ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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佐藤 慶太郎
佐藤 (1)

佐藤 (2)
佐藤 慶太郎像
(福岡県 北九州市若松区 佐藤公園)

撮影日:2016年5月31日
建設年:平成21年
分 類:実業家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

佐藤 慶太郎
佐藤 慶太郎(さとう けいたろう)
(1868年-1940年)
実業家

1868年(明治元年)、筑前国遠賀郡陣原村(現・福岡県北九州市八幡西区陣原])に出生。
1886年(明治19年)、福岡県立英語専修修猷館(現・修猷館高等学校)に入学。
その後、法律家を志し修猷館を中退。明治法律学校(現・明治大学)に入学。
卒業後、帰郷し筑豊炭田の積出港であった福岡県遠賀郡若松町において石炭商の仕事に従
事、独立後に炭鉱経営者として成功を収めた。
しかし持病の胃腸病が悪化したため経営の第一線から退き、1918年(大正7年)に若松市
議会議長に就任。
第一次世界大戦後の戦後恐慌下、石炭鉱業連合会の設立構想を三井、三菱、古河等の財閥や
有力者に熱心に説いてまわり、創設に尽力した。

佐藤 (3)

1921年(大正10年)、連合会創設のために上京した折り、目にした時事新報社説で、東京
府美術館(現・東京都美術館)の建設計画が資金難のため頓挫しつつあることを知り、面識
があった東京府知事阿部浩に即座に100万円(現在の約33億円相当)の寄付を申し出た。
これにより、岡倉天心や横山大観らの「美術館が欲しい」という明治以来の日本美術界の悲
願が実現することとなった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

『佐藤慶太郎像:若松で除幕 炭鉱の富で社会貢献 /福岡』
炭鉱経営で築いた富を、東京府美術館(現東京都美術館)や病院建設に寄付した佐藤慶太郎の胸像が若松区の邸宅跡「佐藤公園」に建てられ、14日、除幕式があった。
胸像は、私財を社会貢献のために使い続けた慶太郎の生き方を広く知ってほしいと地元有
志が計画。昨年11月、実行委員会が発足し、準備を進めていた。
不況にもかかわらず80の法人や個人から約560万円が寄せられ都美術館が保管する朝倉
文夫作のブロンズ像の複製が、公園の入り口近くに建てられた。
除幕式には、実行委の岡部秀年会長や慶太郎の孫の佐藤浩さん、北九州市の北橋健治市長のほか、慶太郎が晩年移り住んだ大分県別府市の浜田博市長ら約150人が出席。その後、若松市民会館で、胸像設置のきっかけとなった「佐藤慶太郎伝」の著者、斉藤泰嘉筑波大教授(57)が記念講演。約700人を前に「死後70年たってなお、このように胸像が建つ慶太郎は幸せな人。像には一切寄付者の名前がない。無名の篤志事業(フィランソロピー)を実践した彼の生き方が、地元に根付いていると思う」と語りかけた。
宮若市竜徳、小森良一さん(87)は「炭鉱の技術者として働いていたので、どんな人物なのか興味があった。若松には当時、石炭で財をなした人がたくさんいたけれど、すごい人ですね」と話していた。【長谷川容子】
毎日新聞 2009年6月16日 地方版
〔北九州版〕

[感  想]
旧邸宅敷地である「佐藤公園」におられます。
佐藤 (4)
上半身の像で、おだやかな表情と口髭が特徴的です。
東京都美術館にも同じ銅像があるそうです。

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吉田 磯吉
吉田 (1)

吉田 (8)

吉田 (2)

吉田 (4)
吉田 磯吉 像
(福岡県 北九州市若松区大字修多羅 高塔山公園)

撮影日:2016年5月31日
建設年:昭和35年
分 類:実業家
作 者:佐藤 忠良
評 価:☆☆☆

吉田 磯吉
吉田 磯吉(よしだ いそきち)
(1867年-1936年)
実業家・政治家

芦屋鉄道、平山炭礦、吉田商事、若松魚市場、若松運輸の社長を歴任し、石炭鉱業互助会顧問となる。
この間、大正4年衆院議員となり当選5回。立憲政友会総務を務めた。
「新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説」から

吉田 (5)

吉田 (7)

火野葦平の『花と竜』に描かれる磯吉親分とは吉田磯吉のことである。
ヤクザの研究家である猪野健治によれば、(単なる暴力団ではなく、侠客の意味合いで)近代ヤクザは吉田磯吉をはじまりとする。
遠賀川流域の男伊達の気性をいう川筋気質の川筋モン(かわすじ者)の典型人物の一人とされる北九州から対岸の山口県への進出も目論んだとされるが、吉田磯吉が憲政会に所属したことにより、同じく近代ヤクザの嚆矢とも目される衆議院議員の保良浅之助(籠虎)が政友会の支援にて衆議院議員に当選するという構図となり、下関から西への進出は出来なかった。
尚、吉田磯吉と保良浅之助は互いに認め合う「侠と侠」の関係であったと伝えられている。※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
高塔山公園の高台におられます。
吉田 (6)

着物姿で座った姿で、じっと見つめる表情には凄味があります。

吉田 (3)
洞海湾を見下ろしておられます。

貝島 太助 2
貝原 (2)

貝原 (3)

貝原 (5)

貝原 (4)
貝島 太助 2
(福岡県 直方市殿町 多賀町公園)

撮影日:2016年5月31日
建設年:昭和29年
分 類:実業家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

多賀町公園は、明治時代、炭鉱で財をなした貝島太助の本宅跡です。
木造三階建ての豪華な建物であったといいます。
また、同氏の銅像は、長崎の平和記念像の作者、北村西望の作品です。
「福岡県ホームページ」から

[感  想]
多賀町公園におられます。
1と同じ銅像と思われます。
貝原 (1)
本宅跡から直方の街を見つめています。

貝島 太助 1
貝島 (2)

貝島 (3)
貝島 太助 像 1
(福岡県 直方市 山部 雲心寺境内)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和29年
分 類:実業家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

