ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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金子みすず 3
金子みすず (1)

金子みすず (4)

金子みすず (6)

金子みすず (5)
金子みすず 像 3
(山口県 長門市仙崎 みすず通り)

撮影日:2016年7月14日
建設年:平成27年
分 類:その他
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

『金子みすゞブロンズ像 長門で除幕 長女・ふさえさんら参加 /山口』
童謡詩人・金子みすゞ(1903~30)のブロンズ像が長門市仙崎のみすゞ通りの一角に設置され、8日、設置に関わった実行委員会のメンバーや近くの園児ら約100人が参加して除幕式をした。
ブロンズ像は、岩国市出身でもある東京造形大学の小川幸造教授の提案を受け、金子みすゞ顕彰会(木下敬介理事長)が昨年1月に実行委員会を発足。全国のみすゞファンなどに呼びかけ、407人から940万円を集めた。
ブロンズ像は、金子みすゞ記念館から北側のみすゞ通りの市有地に設置。
台座(高さ110センチ)の上に全身像(同170センチ)が立つ。
像の題字は安倍晋三首相が揮毫した。
除幕式には、安倍昭恵首相夫人や同記念館の矢崎節夫館長らが参加。
園児が風船を飛ばして祝った。
制作した小川教授は「詩を何度も読み返しみすゞさんらしさを出すのに苦労しました」とエピソードを語った。
金子みすゞの長女・上村ふさえさん(89)は「胸がいっぱいで涙が出てきました。母は私が3歳の時に亡くなっており記憶はありませんが、大変喜んでいると思います」と話した。【川上敏文】
〔山口版〕毎日新聞2015年12月9日 地方版

[感  想]
みすず通りの一角におられます。
金子みすず (2)
作者の小川さんによると、像は18歳の頃のみすゞさんで、無垢で純情で純粋で温かい彼女のイメージを表現されたそうです。
等身大の全身像で、指の先をくっつけたかわいい仕草の像です。
金子みすず (3)
代表作「私と小鳥とすずと」の石碑も設置してあります。
台座には、“みんなちがってみんないい”

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金子 みすず 2
IMG_0939.jpg

IMG_0938.jpg
金子 みすず 像 2
(山口県 長門市 仙崎)

撮影日:2012年2月19日
建設年:平成15年
分 類:詩人
評 価:☆☆

[感  想]
金子みすず記念館の中庭におられます。
白い大理石の小振りな像です。
着物を着て詩を書いている姿が印象的です。

金子 みすず 1
IMG_5360.jpg

IMG_5367.jpg
金子 みすず 像 1
(山口県 長門市 仙崎)

撮影日:2007年8月13日
分 類:童謡詩人
評 価:☆☆☆

金子みすず
金子みすゞ肖像(提供:金子みすゞ著作保存会)
山口県ホームページ「ふるさとの文学者63人」から

金子 みすゞ(かねこ みすず)
(1903年-1930年)
大正-昭和時代前期の童謡詩人

明治36年4月11日生まれ。
大正12年から「童話」「金の星」などに童謡を投稿し,西条八十にみとめられる。
「大漁」「繭(まゆ)と墓」「夢売り」などの作品を発表したが,夫に反対されて筆をたった。
離婚ののち,昭和5年3月10日自殺。28歳。
57年矢崎節夫により遺稿512編が発見され,「金子みすゞ全集」として出版された。
山口県出身。大津高女卒。
本名はテル。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「作品」
代表作には「わたしと小鳥とすずと」や「大漁」などがある。
仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。
鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。
金子みすゞは鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている。
自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集
の原点とも言われ、「お魚」「大漁」などに繋がっている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
長門市は、金子みすずが生まれ育ったまち。
近年は、みすず関係の記念館や公園などいろいろ整備されています。
銅像は、「大漁」の詩碑の前にあります。
ふくよかな顔立ちが印象的です。

和泉式部 
和泉 (1)

和泉 (2)

和泉 (4)
和泉式部 像
(佐賀県 嬉野市塩田町 和泉式部公園)

撮影日:2016年3月28日
建設年:平成7年
分 類:歌人
作 者:橋本 次郎
評 価:☆☆☆

和泉式部
和泉式部(いずみしきぶ)
生没年不詳
平安中期の女流歌人

越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。
和泉式部は女房名で、江式部、式部などとも呼ばれた。
すぐれた抒情歌人として知られ、「和泉式部集」正・続1500余首の歌を残し、「和泉式部日記」の作者として名高い。「後拾遺集」をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。
式部の父は、朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に、太皇太后宮大進として仕え、母も同内親王に仕えていたから、式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。
「世界大百科事典 第2版の解説」から

恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。
また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。
真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛された。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

『和泉式部公園』
平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。
その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています。
「一般社団法人 佐賀県観光連盟ホームページ」から

[感  想]
和泉式部公園におられます。
和泉 (3)

十二単衣を着て、扇子を持った立ち姿で、高さ5mの巨大な像です。
和泉 (5)

和泉 (6)
両側に和泉式部の歌碑が有ります。
現代人っぽい美人の顔立ちだと思いました。

国木田 独歩 2
国木田 (1)

国木田 (3)
国木田 独歩 像 2
(山口県 柳井市柳井 柳井市立図書館)

撮影日:2015年2月26日
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

明治の文豪国木田独歩は、明治25年(1892)から同27年までの間、父の勤務のため柳井
にいました。
22歳から24歳の青年時代であり、柳井は独歩にとって忘れがたい地であっただけに、優
れた作品が生まれています。

柳井地方を舞台にした独歩の作品(発表順)
•吾が知る少女の事を記す
•まぼろし
•置土産
•小春
•帰去来
•富岡先生
•少年の悲哀
•酒中日記
•非凡なる凡人
•女難
•病床録
•欺かざるの記
「柳井市立図書館ホームページ」から

[感  想]
柳井市立図書館の2階におられます。
国木田 (2)
柳井に在住していた21歳頃の若い独歩の上半身の像で、
きりっとした顔立ちが特徴的です。
図書館内には、国木田独歩文庫も有ります。

国木田 独歩 1
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国木田 独歩 像 1
(山口県 柳井市 柳井津)

国木田 独歩(くにきだ どっぽ)
(1871年-1908年)
明治時代の詩人,小説家

撮影日:2007年10月6日
分 類:小説家
評 価:☆☆☆

国木田独歩
「近代日本人の肖像ホームページ」から

明治4年7月15日生まれ。
植村正久から受洗。
明治27年国民新聞記者として日清戦争に従軍。
30年共著の詩集「抒情詩」に「独歩吟」をまとめる。
ついで「源叔父」「武蔵野」などの浪漫的な短編小説をかく。
34年「牛肉と馬鈴薯」を発表,自然主義の先がけとして評価された。
明治41年6月23日死去。38歳。
千葉県出身。東京専門学校(現早大)中退。
本名は哲夫。
【格言など】山林に自由存す われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ(「抒情詩」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
この像は、柳井市の町並み資料館の前にあります。
独歩が、この地で過ごした20歳~23歳の頃を表した銅像です。
独歩といえば、髭をはやした顔のイメージが強いのですが、この像はとてもやさしそうないい顔をしています。


正岡 子規 3
子規3IMG_2094 (3)

子規3IMG_2083
正岡 子規 像3
(愛媛県 松山市 道後公園 子規記念博物館)

撮影日:2013年3月21日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規記念博物館の風除室におられます。
子規3IMG_2094 (1)
着物と羽織を着て脇息に手を置き正座している姿の小ぶりな像です。
晩年の頃の姿だと思われます。

正岡 子規 2
子規1 IMG_1832 (1)

子規1 IMG_1832 (2)
正岡 子規 像2
(愛媛県 松山市 二番町4丁目 番町小学校)

撮影日:2013年3月20日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規堂にある1と同じ像と思われます。
こちらの像には、笠と荷物がありません。

子規1 IMG_1832 (3)
横に句碑があります。

IMG_1835.jpg

國なまり 故郷千里の 風かをる  
正岡子規
東京で伊予弁なまりを聞いて故郷松山を想ったのではと思います。

正岡 子規 1
子規2IMG_1871 (1)

子規2IMG_1871 (2)
正岡 子規 像1
(愛媛県 松山市 末広町 子規堂前)

撮影日:2013年3月20日
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

正岡子規 肖像
正岡 子規(まさおか しき)
(1867年-1902年)
明治時代の俳人、歌人

慶応3年9月17日生まれ。
明治25年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。
28年以降は病床にあり、30年創刊の「ホトトギス」、31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。
野球の普及にも貢献、平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。
明治35年9月19日死去。36歳。
伊予(愛媛県)出身。帝国大学中退。
本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、竹の里人。
著作に句集「寒山落木」、歌集「竹乃里歌」、ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。
【格言など】柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。

◎別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。
「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。

◎松山に漱石が居た時に鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせた。

◎「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。

◎本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、『陳腐、平凡』という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。

