ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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東京藝術大学校内 銅像
東京藝術大学校内 銅像
芸術大学
東京藝術大学も芸術大学だけ有り、構内に多くの銅像が有ります。
「東京藝術大学大学美術館」のホームページ
「収蔵品データベース収蔵品」
で銅像のデータも写真入りで整理されています。

作者も朝倉文夫、北村西望、平櫛田中、高村光太郎と有名彫刻家の作品が多く、ロダンの作品も有ります。
まだ多く有るようなので、機会が有れば追加していきたいと思います。

正木 直彦 
大村 西崖 
高村 光雲 
石川 光明 
竹内 久一 
白井 雨山 
加納 夏雄 
久米 桂一郎 
橋本 雅邦
オノレ・ド・バルザック
岡倉 天心 

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正木 直彦
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正木 直彦 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

正木 直彦(まさき なおひこ)
(1862年-1940年)
明治-昭和時代前期の美術行政官,教育者

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和11年
分 類:教育者
作 者:沼田一雅
評 価:☆☆☆

正木直彦
「東京藝術大学ホームページ」から

文久2年10月26日生まれ。
明治34年から昭和7年まで東京美術学校長をつとめる。
明治39年文部省美術展覧会(文展)創設を建議,40年の開催につくした。
昭和6年帝国美術院長。
茶人としても知られる。
昭和15年3月2日死去。79歳。
大坂出身。帝国大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
芸大アートプラザ入り口辺りの建物の中におられます。
椅子に座った陶製の珍しい像です。

大村 西崖
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大村 西崖 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

大村 西崖(おおむら せいがい)
(1868年-1927年)
明治-大正時代の美術史家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和3年
分 類:美術史家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

大村 西崖
大正10(1921)年、美術史研究のため中国へ渡った折の大村西崖
「東京文化財研究所ホームページ」から

明治元年10月12日生まれ。
35年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授となり東洋美術史をおしえる。
大正9年「密教発達志」により学士院賞。
昭和2年3月8日死去。60歳。
駿河(静岡県)出身。
本名は塩沢峯吉。別号に無記庵。
著作はほかに「東洋美術大観」「支那美術史彫塑篇」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
岡倉天心の像を囲むように、森の周りに教授の銅像があります。
像は、朝倉文夫の作品で、実物大と思われ、表情が良く現れています。

高村 光雲
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高村 光雲 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

高村 光雲(たかむら こううん)
(1852年-1934年)
明治-昭和時代前期の彫刻家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和10年
分 類:彫刻家
作 者:高村光太郎
評 価:☆☆☆

高村光雲
「近代日本人の肖像ホームページ」から

嘉永5年2月18日生まれ。
高村光太郎,高村豊周の父。
高村東雲に木彫をまなび,東雲の姉の養子となる。
明治10年第1回内国勧業博で東雲の代作「白衣観音」が最高賞を受賞。
東京美術学校(現東京芸大)教授,文展審査員などを歴任。
大正8年帝国美術院会員。
作品に「楠公像」「西郷隆盛像」「老猿」など。
昭和9年10月10日死去。83歳。江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、木彫も輸出用の象牙彫刻が流行し衰え、光雲自身の生活も苦しかった。
そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいる。
高村光太郎、高村豊周は息子。
写真家の高村規は孫。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[代表作]
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●「老猿」(重要文化財)
明治26年(1893年) 木彫(東京国立博物館蔵)
●西郷隆盛像(上野公園)
●楠公像(皇居前広場)

[感 想]
楠木正成銅像、西郷隆盛銅像を生んだ偉大な彫刻家です!
老猿は、美術の教科書でおなじみです。
智恵子抄で有名な息子光太郎による父の像です。
銅像は、長い髭が特徴的ですが、写真の髭もすごいです。


石川 光明
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石川 光明 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

石川 光明(いしかわ こうめい)
(1852年-1913年)
明治時代の彫刻家。

撮影日:2007年6月21日
建設年:大正6年
分 類:彫刻家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

嘉永5年8月18日生まれ。
家業は宮彫師。
日本画を狩野素川に,牙彫を菊川正光にまなぶ。
明治14年内国勧業博覧会で牙彫「魚籃観音」が入賞。
23年帝室技芸員,翌年東京美術学校(現東京芸大)教授となる。
文展審査員。
大正2年7月30日死去。62歳。江戸出身。
木彫の代表作に「白衣観音」「牧童」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

石川光明 牧童
牧童(ぼくどう)

石川光明 hideyoshi
「豊臣秀吉像」
東京藝術大学大学美術館ホームページ
「竹内久一と石川光明 - 明治の彫刻展」から

[感 想]
朝倉文夫の作品です。
髭と頭が特徴的な像です。

竹内 久一
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竹内 久一 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

竹内 久一 (たけのうち きゅういち)
(1857年-1916年)
明治-大正時代の彫刻家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和5年
分 類:彫刻家
作 者:沼田一雅
評 価:☆☆☆

安政4年7月9日生まれ。
はじめ象牙彫刻家として独立したが,奈良の古仏にであい木彫をこころざす。
東京美術学校(現東京芸大)開設とともに教師となり,明治24年教授。
白井雨山らの門弟をそだてた。
代表作に「技芸天」「日蓮上人」など。
大正5年9月24日死去。60歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

竹内久一 ぎげい天
「伎芸天立像」(ぎげいてんりつぞう)

竹内久一idaten
「韋駄天」(いだてん)
東京藝術大学大学美術館ホームページ
「竹内久一と石川光明 - 明治の彫刻展」から

[感 想]
福岡市の東公園にある日蓮聖人像の作者です。
像は、髭が特徴的です。

白井 雨山
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白井 雨山 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

白井 雨山(しらい うざん)
(1864年-1928年)
明治-大正時代の彫刻家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和4年
分 類:彫刻家
作 者:建畠大夢
評 価:☆☆☆

白井雨山
白井雨山
「ほっとde西伊予 ぴぃぷる 偉人編 ホームページ」から

元治元年3月1日生まれ。
明治31年母校東京美術学校(現東京芸大)の助教授となり,彫塑科を新設してその発展につとめる。37年教授。
文人画にもすぐれた。
昭和3年3月23日死去。65歳。
伊予(愛媛県)出身。
名は保次郎。別号に真城,晩翠軒など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

二十年近く、東京美術学校塑造科の教授を務めた雨山は、「長崎平和祈念像」で有名な北村西望をはじめ、朝倉文夫・建畠大夢等 の偉大な後継者を育て、今日では「近代彫塑の祖」と呼ばれています。
なお退職後は生来好きであった絵を描きながら過ごし、昭和三年に兵庫県の自宅において亡くなりました。
翌年には、雨山の功績を讃えて、 建畠大夢により造られた胸像が、東京美術学校構内に設置されました。
この胸像を型どったブロンズ像が、愛媛人物博物館(県民メモリアルホール) に展示されています。
「生涯学習愛媛 №57(平成16年2月発行)センターだより人物博物館」から抜粋

「作 品」
白井 北条
北条時宗公像

[感 想]
北村西望、朝倉文夫等の偉大な後継者を育てたということから、日本の銅像に果たした役割は大きいものがあると思います。
像は、緑の中にある上半身の像で、表情をしっかりととらえています。

加納 夏雄
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加納 夏雄 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

加納 夏雄(かのう なつお)
(1828年-1898年)
幕末-明治時代の彫金工

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治43年
分 類:彫金工
作 者:米原雲海
評 価:☆☆☆

文政11年4月14日生まれ。
奥村庄八,池田孝寿に師事。
かたわら中島来章に画をまなぶ。
明治2年造幣寮につとめ,新貨幣の原型製作に従事。
23年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝室技芸員。
明治31年2月3日死去。71歳。
京都出身。本姓は伏見。
代表作に「月雁図鉄額」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「新貨条例による旧金貨」
最初硬貨のデザインは英国に委ねる予定であったが、彫金師加納夏雄の優れた龍のデザインと彫刻が認められ、これが採用された。
加納 金貨
「明治3年銘の2圓金貨幣」
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
金貨の龍の彫刻も見事です。
像は、帽子が特徴的で、ちょっとおばさんのようにも見えます…

久米 桂一郎
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久米 桂一郎 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

久米 桂一郎(くめ けいいちろう)
(1866年-1934年)
明治-昭和時代前期の洋画家

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和11年
分 類:洋画家
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆

久米 桂一郎
久米 桂一郎
「久米美術館ホームページ」から

慶応2年8月8日生まれ。
久米邦武の長男。
明治19年フランスに留学,黒田清輝とともにラファエル=コランに印象派風の外光表現をまなぶ。
26年帰国,29年白馬会を結成。
31年東京美術学校(現東京芸大)教授。
のち美術行政,美術教育にたずさわった。
昭和9年7月27日死去。69歳。肥前佐賀出身。
作品に「林檎拾(りんごひろい)」「晩秋」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

久米 林檎拾い
「林檎拾い」明治25(1892)年

久米 黒田
「画室にての久米桂一郎」1889年 黒田清輝
「久米美術館」ホームページから

[感 想]
北村西望の作品です。
ちょっと笑った顔は、人の良さそうな感じです。

橋本 雅邦
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橋本 雅邦 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

橋本 雅邦(はしもと がほう)
(1835年-1908年)
明治時代の日本画家

撮影日:2007年6月21日
建設年:大正2年
分 類:日本画家
作 者:白井雨山
評 価:☆☆☆

橋本 雅邦
橋本 雅邦
近代日本画の基礎を築いた橋本雅邦画伯
「小江戸探検隊ホームページ」から

天保6年7月27日生まれ。
狩野雅信に入門。
フェノロサ,岡倉天心らの鑑画会に参加し,狩野芳崖らと新画風を開拓。
明治23年東京美術学校(現東京芸大)初の日本画教授となる。
31年辞職して天心とともに日本美術院を創立した。
明治41年1月13日死去。74歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

フェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。
このため明治23年の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。
さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
東京美術学校では、下村観山や横山大観、菱田春草、川合玉堂、寺崎広業らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。
しかし明治31年(1898年)には岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。
以後は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。

「画 業」
同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家。芳崖と共に、狩野派の描法を基礎としつつも洋画の遠近法等の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。
代表作の一つである《白雲紅樹》では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。

[代表作品]
•《白雲紅樹》1890年/東京藝術大学大学美術館(重要文化財)
•《竜虎図》1895年/静嘉堂文庫(重要文化財)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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橋本 雅邦筆 「龍虎図」記念切手

[感 想]
竜虎図は、有名な絵ですね。
像は、表情が細かく表現されています。

オノレ・ド・バルザック
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バルザック 像
(東京都 台東区 東京藝術大学)

オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)
(1799年-1850年)
フランスの小説家

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治30年
分 類:外国人
作 者:オーギュスト・ロダン
評 価:☆☆☆

オノレ・ド・バルザック
オノレ・ド・バルザック
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

19世紀フランスを代表する小説家。
なおド・バルザックの「ド」は、貴族を気取った自称である。
イギリスの作家サマセット・モームは、『世界の十大小説』のなかで、バルザックを「確実に天才とよぶにふさわしい人物」と述べている。
バルザックは90篇の長編・短編からなる小説群『人間喜劇』を執筆した。
これは19世紀ロシア文学(ドストエフスキー、レフ・トルストイ)のさきがけとなった写実的小説群である。
『レ・ミゼラブル』で著名なヴィクトル・ユーゴーや、アレキサンドル・デュマの親友でもある。

[感  想]
考える人で有名なロダンの作品です。
ガウンをまとった姿は、芸術的な感じです。

小松宮彰仁親王
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小松宮彰仁親王 像
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)
(1846年-1903年)
幕末-明治時代の皇族,軍人
北白川宮能久親王の兄

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治45年
分 類:皇族
作 者:大熊氏廣
評 価:☆☆☆☆

小松宮彰仁親王
小松宮彰仁親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

弘化3年1月16日生まれ。
伏見宮邦家親王の王子。
安政5年親王となる。
出家して純仁と名のり,王政復古にあたり還俗して名を嘉彰にもどす。
明治15年東伏見宮から小松宮に改称,名も彰仁とする。
軍務に従事し,23年陸軍大将,31年元帥。35年天皇の名代としてイギリス国王の戴冠式に参列した。
明治36年2月18日死去。58歳。
幼称は豊宮。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆小松宮彰仁親王は、江戸時代末期の弘化3年(1846)に皇族伏見宮邦家親王の第8皇子として誕生。
戊辰戦争で奥羽討伐総督として官軍を指揮したほか、のちの西南戦争でも旅団を指揮して出征しています。
明治時代は欧州王族の例に倣って日本の皇族も進んで軍務に就くべきという雰囲気が皇族内にあり、彰仁親王もそれを奨励し、自らも多くの戦場に立ったことで知られています。
明治23年(1890)には陸軍大将となり、近衛師団長、参謀総長という要職を歴任しています(のちに元帥)。
また軍務の一方で、日本赤十字社の総裁として赤十字活動の奨励・発展に尽力するなど社会奉仕・事業団体の総裁を務め、現在、皇族が公務として行っている社会活動の礎となりました。
なお銅像建立を提案したのは、西南戦争の際に負傷者介護にあたる公的機関(のちの博愛社。日本赤十字社の前身)の設立を提唱した佐野常民で、明治35年の日本赤十字社設立25周年の記念としてでした。
像は、勲章を佩用した軍装の乗馬姿で明治45年(1912)に除幕。
上野動物園正面入り口・向かって左側の木々に囲まれた場所にあります。
見所は軍装の装飾(正帽の前立は見事です)、勲章、装備、馬具の精緻きわまる描写。
そして並足の騎馬の抑えた躍動感と馬上の親王の凛として威厳あるたたずまいです。
周囲には桜の木があり、花咲く春が銅像の見ごろと言えるかもしれません。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
上野公園のほぼ中央に位置します。
馬に乗ったりりしい姿が素晴らしいです。
台座も高くて立派です。

野口 英世
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野口 英世 像
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

野口 英世(のぐち ひでよ)
(1876年-1928年)
明治-昭和時代前期の細菌学者

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和26年
分 類:細菌学者
作 者:吉田三郎
評 価:☆☆☆

