ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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愛野 時一郎
愛野時一郎 (7)

愛野時一郎 (3)

愛野時一郎 (4)

愛野時一郎 (2)
愛野 時一郎 像
(佐賀県 鹿島市古枝 祐徳博物館近く)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和43年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

愛野 時一郎(あいの ときいちろう)
(1900年-1952年)
大正-昭和時代の実業家・政治家

明治33年2月19日生まれ。
佐賀県農業会初代理事長、佐賀米穀取引所理事長などを歴任。
祐徳自動車、東日本観光バス社長をつとめた。
昭和11年衆議院議員(当選4回、改進党)。
昭和27年12月31日死去。52歳。佐賀県出身。中央大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
祐徳稲荷神社敷地の祐徳博物館近くにおられます。
愛野時一郎 (1)
上半身の像で、祐徳稲荷神社をじっと見守っておられます。

愛野時一郎 (6)

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山縣 有朋 2
山縣下関 (1)

山縣下関 (5)

山縣下関 (4)

山縣下関 (2)
山縣 有朋 像 2
(山口県 下関市吉田 東行庵)
  
撮影日:2015年4月30日
建設年:平成27年
分 類:幕末藩士、第3・9代内閣総理大臣 
作 者:奈部 雅昭
評 価:☆☆☆

【高杉の陶像と山縣の銅像】
地元吉田の住民は、東行庵のために尽力した山縣に対する感謝の念と、近代日本のために
尽力した彼の功績を称えて、昭和8年(1933)軍服姿の立派な銅像を建設した。
しかし大東亜戦争の戦局苛烈に伴い昭和18年頃、国へ供出した。
国家に尽した山縣の本懐であっただろうか。
残った台座の上には昭和31年(1956)11月、現存する高杉晋作の備前焼の陶像が建立さ
れた。
平成27年4月14日の東行忌に、若き日の山縣の銅像が、高杉陶像の近くに再建された。
台座の「山縣狂介(有朋)像」の文字は、玄孫山縣有徳氏の筆。

[感  想]
東行庵におられます。
高杉晋作と共に活躍した若い頃の像です。
左手に刀を持ち、立て膝の全身姿で、前を見据えています。
山縣下関 (3)
高杉晋作の陶像の下におられます。

山縣 有朋 1
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山縣 有朋 像 1
(山口県 萩市江向 中央公園)

撮影日:2011年4月12日
建設年:昭和5年
平成4年(移設年)
分 類:幕末志士、政治家(内閣総理大臣)
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆☆

山県有朋
「近代日本人の肖像ホームページ」から

山縣 有朋(やまがた ありとも)
(1838年-1922年)
明治-大正時代の軍人,政治家
第3代、第9代内閣総理大臣

天保9年閏4月22日生まれ。
もと長門(山口県)萩藩士。
松下村塾にまなび,奇兵隊軍監となる。
維新後,徴兵制,軍制を確立し,明治6年陸軍卿,11年初代参謀本部長。
18年初代内相となり地方制度を整備。
22年,31年の2度組閣。
以後も元帥,元老として陸軍,政界に山県閥を築き,内政,外交に絶大な発言力を発揮した。
大正11年2月1日死去。85歳。
【格言など】私は一介の武弁にすぎない
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎明治30年代(1897年 ― 1906年)、社会主義が勃興しつつあり、「社会」という言葉に対して
さえも政府が敏感であった頃の話である。
第2次山縣内閣の時、ある政府の役人が、日本の大学に社会学のようなものを置いてはいか
んと言った。
すると山縣は、一体どこで誰が社会学をやっているのかと問うた。それに対して、それは東京
の文科大学で、建部という教授が担当してやっていますと答えると、山縣は「建部がやってい
るのか。それならいいじゃないか」と言ったので、その結果ようやく社会学というものが潰れて
しまう危機を脱することが出来た。

◎山縣は軍政家であり、兵を率いて前線に立ち軍功を上げるということはそれほど多くはなか
ったが、維新後は「自分は一介の武辺」というのが口癖だった。
日清戦争で元首相でありながら第一線に立ったほか、日露戦争でも満洲軍総司令官就任を
希望していた(結局大山巌が就任)。
日本史上、軍人として前線に立った首相経験者は山縣だけである。

◎和歌を詠み、また漢詩、仕舞、書を好んだ。
茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。
東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や
7代目小川治兵衛をして築かせたものである。
これらは山縣の好みに従った自然を生かした構成で、近代主義的・自然主義的日本庭園とも
言えるもので、伝統的な日本庭園とは一線を画していた。

◎よく長州閥出身で、同じく大勲位となった伊藤博文と対比され「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)
ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。
現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの仲は非常に良く、お互いの良き
相談役であった。
同時代人が両者の特徴を評した言葉に次のようなものがある。
「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができ
る。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうと
する者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
以前撮っていましたが、周辺も整備され、桜も綺麗に咲いていたので、撮りなおしました。
昭和5年霞ヶ関の陸軍大臣官邸に置かれました。
戦時中の供出を逃れ上野に移され、その後井の頭彫刻園に置かれた後、
平成4年の産まれ故郷の萩に帰ってきた像です。
北村西望の代表作で、躍動感ある馬がいい感じです!