◎子規と野球
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまでやっていた。
ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚が始めである。)。
また「まり投げて見たき広場や春の草 」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」
などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。
これらのことが評価され子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。
なお、子規が「野球」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年(明治23年)である。
つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
子規堂の前におられます。
わらじの緒を締め直し、旅立とうとする若い子規の姿です。

子規2IMG_1871 (3)

夏目 漱石 5
夏目2 IMG_2108 (4)

夏目2 IMG_2108 (3)
夏目 漱石 像 5
(愛媛県 松山市 道後湯之町 道後温泉本館内)

撮影日:2013年3月21日
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

夏目2 IMG_2108 (2)
「坊ちゃんの間」
昭和41年(1966年)、正岡子規や柳原極堂の生誕100年祭を催した際に、本館3階の一室を夏目漱石ゆかりの部屋として定めました。
当時、漱石が湯上りにくつろいだ部屋を再現したもので、室内には漱石の見合い写真や胸像などが飾られており、入館された方は、自由に見学できます。
「松山市ホームページ」から

夏目2 IMG_2108 (6)
「漱石と道後温泉本館」
文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任したのは、本館の完成した翌年のこと。
漱石はその建築に感嘆し、手紙や、後の小説『坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と絶賛している。
実際に、頻繁に通ったという。
手紙によれば、8銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また3階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである。
小説には「住田」の温泉として登場する。
これにあやかり、本館は「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。
1階の男湯浴室内には、『坊つちやん』の主人公が湯船で泳いで注意の張り紙をされたことにちなんだ「坊っちゃん泳ぐべからず」の札が掲げられている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
道後温泉本館内の坊ちゃんの間の板の間におられます。
腕を組んだ着物姿で、大きな目が特徴的です。

夏目2 IMG_2108 (1)

夏目 漱石 4

夏目1 IMG_1876 (2)

夏目1 IMG_1876 (1)
夏目 漱石 像 4
(愛媛県 松山市 末広町 正宗寺境内)

撮影日:2013年3月20日
分 類:文学者
作 者:阿部 誠一
評 価:☆☆☆

[感  想]
子規堂の向かいの広場で、坊ちゃん列車の前におられます。
髭が特徴的な首から上の像で、若い頃松山で教鞭をとっていた頃の姿だと思われます。

夏目1 IMG_1876 (4)

夏目1 IMG_1876 (3)

夏目 漱石 3
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夏目 漱石 像 3
(熊本県 阿蘇市 内牧 山王閣)

撮影日:2011年8月8日
建設年:平成7年
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

夏目漱石
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感 想]
ホテル山王閣の中庭におられます。
閲覧は自由にできます。
良く目にする肖像と似た感じで、手を頭に当てた像です。
ちょっと眠そうな目と髭が特徴的です。
結構な大きさで、バックの阿蘇山とよくマッチしています。


IMG_7972.jpg

夏目 漱石 2
IMG_3298.jpg


IMG_3304.jpg
夏目 漱石 像 2
(東京都 早稲田 漱石公園内)

撮影日:2007年6月20日
建設年:平成3年
分 類:文学者
作 者:富永直樹
評 価:☆☆☆

◆明治時代から大正初期にかけて活躍した小説家・英文学者です。
江戸・牛込(現在の新宿区喜久井町)の生まれで、帝国大学(後の東京帝国大学)英文科を卒業後、教員生活を経てイギリスへ留学。
帰国後は東京帝大講師を務めるかたわら、本格的な執筆活動を開始しました。
『我輩は猫である』で注目を集め、以後『坊ちゃん』『三四郎』など、現在もなお愛される小説の数々を執筆。
明治期を代表する文豪の一人です。
朝日新聞に連載された長編小説『明暗』が最後の作品(連載188回で絶筆・未完)となりました。
1984年から20年間発行された千円札に肖像が使用されたことは記憶に新しいところです。
銅像は、地下鉄東西線「早稲田」駅から10分ほど歩いた場所にある「新宿区立漱石公園」の入り口にあります。
夏目漱石が終焉までの10年間を過ごした場所で、現在は公園として整備され、園内には『我輩は猫である』のモデルとなった初代飼い猫の13回忌に建てられた猫塚(現在のものは再建された二代目で猫のほか鳥や犬も供養)もあります。
銅像は彫刻家・富永直樹製作の胸像で、平成3年(1991)に除幕。
お札の肖像などでもお馴染みの背広姿で、台座には漱石自筆の俳句も刻まれています。
このほかに英語教師として4年余りを過ごした熊本市にも立像があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

千円
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
銅像のある公園は、早稲田の住宅街の中にひっそりとあります。
ランニングでかなり探しました。
像は、ちょと前の千円札でおなじみの顔です。

