ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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魁皇
魁皇 (6)

魁皇 (2)

魁皇 (4)

魁皇 (5)

魁皇 (3)


魁皇 像
(福岡県 直方市大字山部 JR直方駅)

撮影日:2016年5月31日
建設年:平成26年
分 類:力士
作 者:片山 博詩
評 価:☆☆☆

Kaio_Hiroyuki_2008_May.jpg
魁皇 博之(かいおう ひろゆき)
(1972- )
昭和後期-平成時代の力士

昭和47年7月24日生まれ。
友綱部屋に入門。昭和63年3月初土俵。
平成4年1月新十両にのぼり、四股名を古賀から魁皇にあらためる。
5年5月新入幕。得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ。怪力でしられる。
6年5月新三役小結となる。
12年5月14勝1敗で幕内初優勝。12年9月大関に昇進。
23年7月場所で歴代1位の幕内在位107場所・大関在位65場所を数えたが、10日目琴欧
洲戦を最後に引退。
幕内通算879勝・通算1047勝(いずれも歴代1位)。
幕内優勝5回、殊勲賞10回、敢闘賞5回、金星6個。
引退後、年寄浅香山。福岡県出身。本名は古賀博之。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

魁皇

[エピソード]
◎四股名に入っている「皇」の文字は出身の直方市がかつて「皇方」と表記されていたことに由来し、これをとって師匠の友綱がつけた。

◎大関昇進前の1999年に結婚、子供はいない。5歳年上の妻・充子は元タレントであるが、
それ以前は女子プロレスラーであった。そのためか、女子プロレス関係者の中にもファンを有した。また現役当時の力士の中では、高見盛(最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。

◎その人気はとどまることを知らず、2001年10月に九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線・篠栗線(福北ゆたか線)博多駅 - 直方駅間で運行を開始した特急列車の名称「かいおう」にも採用された。力士の四股名に限らず、人名、しかも存命中の人物の名前がJRグループの列車名に採用されることは極めて異例。その特急「かいおう」の出発式には魁皇本人も出席し、テープカットも行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした2001年7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。前述の通り魁皇本人は2011年7月場所で現役引退したが、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている。

◎魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に花火が打ち上げられていた[26]。当初は花火の打ち上げ免許を持つ男性が花火の打ち上げを担当していたが、2011年1月にその男性が亡くなってからは、地元の魁皇後援会の若者たちが花火の打ち上げを引き継いでいた(最後には、魁皇が引退した翌日の2011年7月20日に、魁皇と花火の打ち上げを行っていた男性に向けた感謝の花火打ち上げが行われた)。また、直方市の銘菓「成金饅頭」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。

◎高砂部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった皇牙(元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身中学校(直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、鳴戸部屋出身の元前頭・力櫻が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。

◎俳優の堺雅人は同じ九州出身ということで、好きな力士に「魁皇」を挙げており、NHK
大相撲中継にゲストで呼ばれた際にも「魁皇を応援している」とコメントした。

◎2014年には地元直方市の直方駅前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われ
た。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、
12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
直方駅前広場におられます。
魁皇 (1)
まわしを締め、胸を張った堂々とした立ち姿です。

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千代の富士
千代の富士1

千代の富士 2

千代の富士3

千代の富士 4

千代の富士5
千代の富士 像
(東京都 台東区谷中 玉林寺)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成23年
分 類:力士
作 者:小張 隆男
評 価:☆☆☆

千代の富士
千代の富士貢(ちよのふじみつぐ)
(1955年-2016年)
昭和後期-平成時代の力士

昭和30年6月1日生まれ。
昭和45年九重部屋に入門。50年入幕。
ウルフとよばれ、右まわしをひきつけての速攻相撲で昇進し、56年58代横綱となる。
昭和63年53連勝を記録。平成3年引退。
通算1045勝は史上最多。優勝31回は大鵬の32回につぐ。平成4年九重部屋をつぐ。
平成元年国民栄誉賞受賞。20年日本相撲協会理事。北海道出身。本名は秋元貢。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

千代の富士1

[エピソ-ド]
◎岳父は玄洋社記念館館長、玄洋ビル社長を務めた進藤龍生。
夫人は進藤喜平太(第2代・第5代玄洋社社長)の曾孫で、進藤一馬(第十代玄洋社社長、元福岡市長)の姪孫。
次女はファッションモデルの秋元梢で、他に長男の秋元剛と長女の秋元優(梢の兄と姉)も同じくファッションモデルとして活動している。
◎次女はモデル・タレントの秋元梢。秋元はモデルとして成功するまで父が千代の富士である事を公表していなかったが、専属モデルや広告モデルに起用されるようになってからバラエティ-で公表し、「二世タレント」としてバラエティ-などに出演しているが、相撲を知らずさらに千代の富士の現役時代を知らない世代が中心の環境であり、千代の富士自身もバラエティ-に出演があまりないため、ほとんど実力で芸能活動をしている。
なお、1988年5月場所に千代の富士が23回目の幕内優勝を果たし、千代の富士が天皇賜杯を抱いての記念撮影を行う際には賜杯と共に当時生後10か月の秋元を抱いて記念撮影を行った。
◎尊敬する力士として貴ノ花を名を挙げている。新入幕後に十両から幕下で低迷してしまいやけになって煙草の本数が増え、一時は1日3箱も吸うヘビ-スモ-カ-となってしまったが、貴ノ花から禁煙を勧められたことに「尊敬していた大関がそんなに自分の事を心配してくれているのか」と感激し、50万円のダンヒルの金のライタ-を隅田川に投げ捨て、さらに飴玉を使って禁煙を遂げた。これがきっかけで体重が増え、後の横綱昇進に繋がる。

