ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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熊谷 直実
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熊谷 直実 像
(兵庫県 神戸市須磨区須磨寺町 須磨寺)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和42年
分 類:武将
作 者:平安美術製作所
評 価:☆☆☆☆

熊谷 直実(くまがい なおざね)
(1141年-1208年)
平安後期-鎌倉時代の武将

永治元年生まれ。武蔵大里郡(埼玉県)熊谷郷の人。
平家方から源頼朝の配下に転じ、本領熊谷郷の地頭職をみとめられる。
平氏追討に活躍し、一ノ谷の戦いで平敦盛を討つ。
建久3年伯父久下直光との領地あらそいに頼朝がくだした裁定を不服として出家、法然の門にはいった。
承元2年9月14日死去。68歳。
通称は次郎。法名は蓮生。
【格言など】浄土にもがう(剛)のものとや沙汰すらん西にむかひてうしろみせねば(「法然上人絵伝」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

一ノ谷の戦いの後、首実検をするとこの公達は清盛の甥・平敦盛と判明、齢十七だった。
討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという。
これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)。
敦盛を討った直実は、出家の方法を知らず模索していた。法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという。
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという。
その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという。
家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家した。
法名は法力房 蓮生(ほうりきぼう れんせい)である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

呼び止める熊谷直実
呼び止める熊谷直実
永青文庫蔵『一の谷合戦図屏風』より

[感  想]
須磨寺の境内におられます。
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熊谷直実との一騎討ちの様子を表した像です。
左手で手綱を引き、右手で扇子を広げた騎馬像で、平敦盛を呼び止めている様子をあらわしているものと思われます。
髭をはやした表情が特徴的です。

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平 敦盛
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平 敦盛 像
(兵庫県 神戸市須磨区須磨寺町 須磨寺)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和42年
分 類:武将
作 者:平安美術製作所
評 価:☆☆☆☆

平敦盛像(狩野安信筆、須磨寺蔵)
平敦盛像(狩野安信筆、須磨寺蔵)

平 敦盛(たいらの あつもり)
(1169年-1184年)
平安時代後期の武将

嘉応元年生まれ。平経盛の子。
寿永3年2月7日一ノ谷の戦いで、源氏方の熊谷直実に討たれた。16歳。
笛の名手とつたえられ、謡曲「敦盛」や浄瑠璃「一谷嫩(ふたば)軍記」などで名だかい。
通称は無官大夫。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。
平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。
源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

波際を敗走する平敦盛
波際を敗走する平敦盛
永青文庫蔵『一の谷合戦図屏風』より

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源平の庭
今から八百年前の平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭です。
当時十六歳の無官太夫平敦盛が一の谷の浜辺において、源氏の武将熊谷直実に討たれた話は平家物語の中で最も美しく、最も悲しい物語として古来語り継がれております。
庭前には、「笛の音に波もよりくる須磨の秋」の蕪村句碑があり、庭の角には弁慶が「一枝を伐らば一指を剪るべし」と制札を立てた、歌舞伎「一の谷嫩軍記」にも登場する「若木の桜」があります。
「大本山須磨寺ホームページ」から

[感  想]
須磨寺の境内におられます。
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熊谷直実との一騎討ちの様子を表した像です。
鋭い眼差しできりりとした表情の鎧甲姿の騎馬像は、躍動感があります。

毛利 秀元
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毛利 秀元 像
(山口県 下関市長府惣社町 長府毛利邸)

撮影日:2016年8月25日
建設年:平成28年
分 類:大名
作 者:楢原 北悠
評 価:☆☆☆

毛利秀~1
毛利秀元像(狩野探幽画)

毛利 秀元(もうり ひでもと)
(1579年-1650年)
江戸時代前期の大名

天正7年11月7日生まれ。
毛利元清の子。備中(岡山県)猿掛城で出生。
毛利輝元の養子となり、朝鮮出兵に名代として出陣した。
のち輝元に実子秀就が生まれたため分家。
関ケ原の戦い後、宗家より3万6000石を分与されて長門府中藩主毛利家初代となる。
古田織部門の茶人としても著名。
慶安3年閏10月3日死去。72歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

『長府毛利邸で銅像除幕 初代藩主・秀元』
下関市長府惣社町の長府毛利邸で26日、長府藩初代藩主・毛利秀元(1579~1650年)の銅像の除幕式が行われた。
銅像は高さ約2・3メートル。有志でつくる建立委員会が、全国約700人からの寄付金を活用し、約2200万円かけて建てた。
式では神事の後、秀元の子孫や安倍昭恵首相夫人、中尾友昭市長らが除幕した。
同委員会の勝原一明会長(73)が「(銅像が)新たな観光資源として活用され、下関や長府の観光、経済の発展に寄与できることを願う」とあいさつ。長府毛利家の子孫、毛利陽織(ひおり)さん(47)は「秀元の末孫としてうれしく思っている」と謝辞を述べた。
銅像はこの日、同委員会から下関市に寄贈された。
2016年03月27日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

[エピソード]
◎剛勇の将であり、智略にも優れていたといわれている。22歳でありながら、毛利氏の総大将として関ヶ原の戦いに兵1万5,000を引き連れて参陣したことも、それを証明している。しかし実戦経験が少なく、熟練の将であった従兄の吉川広家の内通を看破できなかった。

◎腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げたという逸話も残っている。

◎関ヶ原後は長府藩主でありながらも、本家の執政として能力を遺憾無く発揮した。37万石の長州藩の知行を実高54万石にまで上昇させることができたのは彼や益田元祥の功績である。但し、大坂の陣における佐野道可派遣の件の首謀者とも言われ、結果的には関ヶ原の戦いにおける吉川広家と同様の所為を行っている。
秀元は6歳になった時に毛利輝元の養子となった。その理由を吉川元春は「今、毛利家に男子は多くいるが、宮松丸に及ぶ者なし」と言い、小早川隆景は「その眼差し・秘めたるものが元就によく似ており、毛利家を継ぐのは宮松丸しかいない」と言ったと伝わっている。

