ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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尾台 榕堂
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尾台 榕堂 像
(東京都 中央区京橋 東京駅八重洲口近く)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成23年
分 類:医師
評 価:☆☆

尾台 榕堂(おだい ようどう) 
(1799年-1871年)
幕末の医師

寛政11年生まれ。
江戸にでて尾台浅岳にまなび、浅岳の没後、跡をついで尾台姓を名のる。
吉益東洞の「類聚方」を研究し、「類聚方広義」をあらわした。
明治3年11月29日死去。72歳。越後(新潟県)出身。
本姓は小杉。名は元逸。字は士超。通称は良作。別号に敲雲(こううん)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
東京駅八重洲口近くの道路の歩道におられます。
子供達の治療をする姿を表した、丸っこい感じの小ぶりな像です。

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谷口 弥三郎
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谷口 弥三郎 像
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部) 

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和39年
分 類:医師
作 者:今里 龍生
評 価:☆☆☆


谷口 弥三郎(たにぐち やさぶろう)
(1883年-1963年)
明治-昭和時代の産婦人科学者、政治家。

明治16年8月13日生まれ。
熊本医学校を卒業。
大正10年後身の県立熊本医専(現熊本大)教授。
翌年谷口病院を開設、実験医学研究所所長をへて昭和28年久留米大学長。
この間の22年参議院議員(当選3回、自民党)、25年日本医師会会長。
優生保護法の制定につくした。
昭和38年8月19日死去。80歳。香川県出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
久留米大学医学部の校内におられます。
ふくよかな顔立ちで優しそうな印象です。

溝口 喜六
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溝口 喜六 像
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和33年
分 類:医師
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

溝口 喜六(みぞぐち きろく)
(1876年-1953年)
医者

佐賀県杵島郡に生まれる。
明治33年第三高校岡山医学部卒業。
翌年から東大外科で研修。
明治36年九大外科教室で実地研修。
明治39年ドイツのウルツブルク大学医学部に留学して学位を受ける。
明治42年福岡市須崎で外科開業。
大正8年、医学博士、福岡県医師会長になる。
昭和2年に医専設立を企画し九州医学専門学校創立、委員長となった。
翌年、初代理事長兼教授となった。
昭和17年には南方派遣診療団(六九名)の団長として、スマトラ島パレンバンで診療と熱帯医学研
究に活躍。
昭和21年、久留米医大初代学長に就任し、その後久大名誉学長の称号を受ける。

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[感  想]
久留米大学医学部の校内におられます。口髭とオールバックの髪型が特徴的です。

伊東 祐彦
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伊東 祐彦 像
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和44年
分 類:医師
評 価:☆☆☆

伊東 祐彦(いとう すけひこ)
(1865年-1936年)
医師

米沢藩の名門に出生。
明治25年東大医学部を卒業し、母校小児科で研究。
34年欧州留学、ドイツで医学を研究し、フランスを廻って二年後に帰国。
37年京都帝大福岡医科大学教授に任官。
39年医学博士。44年同附属病院長。
大正2年九州帝大医科大学長となり、昭和2年に退官し、名誉教授。
昭和3年新設の九州医学専門学校長兼附属病院長に赴任した。
それより6年間、創立期の経営に心血を注ぐ。
建築家 伊東忠太の父。

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[感  想]
久留米大学医学部の校内におられます。口髭と笑顔が特徴的です。

山本 哲次郎
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山本 哲次郎 像
(大分県 別府市 鶴見 鶴見台病院)

撮影日:2015年1月31日
建設年:昭和57年
分 類:医学者
作 者:長谷 秀雄
評 価:☆☆☆

山本 哲次郎(やまもと てつじろう)
(1906年-1962年)
別府市の山本病院、鶴見台病院の設立者。

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[感  想]
別府市内の鶴見台病院で偶然発見しました。
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聴診器を首にかけた姿が印象的です。



三浦 梅園
2014 三浦(3)

2014 三浦(1)
三浦 梅園 像
(大分県 国東市 安岐町中園 安岐総合支所)

撮影日:2014年2月3日
建設年:平成4年
分 類:哲学者
作 者:小川 誠
評 価:☆☆☆

三浦 梅園(みうら ばいえん)
(1723年-1789年)

