ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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吉田 松陰 2
吉田 (1)

吉田 (2)
吉田 松陰 像 2
(山口県 柳井市柳井 柳井市立図書館)

撮影日:2015年2月26日
分 類:幕末志士、思想家
評 価:☆☆☆

[感  想]
柳井市立図書館の2階におられます。
正座した全身の小ぶりな像です。

吉田 (3)

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高山 彦九郎 2
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高山 彦九郎 像 2
(福岡県 久留米市 寺町 遍照院)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和13年
分 類:尊皇思想家
評 価:☆☆

[感  想]
遍照院の墓所の近くにおられます。
光明山遍照院は、自刃の地から約400m離れた場所で墓地です。
長く伸びたひげが特徴的です。
コンクリート製と思われ、かなり劣化が進んでいます。
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高山 彦九郎 1
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高山 彦九郎 像 1
(京都府 京都市 三条大橋東詰)

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう)
(1747年-1793年)
江戸時代後期の尊皇思想家

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和36年
分 類:思想家
作 者:伊藤 五百亀
評 価:☆☆☆☆

江戸時代中期-後期の尊王運動家。
延享4年生まれ。京都で河野恕斎にまなぶ。
諸国をまわり、藤田幽谷、中山愛親らとまじわったが、九州遊説中、幕府の追及をうけ寛政5年6月
27日自刃した。47歳。
林子平、蒲生君平とともに寛政の三奇人といわれる。
上野(群馬県)出身。
【格言など】朽果てて身は土となり墓なくもこころは国を守らんものを
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

銅像
京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の
銅像がある。
初代は1928年に作られ、法華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、東郷平八郎が台座の揮毫
をした。
しかし、1944年11月に金属回収令で供出され、現在の銅像は1961年に伊藤五百亀によって再建さ
れたものである。
2代目は若干西に移動し、初代の台座跡には「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」が建てられている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
台座から飛び出しそうな勢いを感じる迫力満点の銅像です。

孔子 5
20100514孔子 (3)

20100514孔子 (4)

20100514孔子 (6)
孔子 像 5
(山口県 周南市 安田 徳修館)

撮影日:2014年5月10日
建設年:平成21年
分 類:思想家
評 価:☆☆☆

20100514孔子 (5)

[感  想]
徳修館前におられます。
20100514孔子 (2)
中国の山東省政府から贈られた石像です。
表情や着物などが、日本の銅像とは少し違う中国的雰囲気を醸し出しています。


2010510孔子説明文

孔子 4
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孔子 像 4
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和8年
分 類:思想家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

[感  想]
井の頭自然文化園の庭におられます。
長い髭が特徴的で、着物も中国的な感じがします。

孔子 3
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孔子 像 3
(東京都 新宿区 早稲田 大隈庭園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:平成20年
分 類:思想家
評 価:☆☆☆

大隈庭園の孔子像
2008年6月16日、大隈庭園では中国政府より贈られた孔子像設置のための式典が行われました。
青々とした緑の中、大隈庭園の孔子像は日中友好のゆくすえを見守るようにして佇んでいます。
「早稲田大学ホームページ」から

[感  想]
庭園に入れなかったので、写真が横からしか撮れませんでした。
中国から贈られた像で剣を差し、手を組む姿が印象です。

孔子 2
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孔子 像 2
(山口県 山口市 吉敷 維新公園)

撮影日:2007年11月27日
建設年:平成19年
分 類:思想家
作 者:王 黎明
評 価:☆☆☆
[感  想]
平成19年に山口県と友好関係にある中国山東省から贈呈された「孔子杏壇講学像」(孔子が5人の弟子にレクチャーしている様子)が山口維新公園の広場にあります。
巻物を手に持った孔子を中央に五人の弟子が取り囲んでいる中国的雰囲気の像です。

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弟子も真剣に聴いています。

孔子 1
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孔子 像 1
(東京都 文京区 湯島 湯島聖堂)

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和50年
分 類:思想家
作 者:開 明徳
評 価:☆☆☆