夏目 漱石 1
NATUMESOUSEKI.jpg
夏目 漱石 像 1
(熊本県 熊本市 上熊本駅前)

撮影日:2006年10月20日
分 類:文学者
評 価:☆☆☆

夏目漱石1

夏目漱石2
「近代日本人の肖像ホームページ」から

夏目 漱石(なつめ そうせき)
(1867年-1916年)
明治-大正時代の小説家,英文学者

慶応3年1月5日生まれ。
松山中学,第五高等学校で英語教師をつとめ,明治33年文部省留学生としてイギリスに留学。
36年母校東京帝大の講師となり「文学論」「十八世紀英文学論」を講じる。
38年「ホトトギス」に発表した「吾輩は猫である」が好評を得,40年東京朝日新聞社に専属作家としてむかえられ,近代日本の知識人の自我をめぐる葛藤(かっとう)をえがいた作品をあらわす。
正岡子規とまじわり,俳句や漢詩にしたしむ。
門下には寺田寅彦,森田草平ら多数。
大正5年12月9日死去。50歳。江戸出身。
本名は金之助。
作品に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草(ぐびじんそう)」「三四郎」「それから」「門」「こゝろ」「明暗」など。
【格言など】則天去私(晩年のことば)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「漱石」の名前の由来
漱石の名は、『世説新語』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いことの例えである。尚、「漱石」は当初、親友の正岡子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、夏目は正岡からこれを譲り受けている。

◎漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。

◎精神医学上の研究対象
漱石は、生前に神経衰弱やうつ病を患っているが、このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対して如何に影響を及ぼしているのかが、精神医学者の格好の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。

◎神格化
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、後の多くの批評家、研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、広辞苑にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残した訳ではなく、漱石の発言を弟子達が書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない(人が生きるうえでの指針のように捉える説と、創作上の態度と捉える説などがある)。故人を神格化し、権威を与えるように使われてきた語だとする説もある。

◎言葉遊び
夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字等言葉遊びの多用が見られる。例「単簡」(簡単)、「笑談」(冗談)、「八釜しい」(やかましい)、「非道い」(ひどい)、「浪漫」(ロマン)、「沢山」(たくさん)、「流石」(さすが)等。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもある。

◎ある学生の死
第一高等学校の講師だった頃、ある日の授業で学生の藤村操が遅刻したので、漱石は彼を叱責した。
数日後、藤村は華厳の滝に身を投げて自殺した。
彼が日本初のノイローゼによる自殺者とされている。(ただし諸説あり)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

◎移築の駅舎に漱石しのぶ
1896年4月、旧制第五高等学校(現熊本大学)の英語講師として熊本市にやってきた夏目漱石は、上熊本駅(旧名池田停車場)に降り立った。漱石の熊本生活は4年3カ月。この間、結婚して、長女が誕生している。
当時の面影が今も残っていると聞き、上熊本駅に向かった。といっても、JR上熊本駅の駅舎ではなく、すぐ隣にある熊本市電の電停「上熊本駅前」のそれ。近くには漱石の銅像も立っている。
1913年の建築。漱石が降りた時から17年後に建てられたが、屋根に朱色の飾りが施され、当時の趣は伝わってくる。ただ、駅舎は完全な建物ではなく、電停ホームの上屋でしかない。壁と屋根にだけ、当時の駅舎の部材が用いられている。
漱石が「森の都」と呼んで愛した熊本の街並み。九州新幹線の開業を控え、新たな姿に変わりつつあるが、古き良き光景もしっかりと残されている。
(熊本総局・新志有裕)
20061220kyud0.jpg
西日本新聞ホームページから抜粋


[感  想]
実はこの夏目漱石銅は、銅像コレクションの記念すべき第1号です。
熊本市へ出張に来ていて、仕事が終わって夕方走っていると、上熊本駅前に夏目漱石がいるではありませんか。
記念に写真を撮っておこうと思って撮ったのが、はじまりでした。
銅像は、等身大の大きさで、熊本にいた頃の夏目漱石らしく若い感じです。

野村 望東尼 2
IMG_9745.jpg

IMG_9746.jpg

IMG_9743.jpg
野村 望東尼 像 2
(福岡県 福岡市 中央区 平尾 平尾山荘公園)