佐々野 富章
佐々野 (1)

佐々野 (2)
佐々野 富章 像
(長崎県 長崎市江戸町 長崎県庁)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和32年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

佐々野 富章(ささの とみあき)
(1865年-1935年)
明治-昭和時代前期の政治家

慶応元年4月26日生まれ。
長崎市で代言人(弁護士)を開業。
明治23年県会議員となり、40年から5期18年間にわたって県会議長をつとめた。
昭和6年長崎日日新聞社長。
昭和10年8月19日死去。71歳。肥前福江(長崎県)出身。旧姓は御厨。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」から

[感  想]
長崎県庁の敷地内におられます。
佐々野 (9)
上半身の像で、大きな目が特徴的です。県庁舎をじっと見つめておられます。


田川 務
田川 (2)

田川 (4)

田川 (5)
田川 務 像
(長崎県 長崎市 魚の町 長崎市民会館)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和62年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

田川 務(たがわ つとむ)
(1897年-1977年)
元長崎市長(在任1951年 - 1967年)

長崎県北高来郡小長井村(現諫早市小長井町)出身、弁護士。
1951年(昭和26年)4月の長崎市長選挙で現職の公選初代市長大橋博らを破り当選、以
後4期16年に及び市長を務めた。
市長在任中、1955年(昭和30年)にアメリカ合衆国セントポール市と日本国内では初と
なる姉妹都市提携を結んだ。
また、1958年(昭和33年)に原爆投下時に全壊した浦上天主堂(浦上教会)の廃墟の撤
去を決定。撤去後の跡地に翌1959年(昭和34年)に被爆前の天主堂を模した新しい天主
堂が建てられた。
1967年(昭和42年)、4期目の任期切れに伴う市長選に出馬せず政界引退。
1968年(昭和43年)、勲四等旭日小綬章受章。
1969年(昭和44年)3月29日、長崎市名誉市民の称号を受けた。
1977年(昭和52年)9月5日、長崎市内の病院で死去(享年79)。
同月19日、長崎市公会堂にて長崎市による公葬が営まれた。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

田川 (8)

[感  想]
長崎市民会館の敷地内におられます。
田川 (10)
蝶ネクタイをした上半身の像で、長崎市民が集うであろう市民会館前の広場をじっと見つ
めておられます。

藤野 繁雄
藤野

JA (5)
藤野 繁雄 像
(長崎県 長崎市出島町 長崎県農協会館)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和47年
分 類:政治家
作 者:米 治一
評 価:☆☆☆

藤野 繁雄(ふじの しげお)
(1885年-1974年)
昭和時代の政治家

参院議員(自民党)
昭和22年参院議員初当選。以降3選。
第2次吉田内閣の地方自治政務次官、自治政務次官、同県農林統計協会会長、
参院農林水産委員長等を務めた。

[感  想]
長崎県農協会館敷地の一角におられます。
上半身の像で、眞崎氏の像と並んで建っています。

JA (1)

石井 光次郎
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石井 光次郎 像
(福岡県 久留米市 東櫛原町 久留米総合スポーツセンター)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和52年
分 類:政治家
作 者:毛利 陽出春
評 価:☆☆☆

石井 光次郎
1960年頃
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

石井 光次郎(いしい みつじろう)
(1889年-1981年)
昭和時代後期の政治家。

明治22年8月18日生まれ。
久原(くはら)房之助の娘婿。
台湾総督府参事官などをへて大正11年朝日新聞社にはいり、昭和15年専務。
21年衆議院議員(当選10回)。
22年商工相、27年運輸相。29年自由党幹事長となって保守合同をまとめる。
自民党石井派の領袖として総裁選に2度出馬したが敗れる。
通産相、法相をへて、42年衆議院議長。
昭和56年9月20日死去。92歳。
福岡県出身。東京高商(現一橋大)卒。

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[エピソード]
◎神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部在学中は相撲選手として活躍。
◎1928年(昭和3年)、朝日新聞勤務時代に合気道創始者植芝盛平に入門、朝日新聞社内に合気
道を広めた。
◎1949年(昭和24年)に日本ゴルフ協会会長に就任。
◎第8代日本体育協会会長を1962年(昭和37年)11月から1975年(昭和50年)3月まで務
めた。在任期間の間に1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック、1967年(昭和42年)開
催の東京ユニバーシアード、1972年(昭和47年)開催の札幌オリンピックと国際大会を成功さ
せた。会長退任後は名誉会長に就任した。
◎横綱審議委員会委員長なども務めた。
◎妻の久子は、立憲政友会総裁や逓信大臣等を歴任した久原房之助の長女。
4人の子があり、次女はシャンソン歌手・エッセイストの石井好子。
長男の石井公一郎はブリヂストンサイクルの元社長で、現在は日本会議副会長。
次男の石井大二郎は昭和海運元会長。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
久留米総合スポーツセンターの陸上競技場の駐車場近くにおられます。
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スポーツ振興に尽力された功績もあってなのか、競技場をじっと見守ってもられます。
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眼鏡をかけた上半身の像です。

楢橋 渡
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楢橋 渡 像
(福岡県 久留米市 通外町 五穀神社)

撮影日:2015年2月2日
建設年:昭和56年
分 類:政治家
作 者:毛利 陽出春
評 価:☆☆☆

楢橋 渡
1953年
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

楢橋 渡(ならはし わたる)
(1902年-1973年)
昭和時代の政治家。

明治35年3月22日生まれ。
炭鉱ではたらいたのち独学で弁護士試験に合格。
フランスのリヨン大などでまなび、昭和17年衆議院議員(当選7回、自民党)。
戦後、幣原内閣の書記官長や第2次岸内閣運輸相をつとめた。
36年武州鉄道汚職事件で逮捕され、有罪となった。
昭和48年11月17日死去。71歳。福岡県出身。著作に「激流に棹さして」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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容貌魁偉な風貌と政治手腕から怪物の異名を取った。

[感  想]
五穀神社境内の郷学の森で他の銅像とは、少し離れたところにおられます。
建立も他の像より5年後です。
眼鏡をかけた上半身の像で、口髭が特徴的です。

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佐野 常民
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佐野 常民 像
(佐賀市川原町 日本赤十字社佐賀県支部)

撮影日:2015年2月2日
分 類:政治家
作 者:古賀 忠雄
評 価:☆☆☆

佐野
「近代日本人の肖像」から

佐野 常民
佐野 常民 (さの つねたみ)
(1823年-1902年)
幕末-明治時代の武士、政治家

文政5年12月28日生まれ。肥前佐賀藩士。藩医佐野常徴の養子。
医学、蘭学、化学をまなび、藩の精煉方主任となり、日本初の蒸気船をつくる。
ヨーロッパ視察後、新政府で海軍創設につくす。
明治10年博愛社(のち日本赤十字社)を創設。
元老院議長、農商務相をつとめた。
明治35年12月7日死去。81歳。本姓は下村。通称は栄寿、栄寿左衛門。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1877年(明治10年)2月に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する
赤十字社の知識を元に、「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可となり、5月に熊本で
有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。
博愛社総長に東伏見宮嘉彰親王が就任