貝島
貝島 太助(かいじま たすけ)
(1844年-1916年)
明治-大正時代の実業家

天保15年1月11日生まれ。
明治3年炭鉱事業に従事。
西南戦争で巨利をえて17年大之浦炭鉱を入手。
のち井上馨の援助を得、日清戦争を契機に事業をひろげ31年貝島鉱業合名を設立、貝島炭鉱の基礎をきずいた。
大正5年11月1日死去。73歳。
筑前(福岡県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

筑豊御三家と称された貝島財閥の創始者であり、「筑豊の炭坑王」の異名を取った。

[感  想]
雲心寺の境内裏におられます。
羽織、袴を着た、堂々とした立ち姿です。
北村西望の作です。

貝島 (1)

笹川 良一
笹川 (2)

笹川 (3)

笹川 (1)
笹川 良一 像
(東京都 港区三田 笹川記念館)

撮影日:2016年2月29日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

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笹川 良一(ささかわ りょういち)
(1899年-1995年)
昭和時代の右翼運動家

明治32年5月4日生まれ。
昭和6年国粋大衆党を組織して総裁となり、17年翼賛選挙で衆議院議員に当選。
戦後、A級戦犯として収監されたが、不起訴。
釈放後、全国に競艇を普及させ、全国モ-タ-ボ-ト競走会連合会会長、日本船舶振興会
会長として競艇収益の配分権をにぎり、政界のフィクサ-となった。
57年国連平和賞。
平成7年7月18日死去。96歳。大阪出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎社会奉仕活動
日本船舶振興会の活動により社会奉仕活動家として知られ、振興会の支援を通して、船舶・
造船事業の振興、海運安全の推進、福祉・国際援助活動、各種武道・スポ-ツ団体への協
力などさまざまな慈善事業を推し進めていった。
日本船舶振興会のテレビコマ-シャルに自ら出演。
子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。
なお高見山(高見山の後援会長でもあった)、山本直純、子供たちと共に「一日一善」等の
シ-ンは1975年(昭和50年)から会長を務めた財団法人日本防火協会(現・公益財団法
人日本防火・防災協会)のCMにも使われた。
CM全体のイメ-ジが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。
ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年(昭和51年)
から1994年(平成6年)まで。
ちなみに1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる“曜日変
わりバ-ジョン”も存在した。
この時期に小中学生であった者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「『戸締まり用
心、火の用心』のおじいさん」として認識されていた。

【孝養の像】
笹川記念会館、船の科学館、箕面市及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子
像が存在する。何故か日本財団ビルにはない。
これは、笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って金毘羅参りのため、785段の石段
を登っている様子を表しているとされる。
「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
「世界は一家、人類は皆兄弟」
との碑文が刻まれている。
なお同銅像は、笹川の生前に建立され開示されたものである。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
笹川記念館の横におられます。
笹川 (4)
母親を背負い、杖を持ち、金比羅の石段を上る姿です。
小さい頃、「一日一善」のおじさんのCMをよく目にしていました。

倉場 富三郎
倉場 (11)

倉場 (2)
倉場 富三郎 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

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倉場 富三郎(くらば とみさぶろう)
(1871年-1945年)
明治-昭和時代前期の実業家

明治3年12月8日長崎生まれ。T.B.グラバーの次男。
明治40年長崎汽船漁業を設立し、汽船トロール業をおこす。
萩原魚仙らに依頼して描写させた魚類図鑑「グラバー図譜」はたかく評価されている。
昭和20年8月26日死去。76歳。
旧名はトマス=アルバート=グラバー(Thomas Albert Glover)。
苗字の倉場はグラバーをもじったもの。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

倉場 (4)

グラバーには倉場富三郎、ハナという二人の子どもがいました。
倉場富三郎はアメリカ留学から長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に入社すると、蒸気ト
ロール漁船をイギリスから輸入し、日本の水産業の振興に大いに貢献しました。
底引き網にかかる膨大な魚を見た富三郎は、分類学的研究ができる魚類図鑑をつくろうと
思い、私費を投じて5人の画家に魚の絵を描かせ、25年の歳月をかけてグラバー図譜を完
成させました。
旧スチイル記念学校、旧グラバー住宅の奥の廊下にその一部が展示されています。
混血として生まれた富三郎は、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと懸命な努力を重ね、
内外倶楽部という外国人との親睦団体をつくり、日本初のパブリックコース、雲仙ゴルフ
場の設立にも力を注ぎました。
しかし第二次世界大戦の最中、同じ混血の境遇に生まれた妻ワカが急死。
やがて長崎に原爆が落とされ、絶望のなか終戦を迎えた富三郎は、その11日後の8月26
日に自ら命を絶ちました。
遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付するよう記されていました。
「GLOVER GARDEN」ホームページから

[感  想]
グラバー園の旧グラバー住宅の中におられます。
倉場 (14)

大きな目と髭が特徴的な上半身の像です。
倉場(クラバ)はグラバーをもじった名前というのはおもしろいと思いました。

石橋 正二郎 2
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石橋 正二郎 像 2
(福岡県 久留米市 旭町 久留米大学医学部) 

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和44年
分 類:実業家
作 者:清水 多嘉示
評 価:☆☆☆

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[感  想]
久留米大学校内におられます。
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スーツ姿の全身像でこちらの像は、眼鏡をかけておられません。

石橋 正二郎 1
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石橋 正二郎 像 1
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和45年(建立昭和51年)
分 類:実業家
作 者:清水 多嘉示
評 価:☆☆☆

石橋正二郎2
公益財団法人石橋財団ホームページから

石橋 正二郎
1952年に撮影
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

石橋 正二郎(いしばし しょうじろう)
(1889年-1976年)
大正-昭和時代の実業家。

明治22年2月25日生まれ。
大正12年ゴム底の地下足袋を発売して巨利をえる。
昭和6年ブリヂストンタイヤを創立し、自動車タイヤの国産化を実現。
32年日本合成ゴム初代社長。
美術品の収集家として知られ、27年ブリヂストン美術館を開設。
国立近代美術館(東京)の建設費を提供した。
昭和51年9月11日死去。87歳。福岡県出身。久留米商業卒。
【格言など】人はすべからく大智大才を志さねばならぬ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
眼鏡をかけた上半身の像で、兄弟で並んでおられます。