孔子
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

孔子(こうし)
(前552年~前479年)
中国、春秋時代の学者・思想家

魯の陬邑(山東省曲阜)に生まれる。
名は丘。字は仲尼。諡は文宣王。
早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。
晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。
後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。
弟子の編纂になる言行録「論語」がある。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆孔子は、紀元前の中国・春秋時代の思想家です。
氏は孔、字は仲尼(ちゅうじ)ですが、一般的には孔子(孔先生という意味)と呼ばれています。出自には諸説あり、またどのように学問を積んだのかも不明な点が多いのですが、有名な歴史書『史記』では52歳で魯国の宰相になったという記述があります。
のちに国政を離れて多くの弟子とともに諸国を巡る旅に出ますが、これは苦難の旅になりました。
この間に仁・礼を規範とする国家の理想像を得るに至りました。
官僚として国政にたずさわることを望みましたが叶わず、不遇のうちに世を去りました。
しかし孔子とその高弟の言行録『論語』は、後にヨーロッパの啓蒙思想家に大きな影響を与え、また国家経営や官吏の道を学ぶテキストともされました。
銅像は、湯島聖堂の敷地内にあります。
湯島聖堂は儒学振興を目的として徳川綱吉が建設を命じたもので、後に幕府直轄の教育機関「昌平坂学問所」へと発展します。
明治維新により儒学教育の機関としての歴史は幕を閉じますが、その地には日本初の博物館(現在の東京国立博物館)や日本初の図書館が置かれたほか、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)などが設置され、近代教育萌芽の苗床となりました。
現在は国の史跡に指定されています。
像の場所は、仰高門から入り、楷の巨木が見える通路を少し入った斯文会館の真裏になります。
昭和50年(1975)に中華民国台北市ライオンズ・クラブより贈られたもので、台湾師範大学の開明徳教授の製作です。
高さは4.5メートルあり、孔子の銅像では世界最大のものだそうです。
また楷の木は孔子と縁が深く、孔子の墓所や孔子を祀った孔子廟や像のそばに植えることが習わしとなっているようです。
枝葉の様子に均整のとれた美しさがあり、楷書体の元になったといわれます。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
湯島聖堂におられます。
世界最大の孔子の銅像というだけあって大きさに圧倒されます。
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孔子を祀っている大成殿
中国的な建物です。

福沢 諭吉 5
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福沢 諭吉 像 5
(大分県 中津市 留守居 福沢諭吉資料館)

撮影日:2012年2月6日
建設年:昭和9年(昭和23年再建)
分 類:思想家
作 者:和田 嘉平治
評 価:☆☆☆

[感  想]
福沢諭吉資料館の庭におられます。
上半身の像で、前を向いたきりりとした表情が印象的です。

福沢 諭吉 4
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福沢 諭吉 像 4
(大分県 中津市 豊田町 中津駅)

撮影日:2012年2月6日
建設年:昭和60年
分 類:思想家
作 者:辻畑 隆子
評 価:☆☆☆

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[感  想]
中津駅前のローターリー広場におられます。
全身像で、腕を組んでじっと前を見つめている姿が印象的です。

福澤 諭吉 3
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福澤 諭吉 像 3
(長崎県 長崎市 上西山町 祓戸神社)

撮影日:2010年11月21日
分 類:思想家
評 価:☆☆

[感  想]
長崎公園近くの祓戸神社参道におられます。
眉毛が濃い石像です。
ちょっと福澤諭吉のイメージと違うような気がします。

福沢 諭吉 2
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福沢 諭吉 像 2
(東京都 港区 應義塾大学三田キャンパス)

撮影日:2010年3月15日
建設年:昭和29年
分 類:思想家
作 者:柴田佳石
評 価:☆☆☆

[銅 像]
大学三田キャンパス図書館旧館前~胸像(ブロンズ像)~
昭和二十九(一九五四)年、福澤先生銅像建設会の寄贈で、柴田佳石制作の胸像。
先生歿後五十年を経て、先生の面影を知る者が少なくなったことから、当時先生像のなかった三田山上に据えようとした運動がきっかけとなった。
除幕式は先生の一二〇回目の誕生日である一月十日に挙行された。
柴田は本名福四郎、明治三十三年に東京で生まれ、普通部出身、「長崎平和祈念像」の作者として知られる北村西望に彫塑を学び、昭和二十六年、日本陶彫会の発足時の会員になる。
日展に委嘱出品を続け、後に「珂石」あるいは「珂赤」と称し、同四十三年、六十七歳で歿した。
当初、三田第一研究室前庭に、谷口吉郎の選定で設置されたが、昭和四十二年、研究室棟建て替えのため撤去された後、学生運動の混乱期も含めて長らく義塾の倉庫に納められていた。
昭和五十八年九月二十九日、福澤研究センター設立を機に、図書館旧館正面玄関左側に移設され現在に至っている。
胸像背面銘文に「独立自尊一九五三佳石謹作」とある。
この胸像と同じ塑像による胸像がいくつかあり、その第一作が天本淑朗ら数名の交詢社社員から交詢社に寄贈されたものである。
天本は、当時横浜護謨(ごむ)製造会社の社長で、柴田とは普通部以来の友人であった。
銅像除幕式は昭和二十八年五月二十二日、交詢社において行われた。
作成に当たって、先生の肖像写真を参考に、福澤先生の四女志立タキや四男大四郎、『時事新報』の風刺漫画で活躍した北澤楽天らの助言を受けて、一年有余の時を費やして作られたといわれている。
柴田は、先生の娘婿の福澤桃介などの義塾関係者の胸像や、岐阜公園内にある「板垣退助像」も制作している。
また、余り知られていないが、かつて小田原駅改札脇に設置され、現在同駅東口にある小便小僧のブロンズ像も彼の作品で、有名な浜松町駅ホームのそれより二年前の昭和二十五年の作である。
「慶応義塾大学出版会ホームページ」から