江戸時代中期の哲学者。
享保8年8月2日生まれ。
豊後(大分県)国東郡富永村の庄屋、医師。
綾部絅斎、藤田敬所にまなぶ。
独創で天地造化の「条理」をきわめ、梅園三語とよばれる「玄語」「贅語」「敢語」をあらわした。
仕官せず、郷里で門人を教育し、思索と著述の生涯をおくった。
寛政元年3月14日死去。67歳。名は晋(すすむ)。字は安貞。
【格言など】学問は飯と心得べし(「戯示学徒」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎梅園は三度旅をした以外は、故郷の大分県国東半島を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、その坦々とした生涯を終えた。複数の藩主から招聘の声もあったが、断ったという。
◎地元安岐町に梅園自身が設計した旧宅があり、近くには宿泊施設、キャンプ場、天文台、梅園などが整備された梅園の里があり、設備の完備した資料館に膨大な自筆稿本類すべてが保存されている。
メルカトル図法で描かれた世界地図(梅園自身の筆写)や南天図・北天図(南半球・北半球の星図。同前)などがある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
国東市安岐総合支所前の庭におられます。
優しそうな表情の上半身の像です。

2014 三浦(2)

小幡 英之助
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小幡 英之助 像
(大分県 中津市 二ノ丁 中津城公園)

撮影日:2013年2月4日
建設年:昭和41年
分 類:歯科医師
作 者:溝口 寛
評 価:☆☆☆

小幡 英之助
小幡 英之助(おばた えいのすけ)
(1850年-1909年)
明治時代の歯科医師

嘉永3年8月生まれ。
明治4年横浜に行きアメリカ人歯科医エリオットにまなぶ。
8年東京医学校(東大医学部の前身)の歯科試験に合格し、わが国最初の歯科医開業免状を得、東京で開業した。
明治42年4月26日死去。60歳。
豊前中津(大分県)出身。慶応義塾卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[銅  像]
現在、中津城にほど近い中津市公園に小幡英之助の銅像が建っている。
これは地元歯科医師会が中心になって建立したもの。
中津歯科医師会ではこの像の前で毎年5月の第2日曜日に歯科祭を行い、英之助の遺徳を顕彰している。
英之助が切り開いた近代歯科の道は、いまも脈々と受け継がれているのである。

小幡 英之助2
胸像完成記念写真 昭和12年5月18日
「Vient~大分の風」から抜粋

[感  想]
中津城近くで立派な石垣の上におられます。
日本で初めての歯科医師です。
モーニングを着た立ち姿で、やさしそうな顔が印象的です。

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前野 良沢
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前野 良沢 像
(大分県 中津市 二ノ丁 中津城内)

撮影日:2013年2月4日
建設年:平成16年
分 類:蘭学者
作 者:永原 陽宝
評 価:☆☆

前野良沢
前野 良沢(まえの りょうたく)
(1723年-1803年)
江戸時代の蘭学者、蘭方医

享保8年生まれ。
豊前中津藩(大分県)藩医前野東元の養子。
青木昆陽、吉雄耕牛らにオランダ語をまなぶ。
明和8年杉田玄白らと刑死者の解剖を参観して「ターヘル-アナトミア」の翻訳を決意し、「解体新書」を刊行にみちびいた。
門弟に大槻玄沢、江馬蘭斎ら。
享和3年10月17日死去。81歳。
本姓は谷口。名は熹。字は子悦。号は楽山、蘭化。
著作に「和蘭訳筌(オランダやくせん)」など。
【格言など】経営漫費人間力、大業全依造化功
(経営みだりについやす人間の力、大業はすべて造化の功による)(自画像の賛)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
中津城の中におられます。
肖像画の特徴を良くとらえられている木像です。

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高木 兼寛
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高木 兼寛 像 
(鹿児島県 鹿児島市 山下町 県民交流センター横)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成22年
分 類:医学博士
評 価:☆☆

高木兼寛(たかき かねひろ)
(1849年-1920年)
明治-大正時代の医学者

嘉永2年9月15日生まれ。
鹿児島で西洋医学をまなび、明治5年海軍軍医。
イギリスに留学、18年海軍軍医総監となる。
脚気の栄養原因説を主張、麦飯の採用など兵食の改善で海軍の脚気を撲滅。
成医会講習所(東京慈恵医大の前身)、有志共立東京病院、看護婦養成所を設立。
日本最初の医学博士。
大正9年4月13日死去。72歳。
日向(宮崎県)出身。
幼名は藤四郎。号は穆園。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎明治3年(1870年)、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学するが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された。

◎脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。
当時なじみの薄かったカレーをかっけの予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
ウィリアム・ウィリスに教えを受ける高木の像です。
手に持つ風呂敷の中は医学書が入っているかと思われます。

岡藤 五郎
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岡藤 五郎 像
(山口県 美祢市 大嶺町東分 美祢市歴史民俗資料館)