有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民
有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民

「佐賀の七賢人」に挙げられている
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
博愛社(のち日本赤十字社)を創設者なので、故郷の日本赤十字社佐賀県支部の前におられます。
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しっかりと前を見つめられている上半身の像です。

久能 寅夫
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久能 寅夫 像
(山口県 岩国市 横山 吉香公園)

久能 寅夫(ひさのう とらお)
(1890年-1977年)

撮影日:2014年9月30日
建設年:昭和60年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

岩国町錦見(現在の岩国市)に生まれる。
大正4年九州帝国大学工学部を卒業して商工省東京試験場に入り、大正8年から3年間米国に留学したのち。呉海軍工廠に就職。
大正14年のジュネーブ国際労働会議には海軍連盟中央委員長として代表顧問で参加した。
昭和4年海軍技官に任官。
その後舞鶴海軍火薬廠製造部長・東洋曹達徳山工場長を歴任した。
戦後、昭和26年岩国市長に就任し、台風で流失した錦帯橋の再建や国鉄岩日線の着工などに尽くした。市長退職後岩国商工会議所会頭を一期務め、49年に名誉市民になった。

[感  想]
錦帯橋近くの錦川河畔におられます。
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上半身の像で、錦川をじっと見つめておられます。

久原 房之助
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久原 房之助 像
(山口県 下松市 下松工業高校)

撮影日:2014年9月27日
建設年:昭和31年
分 類:政治家
作 者:長嶺 武四郎
評 価:☆☆☆

久原房之助
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

久原 房之助(くはら ふさのすけ)
(1869年-1965年)
明治-昭和時代の実業家、政治家

明治2年6月4日生まれ。
久原庄三郎の4男。
明治24年藤田組にはいり小坂鉱山を再建。
日立鉱山を開発して久原鉱業、日立製作所を創立する。
昭和3年経営を義兄鮎川義介にゆだね衆議院議員に転身(当選5回)、同年田中義一内閣逓信相、14年政友会総裁。
昭和40年1月29日死去。95歳。
長門(山口県)出身。慶応義塾卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。

[感  想]
下松工業高校の中庭におられます。
着物姿の上半身の像で、萩市出身の彫刻家である長嶺武四郎の作です。

重光 葵
20140203 重光葵 (1)

20140203 重光葵 (2)

20140203 重光葵 (3)
重光 葵 像
(大分県 国東市 安岐町下山口 山渓偉人館)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和40年
分 類:政治家
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

20140203 重光葵 (8)
重光 葵(しげみつ まもる)
(1887年-1957年)

大正-昭和時代の外交官、政治家。
明治20年7月29日生まれ。
中国公使時代の昭和7年上海爆弾事件で右脚をうしなう。
駐英大使などをへて、東条・小磯・東久邇内閣の外相。
20年首席全権としてミズーリ号上で降伏文書に調印。
27年改進党総裁、29年日本民主党結成に参加。
鳩山内閣の副総理・外相として、日ソ国交回復、国連加盟を実現した。
昭和32年1月26日死去。69歳。
大分県出身。東京帝大卒。
【格言など】アメリカはいずれ日本を必要とする(戦犯として拘留されていたときに)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

20140203 重光葵 (5)

[山渓偉人館]
(故)重光葵元外務大臣の遺徳を偲び、後世にその功績を伝えるために建てられたのが「山渓偉人館」です。
重光葵氏は明治20年7月29日、大野郡三重町において、当時大野郡長であった父直愿と母松子の次男として生まれます。しかし、母松子の実家(重光家本家)に子どもがなかったため葵氏が養子(明治31年)となり重光家26代目となります。
杵築中学校から熊本第五高等学校(現熊本大学)へ、明治44年東京帝国大学卒業と同時に外交官補となり、日本の外務省の第一人者としての道を歩みます。
歴代内閣の外務大臣を務めますが、昭和20年東久邇内閣の時ミズリー号艦上で降伏文書に調印し、A級戦犯として巣鴨へ行くことになります。
昭和23年極東裁判にて禁固7年とされ、27年3月に追放解除となり、のち政界の道へと進みます。
大分県から衆議院に3回当選する中、29年鳩山内閣の副総裁兼外務大臣を務め31年の国連総会において、「日本は東西の懸け橋となる」という有名な演説をしました。
葵氏は重要な歴史場面に立ち会った証人であり、幾多の重要な使命を果たした人でもあります。
葵氏を偲ぶため、「山渓偉人館」には戦中、戦後の歴史を証明する貴重な遺品の数々が展示されています。
【主な展示品】巣鴨日記原本、戦争資料、旧宅近くの墓地、スクラップ、巣鴨内作成手工芸品等
「国東市ホームページ」から

[エピソード]
◎重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。

◎重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難だったにもかかわらず、彼自身はその事を気にする素振りはなかった。後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦するアメリカの水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという(もっとも、松葉杖を落とすなど署名にかなりもたつき、これを見苦しい引き延ばしと解釈したハルゼーに一喝されたという逸話も伝えられる)。

◎巣鴨プリズンに収監されている頃に、障害者ながら社会福祉事業家として活躍していたヘレン・ケラーのニュースが耳に入ってきた際、元将官たちが「あれは盲目を売り物にして居るんだよ」とこき下ろしたことに対して、重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判し彼らの見解の偏狭さを嘆いている。

◎戦後、鳩山一郎内閣で外相を務めた際、鳩山が「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と無神経に発言したため外交官出身の重光は鳩山との関係が悪化した。また鳩山が日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
山渓偉人館前におられます。
少し、はにかんだ表情の上半身の像です。
作者は、朝倉文夫氏です。

20140203 重光葵 (6)

八坂 善一郎
2014八坂 (3)

2014八坂 (1)

