ken's銅像探索日誌
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徳川 好敏
徳川 (3)

徳川 (5)

徳川 (4)

徳川 (1)
徳川 好敏 像
(東京都 渋谷区代々木神園町 代々木公園 航空発祥之地)

撮影日:2016年2月29日
建設年:昭和39年
分 類:軍人
作 者:市橋 敏雄
評 価:☆☆☆

徳川 好敏

Tokugawa_Yoshitoshi.jpg
飛行機を操縦する徳川好敏
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
徳川 好敏(とくがわ よしとし)
(1884年-1963年)
明治-昭和時代の軍人、飛行家

明治17年7月24日生まれ。
43年12月19日、東京代々木の練兵場でファルマン複葉機を操縦、グラ-デ単葉機にのっ
た日野熊蔵とともに日本初の公開飛行に成功。
以後、明野、所沢の各飛行学校長、航空兵団司令官、航空士官学校長を歴任した。
昭和10年陸軍中将。
昭和38年4月17日死去。78歳。東京出身。陸軍士官学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

■徳川好敏は、明治から昭和にかけて、日本の航空分野の発展のために尽力した軍人です。
徳川御三卿の清水徳川家第7代当主・徳川篤守の長男として誕生。
高等師範学校附属の小、中学校(現在の筑波附属小・中学校)で学んだのち、陸軍士官学
校を経て明治42年(1909)に陸軍工兵大尉となります。
翌明治43年、好敏は陸軍の命により日野熊蔵歩兵少尉とともに操縦技術習得と、機体購入
のためフランスに派遣されて専門教育を受けます。
当時、ヨ-ロッパでは航空機の発達が著しかったためです。
日本人初の操縦士資格を得たのちに帰国。
同年12月19日、代々木練兵場(現在の代々木公園)にて、会式一号機(アンリ・ファル
マン複葉機)を駆って日本初の航空機動力飛行(高度約70メ-トル、距離約3000メ-ト
ル)に成功しました。
明治44年に完成した日本初の航空機専用飛行場である陸軍所沢飛行場(現在は所沢航空記
念公園)でも、その完成を記念した展示飛行を行っています。
その後も一貫して航空畑を歩み続け、航空兵科が独立したのちは工兵科から転じて後進の育成に力を注ぎます。
一時期現役を離れるものの、終戦時には陸軍航空士官学校長の座にありました。
最終階級は陸軍中将で、長年の功績を賞されて昭和3年(1928)には男爵の爵位も得てい
ます。昭和38年(1963)没。
銅像は代々木公園内にあり、園内順路より少し外れた木々に囲まれた場所にあります。
鳥が翼を広げた姿を意匠にした「日本航空発始之地」の記念碑(昭和15年建立)があり、
その近くに日野熊蔵の像と共に建てられています。
製作発起は航空同人会で、昭和39年に除幕。
製作は鋳金家・市橋敏雄の手によります。
初飛行以後も一貫して航空発展に尽力した徳川好敏だけに、その姿は飛行服・飛行帽着用で描かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
日本初飛行の地である代々木公園におられます。
徳川 (2)

徳川 (6)
飛行服と飛行帽を着用した上半身の像です。

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日野 熊蔵
日野 (1)

日野 (2)

日野 (3)

日野 (4)
日野 熊蔵 像
(東京都 渋谷区代々木神園町 代々木公園 航空発祥之地)

撮影日:2016年2月29日
建設年:昭和49年
分 類:軍人
作 者:小金丸 幾久
評 価:☆☆☆

日野 熊蔵

日野 熊蔵2
日野 熊蔵(ひの くまぞう)
(1878年-1946年)
明治-大正時代の軍人

明治11年6月9日生まれ。
43年陸軍大尉のときドイツで飛行機の操縦術をまなび、グラーデ単葉機を購入して帰国。
同年12月19日東京代々木練兵場で徳川好敏(よしとし)と日本最初の公開飛行に成功した。
大正5年陸軍中佐。
昭和21年1月15日死去。69歳。熊本県出身。陸軍士官学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

■日野熊蔵は、明治から昭和にかけて活躍した軍人・航空技術者です。
明治11年(1878)に旧相良藩士の子として熊本県で生まれ、成長して陸軍士官学校に進み
ます。
卒業後は陸軍歩兵科に属し、技術審査部で兵器研究も手掛けています。
明治43年には徳川好敏工兵大尉とともにフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ
校で学びますが、航空機の買い付けは不調に終わり、熊蔵は単身ドイツと交渉してグラ-
デ単葉機を購入して帰国します。
明治43年12月19日、熊蔵は徳川好敏とともに日本初の動力飛行に挑みます。
彼の乗機は自ら買い付けたグラ-デ単葉機で、自重・エンジン出力ともアンリ・ファルマ
ン機の半分とコンパクトな機体(操縦席は降着車輪架兼用式で主翼直下に懸吊され、地面
すれすれの低位置でした)で約1000メ-トルの距離を飛行。
10万人以上といわれた観客の喝采を浴びました。
その後は、自らの設計による日野式飛行機の開発を行うなど技術開発の分野に力を注ぎ、
操縦装置など航空機関係の技術のほか、日野式拳銃に代表される銃器設計にも特許取得の
実績を残しました。
最終階級は陸軍歩兵中佐で、退役後は困窮と自身の大病との戦いの中で技術開発に挑んで
います。昭和21年(1946)没。
なお、地元熊本では、日本初の動力飛行の偉業達成100周年を記念して、ドキュメンタリ
―ドラマの制作などの記念事業が行われているそうです。
銅像は代々木公園内にあります。「日本航空発始之地」の記念碑の近くに、徳川好敏の像と
並んで建てられています。航空五〇会の発起で昭和49年に建立。
長崎県出身の彫刻家・小金丸幾久の製作で、退役が40歳と早く、技術開発の多くを民間人として行っていたこともあり、洋装(ス-ツ)の姿で描かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から
日野 (5)

