ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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聖徳太子
聖徳太子 久留米 (1)

聖徳太子 久留米 (5)
聖徳太子 像
(福岡県 久留米市 篠山町 久留米城跡)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:皇子
評 価:☆☆☆

聖徳太子(しょうとくたいし)
(574年-622年)
飛鳥時代、用明天皇の皇子

敏達天皇3年生まれ。
母は穴穂部間人皇女。
推古天皇の皇太子、摂政となり、十二階冠位の制定、憲法十七条の発布、遣隋使の派遣などをおこなう。
また慧慈にまなび、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」をあらわした。
豊聡耳命、上宮王ともいう。
推古天皇30年2月22日死去。49歳。
墓所は磯長墓(大阪府太子町叡福寺)。名は厩戸(うまやどの)皇子。
【格言など】財物は亡び易くして永く保つべからず。
ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし(遺詔)

聖徳太子 久留米 (2)
「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画

聖徳太子1万円札
聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)

聖徳太子500
聖徳太子の肖像が描かれた500円収入印紙(1948年発行)

[紙  幣]
聖徳太子の肖像画は1930年、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。
また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。
特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。
なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。
1948年発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画が採用されている。

[エピソード]
◎豊聡耳
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。
我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。
この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から


[感  想]
久留米城跡の石垣の上の広場におられます。
小ぶりな像ですが、昔の1万円札の肖像と同じで懐かしさを感じる像です。

聖徳太子 久留米 (3)

聖徳太子 久留米 (4)

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安徳天皇
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安徳天皇 像
(山口県 下関市 みもすそ川町 みもすそ川別館)

撮影日:2012年12月30日
建設年:昭和45年
分 類:天皇
評 価:☆☆

安徳天皇画像 泉涌寺所蔵
安徳天皇画像 泉涌寺所蔵
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

安徳天皇(あんとくてんのう)
(1178年-1185年)
平安時代後期,第81代天皇。
在位1180-85

治承2年11月12日生まれ。
高倉天皇の第1皇子。
母は平徳子(建礼門院)。
平清盛の後押しにより3歳で即位。
翌年清盛が死に,各地で平氏追討の動きが出,寿永2年平氏は天皇と神器を奉じて西国へ脱出,後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ,天皇がふたりたった。
2年後,長門(山口県)壇ノ浦の戦いで平氏は敗れ,元暦2年3月24日天皇は入水。8歳。
墓所は阿弥陀寺陵(山口県下関市)。
名は言仁(ときひと)。別称は西国天皇。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

安徳天皇は、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられると、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。
二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。
安徳天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。
安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4ヶ月、6年124日)で崩御した。
(『平家物語』「先帝身投」より)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
入水前、二位尼に抱えられて手を合わせている姿です。


有栖川宮熾仁親王
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有栖川宮熾仁親王
(東京都 港区 南麻布 有栖川宮記念公園)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治36年
分 類:皇族
作 者:大熊 氏廣
評 価:☆☆☆☆

陸軍大将大礼服着用の熾仁親王
陸軍大将大礼服着用の熾仁親王
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみやたるひとしんのう)
(1835年-1895年)
明治時代の皇族、政治家、軍人

有栖川宮幟仁親王の第1王子。
天保6年2月19日生まれ。
国事御用掛となるが,尊攘運動を支持し,禁門の変ののち失脚。
王政復古後新政府の総裁となり,戊辰戦争に東征大総督,西南戦争に征討総督として出征した。
明治10年陸軍大将,22年参謀総長。
明治28年1月15日死去。61歳。幼称は歓宮(よしのみや)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆有栖川宮熾仁親王は、明治新政府発足に際して政治・軍事の面で大きな役割を果たした皇族です。
「皇女和宮」として知られる親子内親王の最初の婚約者であり、後に徳川慶喜の妹にあたる徳川斉昭の娘貞子と結婚しています。
天保6年(1835)に京都御所内北東の有栖川宮邸で誕生。
若くして倒幕運動に理解を示し、長州藩士を始めとする反幕勢力の結集に協力しました。
明治天皇の厚い信任を得て、暫定政治指導体制として設けられた三職のトップである総裁を務め、戊辰戦争では江戸を目指す新政府軍を率いる東征大都督の要職にも就きました(品川弥二郎作詞のトコトンヤレ節に唄われている「宮さん」は熾仁親王である)。
しかし西南戦争では、鹿児島県逆徒征討総督として九州に渡り、かつて東征の路を共に歩んだ西郷隆盛と対峙する立場になっています。
政治家としての実績も多く、西南戦争の渦中で行われた博愛社(後の日本赤十字社)設立の建策に独自の判断で許可を与え、また福岡を中心として経済を混乱に陥れた贋札事件の沈静化に尽力。元老院議長も務めました。
日清戦争勃発に際し、広島に置かれた大本営に日本軍総司令官として着任しましたが、腸チフスを発症し、明治28年(1895)1月15日、逝去しました。享年61歳。
銅像は、大山巌ら陸海軍の重鎮から建立の建策が出され、陸海軍軍人と一般からの献金を集めて明治36年(1903)、千代田区三宅坂の陸軍参謀本部前で除幕。
製作は彫刻家大熊氏廣で、日本の最高勲章である大勲位菊花頚飾(だいくんいきっかけいしょく)を佩用した礼装姿の堂々たる乗馬像です。
除幕式典には縁深き徳川慶喜も招かれました。
後に道路拡張に伴う区画整理で移築され、現在は港区広尾の有栖川記念公園内にあります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
有栖川記念公園の広場におられます。
馬に跨った姿は、堂々としていて、帽子の羽が印象的な像です。

