ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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狩野 芳崖 2
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kaIMG_0562 (4)

kaIMG_0562 (3)
狩野 芳崖 像 2
(山口県 下関市 長府黒門東町 下関市立美術館)

撮影日:2012年12月31日
建設年:昭和年
分 類:日本画家
作 者:中村 辰治
評 価:☆☆☆

[感  想]
kaIMG_0562 (2)
下関市立美術館敷地の植え込みの中におられます。
上半身の像で、細かいところまでよく表現されています。
昭和8年に制作された古い像です。

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狩野 芳崖 1
IMG_6068.jpg

IMG_6076.jpg
狩野 芳崖 像
(山口県 下関市 長府 覚苑寺)

撮影日:2007年9月6日
建設年:昭和8年
分 類:日本画家
作 者:藤田 文蔵
評 価:☆☆☆

狩野芳崖
「近代日本人の肖像ホームページ」から

狩野 芳崖(かのう ほうがい)
(1828年-1888年)
幕末-明治時代の日本画家

文政11年1月13日生まれ。
弘化3年江戸にでて狩野養信,狩野雅信に師事。
明治17年フェノロサの主宰する鑑画会に参加。
以後,フェノロサや岡倉天心と協力して日本画の近代化運動に力をそそいだ。
東京美術学校(現東京芸大)の設立にも尽力。
明治21年11月5日死去。61歳。
長門(山口県)出身。
名は延信。字(あざな)は貫甫。別号に皐隣,松隣。
作品に「悲母観音」「不動明王」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。
由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。
日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。
フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。
この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。
芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。
墓所は東京谷中の長安寺。
芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[代表作品]
hibokanons.jpg
「悲母観音」の記念切手
●「悲母観音」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)一面絹本著色 1888年

不動明王 狩野
●「不動明王」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)1887年
原図はフリーア美術館が所蔵している
「東京藝術大学美術館ホームページ」から

[感  想]
絵筆と紙をを持って座っている姿は、堂々として立派です。
命をかけて描いた、「悲母観音」は素晴らしいものです。


黒田 清輝 2
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IMG_0516.jpg

IMG_0518.jpg
黒田 清輝 像 2
(鹿児島県 鹿児島市 東千石町)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:画家
評 価:☆☆☆

[感  想]
帽子を被り、画板を手に持って、弟子と共に桜島を描きにいこうとしている姿です。
髭を生やした顔が特徴的です。

黒田 清輝
黒田1

黒田2

黒田3
黒田 清輝 像
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和61年
分 類:画家
作 者:伊藤 傀
評 価:☆☆☆

黒田清輝1

黒田清輝2
「近代日本人の肖像」から

黒田 清輝(くろだ せいき)
(1866年-1924年)
明治-大正時代の洋画家

慶応2年6月29日生まれ。
伯父黒田清綱の養子。
明治17年法律研究のためフランスに留学。
ラファエル=コランにまなび、画家を志望。
帰国後の29年久米桂一郎らと白馬会を結成。
外光派とよばれるあかるい画風は洋画界の主流となった。
31年東京美術学校教授、のち帝国美術院院長。貴族院議員。
大正13年7月15日死去。59歳。
薩摩(鹿児島県)出身。
本名は清輝(きよてる)。
作品に「朝妝」「舞妓」「湖畔」など。
【格言など】始終骨なし人形ばかり描いていて、いつまでも美術国だといっていられるか
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

黒田清輝筆「赤き衣を着たる女」
黒田清輝筆「赤き衣を着たる女」
黒田清輝(1866~1924)は、鹿児島藩士黒田清兼の子として生まれ、
幼くして叔父で明治政府の高官黒田清綱の養子となった。
1884年法学研究のためフランスに留学するが、1886年になると西洋の絵画に興味を示すようになり、ラファエル・コランに入門し、本格的に絵の勉強を始めた。
1893年帰国するが、明るい外光的表現の作品を発表すると日本画壇に大きな衝撃を与えた。
この作品は、1912年第6回文展に「習作」の題で出品されたもので、『黒田清輝日記』の明治45年6月3日月曜日の項に「夕刻モデルニ據リ庭前ニテ赤衣半裸體ノ習作ヲナス」とあり、さらに5日にサインを入れたとの記事から制作の様子がわかる。
「鹿児島県ホームページ」から

『湖畔』(1897年)黒田
「湖畔」
(1897年、黒田記念館、重要文化財)
モデルは友人の画家安藤仲太郎が紹介した芸者で、当時23歳の金子種子。
のちに清輝の妻となり照子と改名した。
縦69cm×横84.7cm。
描かれた地点は、箱根芦ノ湖の観光船の乗り場や箱根駅伝スタート地点のすぐ近くである。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
腕を前に組んだ恰幅のいい上半身像です。
頭と髭が特徴的です。
「湖畔」は、有名な絵ですが、モデルの女性は、後に奥さんになった人だったとは初めて知りました。

藤島 武二
藤島1

藤島2

藤島3
藤島 武二 像
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和31年
分 類:画家
作 者:本郷 新
評 価:☆☆☆

