ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

松尾 静磨
松尾 (2)

松尾 (4)

松尾 (3)
松尾 静磨 像
(佐賀県 武雄市若木町大字川古)

撮影日:2016年3月28日
建設年:昭和51年(平成15年移設)
分 類:官僚
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

松尾 静磨
松尾 静磨(まつお しずま)
(1903年-1972年)
昭和時代の官僚、経営者

明治36年2月17日生まれ。
東京瓦斯(ガス)電気から逓信省にうつり、大阪飛行場長、航空局次長をつとめる。
昭和24年航空保安庁初代長官。26年日本航空の設立で専務、36年社長、46年会長となる。
安全運航のための整備を重視し、現場主義を説いた。
昭和47年12月31日死去。69歳。
佐賀県出身。九州帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

九州最大のゼネコン松尾建設会長で、弘学館中学校・高等学校を創設した松尾幹夫は甥にあたる。御巣鷹の尾根での日本航空123便墜落事故を主題にした山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』に登場する名経営者「桧山社長」のモデルとも言われる。

『語 録』
臆病者と言われる勇気を持て。安全航行こそ、最大の使命であり、責任である。 臆病者と言われるのを恐れないと言われることも多い。
企業というものは社長一人が優れていても、たいしたことではないんです。全社員がそれぞれの能力を十分に発揮できるような、一人一人が気持ちよく働けるような職場づくりをしなければ業績は上がりません。 ワンマン経営を批判した発言としてよく引用される。
… 祖先のこころうけついだ この空この地このからだ はえあるその名 若木のように 希望明るく手をとって つくるよい郷(さと)よい日本 母校・武雄市立若木小学校の校歌の締めくくり部。57歳の時に頼まれて作詞したもので、日本の未来を託す子供たちに寄せる靜磨の温かい期待があふれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
若木公民館近くにおられます。
松尾 (1)
上半身の像で、彫りの深い顔立ちと口髭が印象的です。

スポンサーサイト
前島 密 2
前島IMG_1697 (3)

前島IMG_1697 (2)
前島 密 像 2
(愛媛県 松山市 道後樋又 四国郵政研修所敷地内)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和59年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆


[感  想]
四国郵政研修所の前庭の植え込みの中におられます。
前島IMG_1697 (1)
「郵便制度の父」と呼ばれる前島の像は、郵便局関係の施設に設置されているようです。
少し白っぽくなっているのが、残念です。

前島 密 1
IMG_4127.jpg

IMG_4120.jpg

IMG_4124.jpg
前島 密 像 1
(東京都 中央区 中央郵便局前)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和37年
分 類:官僚
評 価:☆☆☆

前島密
「近代日本人の肖像ホームページ」から

前島密 (まえじま ひそか)
(1835年-1919年)
明治時代の官僚

天保6年1月7日生まれ。
慶応2年幕臣前島家の養子。
明治4年イギリスから帰国し,駅逓頭となり近代郵便制度の確立につとめる。
14年官を辞し,15年結党された大隈重信の立憲改進党にくわわる。
19年東京専門学校(現早大)校長,21年逓信次官。
貴族院議員。国字改良論者としても知られる。
大正8年4月27日死去。85歳。
越後(新潟県)出身。本姓は上野。
【格言など】治国の要は通信の快速四速に在り(「鴻爪痕」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

前島1円
1円切手

前島 1
前島密の銅像を描く記念切手(1946年)
この切手の銅像は、新潟県上越市の前島記念館にあります。

[感  想]
1円切手の肖像画で有名な前島密の像
郵便発祥の地である中央郵便局前の黒光りする上半身の像です。

川路 利良
IMG_0899.jpg

IMG_0900.jpg

IMG_0902.jpg
川路 利良 像
(鹿児島県 鹿児島市 鴨池新町 鹿児島県警察本部)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成11年
分 類:官僚
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