撮影日:2011年11月20日
建設年:昭和43年
分 類:歌人
作 者:原田新八郎
評 価:☆☆☆

「平尾山荘」
歌人野村望東尼(俗名モト)が、夫と一緒に世間から離れ、ひっそりと暮らした山荘。
安政6年(1859年)、54歳のときに夫を亡くしたモトは尼となり、 この頃から大政奉還や討幕運動に沸く幕末の状況に心を痛めつつ、 天皇への忠義を誓う「勤皇の志」を燃やすようになります。
当時、山荘には高杉晋作、平野國臣ら藩内外の志士がひそかに集まるようになり、 望東尼は彼らを必死にかくまい、励ましたといいます。
「平尾山荘」の案内板より

[感  想]
福岡の平井山荘公園におられます。
防府天満宮にある1の像と比べるとリアルな感じの像です。

銅像の台座の裏に短歌があります。
IMG_9748.jpg
うき雲の かかるもよしや もののふの 
大和心の かずにいりなば

野村 望東尼 1
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IMG_5314.jpg
野村 望東尼 像
(山口県 防府市 防府天満宮)

撮影日:2007年8月9日
分 類:歌人
評 価:☆☆☆

野村 望東尼
「防府WEB歴史館ホームページ」から

野村 望東尼(のむら もとに)
(1806年-1867年)
江戸時代後期の歌人

文化3年9月6日生まれ。
筑前福岡藩士の夫とともに大隈言道に入門。
夫の死後出家,平野国臣ら尊攘運動家と交流し,高杉晋作らをかくまう。
慶応元年姫島に流刑となったが,翌年救出され長州にうつった。
慶応3年11月6日死去。62歳。
筑前出身。本姓は浦野。名はもと。別号に招月,向陵。
家集に「向陵集」。
【格言など】独居てつくづくきけば昼まより音に鳴虫もあまたありけり(「もとのしづく」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎高杉晋作辞世の句
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病床の高杉が
「面白きこともなきよを面白く」 
と、上の句を詠んで、望東尼に下の句を続けよという。
望東尼が
「すみなすものは心なりけり」 
と、続けると、高杉は「面白いのう」と言って笑ったという。

面白いことのない世の中を面白くするにはどうしたら
いいのだろうかという高杉の問いかけに
望東尼は、四囲の状況がどうあるかということではなく、
自分がどう思うかである、それは心のおきどころ次第で
あると答えた。
高杉晋作は慶応3年4月14日、29歳で亡くなった。
(ホームページ野村ひとすじの道から抜粋)

[感 想]
防府天満宮の敷地に歌碑が二つとこの銅像があります。
血気盛んな勤王の志士たちが母のように慕う女性だったようです。
「面白きこともなきよを面白く すみなすものは心なりけり」
何事もこころの持ちようです! 
いい歌です。

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森 鴎外 2
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森 鴎外 像 2
(島根県 津和野町 町田 森鴎外記念館)

撮影日:2011年7月15日
建設年:大正3年(平成6年建立)
分 類:小説家
作 者:武石 弘三郎
評 価:☆☆☆

[感  想]
津和野町の森鴎外記念館の前庭におられます。
軍服を着て、ちょっと横を向いたキリリとした姿が印象的です。

森 鴎外 1
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森 鴎外 像 1
(福岡県 北九州市小倉北区鍛冶町 森鴎外旧居)

撮影日:2010年3月28日
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

森外
「近代日本人の肖像ホームページ」から

森 鴎外
森鷗外(1911年)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

森 鴎外 (もり おうがい)
(1862年-1922年)
明治-大正時代の軍人,小説家

文久2年1月19日生まれ。東京大学卒業後,軍医となり,ドイツに留学。
陸軍軍医学校教官などをへて明治40年陸軍軍医総監。
衛生の向上につくす。
公務のかたわら明治23年「舞姫」を発表して文壇に登場。
最盛期の42年から大正5年にかけて「ヰタ・セクスアリス」「青年」「妄想」「雁(がん)」や歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」,史伝「渋江抽斎」などを執筆。
また原作以上と評された「即興詩人」の翻訳や,評論,歴史研究など活動は多岐にわたり,数おおくの業績をのこした。大正11年7月9日死去。61歳。石見(島根県)出身。
本名は林太郎。別号に観潮楼主人。
【格言など】余は石見人森林太郎として死せんと欲す(遺言)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていた。
あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。

◎軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた。
あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。
日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのである。
鴎外を見つめていた子供たちの一人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげるのを聞いて、子供がそのようなことを知っているので感心した。

◎酒は飲めず、大の甘党だった。
あんパンや「消毒してあって、滋養に富んでいる」焼き芋が好物であった。
娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭も茶漬けにして食べていたという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