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石橋 徳次郎
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石橋 徳次郎 像
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和51年
分 類:実業家
作 者:能登原 弘芳
評 価:☆☆☆

石橋 徳次郎(いしばし とくじろう)
(1886年-1958年)

実業家。
久留米生まれ。
日本足袋取締役。久留米商工会議所会頭、日本ゴム名誉会長。
父の経営する「しまやま足袋」を継承し次第に拡張し、日本足袋株式会社を組織した。
のちゴム底地大足袋の改善、運動靴・子供靴の廉価製造の成功を経て、ブリジストン・タイヤ工
場を設立した。石橋正二郎の兄。
「美術人名辞典」から

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【碑 文】
石橋徳次郎翁はわが国独特の労働履き地下足袋を発明し履物界に一大革命を起し日本の経済発展
に大きく貢献すると共にゴムの町久留米の礎を築いた。
また市民の要望に応え当地に初めて百貨店を開業した。
翁は郷土愛篤く医学専門学校や工業専門学校の創立に多大の尽力をなし文教の振興に努めた。
翁は更に名誉市長としてまた多年商工会議所会頭として郷土久留米市に尽くした功績は甚大である。
従ってここに記念碑を建立してその遺された偉業を称える。
昭和51年7月20日

[感  想]
眼鏡をかけた上半身の像で、弟の正二郎と顔が良く似ています。

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倉田 泰蔵
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倉田 泰蔵 像
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和51年
分 類:実業家
作 者:笠置 季男
評 価:☆☆☆

倉田 泰蔵(くらた たいぞう)
(1887年-1978年)
実業家

元つちや足袋(現・ムーンスター)社長

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【碑 文】
倉田泰蔵翁は郷土が生んだ大実業家で、ゴム王国久留米の声価を高めた功績は甚大である。
翁は一貫して地元産業の振興に尽力すると共に公安委員、産業安全協会長等の要職につき公共福
祉の増進に努めた。
また遍照院庭園の建設など多額の私財を投じて郷土の発展に貢献した。
ここに翁の長寿を祝い、碑を建立して、高い功績と至誠温厚の人柄を末永く称える。

[感  想]
上半身の像で、石橋兄弟と並んでおられます。
恰幅の良い身体つきと口髭が印象的です。

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市村 清
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市村 清 像
(佐賀県佐賀市城内 市村記念体育館)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和38年
分 類:実業家
作 者:古賀 忠雄
評 価:☆☆☆

「三愛会ホームページ」から
市村 清(いちむら きよし)
(1900年-1968年)
昭和時代の実業家

明治33年4月4日生まれ。
昭和4年福岡で理研の感光紙販売のための代理店をつくり、大河内正敏にみとめられる。
11年理研感光紙(現リコー)を設立した。
戦後、三愛商事、明治記念館、三愛石油、日本リースなどを創立、リコー・三愛グループとして統括した。
昭和43年12月16日死去。68歳。佐賀県出身。中央大中退。
【格言など】人を愛し、国を愛し、勤めを愛する
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。
◎1945年終戦を迎えると、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに三愛商事(現・三愛)を設立、銀座4丁目角の土地を取得し食料品店を開業する。後に婦人服専門店に転業し現在に至る。銀座の土地は買収に難航したが、ある地権者の老婦人が大雪の中断りに出向いた時、彼女の濡れた足元を見た女性事務員が自分のスリッパを履かせ、抱きかかえるように3階まで案内したことに感激し、交渉がまとまったというエピソードは有名である
◎1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした
◎「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。
◎産業界・学界で功労者を顕彰する市村賞にその名を遺す。
◎語録
「書いたものより口約束こそは守れ。うそをついてはいけない。」
「もし成功に秘訣があるとすれば、他人の立場を理解し、他人の立場から物事をみる能力を持つことである。」
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

◆市村記念体育館
県内の体育と文化の振興を図り、あわせて県民の体育やその他の健康で文化的な各種の催し物の用に供するため、郷土出身の元リコー社長・故市村清氏が私財2億1千万円を投じ、昭和38年3月11日に佐賀県に寄贈された体育館です。

『“か”と“け”の違い』
“か”と“け”の違いは、市村清の事業家としての信念といえるものです。
「儲ける」ことではなくて、自然に「儲かる」ような仕事に手をつけるべきだというものです。
このことは、戦後、今では結婚式場として有名な明治記念館を市村が創立したとき、市村の予想に反して利用者が多く、開業早々から黒字となり大成功となったことで悟ったようです。以後、市村の経営に適用したことは言うまでもありません。
“か”(儲かる)と“け”(儲ける)の違い
…私が、結婚式場で有名な、明治記念館の創立者であることは、あまり知られていない。
 敗戦後まもないころ、ある人の紹介で明治神宮の宮司から、
「…市村さん!これから、神宮関係の多くの人たちが、どうして食べていったらいいか、ホトホト困っているのです。なんとか、お力を貸していただけないでしょうか」
と、相談を持ちかけられた。…(中略)
 「どうでしょうね。今日まで戦争のため結婚出来なかった多くの人々のためにも、神宮の方針としても、厳粛にして簡素な結婚式場を経営されては…」
という意見を述べた。…(中略)
…敗戦により全国民が自信と希望を失っているとき、明治神宮と国民大衆を結びつける大いなる意義があると信じた。
 それは明治時代こそ、日本民族の黄金時代であり、その中心が明治大帝であらせられたので、この時代を回顧することにより国民全体に奮起をうながしたかったのである。従ってこの経営は暴利はもちろん、すべての点で最大の注意を払わなければならないと自ら戒めたのである。と同時に、あのようにもったいぶったところで結婚式場をやっても、おそらく利用者は多くないだろうと、赤字覚悟ではじめたのだが、開店早々の黒字なのである。
 このとき、私は、ハッと、悟るものがあった。というのは、私は、若いころ、一儲けしようと思って一生懸命やった仕事が、なかなか儲からない。
 ところが、この場合、私は、結婚式場で儲けようなんてケチな考えからでなく、前記のような主義と精神で、たくさんの人たちの人生の首途を祝福してあげたい、という一片の至情から出発したのであるし、利益などは、夢にも考えていなかった。
 しかるに開業早々、黒字になったというのは、今まで私が数多く手がけてきた事業のなかでも、明治記念館が、最初であった。
 結局、(儲けようなんて気持ちが強くては、駄目だ。儲かるようにならなければ駄目だ。儲けようという気持ちでは、限度がある。いくら一生懸命にやっても、大したことは出来ない。しかし、道に則ってやれば、自然に儲かる。…そして、儲かる方は、無限である…)と、明治記念館経営で、悟ったのである。
 その後、“三愛”の経営に、“か”と“け”の違いを、適用したことはいうまでもない。
出典:『儲ける経営法 儲かる経営法』p40~42
参考:『そのものを狙うな』p172~176
「三愛会ホームページ」から