◎その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg、体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。
幕内から大関、横綱へ一気に昇進してからは絶大な人気を誇った。

現役引退
◎横綱昇進が決まった日の夜、九重は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士はこの言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは、栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山に語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。

◎1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった貴花田と千代の富士の初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退も頭をちかつかせる程だったが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日がんばれよ」と言った。このために気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまい、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時、千代の富士と共に九重も思わず二人で男泣きしたという。

◎千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュ-スを放送していた。しかし夜になって、千代の富士自ら九重部屋にて突如引退会見を行うことになったため急遽ニュ-スを中断、駆け付けた大勢のマスコミ陣の前で会見の生中継を行った。
この際千代の富士は「長い間、本当に皆様には、大変お世話になりました。まああの月並みの、引退ですが…」と語ったその後、言葉に詰まらせながら目を赤くして、「体力の限界…気力も無くなり、引退することになりました…以上です。」
と振り絞るようにコメント、記者陣の目の前でハンカチで涙を拭っていた。
後年千代の富士が自ら語ったところによると、1991年5月場所3日目の夜に九重から「明日、発表しよう」と言われたがその日の夜に『サザエさん』を見ていた際に額の上に自身の引退を報じる速報が確認され、そうして慌てて会見に臨んだという。
尚丁度20年前の1971年5月14日には、大鵬も当時新鋭だった貴ノ花に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。
ちなみに、千代の富士が幕内初優勝を果たした1981年1月場所は、奇しくも貴ノ花が現役引退を表明した場所でもあった。

◎引退相撲が行われた1992年2月1日はTBSで放送され、最後の横綱土俵入りでは露払いに引退直後の旭富士、太刀持ちには弟弟子の北勝海の両横綱を従えた。大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。

◎ロンドンにある蝋人形館、マダム・タッソ-では最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。
ウルフと呼ばれていたことなどが記されていた。
現在はデックス東京ビ-チ内にあるマダム・タッソ-東京で展示されている。

その他
◎角界屈指のゴルフ好きで知られるが、元々は趣味としていなかった。休みの日は麻雀やファミリ-コンピュ-タに夢中の彼に対して、九重が「健康的な休みを取らないとダメだ」と無理やりゴルフに連れて行ったことがきっかけだった。しかし初めてのゴルフのハ-フで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かったことに「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」とすっかり上
機嫌になって九重のメンツは丸つぶれ、以後ゴルフにのめり込んだ。

◎ゴルフの他にもジグソ-パズルを趣味としていた時期もあった。1986年4月から8カ月をかけて5146ピ-スもある古い世界地図が描かれたパズルを完成させたという。これが良い気分転換となってか千代の富士の土俵人生は絶頂期に突入し、特に1987年1月場所の辺りで最後の1ピ-スをはめて完成させた頃の相撲を見た当時の春日野理事長は「この相撲なら2、3年は大丈夫だな」と
語ったそうだが、実際に引退に至ったのは4年後の1991年5月場所であった。

◎横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ)には1985 - 1987年まで3回、特別ゲストとして番組オ-プニングからエンディングまで出演している。
これは当時の同番組司会者であり、千代の富士・九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演だったと言われている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

【銅 像】
●千代の富士の銅像が横綱千代の山・千代の富士記念館(北海道福島町)、
九重部屋玄関前(東京都墨田区)、
玉林寺(東京都台東区)
の3箇所に建立されている。
●出身地や卒業した小学校とも千代の山と同じで、これは非常に珍しいケ-スで他に例がない。
故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館があり、千代の山と千代の富士の土俵入りの様子をモデルにした銅像がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
玉林寺の境内におられます。
千代の富士6
右手に刀を持った、堂々とした立ち姿で、強かった横綱の雰囲気がよく出ています。

三浦 環
三浦環 (9)

三浦環 (10)
三浦 環 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:歌手
作 者:深川 剛一
評 価:☆☆☆

三浦環
三浦 環(みうら たまき)
(1884年-1946年)
明治-昭和時代のソプラノ歌手

明治17年2月22日生まれ。
東京音楽学校(現東京芸大)在学中、明治36年日本初のオペラ公演に参加。
同校助教授、帝劇歌劇部をへて大正3年夫三浦政太郎とともに渡欧。
翌年ロンドンで「蝶々夫人」をうたって好評を博し、以後昭和10年の帰国までに欧米各地
で2000回出演を記録した。
昭和21年5月26日死去。63歳。
東京出身。旧姓は柴田。著作に「歌劇お蝶夫人」。
【格言など】日本は文化では何一つ一等国の仲間入りをしてない(「自叙伝」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

三浦環 (12)

[エピソード]
1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に
客演する。
1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開い
た。三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園
に建っている。
作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演
技で評価された。
少女時代に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができ
たといわれている。
その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーやヤン・パデレフスキといったスター芸術家とも共
演する。
著名な門弟に原信子、長坂好子、柳兼子、鈴木乃婦、関屋敏子、小林千代子、由利あけみが
いる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
グラバー園の中央付近の広場の池の中におられます。
『蝶々夫人』の舞台の一場面を表した子供と一緒の着物姿の像です。
三浦環 (1)