[感  想]
日本初飛行の地である代々木公園におられます。
日野 (6)
スーツ姿の上半身の像で、徳川好敏像と並んで建っています。


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東郷 平八郎 3
東郷 (2)

東郷 (3)

東郷 (4)
東郷 平八郎 像 3
(東京都 渋谷区神宮前 東郷神社社務所)

撮影日:2016年2月29日
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

[感  想]
東郷神社の社務所におられます。
東郷 (1)
サーベルを左手に持ち、帽子を脱いで右手に持った立ち姿の小ぶりな像です。

東郷 平八郎 2
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東郷 平八郎 像 2
(岡山県 倉敷市 鶴形)

撮影日:2014年9月14日
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

[感  想]
鳥居と小さい社の間におられます。
後ろに二宮金次郎像があり、乃木希典ではと思われる石像と向かい合っている珍しい風景の中にあります。
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右手に双眼鏡、左手にサーベルを持った、立ち姿で、連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる姿を表わしたものだと思われます。


東郷 平八郎 1
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東郷 平八郎 像 1
(鹿児島県 鹿児島市 清水町 多賀山公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和32年
分 類:軍人
作 者:雨田 光平
評 価:☆☆☆☆

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出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

東郷1
「近代日本人の肖像」から

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう)
(1848年-1934年)
明治-大正時代の軍人

弘化4年12月22日生まれ。
もと薩摩鹿児島藩士。
維新後イギリスに留学。
日清戦争では浪速(なにわ)艦長。
日露戦争では連合艦隊司令長官として、旅順港封鎖作戦、日本海海戦を指揮。
バルチック艦隊を撃滅し、「東洋のネルソン」と称された。
海軍大将、元帥。
昭和9年5月30日死去。88歳。
名は実良。
【格言など】
皇国の興廃この一戦にあり各員いっそう奮励努力せよ(バルチック艦隊との交戦にあたり)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎イギリス留学
留学時の東郷(1877年)明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポ-ツマスに官費留学する。
東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。
イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。
大久保の後西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。東郷の才能を軍人にあると見込んだ西郷の人物眼の確かさをも物語るものであろう。
tougou3
留学時の東郷(1877年)

◎日露戦争
明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。
6月6日には大将に昇進する。
そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨ-ロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキ-提督率いるロシアのバルチック艦隊を迎撃する。
この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。
本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。
また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。
各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。
東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・タ-ン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。
この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。
その年に同国で生まれた子供たちの中には、ト-ゴ-と名づけられる者もおり、また「ト-ゴ-通り」と名付けられた通りもあった。
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷、1905年

◎太平洋戦争時のアメリカ海軍の諸提督の多くは、若き日に東郷と接した事もあり東郷を英雄として崇拝していた。
特にチェスタ-・ニミッツは太平洋戦争でアメリカに勝利をもたらしたことで、「ト-ゴ-の血筋はヤマモト(山本五十六)ではなく、ニミッツへと受け継がれた」とも表現された。
ニミッツ本人も東郷への英雄崇拝の念が非常に強く、若い頃来日して東郷と出逢い、話した時の感激を生涯忘れることはなかったという。

◎第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。
戦後、戦艦三笠は荒れ果て、アメリカ軍人のため娯楽施設「キャバレ-・ト-ゴ-」や水族館が設置さたり、上部構造物はおろか取り外せそうな金属類は機関部に至るまで全て盗まれ、チ-ク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされるなど荒廃していた。
ニミッツはその姿を憂い本を著して売り上げを寄付するなどして、東郷と若い頃への思いを込めて三笠の復興と保存に協力した。

◎一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。
晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」と発言し、陸軍大将であり、諧謔のセンスの乏しい乃木希典院長を激昂させ、同時に半ば呆れさせたというエピソ-ドがある。

◎日本海海戦時カ-ル・ツァイスの双眼鏡を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。
この双眼鏡は発売されて間もない明治37年(1904年)に小西屋六兵衛店(現コニカミノルタホ-ルディングス)が輸入したもの。
現在は三笠記念館に収蔵されている。

◎平成22年(2010年)2月16日に放送されたテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」には、東郷平八郎が大正天皇から下賜されたという刀が出品され、鑑定額は5000万円と評価された。

◎東郷の郵便切手
逓信省(現在の日本郵便)が1937年(昭和12年)に発行した普通切手のうち、当時の封書基本料金用の4銭切手に東郷の肖像が使われている。
その後、郵便料金の改定に伴い5銭と7銭の額面の切手が発行されている。
4銭(1937年発行)
4銭(1937年発行)

5銭
5銭(1942年発行)

7銭(1944年発行)
7銭(1944年発行)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
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小高い山も上にある多賀山公園を狭い階段を上っていった高い所におられます。

軍服姿で、左手にサ-ベル右手に帽子を持ち、正面を見据えた立ち姿です。
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じっと錦江湾と桜島を見つめておられます。

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桜島から上る朝日がきれいでした。
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公園内には、お墓も有ります。




児玉 源太郎 3
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児玉 源太郎 像 3
(山口県 周南市 花畠町 周南市美術博物館)

撮影日:2014年5月14日
分 類:軍人
作 者:大熊 氏広
評 価:☆☆☆

[銅 像]
この作品は大熊氏広作と伝えられています。
ブロンズ製の像で 
奥行 12㎝
横  35.3㎝
高さ 43.0㎝
ブロンズ部分の重さは10.3㎏。

[感  想]
周南市美術博物館で特別展示されていました。
小ぶりな像ですが、人馬ともに精巧に作られており、馬上の姿が凛々しいです。
靖国神社の大村益次郎を制作した大熊氏広の作です。
公園等に大きい像を建立してもらいたいです。