◎江戸時代、江戸城に出仕した際弁当に鮭の切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。

◎茶の湯や和歌に優れ、古田織部の弟子となり、家光の御伽衆に加えられてからは家光に茶を点じている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
長府毛利邸の入口におられます。
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全身像で束帯に笏(しゃく)を右手に持った堂々とした立ち姿です。

鍋島 茂義
なべしま (2)

なべしま (3)

なべしま (4)

なべしま (5)
鍋島 茂義 像
(佐賀県 武雄市武雄町 武雄市文化会館庭園)

撮影日:2016年3月28日
建設年:平成3年
分 類:武士
作 者:武藤 三男
評 価:☆☆☆

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鍋島 茂義(なべしま しげよし)
(1800年-1863年) 
江戸時代後期の武士

寛政12年10月25日生まれ。肥前佐賀藩家老。
天和3年同藩武雄領主となる。
高島秋帆に洋式砲術をまなび、領内でモルテ-ル(臼砲)を鋳造。のち藩砲術師範となり、軍備の近代化につくした。
文久2年11月27日死去。63歳。
別名は紀義。通称は十左衛門。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

なべしま (6)

『茂義の科学研究』
武雄には現在も138冊の蘭書コレクションや、地球儀や天球儀、測量器具や時計、薬品などの輸入物品が残されているが、これは茂義の時期にオランダから購入されたものである。
それに加えて、武雄では、天保年間、塚崎城(武雄領主の館、現武雄高校)で理化学実験用シリンダーなどのガラス製品や、蘭引(蒸留装置)や乳鉢、乳棒などの磁器が製造されている。
茂義やその家臣は、これらの実験器具を用いて理化学実験を行っており、特に、火薬や雷管の研究を行っていたと言われる。
佐賀藩では、嘉永4年(1851年)に精煉方(理化学研究所)を設け、本格的に理化学研究に取り組むが、このような武雄領の研究結果は、その際、大いに参考にされたものと思われる。
また、嘉永7年(1854年)に、茂義は斉正から精煉方における蒸気船建造の責任者に任命されるが、これも茂義がすでに蒸気機関についての知識を有していた表れと考えられる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

武雄鍋島邸の庭園(現在の武雄市文化会館)
江戸時代、武雄鍋島家の屋敷は、武雄のシンボル御船山の北麓にあった。1868(慶応4)年に、この屋敷が火災で焼失したため、別邸に移った。
別邸跡は現在、武雄市文化会館となっているが、庭園は残されている。
武雄領主第28代鍋島茂義によって造られた、九州屈指の庭園。
写真右手に武雄への蘭学導入に功績のあった鍋島茂義の像、左手には、多くの貴重かつ膨大な資料が保管されていた蔵が見える

[感  想]
武雄市文化会館庭園におられます。
なべしま (1)
本を左手に、扇子を右手に持った立ち姿です。
研究熱心だった姿をよく現しています。

鍋島 直彬 2
鍋島2 (4)

鍋島2 (1)
鍋島 直彬 像2
(佐賀県 鹿島市大字高津原 佐賀県立鹿島高等学校)

撮影日:2016年3月27日
分 類:大名、華族
作 者:雨宮 治郎
評 価:☆☆☆

[感  想]
佐賀県立鹿島高等学校の敷地内におられます。
鍋島2 (2)

鍋島2 (3)
ここは、旭ヶ岡公園に隣接する旧鹿島鍋島藩の鹿島城跡で、その城門(赤門)は現在も校門として使用されいます。
1の像と同じと思われますが、こちらは小ぶりで、穏やかな感じがします。

鍋島 直彬 1
鍋島1 (2)

鍋島1 (3)

鍋島1 (4)

鍋島1 (5)
鍋島 直彬 像1
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和44年
分 類:大名、華族
作 者:雨宮 治郎
評 価:☆☆☆

鍋島 直彬1

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鍋島 直彬(なべしま なおよし)
(1844年-1915年)
幕末-大正時代の大名、華族

天保14年12月11日生まれ。
鍋島直永の長男。嘉永元年肥前鹿島藩(佐賀県)藩主鍋島家11代となる。
文久3年本藩の佐賀藩主鍋島閑叟の代理で京都にはいり、公武合体を進言した。
維新後、初代沖縄県令、貴族院議員。子爵。
学校をつくり育英事業につくす。
大正4年6月14日死去。73歳。幼名は熊次郎。号は絅堂(けいどう)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
モーニングコートを着用している全身像で、かなり大きく圧倒されます。
鍋島1 (1)
鹿島の街を見守っておられます。

愛野 興一郎
愛野興 (3)

愛野興 (4)

愛野興 (5)

愛野興 (2)
愛野 興一郎 像
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:平成17年
分 類:政治家
作 者:高岡鋳芸社
評 価:☆☆☆

愛野 興一郎(あいの こういちろう)
(1928年-1998年)
実業家・政治家
父は実業家で元衆議院議員の愛野時一郎。

愛野興 (6)

衆院議員(民政党)、元・経済企画庁長官
経歴民政党代議士だった父の跡を継ぎ、農協組合長、県議。
昭和47年自民党から衆院議員に当選。
外務政務次官、総理府総務副長官、衆院文教委員長を経て、平成元年竹下改造内閣の経済企画庁長官に就任。
竹下派、羽田派、5年6月新生党を経て、6年新進党、10年1月国民の声結成に参加。
9期務めた。
平成10年3月20日死去。
佐賀県鹿島市出身。中央大学法学部卒
家族父=愛野 時一郎(衆院議員) 弟=福岡 政文(佐賀日産社長) 愛野 克明(東日本観光バス社長) 愛野 孝志(愛野耳鼻咽喉科院長)
「政治家人名事典 明治~昭和の解説」から