三浦環 (5)
『蝶々夫人』の作曲家プッチーニに見守られています。

梅ヶ谷 藤太郎
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梅ヶ谷 藤太郎 像
(福岡県 朝倉市 原鶴温泉サンライズ広場)

撮影日:2015年2月1日
建設年:平成13年
分 類:力士
作 者:塙 和道
評 価:☆☆☆

梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう)
(1845年-1928年)
力士

15代横綱。福岡県朝倉郡杷木町梅ヶ谷出身。本名小江藤太郎。
大阪の大関となった1870年に上京、初め本中に付け出されたが、逆境に発奮し74年入幕。
以来5敗のみで84年の天覧相撲に際し横綱免許。
176cm、124kgの強豪で、維新後不況の角界復興の端緒をつくった。
その人情家ぶりは落語や芝居の《幸助餅》の報恩美談になって現在も上演されている。
引退後は取締雷権太夫となり、国技館建設に功績があり、隠居後も協会は給金を贈った。
「世界大百科事典」から

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[主な成績]
幕内通算成績:116勝6敗18分2預78休 勝率.951(歴代横綱最高勝率)。
優勝相当成績:9回

[エピソード]
◎巨体とも伝わるが、実際には歴代横綱の中で小柄な方。右上手を浅く引きつけ、左は筈かのぞかせて寄る堅実な取り口だったとされている。
◎人望が非常に厚く、1904年に大相撲常設館建設が計画された際には、安田銀行本所支店長だった飯島保篤から自分の信用だけで40万円(現在なら100億円に相当するという)を無担保で借りることに成功した。協会は飯島に感謝し、毎場所初日に飯島家へ赤飯を届けるようになったという。
◎一斗酒の酒豪で、4斗樽を片手で差し上げる無双の怪力、研究熱心で寝た間も二の腕を脇から離したことがなく、彼の下駄は親指に力を入れて歩くため、その辺がひどく窪んだという。

[銅 像]
1959年11月24日、出身地である朝倉市の原鶴温泉で「初代梅ヶ谷記念碑」の除幕式が行われた。2001年11月3日には、同じ原鶴温泉のサンライズ広場にブロンズ像が完成した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
朝倉市原鶴温泉道の駅近くの広場におられます。
左手に刀を持ち化粧まわしを着けた堂々とした立ち姿です。
DSCN0096.jpg
銅像の台座のまわりが土俵になっています。
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星野 仙一
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星野 仙一 像
(岡山県 倉敷市 中央1丁目 星野仙一記念館)

撮影日:2014年9月14日
分 類:プロ野球選手・監督
評 価:☆☆☆

星野 仙一 (ほしの せんいち)
(1947- ) 
昭和後期-平成時代のプロ野球選手、監督。

昭和22年1月21日生まれ。
44年中日に入団。投手。
49年与那嶺要監督のもとで先発、リリーフに活躍し、優勝に貢献。
巨人戦につよく「燃える男」とよばれた。
実働14年、通算146勝121敗34セーブ、防御率3.60。
62-平成3年中日監督(63年リーグ優勝)。
8年からふたたび中日監督(11年リーグ優勝)。
14年阪神監督となり、15年リーグ優勝。
19年北京五輪野球日本代表監督。
22年東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任。
25年楽天をリーグ優勝、日本シリーズ優勝に導く。
同年正力松太郎賞。岡山県出身。明大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
星野仙一記念館の前におられます。
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顔の像ですが、ちょっと、はにかんだ感じで、
テレビ等で良く見る表情を上手くとらえています。

井上 正夫
井上IMG_1865 (3)

井上IMG_1865 (1)
井上 正夫 像
(愛媛県 松山市 湊町5丁目 松山市駅前)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和27年
分 類:俳優
評 価:☆☆☆

井上 正夫
井上 正夫(いのうえ まさお)
(1881年-1950年)
俳優

本名小坂勇一、愛媛県出身。
少年期に大阪で成美団を観劇して新派に参加、上京して認められ、「破戒」の主役丑松を演じたが、あきたらずに1910年新時代劇協会をつくりショ-の「馬盗坊」などを上演した。
大正期再び新派に戻り「酒中日記」「大尉の娘」の当り役を得たが、36年井上演劇道場を創設して進歩的行動をとる。
42年道場を解散、のち再び新派に参加した。
49年に芸術院会員に選ばれたが、翌年1月新橋演舞場の「恋文」が最後の舞台となった。
「世界大百科事典 第2版の解説」から

[感  想]
松山市駅前におられます。
井上IMG_1865 (2)
茶色っぽい像で、彫の深い顔が印象的です。

双葉山
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双葉山 像
(大分県 宇佐市 川部 宇佐市総合運動公園)