野口英世
「近代日本人の肖像ホームページ」から

明治9年11月9日生まれ。
順天堂医院,伝染病研究所の助手をへて明治33年渡米。
ロックフェラー医学研究所につとめ,44年梅毒病原体スピロヘータの純粋培養に成功した。
大正4年学士院恩賜賞。アフリカで黄熱病研究中に感染し,アクラ(現ガーナの首都)で昭和3年5月21日死去。53歳。
福島県出身。幼名は清作。
【格言など】人は四十になるまでに土台を作らねばならぬ(奥村鶴吉編「野口英世」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆野口英世は、日本だけでなく世界的にも今なおその業績が高く評価されている細菌学者です。
一般には、現在発行されている千円札の肖像、といったほうが通りがいいかもしれません。
誕生は明治9年(1876)で、幼名は清作。
幼い頃に手に負った大火傷で指が癒着(のちに手術で分離)して困難を背負ったものの努力で克服し、医学の道に進んでからは、数々の研究・発見でその名が海外でも知られるようになりました。
梅毒の研究ではノーベル賞の候補にも挙がりました。
のちにロックフェラー財団の要請により、当時、効果的な治療法がなかった黄熱病の研究に挑み、ワクチン開発の端緒を開く実績を残しましたが、研究のために渡ったガーナで自らも感染して亡くなりました。
上野公園内の銅像は噴水広場近くの林の中にあり、試験管を持って研究中の姿(生前の写真をもとにしたといわれています)を描いた立像となっています。
像の製作は、昭和22年(1947)に野口英世と同郷(福島県)の玉応不三雄により計画されましたが資金難で頓挫し、玉応氏も死去。
しかし、医学界を中心に玉応氏の遺志を継いで製作が進められ、昭和26年に完成にこぎつけたとのことです。
像の台座には「人類の幸福のために」を意味するラテン語が刻まれています。
なお、ほかにも郷里の福島県に立像があるほか、アメリカのロックフェラー大学、ガーナなど生前の活動と縁が深い各地に銅像があり、野口英世の業績の大きさを物語っています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[年 譜]
1893年
猪苗代高等小学校卒業後、上京。
歯科医であり高山歯科医学院(東京歯科大学)創立者の一人血脇守之助による月額15円の援助を受け、東京の芝伊皿子坂上の同学院で雑用をしながら済生学舎(日本医科大学)で医学を学ぶ。
毎月大金が入金される事からこの頃より遊郭などでの放蕩癖が発露。
1896年
医学前期試験(筆記試験)に19歳で合格。
同年の後期試験(臨床試験)で、大学教授も見つけられなかった病名を言い当て、20歳で医師免許を取得(当時は“前期3年・後期7年”と言われた)。
1897年
順天堂病院助手となるが月給が少なく、高山歯科医学院で講師を務める。
また、友人より度々借金を重ねる。
1898年
北里伝染病研究所に勤め始める。
しかし、周りは東京帝国大学医学部出の集まりで、学歴を理由に冷遇を受ける。
一方で、来日していたサイモン・フレクスナーの案内役を務めていた際、フレクスナーに自分が渡米した際の世話を打診、フレクスナーは半分社交辞令で応じる。
1898年
坪内逍遥の小説「当世書生気質」を読み、自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」と自分の名「野口清作」と行動(遊郭等での放蕩癖)が極めて近いため、ショックを受け「英世」と改名。
「当世書生気質」が発刊されたのは1885年。
野口は当時7歳。のちに小林栄が坪内逍遥に質問し、「野口英世をモデルにしたのではない」と返答したと文献に記されている。
坪内逍遥は後に「キング」誌のエッセイに「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったことを光栄」との旨を記した。
1899年
横浜海港検疫所検疫官補となる。
清国でペストが猛威。対策としての国際防疫班に選ばれる。
支度金100円を出発前に使い果たし、血脇守之助に無心し渡航。
清国では海外チームの評価を受け月額約260円~390円の高給を得るも、毎夜遊興にふけり無一文で帰国する。
1900年
フレクスナーを頼り渡米を決意、小林栄から200円を借り、斎藤家の子女と帰国後の婚約をし結納金として300円を得て旅費を得る。
しかし渡航直前に横浜の遊郭で友人と遊興にふけり更に賭博にて使い果たし、血脇守之助が高利貸しより借りた300円を資金としてアメリカに渡航。
フレクスナーのもとペンシルバニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究を始める。
こちらでも借金を重ね「野口に金を貸してはならない」と云われるようになる。
1904年
ロックフェラー医学研究所に職を得る。
1911年
「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。一躍、世界の医学界に名前を知られることになった(梅毒スピロヘータの培地による純粋培養については議論がある)。同年、京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。
メリーと結婚する。(日本を発つ際の斎藤家子女との婚約は、血脇守之助による斎藤家との交渉と結納金返済により破棄された。)
1913年
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示した画期的なものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定(但し、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)などの成果を発表。
1914年
東京大学より理学博士の学位を授与される。放蕩癖のため帰国費用がなく製薬会社社長の星一に電報を送り大金を送金して貰い帰国の途につく。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。
1915年
15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。横浜港には、たくさんの人が出て、野口を出迎えた。世間では、野口フィーバーとも呼べる歓待で、日本各地の講演会にひっきりなしに呼ばれることになる。以後、帰国することはなかった。ただしそれまでの主に金銭面での不義理から背を向ける者も少なからずいた。
1918年
ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原菌発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。
当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。
エクアドルに到着後、9日後(日数については諸説あり)には、黄熱病と思われる病原体を特定することに成功(この病原体は、今日ではワイル病スピロヘータであったと考えられている)。
この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。
この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。
さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。
1927年
トラコーマ病原体を発表する(ただし後年否定された)。イギリスの医学者で、西アフリカの黄熱病を研究していたストークスが、野口ワクチンはアフリカでの黄熱病に効果がないという論文を発表する。ストークス自身も黄熱病で死亡。野口はアフリカ行きを決断する。そしてこの年の10月にアフリカへ王熱病研究のため出張する。
1928年
アフリカガーナのアクラに研究施設を建築。
アカゲザルを用いた病原体特定を開始する。
しかしまもなく自身が黄熱病に感染、5月21日、アクラの病室で死亡。
野口英世は「私には分からない」という言葉を口ずさみ、51年の生涯を閉じた。
この年の6月15日、アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬される。

[エピソード]
◎ニューヨークでの将棋の相手は、絵の師でもある写真家堀市郎であり、囲碁の相手は、彫塑家川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。
◎1904年(明治37年)、24歳の時に、星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。後にお互いが千円紙幣の肖像に採用される。
野口千円
日本銀行券E号千円札
◎台湾医学界の重鎮であった、杜聡明が学生時代、ニューヨークにいる野口英世を訪ね、ロックフェラー研究所の食堂で日本語で歓談していた際、食堂内に米国人が入ってきた途端、野口はさっと言語を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、「これが真の国際マナーであり、国際人というものか」と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている(「中国名医列伝」・中公新書)。
◎ロックフェラー大学の図書館入り口の左右には、ロックフェラー1世と、野口英世の胸像が対になって並んでいる。東京の科学博物館前にも銅像がある。

◎野口英世語録
・志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)
・人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。
・努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
・絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
・「ナボレオンは三時間しが寝ながった」(口語)
・「偉ぐなるのが敵討[ガタキウ]ちだ」(口語)
・学問は一種のギャンブルである。
・名誉のためなら危ない橋でも渡る。
・忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)
・英雄却相親(星一との写真に添え書き)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
野口英世といえば、天才科学者で苦労した偉人としてのイメージでしたが、放蕩癖はすごかったようですね。
しかし、小学生向けの野口英世に関する書籍が多く発刊された為、その後、医師を目指すものが多くなったとも言われており、後世への影響は大きいですね。
像は、上野公園の静かな森の中にあり、試験管をもつ悠然とした姿がいいです。

アントニウス・ボードウィン
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アントニウス・ボードウィン 像
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

アントニウス・ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)
(1820年-1885年)
オランダ人の在日蘭医

撮影日:2007年6月21日
建設年:平成18年
分 類:外国人
作 者:林昭三(原型製作)
評 価:☆☆☆

アントニウス・ボードウィン
アントニウス・ボードウィン
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

◆ボードワン博士(アントニウス・フランシスカス・ボードウィン)は、オランダの軍医で、1862年に来日しました。
主な業績はオランダ医学の普及ですが、上野公園にとって生みの親とも言える深い縁をもった人物です。
ボードワンは医学所講師として1891年まで滞在(途中2回帰国)し、オランダ医学の普及に尽力しましたが、この間に明治維新を迎えた日本はドイツ医学の導入へと向かいました。
しかし、大学東校(東京大学医学部の前身)が招く予定だったドイツ人講師の来日が普仏戦争の影響で遅れたため、臨時講師となりました。
当時、大学東校と病院は移転が決まっており、上野の森はその移転先候補の一つでした。
ボードワンは自然が工事によって失われることを危惧し、政府に保存を提言。
その結果、大学の移転先は本郷に決まり、上野の森は西洋式公園として保存されることになったのです。
銅像(胸像)は、上野公園100年を記念して1973年に建てられたものですが、本人ではなく駐日オランダ領事だった実弟をモデルにしたものでした(豊かな髭を蓄えた人物の像)。
そこで2006年、彫刻家林昭三氏の原型製作による新しい像が据えられました。
端正な面立ちに近代ヨーロッパの軍服が非常に似合っている像です。
場所は、噴水近くの林の中。
少し見つけにくい場所ですが、上野公園を静かに見守っています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎養生所、医学校教頭としてオランダ医学の普及に努めたほか、本国からクーンラート・ハラタマを招聘するなどして物理学や化学の日本の教育制度の充実を図った。
◎特に眼科に優れており、日本に初めて検眼鏡を導入した。なお、ボードウィンが日本に持ってきた健胃剤の処方が日本人に伝播され、独自の改良を経たものとして太田胃散と守田宝丹がある。いずれもその後品質改良や薬価改定などによって形状・成分の変更などが行なわれたが現在に至るまで市販されている。
◎アマチュアの写真家でもあり、多くの写真を残している。
◎上野に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言した(現在の上野恩賜公園)。上野公園に業績を顕彰する銅像がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
この人のおかげで、大都会の中自然いっぱいのこの上野公園が残っているのです。
銅像は、公園の自然の中にひっそりと有り、公園を眺めておられます。
りりしい顔がいい感じです。
先代の銅像は、弟がモデルの像だったとは、おもしろいエピソードです。

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ヒポクラテス
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ヒポクラテス 像
(東京都 文京区 湯島 東京医科歯科大学医学部附属病院)

ヒポクラテス(Hippokrates)
(前460ころ~前375ころ)
古代ギリシャの医師

撮影日:2007年6月21日
分 類:医師
評 価:☆☆

ヒポクラテス
ヒポクラテス
ピーテル・パウル・ルーベンス作版画。1638年。
アメリカ国立医学図書館蔵・画像提供
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

迷信や呪術を排して臨床の観察と経験を重んじ、科学的医学の基礎を築いた。
医師の倫理についても論じ、医学の父と称される。
所説は「ヒポクラテス全集」に集大成された。
ヒッポクラテス。
「デジタル大辞泉」から