児玉お知らせ

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児玉 源太郎 2
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児玉 源太郎 像 2
(山口県 周南市 児玉町 児玉公園)

撮影日:2011年11月20日
建設年:平成23年
分 類:軍人
作 者:林昭慶(原型:新海竹太郎)
評 価:☆☆☆

[銅 像]
『児玉源太郎の銅像を建立、命日に除幕式
明治期の軍人・政治家の児玉源太郎の銅像が、山口県周南市の児玉公園に建立され、命日の2011年7月23日(土)、除幕式が行なわれた。
児玉は周防国都濃郡徳山村(現周南市)で生誕。明治政府では陸軍大臣など要職を歴任。日露戦争では満州軍総参謀長として日本を勝利に導いたとされる。
銅像は彫刻家の新海竹太郎が制作した国立台湾博物館の銅像を基に、台湾の彫刻家、林昭慶さんが複製を制作、今年2月から市美術博物館に仮展示されていた。
NHKで「坂の上の雲」が放映されたのをきっかけに、市民が像の製作設置委員会を結成、約510万円の寄付金を集めて制作費をまかなった。』
『2011年7月26日 毎日jpより引用』

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[感  想]
周南市出身の児玉源太郎の今年夏に設置されたばかり像です。
軍服を着て、右手で帽子、左手でサーベルを持った立ち姿です。
髭をたくわえた穏やかな表情が印象的です。

児玉 源太郎 1
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児玉 源太郎 像 1
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和13年
分 類:軍人
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

児玉源太郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

児玉 源太郎 (こだま げんたろう)
(1852年-1906年)
明治時代の軍人

嘉永5年閏2月25日生まれ。
明治20年陸軍大学校初代校長となり軍制を整備。
陸軍次官,台湾総督,陸相,内相,文相などを歴任。
日露戦争では満州軍総参謀長をつとめ,大山巌満州軍総司令官を補佐。
39年参謀総長。陸軍大将。
明治39年7月23日死去。55歳。
死後伯爵。周防(山口県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎性格的には情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。
しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。

◎日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。

◎児玉と乃木は旧知の間柄であった。
千葉県佐倉における東京鎮台第二連隊長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。
「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。

◎児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。
己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。
児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。

◎晩年、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩き寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。

[感  想]
日露戦争で活躍した山口県徳山出身の軍人です。
像は、北村西望の彫刻園の中に展示されています。
馬に跨り敬礼する姿が印象的です。

河合 操
2014河合 (4)

2014河合 (3)

2014河合 (2)
河合 操 像
(大分県 杵築市 杵築 杵築城内)

撮影日:2014年2月3日
分 類:軍人
作 者:日名子 実三
評 価:☆☆☆

河合操
河合 操(かわい みさお)
(1864年-1941年)

明治-大正時代の軍人。
元治元年9月26日生まれ。
日露戦争では満州軍参謀として出征。
陸軍省人事局長、陸軍大学校長、第一師団長、関東軍司令官などを歴任し、大正10年大将、12年参謀総長となった。枢密顧問官。
昭和16年10月11日死去。78歳。
豊後(大分県)出身。陸軍大学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
杵築城内の展示スペースにおられます。
2014河合 (5)
軍服を着た立ち姿で、髭が特徴的です。
八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことで有名な日名子実三の作。

秋山 好古 3
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秋山好古3IMG_2218 (4)

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秋山好古3IMG_2218 (2)
秋山 好古 像 3
(愛媛県 松山市 梅津寺町 梅津寺公園)

撮影日:2013年3月21日
建設年:昭和45年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

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[感  想]
梅津寺公園の高台におられます。
サーベルを左手に持った立ち姿で、髭が特徴的です。
少し劣化が進んでいるのが気になります。

好古ポスター
民芸伊予かすり会館に貼ってあったポスター

秋山 好古 2
秋山好古IMG_1750 (1)

秋山好古IMG_1750 (2)
秋山 好古 像 2
(愛媛県 松山市 文京町 松山北高校)

撮影日:2013年3月20日
建設年:平成16年
分 類:軍人
作 者:池川 直
評 価:☆☆☆

秋山好古IMG_1750 (3)
「秋山好古と松山北高校」
北予中学校時代の1924年(大正13年)から約6年間、元陸軍大将で日露戦争に功のあった秋山好古が校長を務めた。彼は旧制北予中学に馬で毎日学校に通ったことでも有名である。

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校長室の秋山好古の書と小像。
この像が秋山好古生誕地にある銅像の復元モデルとなった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
松山北高校敷地内の八十周年記念館前におられます。
校長時代と思われる、スーツ姿の上半身の像です。
毎日馬で通ったというのも、すごいと思いました。

秋山 好古 1
秋山好古2IMG_1830 (2)

秋山好古2IMG_1830 (6)

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秋山好古2IMG_1830 (4)

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秋山 好古 像 1
(愛媛県 松山市 歩行町 秋山兄弟生誕地・生家)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成16年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆☆

秋山好古 肖像
秋山 好古(あきやま よしふる)
(1859年-1930年)
明治-大正時代の軍人

安政6年1月7日生まれ。
秋山真之の兄。
陸軍乗馬学校長、清国駐屯軍守備隊司令官、近衛師団長、朝鮮駐箚軍司令官、教育総監などを歴任。
大正5年大将。
騎兵を育成して戦術・訓練を研究し、日清・日露戦争で名をあげた。
昭和5年11月4日死去。72歳。
伊予(愛媛県)出身。陸軍大学校卒。
通称は信三郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