撮影日:2013年2月4日
建設年:平成5年
分 類:大相撲力士
作 者:山崎 正義
評 価:☆☆☆☆

双葉山 定次

双葉山 2
双葉山 定次(ふたばやま さだじ)
(1912年-1968年)
元大相撲力士

本名・穐吉定次(あきよし さだじ)。
明治45(1912)年宇佐市下庄布津部に生まれる。
天津小学校卒業後、昭和2年に16歳で立浪部屋に入門。
持前の粘り強さで昭和11年より勝ち星を続け、前頭から横綱まで一気にのぼりつめ、昭和14年、前人未踏の69連勝の偉業を成し遂げた。
双葉山は、幼少の頃に右手小指の先を失い、右目を失明したものの、不屈の努力と強い精神力で相撲に精進し、空前の相撲ブームを巻き起こした。
引退するまで日本中の人気を博し、引退後は時津風理事長として角界の近代化を押し進めた。
「双葉の里ホームページ」から

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[エピソード]
◎幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休、勝率.802。
繰上げ入幕のため、通算での勝率では他の大横綱に一歩譲ることになったが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で勝率8割8分2厘(取り直し制度導入以降の最高)、優勝12回(年2場所制での最多)、全勝8回(現在に至るまで最多、年6場所制となってから大鵬と白鵬がタイ記録樹立)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(記録に残っている1757年以降最高)など、不滅の足跡を残した。

◎双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。
武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。
稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることが無かったという。

◎どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。
力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)。
後述のように双葉山自身が無駄な動作を嫌い土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためであるが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。

◎現在の大相撲で、力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。
彼以前の時代には、仕切りなおしのたびに力水をつける者も珍しくなかった。
新弟子の頃、「力水は武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度つければ十分だと考えたという話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。

◎右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては、かすんだり物が二重に見えたりしていたが、やがてほとんど見えなくなったという。
なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っている。
対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。
実際双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。
ちなみに、横綱昇進後に喫した24敗(うち不戦敗が1つ)は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右側から攻められてのものである。右目が見えないことは公表されていなかったが、櫻錦利一に敗戦したとき、飛び違いという決まり手であったことから、双葉山は目が悪いのではないかという噂が広がった。
なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると「我々は皆双葉山の右目のことを知っており、当然そこを狙って作戦を立てていた」という。

◎名言集
「われ未だ木鶏たりえず」
70連勝をかけて臨んだ昭和14年一月場所四日目、約3年間勝ち続けていた双葉山は、ついに安芸ノ海によって黒星を喫する。双葉山はいつもと変わることなく、土俵に一礼をして東の花道を下がっていったが、その日の夜、知人に宛てて打った電報がこの言葉である。
「木鶏」とは中国の故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じることのない最強の状態にある闘鶏をさしている。無心の境地に至れなかった自分を戒めた双葉山だが、相撲道に対する更なる精進を重ね、連勝記録がストップした後も3度の全勝優勝を含む7度もの優勝を数えることとなる。

「後の先」
双葉山は生涯1度も「待った」をしなかったという。立ち合いでの相手を受けて立つ姿勢は、一見、立ち遅れているように見えるが、組んだときには既に先手を取っており、「後の先」と呼ばれている。
双葉山の右目は幼い頃の事故でほとんど見えない状態であった。しかし、双葉山は現役時代、そのことを誰にも悟られぬようにして土俵人生を全うしている。
立ち合いに「待った」をせず、「後の先」を完成させたのも、自分のハンディを乗り越えるために生み出されたものであった。

「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
常に真摯な姿勢で相撲道と向き合い続けた双葉山の言葉は、強い説得力を持っていたことは想像できる。その双葉山が親方となり、弟子たちに説いていたのがこの言葉である。
「稽古は本場所のように緊張感を持って取り組むように。本場所では硬くならず、リラックスして臨みなさい。」と言う意味と考えられるが、あえて最小限の言葉に抑えることにより、弟子たちへの押し付けではなく、個々の自覚を促す教訓に聞こえる。技術面を口にせず、「心気体」を相撲道の理念とした時津風親方(双葉山)を象徴する言葉の一つである。

「勝負師は寡黙であれ」
前人未到の69連勝など、土俵上では無敵を誇った双葉山であるが、失明となった右目と事故で潰してしまった右手小指という2つのハンディを負っていた。しかし、現役中、それを決して他人に語ることなく相撲を取り続け、引退まで黙り通している。
大きなハンディを乗り越えるため、必死の努力を続けてきた双葉山のこの言葉は、勝っても喜ぶ姿を相手に見せることがなかった双葉山の土俵哲学といわれている。

「心・気・体」
一般的にスポーツの世界では「心技体」が重要な理念であるとして知られているが、双葉山は相撲道の理念として「心技体」ではなく、「心気体」が重要であると説いた。また、双葉山が目指した「木鶏」こそ、この「心気体」の象徴であったと考えられている。
稽古場での時津風親方(双葉山)は、ほとんど技術面のことを口にせず、「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」を指導理念とし、「心技体」ではなく「心気体」を強調していた。師匠(双葉山)が稽古場に現れると、私語を交わす者は誰一人と無く、体と体がぶつかり合う音と荒い息づかいが聞こえるばかりで、その指導力は優れていたという。双葉山は、亡くなるまでの25年間親方を務め、1横綱、3大関を含む多くの関取を育成した。


[感  想]
初めての力士像です。
化粧まわしを締め、左手に日本刀を持った堂々とした立ち姿です。
銅像は、実物大では無く、体重122kg、身長1m79cmあった双葉山の1.5倍の大きさの像です。
「心・気・体」は、いい言葉だと思いました。
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相撲場の方をじっと見守っておられます。