「森鴎外旧居」
明治の文豪、森鴎外が陸軍第12師団軍医部長として小倉に勤務したおり居住した家。
軍務のかたわら、この家で後に名訳といわれたアンデルセンの「即興詩人」やクラウゼヴィッツの「戦論」などを翻訳し、「我をして九州の富人たらしめば」「鴎外漁史とは誰ぞ」などを発表した。
座敷から望む表庭に植えられている夾竹桃と白の百日紅は当時からのもの。
小説「鶏」に「北向の表庭は百日紅の疎な葉越に、日が一ぱいにさして、夾竹桃にはもうところどころ花が咲いてゐる」と夏の表庭が描写されている。
「福岡県観光情報」から

[感  想]
1899年から1902年まで鴎外は、小倉に住んでいました。
森鴎外旧居の庭におられます。
髭面がりりしい上半身の像です。


小泉 八雲 2
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小泉 八雲 像 2
(東京都 新宿区 大久保 小泉八雲記念公園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:平成5年  
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

◆銅像は、終焉の地となった新宿区大久保にある新宿区立の「小泉八雲記念公園」の中にあります。
この公園は、小泉八雲の出身地であるギリシャ・レフカダ島(島の名がラフカディオというミドルネームの由来となった)と新宿区が友好都市提携を締結したのを記念して建設が決定、平成5年(1993)に開園されました。
銅像は、ギリシャ政府から贈られた胸像で、台座には、日本とギリシャの文化への想いを英語・ギリシャ語・日本語で記したパネルが埋め込まれています。
園内には像のほか、出身地のレフカダ島を模したモザイクのパネルや花壇を配したギリシャ風の集会所を模したスペースがあります。
銅像もさることながら、公園内の隅々に“ギリシャ・レフカダ”が配されている点も見どころです。「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
松江にある像と同じものと思われます。
八雲が住んだ松江と新宿にそれぞれギリシャ政府から贈られたのではないかと思います。
台座には違いがみられます。

小泉 八雲 1
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小泉 八雲 像 1
(島根県 松江市 奥谷町 小泉八雲記念館前)

撮影日:2010年8月10日
建設年:平成2年  
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

小泉八雲
小泉八雲(1889年頃)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

小泉 八雲(こいずみ やくも)
(1850年-1904年)
随筆家,英文学者

1850年6月27日ギリシャ生まれ。
明治23年(1890)来日,松江中学の英語教師となる。
小泉節子と結婚,29年イギリス国籍から日本国籍になる。
当時の日本を「知られざる日本の面影」などで世界に紹介。
五高,東京帝大や東京専門学校(現早大)でおしえ,上田敏(びん),厨川(くりやがわ)白村らをそだてた。
明治37年9月26日死去。55歳。
旧名はラフカディオ=ハーン(Lafcadio Hearn)。著作に「怪談」「詩論」など。
【格言など】太陽も月も……空間も時間も――すべては現われては消え行くまぼろしである。ただ,そのまぼろしを作り出すもののみが永遠に存在する(「露のひとしずく」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。

◎もともと強度の近視であったが、さらに晩年は右目の視力も衰え、高さが98センチもある机を使用して紙を目に近づけランプの光を明るくして執筆を行った。

◎アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある。
句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。

◎東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。
川田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。
後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の夏目漱石についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。

◎非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、あとに残った妻に毎日書き送った手紙が数多く残されている。
ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、それらは夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉で書かれている。
妻セツは日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞かせるため、普段からそれらの資料収集につとめた。彼女以外の家族・使用人・近隣住民、また旅先で出会った人々の話を題材にした作品も多い。

◎八雲生誕の、ギリシャのレフカダ島の詩人公園には、日本の松江と新宿から贈られた八雲の像がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
小泉八雲記念館玄関前の川沿いにおられます。
髭と大きな目が特徴的で、河面を見つめているようです。

水木 しげる 5
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水木 しげる 像 5
(鳥取県 境港市 水木しげる記念館前)

撮影日:2010年8月11日
分 類:漫画家
評 価:☆☆☆

「のんのんばあとオレ(水木しげる)」
のんのんばあとは境港の方言で信心深いおばあさんという意味。水木しげる先生が幼少の頃から子守をしてもらっていたおばあさんで、水木少年に大きな影響を与えた。妖怪やお化け、地獄の話を日常の中で教えてくれ、水木漫画の原点にもなった人。
「境港市観光ガイド」から

[感  想]
少年時代の水木しげるの像。
のんのんばあが妖怪みたいですが…

水木 しげる 4
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水木 しげる 像 4
(鳥取県 境港市 水木しげる記念館前)