撮影日:2012年7月1日
建設年:昭和55年
分 類:古生物学者
評 価:☆☆☆

岡藤 五郎(おかふじ ごろう)
(1924年-1978年)
昭和時代後期の古生物学者

大正13年9月30日生まれ。
昭和27年山口県立大嶺高教諭。
秋吉台でニホンオオツノシカなど哺乳類を中心に,化石約20万点を採集,研究した。
47年中国文化賞。
昭和53年7月20日化石採集中死去。53歳。
山口県出身。
朝鮮総督府水原農林専門学校卒。
著作に「秋吉台及び周辺化石図集」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「バイクを駆って古代のロマンを追い続けた化石先生」
岡藤五郎は、大正十三年(一九二四年)山口県美祢市伊佐町の呉服店の長男として生まれました。
元気いっぱいの五郎は川で小魚を追ったり、野山で遊んだりするのが大好きで、小さいころから伸び伸びと自然に親しんで育ちました。
終戦後、専門学校を卒業した五郎は、旧制山口県立豊浦中学校の理科の先生になります。
そして、自分が培ってきた経験から「理科の学習は教室だけではだめだ」と思い、野外研究として生徒たちを連れて化石を集め始めます。
その後、昭和二十七年(一九五二年)には故郷である美祢市に新設された山口県立大嶺高等学校に転勤になります。
美祢市は、秋吉台カルスト地帯と大嶺炭田という二つの化石のメッカとして知られるところですから、五郎にはたまらなく魅力的な土地だったことでしょう。
教師の仕事のかたわら、化石を採集するためにバイクで走り回る生活が始まりました。
そしていつしか、周囲から「化石の先生」と呼ばれるようになりました。
地元では五郎のことを知った人が化石を持って来てくれたり、情報を伝えに来てくれたりと、温かい応援がありました。
また、五郎は貴重な化石を見付けると自分のヘルメットを脱いで、そのなかに入れて持ち帰り、奥さんにしかられることも多かったそうです。
五郎は、よくこういいました。
「私は専門の学者ではない、第一線にいる化石収集家に過ぎない。でも、その化石を調べるためには幅広い知識が必要だ」
この思いから化石採集から帰った少ない時間も化石の研究にあて、古生物学や地学、人類学、考古学などの文献を調べたり、大学などの専門の学者と交流を深めたりしていきました。
そんななか、炭鉱である山陽無煙桃木鉱の露天掘りの現場で、たいへん貴重な植物化石群が見つかります。
昭和四十三年(一九六八年)のことでした。
五郎は学校が終わると連日現場に駆け付け、日暮れまで化石を探し続けました。
その量はトラック数台分にもなり、これを見た人々はびっくりして、「よくもまあ、これだけのものを一人で」と感心したほどでした。
五郎は、これらの化石を国立科学博物館や全国の大学、研究所に無償で送り、さまざまな研究に役立てました。
五郎が作製した何千、何万と集められた微小ほ乳類の骨の標本を見ると、彼がいかに細心の注意力と根気強さを持った人だったかが分かります。
これらの標本は、洞くつのなかに積もった土や、長い年月をかけて石灰岩の割れ目のなかに流れ込んで石のように固まった「テラロッサ」と呼ばれている土を、水洗いして取り出し、一つ一つピンセットでより分け、整理してつくったものです。
この小さな骨のなかから、氷河期にアジア大陸に生息していたネズミなども発見しました。
五郎が発見した化石のなかには、五郎自身の名前が付いたものもあります。
シダの仲間の「アステロテーカ・オカフジアイ」、トクサの仲間の「パラスフェノフィルム・オカフジアイ」、ゴキブリの仲間の「オカフジムカシゴキブリ」などです。
また「トウヨウゾウ」「サイ」「トラ」「ヒョウ」「オオツノジカ」などの化石からは、氷河期に日本列島の一部が中国大陸や朝鮮半島、シベリア大陸と陸続きになったり離れたりした時期や、当時の気候が現在とはかなり異なっていたことが分かります。
このように五郎が発見した化石は、日本列島の歴史や気候を知る上での重要な手がかりとなったのです。
五郎は、昭和五十三年(一九七八年)七月二十日の午後、太陽がかんかんと照り付け、焼け付くような石灰岩の採掘場で化石を採集中、突然襲った心臓病のために倒れて再び立ち上がることなく亡くなりました。
しっかりと握りしめたこぶしのなかには、小さな化石があったということです。

化石のクリーニング作業中の岡藤五郎
化石のクリーニング作業中の岡藤五郎

岡藤五郎、化石の採集現場にて
岡藤五郎、化石の採集現場にて
【出典、参考文献】
「改訂版 山口の理科ものがたり」山口県小学校教育研究会理科部会
「伝えたいふるさとの100話」から