稲尾 和久
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稲尾 和久 像
(大分県 別府市 鶴見 別府市民球場)

撮影日:2013年2月2日
建設年:平成19年
分 類:プロ野球選手
作 者:坂井 文雄
評 価:☆☆☆

稲尾
稲尾 和久(いなお かずひさ)
(1937年-2007年)
昭和時代後期のプロ野球選手、監督

昭和12年6月10日生まれ。
昭和31年西鉄に入団し、21勝で新人王。
剛腕のエースとして、中西太らと西鉄の黄金時代をきずく。
32年から3年連続30勝以上、36年は42勝。
33年巨人相手の日本シリーズで3連敗のあと4連投、逆転優勝につくし「神様、仏様、稲尾様」とよばれた。
実働14年、通算276勝137敗、防御率1.98。
西鉄(のち太平洋)、ロッテ監督をつとめた。
平成5年野球殿堂入り。
平成19年11月13日死去。70歳。
大分県出身。別府緑丘高(現芸術緑丘高)卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソ-ド]
◎神様、仏様、稲尾様
1958年、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、稲尾を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。
しかし翌日が降雨で試合が順延となった第4戦、三原監督は稲尾を先発投手に起用し、シリーズ初勝利。第5戦にも稲尾は4回表からリリーフ登板し、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。
そして後楽園球場での第6・7戦では2日連続完投勝利し、逆転日本一を成し遂げた。
実に7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。
うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った。
三原はこのシリーズで稲尾を使い続けたことについて、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白した。
後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。

◎投球術
足の裏を全て地面に付けず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。

◎現在では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。また、同シリーズで「長嶋は何も考えず、感性で体が投球に反応している」と気づいた稲尾は、自分も長嶋の体の微妙な動きから瞬時に狙い球を読みとり、球種を変更するという作戦で押さえ込むことに成功した。

◎マウンド上のマナーが優れていたことで知られる。イニングが終わって相手投手にマウンドを譲るときは、必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。対戦した杉浦忠はこれに感銘し、真似するように努力したという。その杉浦は「しかしどうしても、私はピンチの後などにマウンドのことなど忘れてしまうことがあったのだが、稲尾は一回たりとも荒れた状態のマウンドを渡したことはなかった」と振り返っており、稲尾のマウンドマナーを絶賛している。

◎当時「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2・3回の登板や連投も珍しくなかった。稲尾が42勝を挙げた1961年には登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合、リリーフで48試合に登板している。当時は中3日で「休養十分」と見なされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合に過ぎなかった。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
別府市民球場の玄関を入ったロビーにおられます。
豪快なフォームで、今まさに投げようとしている迫力ある像です。

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王 貞治 2
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王 貞治 像 2
(福岡県 福岡市 中央区 地行浜
王貞治ベースボールミュージアム内)

撮影日:2011年11月19日
建設年:昭和53年
分 類:スポーツ選手
作 者:佐藤忠良
評 価:☆☆☆

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[感  想]
1と同じく佐藤忠良の作品で、
「記録をつくった男の顔」という題がついています。
頭だけという珍しい像で、王選手の表情がうまくとらえられています。

王 貞治 1
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王 貞治 像 1
(福岡県 福岡市 中央区 地行浜 王貞治ベースボールミュージアム内)

撮影日:2011年11月19日
建設年:昭和53年
分 類:スポーツ選手
作 者:佐藤忠良
評 価:☆☆☆☆

王
王 貞治(おう さだはる)
(1940- ) 
昭和後期-平成時代のプロ野球選手、監督

昭和15年5月20日生まれ。
昭和32年早稲田実業の投打の中心として春の甲子園で優勝。
34年巨人に入団。
3年目に一本足打法となり,長嶋茂雄とともに巨人9連覇に貢献。
39年シリーズ本塁打55本の日本記録,52年には本塁打数で世界記録をぬき,初の国民栄誉賞をうけた。
実働22年,三冠王2回,13年連続をふくめ本塁打王15回,打点王13回,首位打者5回。
通算2786安打,3割1厘,868本塁打。
59-63年巨人監督,62年リーグ優勝。
平成7年ダイエー(現ソフトバンク)監督に就任し,11年日本一,12年リーグ優勝,15年日本一。
18年WBCの日本代表チームの監督となりチームを世界1位の座にみちびいた。
20年ソフトバンク監督勇退。
22年文化功労者に選ばれる。
東京出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎本塁打を打っても大はしゃぎするようなことが無かったのは兄の鉄城の影響である。
高校時代、本塁打を打ってホームベース上で喜ぶ王を見た鉄城は「打たれた相手のことを考えろ」と王を叱りつけた。
以来、王は本塁打を打っても喜ぶそぶりをしなくなった、と言う。
ただし、756号の際に「バンザイ」をしたり、1971年の日本シリーズ第3戦の逆転サヨナラ本塁打で手を叩き飛び跳ねたなどの例外はある。