神武天皇 2
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神武天皇 像 2
(新潟県 新潟市中央区 白山公園)

撮影日:2009年3月23日
分 類:天皇
評 価:☆☆☆

[感  想]
新潟県白山公園におられます。
1の像とは違い、スリムな像です。
こちらの像にも鳥がとまっています。
地球の上に乗っている姿が印象的です。


神武天皇
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神武天皇 像
(徳島県 徳島市 眉山町)

神武天皇(じんむてんのう)
(紀元前711年-紀元前585年)
日本の初代天皇
日本神話以降に相当するとされる初代天皇。

撮影日:2007年11月16日
建設年:明治30年
分 類:天皇
作 者:永尾 長左衛門
評 価:☆☆

神武天皇
月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。
明治時代初期の版画
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

即位したとされる2月11日は日本国が建国された日とされ、第二次世界大戦前は紀元節、戦後も建国記念の日として祝日である。
神武天皇が実在したかについては歴史学的には否定的見解が強い。
『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、
『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)

日清戦争の記念に明治30年に建立された。

[感 想]
徳島の眉山中腹にあります。
杖に鳥が留まっているのが、特徴的な像です。
明治30年建立とは、古いですね。
100年以上も経っています。

継体天皇
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継体天皇 像
(福井県 福井市 足羽上町 足羽山公園)

継体天皇(けいたいてんのう)
(450年?‐531年)
記・紀系譜による第26代天皇。在位507‐531。

撮影日:2008年9月1日
建設年:明治17年
分 類:天皇
作 者:内山基四郎
評 価:☆☆☆

父は彦主人(ひこうしの)王。母は振媛(ふるひめ)。
「日本書紀」によると、応神天皇の5世の孫。
武烈天皇に子がなく、その死後越前三国から大伴金村らにむかえられて即位するが、大和入りにその後20年かかった。
筑紫の磐井の乱をおさめ、朝鮮の新羅、百済などの争いに、近江毛野を派遣した。
継体天皇25年2月7日死去。82歳。28年没説もある。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

・継体天皇石像
足羽山山頂の足羽山公園三段広場には高さ4mを越える継体大王の石像が建っています。
この石像は、明治17年(1884年)、内山基四郎を中心とした石工たちが立てたもので、笏谷石でできています。
石像は継体大王が治水に際して水門を開かれたと伝えられる北北西の三国港を向いています。
また、石像が立っている三段広場と呼ばれる小丘は、直径60m、高さ10mの円墳でした。
公園を造るとき一部が削られましたが、本来の古墳の形をとどめています。円墳としては県内最大級であり、山頂古墳とよばれています。
・足羽(あすわ)神社
 即位のため福井を離れることになった継体大王が、自らの生霊を合祀し娘の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としたことが始まりです。ご祭神の継体大王がたくさんの子宝に恵まれたことから、「子授け、安産、子孫繁栄」を御神徳としています。
 なお、足羽神社は、式内社であり越前で最も古い神社の一つです。
足羽山周辺から日野川にかけて、足羽神社の分社や継体大王を祀る神社が多く分布し、「三尾野」「角折」の地名と併せて、継体大王一族との深い関係を窺わせる地域です。
「継体大王と越の国・福井県」ホームページから

[感 想]
足羽山山頂から福島市内を見下ろしておられます。
大きな像で、全体の作りが大きい感じです。

亀山天皇
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亀山天皇 像
(福岡県 福岡市博多区 東公園)

亀山天皇(かめやまてんのう)
(1249年-1305年)
鎌倉時代の第90代天皇
(在位:1259年-1274年)