滞仏中の藤島武二
滞仏中の藤島武二
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

藤島 武二(ふじしま たけじ)
(1867年-1943年)
明治-昭和時代前期の洋画家

慶応3年9月18日生まれ。
はじめ日本画を川端玉章に、のち洋画を曾山幸彦らにまなぶ。
また黒田清輝の影響をうける。
渡欧ののち明治43年東京美術学校教授。
文展・帝展を中心に活躍した。
昭和12年文化勲章。
昭和18年3月19日死去。77歳。
薩摩(鹿児島県)出身。
作品に「黒扇」「芳蕙(ほうけい)」「耕到天」など。
【格言など】即刻アトリエを打ち壊すこと、アトリエに残っている作品は一点残らず焼却のこと(遺書)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要な画家である。
ロマン主義的な作風の作品を多く残している。


黒扇
『黒扇』(1908-1909)
ブリヂストン美術館所蔵(重要文化財)
藤島の女性像の代表作とされ、最もよく知られた作品の一つであるが、作品の評価や名声ほどには制作の状況やモデルなどの資料は残っていない。
弟子の小堀四郎の述懐では、晩年病床の藤島の代わりに小堀がアトリエを片付けていると、階段の裏に他の物が被さった下でピンで止められていたのを見つけ出したという。
藤島もこの再発見を喜び、早速枠張りしてニスを塗り直し、枕元に置いて楽しんだ。
一度は石橋正二郎に散逸するのを恐れて「黒扇」などをまとめて買い取ってもらったが、三日ほどであの絵がないと寂しくて寝られないから返してもらった、という逸話が残っている(その一年後再び石橋の手に戻る)。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

藤島武二筆「蒙古の日の出」
藤島武二筆「蒙古の日の出」
藤島武二(1867~1943)は、鹿児島藩士の子として生まれる。
幼い頃から郷土の日本画家平山東岳について四条派の絵を学ぶ。
1890年には、長年の希望であった洋画の勉強のために曽山幸彦の画塾に通い、続いて中丸精十郎、松岡寿にも学ぶ。
1893年、三重県尋常中学校の教師となるが、1896年に「白馬会」会員となり、さらに黒田清輝のすすめで東京美術学校助教授となった。
1905年から1910年にかけてフランス、イタリアに留学、新しい画風の研究を行った。
この作品は、御物の「旭日照六合」の習作の一点である。
昭和3年昭和天皇の即位を祝うため御学問所の壁を飾る作品として依頼されている。
「鹿児島県ホームページ」から

[感  想]
ギョロリとした目が印象的な像です。
『黒扇』は、記念切手にもなっていて、よく見る絵です。

和田 英作
和田1

和田2
和田 英作 像
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和63年
分 類:画家
作 者:千野 茂
評 価:☆☆☆

和田英作 画伯
「鹿児島県図書館協会ホームページ」から

和田 英作(わだ えいさく)
(1874年-1959年)
明治-昭和時代の洋画家

明治7年12月23日生まれ。
曾山幸彦、原田直次郎、黒田清輝らにまなぶ。
明治29年白馬会創立に参加。
フランス留学から帰国後、母校東京美術学校(現東京芸大)の教授となり、のち同校校長。
文展審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員。
昭和18年文化勲章。
昭和34年1月3日死去。84歳。
鹿児島県出身。
作品に「渡頭の夕暮」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

憲法発布式 和田
「憲法発布式」
明治天皇を記念する聖徳記念絵画館のために描かれた『憲法発布式』は歴史教科書でおなじみの作品。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

和田英作筆「富士(河口湖)」
和田英作筆「富士(河口湖)」
和田英作(1874~1959)は垂水市に生まれ、1879年には両親と共に上京した。
1887年明治学院に入学するが、上杉熊松について洋画の初歩を学ぶようになり、本格的に勉強するようになった。
1896年東京美術学校の助教授となるが、翌年にはこの職を辞し、改めて東京美術学校西洋画科に入学し、卒業後は教授助手となった。
1900年には文部省の留学生としてパリに赴き、ラファエル・コランの指導を受けた。
1932~36年には美術学校の校長をつとめ、1943年文化勲章を受けた。
この作品は、河口湖から見た富士山で、雪を冠した端正な富士の姿が美しい。
「鹿児島県ホームページ」から

図書館旧館のスティンドグラス(原画:和田英作
図書館旧館のスティンドグラス(原画:和田英作、源制作:小川三知、復元:大竹龍蔵)