秋山好古2IMG_1830 (5)
「秋山兄弟生誕地」
秋山家は、江戸末期の天保年間から現在地に家を構えていました。
好古が北予中学校の校長時代に住んでいたのは、自分が生まれた当時の家(4部屋と土間、台所の質素な家)に若干手を加えただけのものだといわれています。
現在の建物は、当時の設計図がないことから、好古が住んでいた時にしばしば訪問していた親戚の石井悦子さん(群馬県在住)や、好古四女:米田治子さん(故人)などからの聞き取りや、当時の写真を検証して建設されたものです。
当時の湧水を今に残す井戸など、在りし日の暮らしが再現されています。
「松山市ホームページ」から

[エピソード]
◎風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。

◎青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。
フランス留学中の秋山
フランス留学中の秋山

◎酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいの事が出来部下たちを感嘆させた。しかし酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。

◎極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

◎福澤諭吉を尊敬しており、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとした。

◎書に長けており、退役後は揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。

◎晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。

◎愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。

◎弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。

◎欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。

◎第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。

◎フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

◎陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
昭和11年に道後公園に建てられた好古の銅像は、昭和18年に、戦時中の供出で消滅した。そのレプリカが、秋山家親族や地元の設立功労者に配られており、今日まで残っていたので、それをもとにして、生家の復元に合わせて、原寸大の騎馬銅像を復元したもの。

[感  想]
日本騎兵の父と言われた、秋山好古の騎馬像です。
黒光りする像で、彫の深い顔や髭、軍服など細かいところまでよく造られています。

秋山好古2IMG_1830 (1)
じっと弟の真之の銅像を見つめています。

秋山 真之 2
秋山真之3IMG_2210 (3)

秋山真之3IMG_2210 (4)


秋山真之3IMG_2210 (2)
秋山 真之 像 2
(愛媛県 松山市 梅津寺町 梅津寺公園)

撮影日:2013年3月21日
建設年:昭和38年(昭和43年移設)
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

[銅 像]
秋山真之の最初の銅像は、昭和6年に、真之の13回忌と日本海海戦25周年を記念して、道後公園内に建てられたが、昭和18年、戦争による金属供出で撤去された。
その銅像のポーズは、三笠艦橋の東郷平八郎を擬した双眼鏡を手にしたものであった。
戦後になり、昭和38年石手寺境内に再建され、その後、昭和43年に、梅津寺公園の大丸山に移された。
台座の文字の揮毫は、東郷平八郎による「智謀如湧」。
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[感  想]
梅津寺公園の高台(好古像よりさらに上)におられます。
本を手に持った立ち姿で、
「三笠艦橋の図」での真之の姿がモデルと思われます。
三笠艦橋の図
三笠艦橋の図
(右から3番目が秋山真之)


秋山真之3IMG_2210 (1)
じっと瀬戸内海を見つめておられます。

真之ポスター
民芸伊予かすり会館に貼ってあったポスター

秋山 真之 1
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秋山 真之 像 1
(愛媛県 松山市 歩行町 秋山兄弟生誕地・生家)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成16年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

秋山真之 肖像
秋山 真之(あきやま さねゆき)
(1868年-1918年)
明治-大正時代の軍人

慶応4年3月20日生まれ。
秋山好古の弟。
日清戦争に従軍後、アメリカに留学。
帰国後、常備艦隊参謀となる。
日露戦争では連合艦隊作戦参謀として海戦の作戦を指揮。
日本海海戦での「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の報告文は有名。
大正3年軍務局長。6年海軍中将。
戦略家として知られた。
大正7年2月4日死去。51歳。
伊予(愛媛県)出身。海軍兵学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎参謀としての真之の功績は、長らく東郷の影に隠れ、広く一般に知られている人物とは言い難かったが、戦後、島田謹二『アメリカにおける秋山真之』(初版・昭和44年(1969年))によって紹介され、司馬遼太郎が発表した歴史小説『坂の上の雲』(初版・昭和47年(1972年))で主人公になった結果、国民的な知名度を得ることになった。

◎同郷の俳人・正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、東京へ行った後も共立学校の同級生として交遊し、和歌なども学ぶ。また、大蔵官僚となった勝田主計も真之や子規の松山時代からの友人として知られている。

◎日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでも僅か20文字という驚異的な短さで説明しているため、今でも短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として高く評価されている(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。またZ旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も真之の作である。

◎日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における、東郷の訓示(聯合艦隊解散の訓示)の草稿も真之が起草したものとされている。この文章に感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布した。これらから名文家・文章家としても知られており、後に「秋山文学」と高く評価されるようになる。

◎東郷は「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と真之の作戦立案能力を評価した。

◎幼少の頃は腕白なガキ大将だった。多くの子供を引き連れて戦争ごっこをするにとどまらず、本を参考に花火を作って打ち上げたりするほどだった。あまりにも腕白がすぎるため、貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いた。他に絵や水泳、かけっこが得意であった。

◎海軍兵学校時代、同校で野球チームを編成し、海軍野球の創始者となった。

◎少尉候補生時代、食事中にパンくずでビスマルクやナポレオン、豊臣秀吉などの頭像を作って遊んでいた。
同じく候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか?」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる」と、答えた。

◎煎り豆が好物で、ポケットに忍ばせてよく食べていた。
この豆の種類であるが、明治37年(1904年)11月23日付の母宛て手紙に「何か幸便あれば豌豆及空豆二三斗計りイリテ御送被下度候」とあり、エンドウマメとソラマメの2種であった。

◎軍服の袖で鼻水を拭いたり、作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすなど、身なりを全く気にしない性格であったと伝えられる。また人前で放屁や放尿をすることもあった。

