ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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楫取 素彦
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楫取 素彦 像
(山口県 防府市松崎町 防府天満宮)

撮影日:2016年8月21日
建設年:平成27年
分 類:幕末志士、官僚
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

楫取 

楫取素彦
楫取 素彦(かとり もとひこ)
(1829年-1912年)
幕末-明治時代の武士、官僚

文政12年3月15日生まれ。長門(山口県)萩藩士。
江戸で安積艮斎に師事。
第2次幕長戦争では宍戸璣に随行して広島にいき、幕府側との交渉にあたった。
明治5年足柄県参事となり、熊谷・群馬の県令、元老院議官などを歴任。貴族院議員。
大正元年8月14日死去。84歳。
本姓は松島。初名は希哲。字は士毅。通称は伊之助など。号は耕堂。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

IMGP5098.jpg

幕末の時代、松島家の次男として現在の萩市に生まれ、幕末期は小田村伊之助として活躍。
後に群馬県知事、貴族院議員・宮中顧問官を歴任した楫取素彦。彼は、盟友吉田松陰の志を受け継ぎ、明治維新の推進と防府市の発展に尽くした人物でした。
三田尻の地が終焉の地であるほか、防府天満宮、毛利家本邸等での関わりから、防府市と非常に縁の深い人物。
江戸から明治へと激動の時代を経て発展を遂げてきた現在の防府市にとって、忘れることのできない大きな存在です。
吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬をはじめ、幕末の志士達が闊歩した街・防府市。
萩市や下関市と共に、防府市は幕末激動の長州を支えた地として、歴史に大きな足跡を残しています。
三田尻宰判管事などを歴任した楫取は、防府の民心安定と産業振興に心を砕き、妻美和子と共にこの街に暮らしました。
現在も、楫取や維新の志士達ゆかりの史跡が数多く残っています。
「防府市観光協会ホームページ」から

[感  想]
防府天満宮の境内におられます。
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スーツ姿の立ち姿で、夫婦一緒の像です。

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吉田 松陰 4
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吉田 松陰 像 4
(山口県 防府市華浦 華浦小学校)

撮影日:2016年8月21日
建設年:昭和15年
分 類:幕末志士、思想家
評 価:☆☆☆

[感  想]
防府市の華浦小学校の敷地内におられます。
本を持った座像で、珍しい石像です。
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小学校の学び舎をじっと見守っておられます。

吉田 松陰 3
吉田萩道の駅 (1)

吉田萩道の駅 (3)
吉田 松陰 像 3
(山口県 萩市大字椿 道の駅萩往還「松陰記念館」)

撮影日:2016年7月14日
分 類:幕末志士、思想家
作 者:疋田 雪州(原型)
評 価:☆☆☆

吉田萩道の駅 (4)

[感  想]
道の駅萩往還「松陰記念館」におられます。
吉田萩道の駅 (2)
2と同じ型での銅像だと思われますが、微妙に表情が違う気もします。

吉田 松陰 1
幕末志士 吉田松陰・金子重輔の像

幕末志士 吉田松陰・金子重輔の像2
吉田 松陰 像 1
(山口県 萩市 椿東)

撮影日:2007年8月23日
建設年:昭和43年
分 類:幕末志士、思想家
作 者:長嶺武四郎
評 価:☆☆☆。

吉田松陰
「近代日本人の肖像ホームページ」から

吉田松陰
吉田松陰像(山口県文書館蔵)

吉田 松陰(よしだ しょういん)
(1830年-1859年)
幕末の武士,思想家,教育者

文政13年8月4日生まれ。
杉百合之助の次男。杉民治の弟。
長門(山口県)萩藩士。
山鹿流兵学師範の叔父吉田大助の仮養子となり,兵学と経学をまなぶ。
9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授。
嘉永3年から諸国を遊学して会沢正志斎,安積艮斎らに従学。
6年から佐久間象山に砲術,蘭学をまなぶ。
7年下田沖のアメリカ軍艦で密航をはかるが失敗。
幽閉された生家に,安政4年松下村塾(もとは外叔父玉木文之進の家塾)をひらき,高杉晋作,伊藤博文らにおしえるが,安政の大獄で6年10月27日刑死した。30歳。
名は矩方。通称は寅次郎。別号に二十一回猛士。
【格言など】身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「晋作の識、玄瑞の才」 ~なぜ高杉晋作は英雄になれたのか?
吉田松陰は人を感化させる天才でした。
松下村塾の門下生はもちろんのこと、萩の野山獄や江戸の伝馬町獄などで松陰と出会った人々は、不思議なほど松陰に感化されていきました。
その松陰のもう一つのたぐいまれな能力は、周囲に集まるひとりひとりの資質と能力を見分けて自在に対応する力を持ち合わせていた点です。
例えば、松下村塾の双璧と謳われた高杉晋作や久坂玄瑞も決して松陰を師と仰いで入門したわけではありませんでした。
ところが、その感化力によってすぐに二人を感化させた松陰は、この二人の異なった資質と能力を素早く見抜き、「晋作の識、玄瑞の才」と二人を評価しながら、お互いを競わせたのです。
幼いころから英才の誉れ高く、利発であった玄瑞に対して、晋作は学問では決して玄瑞にかなうことがありませんでした。
しかし、晋作には松陰が識と称した資質が備わっていたのです。
その識とは、現代でいう数学ができるとか記憶力がよいというような、いわゆる勉強のできる能力とは異なったもので、炯眼(けいがん)、洞察力、直感力に近い意味、つまり先を正しく見通す力、状況に応じ、特に危機に際して機敏で的確な判断と行動ができる能力のようなものを表現していたと考えられます。
明日をも知れぬ動乱の世にあって、この識を持ち合わせていたおかげで、才を持ちながら蛤御門の変に殉じた玄瑞とは違い、幾多の危機を乗り越え、奇兵隊を結成して大田絵堂の戦いや四境戦争を勝利に導き、維新回天の立役者となった晋作が、日本史上最大の英雄のひとりと成り得たのです。

◎「草莽の崛起(そうもうのくっき)」
開国後の日本では、外国のいいなりになって屈しているかのように見える弱い態度の幕府に対し、外国を追い払い日本国をどうやって守るかという強い気持ちをもっている人たちがいました。それを攘夷といいます。
その中心になったのが松陰を始めとする長州藩の志士たちでした。
松陰は幕府を倒すための力を、はじめは藩に期待しましたが、封建制度から抜け出ることのできない藩に失望し、残るは民衆の力しかないと思っていました。
そして民間からすぐれた人物があちこちからわき出るように出て、その力を結集して自由を勝ち取るという大きな期待を民衆にかけました。
これを「草莽の崛起」といいます。
松陰が処刑され、その亡き後、松下村塾から巣立った松下村塾生グループの高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの博文)などの若者は、「強い勢力を動かして、幕府を倒し、自由を勝ち取らなければならない」という松陰の志をうけついで、幕末維新の激動期に活躍していったのです。
ホームページ「知っちょるやまぐち!?」(山口県教育委員会)から