[慶應義塾豆百科] 図書館のスティンドグラス
三田に学んだものにとって、図書館(旧館)の赤レンガの八角塔は、いつまでも学窓への限りない郷愁をかき立ててやまない。
と同時に1度でも同館の玄関に足をふみ入れたものには、1階から2階へ上る階段の正面にはめこまれた色鮮やかなスティンドグラスの存在をこれまた忘れることはあるまい。
これは設計の当初から予定されていたが、実際に完成を見たのは大正4年(1915)のことであった。
原画は和田英作、施工は小川三知であった。
高さ6.45メートル、幅2.61メートルの大作で図柄は甲冑に身を固めた武将が馬から降りて、ペンを手にした自由の女神を迎えているところで、下部にはラテン語でCalamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)の文字があり、その左右には義塾創立の年(1858)と図書館建設の計画がなされた50年記念の年(1907)とがローマ数字で記されている。
原画を描いた和田の談話によると、「図は今、封建の門扉をパッと開いて旭日燦たる光とともに、泰西文明のシンボル女神が、塾章ペンを手にして入ってくるところ、弓矢を持ったミリタリズムの表徴たる鎧武者が白馬を降りて迎えている。下方に叢生しているのは笹や茨棘で、今後泰西文明に依って開かれようとするカルチュアー少き荒野の様、女神の足下に飛び立っているのは梟で、旭日の光から遁れて暗きにさるもの、凡そ我国近代文明の暁を示す姿である。」(『三田新聞』昭和5年2月4日付)とある。
また実際の施工に当った小川も米国で修業を了えて帰国したばかりであった。
それだけに両人のこれにかけた情熱は非常なもので、当時の日本人の手になる作品としては抜群の出来栄えだといわれていた。
『慶應義塾図書館史』には「青い壁面に依る稍々薄暗いホールから階段に面するとき、この色彩眩ゆいスティンドグラスには恍惚とした崇高さにうたれ、学問の深奥にわけ入ろうとする大学図書館の入口にふさわしい雰囲気をかもした」とある。
しかし、これらはすべて戦災により焼失してしまった。
幸い図書館は戦後間もなく修築が完成したが、スティンドグラスまで手が届かずにいたところ、その昔小川の助手としてこの制作にかかわった大竹龍蔵からぜひ復元させてほしいとの申し出に接し、谷口吉郎の助言のもとにこれの復元に着手し、昭和49年11月見事にこれの完成を見たのであった。
なおこの制作に生涯をかけた大竹は完成直前に急逝し、文字通り彼の遺作となった。
「慶應義塾ホームページ」から

[感  想]
ブロンズ色の像で、眉間のしわと濃い眉毛が特徴的です。
「憲法発布式」は、よく見る絵で、「富士(河口湖)」は、美しく描かれています。

有島 生馬
有島1

有島2

IMG_0952.jpg
有島 生馬 像
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

有島 生馬

有島 生馬(ありしま いくま)
(1882年-1974年)
大正-昭和時代の洋画家、小説家

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和63年
分 類:画家
作 者:桑原 巨守
評 価:☆☆☆

明治15年11月26日生まれ。
有島武の次男。有島武郎の弟。里見弴の兄。
藤島武二に洋画をまなび、ヨーロッパに留学後「白樺」の同人となり、セザンヌを紹介した。
二科会、一水会を創立。
昭和10年帝国美術院会員、39年文化功労者。
昭和49年9月15日死去。91歳。
神奈川県出身。東京外国語学校(現東京外大)卒。
本名は壬生馬(みぶま)。
小説に「蝙蝠(こうもり)の如く」、随筆集に「美術の秋」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

有島生馬 「画室」
有島生馬筆「画室」
有島生馬(1882~1974)は、横浜市に生まれるが、父武は薩摩川内市の出身である。
兄武郎は小説家・評論家として、弟の里見とんは小説家として知られ、有島三兄弟として名高い。
1904年東京外国語学校を卒業した後、藤島武二に師事し教えを受けた。
1905年にイタリアに留学し、ローマ美術学校に入学した。
1910年帰国し、日本にはじめてポール・セザンヌを紹介したことは良く知られている。
1913年二科会の創立に参加し、1936年には一水会を創立した。
この作品は、留学中ローマからパリに移った時期に描かれたもので、手にパレットを持つ女性をモデルにし、画室の雰囲気を良く表している。
「鹿児島県ホームページ」から

[感  想]
小説家の有島武郎の弟です。
坊主頭が特徴の像で、所々に緑青が出ています。

海老原 喜之助
海老原1

海老原2

IMG_0951.jpg
海老原 喜之助 像
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和63年
分 類:画家
作 者:細野 稔人
評 価:☆☆☆

海老原 喜之助
「児玉美術館ホームページ」から

海老原 喜之助(えびはら きのすけ)
(1904年-1970年)
昭和時代の洋画家

明治37年9月13日生まれ。
川端画学校にまなび、大正12年渡仏し藤田嗣治に師事。
帰国後、昭和10年独立美術協会の会員となる。
34年日本国際美術展で「蝶」が最優秀賞になるなど、数おおくの賞を受賞。
戦後の具象絵画をリードした。
昭和45年9月19日パリで死去。66歳。
鹿児島県出身。
作品はほかに「姉妹ねむる」「殉教者」「船を造る人」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフにした作品を数多く制作した。

◎海老原は画家を志したころから晩年まで、藤田嗣治を師と仰いだが、海老原の作品には藤田との直接的な類似点はみられず、むしろアンリ・ルソーなどからの影響が感じられる。