2014八坂 (2)
八坂 善一郎 像
(大分県 杵築市 杵築 杵築城)

八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう)
(1953年-1980年)

撮影日:2014年2月3日
分 類:政治家
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

大分県八坂村に生まれる。
昭和8年早稲田大学を卒業、昭和21年から22年まで衆院議員。
昭和30年杵築市誕生と共に、5期20年に渡り杵築市長を務める。
日の丸バッジを市の職員につけさせたことから「日の丸市長」、「タカ派市長」として有名だった。
[感  想]
杵築城内の公園におられます。
しっかりと前を見つめる上半身の像です。

2014八坂 (4)

一松 定吉 2

一松② (1)

一松② (2)
一松 定吉像 2
(大分県 杵築市 南杵築 一松邸)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和16年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

[感  想]
玄関脇におられます。
勲章を多く付けた上半身の像で、1に比べ若い頃の姿だと思われます。

一松② (3)

一松 定吉 1
一松① (8)

一松① (9)

一松① (10)
一松 定吉像 1
(大分県 杵築市 南杵築 一松邸)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和42年
分 類:政治家
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

一松定吉(ひとつまつ さだよし)
(1875年-1973年)

大正-昭和時代の司法官、政治家。
明治8年3月18日生まれ。
大審院検事をつとめ、大正9年退官。弁護士となる。
昭和3年衆議院議員(当選8回、民主党)。
第1次吉田内閣の国務・逓信相、片山内閣の厚相、芦田内閣の建設相。
25年参議院議員(当選2回)。
昭和48年6月8日死去。98歳。
大分県出身。明治法律学校(現明大)卒。旧姓は波多。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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一松① (7)
「一松邸」
一松邸は、杵築市の初代名誉市民となった一松定吉氏の邸宅で、昭和32年に杵築市に寄贈され、その後は「一松会館」として市民の憩いの場として開放されていた。その後、市庁舎の移転に伴って、杵築城と海を望む絶景の場所(現在地)に移築されたもの。
一松氏は現在の豊後高田市にあたる美和村の出身。杵築藩の剣術や槍術の指南役であった一松家の家督を継ぐ養子として入り、その後政界で活躍。昭和初期には、国務大臣ほか、通信、厚生、建築大臣などを歴任。
その邸宅は、杉の柾目の一枚板を敷いた縁側、二条城二の丸御殿や日光東照宮外陣や城、著名な寺や神社で特徴的に見ることができる格天井(ごうてんじょう)を客人用のトイレに施すなど、贅沢で洗練された趣が屋敷を包む。その一方で、取り外し可能な掛障子、戸袋を減らすために雨戸を直角に回転させる工夫を施した「回り戸」など、機能的で合理的な技術は現在でも十分に通用する。
「大分県杵築市観光協会公式ホームページ」から

[感  想]
一松邸の庭におられます。
一松① (11)

一松① (6)
モーニングを着た立ち姿で、杵築城をじっと見つめておられます。

米田 正文
米田 (3)

米田 (2)
米田 正文 像
(福岡県 福岡市 直方市 下境 遠賀川水辺館近く)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和49年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

米田 正文(よねだ まさふみ)
(1904年-1984年)
日本の内務・建設官僚、政治家。
参議院議員(3期)。
福岡県田川郡添田町出身。

米田 (1)

[感  想]
遠賀川沿いを走る「のおがた水辺マラソン」に出場した後、水辺館近くで偶然発見しました。
眼鏡をかけた上半身の像です。

伊佐庭 如矢
伊佐庭IMG_2098 (1)

伊佐庭IMG_2098 (3)

伊佐庭IMG_2098 (2)
伊佐庭 如矢 像
(愛媛県 松山市 道後湯之町 道後温泉本館横)

撮影日:2013年3月21日
建設年:平成7年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

伊佐庭如矢
「松山市ホ-ムペ-ジ」から

伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや)
(1828年-1907年)
明治時代の町長

文政11年9月12日生まれ。
維新後、愛媛県吏員、高松中学校長、金刀比羅宮禰宜などを歴任。
明治23年初代道後湯之町町長となり、温泉の町営、三層楼本館の建築、道後鉄道設立などに尽力した。
明治40年9月4日死去。80歳。
伊予(愛媛県)出身。
本姓は成川。通称は斧右衛門。号は震庵など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
道後温泉本館近くにおられます。
道後温泉本館建設百年を記念して建てられたもので、
オールバックの髪と大きな目が特徴的な胸像です。
伊佐庭IMG_2098 (4)
道後温泉本館をじっと見つめておられます。

加藤 恒忠
加藤恒忠IMG_1724 (1)

加藤恒忠IMG_1724 (4)
加藤 恒忠 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山大学)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

加藤恒忠(拓川)翁
加藤 恒忠(かとう つねただ)
(1859年-1923年)
明治-大正時代の外交官、政治家

安政6年1月22日生まれ。
フランスに留学後、外務省にはいり、ベルギ-公使などを歴任。
明治41年(1908)衆議院議員。のち貴族院議員。
北浜銀行頭取、大阪新報社長をつとめた。
大正11年松山市長。大正12年3月26日死去。65歳。
伊予(愛媛県)出身。司法省法学校中退。
旧姓は大原。号は拓川。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

加藤恒忠IMG_1724 (3)
◆ 加藤恒忠(拓川)翁
本学園三恩人の一人で、松山藩儒学者大原有恒(観山)の三男として生まれ、俳人正岡子規の叔父にあたる。幼くして儒学に親しみ、フランス留学を経て外務省に入り、外務大臣秘書官・大使・公使を歴任後、衆議院議員・貴族院議員に選任された。
後年、松山市長への就任を要請され、第5代市長となり、北予中学校加藤彰廉校長からの高等商業学校設立の提案に理解を示し、文部省との設置折衝を行うと共に、友人新田長次郎(温山)翁に設立資金の支援を依頼するなど、設立運動の中心的な推進役として松山高等商業学校創設に多大な貢献をした。
「松山大学 ホームページ」から