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
愛野興 (1)
上半身の像で、丸い顔が特徴的です。

太田 道灌 3
太田道灌 (3)

太田道灌 (1)

太田道灌 (7)

太田道灌 (4)

太田道灌 (6)
太田 道灌 像 3 
(東京都 荒川区西日暮里 JR日暮里駅東口)

撮影日:2016年2月29日
建設年:平成元年
分 類:武将
作 者:橋本 活道
評 価:☆☆☆☆

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太田道灌は室町時代の武将で、武人としてのみならず文化人としても多くの足跡を残しま
した。
今回紹介する銅像は、JR日暮里駅の駅前ロ-タリ-にあります。
円柱状の台座がついた高さ約8mの騎馬像で、都内の道灌像としては最大のものです。
僧侶でもある彫刻家・橋本活道氏(北村西望の弟子でもあります)の製作で、狩衣装束で
右手は手綱、左手は弓を持って高く掲げ非常に躍動感があります。
獲物を射た道灌が、同行者に誇らしげな顔を見せた瞬間、というイメ-ジでしょうか。
有名な山吹伝説は、狩りの際に雨に降られた道灌が農家に立ち寄った際のエピソ-ドなの
で、それを考えると像の姿は和歌への精進を決意するきっかけとなった出来事へと繋がる、
まだ武人らしさ全開だった道灌の雄姿とも思えます。
設置は1989年で、東京荒川ライオンズクラブ会員有志による寄贈で、寄贈者名と東京都知
事・鈴木俊一氏による書が刻印された石板も設置されています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
JR日暮里駅前におられます。
太田道灌 (5)
弓を高く掲げた躍動感あふれる騎馬像です。

太田 道灌 2
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太田 道灌 像2
(東京都 新宿区 西新宿 新宿中央公園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和53年
分 類:武将
作 者:山本 豊市
評 価:☆☆☆

◆「山吹伝説」
太田道灌には数多くのエピソードがありますが、その中でも特に有名なのが“山吹”の伝説です。
道灌はある日、鷹狩りに出かけた際に急な雨に降られ、一軒の民家に立ち寄ります。家にいた若い女性に「蓑を貸して欲しい」と頼んだところ、女性は黙って山吹の花を一輪差し出しましたが、道灌は「花を求めたのではない」と憤慨します。
このことを後日語ると、歌道に明るい近臣がこう語ります。
「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」(醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王)という歌の“みの”を蓑にかけ、山吹の花を示すことで貧しくて用立てられないことを言いたかったのではないか、と。
貧しい庶民といえど和歌に親しみ、その心を知るのに自分はなんと不明ではないか、と大いに恥じた道灌は歌道に精進したというものです。
このエピソードをそのまま描いた銅像が、新宿中央公園内にあります。
像は「久遠の像」と呼ばれ、彫刻家・山本豊市の製作。
女性が道灌に山吹の枝を差し出すというそのものズバリのシーンを描いています。
像の周囲には八重の山吹も植えられており、花が咲く4月下旬頃は、山吹の花とともに像も“見頃”となります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
新宿中央公園に行きましたが、案内板にも表示が無く、かなり探しまわって端の方に有るのをやっと見つけました。
「山吹伝説」を再現した像です。
東京フォーラムにある像に比べ、なんとなく丸っこい感じがします。

太田 道灌 1
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太田 道灌 像 1
(東京都 千代田区 丸の内 東京国際フォーラム内)

撮影日:2007年6月5日
分 類:武将(室町時代)
評 価:☆☆☆

太田 道灌
太田 道灌
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

太田 道灌(おおた どうかん)
(1432年-1486年)
室町時代の武将
江戸城を築城した武将として有名

永享4年生まれ。
太田資清の子。
康正元年家督をつぎ,上杉定正の家宰となる。
3年江戸城を完成させ,居城とする。
文明8年におきた長尾景春の乱を12年に鎮定。
軍法師範と称され,また歌人としても知られ,万里集九らとまじわった。
文明18年7月26日定正に暗殺された。55歳。
相模(神奈川県)出身。幼名は鶴千代。名は資長。通称は源六郎。
【格言など】かかる時さこそ命の惜しからめかねてなき身と思ひしらずば(「常山紀談」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎山吹伝説
道灌が父を尋ねて越生の地に来た。
突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。
その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。
道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。
後でこの話を家臣にしたこところ、
それは後拾遺和歌集の
「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(みの)一つだに なきぞ悲しき」
の兼明親王の歌に掛けて、
家が貧しく蓑(みの)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。
古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだという。

◎謀反鎮圧
あるとき、道灌の家臣が謀反を起こして館に立てこもった。
道灌は兵士を差し向け、突入時に後方から「あの者は殺すな」と叫んだ。
すると謀反した家臣はもしかして自分だけ助かるのではないかと思い、剣先が鈍くなり、全て討たれてしまった。

◎将軍の猿
将軍足利義政は一匹の猿を飼っていた。
この猿は御所に参内する大名たちに飛びかかって引っ掻き、大名たちは難渋していたが、将軍の猿のために苦情も言えなかった。
太田道灌が上洛して御所に参り、猿はいつものように飛びかかろうとするが、道灌がにらみつけると怯えて縮こまってしまった。
大名たちは道灌の威に驚いた。
道灌は上洛するとこの猿のことを知り、猿師に賂を渡して猿をしたたかに打ちすえておいたのである。
そのため、猿は道灌に睨みつけられると怯えてしまった。
大名たちはこれを知り道灌の知恵にさらに驚いた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅  像]
この像は、ここに都庁舎があった昭和33年、当地に設置され、長らく都庁のシンボルの一つとして親しまれてきました。
都庁の移転後、ここが東京国際フォーラムとして新たに生まれ変わったことに伴い、平成8年5月、ゆかりの深いこの地に復帰することになり、以前と同様に、居城であった旧江戸城(皇居)を望んでいるそうです。