撮影日:2007年12月4日
建設年:明治37年
分 類:天皇
作 者:山崎朝雲
評 価:☆☆☆

建長元年5月27日生まれ。
後嵯峨天皇の皇子。
母は藤原姞子(大宮院)。
大覚寺統最初の天皇。
同母兄後深草天皇の譲位により即位。
父が院政をおこなう。
子の後宇多天皇に譲位して,兄をさしおいて院政をしいたことなどもあり,大覚寺(亀山),持明院(後深草)両統対立がおこる。
嘉元3年9月15日死去。57歳。
墓所は亀山陵(京都市右京区)。諱は恒仁。法名は金剛眼。
【格言など】世のために身をばをしまぬ心ともあらぶる神はてらしみるらむ(「亀山院御集」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「元寇との関わり」
文永2年(1265年)に、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。
幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。
院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮で祈願するなど積極的な活動を行った。

[銅 像]
亀山上皇像
像本体4.8m。
県指定有形文化財。
高村光雲弟子の山崎朝雲によって木彫原型が制作。
福岡警察署長の湯地丈雄が長崎事件(1886年)を期に主唱した元寇記念碑建設運動に端を発し、日露戦争中の1904年(明治37年)12月25日に除幕式が挙行された。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
東公園中心の高みにあり、県庁の方を見下ろしておられます。
台座に「敵国降伏」の文字が刻まれてあり、何だろう?と思いましたが、元寇関係ということで納得しました。
亀山えはがき
東公園の亀山上皇像(大正時代~昭和前期)の絵はがき。
「福岡市博物館ホームページ」から
昔は、絵はがきにもなっていました。

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福岡県庁に県庁とその周辺の模型がありますが、
亀山上皇像と日蓮像もちゃんと造ってあります。

明治天皇
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明治天皇 像
(徳島県 徳島市 眉山町)

明治天皇(めいじてんのう)
(1852年-1912年)
第122代天皇
(在位1867年-1912年)

撮影日:2007年11月16日
建設年:昭和54年
分 類:天皇
評 価:☆☆☆

明治天皇1
明治天皇
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

嘉永5年9月22日生まれ。
孝明天皇の第2皇子。母は中山慶子。
父の死により16歳で践祚(せんそ)。
その10ヵ月後幕府は大政を奉還。
五箇条の誓文を公布し,新政府の基本方針をしめす。
明治と改元して一世一元とさだめ,京都から東京へ遷都。
欧米の制度や文化をみならい,政治,経済,社会,教育,軍事を改革し,大日本帝国憲法や教育勅語などを発布して,立憲国家・近代国家確立に献身した。
在位中,日清・日露両戦争,大逆事件がおこり,韓国併合がおこなわれた。
和歌をこのみ,約10万首の詠歌をのこした。
明治45年7月29日死去。61歳。
墓所は伏見桃山陵(京都市伏見区)。
幼称は祐宮。諱は睦仁。
【格言など】四方(よも)の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「人柄と影響」
明治天皇は、近代の天皇制が確立した時期の天皇である。
若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府の最高権力者として祭り上げられ、絶対君主として国民から畏敬された。
日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。
また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。
しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。
写真嫌いは有名である。
現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。
ただ、最晩年の1911年(明治44年)に軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした物が残っており、これが明治天皇の最後に撮影された姿である。
明治天皇は明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉と認識された。
大喪の日には、陸軍大将:乃木希典将軍夫妻を始め、多くの人が殉死した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

明治天皇
最も有名な御真影、キヨッソーネ作による肖像版画

明治天皇2
晩年の明治天皇
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感 想]
この像は、徳島の眉山中腹の山の麓にひっそりと建っておられます。
明治天皇が写真嫌いだったとは、おもしろいエピソードですね。
軍服を着た立ち姿は、きっりとした感じです。

小松宮彰仁親王
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小松宮彰仁親王 像
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)
(1846年-1903年)
幕末-明治時代の皇族,軍人
北白川宮能久親王の兄

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治45年
分 類:皇族
作 者:大熊氏廣
評 価:☆☆☆☆

小松宮彰仁親王
小松宮彰仁親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

弘化3年1月16日生まれ。
伏見宮邦家親王の王子。
安政5年親王となる。
出家して純仁と名のり,王政復古にあたり還俗して名を嘉彰にもどす。
明治15年東伏見宮から小松宮に改称,名も彰仁とする。
軍務に従事し,23年陸軍大将,31年元帥。35年天皇の名代としてイギリス国王の戴冠式に参列した。
明治36年2月18日死去。58歳。
幼称は豊宮。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆小松宮彰仁親王は、江戸時代末期の弘化3年(1846)に皇族伏見宮邦家親王の第8皇子として誕生。
戊辰戦争で奥羽討伐総督として官軍を指揮したほか、のちの西南戦争でも旅団を指揮して出征しています。
明治時代は欧州王族の例に倣って日本の皇族も進んで軍務に就くべきという雰囲気が皇族内にあり、彰仁親王もそれを奨励し、自らも多くの戦場に立ったことで知られています。
明治23年(1890)には陸軍大将となり、近衛師団長、参謀総長という要職を歴任しています(のちに元帥)。
また軍務の一方で、日本赤十字社の総裁として赤十字活動の奨励・発展に尽力するなど社会奉仕・事業団体の総裁を務め、現在、皇族が公務として行っている社会活動の礎となりました。
なお銅像建立を提案したのは、西南戦争の際に負傷者介護にあたる公的機関(のちの博愛社。日本赤十字社の前身)の設立を提唱した佐野常民で、明治35年の日本赤十字社設立25周年の記念としてでした。
像は、勲章を佩用した軍装の乗馬姿で明治45年(1912)に除幕。
上野動物園正面入り口・向かって左側の木々に囲まれた場所にあります。
見所は軍装の装飾(正帽の前立は見事です)、勲章、装備、馬具の精緻きわまる描写。
そして並足の騎馬の抑えた躍動感と馬上の親王の凛として威厳あるたたずまいです。
周囲には桜の木があり、花咲く春が銅像の見ごろと言えるかもしれません。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
上野公園のほぼ中央に位置します。
馬に乗ったりりしい姿が素晴らしいです。
台座も高くて立派です。