[感  想]
医学の父といわれるヒポクラテスの像が、東京医科歯科大学医学部附属病院の待合室で静かに病院を見守っておられます。

伊能 忠敬
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伊能 忠敬 像
(東京都 江東区 富岡八幡宮)

伊能 忠敬(いのう ただたか)
(1745年-1818年)
江戸時代中期-後期の測量家

撮影日:2007年6月21日
建設年:平成13年
分 類:測量家
作 者:酒井道久
評 価:☆☆☆☆

伊能 忠敬
伊能 忠敬
「香取市ホームページ」から

延享2年1月11日生まれ。
養家の下総佐原(千葉県)の酒造業を再興,米穀取引などで家産をきずき,名主となり名字帯刀をゆるされる。
51歳で隠居して江戸に出,高橋至時に天文学をまなぶ。
寛政12年自費で蝦夷地東南沿岸を測量して地図を幕府に献上。
以後,幕府の支援をえて文化13年全国の測量を終了した。
この17年間の実測をもとに「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)を作成中,文化15年4月18日死去。74歳。
上総(千葉県)出身。
本姓は神保。字は子斉。通称は三郎右衛門,勘解由(かげゆ)。号は東河。
【格言など】宜しく先生の墓側に葬り,以て謝恩の意を表すべし(遺言)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆伊能忠敬は、江戸後期の商人・測量家です。
延享2年(1745)に神保貞恒の次男として誕生しますが、18歳で醸造業を営んでいた伊能家に婿養子として迎えられ、傾いていた伊能家を再建。
50歳になったのを機に家業を長男の景敬に譲ると江戸で幕府の天文方を務めていた高橋至時に師事し、測量術や天文観測の技術を習得します。
そして、身につけた技術を用い、それまで不正確な地図しかなかった日本全土の測量(沿海部)に乗り出します。
この時56歳。当時の日本男子の寿命からすると高齢での旅立ちでした。
測量に意義を見出した幕府の手助けもあり、国家的事業となります。
忠敬の努力は、やがて日本では過去に例のない精密地図「大日本沿海輿地全図」として結実しますが、忠敬自身は文化15年(1818)に亡くなり、没後3年を経た文政4年(1821)に事業を引き継いだ弟子たちにより完成を見ました。
この地図は国禁(海外持ち出し禁止)とされ、オランダ商館付き医師・シーボルトが離日に際して写本を作っていたことを咎められて追放処分(シーボルト事件)となるなど、極秘扱いでした。
なお、持ち出された写本はさらに複製され、船舶関係者を始めとする多くの人々の手に渡ります。
当時の欧米人たちは、この地図を見取り図かスケッチ程度の不正確なものとしていました(日本人が独自に測量技術を開発しているという認識がなかった)。
しかし、嘉永6年(1853)に「黒船」を率いて来航したペリー提督が測量船を用いた沿岸測量を行い、その結果と持参していた複製写本を比較したところ、科学測量された精密地図であることが分かります。
日本を文明の遅れた一小国と考えていたペリーは、これをきっかけに認識を改めたといわれています。
銅像は、門前仲町の富岡八幡宮(江戸最大の八幡宮)の境内、大鳥居脇にあります。
除幕は平成13年(2001)で、測量開始200年を記念したものでした。
実は門前仲町と富岡八幡宮は伊能忠敬と縁が深く、当時は深川黒江町と呼ばれていた門前仲町に居住し、測量旅行出発に際しては、富岡八幡宮に参拝して旅の無事を祈願していたそうです。
像は測量旅行時の姿を模した立像で、製作は彫刻家の酒井道久。
忠敬から7代目の子孫にあたる洋画家・伊能洋が監修し、困難な事業に向かう決意と力強さにあふれた像となっています。
像の背後には、日本の地形シルエットと銅像建立の由来を刻んだ石板が置かれ、全体として荘厳さと躍動感が調和した見ごたえのある像になっています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

「伊能の地図」
◎1800年、56歳の時に、第1次測量を開始。
これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。
最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。
ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。
こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。
完成したのは忠敬没後の1821年であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。
後年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚。
これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰された。(シーボルト事件)
◎江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている。
◎シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
最近の銅像ですが、背景の日本地図の壁から飛び出るようで、迫力あります。
56歳から18年かけて日本全国を測量してまわったという努力に敬服します。

松尾 芭蕉
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松尾 芭蕉 像
(東京都 江東区 採荼庵跡)

松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
(1644年-1694年)
江戸時代前期の俳人

撮影日:2007年6月21日
建設年:平成3年
分 類:俳人
評 価:☆☆☆

与謝蕪村が描いた芭蕉像
与謝蕪村が描いた芭蕉像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

正保元年生まれ。
京都で北村季吟にまなぶ。
江戸にでて宗匠となり,延宝8年深川に芭蕉庵をむすぶ。
貞享元年の「甲子吟行(かっしぎんこう)」「野ざらし紀行」をはじめ「笈(おい)の小文」「おくのほそ道」などの旅をへて,不易流行の思想,わび・さび・軽みなどの蕉風にたどりつく。
作句は没後,「冬の日」「猿蓑(さるみの)」「炭俵」などの七部集にまとめられた。
元禄7年10月12日旅先の大坂で病死。51歳。
命日を時雨忌という。
伊賀(三重県)出身。
名は宗房。通称は忠右衛門。別号に桃青,坐興庵,栩々斎(くくさい),花桃園など。
【格言など】春に百花あり秋に月あり,夏に涼風あり冬に雪あり。すなわちこれ人間の好時節
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆松尾芭蕉(通称・松尾藤七郎など)は、江戸時代前期の俳人・俳諧師です。
出身は現在の三重県伊賀で、寛永21年(1644)に農家を営む松尾家の次男として誕生しました。
やがて兄が家業を継ぐと、自身は農業を離れて武家の藤堂家の嫡子・良忠に仕えることになりますが、良忠が医師であり歌人でもあった北村季吟に師事していたことから俳諧の世界へと足を踏み入れます。
良忠の死後は藤堂家の仕官より離れ、江戸へと向かいます。
「芭蕉」の俳号を使うようになったのは江戸・深川の庵に居住するようになって以降の延宝8年(1680)の冬頃からです。
ここを拠点としてしばしば日本全国を旅し、多くの紀行文を残しました。
中でも元禄2年(1689)に弟子の河合曾良とともに旅した『奥の細道』は有名です。
後半生の大半が旅の空の下にあった芭蕉が最期を迎えたのも旅先で、享年51歳。
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最後の句でした。
かなりの健脚であったといわれ、また伊賀出身であることから「芭蕉隠密説」などもありますが、連歌を源流とする俳諧に蕉風と呼ばれる独自の句風(複数の句の連作で構成するものから、単独の句に完結性を持たせて自立させるスタイルを好んで詠んだ)を生みだし、後に芭蕉十哲と呼ばれる弟子を育てるなど、俳諧を志す多くの後進に影響を与えた偉大な俳人でした。
銅像は、芭蕉が『奥の細道』へと出立した「採荼庵(芭蕉の門人杉山杉風の別荘)」跡にあります。
採荼庵跡は仙台堀川に渡された海辺橋のたもとにあり、庵風の壁(景観はかなり現代的)に設えた縁側に、旅立ち支度の姿で腰かけている姿です。
俳人・与謝蕪村が描いた姿などでも知られるやや面長で柔和な表情が印象的です。
採荼庵跡の横には、芭蕉の句が飾られた遊歩道もあります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

「有名な句」
●古池や蛙飛びこむ水の音
(ふるいけや かはずとびこむ みずのおと)
●名月や池をめぐりて夜もすがら
(めいげつや いけをめぐりて よもすがら)
●夏草や兵どもが夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
:岩手県平泉町
以下五句は「おくのほそ道」より
●閑さや岩にしみ入る蝉の声
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
:山形県・立石寺
●五月雨をあつめて早し最上川
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
:山形県大石田町
●雲の峰いくつ崩れて月の山
(くものみね いくつくずれて つきのやま)
:山形県・月山
●荒海や佐渡によこたふ天河
(あらうみや さどによこたう あまのがわ)
:新潟県出雲崎町
●花の雲鐘は上野か浅草か
(はなのくも かねはうえのかあさくさか)
:東京都
●初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
(はつしぐれさるもこみのをほしげなり)
:三重県伊賀市
●月さびよ明智が妻の話せん
(つきさびよ あけちがつまのはなしせん)
:福井県坂井市
●旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
(たびにやんで ゆめはかれのをかけめぐる)
:辞世、難波(大阪市)