[感  想]
東京国際フォーラムの建物内に有ります。
弓矢を持った姿は、堂々としています。


菊池 武光 2
菊池 太刀洗 (7)

菊池 太刀洗 (3)

菊池 太刀洗 (6)

菊池 太刀洗 (9)

菊池 太刀洗 (1)

菊池 太刀洗 (10)

菊池 太刀洗 (4)




菊池 武光 像 2
(福岡県 三井郡 太刀洗町山隈 太刀洗公園)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和12年
分 類:武士
作 者:緒方 敏雄
評 価:☆☆☆☆☆

【菊池武光 銅像】
正平14年(1359)8月7日大保原(小郡市)で武家方の小弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隅原まで進出した。
この方面で戦っていた小弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。
武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。
しかし夜明け前からの激戦で死傷者は小弐方1万8千人、菊池方6千9百人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。
「帰来河水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって、紅雪をふく」頼山陽
「そのかみの血しおの色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川」乃木希典
古人は、このありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。
勇ましい姿のこの銅像はゆかりの菊池渡りの地に昭和12年建立されたものである。
なお、馬腹や台石の弾痕は昭和20年3月の大刀洗飛行場爆撃時の名残。
「大刀洗町ホームページ」から
菊池 太刀洗 (2)

[感  想]
大刀洗町という地名の由来にもなっている逸話を表した像。
右手に刀を左手に手綱をしっかりと持った菊池武光の立ち姿が素晴らしいです。
馬も躍動感あふれる姿です。

菊池 太刀洗 (5)
大戦の弾痕も生々しく見ることができます。
菊池武光像は、1に続き、2も満点の5つ星です!


菊池 太刀洗 (11)

菊池 太刀洗 (12)

菊池 武光 1
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菊池 武光 像
(熊本県 菊池市 亘 菊池市民広場)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成4年
分 類:武将
作 者:中村晋也
評 価:☆☆☆☆☆

菊池 武光(きくち たけみつ)
(不詳-1373年)
南北朝時代の武将

菊池武時の子。
肥後(熊本県)菊池氏惣領15代。
貞和4=正平3年征西将軍懐良親王を肥後にむかえ,九州の南朝勢力の中核となる。
九州探題一色範氏らをやぶり,大宰府に征西府をうつす。
のち新探題今川貞世に追われて大宰府を放棄した。
応安6=文中2年11月16日死去。
通称は豊田十郎。法名は聖巌。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「菊池武光騎馬像」
今から約650年程前の南北朝時代の武将、第15代当主菊池武光公の騎馬像。
後醍醐天皇の御子である懐良(かねなが)親王を征西将軍に迎え、南朝方として室町幕府と戦い、一時は九州を平定するなど活躍しました。
菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像は、日本有数の大きさを誇り、騎馬像のある菊池市民広場は、市民や訪れる人々の憩いの場となっています。
「菊池観光協会ホームページ」から

[感 想]
菊池市民広場の中央に堂々とおられます。
騎馬像、大きさ、迫力、細かい部分の表現と非の打ち所が無く、満点です!
一見価値有りです。
作者である中村晋也氏は、鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」の作者でもあります。
これからも多くの素晴らしい銅像を造ってもらいたいと思います。

藤堂 高虎
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藤堂 高虎 像
(愛媛県 今治市 通町 今治城)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

藤堂 高虎
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

藤堂 高虎(とうどう たかとら)
(1556年-1630年)
織豊-江戸時代前期の大名

弘治2年1月6日生まれ。
浅井長政、羽柴秀長、豊臣秀吉につかえる。
秀吉没後は徳川家康にちかづき、関ケ原の戦いでは東軍に属し戦功をあげた。
伊予(愛媛県)今治藩主から慶長13年伊勢津藩主藤堂家初代となる。32万3950石。
大坂夏の陣では真田幸村のため苦戦していた家康をたすけた。
寛永7年10月5日死去。75歳。近江(滋賀県)出身。
【格言など】
上として人を御疑い候えば、下また上を疑い、上下疑いこれあるときは、上と下との心離れ申候
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。

◎慶長の役において加藤嘉明と功を競い、仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
◎別の話もある。会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという。

◎高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。

◎秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し、「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」という言葉を残している。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。

◎家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。

◎関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。

◎武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。

◎三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
今治城の前の広場におられます。
躍動感あふれる馬に堂々と跨った姿です。
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今治城をバックにした姿が映えます!

加藤 嘉明
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加藤 嘉明 像
(愛媛県 松山市 大街道)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成22年
分 類:武将
作 者:田畑 功
評 価:☆☆☆☆

加藤 嘉明
加藤嘉明像(藤栄神社蔵)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

加藤 嘉明(かとう よしあき)
(1563年-1631年)
織豊-江戸時代前期の武将、大名

永禄6年生まれ。
豊臣秀吉につかえ、賤ケ岳の戦いに七本槍のひとりとして活躍。
小田原攻め、朝鮮出兵などに参加。
関ケ原の戦いでは東軍に属し、戦後伊予松山藩主となる。
大坂の陣にも活躍し、寛永4年会津40万石に転封となった。
寛永8年9月12日死去。69歳。
三河(愛知県)出身。初名は茂勝。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳七本槍の一人として名を馳せた。武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将であり、「沈勇の士」とその活躍ぶりを謳われている。