[銅 像]
松陰と金子重輔の銅像は、1968年(昭和四十三年)、明治維新百年を記念して建たてられました。
題字は、内閣総理大臣佐藤栄作のものです。

[感 想]
吉田松陰、この人無しに幕末維新は、あり得ませんでした。
松陰の考え方は、今の世の中でも見習うべきところが多い素晴らしいものだと思います。
銅像は、萩の市内をじっと見据えておられます。
萩城のある指月山と菊ヶ浜とその先の海をよく見渡すことができます。

幕末志士 吉田松陰・金子重輔の像3

久坂 玄瑞
久坂1

久坂2

久坂3

久坂4

久坂6
久坂 玄瑞 像
(山口県 萩市江向 萩市中央公園)

撮影日:2016年7月14日
建設年:平成27年
分 類:幕末藩士
作 者:江里 敏明
評 価:☆☆☆☆

久坂 玄瑞
久坂 玄瑞(くさか げんずい)
(1840年-1864年)
幕末の武士

天保11年5月生まれ。久坂玄機の弟。
生家は長門萩藩医。松下村塾にまなび、吉田松陰の妹と結婚。
文久2年高杉晋作らとイギリス公使館を焼き討ちし、3年下関外国船砲撃に参加するなど、尊攘運動をすすめる。
禁門の変で負傷し、元治元年7月19日自害。25歳。
名は通武。通称は義助。
【格言など】諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎吉田松陰による評
●『久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。』
-安政4年(1857年)12月5日
「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」
●『久坂玄瑞は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。
しかも、その志気を才で運用する人物である。
僕はかねてから長州藩の若手中では、君を第一流の人物であると、つねに、推奨してきた。
今、京都をすぎて江戸にゆこうとしている。
すでに、世の中は大変革する兆候があらわれている。君は僕たち仲間の中心人物である。
僕は、君の出発にあたって、君に非常の言葉を贈りたい。
京都や江戸には、この大変革ととりくむ英雄豪傑が大勢いる。
ゆえに、君は、彼らと大いに論じて、何をし、何をすべきかをはっきり見定めて、日本のゆくべき道をあきらかにしてほしい。
それができないで、僕が第一流の人物と推奨してきた言葉を単なる私見におわらせるようなことがあれば、君は、天下の有志に対して、大いに恥ずべきである。』
-安政5年(1858年)2月
「久坂玄瑞の壮行を祝して」
●『僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。
その後、高杉晋作を同志として得た。
晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。
しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。
そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。
そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、皆もそれを認めるようになった。
玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、晋作を推すようになった。晋作も率直に玄瑞の才は当世に比べるものがないと言い始め、二人はお互いに学びあうようになった。
僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発したものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはないと思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。
晋作よ、世に才のある人は多い。
しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。』
-安政5年(1858年)7月
「高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞」

◎西郷隆盛による評
お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんがなア。
-「明治維新後、木戸孝允に対して」
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

【銅 像】
久坂玄瑞進撃像
▽設置場所 中央公園(江向)の平安古・萩城城下町側
▽銅像本体の高さ 約1.8m(台座を含めた高さは約3m)
▽銅像制作者   江里敏明(日展審査員、京都市在住 萩城跡の毛利輝元公銅像、晋作広場の高杉晋作立志像を制作)
「ぶらり萩あるきホームページ」から

[感  想]
萩市の中央公園広場におられます。
久坂5
尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の像で、右手を上げて力強く東を指す、りりしい立ち姿です。

坂本 龍馬 10
坂本龍馬 (33)

坂本龍馬 (39)

坂本龍馬 (35)
坂本 龍馬 像 10
(長崎県 長崎市伊良林 風頭公園)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成元年
分 類:幕末志士
作 者:山崎 和國
評 価:☆☆☆☆

【銅 像】
日本で最初の貿易商社「亀山社中」を長崎に設立した坂本龍馬。
その長崎の地に龍馬の像を建てようという「龍馬の銅像建つうで会」の呼びかけに賛同し
た全国の有志から寄せられた資金で、1989(平成元)年5月、亀山社中跡に近い風頭公園
に『坂本龍馬之像』が建立された。
高さ4.7m(全身像3.2m+台座1.5m)、長崎港を一望できる風頭公園に威風堂々と立ち、
腕組みをして日本の未来を見据えるかのような姿―これには未来を担う青少年へのメッセ
ージが込められ、龍馬の実像に最も近い像とも言われている。
足元には自慢のブーツを履いていて、その片方のブーツは台座からはみ出しています。
坂本龍馬 (5)

坂本龍馬 (8)
これは『型にはまらない自由で革新的な性格』を現しているそうです。

[感  想]
風頭公園山頂におられます。
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腕を組んだ立ち姿で、港をじっと見渡しています。
坂本龍馬 (47)
ブーツが台座からはみ出しているのも、龍馬の人間性を表していて良いです。

坂本 龍馬 9
坂本龍馬 (19)

坂本龍馬 (22)
坂本 龍馬 像 9
(長崎県長崎市 伊良林 若宮稲荷神社)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成3年
分 類:幕末志士
作 者:山崎 和國
評 価:☆☆☆

坂本龍馬 (15)

坂本龍馬 (16)


[感  想]
風頭公園山頂の10像の原型の小ぶりな像です。
坂本龍馬 (25)

坂本龍馬 (24)
詣でたであろう稲荷神社をじっと見つめています。



坂本 龍馬 8
坂本龍馬② (3)

坂本龍馬② (12)

坂本龍馬② (13)

坂本龍馬② (11)

坂本龍馬② (14)
坂本 龍馬 像 8
(長崎県 長崎市船大工町 丸山公園)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成21年
分 類:幕末志士
作 者:小崎 侃
評 価:☆☆☆

坂本龍馬② (7)

来年放映のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて長崎市の丸山公園に建立された坂本龍
馬の銅像の除幕式が15日、現地であった。
新たな観光スポットにすることを目的に5月発足した「丸山公園に龍馬の銅像を建てる会」
(川添一巳実行委員長)が、龍馬像建立資金の一部を募金で集めてきた。当初は700万円
の目標だったが、13日現在で約1250万円が寄せられた。
完成した銅像は、台座も含めた高さが2・4メートル。長崎で活動する版画家、小崎侃さん
が制作した。龍馬の“三種の神器”とされる懐中時計、ピストル、ブーツが取り入れられ、
「丸山の風を受けながら闊歩(かっぽ)している様子を表現した」(小崎さん)。
除幕式では、長崎検番による祝舞などが披露され、銅像をひと目見ようと詰めかけた市民ら
でにぎわった。川添実行委員長は「募金活動を行う中で培われた龍馬への思いを忘れぬよう
地元自治会を中心に龍馬像にかかわる活動を続けていきたい」と話した。
「長崎新聞2015.11.16」