[感  想]
美祢市歴史民俗資料館の風除室におられます。
この史料館には、美祢市で採取された多くの化石が展示されており、化石先生も化石に囲まれて幸せでしょう。
眼鏡をかけた優しい表情が印象的です。

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資料館にある岡藤五郎コーナー
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最後の収集資料やカメラ等が展示してあります。

小沢 儀明
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小沢 儀明 像
(山口県 美祢市 秋芳町 秋吉台山)

撮影日:2011年12月31日
建設年:昭和44年
分 類:学者
作 者:久間 秋夫
評 価:☆☆☆

小沢 儀明
小沢 儀明(おざわ よしあき)
(1899年-1929年)
大正-昭和時代前期の地質学者

明治32年3月31日生まれ。
大正14年東京帝大助教授。
日本の造山運動を研究。
15年学士院恩賜賞。
翌年欧米に留学し,有孔虫類の系統分類の研究で成果をあげた。
昭和4年12月28日死去。31歳。
山梨県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「小沢儀明と秋吉台」
小沢博士は31歳の若さで亡くなりましたが、わずかの期間にたくさんの研究をされ、秋吉台を世界的に有名にし、古生物の研究の基礎を作られました。
フズリナ、サンゴ、こけ虫などの化石研究を行い、特にフズリナ化石の分類体系やその生層序の確立により、秋吉台は日本の古生層を代表する模式地となりました。
秋吉台が特別天然記念物に指定されるにいたった経緯は、小沢博士の研究成果の重要性によるものが大きく寄与しています。
また、博士は日本で最初のカルスト地下水系の論文も公表されています。
「秋吉台科学博物館ホームページ」から
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[感  想]
秋吉台科学博物館の前におられます。
眼鏡をかけた上半身の像で、秋吉台をじっと見守られている感じがします。
小沢博士が研究していたフズリナの化石がある石灰岩も銅像と一緒に展示してあります。
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光田 健輔
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光田 健輔 像
(山口県 防府市 寿町 防府市役所)

撮影日:2011年6月25日
建設年:昭和39年
分 類:医学者
評 価:☆☆

光田 健輔
光田 健輔
熊本日日新聞2002年7月14日朝刊から

光田 健輔(みつだ けんすけ)
(1876年-1964年)
明治-昭和時代の医学者

明治9年1月12日生まれ。
ハンセン病対策にとりくみ,全生病院長をへて,昭和6年国立療養所長島愛生園の初代園長。
予防のため絶対隔離策をすすめ,研究面では病型判定の光田反応を開発した。
26年文化勲章,36年ダミアン-ダットン賞。
昭和39年5月14日死去。88歳。
山口県出身。
東京帝大選科卒。
旧姓は吉本。
著作に「愛生園日記」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1951年に文化勲章受章。
防府市名誉市民になっています。

[感  想]
防府市出身で、ハンセン病対策に取り組んだ人物です。
防府市役所前におられます。
少し汚れが気になります。

森 茂樹
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森 茂樹 像
(山口県 宇部市 南小串 山口大学医学部)

撮影日:2011年8月15日
建設年:昭和42年
分 類:病理学者
評 価:☆☆

森 茂樹
森 茂樹(もり しげき)
(1893年-1971年)
大正-昭和時代の病理学者

明治26年2月26日生まれ。
森わさの長男。
京都帝大助教授をへて,大正15年熊本医大教授。
体質医学を研究し,同大体質医学研究所,日本体質学会を創設した。
昭和15年京都帝大教授,32年山口県立医大学長。
41年神戸学院大を創設して学長となった。
昭和46年4月21日死去。78歳。
兵庫県出身。京都帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
山口大学医学部の中庭におられます。
背広を着た上半身の像です。

水田 信夫
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水田 信夫 像
(山口県 宇部市 南小串 山口大学医学部)

水田 信夫(みずた のぶお)
(1898年-1963年)
医学者

撮影日:2011年5月19日
建設年:昭和56年
分 類:学者
評 価:☆☆☆

田布施町出身。
大正12年 京都大学入学
昭和14年京都大学助教授就任。
山口県立医学専門学校附属病院院長
俳句では山口県の戦後俳壇の指導的位置を占めた存在。
「ホトトギス」同人。
宇部ホトトギス句会、うすらい句会を主宰。

[感  想]
眼鏡をかけた優しい感じの顔の像です。
俳句の世界でも活躍した人です。

冨田 雅次
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冨田 雅次 像
(山口県 宇部市 南小串 山口大学医学部)