◎嘉明は南蛮渡来の焼物を多く持っており、その中に虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品があった。ある日、客を饗応する準備の最中に、嘉明の近習が誤って1枚を割ってしまった。それを聞いた嘉明は、近習を叱るどころか、残り9枚の小皿をことごとく打ち砕いた。そして言うには「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。およそ着物・草木・鳥類を愛でる者はそのためにかえって家人を失う。主たる者の心得るべきことである」と述べている。

◎あるとき、小姓らが主君の不在をよいことに、囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに嘉明がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て嘉明は、素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てたという。

◎築城や城下町の建設などにも力量を発揮した。愛媛県においては、現在でも松山城築城の評価は高く、嘉明の騎馬に乗った銅像が建立されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
松山城へのロープーウェイのりば近くにおられます。
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鎧兜姿で槍を右手に持ち馬に跨った姿です。
軽やかに走り出しそうな感じがします。
兜の蛇の目の家紋が特徴的です。

村上 元吉
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村上 元吉 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆☆

村上 元吉(むらかみ もとよし)
(1553年-1600年)
戦国-織豊時代の武将

能島村上水軍の頭領。
毛利元就から一字を拝領した。
父は村上武吉、母は村上通康の娘。弟に村上景親。妻は小早川隆景の養女。子に村上元武。官途は掃部頭。

能島村上水軍を率いる村上武吉の嫡男として生まれる。
1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでは村上水軍を率いて織田水軍を壊滅に導いた。
1586年(天正14年)の四国征伐において村上元吉も父や弟ともに、豊臣秀吉に協力しなかったため、追討されかける。
同年には、宣教師ガスパ-ル・コエリョに要請されて、元吉は瀬戸内海を安全に通行できるよう、村上水軍の旗を与え、コエリョの安全を保障した。
天下統一を進める秀吉は1588年(天正16年)に海賊停止令を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。後に海賊停止令に違反したとして、村上元吉も父とともに筑前国加布里(現在の福岡県前原市)へと追いやられた。
1598年(慶長3年)豊臣秀吉が没すると、毛利輝元は村上元吉を父とともに安芸国竹原に移して、4700石を与えた。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、阿波国の蜂須賀氏の所領を攻撃。
阿波国猪山城を落城せしめた。9月になると興居島に上陸後、四国伊予国三津浜(現在の松山市古三津)に上陸。加藤嘉明の居城・伊予国松前城を攻撃。
しかし、同年9月17日夜から翌18日朝にかけての佃十成の夜襲であえなく討死した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鎧兜姿で、腕を組んで前を見つめている石像です。
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父親の村上武吉像の動に対して静のイメージの像です。

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じっと海を見つめる後姿

村上 武吉
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村上 武吉 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆☆

村上 武吉(むらかみ たけよし)
(1533年-1604年)
戦国-織豊時代の武将

天文2年生まれ。伊予(愛媛県)能島を本拠とした能島村上氏。
来島、因島の村上氏とともに村上水軍を形成した。
厳島の戦いで毛利元就に助勢、以後毛利氏に属したが、豊臣秀吉の海賊禁止令で勢力をうしなう。
子孫は長門(山口県)萩藩の船手組頭。
慶長9年8月22日死去。72歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

海賊として粗野なイメ-ジが強いが、大山祗神社にて一族の結束を固める為に連歌会を多く催しており、武吉個人も非常に多くの連歌を残し、武だけではなく教養にも秀でていた事が垣間見られる。
ルイス・フロイスは、彼を「日本最大の海賊」と評している。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
村上水軍博物館の敷地で、村上元吉と共に迎えてくれます。
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鎧兜姿で、右手に采配を持った躍動感のある石像です。

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海に向かって采配を振る後姿

村上 景親
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村上 景親 像
(愛媛県 今治市 宮窪町 村上水軍博物館)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:武将
作 者:池田 英貴
評 価:☆☆☆

村上 景親
村上 景親(むらかみ かげちか)
(1558年-1610年)
戦国時代-江戸時代初期の武将

小早川氏・毛利氏家臣。父は村上武吉、兄に村上元吉。
1578年(天正6年)の上月城の戦いに出陣した。
その後は、兄と行動をともにした。
1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役では吉川広家に従って、兄ともども朝鮮に渡海している。
小早川隆景が隠居すると、父と兄は毛利氏に帰参したが、景親はそのまま小早川家中に残り、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。
しかし1597年(慶長2年)に小早川隆景が死去すると毛利氏に帰参して安芸国竹原に所領を得た。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、兄の元吉とともに水軍を率いて、蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し、落城させた。
その後は毛利軍の一員として、関ヶ原の戦いに参加した。
防長移封後、細川忠興や池田輝政も景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親はこれを辞退して父とともに屋代島に移住、毛利家御船手組の組頭となった。
1610年(慶長15年)に死去、墓所は山口県大島郡周防大島町にある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
村上水軍博物館の玄関前に座っておられます。
侍烏帽子を被り、裃を着た座像で、ひげが印象的です。


河野 通有
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河野 通有 像
(愛媛県 松山市 北立花町 井出神社)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成7年
分 類:武将
作 者:溝淵 清美
評 価:☆☆☆

河野 通有(こうの みちあり)
(1250年-1311年)
鎌倉時代の武将

河野通継の子。
弘安4年(1281)の蒙古襲来の際、伊予(愛媛県)の水軍をひきいて参戦。
博多湾の上陸阻止用の石塁を背に陣をはり、豪胆ぶりをうたわれる。
志賀島の戦いでも、元船に夜襲をかけ敵将を捕らえる。
のち幕府の命で西国の海賊を追捕した。
応長元年7月14日死去。
通称は六郎、弥九郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「元寇での活躍」
弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。
博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。
これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。通有は志賀島の戦いにおいて叔父の河野通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。