[感  想]
長崎市の中心街の丸山公園におられます。
坂本龍馬② (1)
身長180センチの立ち姿で、花街丸山の風を浴び闊歩する龍馬像です。

坂本 龍馬 7
坂本龍馬 (31)

坂本龍馬 (30)
坂本 龍馬 像 7
(長崎県 長崎市伊良林 龍馬通り入口)
撮影日:2015年3月21日
分 類:幕末志士
評 価:☆☆

[感  想]
龍馬通り入口の階段を上ったところにおられます。
坂本龍馬 (27)
腕を組んだ上半身の像ですが、腰の下辺りで中途半端に切れているところが少し残念です。

坂本 龍馬 6 
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坂本 龍馬 像 6 
(鹿児島県 鹿児島市 大黒町、いづろ交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:幕末志士
評 価:☆☆

[感  想]
お龍との新婚旅行で鹿児島を訪れた龍馬です。
笠左手に持ち、弁当が入っていると思われる箱を肩からぶら下げている旅姿です。

坂本 龍馬 5
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坂本 龍馬 像 5
(鹿児島県 鹿児島市 与次郎)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和54年
分 類:幕末藩士
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

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[感  想]
龍馬とお龍が鹿児島を新婚旅行した時の姿です。
龍馬は、左手を懐に入れた決まりのポ-ズです。

坂本 竜馬 4
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坂本 竜馬 像4
(東京都 品川区 東大井 京急「立会川駅」)

撮影日:2010年12月18日
建設年:平成22年
分 類:幕末志士
作 者:盛岡 公彦
評 価:☆☆☆

◆坂本龍馬は、倒幕・明治維新へと続く次代の奔流の中で、数多くの志士に大きな影響を与えた幕末を代表する武士の一人です。
NHKのドラマで注目を集めている(2010年現在)こともありますので、経歴は簡単に。
誕生は幕末の天保6年(1836)年で、四国・土佐の郷士の次男でした。
少年期は家庭内で学業に励み、長じて剣の修業(目録の腕)、江戸への遊学を経て尊王攘夷運動に参加します。
武市半平太主宰の土佐勤皇党に在籍する中で諸国の志士たちとの交流を広げ、土佐藩脱藩後は勝海舟とも懇意となって神戸海軍操練所にも在籍するなど、めまぐるしく活動の場を転じながら、独自の日本近代化への方法を模索。
やがて薩長同盟を仲介して幕末維新への大きな転換を演出しました。
しかし、自ら描いた新しい日本の姿を見ることなく、慶応3年(1867)、盟友の中岡慎太郎と共に京都・近江屋に滞留中に刺客に襲われて暗殺されました。
享年31歳。短くも激しい生き方は、今も世代を超えて多くの共感を集めています。
銅像は、やはり出身地の高知県高知市桂浜にある立像がもっとも有名で代表的なものといっていいでしょう。
しかし品川区にも立像が存在します。
龍馬は、品川にあった土佐藩下屋敷に付属する鮫洲抱屋敷の警護に就いたことがあり、その近くには浜川砲台がありました。
近年になり、その浜川砲台の跡地から敷石が発見されたことから、それ記念して高知市から品川区に桂浜の立像を元にした樹脂像(写真下)が贈呈されました。
この像は2004年に立会川駅正面に設置され、浜川砲台跡地に一時移転したのち立会川駅横商店街の児童公園へと移されました。
そして2010年11月に、東京京浜ロータリークラブ有志を中心に寄付が寄せられ、新たに銅像が製作されたのです。
この像は龍馬が鮫洲抱屋敷の警護で滞留していた時期の年齢を想定して製作されており、20歳の龍馬像と言われています(写真上)。
製作は地元品川区にある「立体写真像」会長の盛岡公彦氏の手によります。20歳前後の龍馬は写真等がないため、現存する有名なポートレイト写真(30歳前後)を元に、他の龍馬像を参考にしながら表情に手を加えたそうです。
なお「先代」の樹脂像も、土佐藩の旧下屋敷跡に建てられた品川区立浜川中学校に移転建立されています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
数年前に龍馬の銅像があると知って、訪れた時銅像では無くFRP製だったのでがっかりした覚えがあります。
今回はしっかりした銅像で、緑に輝いていました。

坂本 龍馬 3
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坂本 龍馬 像3
(高知県 高知市 桂浜)

撮影日:2010年9月19日
建設年:昭和3年
分 類:幕末志士
作 者:本山 白雲
評 価:☆☆☆☆☆

坂本 龍馬

[銅  像]
高知県の青年有志が募金活動を行い,当時の金額にして2万5千円を集め建立。
昭和3年5月27日午後2時,除幕式を行い姿を現した龍馬像。
和服姿に懐手,ブーツ姿の龍馬は,はるか太平洋の彼方を見つめています。
像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。
毎年龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日を挟み,約2カ月間,龍馬像の横に展望台を設置し,龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができます。
「高知市公式ホームページ」から

[感  想]
大学生の時に1回訪れたことがあり、2回目の訪問。
上野の西郷隆盛像、札幌のクラーク像と並んで日本で一番有名な銅像でしょう。
建立も高知県の青年有志が頑張って造られたというのが、龍馬らしいです。
桂浜から遠く太平洋を眺める姿に感動!
いい像です。もちろん満点です!