撮影日:2011年5月19日
建設年:昭和42年
分 類:学者
評 価:☆☆☆

冨田 雅次(とみた まさじ)
(1889年-1967年)
大正-昭和時代の生化学者

明治22年8月7日生まれ。
欧米留学後,大正12年長崎医大教授。
のち台北帝大教授,山口県立医専校長,神戸大教授などを歴任。
昭和11年胎生化学についての研究で学士院賞。
昭和42年12月20日死去。78歳。
兵庫県出身。京都帝大卒。

[感  想]
ちょっと微笑んだ顔が印象的です。

隈川 宗雄
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隈川 宗雄 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
分 類:医学者
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

隈川 宗雄
隈川宗雄像 黒田清輝作
「博士の肖像ホームページ」より

隈川 宗雄(くまがわ むねお)
(1858年-1918年)
明治-大正時代の医学者

安政5年10月13日生まれ。
原有隣の次男。隈川宗悦の養子。
ドイツに留学し,ベルリン大にまなぶ。
明治24年帝国大学医科大学教授となり,医化学講座を担当。
大正6年東京帝大医科大学学長。学士院会員。
大正7年4月6日死去。61歳。
陸奥福島出身。東京大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆隈川宗雄は、幕末に福島藩医の次男として誕生しました。
明治2年に医師・隈川宗悦の養子となり、医学の道に進みます。
明治16年(1882)に東大医学部を卒業。
翌年から6年間ドイツのベルリン大学に留学します。
帰国後は帝国大学医科大学教授として生化学などを担当しました。
銅像は、医学部総合中央間(図書館)と医学部2号館に挟まれた道沿いに設置されています。
スマートな台座付きの胸像で、木陰に静かにたたずんでいます。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
八の字の髭が特徴的な像です。

佐藤 三吉
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佐藤 三吉 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
分 類:医学者
評 価:☆☆☆

佐藤 三吉
佐藤 三吉
「大垣市立東小学校ホームページ」より

佐藤 三吉(さとう さんきち)
(1857年-1943年)
明治-昭和時代前期の外科学者

安政4年11月15日生まれ。
ドイツ留学後,明治20年帝国大学教授となり,同大付属医院長をへて,大正7年東京帝大医科大学長。
内臓外科手術に防腐無菌法を採用した。
のち宮内省御用掛,貴族院議員。
昭和18年6月17日死去。87歳。
美濃(岐阜県)出身。東京大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆幕末に大垣藩士の子として誕生。
明治15年(1882)に東大医学部を卒業したのちドイツへ留学して最先端の医学を学びました。
帰国後は医科大学教授として後進の育成に努め、明治34年(1901)には東京帝国大学付属病院の院長に就任。
外科の権威として、日本の医学界の近代化に尽力しました。
胸像は胸像で、構内バス通りの売店の向かいに置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
斜め上を見つめる姿が印象的です。
少し汚れているのが残念です。

青山 胤通
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青山 胤通 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:大正9年
分 類:医学者
作 者:新海 竹太郎
評 価:☆☆☆☆

青山 胤通
青山 胤通(あおやま たねみち)
(1859年-1917年)
明治-大正時代の内科学者

安政6年5月15日生まれ。
青山景通の3男。青山徹蔵の義父。
ベルリン大に留学,明治20年帰国して母校帝国大学医科大学の教授となり,34年同大学長。
癌研究会をおこし会長,伝染病研究所長などをつとめる。
27年香港で流行したペストを出張研究。
また明治天皇の診療にもあたった。
大正6年12月23日死去。59歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆青山胤通は、幕末に苗木藩士の三男として誕生。
1882年に東京大学医学部を卒業後、恩師であったエルヴィン・ベルツの推挙を受けてドイツへ留学、内科を専攻しました。
帰国後は東京帝国大学医学大学校内科学教授(のち学長)として教鞭を執る一方で、伝染病研究所所長などを歴任し、日本の医学発展に尽力しました。
日本最初の癌研究機関である癌研究会の設立者の一人でもあります。
銅像は胸像で、佐藤三吉像の左並びに置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎北里柴三郎と野口英世の排斥者、批判者として知られる。

◎東京大学医科学研究所の前身である伝染病研究所の東京大学医学部統合を推進し伝染病研究所の創設者である北里柴三郎と激しく対立した。

◎森鴎外とも親交があり、彼の親友である原田直次郎の治療も行っている。

◎脚気は感染症であるという説を生涯主張し当時の日本医学会では定説となっていたが、現在では否定されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
新海竹太郎の代表作の1つ。
葉巻を持つ手を上手く台座に乗せています。
台座も含めていいデザインだと思います。