川路 利良
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

川路 利良(かわじ としよし)
(1834年-1879年)
明治時代の官僚

天保5年5月11日生まれ。
もと薩摩鹿児島藩士。
戊辰戦争に参加し、明治4年東京府大属となる。
翌年警察制度視察のため渡欧。
帰国後、司法権と警察権の分離を主張して警保寮の司法省から内務省への移管を建議し、実施される。
7年東京警視庁の大警視。
西南戦争では陸軍少将をかねた。
明治12年10月13日死去。46歳。
初名は正之進。号は竜泉。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

IMG_0904.jpg

IMG_0903.jpg

[エピソ-ド]
◎初代大警視(警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」。

◎終戦後の明治11年(1878年)3月、黒田清隆の妻が病死した際、黒田が酒に酔って妻を殺したとの噂が流れたため、川路が墓を開け、病死であることを確認した。
これについては、川路も薩摩出身であることから黒田をかばったという見方が当時からあり、同年5月に発生する、川路の庇護者であった大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)の遠因になったともいわれる。

◎明治5年(1872年)の初めての渡欧の際、マルセイユからパリへ向かう列車内で便意を催したもののトイレに窮し、やむを得ず座席で日本から持参していた新聞紙の上に排便、その大便を新聞紙に包んで走行中の列車の窓から投げ捨てたところ、運悪くそれが保線夫に当たってしまった。その保線夫が新聞に包まれた大便を地元警察に持ち込んだことから、「日本人が大便を投げ捨てた」と地元紙に報じられてしまった。
この“大便放擲事件”は、司馬遼太郎が『翔ぶが如く』の冒頭部分で描いたことなどで、今日では川路利良の最もよく知られたエピソ-ドの一つとなっている。司馬の他、山田風太郎の『警視庁草紙』や『巴里に雪のふるごとく』(『明治波濤歌』所収)にもこの件は描かれている。

◎職務に献身し、ほとんど制服を脱いだことがなかったといわれる。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回り、1日4時間以上の睡眠をとらなかった。

◎酷暑の日も制服を脱がず、ハンカチも使わず、汗を口で吹き払っていた。我慢が強く、「暑い」「寒い」ということを言ったことがなかったという。

◎家庭では優しく、川路が怒ったところを見た者はいなかったという。「人は過ちや失敗はありがちだ、どんな場合でも怒ってはならない。もし怒るときはただ一度だ」と言っていた。

◎蒲鉾が大好物で、あまりによく買うので料理屋だと思われていたという。

◎警察と警察官の在り方を示した川路の語録は後に『警察手眼』(けいさつしゅげん)として編纂され、警察精神の基本論語として現在も警察官に広く読み継がれている。

◎警察制度創始の功績を称えられ、明治18年(1885年)に弥生神社(現 弥生慰霊堂)に特別功労者として祀られた。
川路の着用した制服、サ-ベルの実物は現在、警察博物館に展示されている。

◎日本の近代警察制度の基礎を造った人物として評価されているが、「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」として長らく裏切り者の印象を持たれて鹿児島では評価が低めであった。平成11年(1999年)に当時の鹿児島県警察本部長・小野次郎らの提唱で鹿児島県警察本部前に銅像が設置されるなど、現在の地元でも人気があまりないながらも、ようやくその功績や人物像が再評価の段階に入りつつある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鹿児島県警察本部前におられます。
制服姿で胸に制帽を当て、すっとした立ち姿で髭が印象的です。

IMG_0905.jpg

林 市蔵
DSCN8352.jpg

DSCN8355.jpg
林 市蔵 像
(熊本県 熊本市 三角公園)

林市蔵 (はやし いちぞう)
(1867年-1952年(昭和27年))
明治-大正時代の官僚。
民生委員の父

撮影日:2008年11月29日
分 類:官僚
評 価:☆☆

林 市蔵

慶応3年11月28日生まれ。
三重・山口県知事をへて、大正6年大阪府知事。
7年米騒動に際し小河滋次郎とともに方面委員を創設。
現在の民生委員制度の始まりで、市蔵は民生委員の父といわれる。
のち日本信託銀行頭取などをつとめた。
昭和27年2月21日死去。84歳。肥後(熊本県)出身。帝国大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
熊本城のすぐ近くの三角公園におられます。
官選知事時代の13代山口県知事だそうです。