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坂本 龍馬 2
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坂本 龍馬 像 2
(京都府 京都市伏見区 寺田屋)

撮影日:2008年6月14日
分 類:幕末志士
評 価:☆☆

◎寺田屋事件(坂本龍馬襲撃)
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、「寺田屋遭難」で知られる事件は、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林忠交肥後守の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。
龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の取り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。
捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦しながら乱闘になり、捕り方数名を殺傷するも、自らも左右手の親指を負傷して材木屋に隠れる。
お龍は機転を効かせて伏見の薩摩藩邸(直線距離:約800m)に駆け込み、藩邸からは川船を出してもらい救出され九死に一生を得ることができた。
藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を拒否し続けて、その後伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に匿われていたが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出させた。
そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏する。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋

[感 想]
この像は、有名な寺田屋横の庭にあります。
小さい像で、銅像というより置物みたいな感じです。

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坂本 龍馬 1
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坂本 龍馬 像 1
(京都府 京都市 東山区 円山公園)

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和37年
分 類:幕末志士
評 価:☆☆☆

坂本竜馬
「近代日本人の肖像ホームページ」から

坂本 龍馬(さかもと りょうま)
(1835年‐1867年)
幕末の武士

天保6年11月15日生まれ。
家は土佐高知城下の郷士。
文久元年土佐勤王党にくわわり、翌年脱藩して勝海舟の門にはいって航海術などをまなび、開国論にめざめる。
神戸海軍操練所の塾頭をつとめる。
慶応元年長崎で亀山社中(のちの海援隊)をつくり海運・貿易に従事。
2年西郷隆盛と木戸孝允の間をとりもち薩長同盟を成立させる。
「船中八策」の構想のもとに幕府の大政奉還を実現させ、新統一国家の建設を目ざしたが、慶応3年11月15日京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。33歳。
変名は才谷梅太郎。
【格言など】左様さ、世界の海援隊でもやらんかな
(竜馬がまとめた「新政府綱領」に、本人の役職がないのを西郷に問われて)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[年譜]
1835年 11月15日 龍馬出生
1853年 剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門
1858年 千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授。剣術修行を終えて帰国
1862年 沢村惣之丞とともに脱藩。勝海舟に面会して弟子となる
1863年 勝の尽力により脱藩を赦免される。神戸海軍塾 塾頭をつとめる。
1865年 薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。
中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
1866年 龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)
負傷治療のために妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。
第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。
1867年 亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
後藤象二郎とともに船中八策を策定。
京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。(近江屋事件)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋

◎身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。
なお、他の研究では174cmや169cm・62kgという説もある。

◎当時、土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。
あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会した時、龍馬は短めの刀を差していた。
そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。
次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。
納得した檜垣はさっそく拳銃を買い求めた。
三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。
もはや檜垣はついていけなかったという。
龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはなく、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である。

◎龍馬最期の刀は二尺二寸の刀、銘「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」である。龍馬の手紙には、随所に刀の話が出てくる。彼が兄権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、山内容堂に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「吉行」の刀をことづけ、3月中旬頃長崎の龍馬のもとに届いた。京都に行く時は、いつもこれを差して、兄の贈り物だと自慢していた。
銘「陸奥守吉行
銘「陸奥守吉行」

◎龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。
ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。
後日、兄坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。
しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1/2 32口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。
薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。
当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
1SW モデル
「S&W モデル1」


「評価」
◎板垣退助-「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」とその早死を惜しんだ。
桂浜には、板垣・土方久元らによる「坂本龍馬先生彰勲碑」があり撰文は板垣が揮毫している。
また高知の維新の代表である龍馬の銅像が無いのを惜しみ、親戚の彫刻家・本山白雲に依頼して桂浜に龍馬の銅像を建立した。

◎武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)

◎勝海舟
・「聞く薩、長と結びたりと云。又聞く坂本龍馬、長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟の日記)
・「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
・(土佐が大政奉還を建白したのは大勢を洞察した卓見か、ただその場の小策に出たためかと問われ)
「あれは坂本がいたからのこと、土佐はいつも筒井順慶で伏見の時も、全くの日和見をしていた」
・(龍馬が西郷を大きな釣鐘に例え評したことについて)
「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」
・(同じく龍馬の西郷評について)
「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準は自家の識慮に在り。氏が西郷を評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世の事業の如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」

◎西郷隆盛-「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

◎三吉慎蔵-「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

◎関義臣-「相手の話を黙って聴き、否とも応とも言わず、さんざん人にしゃべらせておいた後で、「私の説は」とユーモアを交えて話し、自分が大笑いするという愛嬌家だった」

◎陸奥宗光-「その見識、議論の高さ、他人を説得する能力に関して彼の右に出る者はいない」

[銅 像]
初代の銅像は昭和9年に建立されたが、戦時中に供出され、昭和37年5月3日に再建された。
立ち姿が坂本龍馬で、片膝を立てているのが中岡慎太郎。
揮毫は吉田茂

[感 想]
有名な坂本竜馬の銅像初登場です!
円山公園に堂々と立っています。
近づくと目がちょっと怖い感じです。

江藤 新平
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江藤 新平 像
(佐賀県佐賀市神園 神野公園)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和51年
分 類:幕末藩士
作 者:中島 快彦
評 価:☆☆☆

江藤
「近代日本人の肖像」から

江藤 新平(えとう しんぺい)
(1834年-1874年)
幕末-明治時代の武士、政治家

天保5年2月9日生まれ。肥前佐賀藩士。
枝吉神陽の義祭同盟に加わる。
文久2年脱藩し尊攘活動をおこなう。
維新後新政府の文部大輔をへて明治5年司法卿となり、司法権の独立、司法制度の整備につくす。
6年参議。征韓論がいれられず辞職。
7年佐賀で挙兵し、敗れて4月13日処刑された(佐賀の乱)。41歳。名は胤雄。号は南白。
【格言など】ますらをの涙を袖にしぼりつつ迷ふ心はただ君が為め(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎江藤は藩校の弘道館に入学した頃、髪の毛はぼさぼさでぼろぼろの服を着ていた。
女中がひやかそうとすると高い声で書物を読み上げ、驚かせたという。
◎明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金
が残った。
◎江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。その代表として「国の富強の元は国民の
安堵にあり」という意見書の一文がある。他方、外交については積極的な対外進出を主張してお
り、明治4年(1871年)3月に岩倉具視に提出した意見書には清をロシアとともに攻めて占領し、
機会を見つけてロシアを駆逐し、都をそこに移すといった内容のことが書かれている。
◎江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」といわ
れ、参拝客が多かった。そのため、県庁が柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する
者がいたという。

「維新の十傑」の1人。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
神野公園におられます。
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紋付き袴を着た堂々とした立ち姿で、大きさも結構有り、迫力があります。


高杉 晋作 7
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高杉 晋作 像 7
(山口県 下関市 長府 功山寺)

撮影日:2014年12月30日
建設年:昭和47年
分 類:幕末藩士
作 者:般若 純一郎
評 価:☆☆☆☆☆(満点!)