『蒙古襲来絵詞』
『蒙古襲来絵詞』

竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には、季長が負傷した通有を見舞った様子が描かれており、絵巻の注釈に河野の家では合戦が落居しない間は烏帽子を着けないこと、通有の直垂は平家との戦いで祖先の河野通信が源氏の味方に参上した時着けていたものである事が描かれている。
縁側には通有の嫡子河野の八郎が座っており、庭には通有の旗指しが控えている。奧の妻戸は本来なかった所を絵師が書き誤ったものという注釈がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
井出神社境内におられます。
烏帽子に鎧の武者姿で、右手に笏、左手に刀を持った立ち姿の石像です。

大友 宗麟 6
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大友 宗麟 像 6
(大分県 大分市 勢家町 神宮寺浦公園)

撮影日:2013年2月4日
建設年:昭和33年
分 類:大名
作 者:永谷 秀雄
評 価:☆☆☆

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[銅  像]
『「南蛮貿易場跡 大友宗麟像(神宮寺浦公園)』
公園の付近一帯は埋め立てられていますが、かつては浅瀬の波に洗われる美しい海浜でした。
平安時代、近くに春日神社の神宮寺という寺が建立されたところから、この名がついたといわれています。
天文年間(1532~1555)、ポルトガルや明との貿易を行った大友宗麟は、この浜辺を交易場として利用していたといわれています。
それにちなんだ「南蛮貿易場址」の碑があり、その側に太刀を杖にした大友宗麟像が建てられています。
ポルトガル人の来府は天文14年(1545)、中国のジャンク船に乗船して沖ノ浜に入港したのを皮切りに、天文20年(1551)の7月にポルトガル船が日出沖(神宮寺浦の対岸)に来泊しました。
同年9月にはフランシスコ=ザビエルが宗麟の招きで府内を訪れています。
その後、相次いでポルトガル船が来航し、神宮寺浦を含む別府湾は文字どおり南蛮貿易の表玄関でした。
「大分市観光協会ホームページ」から

[感  想]
立派な高い台座の上に立っておられます。
昭和12年に建設された像が、第二次世界大戦時の金属回収で無くなり、昭和33年に再建されたものです。台座は当時のもののようです。
十字架のペンダントをつまみ、刀をつえ代わりにした堂々とした立ち姿です。

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大友 宗麟 5
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大友 宗麟 像 5
(大分県 津久見市 中央町 津久見駅)

撮影日:2013年2月2日
建設年:昭和61年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

[感  想]
津久見駅前におられます。
津久見は、宗麟の終焉の地でありることから駅前に建てられたものと思われます。
大分駅の銅像よりは、小ぶりの像で、十字架のペンダントをかけ左手で刀をつえ代わりにした立ち姿です。
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じっと津久見駅を見つめられています。

大友 宗麟 4
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大友 宗麟 像 4
(大分県 津久見市 津久見 大友宗麟墓所公園)

撮影日:2013年2月2日
建設年:昭和52年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

[感  想]
墓の近くの説明碑の隣に立っています。
小ぶりな像ですが、
ペンダントの十字架をつまみ、への字の眉毛と髭が特徴的な覇気が感じらる像です。

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キリスト教式の墓

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墓をじっと見守っておられます。

大友 宗麟 3
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大友 宗麟 像 3
(大分県 津久見市 津久見 大友宗麟墓所公園)

撮影日:2013年2月2日
分 類:大名
評 価:☆☆

[感  想]
大友宗麟墓所公園にある上半身の像です。
丸坊主で、かなり後年の姿と思われます。
他の像に比べて、覇気が感じられません。
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宗麟は、花押を度々変えたようで、背後の壁には歴代の花押の石碑が埋め込まれています。

大友 宗麟 2
2008.2~3 015
2008.2~3 025

2008.2~3 021
大友 宗麟 像 2
(大分県 大分市 大分駅前)

撮影日:2009年1月31日
分 類:キリシタン大名
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆☆

[感  想]
大分駅前にどんと立っておられます。
刀を杖にした立ち姿は、堂々しており立派です。

大友 宗麟 1
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大友 宗麟 像 1
(大分県 大分市 大分城址公園)

撮影日:2008年3月22日
建設年:昭和44年
分 類:キリシタン大名
作 者:長谷 秀雄
評 価:☆☆☆

大友 宗麟
大友宗麟画像(瑞峯院所蔵)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大友 宗麟(おおとも そうりん)
(1530年-1587年)
戦国-織豊時代の武将

享禄3年生まれ。
大友義鑑の長男。
豊後,肥後など九州6ヵ国の守護と九州探題をかねる。
キリスト教を保護し,南蛮貿易をおこなう。
天正6年受洗,10年少年使節をローマにおくる。
薩摩(鹿児島県)の島津氏の圧迫をうけ,豊臣秀吉の救援をもとめた。
天正15年5月23日死去。58歳。
名は義鎮。別号に宗滴,三非斎など。洗礼名はフランシスコ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎キリシタン大名としても知られる義鎮だが、若き日の天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであった。
27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。
領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。
また、博多商人の島井宗室と交友し、日明貿易や日朝貿易も行う。
その他、文化的活動も幅広く行う。
当初は貿易目的のためにキリシタンを保護していたが次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、遂には入信し、ムシカ(理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近)の建国を夢見て、耳川の合戦を引き起こすことになる。

◎他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており、家臣の妻(一萬田親実の妻)を略奪したり、キリスト教をめぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。
政務を拒否し遊び惚けた宗麟を立花道雪が戒めたという逸話も残っている。
しかし大友氏は結果として、立花道雪ら優秀な家臣団を持った事と、大内氏滅亡により北九州の大内領を継承するという幸運によって大成したのである。

◎天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。

◎かなりの好色家であったようで、わざわざ京都に赴いて美女を探し、目星をつけると見境無く略奪婚のようなことを繰り返したとされる。
最初の正室・一色夫人とは家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。
継室の大友イザベルとはキリスト教の信仰対立で離婚している。