岩村 通俊
RIMG0218.jpg

RIMG0219.jpg
岩村 通俊 像
(北海道 札幌市 円山公園)

岩村 通俊 (いわむら みちとし)
(1840年-1915年(大正4年))
幕末-明治時代の武士、官僚

撮影日:2008年10月29日
建設年:昭和 42年
分 類:武士、官僚
評 価:☆☆☆

岩村 通俊
岩村通俊
(写真提供:札幌市教育委員会 文化資料室)

天保11年6月10日生まれ。
林有造、岩村高俊の兄。
土佐高知藩士。
維新後、北海道開拓にかかわる。
西南戦争戦中・戦後の鹿児島県令。
のち初代北海道庁長官、第1次山県内閣の農商務相、貴族院議員。
大正4年2月20日死去。76歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
札幌の円山公園におられます。
コートを着たりりしい立ち姿とひげが印象的です。

和気 清麻呂 2
DSCN3005.jpg

DSCN3010.jpg
和気 清麻呂 像 2
(京都府 京都市 上京区 護王神社内)

撮影日:2008年6月14日
建設年:平成10年
分 類:高級官僚
作 者:松本 繁来
評 価:☆☆☆

[感  想]
和気清麻呂像は、東京に続き2つめ。
京都護王神社におられます。
1の巨大な像に比べると、等身大の像ですが、きりりとした表情で立っておられます。
和気清麻呂の守護神とされている猪が多くいました。

DSCN3001.jpg

DSCN3012.jpg

DSCN3013.jpg

和気 清麻呂 1
IMG_2824.jpg

IMG_2825.jpg
和気 清麻呂 像 1 
(東京都 千代田 気象庁前)

和気 清麻呂(わけのきよまろ)
(733年- 799年)
奈良-平安時代前期の公卿

撮影日:2007年6月4日
分 類:公卿
作 者:佐藤朝山
評 価:☆☆☆☆

天平5年生まれ。
和気乎麻呂の子。姉に和気広虫。
神護景雲3年道鏡が皇位をのぞんだとき,宇佐八幡宮の神託をうけてこれを阻止した。
そのため名を別部穢麻呂とかえられ,大隅(鹿児島県)に流された。
光仁天皇の即位で召還され,のち桓武天皇にもつかえた。
造宮大夫として平安遷都につくす。
従三位,民部卿。
延暦18年2月21日死去。67歳。
備前(岡山県)藤野郡出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎和気清麻呂と猪
1899(明治32)年に発行された日本銀行券甲十円券の裏面には「猪」が描かれており、甲十円券は通称「いのしし札」と呼ばれています。
また甲十円券の前、1888(明治23)年に発行された日本銀行券改造十円券の表の肖像は和気清麻呂で、その周りに8匹の小さないのししが描かれいることから通称「表いのしし」と呼ばれています。

甲十円券(通称:いのしし札)
1899(明治32)年発行
nm062.jpg
表面 肖像:和気清麻呂  
nm062back.jpg
裏面 中央に猪の図柄

改造十円券(通称:表いのしし)
1888(明治23)年発行
nm062_2.jpg
表面 周囲に8匹の猪の図柄
肖像:和気清麻呂
nm062_2back.jpg
裏面

◎和気清麻呂(733~799年)は、称徳天皇の皇位を護り、平安遷都に功績があり、「忠義の英雄」として戦前の国定教科書に掲載されていました。
清麻呂は称徳天皇に重用されていましたが、当時、天皇に寵愛されていた道鏡がまさに飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていました。
そして、ある時、道鏡一派の九州太宰府の神職が、宇佐八幡の神託として、「道鏡が皇位につけば、天下太平となろう」と伝えてきたのです。
そこで、称徳天皇は清麻呂を宇佐八幡に出張させて神託を確認させたところ、
「わが国では昔から君子と臣下は決まっている。臣下を君子とすることはない。」と、先の神託とは全く逆の内容を告げられたのでした。
このため清麻呂は道鏡の怒りを買い、大隅国(現在の鹿児島県)へ流されることになりました。
清麻呂は大隅国へ行く途中で、皇位の安泰を祈願するため宇佐詣でをしようとしたところ、道鏡の手先に暗殺されそうになりました。
その時、約300頭の猪が突然現われて、清麻呂の御輿の前後を護衛しながら宇佐八幡までの道を無事に案内したということです。
なお、清麻呂をまつる京都の護王神社では、この話を基に「猪は清麻呂の守護神」として、拝殿の前に狛犬の代わりに雌雄2頭の猪を安置しています。
「ホームページ 日本銀行金融研究所 貨幣博物館」から