「隠密説」
忍者であるという説は、伊賀の上野に生まれたため、盛んに論じられてきた。
古くから俳諧師は旅をして暮らしたことから、情報収集をともなったと言われている。
1943年、「おくのほそ道」の旅に同行した河合曾良の旅日記『曾良旅日記』が翻刻された。
すると、『おくのほそ道』の記述とは、およそ80におよぶ相違点があることが判明した。
例えば、出発した日は『おくのほそ道』では3月27日であるのに対し、『曾良旅日記』では、3月20日となっている。
また、日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では一句も詠まずに一泊して通過している。
この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだと考えられる。
また、『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている。
曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したといわれている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
庵の前で一休みといった感じの芭蕉です。
芭蕉が忍者であったという説は、おもしろいです。


嘉納治五郎
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嘉納 治五郎 像
(東京都 文京区 春日 講道館前)

嘉納 治五郎(かのう じごろう)
(1860年-1938年)
明治-昭和時代前期の教育者,柔道家
「柔道の父」と呼ばれる。

撮影日:2007年6月20日
建設年:昭和33年
分 類:教育者
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

嘉納治五郎1

嘉納治五郎2
「近代日本人の肖像ホームページ」から

万延元年10月28日生まれ。
学習院教授,第五高等中学・第一高等中学の校長をへて高等師範(のち東京高師)校長をつとめる。
東京大学在学中から天神真楊流,起倒流の柔術をまなんで柔道を創始し,明治15年(1882)講道館をひらく。
日本初のIOC委員。大日本体育協会初代会長。貴族院議員。
昭和13年5月4日死去。79歳。
摂津兎原郡(兵庫県)出身。
【格言など】柔術は,はたしてこのままでよいのか。ただ敵を倒しさえすればいいのか
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆嘉納治五郎は、明治から昭和初期にかけて活躍した柔道家、教育者です。
幕末の万延元年(1860)に摂津御影村 (現在の神戸市東灘区御影町)の名家の三男として誕生。
明治に入ると、政府に招聘された父に付いて上京し、明治10年(1877)には東京大学に入学します。
小柄だった治五郎は柔術の道を志しますが、師と仰げる人物はなかなかみつからず、やがて江戸末期から続く天神真楊流柔術の福田八之助と出会います(後に流派家元の磯正智や起倒流柔術の飯久保恒年に師事)。
天神真楊流は、起倒流と共に、後に治五郎が創始する講道館柔道の基礎となりました。
治五郎は修行と研究の結果、二流派の理論を整理・統合して独自の流派を編み出し、明治15年に柔道場“講道館”を設立します。現在も続く日本柔道の隆盛の礎となった講道館柔道の誕生です。
また講道館設立と同年に学習院教頭に就任するなど、柔道の普及とともに教育にも力を注ぎました。
他の武道の研究にも熱心で、スポーツ振興にも自ら率先して尽力するなど、日本における近代スポーツの普及にも大きな役割を果たし、明治42年(1909)には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)の委員になっています。
東京オリンピックの招致に成功するなど、大きな功績を残した治五郎でしたが、昭和13年(1938)IOC会議からの帰途、氷川丸の船内で死去。77歳でした。
治五郎の悲願であった東京オリンピックは、戦争のため開催権の返上という無念な結果となりましたが、戦後に改めて開催されます。
没後26年目の昭和39年(1964)のことでした。
銅像は、文京区本郷の講道館本館前にあり、白山通りに面して置かれています。
この銅像は再建されたもので、最初の建立は昭和11年(1936)で、嘉納治五郎の喜寿を記念し、朝倉文夫の手により製作され、旧東京文理科大学本館前広場で除幕されました。
紋付羽織姿の凛として緊張感のある立像です。
しかし、これは戦時中の金属供出で行方不明になり、戦後、朝倉文夫の手元に残された原型を元に昭和33年に復元されたもの。
講道館本館のほかに旧東京教育大学の跡地に造営された占春園にも同じ原型から復元されたものが建立された。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎明治24年(1891年)1月、欧米視察より帰国する船上でロシア人士官に挑まれこれを投げた。同年4月10日の讀賣新聞がこの記事を掲載した。
◎オリンピック、世界選手権に出場する柔道日本代表選手団が大会前に必勝祈願として、嘉納治五郎の墓参りをすることが恒例となっている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
講道館の前に羽織袴姿で、堂々と立っておられます。
すっくと立った姿がいいです。

佐々木 小次郎
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佐々木 小次郎 像
(山口県 岩国市 吉香公園)

佐々木 小次郎(ささき こじろう)
(生年不詳-1612年)
織豊-江戸時代前期の剣術家

撮影日:2007年6月12日
分 類:剣 客
評 価:☆☆☆☆

越前(福井県)の人という。
鐘捲自斎に富田流をまなび,武者修行で燕返しの剣法をあみだす。
豊前小倉藩(福岡県)藩主細川忠興につかえ,慶長17年4月13日宮本武蔵と船島(巌流島)で決闘し,敗れて死んだとつたえられる。
出身,経歴には異説がおおい。
幼名は久三郎。号は巌流,岸柳,岸流。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1612年に刃長三尺三寸(約99.99センチメートル)の野太刀「備前長船長光 」、通称物干し竿(この呼び名は「長いだけで斬るには向かない」とする侮蔑的な意味合いがあるため、後世につけられたとみられる)を使用して、宮本武蔵と巌流島(船島、山口県下関市)で決闘し、敗死したとされる。
同時代の豊前国の小倉藩(当時は細川氏)家老、門司城代の沼田延元による文書『沼田家記』では、決闘で敗北した後に武蔵の弟子達に殺害されたと記されている。
吉川英治原作の小説『宮本武蔵』では、周防国(現山口県)岩国(現岩国市)の出身とされている。
山口県岩国市の吉香公園、前述の一乗谷に銅像がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[感  想]
いろいろ謎の部分が多い人物ですが、吉川英治は、岩国市出身としています。
錦帯橋の畔の柳や燕を相手に「燕返し」を編み出したと思いたいですね。
長い刀がかっこいいです。

吉川 広嘉
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吉川 広嘉 像
(山口県 岩国市 吉香公園)

吉川 広嘉(きっかわ ひろよし)
(1621年-1679年)
江戸時代前期の武士
岩国藩第三代藩主

撮影日:2007年6月12日
分 類:武将
評 価:☆☆

元和7年7月6日生まれ。
吉川広家の孫。
周防(山口県)岩国城主。
岩国川河口の干拓,銅山開発,製紙業興隆につくし,大坂中之島に蔵屋敷をもうけ販路を拡大するなど経済振興につとめる。
延宝元年に錦帯橋をつくった。
延宝7年8月16日死去。59歳。
初名は広佳,広純。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「錦帯橋」
岩国藩祖の吉川広家から数えて三代目が広家の孫・広嘉である。
広嘉は、元来病弱で、京都での病気療養中、京文化になじみ、また、学ぶところともなったようである。
読書に親しみ、武芸を好み、学問心と技術ごごろを重んじる政策は、岩国の文化の開祖と仰がれている。
また、毎年のように氾濫する錦川に流されない橋をかけようと、約10年の歳月をかけて実験と研究を繰り返し、4つの頑丈な石の橋脚と5つのそり橋からなる錦帯橋を完成させました。
この橋は昭和25年(1950)にキジヤ台風で流されるまで、276年間も不落をほこりました。
ホームページ「ひとのくに山口」「ようこそ岩国へ」から

[感  想]
あの有名な錦帯橋を造ったお殿様です。
銅像は、こぢんまりした感じです。

余談ですが、錦帯橋のすぐそばに「槍倒し松(やりこかしのまつ)」という立派な松があります。
これは、岩国藩士の心意気と言われるもので、
昔の山陽道は、徳山から玖珂-岩国御庄-多田-関戸-小瀬-大竹市中津原へ抜けるコースで、この上流にある岩国市御庄近くでは、渡し舟が利用されていたのである。
ところが、大雨が続くと川が氾濫し、渡し舟が止まり、参勤交代などで江戸を往復する西国の諸大名は、吉川藩に願い出て、吉川家の所有である錦帯橋を渡してもらっていた。
大名行列が藩の要所を通る時は、行列の槍を倒すのが礼儀となっていたが、わずか6万石の岩国藩を馬鹿にして、誰も倒す者はいなかった。
悔しがった知恵者が、近くの山から枝ぶりのよい松の木を持ってきて錦帯橋の袂に植えたところ、行列の槍は嫌でも倒さなければならなくなり、岩国藩士は手をたたいて大喜びしたという。
しかし、本当に意識して植えたという記録はない。
というものです。
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いつ見ても、「五橋」は美しいです。