◎19歳のときパリへ留学したが、そのころから、海老原のトレードマークとなる青を基調とした作品を数多く描いた。
この傾向は晩年に至るまで続いたが、戦後に描かれた作品では、パリ時代のものと比べてより原色に近い鮮やかな青を用いている。
これは、パリ時代に描かれた雪景の青と、戦後の作品に見られる鮮やかな青を比較してみると判別できる。
また、海老原は馬好きとしても知られ、最晩年まで終生馬をモチーフにした作品を描き続けた。

◎戦後は、1959年の『蝶』などにみられるとおり、多くの色彩をモザイク状に配置するなど、抽象的な画面構成を用いるようになり、晩年には、より単純化された空間構成と色彩の配置による表現を試みている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

海老原喜之助 船を作る
「船を造る人」

曲馬 海老原
「曲馬」
1935年 熊本県立美術館蔵

[感  想]
葉巻を右手に持った上半身像で、
細かい表情がよく分かる像です。
エビハラ・ブルーは、きれいな色のようです。

東郷 青児
青郷1

青郷2

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東郷 青児 像
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

撮影日:2012年11月18日
分 類:画家
作 者:西 常雄
評 価:☆☆☆

東郷 青児(とうごう せいじ)
(1897年-1978年)
大正-昭和時代の洋画家

明治30年4月28日生まれ。
有島生馬にまなぶ。
フランスに留学し、昭和6年二科会会員。
戦後は二科会再建の中心となり、36-53年会長。
32年壁画「創生の歌」で芸術院賞。
幻想的で詩情ゆたかな女性像をえがいた。
芸術院会員。
昭和53年4月25日死去。80歳。
文化功労者を追贈された。
鹿児島県出身。青山学院中学部卒。
本名は鉄春。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

東郷 創生の歌
「創生の歌」

[感  想]
長島美術館の玄関横には、鹿児島にゆかりのある6人の画家の銅像が並んでいます。
向かって一番左の像です。
腕を組んで、右手に木炭を持った姿は、絵を描いている様子だと思われます。
「創生の歌」は、よく見る女性の絵です。

雪 舟 4
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雪舟 像 4
(島根県 益田市 乙吉町 雪舟の郷記念館裏)

撮影日:2011年10月16日
建設年:平成2年
分 類:水墨画家
作 者:山名常人
評 価:☆☆☆

雪舟の郷記念館の中に高村光雲作の雪舟座像があります。
カメラ撮影禁止のため、記念館のホームページから抜粋
雪舟像
高村 光雲 作
昭和2年(1927)
木彫(桂)
32.2×24.0×35.0㎝
市指定文化財

この雪舟像は、雪舟425回忌に際して、当時の東京美術学校長正木直彦氏が高村光雲に制作を依頼し、寄贈したもの。 
雪舟の自画像をもとに制作され、シャープでしかもしなやかな衣文線は光雲作の他の仏像と共通する特徴である。
明治末から大正、昭和初期にかけて空前の雪舟ブームが巻き起こり、全国的に雪舟の遺跡保存運動が起こった。
雪舟終焉地益田でも大正7年「雪舟終焉地保存会」を立ち上げて、荒廃していた大喜庵、雪舟の墓などの保存整備に取りかかった。
この運動は全国的な募金活動へと発展し、保存会の会長は平山成信男爵、副会長に正木東京美術学校長が就任し雪舟終焉地遺跡保存に力を尽くした。
現在の大喜庵、大喜庵参道、雪舟の墓などは、その当時復元整備されたものである。
この雪舟像は昭和4年執り行われた雪舟没後425回忌の折に修復が終わった大喜庵本堂に収められた。

[感  想]
雪舟の郷記念館の裏におられます。
ちょっと分かりにくい所です。
これまでの雪舟像3つは、いずれも上半身の像でしたが、
これは全身像で、袈裟と帽子が印象的な像です。
記念館にある高村光雲の木像を基に作られたそうです。

雪 舟 3
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IMG_9217.jpg

IMG_9222.jpg
雪舟 像 3
(島根県 益田市 東町 万福寺)

撮影日:2011年10月16日
建設年:昭和40年
分 類:水墨画家
評 価:☆☆☆

「益田と雪舟の関わり」
画聖雪舟等楊は、室町中期の頃、備中に生まれ、近くの宝福寺に 小僧にやられたと伝えられます。
青年期に京にのぼり、相国寺の 禅僧として修行に励み、寛正二年(1461)に大内氏に招かれて 山口を訪問、その後遣明船に便乗して中国に渡り、中国の景色や 画法について学び続けました。
雪舟は、中国に滞在中、寧波にある禅宗の古刹・天童寺から「天童山第一座」という最高位の栄誉を贈られています。
天童寺で修行した日本人は臨済宗の開祖栄西や曹洞宗の開祖道元などたくさんいましたが、「第一座」の栄誉を授かったのは雪舟唯一人だといわれています。
帰国後、戦乱を避けて九州、さらに山口に渡り、その後益田七尾 城主兼堯の招きにより宗観寺(現在の医光寺)の五代住職となりました。
兼堯の死後、周防の雲谷庵に帰り、その後再び益田を訪れ ています。
そして益田の東光寺(現在の大喜庵)に入って晩年を過ごし、永正三年(1506)87歳の生涯を閉じたと伝えられています 。
雪舟は益田滞在中に、萬福寺、医光寺の両寺に心の庭を築き、さらに「益田兼堯像」「花鳥図屏風」などの名作を描いています。
雪舟《四季花鳥図屏風》(右隻)京都国立博物館蔵
雪舟《四季花鳥図屏風》(右隻)京都国立博物館蔵
「益田市ホームページ」から