[感  想]
市村記念体育館の玄関横におられます。
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黒縁の眼鏡と細身の顔が印象的です。

藤岡 市助
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藤岡 市助 像
(山口県 岩国市 横山 吉香公園 岩国美術館前)

撮影日:2014年9月30日
建設年:平成26年
分 類:実業家
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

藤岡市助
藤岡 市助(ふじおか いちすけ)
(1857年-1918年)
明治時代の電気工学者、実業家
日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。

安政4年3月14日生まれ。
明治17年母校工部大学校の教授。
19年帝国大学助教授となったが、同年実業界に転じ、東京電灯技師長となる。
のち東京電気(東芝の前身)社長。
白熱灯用発電機、タングステン電球の製造など、電気事業の発展につくした。
大正7年3月5日死去。62歳。
周防(山口県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

藤岡市助ものがたり
エジソンの発明から10年後。
一人の男の情熱によって、日本で初めて国産電球が点灯されました。
欧米に負けない電気産業を興し、人々にゆたかな暮らしをもたらすために、彼は生涯にわたり懸命に努力を続けました。
彼が灯した白熱電球の輝きは、文明開化のシンボル。
もう一人の東芝創業者・藤岡市助の偉業に迫ります。

【運命 DESTINY】
それは運命の出会いから始まった ~エジソンとの出会い~
明治17年(1884年)、日本の電気工学の草創期を支えた若き研究者が、国の使節に任命されアメリカに渡った。
電気時代の到来を告げる盛大な博覧会や電気産業を視察した後、彼はエジソンの研究室を訪ねる。そして発明王に自らの想いを語った。
「日本に帰ったら電気事業の創設に我が身を捧げます」と。
青年の大志に、エジソンは「日本を電気国にするのは、大変よいことだ。だがひとつだけ忠告しておこう、どんなに電力が豊富でも、電気器具を輸入するようでは国は滅びる。
まず電気器具の製造から手がけ、日本を自給自足の国にしなさい」と応じた。
およそ120年前、このアドバイスを受けた人物こそ、藤岡市助だった。

【.挑戦 CHALLENGE】
白熱電球の国産化に成功 ~「白熱舎」創設~
帰国後、市助は、国や経済界へ電球の実用化・国産化を積極的に働きかけていく。
2年後の明治19年(1886年)、市助の提言により「東京電燈」(東京電力株式会社の前身)が開業。いよいよ日本でも電気時代が到来した。
同年、市助はついに大学の教職を辞し、東京電燈の技師長へ転身。
英国から電球製造機械を輸入して、白熱電球の試作を開始した。
明治23年(1890年)4月には、同じ岩国出身の三吉正一と共同で「白熱舎」を創設し、本格的な電球製造に着手する。当初、製造は日産数個。日夜苦労を重ねた末、品質も向上し、6年後には生産規模を日産280~290個まで拡大させた。

【.誕生 ADVENT】
「マツダランプ発売」 ~「東京芝浦電気」誕生まで~
マツダランプ
マツダランプ
明治38年(1905年)、市助はエジソンの会社、米国ゼネラルエレクトリック社との提携を図った。
明治44年(1911年)には、タングステン電球「マツダランプ」を発売。
安価で丈夫な国産電球が普及し、市助が理想とした社会が実現する。
その後、市助の情熱を継承する東京電気の技術者により二つの発明(二重コイル/内面つや消し)がもたらされ、現在の白熱電球が完成。東京電気は海外企業に負けない競争力を持つ会社へと変貌を遂げ、昭和14年(1939年)、田中久重が興した会社の流れをくむ「芝浦製作所」と合併。
遂に総合電気メーカー「東京芝浦電気」が誕生する。
日本の技術であらゆる電気製品をつくる市助のスピリットは、今に受け継がれている。
「東芝未来科学館ホームページ」から

[感  想]
岩国美術館の前におられます。
後ろで手を組んだ立ち姿で、電燈をじっと見つめておられます。
台座に彫られた「明るい未来へ」も良いです。

村瀬 寶一
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村瀬 寶一 像

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和54年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

村瀬 寶一
(1907年-1976年)
実業家、六時屋初代社長

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「屋 号」
時計で六時は長針と短針がまっすぐになることから、「まっすぐ正直な心で商売をしよう」と命名されました。
この考え方は、創業以来、受け継がれています。
創業者の理念「針はまっすぐ正直に」の伝統はそのまま受け継がれております。
「株式会社六時屋ホームページ」から

[感  想]
お土産物で有名な一六タルトの六時屋初代社長で、本社の前におられます。
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眼鏡をかけた胸像です。
屋号のこだわりがいいなと思いました。

新田 長次郎
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新田 長次郎 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山大学)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