重宗 雄三
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重宗 雄三 像
(山口県 岩国市 吉香公園)

重宗 雄三(しげむね ゆうぞう)
(1894年- 1976年)
昭和時代の実業家,政治家
参議院議長を3期9年間にわたり務めた。

撮影日:2007年6月12日
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

重宗雄三
重宗 雄三
「参議院ホームページ 参議院議長一覧」から

明治27年2月11日生まれ。
45年兄芳水が創業した明電舎にはいり,昭和13年社長に就任。
戦後,参議院議員(当選5回,自民党)となり,第2次岸内閣の運輸相。
37年から3期参議院議長をつとめ,参院自民党の佐藤派をひきい,重宗王国をきずいた。
昭和51年3月13日死去。82歳。
山口県出身。東京高工付属工業(現東京工業大付属高)卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

3期9年間にわたり参議院のドンとして君臨し、池田勇人、佐藤栄作内閣を支えた。
佐藤首相も頭を下げるというので「重宗天皇」などと称され、参議院は「重宗王国」と呼ばれた。
重宗は、自民党全盛時代の参議院自民党の力をフルに活用し、しばしば危惧されていた参議院の独自性を守ろうとした節がある。しかし、その権勢が仇となり、議長4選をめぐり、角福戦争も合わさって、河野謙三らに批判されて、議長選挙では自民党の一部と野党が連合して河野を推し、出馬断念に追い込まれて4選を阻止された。
毎冬には、郷里の鱈と河豚を振舞う「たらふく会」を主催し、多くの議員で賑わったと言う。
自民党有力者から一字ずつ取った「三角大福」という造語を作ったのは重宗である。
山陽新幹線新岩国駅の開設も岩国市を地盤とする佐藤や岸、重宗の力が大きかったとされる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
錦帯橋から吉香公園へ向かうところに建っています。
見上げると、山の上に岩国城を見ることができます。

田中 穂積
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田中 穂積 像
(山口県 岩国市 吉香公園)

田中 穂積(たなか ほづみ)
(1855年 -1904年)
作曲家、海軍軍人

撮影日:2007年6月12日
建設年:昭和31年
分 類:軍人、作曲家
評 価:☆☆

代表作である『美しき天然』(1902(明治35)年)は日本初のワルツとされている。
大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。
同曲は長崎県立佐世保北高等学校の前身になる私立佐世保女学校(市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。
「美しき天然」の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[年  譜]
1855年
吉川藩(現在の山口県岩国市)藩士田中判衛門の次男として誕生
1867年
日新隊入隊、鼓手を務める。
1873年
志願して海軍に入隊、軍楽隊に配属される。
1899年
佐世保鎮守府に軍楽長として赴任
1904年
長崎県佐世保市にて歿、同市の海軍墓地(現在の東公園、通称:東山公園)に葬られる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
銅像のすぐ横に、「美しき天然」譜面の碑があります。
銅像は、よごれがひどくちょっとかわいそうです。


毛利 敬親
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毛利 敬親 像 
(山口県 山口市 亀山町 亀山公園)

毛利 敬親(もうり たかちか)
(1819年- 1871年)
江戸時代後期の大名
第14代長州藩主

撮影日:2007年6月10日
建設年:昭和55年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

毛利敬親
毛利 敬親
※出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

文政2年2月10日生まれ。
毛利斉元の長男。
天保8年(1837)長門(山口県)萩藩主毛利家13代となる。
村田清風を起用して藩政を改革,富国強兵策をすすめる。
文久3年周防山口に藩庁をうつす。
四国艦隊下関砲撃事件,禁門の変,第1・第2次幕長戦争などの難局を人材の登用によってきりぬけ,維新の功労者となった。
明治4年3月28日死去。53歳。
初名は慶親。諡(おくりな)は忠正公。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらずに幕末の長州藩から高杉晋作などの優秀な人材を輩出させた。11歳も年下の下級武士の息子である吉田松陰の才を評価して重用し、自ら松蔭の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。
敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという(玖村敏雄の「吉田松陰」)。敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する
◎家臣の意見に対して異議を唱える事が無かったため「そうせい侯」と呼ばれ、賢明な藩主ではなかったとの評価もある。
しかし紆余曲折はあったものの、敬親は有能な家臣に全てを任せることで、結果窮乏する藩の財政を立て直した上、毛利260年の宿願であった「倒幕」を成し遂げている。
◎司馬遼太郎は『世に棲む日日』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と書いている。
◎清水義範は『偽史日本伝』の短編で敬親を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。
◎敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという(中原邦平の忠正公勤王事跡)。
◎慶応4年(1868年)閏4月14日、木戸孝允から版籍奉還を促された。
全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったためだが、敬親は了承した。
木戸はホッとして退出しようとすると敬親は「待て」と呼び止め、「これほどの変革を行なうには、その時機を見計らうことが大事」と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、かの藩主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという(木戸孝允文書。忠正公勤王事跡)。
※出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
銅像は、昭和55年に山口市政施行50周年記念として建立された。

[感  想]
幕末に活躍した長州藩最後の殿様です。
高杉晋作、桂小五郎らが活躍できたのも、この殿様がいたからです。
馬上の顔は、おだやかで優しそうな感じがします。


大内 弘世
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大内 弘世 像
(山口県 山口市 香山町 瑠璃光寺)

大内 弘世(おおうち ひろよ)
(1325年-1380年)
南北朝時代の武将
大内氏の第9代当主

撮影日:2007年6月10日
建設年:昭和55年
分 類:武将
評 価:☆☆☆

大内弘幸の子。
周防(山口県)大内村の領主。
観応の擾乱で足利尊氏に対抗する足利直冬に味方して南朝方となり,同族で周防守護の弘直をおさえた。
のち幕府と和解し周防,長門,石見の守護となる。
本拠を山口にうつし大内氏繁栄の基礎をきずいた。
康暦2=天授6年11月15日死去。
幼名は孫太郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅 像]
銅像は、昭和55年に山口市政施行50周年記念として建立された。

[感  想]
山口市の伝統工芸として大内塗りというのがあります。
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これは、大内弘世が京都からお姫様を妻に迎えたところ、妻が都を恋しがってやまないので、都から人形師を呼び寄せて、人形御殿と呼ばれるくらいに人形を作らせ、慰めたという伝説をもつ大内氏の都ならではの塗り物です。
また、うちの子供が通う幼稚園では、幼稚園まつりというのが、毎年7月にあります。
その中でみんなが、「大内のお殿様」という歌を歌いながら踊ります。
「大内の~、おとのさま~、恋をして~、京の姫を嫁にした、恋に~燃えて~る、つきやま御殿、殿様殿様お殿様、よいよ~い」
って歌です!
山口市民の間では、大内のお殿様は、ちょっと特別な存在です。
馬上の銅像は、きりっとした感じです。


大内 義興
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大内 義興 像
(山口県 山口市 大殿大路 龍福寺)

大内 義興(おおうちよしおき)
(1477年-1529年)
戦国時代の武将

撮影日:2007年6月10日
分 類:武将
作 者:月形那比古
評 価:☆☆☆

大内 義興

文明9年生まれ。
大内政弘の子。周防,長門,豊前,筑前,石見の守護。
永正5年足利義稙をたてて京都にはいり,義稙を将軍に復職させる。
みずからは管領代となり,山城守護をかねる。
遣明船の派遣など対外貿易を積極的におこなった。
大永6年尼子経久軍とたたかい,陣中で病にかかり周防にかえる。
享禄元年12月20日死去。52歳。
幼名は亀童丸,六郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎義興は公家のような人物だったといわれる。
だからといって軟弱な人物ではなく、その生涯を戦陣の中で過ごした英雄である。
むしろ、自らを公家のように振舞うことで、京都の戦火を逃れてやってくる公家を山口に迎えて朝廷とのパイプを作り、さらに京都文化を山口で開花させて、山口文化(大内文化)を創出させて領国を「西の小京都」と呼ばれるまでに繁栄させるなど、大内氏の全盛期を築き上げた人物である。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
龍福寺資料館前に設置されています。
説明文によると、「大内義興公馬上展望」像は、心像彫刻家 月形那比古によるもので、彼は、東洋のピカソと論評される鬼才だそうです。
確かに一般的な銅像とは、ちょと違った感じの銅像です。
ところどころ、黄金色に光っており迫力があります。