◎上手い打撃で相手側チーム選手が出塁すると「ナイスバッティング!」と声を掛け、相手側チームの打者であってもその技術を評価した。

◎足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。
しかし、腕力は弱く、腕相撲は巨人の野手の中では一番弱かったばかりか(この話は漫画「巨人の星」にも出てくる)、「東洋の魔女」と当時呼ばれていた女子バレー日本代表の選手たちにも負けてしまい、「王さん、手加減しないでくださいよ」と言われてしまったことがある。
そのとき王は、「いや、これで精一杯なんですよ」と弁解した(巨人で一番腕相撲が弱かったのは投手の高橋一三。宿舎などで同僚にコロコロ負けてしまう王はその後必ずといっていいほど高橋を捕まえて腕相撲に勝って機嫌を直していたと言う)。

◎真摯で誠実な人柄で知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。
葬儀に参列した金村義明は、まさか自分のところに王本人から電話がかかってくるとは思わずにいたが、本人の不在中に王からかかってきた電話に出た彼の三男(当時3歳)が「ママ、“ダイエーのおう”から電話!!」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りしたというエピソードを披露している。

◎道具を丁寧に扱うことで現役時代から知られており、同じミットを10年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて慣れるまでに時間がかかる」と自ら裁縫してまで使い続けた(ライバルの長嶋はエラーしたり不調が続くとゲン直しにすぐにグラブを替えたため、現役時代は何十ものグラブが使用された)。

◎若い頃、名古屋の寿司屋で当時中日の人気選手であった板東英二(王とは同学年であり、仲が良かった)と偶然会った際、自分の知人(父親の同胞)が営んでいる小さな中華料理店に連れて行き、「板東もたまには食べに来てやってくれないかな」とお願いした。このことを板東は自分の著書で「王の生い立ちと、優しい人柄が理解できた」と語っている。また、板東が『金妻』シリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度出てみたいよ」とうらやましがったという。

◎律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。
キャンプ地に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。
1960年、初めてオールスターに出場した年に札幌山の手養護学校の生徒からファンレターが送られたが、当時すでにスター選手だった王は大量に来るファンレターの1通として読み流してしまい、後からその学校のことを知り、後悔したという。
これ以後、王はファンレターを必ず丁寧に読むようになった。
なお、王は翌1961年以降、監督を退任する1988年まで毎年札幌遠征の際、必ず山の手養護学校を訪問した。

◎若い頃は門限破りの常連で、夜な夜な銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。
王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。
ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から3年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。その代わりその3年の後は10年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。
長年巨人の寮長として活躍した武宮敏明によると、歴代の3ワルは王、柴田勲、堀内恒夫とのこと。3人とも名球会入りしている。

◎若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。
ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜かし続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。
ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。
ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。
また、愛車及び送迎車は共にレクサス・LSである。

◎大食漢として知られる。子供の頃はおやつ代わりにラーメンやカレーを平らげ、夕食を食べた後もうどんを平らげていた。
大人になってもそれは変わらず、中華料理屋でも出てきた料理を片っ端から平らげる。
そのため、誰も隣に座りたがらなかったという。
大食漢で知られる川上哲治さえも「王はもっとすごい。朝飯が終わると『今日の昼飯は何かな』と言い、昼飯が終わると『今日の夕飯は何かな』と言う。あれにはかなわん」と“敗北宣言”している。
さらに酒豪でも知られ、若い頃は毎晩のように銀座の高級クラブに繰り出し、浴びるように酒を飲んでいた。
飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけという(王と大鵬は同じ1940年5月生まれという縁もあり、長年にわたる親交がある)。
福岡に来てからはグルメに凝り出して体重が激増。
更にテレビのグルメ番組や料理番組も見始めたという。
第1回WBCの優勝時には、部屋にあったビールを全部1人で飲み干してしまった程である。
胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と体重が減って喜んでいるような発言をした。

◎通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで“やしろ”となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
福岡ヤフードーム内にある王貞治ベースボールミュージアムにある、
「バッティング」という題の佐藤忠良作の銅像です。
一本足打法を見事に表現している像です。
台座に飾られている王貞治選手の言葉がかっこいいです。
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西郷 四郎
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西郷 四郎 像
(広島県 尾道市 東久保町)

西郷 四郎(さいごう しろう)
(1866年-1922年(大正11年))
明治時代の柔道家

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成2年  
分 類:柔道家
作 者:今城 國忠
評 価:☆☆☆

西郷 四郎
若かりし頃の、「西郷四郎」氏の肖像

会津藩(会津若松市)藩士志田貞次郎の子。
明治15年旧会津藩家老西郷頼母の養子となる。
15歳で単身上京,陸軍予備校成城校に学ぶかたわら,天神真揚流柔術を修めた。
小柄なため陸軍士官学校への進学を断念,嘉納治五郎に見いだされて講道館に入門した。
必殺の立ち技「山嵐」で不世出の天才児といわれ,富田常次郎,横山作次郎,山下義韶と並んで講道館四天王のひとりに数えられる。
23年講道館を去り,35年鈴木力主宰の「東洋日之出新聞」記者となり,この間に中国大陸にも渡っている。
晩年は尾道市で過ごした。
富田常雄の小説『姿三四郎』のモデルとされる。
「朝日日本歴史人物事典」から