北白川宮能久親王
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北白川宮能久親王 像 
(東京都 千代田 北の丸公園)

北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)
(1847年-1895年)
幕末-明治時代の皇族,軍人

撮影日:2007年6月4日
建設年:明治36年
分 類:皇族
作 者:新海竹太郎
評 価:☆☆☆☆

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北白川宮能久親王
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

弘化4年2月16日生まれ。
邦家親王の王子。
安政5年親王となり,得度して公現と称し,慶応3年輪王寺門跡をつぐ。
戊辰戦争の際,奥羽越列藩同盟についたため謹慎処分。
のち軍事研究のためドイツに留学。
明治5年北白川宮を相続。
28年近衛師団長となり,台湾支配の指揮にあたり,同地で10月28日病没。49歳。
没後,陸軍大将。幼称は満宮。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆幕末から明治時代中期にかけて、時代の激変の中を生きた皇族です。
伏見宮邦家親王の第9皇子として誕生しましたが、若くして仏門に入りました。
その後、徳川慶喜の助命嘆願や蜂起した彰義隊に擁立されるなど幕府寄りの立場をとり、ついには奥羽列藩同盟の盟主に担ぎ出されたため、同盟崩壊後、謹慎・蟄居の憂き目に遭いました。
明治維新後は還俗し、1872年(明治5)に北白川宮家を相続しました。
のちにドイツ留学を果たし(ここでも婚約問題でひと悶着を起こして帰国・謹慎)、その後は陸軍将校として軍務に精勤します。
日清戦争後の1895年(明治28)、近衛師団長(当時陸軍中将)として、ドイツより割譲された台湾の征討任務で海を渡りますが、現地で病を得て亡くなりました。
征討作戦中の死であったことから、外地で皇族が戦没した初めての例となりました(死後陸軍大将に特進)。
紆余曲折に彩られた数奇な人生を歩んだ人物といえるでしょう。
先進国ドイツに学ぶため国策機関として設立された獨逸學協會の初代総裁に就任、学校設立(現在の学校法人獨協学園の前身)に尽力したことでも知られています。
銅像は北の丸公園内の国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)近くの木々の間に隠れるように建っています。建立されたのは没後の1903年(明治36)で、製作は新海竹太郎。
実は新海竹太郎は軍人を志して近衛騎兵大隊に入隊していたという経歴があり、北白川宮が台湾にあった当時もその近くに仕えていたそうです。
建立当時は北の丸内に駐屯していた近衛歩兵第一・第二連隊正門前にありましたが、後に現在の場所に移されました。
作戦指揮にあたる勇壮な姿を模した乗馬像で、右手に手綱、左手に双眼鏡を持ち、馬は躍進中と思われる躍動感たっぷりの姿で見応えがあります。
馬の足元には地面の一部も造形され、戦場の情景といった雰囲気も漂う像です。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげたことで日本武尊にたとえられた。
◎明治3年(1870年)12月プロイセンに留学のため日本を離れる。
1876年(明治9年)12月、ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約、明治政府に対し結婚の許可を申し出が、政府は難色を示し帰国を命じる。
帰国の直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため問題となった。
しかし結局1877年(明治10年)7月に帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄、京都でまた謹慎することになる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
銅像は、明治36年(1903)北の丸近衛連隊正門前に建立されたが、公園整備で現在地に移設。

北白川宮銅像
「北白川宮銅像」
最新東京名所写真帖(明治42.3刊行)

北白川宮銅像2
「北白川宮銅像」
東京風景(明治44.4刊行)
「写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳ホームページ-」から

明治時代の東京名所写真帳の掲載写真です。

[感  想]
調べてみると、恋多き人だったようですね。
軍服姿で、馬に乗った姿は、今にも動き出しそうな躍動感にあふれいい像です。





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