◎アメリカからの帰国中、賭博詐欺にあった。イカサマだと気づいた真之は、リーダーの男を部屋に連れ込み「黙ってやらせておけばいい気になりおって。このままでは侍の名折れだ、金を返せ」と、語気鋭く短刀の鞘を払った。怯えた男は金を返して逃げ出したという。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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道後公園内に建てられていた真之の銅像は、写真しか残っていなかったため、それと同じ銅像の復元がきわめて難しいことから、旧海軍大学校(現、海上自衛隊幹部学校)にある真之の胸像をモデルにして、復元したものである。

[感  想]
秋山兄弟生誕地・生家に兄好古と共におられます。
軍服を着た、サーベルを両手で押さえている上半身の像で、細かいところまでよく造られています。
兄の好古の銅像を見つめています。
秋山真之1IMG_1802 (5)

秋山真之1IMG_1802 (1)

大山 巌 2
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大山 巌 像 2
(鹿児島県 鹿児島市 加治屋町交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:軍人
評 価:☆☆

[感  想]
薩英戦争が始まり、イギリス艦7隻が現れた鹿児島湾に三人で急いで駆けつけているところです。
若い頃の銅像ですが、後年の姿である銅像1の面影はありません。

西郷 従道
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西郷 従道 像
(鹿児島県 鹿児島市 加治屋町交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:軍人
評 価:☆☆

西郷従道1

西郷従道2
「近代日本人の肖像」から

西郷 従道(さいごう つぐみち)
(1843年-1902年)
明治時代の軍人、政治家

天保14年5月4日生まれ。
西郷隆盛の弟。
もと薩摩鹿児島藩士。
明治2年渡欧し、兵制を調査。
7年陸軍中将となり、台湾出兵を強行。
西南戦争では、兄隆盛に荷担しなかった。
のち海軍にうつり、18年第1次伊藤内閣の海相、翌年農商務相をかねた。
その後も海相、内相を歴任。
海軍大将、元帥。
明治35年7月18日死去。60歳。
通称は信吾。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ。

◎面影が兄・隆盛に似ているとされ、エドアルド・キヨッソーネが隆盛の肖像画を作成する際、彼の顔写真が参考にされた。(首から上は従道を、体の部分は大山巌を参考にしたといわれている)

◎維新後、太政官に名前を登録する際、「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した。
ちなみに兄・隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父親である西郷吉兵衛の諱であるが、兄の同志であった吉井友実が勘違いして父の名前を登録してしまったものである。
隆盛、従道というのは諱であり、日常使用するのは通称(隆盛は吉之助、従道は信吾)であった。

◎兄・隆盛や従兄・大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。
これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。

◎海軍大臣時代は山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせ、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。
西郷は従兄弟の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せて殆ど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。
軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。
井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。

◎海相を退いた後、主力艦の手付金を払う必要が生じたが予算がない状況に陥った。
山本権兵衛海相から相談をうけた西郷は「それは予算を流用するしかない。もちろん大変なことだから万一の時は二人で二重橋の前で腹を切ろう」と答え、主力艦を購入した。
その時に購入した軍艦が、後に日露戦争で大活躍した「三笠」である。

◎首相候補に再三推されたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた(大山巌も同様)。

◎ある会議で、某閣僚がわかりきったことを延々と述べて議論が行き詰まった際のこと。
その閣僚が座ろうとした時に、隣席の西郷が椅子を引いたために尻餅をつき皆が大笑いしてしまい、これ以上議論をする空気ではなくなってしまったので、椅子を引かれた当人も苦笑いの内に引き下がり、会議は無事まとまったという。

◎相手の話をよく聞いて「成程、成程」と相槌を打ったことから「成程大臣」と渾名された。

◎横浜に設けられた日本レース・倶楽部で日本人としてはじめて参加が認められた日本人最初の馬主で、明治8年(1875年)には愛馬ミカンに騎乗して日本人馬主による初勝利をあげた。そのときの風刺漫画が残っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
西郷隆盛の弟で、有名なキヨッソーネの西郷隆盛の肖像画は、彼がモデルと言われています。
若い頃の銅像ですが、後年の写真の面影はありません。

樺山 資紀
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樺山 資紀 像
(鹿児島県 鹿児島市 高見馬場交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:軍人、政治家
評 価:☆☆

樺山資紀
樺山 資紀(かばやま すけのり)
(1837年-1922年)
明治時代の軍人、政治家

天保8年11月12日生まれ。
陸軍にはいって少将にすすみ、明治16年海軍に転じる。
第1次山県内閣、第1次松方内閣の海相をへて軍令部長となり、日清戦争で作戦を指揮。
28年大将。
初代台湾総督、第2次松方内閣内相、第2次山県内閣文相などを歴任。
大正11年2月8日死去。86歳。
薩摩(鹿児島県)出身。本姓は橋口。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎日清戦争中、「西京丸」に乗艦した(連合艦隊の伊東祐亨司令長官が慎重な性格であることを案じて督戦に行ったとされる)が、商船を改造した急ごしらえの艦船のため他の艦船より取り残され、清の艦隊に狙い撃ちをされそうになった時、敵の旗艦へ突込み敵僚船が砲撃し難いようにし反転して逃げ切った(いわゆる「前退戦法」)。

◎晩年に脳溢血で倒れ1週間意識が無くなった。
当時かなりの高齢であるため、半ば諦めて皆が葬式の準備を始めたところ、むっくりと布団から身を起こしたという。
この後遺症で右半身に少し麻痺が残ったが、(脳溢血が軽度であったため)リハビリもせず快復できたといわれる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
腕組みをして、黒田清隆の方へ顔を向けて話している姿です。
若い頃の表情の特徴が余り無いところが残念です。

井上 幾太郎
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井上 幾太郎 像
(山口県 宇部市 西万倉 万倉護国神社)