西郷の得意技は「山嵐」だが、これは幼少の頃から漁船上で仕事をしていた関係で影響で身についた「タコ足(足指が吸盤のような強い力を持っていたことから、この名で呼ばれる)」を生かしたため、相手の足を刈る際の技の切れは他者よりも格段に鋭かったと言われる。
このことから、山嵐は大東流の技法が活用されていたとする説も一部にあるが、現在、講道館に伝えられている山嵐の技法を見る限りでは、大東流の影響は余り感じられない。なお、その技は嘉納治五郎に「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
西郷四郎のことは、今野敏著の「山嵐」を読んだのでよく知っていました。
銅像は、道路の脇のちょっと分かりにくいところにありますが、逝去の地ということです。
柔道着で、すくっと立っている姿が印象的です。

ベーブ・ルース
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ベーブ・ルース 像
(静岡県 静岡市 県営草薙球場)

ベーブ”ジョージ・ハーマン・ルース(George Herman “Babe” Ruth)
(1895年-1948年)
メジャーリーグのプロ野球選手。

撮影日:2010年3月23日
分 類:プロ野球選手
評 価:☆☆☆

ベーブ・ルース
ヤンキース時代
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

野球の神様と言われていて、アメリカ合衆国の国民的なヒーローでもある。
最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人で、ホームラン50本以上のシーズン記録を初めて立てた選手でもある。
1927年に記録したシーズン60ホームランの記録は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまで34年間、また生涯通算ホームラン714本は、1974年にハンク・アーロンに破られるまでの39年間、メジャーリーグの頂上であった。
ブラックソックス事件による球界への不信感を豪快な本塁打の連発により払拭し、さらに以前にも増す人気をもたらし、いくつものプロスポーツの一つに過ぎなくなっていたかもしれないベースボールを最大の人気スポーツにした事で“アメリカ球界最大の巨人の1人”と評されている。

「ベーブ・ルースの伝説」
◎ファンサービスにも熱心だったことでも知られている。ファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、その後見舞いに行ったことがあった。
◎またある病弱な少年の両親が医者に「何か彼が熱中できることがあれば、元気になれるかもしれない」と言われて、少年が好きだったルースに見舞ってもらおうと無理を承知で球団事務所に電話して頼んでみたら、本当にルースが来て少年を驚かせたこともあった(「約束のホームラン」というタイトルで、ルースの伝記にはほぼ全て取り上げられている)。
しかも少年とその日のホームランを打つ約束までしたのである。
結果は三打席凡退の後、ホームランを放っている。
この病弱な少年とルースが再会したのは、ルースの晩年、病気のために入院していた時で、かつての病弱な少年はたくましく成長し、海軍に入隊するまでになっていた。
なお、この少年は1990年代まで生存しており、亡くなった時は日本の新聞の死亡記事にも、本エピソードの少年として掲載された。
◎前述されているように、ルースは子供に優しかった。
ルース見たさにヤンキースタジアムに来るものの、入場料がなく外に立ち続ける子供たちに対し、係員に札束を渡して「あの子達に入場券を買ってやれ」といったという。
また友人とゴルフ場に行った際は、入り口付近でルースを見つめる子供2,3人に「君らも来いよ、今日はいいプレーができそうだぞ」と誘い、子供たちと談笑しながらラウンドを回り、休憩時にはお菓子とジュースを振る舞ったという。
◎また、ある時、試合が終わってルースが帰りのバスへ向かう途中、路上に停まっていた1台のオープンカーの座席に元気のない少年が座っているのを見て、何気なく、「坊や、こんにちは」と声をかけると、少年は目を輝かせてルースの名を叫びながら立ち上がった。
すると、周りの人々が驚いたように歓声をあげ、傍にいた親らしき人物は涙を流しながら、「立った、立った!」と叫んでいる。
その歓声を聞いてルースは何事かと思ったが、急いでいたのでそのままバスへ向かって去って行った。
あとで分かったことだが、その少年は小児麻痺のために足の機能が失われ、2年間も立つことができない状態であった。
それが、憧れのルースから声をかけられたので嬉しさのあまり夢中になって立ち上がったのだという。
この出来事は当時の新聞にも載り、「子供たちにとって、ベーブ・ルースという名前はどんな薬よりも良く効く薬のようである」と評された。

「日本球界とのかかわり」
1934年全米選抜チームの一員として来日している。
航空便もなかった時代、長い船旅を当初はしぶっていたが、鈴木惣太郎が彼の似顔絵をメインにしたポスターを見せて説得したところ、快諾した。
いざ来日すると、雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のショーマン・シップを発揮、日本に野球人気を根付かせるのに大いに一役を買った。
沢村栄治の名を今日まで伝説化することになった、「全米軍クリーンナップを4連続奪三振」の逸話では、最初に沢村から三振に斬り捨てられている。
尚この試合は秋口に行われ気温は高くなく、ヒットで出塁した沢村にセーターを着せにいくなどのスポーツマンシップを見せ、「さすが大リーガーはやることが違う」と観客を感心させた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
沢村選手と対戦するベーブ・ルースの像。
大きいたれ目が、優しそうな雰囲気を出しています。
記録も数々の伝説もすごい選手です。

沢村 栄治
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沢村 栄治 像
(静岡県 静岡市 県営草薙球場)