[感  想]
松山大学の校庭におられます。
加藤恒忠IMG_1724 (2)
短い頭髪と髭が特徴的な、じっと前を見つめている胸像です。

井上 要
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井上IMG_1748 (4)
井上 要 像
(愛媛県 松山市 文京町 松山北高校)

撮影日:2013年3月20日
建設年:昭和13年
分 類:政治家
評 価:☆☆

井上 要(いのうえ かなめ)
(1865年-1943年)
明治-昭和時代前期の実業家、政治家

慶応元年5月5日生まれ。
明治39年愛媛県の伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などを合併。
松山商工会議所会頭などを歴任し、松山高商(現松山商大)の創立にも尽力した。
35年衆議院議員(当選3回、憲政本党)。
昭和18年3月18日死去。79歳。
伊予(愛媛県)出身。旧姓は有友。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
松山北高校の校庭におられます。
井上IMG_1748 (1)
白っぽい石での小ぶりな像ですが、保存状態があまり良くないのが残念です。

佐藤 栄作
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佐藤 栄作 像
(山口県 熊毛郡田布施町 下田布施 田布施町郷土資料館)

撮影日:2013年3月12日
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

佐藤栄作1961年頃に撮影
1961年頃に撮影

佐藤 栄作(さとう えいさく)
(1901年-1975年)
昭和時代後期の政治家
内閣総理大臣(第61・62・63代)

明治34年3月27日生まれ。
佐藤市郎、岸信介の弟。
運輸次官をへて、昭和23年第2次吉田内閣の官房長官。
翌年、衆議院議員(当選10回)。
25年自由党幹事長となるが、造船疑獄事件で辞任。
のち蔵相、通産相などを歴任し、39年自民党総裁、首相。
7年8ヵ月政権をにない、日韓基本条約を締結し、沖縄返還を実現した。
49年ノーベル平和賞。
昭和50年6月3日死去。74歳。
山口県出身。東京帝大卒。
【格言など】沖縄が祖国に返らなければ、日本の戦後は終らない
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

内閣総理大臣を3期務めた。
総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。
20世紀生まれ初の総理である。
自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。
また、第56・57代内閣総理大臣岸信介の実弟にあたる。
なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。

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アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンと(1972年)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[エピソ-ド]
◎彫りの深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。
その見開いた目で睨みつけられると誰もが戦慄を禁じ得なかったという。
「ギョロ目の睨み」といえば歌舞伎の世界では「市川團十郎」の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった1962年(昭和37年)は團十郎ブームに湧いていた。
佐藤もその恩恵をうけて、ついたあだ名が「政界の團十郎」。
評論家の佐々淳行も著書のなかで「團十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた」と記している。

◎癇癪持ちで、じっと我慢は苦手だったという。
発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。
手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。
寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若い頃主人に殴られたことがある」と洩らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。


◎短気な一面については、長男の龍太郎が父・栄作について「『待ちの政治家』と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...」と述べている。

◎首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。
1972年(昭和47年)に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出て行ったという。

◎自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。
東宮の侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言した時は、「無礼じゃないか! おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた。

◎三木武吉は岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と呆れたように言ったという。

◎田中義一元首相の長男田中龍夫は「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」と述べている。

◎倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記 (全7巻)』が朝日新聞社より、1996年(平成8年)から1997年(平成9年)に刊行された。

◎『佐藤栄作日記』では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが伺い知れる。好まれた一人に宮澤喜一がおり、宮澤の知性を佐藤が評価したためといわれる。一方、政敵河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた(日記にも残忍たげたげしい人が去ったという趣旨の記述がある)。
◎マスコミ嫌いで知られ官房長官時代から社説に酷評されていた。特に朝日新聞を毛嫌いしており日記において名指しで「征伐にかからねばならない」と書かれたことがある他、秘書官を務めていた楠田実に新聞記事や週刊誌の記事に対する抗議を命じ時には楠田自身も板ばさみで悩んでいた様子が楠田の著書や日記に記されている。特に自らの意図と違う報道をされた際には激怒したという。しかし前述の通り、没後に日記は朝日新聞社から刊行された。

◎大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた。但しこれは本心からの発言ではない。佐藤と大野は犬猿の仲で知られ、佐藤は大野には庶民性しか褒めるところがないからそう言ったのだと回想している(これを受けてか横山ノックが佐藤に“栄ちゃん”と呼びかけたことがあるが、これに対して佐藤は非常に不快そうな表情を浮かべたとされる。青島幸男も"栄ちゃん"と呼んだとされるが横山の方が周知されている)。

◎1971年(昭和46年)10月19日の夜半、総理私邸内に若い男の刺客が侵入したが、難を逃れた。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
岸夫婦と同じく夫婦並んで像です。
彫りの深い顔の特徴をよく捉えた像です。
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佐藤栄作遺品展示室には、ノーベル平和賞をはじめ主要な文書、書簡、扁額、愛用の遺品、誠心誠意の国政を記録したパネル等が展示してあります。
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ノーベル平和賞のメダル・沖縄返還記念メダル


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岸 信介
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岸 信介 像
(山口県 熊毛郡 田布施町 下田布施 田布施町郷土資料館)

撮影日:2013年3月12日
分 類:政治家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

岸1961
1961年頃に撮影
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

岸 信介(きし のぶすけ)
(1896年-1987年)
昭和時代の官僚、政治家
内閣総理大臣(第56・57代)

明治29年11月13日生まれ。
佐藤栄作の兄。
昭和11年満州国実業部次長、16年東条内閣の商工相となり、戦時経済体制を推進。
17年衆議院議員(当選10回)。
20年A級戦犯容疑で拘留され、23年釈放。
日本民主党、自民党の各幹事長をへて、32年首相。
35年反対運動のなかで日米安保条約改定を強行して総辞職。
その後も保守長老として隠然たる勢力をもちつづけた。
昭和62年8月7日死去。90歳。
山口県出身。東京帝大卒。
旧姓は佐藤。
【格言など】本当の幸福を実現するためには、政治の力こそ最大である
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