荻野 久作
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荻野 久作 像
(新潟県 新潟市 オギノ通り)

荻野久作(おぎの きゅうさく)
(1882年‐1975年)
明治-昭和時代の産婦人科医

撮影日:2009年3月23日
建設年:平成14年
分 類:医師
作 者:高橋 洋
評 価:☆☆☆

荻野 久作
荻野 久作
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治15年3月25日生まれ。
新潟の竹山病院につとめながら月経周期に関する研究をつづけ,昭和5年ドイツの雑誌に論文「排卵日と受胎日」を発表,国際的な反響をよぶ。
この学説はオギノ式として避妊に利用される。
日本産婦人科学会名誉会長,世界不妊学会名誉会長。
昭和50年1月1日死去。92歳。愛知県出身。
東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
新潟市のオギノ通りの一角が公園みたいになっており、そこにおられます。
診療中の姿のようです。

吉町 太郎一
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吉町 太郎一 像
(北海道 札幌市 北海道大学)

吉町 太郎一(よしまち たろういち)
(1873年(明治6年)-1962年)
北海道大学初代工学部長(大正13.9~昭和6.6)

撮影日:2008年10月28日
建設年:昭和 35年
分 類:学者
作 者:加藤 顕清
評 価:☆☆☆

『旭橋』
1927年(昭和2年)、北海道帝国大学土木工学科橋梁学教授の吉町太郎一に設計指導を依頼し、内務省と協議した結果、橋梁形式にブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチ橋を採用することとなった。
日本でこの形式の橋は岩手県一関市の北上大橋、東京都荒川区/墨田区の白髭橋、岐阜県岐阜市の忠節橋、そして旭橋の4例しかない。
旭橋
※出典(写真): フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
北海道大学工学研究科前庭におられます。
誠実そうな顔が印象的です。

今 裕
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今 裕 像
(北海道 札幌市 北海道大学)

今 裕(こん ゆたか)
(1878年-1954年(昭和29年))
大正-昭和時代の病理学者。

撮影日:2008年10月28日
建設年:昭和 25年
分 類:学者
作 者:加藤 顕清
評 価:☆☆☆

明治11年2月7日生まれ。
東京慈恵医専教授などをへて、大正10年北海道帝大教授となり、のち総長。
昭和9年「細胞の銀反応の研究」で学士院賞。
昭和29年2月5日死去。75歳。青森県出身。第二高等学校医学部(現東北大医学部)卒。
著作に「近世病理学総論」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
北海道大学医学研究科管理棟前庭におられます。
髭が印象的です。頭の汚れがちょっと気になりますが…

大森 房吉
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大森 房吉 像
(福井県 福井市 手寄公園)

大森 房吉(おおもり ふさきち)
(1868年(明治元年)-1923年)
日本の地震学者

撮影日:2008年9月2日
分 類:学者
評 価:☆☆☆

大森 房吉
大森 房吉
「(財)歴史のみえるまちづくり協会ホームページ」から

明治元年9月15日生まれ。
30年東京帝大教授。
大森式地震計の考案や地震帯の発見などで知られる。
震災予防調査会委員として活動。
今村明恒の関東大震災の予測に反対して論争した。
学士院会員。大正12年11月8日死去。56歳。
越前(福井県)出身。帝国大学卒。著作に「地震学講話」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
福井市内の公園におられます。
隣には、大森式地震計のレリーフがあります。
紳士な感じがする像です。

北里 柴三郎
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北里 柴三郎 像
(東京都 新宿区 慶應義塾大学医学メディアセンター)

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
(1853年‐1931年)
明治・昭和時代前期の細菌学者

撮影日:2008年4月24日
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

北里柴三郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

明治18年ドイツに留学、コッホに師事。
22年破傷風菌の純粋培養に成功し、翌年破傷風の血清療法を開発する。
27年香港でペスト菌を発見。
その間の25年私立の伝染病研究所を設立。
同研究所の東京帝大移管に反対して辞職し、大正3年北里研究所を創設した。
慶大医学部初代学部長、日本医師会初代会長。
昭和6年6月13日死去。80歳。
肥後(熊本県)出身。東京大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生(ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意)との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。
◎日本を代表する医学者として野口英世と並び、当時は世界的に有名とまではいかなくとも、著名であった人物である。
また野口は北里研究所に研究員として勤務しており、柴三郎とは形式上師弟関係である。 
◎テルモの筆頭設立発起人でもあり、CMに度々登場していたこともある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
慶應義塾大学医学メディアセンターの1階の階段室前におられます。
「雷おやじ」の愛称の通り、雷が落ちてきそうな怖い顔で、小林亜星に似ている感じがします。