沢村栄治(さわむら えいじ)
(1917年‐1944年)
昭和時代前期のプロ野球選手。

撮影日:2010年3月23日
分 類:プロ野球選手
評 価:☆☆☆

沢村 栄治 (澤村 榮治)
沢村 栄治 (澤村 榮治)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大正6年2月1日生まれ。
昭和9年全日本軍の投手として全米大リーグ選抜と対戦,ゲーリッグの本塁打1点におさえた。
同年,日本初の職業野球団大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)に入団。
速球を武器に11年プロ野球初のノーヒットノーランを記録。
12年春最高殊勲選手。3度目の召集で,昭和19年12月2日台湾沖で戦死。28歳。
22年沢村賞がもうけられ,34年第1回野球殿堂入り。
三重県出身。京都商業中退。
【格言など】どんな球でも一投,これすべて創造だと思います(「強者の行動訓」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「静岡市・県営草薙球場」
日本のプロ野球が始まるより以前の1934年12月に開催された日米野球大会で、当時日本チームのエースで後巨人の初代エースとなる沢村栄治がベーブ・ルースを三振に打ち取るなどアメリカ大リーグ選抜相手に8回で9奪三振無失点、失点は最終回のルー・ゲーリッグのホームランによる1失点のみと球史に残る快投を見せた場所でもあり、球場前にはその史実を伝えるべく、対峙する沢村とルースの像が建立されている。
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また球場事務所内に、当時の球場のマウンド跡を示す標識が床面に設けられている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
沢村賞で有名な沢村選手の像。
ベーブ・ルースとの対決の場面が銅像で再現されています。
足をあげたピッチングフォームが印象的です。
若くして亡くなったのが非常に残念です。

市川団十郎(九代目)
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市川団十郎(九代目)
(東京都 台東区浅草 浅草寺)

市川団十郎(9代)(いちかわ だんじゅうろう)
(1838年‐1903年)
幕末-明治時代の歌舞伎役者。

撮影日:2009年9月28日
建設年:昭和61年
分 類:歌舞伎役者
評 価:☆☆☆☆

市川団十郎2
市川團十郎 (9代目)
『暫』の鎌倉権五郎

天保9年10月13日生まれ。
7代市川団十郎の5男。
6代河原崎権之助の養子となるが,明治7年実家にもどり9代を襲名。
明治期を代表する役者で「劇聖」とよばれる。
演劇改良運動にとりくみ,活歴物という史劇を創始。
新歌舞伎十八番を制定した。
明治36年9月13日死去。66歳。江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎九代目市川團十郎「暫」の像
本堂裏の駐車場隣。
当初、大正8年(1919年)に造立されたもので、彫刻家新海竹太郎の作であったが、第二次世界大戦時の金属供出で失われ、昭和61年(1986年)、十二代目市川團十郎の襲名を期に再建されたものである。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
浅草浅草寺におられます。
刀を手にポーズを決めた姿は、大迫力の像です。

川上 音二郎
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川上 音二郎 像
(福岡県 福岡市博多区 上川端町)

川上 音二郎 (かわかみ おとじろう)
(1864年-1911年)
明治時代の俳優、興行師

撮影日:2008年12月6日
建設年:昭和62年
分 類:俳優
評 価:☆☆☆

川上音二郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

落語家桂文之助に入門、時局諷刺のオッペケペ節で人気をえる。
明治24年書生芝居を旗揚げし、「日清戦争」などで当たりをとり新派の基礎をきずく。
27年貞奴と結婚。29年東京神田に川上座を創設。
のち貞奴らと欧米を巡業し、36年正劇と称し「オセロ」などの翻訳劇を上演。
41年帝国女優養成所を開設。
明治44年11月11日死去。48歳。筑前(福岡県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
扇子を掲げたポーズが決まっています。
台座に書かれたオッペケペ節の歌詞もおもしろいです。

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石原 裕次郎
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石原 裕次郎 像
(北海道 札幌市 羊が丘展望台)

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう)
(1934年-1987年)
昭和時代後期の映画俳優

撮影日:2008年10月29日
分 類:俳優
評 価:☆☆☆

石原 裕次郎

昭和9年12月28日生まれ。
31年兄石原慎太郎原作の「太陽の季節」で日活からデビュー。
つづく「狂った果実」「乳母車」でブームをよび、33年「嵐を呼ぶ男」の記録的ヒットでスターとなる。
35年相手役の北原三枝と結婚。
歌手としても「銀座の恋の物語」などの主題歌で人気を博した。
38年石原プロを設立、後年はテレビで活躍。
昭和62年7月17日死去。52歳。兵庫県出身。慶大中退。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
石原裕次郎といえば、僕らの世代では「太陽にほえろ」と「西部警察」のボスが一番印象に残っています。
いい顔の銅像です。

出雲の阿国
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出雲の阿国 像
(京都府 京都市 四条大橋)

出雲 阿国(いずもの おくに)
(1572年-没年不詳)
歌舞伎の創始者とされる安土桃山時代の女性芸能者。
撮影日:2008年6月14日
建設年:平成6年
分 類:歌舞伎役者
作 者:山崎 正義
評 価:☆☆☆

歌舞伎の創始者とされる女性。
出雲大社の巫女(みこ)を称したが、出自には諸説がある。
芸能団を組織して諸国をめぐる。
慶長8年(1603)から女性が男装して簡単な筋にそってうたいおどるかぶき踊り(阿国歌舞伎)を演じる。
京都北野神社、四条河原などで興行して人気を得、女歌舞伎発展のもととなった。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
京都四条大橋のたもとにおられます。
歌舞伎を演じているしなやかな姿が印象的です。





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