撮影日:2012年7月21日
建設年:昭和31 年(昭和8年制作)
分 類:軍人
作 者:児島 矩一
評 価:☆☆☆

井上 幾太郎(いのうえ いくたろう)
(1872年-1965年)
明治昭和時代前期の軍人

明治5年1月10日生まれ。
日清戦争,北清事変,日露戦争に従軍する。
大正5年陸軍省運輸部本部長,8年航空部本部長となり陸軍航空の基礎を築いた。
昭和2年陸軍大将。
12年最後の在郷軍人会会長。
昭和40年5月7日死去。93歳。
山口県出身。陸軍大学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
宇部市万倉護国神社敷地におられます。
軍服姿の小ぶりな上半身の像です。
濃い眉毛と髭が印象的です。

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松尾 敬宇
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松尾 敬宇 像
(熊本県 菊池市 隈府 菊池神社)

撮影日:2011年8月7日
建設年:昭和44年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

松尾 敬宇
松尾 敬宇(まつお けいう/よしたか)
(1917年-1942年)
海軍軍人

熊本県山鹿市久原出身。
小学校校長松尾鶴彦の次男として生まれる。
鹿本中学を経て、1938年9月、海軍兵学校を卒業。
特殊潜航艇艇長としてシドニー湾へ突入。
部下の都竹正雄海軍兵曹長と拳銃で自決。
遺骨は駐オーストラリア公使河相達夫に託される。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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[感 想]
菊池神社の境内にある上半身の像です。
涼しげな顔が印象的です。

谷 干城

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谷 干城 像
(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)

撮影日:2011年8月7日
建設年:昭和44年
分 類:軍人
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆☆

谷たてき
「近代日本人の肖像ホームページ」から

谷 干城 (たに たてき)
(1837年-1911年)
明治時代の軍人,政治家

天保(てんぽう)8年2月12日生まれ。
もと土佐高知藩士。
維新後陸軍にはいり,熊本鎮台司令長官。
西南戦争の際,熊本城を西郷軍の攻撃からまもりぬく。
明治11年陸軍中将。
第1次伊藤内閣の農商務相となるが井上外相の条約改正案に反対して辞任。
学習院院長。貴族院議員。
明治44年5月13日死去。75歳。
通称は申太郎,守部。号は隈山。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◎坂本龍馬への尊敬
土佐藩上士の谷干城は、同じ藩の郷士と呼ばれる下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬したとされる。
また彼自身の伝聞では、慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺されたときには、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったという。
谷は事件当初より、犯人は新選組と決めつけていたといわれ、戊辰戦争の際には、流山で捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問について、薩摩藩と殊更対立した。
斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。
明治33年(1900年)、かつての見廻組の一人であった今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は、それを聞き及ぶと「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
高橋公園の維新群像のすぐ近くにおられます。
刀を立て堂々と座っておられます。
軍服と八の字の髭が細部に至るまで表現されています。


谷村 計介
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谷村 計介 像
(熊本県 熊本市 本丸 熊本城天守閣)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成10年
分 類:軍人
作 者:江藤 望
評 価:☆☆☆

谷村計介
「近代日本人の肖像ホームページ」から

谷村 計介(たにむら けいすけ)
(1853年-1877年)
明治時代の軍人

嘉永6年2月13日生まれ。
熊本鎮台にはいり,佐賀の乱,台湾出兵などに出動。
西南戦争の際,谷干城の命で西郷軍に包囲された熊本城から脱出,城外の政府軍との連絡をはたす。
明治10年3月4日田原(たばる)坂で戦死。25歳。
日向(宮崎県)出身。本姓は坂本。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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「西南戦争の戦火をくぐり抜け、籠城軍の窮状を伝えた英雄」
谷村計介は西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城の命を受け、城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも逃げ出し、官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた宮崎県出身の陸軍伍長で、後に自ら進んで田原坂戦に加わり戦死しました。
この話は戦前の修身の教科書に載り、広く国民に親しまれました。
戦前は今の行幸橋際に銅像がありましたが、大戦中に金属供出で撤去されてしまいました。
現在の銅像はそれを惜しんだ熊本ライオンズクラブから、平成10年に熊本市に寄贈されたものです。
現在は天守閣の入口で皆様をお待ちしています。
「熊本城ホームページ」から

[感 想]
熊本城天守閣の入口に入ってすぐのところにおられます。
一口城主の名前の札にバックに拳を握り堂々と立っている姿が印象的です。

安田 伊左衛門
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安田 伊左衛門 像
(東京都 府中市 日吉町 府中競馬場パドック横)

安田 伊左衛門(やすだ いさえもん)
(1872年-1958年)
陸軍軍人

撮影日:2010年12月11日
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

安田
安田伊左衛門
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍騎兵大尉。
衆議院議員ののち貴族院議員
日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長。

「競馬への功績」
安田は「日本競馬の父」「日本ダービーの生みの親」と呼ばれる。
陸軍騎兵大尉として中央馬廠戸山厩舎長であった1904年、競馬会設立の議に加わる。
1908年に馬券の発売が禁止されると、馬券発売を合法化すべく旧競馬法の制定に奔走した。
1936年の競馬倶楽部統合、日本競馬会創設に関与。同会初代理事長松平頼寿の退任を受け、第2代理事長を勤めた。
在任中は、日本競馬のレベルアップを図るべくさまざまな改革に着手。
イギリスを範としてレースの体系を整備し、日本ダービー(東京優駿大競走)をはじめとするクラシックレース五大競走の原形を作った。
1954年に日本中央競馬会が設立されると、同郷の大野伴睦の要請を受け、初代理事長に就任した。
翌1955年に理事長を有馬頼寧に要請し、同会顧問となった。
1951年に安田の業績を称え、日本競馬史上初のマイル重賞「安田賞」が誕生。
1958年に安田が死去した後、同レースは安田記念と改称され、現在は春季の芝マイル部門チャンピオンホース決定戦として開催されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
安田記念は、この人の名前からきているそうです。
府中競馬場パドック横で馬を見つめられているようです。