新田長次郎
新田 長次郎(にった ちょうじろう)
(1857年-1936年)
明治-昭和時代前期の実業家

安政4年5月29日生まれ。
明治18年大阪で製革業をはじめ,ベルト工業などの事業に成功。
私財を投じて44年大阪の有隣小学校,大正12年松山高商(現松山大)を設立した。
昭和11年7月17日死去。80歳。
伊予(愛媛県)出身。号は温山。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆ 新田長次郎(温山)翁
本学園三恩人の一人で、松山市山西の出身。
20歳にして志をたて大阪に旅立ち10余年の歳月を経て日本初の動力伝動ベルトの製作に着手し、至難とされた帯革製造業の確立を始め、膠・ゼラチン、ベニヤの製造をも手がけるなど、日本産業の発展に多大な貢献をした。
青少年を愛し学問を愛する温山翁は、高等商業学校設立の提案に賛同し、設立に際しては、「学校運営に関わらない」ことを条件に、設立資金として巨額の私財を投じ、我が国の私立高等商業学校では第3番目の設置となる松山高等商業学校(本学の前身)を創設した。
本学園では「学園創設の父」としてその功績が今日に伝承されている。
「松山大学 ホームページ」から

[感  想]
松山大学には、本学園三恩人の胸像がキャンパス内に設置されています。
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新田長次郎像は、坊主頭でちょっと強面の感じで、着物を着た胸像です。

松下 幸之助
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松下 幸之助 像
(愛媛県 今治市 宅間甲 コンテックス敷地内)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和61年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

松下 幸之助
松下幸之助(1960年代初期頃)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

松下 幸之助(まつした こうのすけ)
(1894年-1989年)

大正-平成時代の実業家
明治27年11月27日生まれ。
農家の3男。小学校を中退してはたらきはじめ,明治43年大阪電灯(現関西電力)に入社。
大正6年改良ソケットを考案,翌年松下電気器具製作所を創業。
昭和10年松下電器産業(現パナソニック)に改組して社長となる。
事業部制,連盟店制など独自の経営で「経営の神様」とよばれた。
のちPHP研究所,松下政経塾を創設。
平成元年4月27日死去。94歳。
和歌山県出身。
【格言など】青春とはこころの若さである(座右銘)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[銅  像]
大阪府門真市に所在するパナソニックミュージアム内に、松下幸之助の銅像「松下幸之助翁寿像」が建立されているが、この像は労働組合に理解を示していた幸之助に感謝する形で、松下電器労組が贈呈したものである。

[エピソード]
◎米「タイム」誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家である(1人目は戦前に登場した日本郵船の各務鎌吉)

◎自分に対して厳しい松下は交通渋滞が原因で会議に間に合わなかった際、社内処分として自らの給与を10%を減給した(1カ月間)

◎晩年、雑誌の取材で「何かひとつ夢を叶えるとしたら何を望みますか?」と質問されたところ「今の全財産を渡すからもう一度二十歳に戻して欲しい。それが出来たら私はもう一度今と同じだけの財産を築いてみせる。」と答えたと言う。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
タオル繊維会社のコンテックス工場敷地内におられます。
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松下電器労組が贈呈した「松下幸之助翁寿像」と同じものではないかと推測されます。
コンテックスとパナソニック株式会社が関連会社である関係で設置されたのではと思われます。
右手を前に出して握手をしようとしている立ち姿で、眼鏡など細かい部分まで精巧に作られています。

近藤 宗一
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近藤 宗一 像
(愛媛県 今治市 宅間甲 コンテックス敷地内)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和59年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

近藤 宗一(こんどう そういち)

コンテックス(kontex)は、愛媛県今治市に本社を置くタオル繊維メーカーである。
1934年 近藤宗一の個人事業として近藤タオル工場として設立した。

[感  想]
コンテックスの創業者で、工場敷地内におられます。
上半身の像で皺など細かい部分まで、よく表現されている像です。

檜垣 俊幸
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檜垣 俊幸 像
(愛媛県 今治市 通町 今治城入口)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成23年
分 類:実業家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

檜垣 俊幸(ひがき としゆき)
(1928年- )
愛媛県今治市生まれ。
43年今治造船入社。同社常務、専務、副社長を経て、92年社長に就任。
99年から四国経済連合会常任理事、2001年から今治商工会議所会頭、03年からは社団法人日本造船工業会副会長(再任)など、多くの要職も務めている。02年勲二等瑞宝章。

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[銅  像]
銅像の制作者である中村晋也氏の銅像制作の説明を兼ねた祝辞
「檜垣さんの船造り一筋に歩まれたその男の世界、それをどう表現すれば良いのか、それとの戦いの制作でありました。
銅像の右腕がくの字に少し曲がって前に出ているのは、次へ行動する、挑戦する男の戦いの始まりを表わしています。
また、銅像は真東を向いており、そこには東京がありますが、目線は東京を遥かに超え、太平洋を渡ってアメリカ大陸、その向こうの大西洋を超えてヨ-ロッパ大陸、アジア大陸へと、まさに世界を股に掛ける造船の王者の目線、檜垣さんの目指すもの、そのものを表現させていただきました。末長く今治市民の皆様に親しんでいただきたい。檜垣さんの益々のご活躍をお祈りします。」

[感  想]
今治城入口近くにおられます。
堂々とした立ち姿です。

矢野 七三郎
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矢野 七三郎像
(愛媛県 今治市 通町 今治城)

撮影日:2013年3月20日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

矢野 七三郎
「愛媛県生涯学習センター愛媛人物博物館ホームページ」から

矢野 七三郎(やの しちさぶろう)
(1855年-1889年)
明治時代の実業家。
安政2年2月生まれ。
明治19年和歌山で紀州ネルの製織技術を研究し、織機をかいいれ、職人をともなって帰郷。
同年愛媛県今治に綿ネル工場を設立、伊予ネルの市場の開拓につとめた。
明治22年12月24日死去。35歳。
伊予(愛媛県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
今治城内の公園におられます。
タオルを右手に持った立ち姿で、七三分けの髪型が特徴的です。