◎日本で初めて大砲(当時は国崩し)を使ったのは、宗麟であったとされる。

◎文化人としてもその活動は活発で書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。例を挙げると、永禄12年(1569年)狩野松栄を、元亀2年(1571年)には狩野永徳を豊後に呼び寄せ、障壁画を制作させている。
また、このような多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集している。
さらに楢柴肩衝、初花肩衝と共に天下三肩衝といわれる新田肩衝も所有していた。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残る程であった。


[感  想]
大分城址公園におられます。
髭と胸の十字架が特徴的な上半身の像です。

島津 義弘
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島津 義弘 像
(鹿児島県 日置市 伊集院町 伊集院駅)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和63年
分 類:武将
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆☆

島津 義弘(しまづ よしひろ)
(1535年-1619年)
戦国-織豊時代の武将

天文4年7月23日生まれ。
島津貴久の次男。
島津氏17代。
兄義久とともに九州をほぼ平定。
天正15年(1587)豊臣秀吉に敗れたが、大隅領有はゆるされる。
文禄・慶長の役で朝鮮に出陣、泗川の戦いで明(中国)の大軍を破る。
関ケ原の戦いでは西軍に属し、敵中を縦断して退却した。
元和5年7月21日死去。85歳。
薩摩(鹿児島県)出身。
初名は忠平、義珍(よしまさ)。通称は又四郎。号は惟新。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎関ヶ原の戦い・島津の退き口
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。
しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人(1000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。
島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。
島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。
このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。
その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
この逃走劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した。
しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。
このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦並びに東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。
生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。
また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。
この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

◎家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。
この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。また敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。

◎祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。

◎許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。
また家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。

◎義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。
このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった。

◎義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した。
また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている。

◎九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。
そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。
この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている。

◎秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。
この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。

◎愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。
朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

◎武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。

◎若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。
弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎打ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。
また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

◎木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。
この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。

◎関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。
しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。

◎義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫ですか?」と尋ねると「大丈夫だ。小姓どもは悪いことばかりして手を焼かせおる」と返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)

[銅  像]
JR九州伊集院駅前には義弘の馬上姿の銅像がある。
関ヶ原でまさに敵中突破をする瞬間をイメ-ジした銅像といわれている。他にも木崎原古戦場跡などにも石像がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鹿児島中央駅からJRでわざわざ伊集院駅までへ行きました。
遠いところを来た甲斐があると思わせる素晴らしい像です!
馬上の武者姿で采配を右手に持ち、まさに飛び出してきそうな躍動感あふれる姿です。
多くの武勇伝を持つ猛将であり、また家来や家庭を大切にする人物で好感が持てます。
熊本県菊池市の菊池武光像と同じく中村晋也の作の満点像です。

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島津 斉彬
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島津 斉彬 像
(鹿児島県 鹿児島市 照国町 照国神社)

撮影日:2012年11月17日
建設年:大正6年
分 類:大名
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

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斉彬の写真(1857年撮影、尚古集成館蔵
斉彬の写真(1857年撮影、尚古集成館蔵)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

島津 斉彬(しまづ なりあきら)
(1809年-1858年)
幕末の大名

文化6年9月28日生まれ。
島津斉興(なりおき)の長男。
嘉永4年(1851)薩摩鹿児島藩主島津家11代となる。
藩営の工場集成館を設立し、殖産興業、富国強兵策をすすめる。
養女篤姫(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして、幕府への発言力をつよめる。
将軍継嗣問題では西郷隆盛らをもちいて一橋慶喜擁立運動をすすめたが、
安政5年7月16日急死。50歳。
初名は忠方。通称は又三郎。号は惟敬、麟洲。
【格言など】勇断なき人は事を為すこと能(あた)わず(「斉彬公言行録」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎最も早く写真に撮影された大名であるといわれている。
また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったといわれている。
斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられている。

斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真
斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真。左から典姫・暐姫・寧姫

◎松平慶永(福井藩主)、山内容堂(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。
しかし慶永は後世において、「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と語ったといわれる。

◎西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ、西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどである。
斉彬の功績は明治時代を築くことになる人材を育て上げたこともその一つといえる。

◎理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見破り、自身もアルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた。

◎『島津斉彬言行録』には「君主は愛憎で人を判断してはならない」、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」など、近代的な人材登用策を示していたことが覗える記述もある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
鹿児島市照国神社の隣接しておられます。
束帯に笏(しゃく)を右手に持った堂々とした立ち姿です。
肖像画から島津斉彬は、太っているイメ-ジでしたが、銅像の顔はやせた感じです。
台座も丸に十の字の家紋と彫刻が施され立派です。

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島津 久光
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島津 久光 像
(鹿児島県 鹿児島市 照国町 照国神社)

撮影日:2012年11月17日
建設年:大正6年
分 類:武士
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

島津久光(近代日本の肖像)
「近代日本人の肖像」から

島津久光

島津 久光(しまづ ひさみつ)
(1817年-1887年)
幕末-明治時代の武士

文化14年10月24日生まれ。
島津斉興の5男。母はお由羅。
薩摩鹿児島藩重富領主。
異母兄斉彬の遺命で子の忠義が鹿児島藩主となると、本家に復帰して国父とよばれ藩政の実権をにぎる。
文久2年(1862)兵をひきいて京都にはいり、藩の尊攘過激派を弾圧(寺田屋事件)。
また、勅使大原重徳を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど、公武合体運動をすすめる。
帰途、生麦事件が発生し、薩英戦争をまねいた。
維新後、内閣顧問・左大臣に就任したが、保守的意見がいれられず、明治8年隠退した。
明治20年12月6日死去。71歳。初名は忠教。通称は又次郎。号は双松など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎藩内における権力拡大の過程では、小松帯刀や中山中左衛門等とあわせて、大久保利通・伊地知貞馨・岩下方平・海江田信義・吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グル-プ「精忠組」の中核メンバ-を登用する。
ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年の率兵上京時には、西郷が無断で上坂したのを責めて遠島処分にし、藩内有志の嘆願により元治元年(1864年)に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、のちのちまで両者のあいだには齟齬があった。