[感  想]
創立大学の應義塾大学三田キャンパスにおられます。
1の應義塾大学病院にあるものと同じ型ではないかと思われます。

福沢 諭吉 1
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福沢 諭吉 像 1
(東京都 新宿区 應義塾大学病院)

撮影日:2008年4月24日
建設年:昭和50年
分 類:思想家
作 者:柴田 佳石
評 価:☆☆☆

福沢諭吉
「近代日本人の肖像ホームページ」から

福沢諭吉 (ふくざわ ゆきち)
(1835年‐1901年)
幕末・明治時代の思想家

豊前中津藩(大分県)藩士。
大坂の適塾でまなび、安政5年江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)をひらく。
英学を独修し、7年幕府の遣米使節に同行して咸臨(かんりん)丸で渡米。
以後2回欧米を視察。
元治(げんじ)元年幕臣となり外国奉行翻訳方をつとめる。
維新後は官職を辞して生涯野にあった。
明治15年「時事新報」を創刊。
人間の独立自尊、実学の必要性を説き、脱亜論をとなえた。
明治34年2月3日死去。68歳。
著作に「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」など。
【格言など】天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり(「学問のすゝめ」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎1万円札
1984年~2004年の日本銀行券D号1万円札、2004年~のE号1万円札の肖像にも使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。
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◎現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、昭和59年(1984年)11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった。

◎慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅  像]
信濃町キャンパス大学病院中央棟玄関ロビー~胸像(ブロンズ像)~
三田キャンパスと同様、柴田佳石制作のもの。
医学部第三回同級会(大正十四〈一九二五〉年卒業)から寄贈され、昭和五十年四月二十七日に設置された。
「慶応義塾大学出版会ホームページ」から

[感  想]
應義塾大学病院の1階ロビーにおられます。
ここでも先生は、「福澤先生」だけなのでしょうか?

横井 小楠 2
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横井 小楠 像 2
(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)
(横井小楠をめぐる維新群像)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成12年
分 類:儒学者
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

[感 想]
群像の中央に上下を着け堂々と立っておられます。


頼 山陽
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頼 山陽 像
(広島県 尾道市 千光寺公園)

頼山陽(らい さんよう)
(1781年-1832年)
江戸時代後期の儒者

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成5年  
分 類:文化人
作 者:橋本 次郎
評 価:☆☆☆

頼山陽
頼山陽像 帆足杏雨筆 広瀬旭荘賛
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

江戸で尾藤二洲らにまなぶ。
21歳で安芸広島を出奔,脱藩の罪で自宅幽閉となる。
赦免ののち,京都で開塾。
詩,書に才能を発揮。
幽閉中に起稿した「日本外史」は,幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。
天保3年9月23日死去。53歳。大坂出身。別号に三十六峰外史。著作はほかに「日本楽府」など。
【格言など】われに一腔(いっこう)の血あり。其色はまさに赤く,其性は熟す(結核闘病中にうたった「喀血の歌」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「尾道と頼山陽」
山陽の活動は、地方の門人やパトロンによって支えられており、芸備には門人が多く、後に福山藩に登用された門田朴斎、江木鰐水、関藤藤陰や、尾道の橋本竹下、宮原節庵、平田玉蘊らがいる。
 尾道は、山陽道の宿場町、瀬戸内海航路の港町として繁栄し、備後地方の商業の中心地であった。
近世後期には、経済的な実力を蓄えた商人のなかで、文芸への関心が高まり、それを反映して、多くの文人墨客が立ち寄っている。
彼らは、商人たちの求めに応じて、多くの書や絵画を製作し、潤筆料を受け取っている。
山陽に限らず、この時代に学者や文人が職業として成り立つようになった経済的背景には、尾道のような地方の豪商や豪農の存在があったのである。
「尾道文学芸術探訪」から

[感  想]
本と筆を持った立ち姿が印象的です。
頼山陽の像近くの岩に頼山陽の歌が刻まれています。
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頼山陽が、千光寺山に登ったときの作品です。
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隣の「岩割の松」もすごいです!