撮影日:2010年8月11日
分 類:漫画家
評 価:☆☆☆

「山高帽の水木先生」
山高帽にモーニング姿の水木先生の像は、1991年に紫綬褒章を授与された時をモチーフにしており、胸には勲章、肩には目玉おやじが乗っている。
水木しげる記念館の前庭に設置され、右側台座についているハンドルを回すと「ぐるぐるガイド木札」を挿すと水木しげる記念館の案内音声ガイドと水木先生の声が聞けるようになっている。
「境港市観光ガイド」から

[感  想]
正装の水木しげるの像。
肩に載った目玉おやじがいいです。

水木 しげる 3
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水木 しげる 像 3
(鳥取県 境港市 水木ロードポケットパーク)

撮影日:2010年8月11日
建設年:平成21年  
分 類:漫画家
評 価:☆☆☆

「水木しげる氏顕彰像」
水木しげる先生の功績を讃え、平成21年3月8日87歳のお誕生日に建立された顕彰像です。
石碑には先生の名言「なまけものになりなさい」が刻まれています。
「境港市観光ガイド」から

[感  想]
石をくり抜いた中の像。
石碑の「なまけものになりなさい」という言葉がいいです。

水木 しげる 2
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水木 しげる 像 2
(鳥取県 境港市 水木しげるロード)

撮影日:2010年8月11日
建設年:平成22年  
分 類:漫画家
評 価:☆☆☆

水木しげる

「水木しげる夫妻」
NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」の放送を祝し、水木しげる先生平成22年3月8日の88歳の御誕生日にJR境港駅前に建立された像です。
像の後にある石碑には 「人生は・・・終わりよければ、すべて よし!」と刻まれています。
「境港市観光ガイド」から

[感  想]
水木しげる夫婦の仲睦まじい姿の銅像です。

水木しげる 1
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水木しげる 像 1
(鳥取県 境港市 JR境港駅前)

水木しげる(みずき しげる)
(1922-)
漫画家

撮影日:2010年8月11日
分 類:漫画家
評 価:☆☆☆

大正11年3月8日生まれ。
復員後,紙芝居をかき,昭和32年貸本漫画の「ロケットマン」でデビュー。
40年「テレビくん」で講談社児童まんが賞。
「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」などで人気作家となる。
自分の体験をふまえた戦記物もおおい。
平成10年児童文化功労賞。
19年「Non Non Ba(のんのんばあとオレ)」がフランス国際漫画大賞。
21年朝日賞。鳥取県出身。武蔵野美術学校(現武蔵野美大)中退。
本名は武良(むら)茂。著作に「妖怪事典」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

水木しげるロード(みずきしげるロード)
日本の鳥取県境港市にある商店街の名称。
漫画家・水木しげるが描く妖怪の世界観をテーマとした観光名所である。
境港駅から本町アーケードまでの全長約800メートルの間に、水木の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターを中心として日本各地の妖怪たちをモチーフとした銅像が設置されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

「水木しげる先生執筆中」
これは、水木先生が30~40代の頃をモチーフにした執筆中の像。
机の周りには、次はどんな妖怪が出てくるのか気になるようすの鬼太郎。
「自分の出番をもっと増やして」と、せがむねずみ男。
そして、そんなやりとりを見守る目玉おやじが楽しそうに再現されている。
目には見えないが、先生の周りにはもっと多くの妖怪たちが自分の出番を待っているのかも知れない。
「境港市観光ガイド」から

[感  想]
NHK朝の連続ドラマ『ゲゲゲの女房』の影響で、平日にかかわらず朝から水木しげるロードは、たくさんの人でした。
1番目の水木しげるは、駅のすぐそばに有り、水木しげるロードで1番最初の像です。
30~40代の頃の像で、鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ男と主要な妖怪が脇を固めています。

林 芙美子
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林 芙美子 像
(広島県 尾道市 東御所町)

林 芙美子 (はやし ふみこ)
(1903年-1951年)
昭和時代の小説家

撮影日:2010年5月28日
建設年:昭和59年  
分 類:文化人
作 者:高橋秀幸
評 価:☆☆☆☆

林2
林芙美子肖像(提供:新宿歴史博物館)
山口県ホームページ「ふるさとの文学者63人」から

明治36年12月31日生まれ。
行商人の子として貧しさのなかで各地を転々とする。
大正11年上京,種々の職業につきながらアナーキストの詩人や作家の影響をうける。
昭和5年刊行の自伝的小説「放浪記」がベストセラーとなった。
昭和26年6月28日死去。47歳。
山口県出身。
尾道高女卒。本名はフミコ。
作品はほかに「風琴と魚の町」「晩菊」「浮雲」など。
【格言など】花のいのちは短くて,苦しきことのみ多かりき(「放浪記」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
林芙美子は、小学校から高校までを尾道市で過ごしました。
この像は、尾道駅の東、商店街アーケード入り口にあります。
像の前に「放浪記」の一節が書かれています。
「海が見える 海が見えた 五年振りに見る尾道の海は懐かしい」
久しぶりに尾道に帰ってきた時の感じが良く表されている像です。