◎生麦事件は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
有名な生麦事件の大名行列のお殿様です。
鹿児島市照国神社隣の庭園におられます。
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紅葉がきれいでした。
島津斉彬像と同じく束帯に笏(しゃく)を
右手に持った堂々とした立ち姿です。
若い時の姿を銅像にしたものだと思われます。

島津 忠義
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島津 忠義 像
(鹿児島県 鹿児島市 照国町 照国神社)

撮影日:2012年11月17日
建設年:大正6年
分 類:大名
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

島津忠義
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

島津 忠義(しまづ ただよし)
(1840年-1897年)
幕末-明治時代の大名、華族

天保11年4月21日生まれ。
島津久光の長男。
安政5年薩摩鹿児島藩主島津家12代となり、父に後見される。
藩の近代化をすすめ、薩英戦争をたたかう。
慶応3年討幕の密勅をうけ大兵をひきいて京都に出、王政復古につとめた。
戊辰戦争では新政府軍の主力となる。
のち公爵、貴族院議員。
明治30年12月26日死去。58歳。
初名は忠徳、茂久。通称は又次郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎15代将軍徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。
そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。
徳川慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。
この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い一日で辞任している。

◎明治維新後は長州・土佐・肥前の三藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。
その後、名を「忠義」と改め薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷隆盛に任せていたと言われている。

◎忠義は犬追物や乗馬を得意とする一方で、写真撮影や花火作りなどにも興味を持つなど、幅広い趣味を持つ人物であった。

◎1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながら髷を切らずにいたことに驚いたと、ドイツの医学者・ベルツは日記に記している(ちなみに当時の首相は旧家臣の黒田清隆)。
西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる。


[感  想]
照国神社隣の島津斉彬、久光像とは、ちょっと離れた所におられます。
軍服にサ-ベル姿できりりとした表情が印象的です。
生涯髷を切らなかったということなので、帽子の中は、髷のようです。

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菅 実秀
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菅 実秀 像
(鹿児島県 鹿児島市 武二丁目 西郷公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成3年
分 類:武士
評 価:☆☆☆

菅実秀
「山形県生涯学習文化財団ホ-ムペ-ジ」から

菅 実秀(すげ さねひで)
(1830年-1903年)
幕末-明治時代の武士、官吏

文政13年1月8日生まれ。
出羽鶴岡藩(山形県)藩士。
戊辰の敗戦処理に手腕を発揮し、家老にすすむ。
このとき西郷隆盛の厚遇で藩の危機がすくわれたことを知る。
以後西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした。
大泉藩権大参事、酒田県権参事を歴任。
西南戦争後、「南洲翁遺訓」を刊行。
明治36年2月17日死去。74歳。
通称は善太右衛門。号は臥牛(がぎゅう)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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「西郷隆盛と庄内出身の菅実秀の会見」
西郷公園(西郷屋敷跡)の中に西郷さんと庄内出身の菅実秀の会見の像があります。
この菅実秀は、元庄内藩(山形県)の家老であった人です。
会津藩・庄内藩はコテコテの幕府派であった藩で、官軍の西郷たちと激しい戦いを行って敗れたのですが、西郷のはからいで庄内藩の処罰が寛大になったということがあり、以来、菅実秀は西郷を尊敬しました。
それで明治8年に菅実秀が、この屋敷に西郷を訪ねて来て、対話している姿です。
後に菅実秀は「南洲翁遺訓」という本を刊行し西郷の偉大さを全国に知らしめました。
「よかとこBY写真満載九州写真ホ-ムペ-ジ」から

[感  想]
西郷隆盛屋敷跡におられます。
西郷隆盛との会見に臨む、正座している像です。
拳を握りしめた姿勢の良い姿が印象的です。

調所 広郷
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調所 広郷 像
(鹿児島県 鹿児島市 天保山町 天保山公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成10年
分 類:武士
作 者:木佐 貴熙
評 価:☆☆☆

調所広郷
「尚古集成館ホ-ムペ-ジ」から

調所 広郷(ずしょ ひろさと)
(1776年-1849年)
江戸時代後期の武士

安永5年2月5日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
側用人、家老となる。
砂糖の総買い入れ専売制実施、藩債500万両の250年賦償還などにより藩財政を再建。
琉球を通じての密貿易の責任をとって嘉永元年12月18日自殺。73歳。
本姓は川崎。通称は笑左衛門(しょうざえもん)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。
藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。
天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。
当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い。だが、実際には明治5年(1872年)の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。
一部商人資本に対しては交換条件としてこの密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。
そして大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。

◎明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。
薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し羽振りが良かったのは一世代前に500万両に及ぶ借金を「踏み倒し」、薩摩藩の財政を再建した広郷のお蔭と言える。

◎藩主斉興の後継者を巡る長男島津斉彬とその異母弟島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。
これは、聡明だがかつての重豪に似て西洋かぶれである斉彬が藩主になる事で再び財政が悪化する事を懸念しての事であると言われている。

◎斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。
その後、斉彬派の西郷隆盛や大久保利通が明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け一家は離散する。
斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり弾劾出来なかったので、一層調所家への風当たりが強くなったものと考えられる。
広郷の財政改革が後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化が実現されたと評価されるようになったのは戦後のことである
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
天保山公園の松林の中におられます。
上下を着て、床机に座り真っ直ぐと前を見つめている姿です。

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