野口 英世
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野口 英世 像
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

野口 英世(のぐち ひでよ)
(1876年-1928年)
明治-昭和時代前期の細菌学者

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和26年
分 類:細菌学者
作 者:吉田三郎
評 価:☆☆☆

野口英世
「近代日本人の肖像ホームページ」から

明治9年11月9日生まれ。
順天堂医院,伝染病研究所の助手をへて明治33年渡米。
ロックフェラー医学研究所につとめ,44年梅毒病原体スピロヘータの純粋培養に成功した。
大正4年学士院恩賜賞。アフリカで黄熱病研究中に感染し,アクラ(現ガーナの首都)で昭和3年5月21日死去。53歳。
福島県出身。幼名は清作。
【格言など】人は四十になるまでに土台を作らねばならぬ(奥村鶴吉編「野口英世」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆野口英世は、日本だけでなく世界的にも今なおその業績が高く評価されている細菌学者です。
一般には、現在発行されている千円札の肖像、といったほうが通りがいいかもしれません。
誕生は明治9年(1876)で、幼名は清作。
幼い頃に手に負った大火傷で指が癒着(のちに手術で分離)して困難を背負ったものの努力で克服し、医学の道に進んでからは、数々の研究・発見でその名が海外でも知られるようになりました。
梅毒の研究ではノーベル賞の候補にも挙がりました。
のちにロックフェラー財団の要請により、当時、効果的な治療法がなかった黄熱病の研究に挑み、ワクチン開発の端緒を開く実績を残しましたが、研究のために渡ったガーナで自らも感染して亡くなりました。
上野公園内の銅像は噴水広場近くの林の中にあり、試験管を持って研究中の姿(生前の写真をもとにしたといわれています)を描いた立像となっています。
像の製作は、昭和22年(1947)に野口英世と同郷(福島県)の玉応不三雄により計画されましたが資金難で頓挫し、玉応氏も死去。
しかし、医学界を中心に玉応氏の遺志を継いで製作が進められ、昭和26年に完成にこぎつけたとのことです。
像の台座には「人類の幸福のために」を意味するラテン語が刻まれています。
なお、ほかにも郷里の福島県に立像があるほか、アメリカのロックフェラー大学、ガーナなど生前の活動と縁が深い各地に銅像があり、野口英世の業績の大きさを物語っています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[年 譜]
1893年
猪苗代高等小学校卒業後、上京。
歯科医であり高山歯科医学院(東京歯科大学)創立者の一人血脇守之助による月額15円の援助を受け、東京の芝伊皿子坂上の同学院で雑用をしながら済生学舎(日本医科大学)で医学を学ぶ。
毎月大金が入金される事からこの頃より遊郭などでの放蕩癖が発露。
1896年
医学前期試験(筆記試験)に19歳で合格。
同年の後期試験(臨床試験)で、大学教授も見つけられなかった病名を言い当て、20歳で医師免許を取得(当時は“前期3年・後期7年”と言われた)。
1897年
順天堂病院助手となるが月給が少なく、高山歯科医学院で講師を務める。
また、友人より度々借金を重ねる。
1898年
北里伝染病研究所に勤め始める。
しかし、周りは東京帝国大学医学部出の集まりで、学歴を理由に冷遇を受ける。
一方で、来日していたサイモン・フレクスナーの案内役を務めていた際、フレクスナーに自分が渡米した際の世話を打診、フレクスナーは半分社交辞令で応じる。
1898年
坪内逍遥の小説「当世書生気質」を読み、自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」と自分の名「野口清作」と行動(遊郭等での放蕩癖)が極めて近いため、ショックを受け「英世」と改名。
「当世書生気質」が発刊されたのは1885年。
野口は当時7歳。のちに小林栄が坪内逍遥に質問し、「野口英世をモデルにしたのではない」と返答したと文献に記されている。
坪内逍遥は後に「キング」誌のエッセイに「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったことを光栄」との旨を記した。
1899年
横浜海港検疫所検疫官補となる。
清国でペストが猛威。対策としての国際防疫班に選ばれる。
支度金100円を出発前に使い果たし、血脇守之助に無心し渡航。
清国では海外チームの評価を受け月額約260円~390円の高給を得るも、毎夜遊興にふけり無一文で帰国する。
1900年
フレクスナーを頼り渡米を決意、小林栄から200円を借り、斎藤家の子女と帰国後の婚約をし結納金として300円を得て旅費を得る。
しかし渡航直前に横浜の遊郭で友人と遊興にふけり更に賭博にて使い果たし、血脇守之助が高利貸しより借りた300円を資金としてアメリカに渡航。
フレクスナーのもとペンシルバニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究を始める。
こちらでも借金を重ね「野口に金を貸してはならない」と云われるようになる。
1904年
ロックフェラー医学研究所に職を得る。
1911年
「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。一躍、世界の医学界に名前を知られることになった(梅毒スピロヘータの培地による純粋培養については議論がある)。同年、京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。
メリーと結婚する。(日本を発つ際の斎藤家子女との婚約は、血脇守之助による斎藤家との交渉と結納金返済により破棄された。)
1913年
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示した画期的なものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定(但し、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)などの成果を発表。
1914年
東京大学より理学博士の学位を授与される。放蕩癖のため帰国費用がなく製薬会社社長の星一に電報を送り大金を送金して貰い帰国の途につく。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。
1915年
15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。横浜港には、たくさんの人が出て、野口を出迎えた。世間では、野口フィーバーとも呼べる歓待で、日本各地の講演会にひっきりなしに呼ばれることになる。以後、帰国することはなかった。ただしそれまでの主に金銭面での不義理から背を向ける者も少なからずいた。
1918年
ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原菌発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。
当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。
エクアドルに到着後、9日後(日数については諸説あり)には、黄熱病と思われる病原体を特定することに成功(この病原体は、今日ではワイル病スピロヘータであったと考えられている)。
この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。
この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。
さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。
1927年
トラコーマ病原体を発表する(ただし後年否定された)。イギリスの医学者で、西アフリカの黄熱病を研究していたストークスが、野口ワクチンはアフリカでの黄熱病に効果がないという論文を発表する。ストークス自身も黄熱病で死亡。野口はアフリカ行きを決断する。そしてこの年の10月にアフリカへ王熱病研究のため出張する。
1928年
アフリカガーナのアクラに研究施設を建築。
アカゲザルを用いた病原体特定を開始する。
しかしまもなく自身が黄熱病に感染、5月21日、アクラの病室で死亡。
野口英世は「私には分からない」という言葉を口ずさみ、51年の生涯を閉じた。
この年の6月15日、アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬される。