市川 紀元二
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市川 紀元二 像
(静岡県 静岡市葵区 静岡護国神社)

市川 紀元二(いちかわ きげんじ)
(1873年‐1905年)
明治時代の軍人

撮影日:2010年3月23日
分 類:軍人
作 者:新海竹太郎
評 価:☆☆☆

明治6年2月17日生まれ。
京浜電鉄の技術部長。
明治37年日露戦争に歩兵少尉として出征し,遼陽の首山堡の戦闘で功をたてる。
陸軍中尉。奉天の会戦で明治38年3月7日戦死。33歳。
静岡県出身。東京帝大卒。旧姓は青山。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
静岡護国神社におられます。
サーベルを手にした戦闘中の銅像です。

乃木 希典 4
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乃木 希典 像 4
(東京都 港区 赤坂8丁目 旧乃木邸)

撮影日:2009年9月27日
建設年:昭和43年
分 類:軍人
作 者:鈴木達
評 価:☆☆☆

◆嘉永2年(1849)、長州支藩である長府藩藩士の子として現在の六本木にあった藩邸内で誕生。
長じて長府藩報国隊に入隊(後に長州藩奇兵隊へと編入)し、以後軍人としての人生を歩みつづけました。
西南戦争では歩兵連隊長心得として部隊を率いるものの、撤退の渦中で連隊旗を奪われるという失態を演じます。
これを恥じた乃木希典は、自ら死を求めるがごとき戦いぶりを見せ、自決さえしようとします。
これがかえって「武人の潔さ」として評価されますが、乃木自身は失態の清算を忘れることはなく、大正元年(1912)、崩御した明治天皇に殉死する形で自らを処することになります。
日清戦争では歩兵第十一旅団長として旅順要塞攻略戦に参加(1日で陥落)。
しかし第三軍司令官として臨んだ日露戦争では、大小の銃火器、砲台とコンクリートで強化され近代化された旅順要塞を攻め倦み、最終的には陥落させたもののあまりに大きい損失を出してしまいます。
指揮ぶりには賛否両論がありますが、攻防戦渦中に起こった「指揮官交代」の論に対し、明治天皇は絶対の信頼を示したといわれており、少なくとも当時最も信頼された陸軍指揮官の一人でした。
銅像は、赤坂の乃木邸(乃木神社内)にあります。これは陸軍少将時代の明治28年、金沢を訪れた乃木が、出会った辻占売りの少年が一家の生計を支えていることを知って当時大金だった二円を渡し、これに感激した少年が努力の末に金箔職人として大成したというエピソードを描いたもの。
彫刻家鈴木達の製作で、昭和43年に長府藩邸跡のニッカ池(六本木ヒルズの建築と周辺地域の整備に伴い、現在は毛利庭園内の池の下にある)に建立され、後に現在の場所に移築されました。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
東京都赤坂の旧乃木邸におられます。
乃木将軍の少年を励ます姿が、よく表現されています。

乃木 希典 3
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乃木 希典 像 3
(京都府 京都市 伏見区桃山町 乃木神社)

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和56年
分 類:軍人
作 者:小倉右一郎
評 価:☆☆☆

「学習院院長就任」
明治天皇による勅命
1907年(明治40年)1月31日、乃木は学習院院長を兼任することとなったが、これには明治天皇が大きく関与した。
山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を明治天皇に内奏した。
しかし、明治天皇はこの人事案に許可を与えず、自身の孫(後の昭和天皇ら)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院院長に指名した。
明治天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠んだ
「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」
また、明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
京都市伏見の乃木神社におられます。
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「学習院長時代の乃木将軍」を表しています。
帽子を被って無い、上半身の小ぶりな像です。

乃木 希典 2
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乃木 希典 像 2
(夫婦像)
(山口県 下関市 長府 乃木神社)

撮影日:2007年9月6日
建設年:昭和37年
分 類:軍人
作 者:竹内 不忘
評 価:☆☆☆

乃木 静子(のぎ しずこ)
(1859年-1912年)
明治時代,乃木希典の妻

安政6年11月27日生まれ。
薩摩鹿児島藩医の娘。
明治11年結婚。
明治天皇大葬の日の大正元年9月13日,夫とともに殉死した。
54歳。旧姓は湯地。旧名はお七。
【格言など】出でましてかへります日のなしと聞くけふの御幸(みゆき)に逢ふぞかなしき(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

乃木 希典夫婦
自決当日の乃木夫妻
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[銅 像]
夫婦銅像は、昭和37年(1962年)、乃木神社30周年祭を記念して建立されました。
題字は、内閣総理大臣 岸信介 書。
横の馬は、乃木将軍が乗った名馬「壽号」で、乃木神社創設85年を記念して建立されました。

[感 想]
下関市長府の乃木神社の奥におられます。
軍服姿の乃木将軍と着物姿でおだやかな表情の奥さんの姿がいいです。
初めての夫婦銅像です。

乃木 希典 1
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乃木 希典 像 1
(山口県 下関市 長府 覚苑寺)