[感  想]
雪舟作の庭がある萬福寺の前におられます。
上半身の像は、山口の瑠璃光寺にある雪舟1とよく似ています。

雪 舟 2
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雪 舟 像 2
(山口市 常栄寺 雪舟庭)

撮影日:2007年6月10日
分 類:水墨画家
評 価:☆☆☆

[感 想]
こちらの雪舟像は、雪舟庭のある常栄寺の門のすぐ横にあります。
同一人物で、違う銅像の初コレクションです。
格好は一緒ですが、表情が微妙に違います。
同じ人物の像を比較するのもおもしろいです。

雪 舟 1
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雪舟 像1
(山口県 山口市 香山町 瑠璃光寺)

撮影日:2007年6月10日
分 類:水墨画家
評 価:☆☆☆

220px-Portrait_of_Sesshu.jpg
雪舟自画像(模本) 重要文化財 藤田美術館
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

雪舟(せっしゅう)
(1420年- 1506年)
室町-戦国時代の画家
画聖とも称えられる

応永27年生まれ。
出家して京都相国寺にはいり,画を周文にまなんだ。
40歳すぎ,大内氏の周防山口にうつり雲谷庵をひらく。
応仁元年明(中国)にわたり,2年後に帰国。独自の山水画を追究し,日本の水墨画を大成した。
永正3年死去。87歳。
備中(岡山県)出身。俗姓は小田。
作品に「秋冬山水図」「山水長巻」「破墨山水図」「慧可断臂図」「天橋立図」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

日本の水墨画を一変させた。
備中国に生まれ、京都・相国寺に入ってから周防国に移る。
その後遣明使に随行して中国(明)に渡って中国の水墨画を学んだ。
作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画や花鳥画もよくした。
大胆な構図と力強い筆線は非常に個性的な画風を作り出している。
現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。
このため、花鳥図屏風などに「伝雪舟筆」される作品は大変多い。
真筆であるか専門家の間でも意見の分かれるものも多々ある。

雪舟 山水
秋冬山水図(冬景図)

雪舟 天橋立
天橋立図

[エピソード]
◎涙で描いた鼠
雪舟についてこんな伝説が残っている。
「宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。
しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。」
これは雪舟について最もよく知られた話であると思われる。
初出は江戸時代に狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)である。

◎雪舟は外国の切手に描かれた最初の日本人である。
昭和31年(1956年)に開かれた世界平和会議で世界平和文化人として日本から選ばれたのが雪舟だった。それを記念してソビエト連邦とルーマニアで切手が発行された。
切手
上:ルーマニアの切手
下:ロシアの切手 「益田市ホームページ」から

◎山口市の雲谷庵跡には庵が復元されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
五重の塔で有名な山口市瑠璃光寺の池の近くにおられます。
上半身の銅像ですが、帽子をかぶった姿が、雪舟のイメージにピッタリです。

IMG_1976.JPG

小林 和作 2
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小林 和作 像 2 
(山口県 山口市 秋穂東)

撮影日:2011年8月1日
建設年:平成13年
分 類:画家
作 者:吉塚 隆一
評 価:☆☆☆

[感  想]
尾道市に銅像のある小林和作。
生まれ故郷の秋穂にも銅像がありました。
道路沿いの一画が、ポケットパークのように整備されおり、手入れも行き届いています。
ソテツの前の上半身の像は、尾道に移住する前の若いころの姿だと思われます。
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和作書「天地豊麗」

小林 和作 1
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小林 和作 像 1
(広島県 尾道市 千光寺公園 尾道市立美術館前)

撮影日:2010年5月28日
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

小林 和作
「おもしろ山口学」から

小林 和作絵
自画像

小林 和作(こばやし わさく)
(1888年-1974年)
大正-昭和時代の洋画家

明治21年8月14日生まれ。
日本画で文展に入選するが,大正7年洋画に転じ,梅原竜三郎らにまなぶ。
昭和2年春陽会会員。翌年渡欧。
9年独立美術協会にはいる。
広島県尾道に転居し,風景画をえがいた。
昭和49年11月4日死去。86歳。
山口県出身。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。
作品に「海」「春の山」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。
大正7年、日本画から洋画に転向し、
大正9年(1920年)鹿子木孟郎の画塾に通う。
翌年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。
昭和9年春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、広島県尾道市に移り住む。
以後亡くなるまで40年間尾道にあって創作活動を続ける一方、地方美術界に於いて指導的役割を果たす。
尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。