[銅 像]
現在でも忠臣とされ、東京都千代田区大手町の気象庁付近や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。
この銅像は、佐藤朝山の作で昭和15(1940)年に紀元2600年を記念し建立されたものです。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
とにかく、この像は、でかくて圧倒されます!
猪の話は、おもしろいですね。
和気神社の「狛猪」も、ぜひ本物を見てみたいです。

菅原 道真
IMG_7868.jpg

IMG_7869.jpg
菅原 道真 像
(徳島県 徳島市 新町橋)

菅原 道真(すがわらのみちざね)
(845年-903年)
平安時代前期の公卿,学者

撮影日:2007年11月16日
建設年:平成3年
分 類:学者、公卿
作 者:長田浅雄
評 価:☆☆☆

百人一首 菅家(菅原道真)
百人一首 菅家(菅原道真)
此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

承和12年6月25日生まれ。
菅原是善の3男。
文章博士。宇多天皇に重用される。
寛平6年(894)遣唐使の中止を建議。
昌泰2年(899)右大臣となるが,左大臣藤原時平の中傷により,大宰権帥に左遷され,
延喜3年2月25日大宰府で没した。59歳。
その祟りをおそれて正一位,太政大臣を追贈され,天神として信仰された。
字は三。通称は菅家,菅公。
詩文集に「菅家文草」「菅家後集」,編著に「日本三代実録」「類聚国史」など。
【格言など】このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向山(たむけやま)紅葉の錦神のまにまに(「小倉百人一首」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
◎菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。
さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
◎清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
この像は、徳島眉山天神社にあります。
学問の神、菅原道真公をお祀した天神社は全国に約12000あると言われ、いるので、道真像は多いかもしれませんね。
座像は、眉毛がつっていて鋭い顔つきですが、銅の色合いがいい感じです。
IMG_7873.jpg
徳島眉山天神社

井上 勝
IMG_2843.jpg

IMG_2844.jpg
井上 勝 像
(東京都 JR東京駅 丸の内口)

井上 勝(いのうえ まさる)
(1843年-1910年)
明治時代の鉄道技術者,官僚

撮影日:2007年6月4日
建設年:大正3年
分 類:官僚、鉄道技術者
評 価:☆☆☆

天保14年8月1日生まれ。
長門(山口県)萩藩士。
文久3年伊藤博文らとイギリスに密航,ロンドン大で鉱山・鉄道の技術をまなび,明治元年帰国。
工部省鉄道頭(のち鉄道局長)となり,5年新橋-横浜間を開通させ,22年東京-神戸間を全通させた。
23年鉄道庁長官。
29年汽車製造会社を設立して初代社長。
鉄道院顧問として欧米視察中,明治43年8月2日ロンドンで死去。68歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

井上勝
鉄道頭  井上 勝(帝国鉄道協会会長時代)
「関西の鉄道史」ホームページから

[エピソード]
◎その半生を日本の鉄道の発展に寄与し日本の鉄道の父と呼ばれる。
◎井上勝(まさる)は、その外見風貌から、「井上おさる」と渾名され同僚に親しまれた。
鉄道庁のトップに登りつめても猶「おさる」の渾名は生きており、井上が策定した無謀とも言える当時の鉄道計画は、随所に「おさる」の渾名をもって批判されることがあった。
しかしそれは鉄道に情熱を燃やす井上への周囲の愛情と表裏一体のものであった。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鉄道に人生の全てを捧げた人です。
「鉄道の父」は、やはり東京駅前に居ないといけません。

辰野金吾設計の赤レンガの東京駅もきれいでした。

IMG_2849.jpg





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。