五代 友厚 1
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五代 友厚 像 1
(鹿児島県 鹿児島市 泉町 泉公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和36年
分 類:実業家
作 者:坂上 政克
評 価:☆☆☆☆

五代友厚
「近代日本人の肖像」から

五代 友厚(ごだい ともあつ)
(1836年-1885年)
明治時代の実業家

天保6年12月26日生まれ。
もと薩摩鹿児島藩士。
元治2年藩命で渡欧、武器や機械類を輸入。
維新後官界から実業界に転じ、大阪を本拠に鉱山、製藍、鉄道などの事業をおこす。
明治11年大阪商法会議所を設立し、会頭。
14年開拓使官有物払い下げ事件をおこした。
明治18年9月25日死去。51歳。
幼名は徳助、才助。号は松陰。
【格言など】男児、財産をつくるためにこの世に生をうけたのではない(信条)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソ-ド]
◎14歳のとき、琉球公益係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。
見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図だった。
友厚は父からこの世界地図の複写を命じられる。
友厚は2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げて日夜眺めていたようで、地図を眺めながら特にイギリスに目をつけていた。
世界地図には薩摩はおろか日本すら載っていないことに気づくと同時に「なぜ日本と同じように小さい島国であるイギリスが世界を制覇できたのか」、そして国内で起こっている薩摩や長州の藩同士の争いがとても小さい争いであり「同じ日本国民として手を取り合い、外国に負けないような国力と技術力をつくろうではないか」という熱意をもつようになる。

◎安政元年(1854年)、ペリ-が浦賀沖に来航し天下は騒然となる。
その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。

◎五代は小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通などの要人と知り合いだった。
長州藩の高杉晋作や土佐藩の浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。
このように一流の人物たちと関わり合える条件をもっていたことが五代の後の功績へと役立った。
加えて、五代が役立てたものは英語力である。
当時から外交に英語力は欠かせなかった。
特に薩摩藩城代家老小松帯刀には重用されて恩義を感じ、小松死後はその妻(側室)子の面倒を見たことでも知られる。

◎友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まった。
新政府が諸外国との交渉窓口として外国事務掛を大阪に設け、五代を任命したのが起点である。
この頃、大阪では日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかった。
条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていた。
五代はこのような不正に対しては断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒んだ。
次第に五代が駐在する大阪港では外国船の荷物検査があまりにも厳しいという抗議が政府まで届き、政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展した。
しかし、五代は外国商人の要求の真意が荷物検査が行われることによる不満(脱税や不正行為ができなくなる為)であることを見抜いていたので全く動じなかった。
商売人にとって【信用】は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその「信用」を勝ち取ろうとする五代の信念があった。
五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
銅像は、昭和56年に長田陸橋袂から現在の県産業会館前の泉公園に移設されました。
左手を腰にあて、握りしめた右の拳をちょっと前に出した立ち姿は、示現流の使い手がい つでも拔刀できるポ-ズのようです。
彫りの深い顔も意志の強さを表しています。
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県産業会館をじっと見守っているようです。

岩崎 興八郎
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岩崎 興八郎 像
(鹿児島県 鹿児島市 東千石町 鹿児島商工会議所ビル内)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成4年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

岩崎 與八郎
「岩崎グル-プホ-ムペ-ジ」から

岩崎 與八郎(いわさき よはちろう)
(1902年-1993年)
鹿児島県の実業家

鹿児島県曽於郡大隅町岩川の出身。
尋常高等小学校を卒業後、商店員から二十一歳で木材会社を興した。
鉄道建設の枕木を端緒に発展、戦後は運輸業、さらに観光事業へと手を広げ、80社を超える岩崎グル-プを率いた。
長年鹿児島商工会議所会頭を務めた。

[エピソ-ド]
◎事業に対してはきわめて厳しい人物であり、自分の意に沿わない社員を激しく叱り付けてクビを言い渡すことも珍しくなかったという。交流のあった作家の椋鳩十は、「自信がありすぎてワンマンである」と評している。一方で、自分でクビを言い渡しておきながら、その社員が数日出社しないと「どうして出てこないんだ」と自宅に電話をかけてくるようなこともあったという

◎携帯電話の普及するはるか前に無線通信の設備を導入し、自分の専用車と各営業所に設備して、いつでも連絡を取れるようにした。この設備は一斉同報であり、話したことはほかの端末すべてで聞こえるものであったため、岩崎が無線で怒鳴りつける様子が他の営業所にも伝わって、多くの社員が冷や汗をかくことになったという。

◎稼いだ金で社会貢献も積極的に行っている。
地元に学校がなくて自分が進学できなかったことを気にしたこともあり、1941年(昭和16年)には町立岩川工業学校を建設して寄贈し、これは後に鹿児島県立岩川高等学校となった。
また1943年(昭和18年)には鹿児島医学専門学校の発足に際して寄付を行い、これは1958年(昭和33年)に国立移管されて鹿児島大学医学部となっている。
自社の技術者不足を感じたことから、1945年(昭和20年)には鹿児島県立工業専門学校設立も支援し、これも鹿児島大学工学部となっている。
大戦後は、1951年(昭和26年)に東京都世田谷区烏山に岩崎学生寮を設立し、1952年(昭和27年)には岩崎育英奨学会を設置して、東京に進学する鹿児島出身の学生を援助した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
鹿児島商工会議所ビル1階ロビ-におられます。
照明が当てられており、顔の細かいところまで表現されています。

長島 公佑
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長島 公佑 像
(鹿児島県 鹿児島市 武 長島美術館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成13年
分 類:実業家
作 者:南 安廣
評 価:☆☆☆