岸佐藤
岸信介(左)と官房長官時代の佐藤栄作。
戦犯容疑が晴れて巣鴨プリズンから釈放された岸は、その足で官房長官公邸に弟を訪ねてきた(1948年12月24日)。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[エピソ-ド]
◎総理大臣を退任してからも影響力を行使し、フィクサー、黒幕、「昭和の妖怪」とも呼ばれた。
なお、正力松太郎などとともに中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる

◎岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている。
1度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯容疑で捕まった時、3度目は安保改訂の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時の3度である。

◎戦時中の1945年(昭和20年)、座骨神経痛を病み、郷里山口で保養中だった。
ところが同年鈴木貫太郎内閣で内務大臣になった同郷の安倍源基から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)地方総監府の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い広島にして欲しい」と答えると「広島は昨夜内務省の先輩の大塚惟精を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後広島市への原子爆弾投下で被爆死した。

◎戦後政治史上において吉田茂とは鋭く対立したが、安保改定に当たっては、同条約締結時首相の任にあった吉田に敬意を表し、神奈川県の大磯町の別荘に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという。

◎鳩山一郎内閣時代のソ連との交渉などでは、賛成反対の旗幟をなかなか鮮明にせず、その二股・風見鶏な行動は姓にもじって「両岸」と言われた。

◎岸は内閣総理大臣として3度、通常国会で施政方針演説を行ったが、1957年(昭和32年)の石橋湛山内閣時に内閣総理大臣臨時代理として石橋総理大臣の代役で施政方針演説を行っている。尚、日本国憲法下で内閣総理大臣臨時代理による施政方針演説はこの時の岸信介のみである。

◎晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。

◎公職追放後、一時行方不明との報道がなされた。
その間は、藤本万次郎の出身地である、祝島の藤本家で体力と英気を養い、この際に、岸と藤本の盟友関係は更に深くなり、後年、現職の周東英雄後援会長でありながら、岸、佐藤に懇願され岸の娘婿である落選中の安倍晋太郎後援会長を藤本は引き受け、当選に導くに至った。

岸 記念切手
◎2010年(平成22年)6月23日に日本郵便が発行する「日米安全保障条約改定50周年」記念切手の一種に署名式の岸とアイゼンハワーの姿が描かれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
田布施町郷土資料館2階に夫婦で並んでおられます。
北村西望作で、目や鼻などの特徴がよく捉えられた像です。
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岸信介遺品展示室には、国連平和賞をはじめ各国の勲章、主要な文書、書簡、扁額、愛用の遺品、信念を貫いた生涯を記録したパネル等が展示してあります。
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各国の勲章


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大井 憲太郎
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大井 憲太郎 像 
(大分県 宇佐市 院内町 宇佐市役所院内支所)

撮影日:2013年2月4日
建設年:昭和45年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

大井憲太郎2
フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大井憲太郎1
「近代日本人の肖像」から


大井 憲太郎(おおい けんたろう)
(1843年-1922年)
明治期の自由民権運動家、政治家

大分生まれ。
政治家、社会運動家。
長崎で蘭学、化学を学んだ後、箕作麟祥に師事、大学南校でフランス学を学ぶ。
フランスの法律書を数多く翻訳。
明治7年(1874)の民撰議院論争で、最も急進的な即時開設論を主張し注目される。
8年(1875)元老院少書記官となるが翌年免官。
15年(1882)自由党常議員となり、自由民権運動の理論家として急進派を指導した。
18年(1885)大阪事件を起こし投獄されたが、22年(1889)大赦により出獄。
25年(1892)東洋自由党を結成、対外強硬論を主張する一方、労働問題・小作問題等にも尽力した。
「近代日本人の肖像」から

宇佐市院内町役場に建つ大井憲太郎像。
昭和45年2月、明治100年記念事業で町が設置した。
天保14年、大井憲太郎は宇佐郡高並村(宇佐市院内町)の農家の三男坊に生まれ、大正11年東京の寓居に死ぬまでの80年を自由民権の旗の元に火のように燃えて生きた。
幕末から明治維新へ、封建日本が近代日本へ生まれ変わろうとする波瀾激動の時代であった。
薩長の藩閥政治に真っ向から挑戦、人民の政治関与を根本とする民選議員の早期開設を唱える。
これに対し時期総称を訴える加藤弘之(ドイツ学者)と派手な論争を演じ、その名は天下に喧伝され、民衆の喝采を浴びる。
このとき大井は馬城台二郎のペンネームを使ったので、人呼んで「馬城将軍」。
馬城は郷里宇佐の馬城山(御許山)による。
若い頃から、漢、蘭、仏学を学び仏法典を多数翻訳、その幅広い学識と仏法典研究で得た自由の心が一人の激情の思想家を生んだ。「人存スレバ即チ自由アリ、自由滅スレバ即チ人死ス」の主張は現在では当然だが、時代が百年早すぎた。
明治初めに彼の目は百年先の今を見ていた。
「大分県ホームページ」から

[感  想]
宇佐市役所院内支所前におられます。
髭が特徴的な上半身の像です。

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大久保 利通
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大久保 利通 像
(鹿児島県 鹿児島市 西千石)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和54年
分 類:政治家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

大久保利通
「近代日本人の肖像ホームページ」から

大久保 利通(おおくぼ としみち)
(1830年-1878年)
幕末-明治時代の政治家

文政13年8月10日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
島津久光に信任され小納戸役となる。
西郷隆盛,岩倉具視とむすんで討幕運動の中心となり,明治政府を樹立。
木戸孝允らと版籍奉還,廃藩置県をおこなう。
明治4年大蔵卿となり,岩倉遣外使節団副使。
6年参議となり西郷隆盛の征韓論をしりぞけ,同年内務卿を兼任。
佐賀の乱,神風連の乱,西南戦争などを鎮圧。
地租改正をおこない,元老院,大審院,地方官会議の設置による立憲制の樹立をめざした。
明治11年5月14日東京紀尾井坂で石川県士族島田一良らに暗殺された。49歳。
初名は利済。通称は正助,のち一蔵。号は甲東。
【格言など】為政清明(暗殺される朝の揮毫)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、必要だが予算のつかなかった公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めていたために死後は8,000円もの借金が残った。
ただし残った借財の返済を遺族に求める債権者はいなかった。
政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。