[エピソード]
◎ニューヨークでの将棋の相手は、絵の師でもある写真家堀市郎であり、囲碁の相手は、彫塑家川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。
◎1904年(明治37年)、24歳の時に、星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。後にお互いが千円紙幣の肖像に採用される。
野口千円
日本銀行券E号千円札
◎台湾医学界の重鎮であった、杜聡明が学生時代、ニューヨークにいる野口英世を訪ね、ロックフェラー研究所の食堂で日本語で歓談していた際、食堂内に米国人が入ってきた途端、野口はさっと言語を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、「これが真の国際マナーであり、国際人というものか」と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている(「中国名医列伝」・中公新書)。
◎ロックフェラー大学の図書館入り口の左右には、ロックフェラー1世と、野口英世の胸像が対になって並んでいる。東京の科学博物館前にも銅像がある。

◎野口英世語録
・志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)
・人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。
・努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
・絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
・「ナボレオンは三時間しが寝ながった」(口語)
・「偉ぐなるのが敵討[ガタキウ]ちだ」(口語)
・学問は一種のギャンブルである。
・名誉のためなら危ない橋でも渡る。
・忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)
・英雄却相親(星一との写真に添え書き)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
野口英世といえば、天才科学者で苦労した偉人としてのイメージでしたが、放蕩癖はすごかったようですね。
しかし、小学生向けの野口英世に関する書籍が多く発刊された為、その後、医師を目指すものが多くなったとも言われており、後世への影響は大きいですね。
像は、上野公園の静かな森の中にあり、試験管をもつ悠然とした姿がいいです。

ヒポクラテス
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ヒポクラテス 像
(東京都 文京区 湯島 東京医科歯科大学医学部附属病院)

ヒポクラテス(Hippokrates)
(前460ころ~前375ころ)
古代ギリシャの医師

撮影日:2007年6月21日
分 類:医師
評 価:☆☆

ヒポクラテス
ヒポクラテス
ピーテル・パウル・ルーベンス作版画。1638年。
アメリカ国立医学図書館蔵・画像提供
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

迷信や呪術を排して臨床の観察と経験を重んじ、科学的医学の基礎を築いた。
医師の倫理についても論じ、医学の父と称される。
所説は「ヒポクラテス全集」に集大成された。
ヒッポクラテス。
「デジタル大辞泉」から

[感  想]
医学の父といわれるヒポクラテスの像が、東京医科歯科大学医学部附属病院の待合室で静かに病院を見守っておられます。





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