長島 公祐(ながしま こうすけ)
(1920年-2003年 )
日本の実業家

長島商事創業者。
鹿児島県唯一の遊園地であったジャングルパーク遊園地や長島美術館などを建設した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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「長島美術館」
当美術館は平成元年10月、鹿児島市制施行100周年に合わせて開館致しました。
錦江湾にそびえ立つ雄大な桜島や鹿児島市街地を一望できる海抜110mの高台に位置し、亜熱帯樹に包まれた自然景観の中にあります。
収蔵美術品は、長島企業グループ創立者長島公佑が永年にわたり蒐集したもので、黒田清輝などの地元作家の絵画・彫刻をはじめ、ピカソ、シャガール、マイヨールなど、海外作家の絵画・彫刻、新大陸先史美術品、薩摩焼など、約1000点にわたります。
「長島美術館ホームページ」から

[感  想]
美術館の敷地におられます。
スーツを着た全身像で、眼鏡をかけたリアリティーのある像です。
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桜島をじっと見つめておられます。
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美術館からの眺め

小野澤 勝太郎 2
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小野澤 勝太郎像 2
(島根県 益田市 あけぼの東町)

撮影日:2011年10月16日
建設年:昭和58年
分 類:実業家
評 価:☆☆

[感  想]
マスダセントラルホテルの植え込みにおられます。
こちらは、全身の立ち姿で、亡くなった後建てられた像です。
同じ敷地に同じ人の像が2つあるのは、珍しいと思います。

小野澤 勝太郎 1
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小野澤 勝太郎 像 1
(島根県 益田市 あけぼの東町)

撮影日:2011年10月16日
建設年:昭和39年
分 類:実業家
評 価:☆☆

小野澤 勝太郎(おのざわ かつたろう)
実業家

小野沢興行の創設者
島根県議会議員

[感  想]
マスダセントラルホテル前におられます。
ホテルの他、レジャー産業を行っている小野沢興行の創設者の上半身像です。
紺綬褒章受領記念に建てられたと思われます。胸にメダルがあるのが印象的です。

早川 徳次
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早川 徳次 像
(東京都 中央区 銀座 日比谷線銀座駅)

撮影日:2011年2月24日
建設年:昭和15年
分 類:実業家
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

早川 徳次
「毎日jp.昭和写真館ホームページ」から
地下鉄開通80周年:写真で振り返る地下鉄の歴史

早川 徳次(はやかわ のりつぐ)
(1881年-1942年)
東京地下鉄道の創業者である。
「地下鉄の父」と呼ばれる。

明治14年10月15日生まれ。
根津嘉一郎にみとめられ,高野登山鉄道支配人となる。
欧米を視察して大正9年東京地下鉄道を創立。
昭和2年上野-浅草間,9年上野-新橋間を開通させた。
15年東京高速鉄道(渋谷-新橋間)の五島慶太との経営権争いに敗れて退陣。
昭和17年11月29日死去。62歳。
山梨県出身。早大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆東京に住み、あるいは東京を訪れる人々の足元を走る交通機関といえば、そう、地下鉄です。
その建設に取り組んだ早川徳次は、現在は「桃の花まつり 川中島合戦祭」でも知られる山梨県笛吹市(当時は東八千代郡)に生まれました。
明治14年(1881)のことです。早稲田大学在学中に後藤新平と出会い、後に彼のもとで鉄道事業に関わりを持ったことが縁で、同郷の根津嘉一郎(東武鉄道の創業者)のもとで鉄道経営の手腕を磨きます。
早川が地下鉄に注目したきっかけは大正3年の欧州視察で、ロンドンの地下鉄を目の当たりにして東京でも地下鉄事業を実現すべしとの思いを強くしたといいます。
当時は地下鉄への理解が低く、また地盤が軟弱な地下工事の技術的難度の高さ、そして何より資金難など多くの問題がありました。
しかし早川は根津ら既知の鉄道事業者らの支援を受けるなどして問題を克服。
東京地下鉄道株式会社(後の帝都高速度交通営団、現在の東京地下鉄)を設立し、「クモの巣のような地下鉄道網」の実現を目指します。
昭和2年末には、ついにアジア初の地下鉄を開業(浅草~上野)。
しかし当時の鉄道省や民間鉄道会社との軋轢などから、昭和16年(1941)には失意のうちに経営の第一線から退きます。
そして自らの夢の実現を見ることなく、翌年この世を去りました。
銅像は、日比谷線銀座駅の中二階メトロプロムナード中ほどにあります。
ちょっと奥まった場所にあり、柱の陰に隠れるほどの大きさですが、朝倉文夫製作の覇気溢れる人物を感じさせる像です。
1940年に、早川の紫綬褒章受章を記念して建立されました。
由来書が描かれた台座付きの胸像で、自ら心血を注いだ地下鉄の賑わいを静かに見守っています。
同じ像が地下鉄東西線葛西駅にある地下鉄博物館にも飾られています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
ちょっと分かりにくいですが、日比谷線銀座駅の中におられます。
髭が特徴的で、茶色く光っています。

柴田 清
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柴田 清 像
(東京都 港区 恵比寿 サッポロビール本社)

撮影日:2010年12月18日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

柴田 清(しばた きよし)
(1887年-1961年)
実業家

明治20年7月10日生まれ。
明治精煉,日本硝子(ガラス)工業をへて,大日本麦酒(ビール)に転じ,常務となる。
昭和24年過度経済力集中排除法により同社が朝日麦酒と日本麦酒に分離した際,日本麦酒(現サッポロビール)初代社長に就任。
昭和36年9月11日死去。74歳。
栃木県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
恵比寿のサッポロビール本社の公園に高橋 龍太郎像と並んでおられます。
少し微笑んだ顔が印象的な像です。

高橋 龍太郎
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高橋 龍太郎 像
(東京都 港区 恵比寿 サッポロビール本社)

撮影日:2010年12月18日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

高橋 龍太郎
「日本サッカーアーカイブホームページ」から

高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう)
(1875年-1967年)
実業家、政治家
日本のビール王と呼ばれる。