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「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」
元治元年(1864)12月、雪の長府・功山寺において、
高杉晋作は打倒萩政府の兵を挙げました。
従う者わずかに八十名……。
幕末、アジア諸国を蹂躙した西洋列強は、次に日本を狙っていました。
上海に渡航し、半植民地と化した中国を見て強烈な危機感を抱いた晋作は、攘夷実行のために、身分を問わぬ精鋭部隊「奇兵隊」を結成します。
そして長州藩は攘夷を決行、下関を通過する外国船に砲撃を加えます。
しかし、四カ国連合艦隊の強烈な報復攻撃を受け、
さらに幕府の征討軍を前に、藩は屈服の道を選んだ。
「このままでは長州が、そして日本が滅ぶ」
晋作は奇兵隊に決起を促すが、肯んじる者はいませんでした。
「ならば一人でも起つ!」
晋作の、この捨て身の決断が、奇跡を起こしました。
彼に従う者は次第に増え、ついに晋作らが藩の実権を握るに至ったのです。
長州藩内の動きを察知した幕府は、再び長州征伐の軍を起こし、四境戦争が勃発。
兵の数では数十倍の幕府軍が相手でしたが、晋作らの奮闘でこれを撃退。
幕府の権威は地におち、明治維新に向けての大きな一歩を進めることができました。
それは高杉晋作の一つの決断 から始まったといっても過言ではないでしょう。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された晋作。
破天荒で型破りながら、一片の私利私欲もなく、維新回天の事業に短い生涯を捧げた男。
「歴史街道」かわら版 から

[感  想]
下関市長府にある功山寺、
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ここは、
1864年12月15日
高杉晋作が、三条実美ら五卿に
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!」
と言いはなち、挙兵したまさにその場所です。
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「回天義挙」の記念碑も入り口にあります。
そして、この高杉晋作騎馬像は、まさにその瞬間をとらえた素晴らしい像です。
桃型の兜を頸に掛け紺糸威の小具足に身を固めた高杉の等身大の銅像です。
高杉晋作という人物、銅像の出来栄え、銅像の建っている場所と全てにおいて満点です!
長州男児として高杉晋作を見習いたいと思います。

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高杉 晋作 6
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高杉 晋作 像 6
(山口県 下関市 竹崎町 竹崎公園)

撮影日:2014年12月30日
建設年:平成21年
分 類:長州藩士
作 者:濵野 邦昭
評 価:☆☆☆

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[銅 像]
「維新の地に晋作記念彫像完成 下関・竹崎公園」
幕末の長州藩士、高杉晋作の生誕170周年を記念した彫像「風の予言者 高杉晋作と奇兵隊」が20日、下関市のJR下関駅近くにある竹崎公園に完成した。現地で除幕式があり、関係者ら約60人が出席した。
ブロンズ製で高さ約3メートルの彫像は、同市の企業や文化団体などでつくる「志士の杜推進実行委員会」が建立。わき上がり、流れていく歴史の雲をつかみ取る高杉晋作を、奇兵隊士に見立てた岩が支える様子を表現している。制作費2500万円は有志から募った。
同実委の山本徹会長は「維新志士たちの息吹を現代によみがえらせた。下関の未来につなげていけたら」とあいさつし、来賓らと除幕。制作を担当した同市出身の彫刻家、濵野邦昭さん(58)は「命を懸けて国を動かした晋作と奇兵隊の彫像。市民の皆さんで新たな命を宿してもらいたい」と話した。同実委の顧問を務める直木賞作家の古川薫さんは「維新胎動の地、下関を象徴するモニュメントになるはず」と期待を寄せていた。
同実委による維新志士のモニュメント建立は、晋作と坂本龍馬の友情をテーマに2003年に同市あるかぽーとに完成した「青春交響の塔」に続いて2点目。除幕後は市に寄贈された。
2009年8月21日(金) 山口新聞掲載

[感  想]
下関市の市街地の竹崎公園におられます。
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「風の予言者」という題が付いています。
穏やかな優しい表情が印象的です。

高杉 晋作 5
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高杉 晋作 像 5
(山口県 下関市 豊前田町 晋作通り)

撮影日:2014年12月30日
建設年:平成元年
分 類:長州藩士
作 者:中村 重雄
評 価:☆☆

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[感  想]
「夢みる晋作像」という題が付いています。
おちょこを手に持った上半身の石像です。

高杉 晋作 4
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高杉 晋作 像 4
(山口県 萩市 呉服町 晋作広場)

撮影日:2011年4月12日
建設年:平成22年
分 類:幕末志士
作 者:江里 敏明
評 価:☆☆☆

高杉晋作肖像(山口県立山口博物館所蔵)
高杉晋作肖像(山口県立山口博物館所蔵)

「生誕の地・萩に初!高杉晋作立志像」
幕末の志士、高杉晋作の銅像「高杉晋作立志像」が、高杉晋作誕生地向かいの晋作広場(呉服町)に完成し、10月31日除幕式が行われました。
式典には、晋作終焉の地・下関市から中尾友昭市長が、またNHK大河ドラマ「龍馬伝」で晋作役を演じた俳優の伊勢谷友介さんらが出席。
銅像を制作した彫刻家の江里敏明さんは「萩に立つ晋作の銅像ならば、立志を立てた20歳頃のまげ姿でなければと思いました」、野村市長は「萩の新しいシンボルとして、多くの皆さんに親しまれてほしい」とあいさつしました。
「萩市ホームページ」から

[感  想]
他の像とは、少し感じが違います。
キリリとした立ち姿が良い若き晋作像です。

高杉 晋作 3
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高杉 晋作 像 3
(山口県 下関市 吉田 東行庵)

撮影日:2014年12月30日
建設年:平成24年
分 類:幕末藩士
作 者:奈部 雅昭
評 価:☆☆☆☆


2014山口新聞
2014年3月31日山口新聞

[感  想]
東行庵に新しく出来た、2番目の銅像です。
資料館間の池のほとりにおられます。
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陶製の2よりすこし、顔の表情が厳しい感じです。

足元に梅の彫刻を発見しました。
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高杉晋作の変名のひとつに谷梅之助が有り、梅が好きだったようで、東行庵にも梅の木が多く有ります。こういった細工は、おもしろいです。


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高杉 晋作 2
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高杉 晋作 像 2
(山口県 下関市 吉田 東行庵)

撮影日:2014年12月30日
建設年:昭和31年
分 類:長州藩士
作 者:伊勢埼 陽山
評 価:☆☆☆☆

幕末志士 高杉晋作1
「下関吉田郵便局風景印」

幕末志士 高杉晋作2
「下関小月郵便局風景印」

[感  想]
下関市吉田の東行庵の敷地内におられます。
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東行庵は、明治17年かつての同士らによって建立されました。
日和山公園の1の像と同じく陶像ですが、こちらの像のほうが小ぶりで、顔がやさしい感じです。

また、ここには、晋作のお墓があります。
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そして有名な、伊藤博文が高杉晋作を評した言葉が書いてある顕彰碑があります。
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「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、
衆目駭然、敢えて正視する者なし。
これ我が東行高杉君に非ずや…」
(一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。
周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。
それこそ我らが高杉さんのことだ)
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東行庵の横には、東行記念館があり、高杉晋作にまつわる品々が展示してあります。
上は、記念館にあった垂れ幕。