◎口数こそ少ないが他を圧する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かってまともに大久保に意見できる人間は少なかった。

◎人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も大久保に対しては、怖くてまともに顔を見ながら話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払い気持ちを大きくした上で意見しようとしたが、大久保に一喝されるやすぐに引き下がったと言われる。

◎大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返ったと千坂高雅が語っている。

◎福地源一郎は大久保の人物を「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」と評した。

◎大隈重信は大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。
さらに同じく維新の三傑の一人木戸孝允とともに「維新時代の二大英傑」と評している(大隈は西郷を評価していなかった)。

◎明治6年(1873年)に五代友厚に浜寺公園へ案内された大久保は、堺県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、
「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」
と反対する歌を詠んだ。
税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。
なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。

◎西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったようだ)。
西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。
また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。

◎家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。
出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。
また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子ども達が争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。
平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。
大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。

◎趣味は囲碁。
碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだのがきっかけで生涯の趣味となった。
なおそれ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある。

◎ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。
また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた。

◎写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、写真が好きで多くの肖像写真がある。
大久保 サンフランシスコ
サンフランシスコにて撮影

◎大久保は西郷を殺し、西南戦争で薩摩を滅ぼそうとした張本人として地元でのイメージは高くない。
近年まで地元への納骨すら避けられていたというからよっぽどのことである。
現在鹿児島市には大久保の銅像があるが、西南戦争百周年の頃に県外から「なぜ大久保の銅像がないのか」と言われて半ば渋々作ったものだという風説がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日に設置されました。
台座からの高さは9.7mです。(像のみは4.3m)

[感  想]
2007年に一度会っていますが、5年後に再び訪れ、後ろの細工も確認しました。
この銅像は、維新ふるさと館から200mくらい離れた川沿いに建っています。
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大久保は、西郷さんに比べて鹿児島ではあまり人気がないようです。
台座が高いのもイタズラされないためという噂もあるようです。
像は、確かに高く、コートをなびかせた姿は、堂々として立派です。

銅像の後ろ足元には、大久保さんが暗殺されたときに一緒に殺されてしまった馬車夫と馬の像が小さいけれどあるということで、
銅像の後ろにまわり、足元を見ると、
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確かに台座のところから突き出た、馬と人の一部が確認できました!
こういった細工をすることは、おもしろいと思いました。

松方 正義
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松方 正義 像 
(鹿児島県 鹿児島市 下荒田 武ノ橋)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成20年
分 類:政治家
作 者:田畑 功
評 価:☆☆☆

松方正義1

松方正義2
「近代日本人の肖像」から

松方 正義(まつかた まさよし)
(1835年-1924年)
明治-大正時代の政治家
第4・6代内閣総理大臣

天保6年2月25日生まれ。
もと薩摩鹿児島藩士。
パリ万国博の事務局副総裁となり、明治11年渡欧。
14年以降大蔵卿、蔵相として紙幣整理、増税の松方財政を推進。
また日本銀行を設立し、金本位制を実施。
24年、29年の2度内閣を組織し、蔵相をかねた。
日本赤十字社社長、枢密顧問官、内大臣を歴任。
後年は元老として力をふるった。
大正13年7月2日死去。90歳。
号は海東、孤立。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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台座に刻まれた名言

[エピソ-ド]
◎松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げ、などによって財政収支を大幅に改善させ、インフレ-ションも押さえ込んだ。
ただ、これらの政策は深刻なデフレ-ションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。

◎1891年(明治24年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて総理大臣に就任した。
しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、1年強で辞任に追い込まれた。
その後第2次伊藤内閣を挟んで1896年(明治29年)に再び松方に組閣の命令が下るが、懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党との連繋がうまくいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。

◎松方は女好きで、非常に子沢山であり、早世した2男も含めて15男11女の26子があった。或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
錦江湾に流れる甲突川の河川公園におられます。
堂々とした大きな像です。
子供が26人もつくったということには驚きです!

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床次 竹二郎
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床次 竹二郎 像
(鹿児島県 鹿児島市 中央町 鹿児島中央駅前広場)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和53年
分 類:政治家
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

床次
政友本党総裁時代
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

床次 竹二郎(とこなみ たけじろう)
(1867年-1935年)
明治-昭和時代前期の官僚、政治家

慶応2年12月1日生まれ。
床次正精の長男。
内務次官、鉄道院総裁などをへて、大正3年政友会から衆議院議員(当選8回)となり、原・高橋両内閣の内相。
13年政友本党総裁。
民政党顧問をへて昭和4年政友会に復帰するが、9年党議に反し岡田内閣に入閣したため除名。
昭和10年9月8日死去。70歳。
薩摩(鹿児島県)出身。帝国大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソ-ド]
◎「万年首相候補」と呼ばれ首相候補と目されるも余人の不評を買い、政権獲得の夢を遂に果たせなかった。一方で鉄道員の福利厚生に意を用い、公傷退職者を救済するため鉄道弘済会の創設に尽力した。
発会に当たっては、5、000円という多額の寄付をしている。

◎床マンダ-
衆議院選挙に小選挙区制を導入しようとした際に、小選挙区制度の導入そのもの、ないしはその区割りにおいて、与党に有利な制度を導入しようとしているとして、野党などを中心にゲリマンダ-であると批判された。
マスコミなどは、その当時の有力者や内閣総理大臣の名の一部を冠して床マンダ-(床次竹二郎)、ハトマンダ-(第3次鳩山一郎内閣)・カクマンダ-(第2次田中角栄内閣)などと揶揄した。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
鹿児島中央駅の広場におられます。
眼鏡と髭が印象的な上半身の像です。
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駅屋上の観覧車をバックに