ビリオン神父
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ビリオン神父 像
(山口市 ザビエル記念公園)

エメ・ビリオン神父
(1895-1924)

撮影日:2007年6月10日
建設年:昭和24年
分 類:外国人
作 者:河内山賢祐
評 価:☆☆

ビリオン神父
「ビリオン神父を追うホームページ」から

[ビリヨン神父と記念碑]
公園の片隅にビリヨン神父の像
(創設昭和3年1月、復旧27年10月26日)が建っている。
サビエルの記念碑と向かい合うように、しかも控え目に立っている。
サビエルを顕彰する上で、ビリヨン神父をぬいては語れない。
神父はフランス人で、キリスト教解禁前の慶応年間に日本に入り、宣教の先駆者として苦難の道を歩んだ。
明治22年、山口のキリスト教会に着任。
そして、日本キリスト教会発祥の地である大道寺跡探求に乗り出すのである。
大道寺は、大内氏が亡んだ後、日本におけるキリシタン弾圧のことなどもあり、その遺跡はどこかわからなくなっていた。
偶然にも、山口の旧家、安部家のふすまの下張りになっていた古地図を発見、現在の位置を想定することができた。
そこで、ビリヨン神父は、サビエルの記念碑を建設する計画を立て、原敬総理大臣や寺内正毅伯爵、鮎川義介氏など、時の政財界の大物に相談、大正15年10月、高さ10メートルに及ぶ花岡岩にサビエルの胸像をはめこんだ碑を建てることができた。
この碑の胸像は、太平洋戦争のために供出されてしまったが、戦後、再び碑の建設が提唱され、山口県出身の河内山賢祐氏の彫刻になるものが、サビエル来朝400年を記念して、昭和24年に再建された。
※ホームページ 『日本最初の教会』から抜粋

[感  想]
上記ホームページにも有るように、
公園の片隅の目立たないところにポツンと建っています。
人の良さそうなおじいさんといった感じがします。


大村 益次郎
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大村 益次郎 像  
(東京都 千代田区 九段北 靖国神社)

大村 益次郎(おおむら ますじろう)
(1824年-1869年)
幕末の兵学者、陸軍指導者

撮影日:2007年6月5日
建設年:明治26年
分 類:兵学者
作 者:大熊 氏廣
評 価:☆☆☆☆

肖像画(エドアルド・キヨッソーネ画)
肖像画(エドアルド・キヨッソーネ画)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

文政7年3月10日生まれ。
緒方洪庵にまなび,伊予(愛媛県)宇和島藩につかえる。
幕府の蕃書調所,講武所につとめ,万延元年から長門(山口県)萩藩で軍制改革に参画。
維新後,新政府の兵部大輔として近代兵制確立につとめたが,明治2年9月京都で神代直人らにおそわれ負傷,同年11月5日に死亡。46歳。
周防(山口県)出身。本姓は村田。
【格言など】安価で軽便な四斤砲をたくさんつくってくれ(最期の言葉)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆大村益次郎は、江戸時代の文政7年(1824)に長州藩の医師の長男として誕生。
オランダ医学を学ぶ傍ら西洋兵学を修め、のちに長州藩の兵制の近代化に辣腕を振るいました。
西洋式装備の常備軍「奇兵隊」の整備・育成を始めとする成果は、幕府軍を撃破した第二次長州征伐における戦いで遺憾なく発揮されます。
戊辰戦争渦中の上野戦争では、彰義隊の蜂起を一日で鎮圧するなどの活躍を見せました。
兵制化を指導するなど後の日本陸軍創設の中心人物でもありましたが、道半ばの明治2年(1869)に刺客に襲われ、その傷が元で亡くなりました。
治療には、上野恩賜公園に銅像があるボードワン博士(ボードウィン)も参加しました。
大村は戊辰戦争の戦死者を祀る東京招魂社建設に先立ち、自ら建設候補地であった九段の現地視察を行ったといわれ、その建設に尽力しました。
明治15年、大村の慰霊祭の席で靖国神社宮司から銅像建立の案が出され、当時内務卿であった山田顕義らが中心となり銅像建立が本格化したとのことです。
銅像の製作は、明治18年に大熊氏廣に依頼され、靖国神社の参道中央に建立。
明治26年に除幕式が行われました。
大熊氏廣は、依頼を受けた明治18年当時、すでに西洋彫刻家としてその名を知られていましたが、依頼の重要性に鑑みて西洋彫刻を極めるべく海外に留学。
その成果をもって日本最初の本格的な西洋式銅像として完成させました。
なお、大村益次郎像の顔は上野公園の方を向いており、西郷隆盛像と視線を合わせているともいわれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

大村益次郎銅像
「大村益次郎銅像」
旅の家つと 29(明治33.7刊行)
「写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳ホームページ-」から
明治33年当時の写真です。

[エピソード]
◎口数が少なく、村ではあまり評判のよい医者ではなかったようである。
◎若き頃は、ヘボン塾(現:明治学院)にて英語を学ぶなど、いち早く海外異文化を理解しようと努めた勉強家でもあった。
◎大村は西洋兵術書を翻訳したばかりでなく、それを現状に即し実戦に役立つよう、また、わかりやすく書き改めた。
さらに、その教え方も無駄がなく的確であったという。
実戦においてもその才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術眼により敵を撃破した。
萩藩の旧知で蘭学者の青木周弼は彼を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。
◎萩藩ではその風貌から「火吹き達磨」と言われた。この異名は家老・周布政之助が付けたとも高杉晋作が付けたとも言われている。
◎兵部大輔に任ぜられ軍制改革を大胆に行おうとしたため、藩兵を親兵化しようと目論む守旧派の反感を買った。
彼を襲った犯人はその守旧派であり、首謀者は旧薩摩藩士・海江田信義であるとも言われている。
◎維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言したことでも有名である。
◎まだ若かった西園寺公望は大村に師事しており、京都にいた西園寺が大村を訪問しようとしたとき、旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだという話がある。
◎日本初の軍歌・行進曲とされる、品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている(もっとも、当時の日本人の音楽感性の面から、成立年代をもっと後年とする説もある)。
◎学究肌で趣味らしい趣味もなかったが、豆腐を食べることと骨董品を買うことを楽しみにしていた。特に掛け軸が好きあったが、1両以上のものは決して買うことがなかった。その理由について、部下で軍務官権判事の船越衛は「『おれも軸物などを楽しむが、その代わりに額を決めておく。その決めた額より上は出さぬ』ということだった」と証言している。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
靖国神社の真ん中に高い台に乗って建っています。
相手を威圧する何かがあります。
それにしても、眉毛太いですねえ~。
この大村益次郎像と上野の西郷隆盛像には、有る噂があります…
それは、大村益次郎像の顔は上野公園の方を向いており、西郷隆盛像と視線を合わせているともいうものです。


品川 弥二郎
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品川 弥二郎 像 
(東京都 九段南 九段下公園)

品川 弥二郎(しながわ やじろう)
(1843年-1900年(明治33年)
幕末-明治時代の武士,政治家

撮影日:2007年6月5日
建設年:明治40年
分 類:長州藩士、政治家
作 者:本山白雲
評 価:☆☆☆☆

品川弥二郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保14年閏9月29日生まれ。
長門(山口県)萩藩士。
尊攘運動で活躍。
維新後,ヨーロッパに留学。
農商務大輔などをへて,第1次松方内閣の内相となる。
明治25年の総選挙で選挙干渉をおこない引責辞任。
新政府軍の軍歌「宮さん宮さん」の作詞者,信用組合の育成者としても知られる。
子爵。明治33年2月26日死去。58歳。
名は日孜。字(あざな)は思父。変名は橋本八郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆品川弥二郎は、天保14年(1843)長州藩萩に生まれ、吉田松陰の松下村塾で学んだのち、薩長同盟の成立やその後の戊辰戦争で活躍。
明治政府成立後は、政治家として内務大臣など要職を歴任し、政界引退後も学校や信用組合の設立などに関わりました。
また歌詞の一番に有栖川宮熾仁親王の姿を歌った「宮さん宮さん~」の歌い出しで知られる『トコトンヤレ節』を作詞したことでも知られています。
銅像の製作にあたった本山白雲は、四国桂浜にある坂本龍馬像や東京霞ヶ関の伊藤博文像など、幕末・明治の志士や政治家の像を手がけたことでも知られ、品川弥二郎像も代表作の一つです。
完成は明治40年ですが、関東大震災で台座ごと倒壊。
しかし、作者自ら私費を投じて再建しました。
銅像がある千鳥ヶ淵は、東京でも有数の桜の名所。
満開の桜に囲まれる頃が見頃、といいたいところですが、めちゃ混みになりますので咲き始めがお奨めです。
なお、大村益次郎の銅像製作を献策した山田顕義とは松下村塾の同門で、のちに協力して長州藩に御盾隊を組織するなど関係が深く、出身地である萩(山口県萩市)の萩往還公園には松下村塾時代の二人の姿を描いた銅像があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎戊辰戦争のとき、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、弥二郎が作詞者であると言われている。
◎松陰は品川を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している。
◎維新で亡くなった志士たちを顕彰するため、京都に尊攘堂を建立して京都帝国大学に寄贈した。品川の死後、山口県下関市の功山寺にも建立されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
靖国神社から皇居方面へ陸橋を渡ると、大きい像が見えてきます。
巨大な像で街を見下ろしておられます。
迫力ある像です。