◎広島に原爆が投下された昭和20年(1945年)8月6日には、訪れていた郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車。
その15分後に原爆が投下され汽車が緊急停車し、被爆の難を逃れている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
山口県の旧秋穂町出身です。
スケッチブックと筆を持ち遠くを眺める立ち姿が印象的です。

平櫛 田中
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平櫛 田中 像
(東京都 小平市 小平市役所)

撮影日:2010年12月15日
建設年:昭和55年
分 類:文化人
作 者:濱田 泰三
評 価:☆☆☆

平櫛 田中
「小平市 平櫛田中 彫刻美術館ホームページ」から

平櫛 田中(ひらくし でんちゅう)
(1872年1979年)
明治-昭和時代の彫刻家

明治5年1月15日生まれ。
30年上京して高村光雲にまなぶ。
40年日本彫刻会を結成,同会展の出品作で岡倉天心にみとめられた。
日本美術院再興につくす。
昭和19年東京美術学校(現東京芸大)教授。
彩色木彫作品がおおい。37年文化勲章。
昭和54年12月30日死去。107歳。
岡山県出身。
旧姓は田中。本名は倬太郎。
作品に「転生(てんしょう)」「鏡獅子(かがみじし)」など。
【格言など】六十,七十はなたれこぞう,おとこざかりは百から百から(99歳での書「不老」の添書き)

[感  想]
小平市役所の中庭におられます。
107歳の長寿には驚きです。
杖をつきながらしっかりとした姿が印象的な像です。
東京藝術大学の岡倉天心1の銅像の作者です。
国土交通大学の中に田中の詩が飾ってあります。

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北村 西望
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北村 西望 像
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:大正7年
分 類:彫刻家
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆

北村 西望(きたむら せいぼう)
(1884年-1987年)
明治-昭和時代の彫刻家

明治17年12月16日生まれ。
大正5年文展で「晩鐘」が特選となる。
10年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授。
14年帝国美術院会員。
昭和30年長崎の「平和祈念像」を完成。
33年文化勲章。
力づよい男性裸像にすぐれた。
昭和62年3月4日死去。102歳。
長崎県出身。
本名は西望(にしも)。
著作に「百歳のかたつむり」。
【格言など】たゆまざる歩みおそろしかたつむり―自分は天才ではない。
他人が五年でやることを十年かけてでもやる
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
北村西望の自刻彫像です。
彫刻家にしかできない自分の銅像ですが、自刻彫像は初めてです。
荒い感じの像で、髭が特徴的です。

平和
平和祈念像
平和祈念像は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像。
神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は原爆の恐怖を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。
被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成。
像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さは約30トンあり、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツをステンレスのボルトで縫ってある。
右手の人差し指には避雷針が設置されている。
この像の原型は、東京都武蔵野市の井の頭公園内の「北村西望彫刻館」にある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
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北村西望彫刻館の原型

田能村 竹田
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田能村 竹田
(広島県 尾道市 千光寺公園)

田能村 竹田(たのむら ちくでん)
(1777年-1835年)
江戸時代後期の画家

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成4年  
分 類:文化人
作 者:矢形 勇
評 価:☆☆☆

田能村 竹田
田能村竹田 自画像
「武蔵美術ホームページ」から

安永6年6月10日生まれ。
豊後(大分県)岡藩医の次男。
藩校由学館の頭取となる。
藩内の農民一揆の際,藩政改革の建言がいれられず隠退。
絵を谷文晁らにまなび,繊細な筆致の独自の画風を確立。
幕末文人画壇の代表的な作家。
頼山陽らと親交をもち,詩や書にもすぐれた。
天保6年8月29日死去。59歳。
作品に「亦復一楽帖」,画論に「山中人饒舌」。
【格言など】筆を用いて工(たく)みならざるを患(うれ)えず,精神の到らざるを患う(「山中人饒舌」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

田能村
月夜山水図 紙本淡彩
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
田能村竹田は、「なんでも鑑定団」でよく耳にする名前です。
本物はほとんど出ないですね…
近くに銅像がある頼山陽と親交が深かったようで、帽子をかぶり、杖をつく姿は頼山陽を訪ねてきた姿かもしれません。

岡倉 天心 2
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岡倉 天心 像 2
(福井県 福井市 大手 中央公園)

撮影日:2008年9月1日
建設年:昭和57年
分 類:画家
作 者:伊藤礼太郎
評 価:☆☆☆☆


「てん」 天高く そびえ立ちたる 天心像 
~ 福井市中央公園の岡倉天心像 ~
福井城跡に隣接する福井市中央公園の一角に岡倉天心像がある。
高さ6mにも及ぶ巨大な銅像である。
台字は、天心と親交のあった清水寺貫主(当時)の大西良慶氏によるものである(同氏は日本初の五つ子の名付け親としても有名)。
製作にあたったのは、天心の弟子である平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏に師事していた彫刻家の伊藤礼太郎氏。
製作中は他の仕事の一切を中断して全力で製作にあたる熱の入れようであった。
中央公園の天心像は意気盛んな41歳の天心をモデルとしている。
右手を袂に入れ、左手を帯上に堂々とした和服姿の天心は、まさに世界を見るようなまなざしである。
彼はこの姿でアメリカのニューヨークを胸を張って闊歩(かっぽ)したのである。
ホームページ「福井県と岡倉天心」から