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近松 門左衛門
2008.2~3 006

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近松 門左衛門 像
(山口県 長門市 東深川 赤崎山スポーツ公園)

近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん)
(1653年-1725年)
江戸時代前期-中期の浄瑠璃・歌舞伎作者。

撮影日:2009年1月29日
建設年:平成8年
分 類:歌舞伎作者
作 者:谷内 健
評 価:☆☆☆

承応2年生まれ。
京都の宇治加賀掾のもとで修業。
竹本義太夫とくみ貞享2年「出世景清」で名声を博す。
歌舞伎では坂田藤十郎と提携し、「傾城仏の原」などの狂言をかく。
元禄16年竹本義太夫のためにかいた「曾根崎心中」で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年大坂竹本座の座付作者となった。
享保9年11月22日死去。72歳。
越前(福井県)出身。
代表作はほかに「国性爺合戦」「心中天網島」「女殺油地獄」など。
【格言など】虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰がある(穂積以貫「難波土産」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
長門市東深川は、近松門左衛門出生の伝承があります。
筆を持って物語を考えているようです。
近くに石舞台もあります。

石川 啄木
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石川 啄木 像
(北海道 札幌市 大通公園)

石川 啄木(いしかわ たくぼく)
(1886年-1912年(明治45年))
明治時代の歌人・詩人

撮影日:2008年10月28日
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

石川 啄木
石川啄木
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治19年2月20日生まれ。
石川節子の夫。
詩集「あこがれ」で将来を期待されるが、生活のため郷里の岩手県渋民村の代用教員や北海道の地方新聞の記者となる。
のち東京朝日新聞の校正係の職につき、歌集「一握の砂」を刊行、近代短歌に新領域をひらいた。
大逆事件で社会主義に目ざめるが、明治45年4月13日貧窮のうちに結核で死去。27歳。
死後歌集「悲しき玩具」が出版された。
盛岡中学中退。
評論に「時代閉塞の現状」など。
【格言など】東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる(「一握の砂」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
札幌の大通公園におられます。
北海道の地方新聞の記者時代の姿でしょう。
若くて真面目そうな感じがします。

種田 山頭火 2
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種田 山頭火像 2
(山口県 防府市 防府駅前)

撮影日:2007年12月1日
建設年:昭和60年
分 類:俳 人
評 価:☆☆☆


[感 想]
山頭火は、防府市出身であるゆかりでここに建立されたのでしょう。
像は、多分実物大で、托鉢している姿です。
台座の句は、
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「ふるさとの水をのみ水をあび」
この句にあやかり、水をイメージした銅像の周りの造りはいい感じです。


種田 山頭火 1
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種田 山頭火 像 1
(山口県 山口市 新山口駅前)

種田 山頭火(たねだ さんとうか)
(1882年- 1940年)
大正-昭和時代前期の俳人

撮影日:2007年9月8日
分 類:俳人
作 者:吉塚 隆一
評 価:☆☆☆

種田 山頭火
種田山頭火肖像
山口県ホームページ「ふるさとの文学者63人」から

明治15年12月3日生まれ。
山口県の大地主の長男。
荻原井泉水に師事し,「層雲」に投句。
大正14年熊本の報恩寺で出家,放浪の托鉢生活のなかで独特な自由律の俳句をつくる。
のち山口県小郡に其中庵をむすぶが,遍歴をやめず昭和15年10月11日松山市一草庵で死去。59歳。
早大中退。
本名は正一。
別号に田螺公。法名は耕畝。
句集に「草木塔(そうもくとう)」など。
【格言など】歩くこと―自分の足で。作ること―自分の句を(「其中日記」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[代表句]
●鴉啼いてわたしも一人
●霧島は霧にかくれて赤とんぼ
●まつすぐな道でさみしい
●また見ることもない山が遠ざかる
●わけいってもわけいっても青い山
(出典「草木塔」「俳句検索」)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
「まったく雲がない笠をぬぎ」
この句を詠んだ姿、そのままを銅像にしています。
台座の俳句も直筆を復元して刻んでいるのがいいです。
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