2階に長峰武四郎作の「高杉晋作馬上姿像」が展示してありました。
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ぜひ、銅像にしてもらいたいです。


高杉 晋作 1
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高杉 晋作 像1
(山口県 下関市 丸山町 日和山公園)

撮影日:2014年12月30日
建設年:昭和31年
分 類:幕末藩士
作 者:関野 聖雲(原型)
    伊勢崎 陽山
評 価:☆☆☆☆

高杉晋作
「近代日本人の肖像ホームページ」から

高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は山田顕義)
高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は山田顕義)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

高杉 晋作(たかすぎ しんさく)
(1839年-1867年)
幕末の武士

天保10年8月20日生まれ。
高杉小忠太の長男。長門(山口県)萩藩士。
松下村塾にまなぶ。
文久2年江戸品川のイギリス公使館焼き打ち,3年奇兵隊の創設,第2次幕長戦争での幕府軍撃退など,尊攘運動の先頭にたった。
慶応3年4月14日下関で病没。29歳。
墓所は東行庵(山口県下関市)。
名は春風。字は暢夫。変名は谷梅之助,谷潜蔵。号は東行。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅 像]
昭和11年に銅像として建てられましたが、戦時の金属不足から徴収され失われました。
戦後の昭和31年に、没後90年を記念して備前焼の陶像として再び建立。
備前焼の陶像としての大きさも日本一です。

幕末志士 高杉晋作4
「下関丸山郵便局風景印」

幕末志士 高杉晋作3
「下関豊前田郵便局風景印」

[エピソード]
◎人物評
伊藤 博文
「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」

中岡 慎太郎
「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西の一奇才」

勝 海舟
「年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ」(海舟言行録)

◎高杉は長身ではなく小柄であり本人もそれを気にしていたため直立して撮った写真は現存しない。また小柄ではあったが長い刀を好んで愛用していた。
その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。

◎師である吉田松陰は高杉の非凡さを逸早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない高杉を奮起させるためあえて、同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。
高杉は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。久坂と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなどとても優秀であったという。

◎公金と私金の区別がつかない(つけない?)人物だった。
藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。

◎一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれ刀を見せた事があったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われその事を遺憾に感じた高杉はそれ以後決して見せる事は無かったという。

◎高杉が上海で購入したピストルが、坂本龍馬に贈られたという。
S&W モデル
◎のちに伊藤博文は彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。

◎都々逸「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている(木戸孝允作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。

◎辞世の句
「おもしろき こともなき世に おもしろく」
辞世の句は「おもしろきこともなき世におもしろく」であり、下の句は看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。
また都々逸(どどいつ)の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」は一般に晋作の作であると言われている。(木戸孝允作の説も有り)この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。


[感  想]
この像は、下関市の中心街に近い日和山公園にあります。
ここは、高台にあり、関門海峡を見ることができます。
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像は、陶像で、かなりの大きさが有り、刀を手に持った立ち姿は、りりしく顔は少し怒ったような感じで、迫力があります。

真木 和泉
真木 (4)

真木 (2)

真木 (3)
真木 和泉 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和43年
分 類:尊攘運動家
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

真木 和泉(まき いずみ)
(1813年-1864年)
江戸時代後期の尊攘運動家。

文化10年3月7日生まれ。真木旋臣の長男。
筑後(福岡県)久留米の水天宮祠官。
江戸、水戸に遊学し、会沢正志斎の影響をうける。
尊攘を説き、嘉永5年久留米藩政改革をめざしたが失敗、幽閉の身となった(嘉永の獄)。
文久2年脱藩し討幕に奔走するが、禁門の変に敗れ、元治元年7月21日天王山で自害。52歳。
名は保臣。字は興公、定民。号は紫灘。変名に浜忠太郎。
【格言など】我一歩を退くれば彼一歩を進め、我一日優游すれば彼一日精熟す(「魁殿物語」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

楠木正成の崇拝者として知られ、今楠公と呼ばれた。
毎年、楠木正成の命日には楠公祭をおこない、その思想と実践は、のちの湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた

「辞世の歌」
大山の 峯の岩根に 埋にけり わが年月の 大和魂
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
水天宮の境内におられます。
堂々とした立ち姿で、台座も立派でかなりの高さがあります。
真木 (1)

西郷 隆盛 3
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西郷 隆盛 像 3
(鹿児島県 鹿児島市 武二丁目 西郷公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成3年
分 類:幕末藩士
評 価:☆☆☆

[感  想]
腕を組んで菅実秀を向かい合っている姿です。
西郷の自宅の跡地なので、ここでこの銅像のように対談したのでしょう。

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西郷 隆盛 2
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西郷 隆盛 像 2
(鹿児島県 鹿児島市 城山町 鹿児島市立美術館前)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和12年
分 類:幕末藩士
作 者:安藤 照
評 価:☆☆☆☆

[銅  像]
◎上野公園の西郷像に対して、鹿児島市の鹿児島市立美術館近くに立つ郷土の彫刻家・安藤照が1937年(昭和12年)に作成した西郷の銅像は軍装(陸軍大将)である。
明治より時代が下って鹿児島市に建てられた銅像が、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢であるのは、西郷の名誉回復という観点からすれば、未亡人が本来期待した姿に近いと考えられる。

◎西郷隆盛像昭和3年(1928年)に東郷平八郎より依頼を受けてから、西郷の体格や外見の研究に1年を費やし、さらに国内の古美術や銅像見学に1年かけ、加えて銅像研究のため欧州へ渡った。
帰国後7年を経て安藤は「身長5尺9寸、体重29貫、襟首19インチ、肥満であったが、肉つきは引き締まっており、相撲のため耳だこがあり、首は短く肩が小山のごとく盛り上がっている」との結論に至った。
安藤が思い描いた構図は、故山の大地を、市民と同じ足で踏みしめ、胸を張って桜島と向き合う巨人だった。
かくして銅像は昭和12年(1937年)に完成した。
また、土台製作の為に小根占(鹿児島県肝属郡南大隅町)より大小合わせて150有余の花崗岩を運ばせて、背景に城山と有機的に調和する小山を築き、造園した。

◎西郷銅像について、安藤は『大西郷と銅像』(改造第十九巻九号、1937年)にて、次のように記述している。
「襟は十九インチ、身長は五尺九寸余、体重は二十九貫と云うので胴回りなどの研究を進めることもできた。翁の令孫隆治氏は柔道剣道の達人で相当偉大な体躯の持主であるが、この大将服を着用せられてなお二貫余の綿を入れなければならなかった。また私共が、二人も一しょに入れるような胴回りである」(文中に登場の西郷隆治は、二中において安藤(8回卒)の3年後輩(11回卒)で、卒業後は二中で柔道師範を務めた人物)