[感 想]
堂々とした巨大な像は、風格が有ります!
1とは違った良い雰囲気を醸し出しています。

岡倉 天心 1
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岡倉 天心 像 1
(東京都 台東区 東京藝術大学)

岡倉 天心(おかくら てんしん)
(1863年-1913年)
明治時代の美術指導者,思想家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和6年
分 類:美術指導者
作 者:平櫛 田中
評 価:☆☆☆☆

岡倉 天心
岡倉 天心
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

文久2年12月26日生まれ。
フェノロサとともに明治22年の東京美術学校(現東京芸大)の設立につとめ,23年校長。
この間に美術専門誌「国華」を創刊。
31年校長排斥運動(美校事件)で辞職。
日本美術院を設立する。
のちボストン美術館東洋部長。
日本の伝統美術の振興と革新に指導的役割をはたし,東洋・日本美術を海外に紹介した。
大正2年9月2日死去。52歳。神奈川県出身。東京大学卒。
本名は覚三。著作に「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」など。
【格言など】アジアは一つだ(「東洋の理想」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
○明治36年(1903)、岡倉天心は米国ボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田春草らの弟子を伴って渡米。
羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際に、一人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけられた。
「おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」・・・と言われた天心は、「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。
<原文>
"What sort of nese are your people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"
"We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感 想]
東京藝術大学構内に入っていくと、こんもりとした森が有ります。
森の中の小道を行くと、六角堂があり、岡倉天心が座っておられます。
六角堂は天心が好んだ建築で銅像保護のためにつくられたそうです。
森の中の銅像は、何か神秘的なものを感じます。

高村 光雲
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高村 光雲 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

高村 光雲(たかむら こううん)
(1852年-1934年)
明治-昭和時代前期の彫刻家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和10年
分 類:彫刻家
作 者:高村光太郎
評 価:☆☆☆

高村光雲
「近代日本人の肖像ホームページ」から

嘉永5年2月18日生まれ。
高村光太郎,高村豊周の父。
高村東雲に木彫をまなび,東雲の姉の養子となる。
明治10年第1回内国勧業博で東雲の代作「白衣観音」が最高賞を受賞。
東京美術学校(現東京芸大)教授,文展審査員などを歴任。
大正8年帝国美術院会員。
作品に「楠公像」「西郷隆盛像」「老猿」など。
昭和9年10月10日死去。83歳。江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、木彫も輸出用の象牙彫刻が流行し衰え、光雲自身の生活も苦しかった。
そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいる。
高村光太郎、高村豊周は息子。
写真家の高村規は孫。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[代表作]
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●「老猿」(重要文化財)
明治26年(1893年) 木彫(東京国立博物館蔵)
●西郷隆盛像(上野公園)
●楠公像(皇居前広場)

[感 想]
楠木正成銅像、西郷隆盛銅像を生んだ偉大な彫刻家です!
老猿は、美術の教科書でおなじみです。
智恵子抄で有名な息子光太郎による父の像です。
銅像は、長い髭が特徴的ですが、写真の髭もすごいです。


石川 光明
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石川 光明 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

石川 光明(いしかわ こうめい)
(1852年-1913年)
明治時代の彫刻家。

撮影日:2007年6月21日
建設年:大正6年
分 類:彫刻家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

嘉永5年8月18日生まれ。
家業は宮彫師。
日本画を狩野素川に,牙彫を菊川正光にまなぶ。
明治14年内国勧業博覧会で牙彫「魚籃観音」が入賞。
23年帝室技芸員,翌年東京美術学校(現東京芸大)教授となる。
文展審査員。
大正2年7月30日死去。62歳。江戸出身。
木彫の代表作に「白衣観音」「牧童」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

石川光明 牧童
牧童(ぼくどう)

石川光明 hideyoshi
「豊臣秀吉像」
東京藝術大学大学美術館ホームページ
「竹内久一と石川光明 - 明治の彫刻展」から

[感 想]
朝倉文夫の作品です。
髭と頭が特徴的な像です。

竹内 久一
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竹内 久一 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

竹内 久一 (たけのうち きゅういち)
(1857年-1916年)
明治-大正時代の彫刻家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和5年
分 類:彫刻家
作 者:沼田一雅
評 価:☆☆☆

安政4年7月9日生まれ。
はじめ象牙彫刻家として独立したが,奈良の古仏にであい木彫をこころざす。
東京美術学校(現東京芸大)開設とともに教師となり,明治24年教授。
白井雨山らの門弟をそだてた。
代表作に「技芸天」「日蓮上人」など。
大正5年9月24日死去。60歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

竹内久一 ぎげい天
「伎芸天立像」(ぎげいてんりつぞう)

竹内久一idaten
「韋駄天」(いだてん)
東京藝術大学大学美術館ホームページ
「竹内久一と石川光明 - 明治の彫刻展」から

[感 想]
福岡市の東公園にある日蓮聖人像の作者です。
像は、髭が特徴的です。

白井 雨山
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白井 雨山 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