大山 巌
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大山 巌 像  
(東京都 九段南 九段下公園)

大山 巌(おおやま いわお)
(1842年-1916年)
明治時代の軍人

撮影日:2007年6月5日
建設年:大正7年
分 類:軍人
作 者:新海竹太郎
評 価:☆☆☆

大山巌
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保13年10月10日生まれ。
西郷隆盛の従弟。
戊辰戦争に従軍し,維新後欧州に派遣され砲術を研究。
日本陸軍の創設にあたり,陸軍卿,明治18年初代陸相。
大正3年内大臣。
西南戦争では旅団司令官として西郷軍とたたかう。
日清戦争では第二軍司令官,日露戦争では満州軍総司令官をつとめた。
陸軍大将,元帥。
大正5年12月10日死去。75歳。
薩摩(鹿児島県)出身。
通称は岩次郎。号は赫山。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆大山巌は天保13年(1842)に薩摩藩士の次男として生まれました。
薩英戦争で西欧の近代的な軍備に衝撃を受け、砲術家・江川太郎左衛門に師事するなど、新しい知識を吸収。
日本陸軍に入って後は西南戦争や続く士族反乱の鎮圧に参加。
日清戦争では第二軍司令官(大将)、日露戦争では満州軍総司令官(元帥)として、日本の勝利に貢献しました。
海軍の重鎮であった西郷従道(西郷隆盛の弟)とは従兄弟でした。
銅像は軍服を着た騎乗姿で、新海竹太郎の製作により大正7年に完成。
最初は現在の憲政記念館に建立され、のち上野に移転。
現在の場所には昭和44年(1969)に移されました。
場所を転々としているのは、第二次大戦後、GHQによる軍国主義排斥のあおりで一時撤去されるなどしたため。
しかし、歴史に名を残す名将の一人として大山巌に敬意を抱いていたGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーが破却処分に待ったをかけ、また各方面から銅像の芸術性の高さを惜しむ声が上がったこともあり、処分を免れました。
なお、マッカーサーは日本を離れるにあたり、この銅像を持ち帰ることまで考えていたといいます。
近代の軍人像としては、皇族のものを除いては数少ない乗馬像の一つで、品川弥二郎像と並んで建っています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎冗談好き
大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。
これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられる。
日露戦争沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「兒玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。
◎大食漢
従兄弟の西郷隆盛も大柄で肥満体だったが、大山もなかなかのものであった。
その体型と顔の印象から『ガマ』(ガマガエル)というニックネームで呼ばれていた。
しかもハイカラ好みでたいそうグルメであった。
息子の大山柏の回想によると40cmの長さのあるウナギののった鰻丼を食べ、ビーフステーキとフランスから輸入した赤ワインが好物で、体重は最も重いときで95kgを越えていたという。
その結果晩年は糖尿病に悩まされていた。
妻の捨松は友人への手紙で「夫はますます太り、私はますますやせ細っています」と愚痴をこぼしている。
◎西洋かぶれ
・大変に西洋文化へのあこがれが強く、また造詣も深かった。
・捨松との再婚の時の披露宴招待状は全文がフランス語で書かれた物で人々を仰天させたという。
・陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸はドイツの古城をモチーフとした物だった。
しかし、見た目の趣味はお世辞にもいいとはいえない代物で、ここを訪ねた捨松の旧友(アメリカ人)にも酷評されている。
巌はこの新居に満足していたが、妻・捨松は「あまりにも洋式生活になれると日本の風俗になじめないのでは」と、自分の経験から子供の将来を心配し、子供部屋は和室にしつらえていた。
この建物は1923年の関東大震災により崩壊した。
・また後藤象二郎、西園寺公望らと共に「ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
馬に乗った姿は、確かにちょっと太ってますね。
ルイ・ヴィトン顧客とは、洒落者だったのでしょう。

渋沢 栄一
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渋沢 栄一 像 
(東京都 千代田区 大手町 常磐橋公園)

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)
(1840年-1931年)
明治-大正時代の実業家
日本資本主義の父と呼ばれる

撮影日:2007年6月5日
建設年:昭和30年
分 類:実業家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

渋沢栄一
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保11年2月13日生まれ。渋沢敬三の祖父。
生家は武蔵榛沢郡(埼玉県)の名主。
一橋家につかえ,幕臣となる。
慶応3年徳川昭武にしたがって渡欧し,西洋の近代産業や財政制度を見聞。
維新後,大蔵省にはいり,財政・金融制度などを立案。
明治6年退官後,第一国立銀行のほか,王子製紙,大阪紡績などの設立に関与。
引退後は社会事業につくした。
昭和6年11月11日死去。92歳。号は青淵。著作に「徳川慶喜公伝」など。
【格言など】正しい道徳の富でなければ,その富を永続することができぬ(「論語と算盤(そろばん)」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆渋沢栄一は江戸時代末期の天保11年(1840)武蔵国(現・埼玉県深谷市)に生まれ、のちに一橋慶喜に従って幕臣となります。
明治維新以後は政府の官僚として財務・経済政策に携わりますが、大隈重信らとの対立を契機として下野し、実業家として数多くの民間企業の設立や金融業の指導に尽力。
日本資本主義経済の父と呼ばれています。
また慈善事業や民間レベルの外交活動にも尽くすなど活動は幅広く、2度ノーベル平和賞候補になっています。
亡くなったときは91歳という長寿でした。
像は東京駅丸の内口から少し歩いた首都高速近くの常盤橋公園にあります。
この像は2代目で、初代は朝倉文夫の製作により昭和8年(1933)11月11日(渋沢の命日)に完成。
現在と同じ場所に建立されましたが、大戦時の金属供出により失われ、昭和30年に再び朝倉文夫の製作で再建されたものです。
また生誕地である埼玉県深谷市には、深谷駅前の和服姿の座像、旧渋沢邸にある立像のほか多数の像があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[功績・エピソード]
◎第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。
また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
◎「渋沢財閥」を作り巨富を得ることも当時の栄一には簡単に出来たのであろうが、「私利を追わず公益を図る」考えを自身も生涯に渡って貫き通したのである(GHQが財閥解体を命じた時、岩崎家(三菱)の総資産は33億円、一方渋沢家は625万円だった)。
しかし、三井、三菱、住友、古河、大倉などの財閥系ですら男爵どまりであったが、栄一ただ一人が経済人では最高位の子爵を授かった。
◎栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、キリスト教徒でもないのに救世軍を支援したほか、関東大震災の復興のために、大震災善後会副会長となり、寄付金集めなどに奔走した。
◎当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎との関係で大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、創立者大隈重信との関係で早稲田大学、創立者三島中洲との親交で二松学舎(現二松学舎大学)、野田(大塊)卯太郎との誼で国士舘大学(創立者・柴田徳次郎)、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)の寄付金の取り纏めに関わった。
また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、成瀬仁蔵らとともに日本女子大学校、伊藤博文との関係で東京女学館の設立に携わった。
◎若い頃は固陋なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったがこれが現在の時事通信社と共同通信社の濫觴となる。
◎日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。
青い目の人形
渋沢と青い目の人形
◎1926年と1927年にはノーベル平和賞の候補にもなった。
◎日本史上を代表する経済人として、日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現に至っていない。
特に、日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局、伊藤博文が採用された。
当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。
◎居合の達人。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
銅像を見た時は、渋沢栄一という名前は知らず、
おじさんだなあと思っただけでしたが、
功績を調べてみると、今の日本を造った、まさに「日本資本主義の父」。
偉大な人物です。






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