上でロシア人士官に挑まれこれを投げた。同年4月10日の讀賣新聞がこの記事を掲載した。
◎オリンピック、世界選手権に出場する柔道日本代表選手団が大会前に必勝祈願として、嘉納治五郎の墓参りをすることが恒例となっている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
講道館の前に羽織袴姿で、堂々と立っておられます。
すっくと立った姿がいいです。





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