◎作家の海音寺潮五郎は、著書『西郷隆盛』にて次のように述べている。
「これはぼくだけの見当だが、安藤は西郷の孫にあたる西郷隆治さんをモデルにし、それを彼の主観でアレンジして造形したのではないかと思っている。安藤は鹿児島二中の出身であるが、隆治さんも二中の出身だ。大体同じころに在学している見当でもある。隆治さんは西郷が奄美大島る流謫中にめとった島の娘アイカナの産んだ菊次郎の子で、西郷に最もよく似ているといわれている人である。(中略)ともあれ、安藤のつくった銅像は隆治さんによく似ている」

◎2008年(平成20年)12月30日の南日本新聞記事によると、西郷のモデルは、元・山形県議の男性であることが判明。安藤のアトリエで撮影された、銅像のひな型や肖像画などが写り込んだモノクロ写真が、男性の遺族宅で発見されたという。遺族は「(祖父の)目は隆治さんに似ていると思う」とも述べている。

[感  想]
軍服姿で左手にサ-ベル手に持った直立不動の堂々とした像です。
夜間は、ライトアップされ、西郷さんが鹿児島市の夜に浮かび上がります。
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身長は、5.257mです!

西郷 隆盛 1
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西郷 隆盛 像 1
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

西郷 隆盛(さいごう たかもり)
(1828年-1877年)
江戸後期-明治時代の武士,政治家

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治31年
分 類:薩摩藩士
作 者:高村光雲(人物)、後藤貞行(犬)
評 価:☆☆☆☆

西郷隆盛
「近代日本人の肖像ホームページ」から

文政10年12月7日生まれ。
西郷吉兵衛の長男。
薩摩鹿児島藩士。
藩主島津斉彬にみいだされるが,斉彬の没後,尊攘派対策で島津久光の怒りにふれて流罪,のちゆるされて藩政の主導権をにぎり,慶応2年坂本竜馬の仲介で倒幕の薩長同盟をむすぶ。
4年戊辰戦争を指導,江戸城の無血開城を実現。
新政府の陸軍元帥兼参議となるが,征韓論などで大久保利通らと対立し,下野して帰郷。
西南戦争をおこし,敗れて明治10年9月24日城山で自刃した。51歳。
【格言など】天は人もわれも同一に愛す,故に我を愛する心をもって人を愛せよ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

上野のお山の西郷さん、と呼ばれて親しまれている銅像です。
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の身ながら時の藩主・島津斉彬に見出され、やがて戊辰戦争を主導して倒幕と明治新政府の樹立に大きな役割を果たした人物。
大久保利通、桂小五郎とともに維新三傑の一人に数えられています。
上野の像のモチーフは、犬を連れ、浴衣姿で兎狩りに興じている姿。
この姿を提案したのは従弟の大山巌で、私利私欲のない無垢な人間としての西郷隆盛を表現するという志であったそうです。
また、西郷の愛犬は雌犬の「ツン」でしたが、銅像製作当時はすでに死んでいたため、別の雄犬をモデルに製作されています。
銅像の完成は明治31年で、日本初となる銅像除幕式が行われました。
東京市の名物として市民に愛されただけでなく、地方から訪れる観光客にも人気でしたが、関東大震災に際しては尋ね人の張り紙掲示板の役割も務めました。
現在は周囲に高いビルが建っていますが、明治から昭和初期にかけては遠くからでも目立ったといいます。
余談ですが、西郷隆盛の未亡人は像が兎狩りの姿を模したとは知らず、除幕式の際に「浴衣で散歩することはなかった」と不満をもらして周囲を慌てさせたというエピソードも残っています。
西郷は日本初の陸軍大将となったことでも知られていますが、平服姿で像が作られた背景には、西郷が西南戦争で賊軍になったことが影響していたようです。
なお鹿児島には軍服姿の銅像が作られています。
見所は、浴衣の上からもふくよかな体躯を想像させる肉感表現で、時代の変わり目を激しく生きた人物というよりは、大山巌が意図したように柔和な人物像が随所に感じられます。
像それ自体も大きいですが、人物の大きさ、大らかさを感じさせる銅像です。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[肖 像]
◎大久保ら維新の立役者の絵が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。事実、西郷の顔写真は一切残っていない。
◎死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであり、キヨッソーネは西郷との面識が一切無かったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。
西郷の顔を記憶している人間が当時は多数生きており、特に似ていないとの異論も出ていないので基本的にはキヨッソーネの肖像画は似ているものと思われる。
ただし、実際の西郷の耳は耳たぶが垂れたいわゆる福耳ではなく、平耳であったことが近年の研究で明らかにされている。
実際の西郷にあって描かれた肖像画のいくつかは、明らかに平耳で描かれている。
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[銅 像]
◎肖像画を基に東京都台東区上野の上野公園に高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)の銅像が建設された。
銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている(樺山愛輔『父、樺山資紀』、伝記叢書44、大空社、昭和63年)。
公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(鹿児島弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。
この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」と解釈している。
◎上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、兎狩りをしている姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兔狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した(樺山愛輔、上掲書)。
連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。
一方、鹿児島市の城山公園に立つ銅像は軍装(陸軍大将)である。

西郷銅像
「西郷銅像」
最新東京名所写真帖(明治44.4刊行)
西郷銅像2
「西郷銅像」
最新東京名所写真帖(明治42.3刊行)
「写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳ホームページ-」から

[エピソード]
◎幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。
◎身長:182cm、体重:114kg。血液型はB型。喫煙者だった。
◎郷土の名物、黒豚の豚肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと豚骨と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。
◎愛称
「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。
◎「うーとん」「うどめ」などのあだなの由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である。
西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。
その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。
そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。
その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。
◎猟好きと猟犬
西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。
自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。
狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。
西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。
したがって猟犬を非常に大切にした。
東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
「上野の西郷さん」は、「桂浜の坂本龍馬」と並んで、多分日本で一番知られている銅像ですね。
堂々とした姿は、迫力満点です!
さすがは、高村光雲といった感じです。
夫人の「うちの主人はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かしたエピソードは、笑えます。
でも、これだけ銅像のことが、話題となる銅像はなかなか他にありません。やはり西郷の人柄と人気がそうさせるのでしょう。


小松 帯刀
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小松 帯刀 像
(鹿児島県 鹿児島市 山下町 県文化センタ-)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成5年
分 類:幕末藩士
作 者:西俣 敏弘
評 価:☆☆☆☆