小里 貞利
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小里 貞利 像
(鹿児島県 鹿児島市 中央町 鹿児島中央駅前)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成19年
分 類:政治家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

小里 貞利(おざと さだとし)
(1930年-)
政治家

衆議院議員(9期)、自由民主党総務会長(第41代)、自由民主党国会対策委員長(第39代)、労働大臣(第56代)、北海道開発庁長官(第61代)・沖縄開発庁長官(第30代)、総務庁長官(第21代)、震災対策担当大臣(村山内閣)、宏池会会長、鹿児島県議会議員(6期)を歴任した。

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[エピソ-ド]
◎小里の趣味はオ-トバイで、自らの公式サイトにも愛車のハ-レ-ダビッドソンでツ-リングする写真を掲載するほどである。
1997年(平成9年)9月に、ロッキ-ド事件で有罪判決を受けた佐藤孝行が第2次橋本改造内閣発足後間もなく総務庁長官を辞任した際、内閣総理大臣の橋本龍太郎から後任に指名されたが、その時、当の小里は熊本県下をバイクでツ-リング中だったという。
橋本龍太郎からの入閣要請を受けた小里の秘書はすぐに携帯電話で小里に向けて橋本からの入閣要請の連絡を行ったところ、小里は自分の携帯電話の電波の受信状態が良くなかったことで話を聞き取れず、やむなく公衆電話を探して東京の議員会館事務所に連絡を取り、ことの次第を知るとすぐ熊本空港に向かい、自分のバイクは知人に預けたままツ-リング用スタイルで東京国際空港(羽田)行の航空便に搭乗し、羽田で待ち構えていた秘書から背広を受け取って急ぎ着替えて総理大臣官邸へ向かったという一幕があった。
この件に関しては国会の審議で自ら事情を明らかにした。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鹿児島中央駅の1階におられます。
新幹線の鹿児島ル-トの完成に尽力されたようです。
眼鏡をかけたリアリティ-がある像です。

山本 権兵衛
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山本 権兵衛 像
(鹿児島県 鹿児島市 加治屋町交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:軍人、政治家
評 価:☆☆

山本権兵衛2

山本権兵衛1
「近代日本人の肖像」から

海軍少尉任官当時の山本(1877年)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ)
(1852年-1933年)
明治-大正時代の軍人、政治家
内閣総理大臣(第16・22代)、

嘉永5年10月15日生まれ。
海軍の改革につとめ、第2次山県・第4次伊藤・第1次桂内閣の海相を歴任。
日清・日露戦争では作戦を統括。
大正2年と12年首相となるが、それぞれシーメンス事件と虎ノ門事件で辞職。
海軍大将、伯爵。昭和8年12月8日死去。82歳。
薩摩(鹿児島県)出身。海軍兵学寮卒。
【格言など】
人力のいかんともなしえざるにいたらば、心静かに天命を待つの覚悟が必要で、うろたえたり、悲しんだりすることは絶対不可である(死期をさとったとき)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎明治31年(1898年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。
山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行った。
「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。

◎士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣した。
士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。

◎艦上での食事の改良にも力を注ぎカレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立を奨励し、乗組員の健康管理にまで目を配った。
当時の日本では脚気が問題であったが、栄養価の高い食事や適度なパン食などで、乗組員の脚気はほぼ皆無になった。

◎開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。
開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。
明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。明治37年(1904年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。

◎晩年、元老の候補として何度も名前が挙げられたが、元老になることはなかった。
山本は薩摩・長州出身の総理大臣経験者で、元老にならなかった初めての人物であり、そのため元老になれない理由が憶測として風評されたが、本人は一度も元帥や元老になれないことに対する不満を言うことはなかった。

◎「ごんべえ」「ごんのひょうえ」二つの読み方が通用しているが、有職読み以外で名の読み方が二通りある日本の首相経験者には他に近衛文麿(「あやまろ」「ふみまろ」)の例がある。山本も近衛も、本来の読み方である前者が体裁が悪いため別の読み方をさせたものである。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
これも大山、西郷と共に鹿児島湾に急ぐ、幼い頃の像です。
意志の強さを感じさせる像です。

黒田 清隆 2
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黒田 清隆 像 2
(鹿児島県 鹿児島市 高見馬場交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:軍人、政治家
評 価:☆☆

[感  想]
左手を前に突き出し、樺山資紀と話をしている像です。
顔の特徴が余り無い感じです。

野村 恒造
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野村 恒造 像
(山口県 周南市 岐山通 周南市役所)

撮影日:2011年12月20日
建設年:昭和34年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

野村 恒造(のむら つねぞう)
(1850年-1920年)

嘉永3年徳山小沢町の素封家に生まれる。
野村家は富日に野村開作の地名が残っているように、殖産のために開作を行い、広大な土地を所有し、県内では指折りの資産家であった。
温厚で気品があり、若いころから私財をなげうって公共事業に身をささげ、徳山村長および町長に就任すること前後四回、またしばしば選ばれて国会議員となった。
その卓抜した明智をもつて、山陽鉄道の開通に活躍し、明治37年海軍練炭製造所の誘致に成功、さらに徳山・岩国間の岩徳線開通に努力するなど終生、徳山発展のために尽力した人である。
大正9年71歳で死去したが、昭和7年翁の功績をたたえ、有志のかたの企画により徳山公園に銅像が建立された。しかし第二次世界大戦で、昭和18年銅像も供出され、台石は残っていたが、昭和33年動物園設置のため取り除かれ、翌年12月市役所前に胸像が建てられた

[感  想]
周南市役所の駐車場のおられます。
木々に囲まれて、木漏れ日の中での髭と和装が印象的な像です。
徳山、周南のために尽力された人物です。

島田 暉山
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島田 暉山 像
(島根県 益田市 乙吉町)

撮影日:2011年10月16日
建設年:平成3年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

島田 暉山
(1918年-2003年)
元益田市長

昭和39年(1964年)から12年間益田市長
益田市名誉市民

[感  想]
益田運動公園近くの山陰線の線路近くにおられます。
眼鏡など細かい部分もリアルに出来ている像です。





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