竹内 式部
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竹内 式部
(新潟県 新潟市中央区 二葉公園)

竹内式部(たけのうち しきぶ)
(1712年‐1768年)
江戸時代中期の神道家

撮影日:2009年3月23日
分 類:思想家
評 価:☆☆☆

正徳2年生まれ。
京都で儒学,垂加神道をまなび塾をひらく。
尊王論を主張し,門下の公卿が桃園天皇に「日本書紀」神代巻を進講したことから,宝暦9年重追放となった(宝暦事件)。
また明和事件に連座して八丈島に流される途中,明和4年12月5日三宅島で病没した。56歳。越後(新潟県)出身。著作に「奉公心得書」など。

[感  想]
小ぶりな像ですが、正座した凛とした姿が印象的です。

橋本 左内
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橋本 左内 像
(福井県福井市左内町 左内公園)

橋本 左内(はしもと さない)
(1834年‐1859年)
幕末期の越前国福井藩士

撮影日:2008年9月2日
建設年:昭和38年
分 類:福井藩士、思想家
評 価:☆☆☆☆

橋本左内
「近代日本人の肖像ホームページ」から

幕末の武士、医師。
天保5年3月11日生まれ。橋本長綱の長男。越前福井藩士。
緒方洪庵にまなび、父の跡をついで藩医となる。
安政元年江戸にでて藤田東湖らとまじわり、4年藩主松平慶永の侍講兼内用掛となる。
開国貿易論を提唱し、将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立につくし幕政改革をとなえたが、安政の大獄で6年10月7日刑死。26歳。
著作に「啓発録」など。
【格言など】稚とはすべて水くさき処ありて、物の熟して旨き味のなきを申也(「啓発録」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
昭和38年10月7日、市民の寄付により建立された銅像です。
この公園には橋本家墓所もあります。
刀を手にした堂々とした姿は、りりしい感じです。

横井 小楠
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横井 小楠 像
(福井県 福井市 内堀公園内)

横井 小楠(よこい しょうなん)
(1809年‐1869年(明治2年))
熊本藩士、儒学者

撮影日:2008年9月1日
分 類:儒学者
評 価:☆☆☆

横井小楠
「近代日本人の肖像ホームページ」から

江戸時代後期の儒者。
文化6年8月13日生まれ。
肥後熊本藩士。
天保(てんぽう)10年江戸に遊学。
帰藩後は家塾をひらき、実学派の中心となる。
安政5年福井藩主松平慶永の藩政顧問となり、藩の富国策を指導。
新政府のもと、京都で参与となるが、明治2年1月5日暗殺された。61歳。
著作に「国是三論」。
【格言など】人必死の地に入れば、心必ず決す
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
由利公正と一緒の像で、何か語っているようです。
二人は、よく似ていると思いました。

貝原 益軒
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貝原 益軒 像
(福岡県 福岡市中央区 金龍寺)

貝原 益軒(かいばら えきけん)
(1630年-1714年)
江戸時代前期-中期の儒者,教育家

撮影日:2007年12月5日
建設年:昭和40年
分 類:儒学者
作 者:津上昌平
評 価:☆☆☆☆

貝原 益軒
貝原益軒像
「中村学園ホームページ」から

寛永7年11月14日生まれ。
貝原寛斎の5男。
筑前福岡藩主黒田光之につかえ,京都に遊学。寛文4年帰藩。
陽明学から朱子学に転じるが,晩年には朱子学への疑問をまとめた「大疑録」もあらわす。
教育,医学,本草などにも業績をのこした。
正徳4年8月27日死去。85歳。
名は篤信。字は子誠。通称は久兵衛。別号に損軒。
著作はほかに「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など。
【格言など】心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にする。これ身を養い徳を養う工夫なり(「養生訓」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
金龍寺の境内に座っておられます。
とても精巧に出来た銅像で、表情がよく分かり、小物もよく作られています。
温厚そうな表情には好感が持てます。





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