小松帯刀
「近代日本人の肖像」から

小松 帯刀(こまつ たてわき)
(1835年-1870年)
幕末-明治時代の武士、官僚

天保6年10月14日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
文久2年家老となり、大久保利通らと藩政改革を推進。
慶応2年(1866)西郷隆盛とともに、木戸孝允(たかよし)らとの間で薩長同盟をむすぶ。
維新後は新政府の総裁局顧問などに就任、大久保らと版籍奉還も画策した。
明治3年7月20日死去。36歳。
本姓は肝付。名は清廉。幼名は尚五郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎愛妻家で、新婚時代の安政3年4月23日から5月6日(1856年5月26日から6月8日)にかけて当時珍しい新婚旅行で霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。この滞在には千賀の父も同行した。
ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬は寺田屋事件直後の慶応2年(1866年)であり、実際には帯刀清廉のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる。

◎寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、若くして薩摩藩の重職に取り立てられた。
西郷隆盛に初めて会いに行った際、西郷が、身分としては遥かに上とはいえ自らより7歳若い小松の度量を試そうと、わざと部屋で横になり小松を待っていたところ、小松はその姿を見て立腹することなく、むしろ西郷のために枕を持って来るよう従者に促したため、西郷はその一言を聞くや居住まいを正し小松に詫び、忠誠を誓ったという。
新政府においても将来を嘱望された。

◎坂本龍馬の新政府の人事構想では、西郷や大久保、桂らを抑えて、筆頭に挙げられていた。

◎2008年(平成20年)のNHK大河ドラマ『篤姫』では帯刀の存在がクロ-ズアップされ、主人公・篤姫の幼馴染という設定で篤姫との友情・恋慕が描かれた。
しかし、実際には両者が接点を持っていたという記録はなく、これらのシ-ンは全てドラマ内の創作である。

◎乗馬の達人であったとされる。夜、馬乗り提灯をさして馬に乗っても、提灯が揺れなかったという記述がある。

◎幕末に英国の外交員として派遣されていたア-ネスト・サトウの著書において、「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」と評されている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
鹿児島県文化センタ-の敷地内におられます。
「大政奉還すべき」と記帳に真っ先に署名した姿を表した像です。
きりりとした表情で、島津三公銅像のある照国神社の方角を見ているというのもいいです。

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新納 久脩
新納久
1 新納 久脩 像

新納 中三(にいろ なかぞう)
(1832年-1889年)
幕末の武士

天保3年4月15日生まれ。
薩摩鹿児島藩の重臣。
慶応元年大目付となり,石垣鋭之助の変名で藩留学生をひきいてヨーロッパ各国を視察。
帰国後家老となり,開成所,外交事務をつかさどる。
維新後は判事,大島島司などをつとめた。
明治22年12月10日死去。58歳。
字は久脩。通称は刑部。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎島津斉彬・茂久2代の藩主に仕え、はじめ軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用。
文久2年(1862年)には軍役奉行となる。翌年7月に起きた薩英戦争で兵制改革の実績を発揮し、賞賛された。

◎ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)のモンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッセルにおいて薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、翌慶応2年(1866年)に帰国した。

◎明治18年(1885年)奄美大島島司となり、特産品である黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したが、翌年突然免官された。これは黒糖流通を独占していた鹿児島県商人による画策といわれる。しかしその後も中三は島民から救世の恩人と敬慕された。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

町田 久成
2町田久成2
2 町田 久成 像

町田 久成(まちだ ひさなり)
(1838年-1897年)
幕末-明治時代の武士,官僚

天保9年1月生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
元治2年藩命で森有礼らと渡英。
維新後,文部大丞などを歴任。
のち内務省博物局長として博物館創設につくし,初代帝国博物館館長となる。
晩年は仏門にはいった。
古美術研究で知られる。
明治30年9月15日死去。60歳。
通称は民部。号は石谷。変名に上野良太郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎ヨーロッパ滞在中に博物館事業の重要性を認識し、維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わる。
官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。
書画篆刻を自らよくし、美術品の鑑定眼が優れていた。

◎町田は美術品の中でも特に和楽器に関心を持っていた。
ある時祇園の茶屋で遊んでいた際に芸妓が持っていた古い琴に惚れ込み、ゆずってもらえないかと頼みこんだものの断られたので、琴を芸妓ごとを身受けし、琴だけを手元に残して芸妓には暇を出したと伝えられている。

◎音楽にも造詣が深く山井景順に師事して横笛を学んだ。
内山下町博物館の時代には舞楽の会や管弦の会を宮内省の宮中の令人たちを招いて定期的に展示物の和楽器を使って開催していたほか、個人でも隅田川にて舟遊合奏会を開催するなどしていた。

◎井上馨が町田に伊万里の土を使ってフランスの陶工に焼かせた花瓶を見せたところ町田は土は日本のものだが焼き方は日本や中国のものではないので自分にはわからないと答えた。
後日九鬼隆一にも同じことを聞いたところ伊万里焼だと答えたので、井上は町田が分からないと答えたのは確かに理解している証拠だとして九鬼の鑑識は町田には遥かに及ばないと言ったという。

◎明治天皇の銀婚式に杉に参加するように請われたところこの時既に出家していた町田は貧しい姿をして宮門に参上した。
警備のものが不審者と思いこれを止めたところ町田はその通りである。
乞食坊主がこのような尊い儀式に参加するのは最も恐れ多い次第である。
初めは参賀は恐れ多いので断ったのだが、参賀を厳達されたのでやむを得ず着た次第なりと答え警備の者の言うとおり引き返そうとするところで連絡を受けた杉孫七郎が町田の悪戯には困ると言って通すように言ったという。

◎ある骨董商が、庵を立て月に200円の布施をするので自分以外の骨董商の品の鑑定をやめてくれないかと頼んだところ。
好意はありがたいが自分はようやく世間の煩を免れたところであり、自らの如き乞食坊主を金儲けの餌に使うのは友人としてあまりに過酷ではないか。御免被ると答えた。

◎ある日知り合いの料理屋の主人が町田のもとを訪れ、ある玉の鑑定書を請うた。
町田がその鑑定書をなんに使うのかと聞いたところ、町田の鑑定書があればある銀行家が2万5千円で買う約束があると答えたので、それは面白い。
乞食坊主が書いた紙切れにそんな価値があるとは恐れ入る。
それではあなたはいかほど布施をするのかと併せて聞いたところ、一般の商習慣に則って1割2千500円を布施するとのことだった。
町田はそれに対して2万5000円を布施すれば立派な奉書紙に書いてやると答えたので聞いていたものらは大笑いしたという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋





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