愛媛県内子町生まれ。
旧制松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年同卒。
大学卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒(現アサヒビール・サッポロホールディングス))に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。
後に社長となり、ビールを日本の大衆文化に成長させた。大日本麦酒分裂後はサッポロビールの役員となっていたが、不調に終わったアサヒ・サッポロ両社の再統合に向け働きかけていたとされる。
またプロ野球への造詣も深く、戦前にはイーグルス(現存しない東京の球団)、戦後には高橋ユニオンズ(1955年だけトンボユニオンズ。現存しない)のオーナーとなった。
また戦死した子息が学生時代にサッカーをしていた縁もあり、第3代日本サッカー協会会長(1947年~1954年)に就任、2005年には第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。
留学やビール、サッカーでの縁もあり、日独協会会長に就任(1955年4月~1965年7月)。
政治家としての経歴は、1946年に貴族院勅選議員を務めるも、日本国憲法施行による改組のため翌1947年に参議院議員に転じ、1951年には通産大臣に就任した。
また財界人としては、1947年に日本商工会議所会頭に就任した。
上記各界での功績により、1964年に勲二等旭日重光章を受章。
1967年12月22日死去、享年92。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
恵比寿のサッポロビール本社の公園に柴田清像と並んでおられます。
髭やしわなどリアルな感じの像です。

松田 源五郎
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松田 源五郎
(長崎県 長崎市 上西山町 長崎公園)

松田 源五郎( まつだ げんごろう)
(1840年-1901年)
明治時代の実業家

撮影日:2010年11月21日
建設年:昭和38年
分 類:実業家
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆

松田 源五郎
松田 源五郎
「長崎商工会議所ホームページ」から

天保11年4月8日生まれ。
明治9年第十八国立銀行を創立して支配人,頭取となる。
12年長崎商法会議所初代会頭。
「長崎新聞」の創刊や商業学校の創立など,長崎実業界で指導的役割をはたした。
25年衆議院議員。
明治34年3月1日死去。62歳。肥前長崎出身。本姓は鶴野。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅 像]
松田源五郎
初代会頭松田源五郎翁の銅像
(軍への供出前のもの)

明治41年8月9日、諏訪公園丸馬場において、初代会頭・松田源五郎翁の銅像除幕式が、荒川知事、北川市長、永見商業会議所会頭ら官財界の知名士1,200余人が参列して盛大に行なわれた。
長崎実業界の先覚者として、財界から一層の活躍を期待されていた松田源五郎翁は、急病により明治34年3月1日逝去。享年61才であった。
なお、この銅像は、太平洋戦争中、金属供出のため撤去されたが、戦後長崎商工会議所と十八銀行が中心になって再建が進められ、長崎市出身の彫刻家・日展審査員の富永直樹氏の彫塑によって、昭和38年4月5日、現位置に復元された。
「長崎商工会議所ホームページ」から

[感  想]
眉毛が下がった優しげな顔が印象的です。

野村 茂久馬
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野村 茂久馬 像
(高知県 高知市 丸ノ内)

野村 茂久馬 (のむら もくま)
(1870年-1960年)
明治-昭和時代前期の実業家

撮影日:2010年9月19日
建設年:昭和26年
分 類:実業家
作 者:浜口 青果
評 価:☆☆☆

明治2年12月28日生まれ。
30年ごろ郷里の高知県で交通運輸業をはじめ,陸海に事業を拡大。
四国のバス事業の統合,高知鉄道,土佐商船などの設立に力をつくし,土佐の交通王とよばれた。
桂浜の坂本竜馬銅像建立にも協力した。
昭和7年貴族院議員。昭和35年2月11日死去。90歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅 像]
実業家野村茂久馬の銅像は、昭和26年12月8日に除幕されたもので、制作者は香美郡夜須町出身の彫刻家浜口青果、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂。
像の高さは2.15メートル、台座1.59メートル、総高3.74メートル。
除幕式には当時83歳の野村茂久馬本人も出席、銅像建設記念東京大相撲高知場所のめ来高中の羽黒山・照国・東富士・千代ノ山の四横綱も出席したと伝えています。
岩崎義郎著「高知城を歩くより」

[エピソード]
○坂本龍馬・中岡慎太郎・板垣退助らの銅像を建てるため奔走する青年達に、乗合自動車の無料乗車券を発行する等の支援をした。
○ライオン宰相、濱口雄幸(高知市出身)とは同級生であった。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
杖をついたコート姿が印象的です。
坂本龍馬・中岡慎太郎・板垣退助らの高知県の銅像建立を支援した人で、高知県の銅像に関する功績は大きいものがあります。

浦上 敏朗
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浦上 敏朗 像
(山口県 萩市 萩美術館・浦上記念館)

浦上 敏朗(うらがみ としお)
(1926- )
実業家

撮影日:2010年8月14日
分 類:実業家
作 者:澄川 喜一
評 価:☆☆☆

萩美術館・浦上記念館名誉館長。
山口県立萩美術館・浦上記念館は、浮世絵版画と東洋陶磁器を専門としており、萩市出身の実業家浦上敏朗が山口県に寄贈したコレクションをもとに1996年に開館した。

[感  想]
萩美術館で開催されていた棟方志功展を見に行った時、美術館の玄関で見つけました。
胸像で、作者の澄川喜一は、東京スカイツリーのデザインを監修した人です。

佐々木 義彦
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佐々木 義彦 像
(山口県 萩市 江向 中央公園)

佐々木 義彦(ささき よしひこ)
(1887年-1975年)
昭和時代の経営者

撮影日:2010年8月13日
建設年:昭和44年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

明治20年8月8日生まれ。
台湾銀行ロンドン支店長,鈴木商店理事をへて帝人,日本製粉の取締役をつとめる。
昭和22年帝国繊維社長。
25年東邦レーヨンの社長36年会長。
昭和50年2月8日死去。87歳。
山口県出身。神戸高商(現神戸大)卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
萩の市民野球場跡地の公園にあります。
萩市小畑出身で、生家にあった銅像が移築されたそうです。
表情がリアルに表現されたしっかりとした像です。





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