白井 雨山(しらい うざん)
(1864年-1928年)
明治-大正時代の彫刻家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和4年
分 類:彫刻家
作 者:建畠大夢
評 価:☆☆☆

白井雨山
白井雨山
「ほっとde西伊予 ぴぃぷる 偉人編 ホームページ」から

元治元年3月1日生まれ。
明治31年母校東京美術学校(現東京芸大)の助教授となり,彫塑科を新設してその発展につとめる。37年教授。
文人画にもすぐれた。
昭和3年3月23日死去。65歳。
伊予(愛媛県)出身。
名は保次郎。別号に真城,晩翠軒など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

二十年近く、東京美術学校塑造科の教授を務めた雨山は、「長崎平和祈念像」で有名な北村西望をはじめ、朝倉文夫・建畠大夢等 の偉大な後継者を育て、今日では「近代彫塑の祖」と呼ばれています。
なお退職後は生来好きであった絵を描きながら過ごし、昭和三年に兵庫県の自宅において亡くなりました。
翌年には、雨山の功績を讃えて、 建畠大夢により造られた胸像が、東京美術学校構内に設置されました。
この胸像を型どったブロンズ像が、愛媛人物博物館(県民メモリアルホール) に展示されています。
「生涯学習愛媛 №57(平成16年2月発行)センターだより人物博物館」から抜粋

「作 品」
白井 北条
北条時宗公像

[感 想]
北村西望、朝倉文夫等の偉大な後継者を育てたということから、日本の銅像に果たした役割は大きいものがあると思います。
像は、緑の中にある上半身の像で、表情をしっかりととらえています。

加納 夏雄
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加納 夏雄 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

加納 夏雄(かのう なつお)
(1828年-1898年)
幕末-明治時代の彫金工

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治43年
分 類:彫金工
作 者:米原雲海
評 価:☆☆☆

文政11年4月14日生まれ。
奥村庄八,池田孝寿に師事。
かたわら中島来章に画をまなぶ。
明治2年造幣寮につとめ,新貨幣の原型製作に従事。
23年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝室技芸員。
明治31年2月3日死去。71歳。
京都出身。本姓は伏見。
代表作に「月雁図鉄額」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「新貨条例による旧金貨」
最初硬貨のデザインは英国に委ねる予定であったが、彫金師加納夏雄の優れた龍のデザインと彫刻が認められ、これが採用された。
加納 金貨
「明治3年銘の2圓金貨幣」
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
金貨の龍の彫刻も見事です。
像は、帽子が特徴的で、ちょっとおばさんのようにも見えます…

久米 桂一郎
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久米 桂一郎 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

久米 桂一郎(くめ けいいちろう)
(1866年-1934年)
明治-昭和時代前期の洋画家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和11年
分 類:洋画家
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆

久米 桂一郎
久米 桂一郎
「久米美術館ホームページ」から

慶応2年8月8日生まれ。
久米邦武の長男。
明治19年フランスに留学,黒田清輝とともにラファエル=コランに印象派風の外光表現をまなぶ。
26年帰国,29年白馬会を結成。
31年東京美術学校(現東京芸大)教授。
のち美術行政,美術教育にたずさわった。
昭和9年7月27日死去。69歳。肥前佐賀出身。
作品に「林檎拾(りんごひろい)」「晩秋」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

久米 林檎拾い
「林檎拾い」明治25(1892)年

久米 黒田
「画室にての久米桂一郎」1889年 黒田清輝
「久米美術館」ホームページから

[感 想]
北村西望の作品です。
ちょっと笑った顔は、人の良さそうな感じです。

橋本 雅邦
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橋本 雅邦 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

橋本 雅邦(はしもと がほう)
(1835年-1908年)
明治時代の日本画家

撮影日:2007年6月21日
建設年:大正2年
分 類:日本画家
作 者:白井雨山
評 価:☆☆☆

橋本 雅邦
橋本 雅邦
近代日本画の基礎を築いた橋本雅邦画伯
「小江戸探検隊ホームページ」から

天保6年7月27日生まれ。
狩野雅信に入門。
フェノロサ,岡倉天心らの鑑画会に参加し,狩野芳崖らと新画風を開拓。
明治23年東京美術学校(現東京芸大)初の日本画教授となる。
31年辞職して天心とともに日本美術院を創立した。
明治41年1月13日死去。74歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

フェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。
このため明治23年の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。
さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では、下村観山や横山大観、菱田春草、川合玉堂、寺崎広業らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。
しかし明治31年(1898年)には岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。
以後は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。

「画 業」
同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家。芳崖と共に、狩野派の描法を基礎としつつも洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。
代表作の一つである《白雲紅樹》では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。

[代表作品]
•《白雲紅樹》1890年/東京藝術大学大学美術館(重要文化財)
•《竜虎図》1895年/静嘉堂文庫(重要文化財)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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橋本 雅邦筆 「龍虎図」記念切手

[感 想]
竜虎図は、有名な絵ですね。
像は、表情が細かく表現されています。





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