乃木 希典(のぎ まれすけ)
(1849年-1912年)
明治時代の軍人

乃木
「近代日本人の肖像ホームページ」から

乃木 希典
乃木 希典
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

撮影日:2007年9月6日
建設年:昭和33年
分 類:軍人
作 者:長谷川栄作
評 価:☆☆☆

嘉永2年11月11日生まれ。
長門(山口県)府中藩士の子。
明治4年陸軍少佐となり,西南戦争に従軍。
歩兵第一旅団長,台湾総督などをへて,日露戦争では第三軍司令官として旅順攻撃を指揮。
37年陸軍大将,40年学習院院長。
明治天皇大葬の日の大正元年9月13日,妻の静子とともに殉死した。64歳。
号は静堂,石林子など。
【格言など】うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「概 観」
乃木は、日露戦争において旅順要塞を攻略したことから、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
しかし、旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、明治天皇が崩御した際に殉死したことなど、その功績及び行為に対する評価は様々である。
例えば、司馬遼太郎は、著書『坂の上の雲』『殉死』において、福岡徹は著書『軍神 乃木希典の生涯』において乃木を愚将と評価した。
他方で、司馬遼太郎らに対する反論や、乃木は名将であったとする主張など乃木を擁護する意見もある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
この銅像は2代目で、初めの銅像は、昭和14年竣工。
昭和18年戦局の苛烈に伴い供出され、
昭和33年に再建された。 

[感 想]
下関市長府の乃木神社におられます。
大きく迫力があり、秋は、紅葉が栄えてきれいだと思います。

東郷 平八郎
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東郷 平八郎 像
(福岡市博多区 東公園)

東郷 平八郎 (とうごう へいはちろう)
(1848年-1934年(昭和9年))
明治-大正時代の軍人

撮影日:2008年12月6日
建設年:昭和10年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

東郷平八郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

薩摩鹿児島藩士。
維新後イギリスに留学。
日清戦争では浪速艦長。
日露戦争では連合艦隊司令長官として、旅順港封鎖作戦、日本海海戦を指揮。
バルチック艦隊を撃滅し、「東洋のネルソン」と称された。
海軍大将、元帥。
昭和9年5月30日死去。88歳。
【格言など】皇国の興廃この一戦にあり各員いっそう奮励努力せよ(バルチック艦隊との交戦にあたり)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。
晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」と発言し、陸軍大将であり、諧謔のセンスの乏しい乃木希典院長を激昂させ、同時に半ば呆れさせたというエピソードがある。
◎昭和天皇は学習院時代、院長であった乃木希典については「印象深く、尊敬もしている」と述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。
◎錬度を上げることに熱心で聯合艦隊解散の辞に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している。

「東郷の郵便切手」
逓信省(現在の日本郵便)が1937年(昭和12年)に発行した普通切手のうち、当時の封書基本料金用の4銭切手に東郷の肖像が使われている。
その後、郵便料金の改定に伴い5銭と7銭の額面の切手が発行されている。
4銭(1937年発行)
4銭(1937年発行)
5銭(1942年発行)
5銭(1942年発行)
7銭(1944年発行)
7銭(1944年発行)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感 想]
看板になぜここに東郷平八郎像があるか詳しく書いてありました。
東公園にある日蓮銅像と亀山銅像を二度参拝されたことからだそうです。
軍服をきた凛々しい顔が印象的です。
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日蓮銅像と東郷平八郎像

松尾 伝蔵
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松尾 伝蔵 像
(福井市 旭小学校)

松尾 伝蔵(まつお でんぞう)
(1872年-1936年)
陸軍軍人

撮影日:2008年9月2日
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

松尾2
松尾伝蔵と岡田啓介
「女房役」義弟にして総理秘書官、身辺警護役、そして女房代わりとして官邸に常駐し炊事などの世話まで見た松尾は、岡田にとって気心知れた友でもあった。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

岡田啓介総理の妹婿にあたり、岡田の内閣総理大臣秘書官事務取扱を務めた。
福井県出身

「二・二六事件」
二・二六事件当夜も官邸にいたが、容貌が岡田と似ていたために、押し入ってきた部隊に総理と間違えられて射殺された。
松尾は日頃から、万一の場合には、岡田の身代わりになる覚悟であったという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
福井市立旭小学校の校庭におられます。
逆光になってしまいましたが、上半身の像です。
写真を見ると確かに岡田啓介と似ています。

長岡 外史
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長岡 外史 像
(山口県 下松市 笠戸島 外史公園)

長岡 外史(ながおか がいし)
(1858年-1933年)
明治-昭和時代前期の軍人,政治家

撮影日:2007年7月13日
分 類:軍人、政治家
評 価:☆☆☆

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長岡 外史
写真提供:長岡外史顕彰会

安政5年1月13日生まれ。
日露戦争で大本営参謀次長などをつとめ,明治42年陸軍中将。
軍務局長や第十三・第十六師団長を歴任する。
大正13年衆議院議員。
新潟県高田の第十三師団長在任当時の明治44年,将校たちにオーストリアの軍人レルヒから1本杖スキーをまなばせ,スキー技術を日本にはじめて紹介。
昭和8年4月21日死去。76歳。
長門(山口県)出身。陸軍大学校卒。
本姓は堀。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

新し物好きであり、新潟県高田(現在の上越市)の第13師団長時代、視察に訪れていたオーストリアの軍人レルヒ少佐が伝えたスキーを軍隊にはじめて導入した(これが日本スキー発祥と言われている)。
また変わった所もあったようで「プロペラ髭」と呼ばれる長大な髭を蓄え、それを自慢したとされる。自慢の髭は最長で70cm弱にも達したという。
山口県下松市笠戸島の国民宿舎大城に外史を顕彰する外史公園があり、外史の銅像が建てられている。下松市内には「長岡外史顕彰会」があり、顕彰活動に取り組んでいる。

パリから飛行家ビュルタンとメンジュ表敬訪問
昭和6年3月21日、パリから飛行家ビュルタンとメンジュ表敬訪問
「明治偉人伝 長岡外史 ホームページ」から

[感 想]
大雨の中、公園まで階段を一所懸命上って行きましたが、行ったかいのあるインパクトのある像でした。
石像ですが、特徴は、何と言っても、プロペラ髭です!
何かつけていたのだろうか?
どうやって、寝ていたのだろうか?
と思ってしまいます。





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