ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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有本 松太郎
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有本 松太郎 像
(鳥取県 米子市 皆生温泉)

有本 松太郎(ありもと まつたろう)
(1863年~1941年)

撮影日:2007年8月26日
建設年:昭和33年
分 類:その他
作 者:辻晉堂
評 価:☆☆

有本 松太郎
有本 松太郎
「新温泉町ホームページ」から

皆生温泉生みの親、有本松太郎翁
彼こそが一帯の土地を整備、本格的な都市計画を策定し、さらに泉源を安全な場所に確保、米子駅から電車を走らせる等の交通計画も進めた皆生温泉開発の祖。
「近代的な都市計画」から形成された、当時としては画期的な温泉地を創り出しました。
「山陰の旅・鳥取県・米子市観光協会ホームページ」から

[銅 像]
皆生温泉を築いた有本松太郎氏を讃える胸像。
観光センターなどがあるメインストリートの突き当たりにあり、よく目立つ。
台座の赤と胸像(とプレート)の青銅色の違いが良いコントラストを生んでいるのでは。
ちょうど見上げる高さで、景色もよく目に入る。
制作を郷土作家の辻 晋堂氏に依頼した肖像彫刻である。日本海をバックに,皆生の街を見つめるようにして設置されている。着衣などには塑造特有のマチエールが残されている。台座には御影石を組み合わせ,しっかりとしたものになっている。            
野坂寛治元米子市長寄贈
「鳥取Art DB Project ホームページ」から

[感 想]
皆生温泉で偶然見つけました。
携帯で撮影したのであまり画像がよくありませんが、皆生温泉生みの親有本氏の上半身像です。


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毛利 元就
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毛利 元就 像
(山口県 萩市 江向)

毛利 元就(もうり もとなり)
(1497年-1571年)
戦国時代の武将

撮影日:2007年8月23日
建設年:昭和41年
分 類:武将
作 者:長嶺武四郎
評 価:☆☆☆

毛利元就
毛利元就像/豊栄神社蔵
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明応6年3月14日生まれ。
毛利弘元の次男。
大永3年(1523)家督をつぎ,安芸(広島県)郡山城主となる。
大内義隆に属し,義隆をたおした陶晴賢を天文24年(1555)厳島の戦いで撃破。
ついで大内義長,尼子氏を討ち,中国全域を支配する戦国大名となった。
隆元ら3人の子にあてた教訓状が有名。
元亀2年6月14日死去。75歳。
【格言など】智,万人に勝れ,天下の治乱盛衰に心を用うる者は,世に真の友は一人もあるべからず

[エピソード]
◎三本の矢
ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。
息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた…というもの。
これが有名な「三本の矢」のエピソードであるが、これは後世の創作であるという説が有力である。
しかし、三子教訓状などを通じ、元就が生前から一族の結束を繰り返し息子たちに説いていたことは事実である。
◎稀代の謀将
暗殺、合戦、策略、買収、婚姻など、勝利のためにあらゆる手段を用いた戦国時代最高の謀略家であるとされている。
彼の出世記録は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった三英傑を除けば、数ある戦国大名の中では速度・石高共に屈指であるが、その出世の大半は老境を迎えてからであり、その歩みは遅々たるものであった。
特に巧みなのが敵将や敵勢力に対する偽報や離間策であり、吉田郡山城の戦いや厳島の戦いはこれらを駆使して勝利し、更には新宮党事件を引き起こして尼子氏の弱体化を図るなどしたとされてきた。
数ある戦国大名の中でも有数の実力者であり、政治的才能と知見に恵まれた武将にして策謀家であったことは疑いない。
だが、その武勇伝や知謀伝の多くは陰徳太平記や吉田物語など史学的信憑性の低い書物に記されたものばかりであるため、その実態を窺うことはできていない。
ちなみに「謀神(はかりがみ)」という異名は、近世以降に三国志に影響を受けて創作された歴史譚の中における架空の異名であるが、元就の戦国武将としての性格や素質を端的に顕した異名でもある。
◎百万一心
吉田郡山城の増築工事の際、人柱の替わりに百万一心と彫った石碑を埋めたとされる等、元就が領民や一族の団結を説いた話は有名であるが、それは元就が理想とした国人領主による集団指導体制の延長線上である。実際、毛利氏による中国地方統治は、地方国人達との協議に重きを置くものであった。
◎厳島神社への参拝
毛利元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社へ参拝に行った際に、家臣に「何を祈願したか?」と質問したら、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました。」と答えた。
それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ?」と言った。
家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑ったが、元就は、これに答えて「天下の主になると祈願して、やっと中国地方がとれようというもの。
まして、最初から安芸一国では、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と理想の高さを示した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
昭和41年建立
題字は、内閣総理大臣 佐藤栄作の書

[感  想]
有名な「三本の矢」の逸話を表した銅像です。
こういった場面的な銅像は、初めてのコレクションですが、なかなかいいです。
やはり「和」が大事だと思います。


金子 重輔
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金子 重之輔

金子 重之輔 像
(山口県 萩市 椿東)

金子 重之輔(かねこしげのすけ)
(1831年-1855年)
幕末の尊攘運動家

撮影日:2007年8月23日
建設年:昭和43年
分 類:幕末志士
作 者:長嶺武四郎
評 価:☆☆☆

天保2年2月13日生まれ。
長門(山口県)萩の染物商茂左衛門の長男。
江戸にでて萩藩邸につかえる。
のち吉田松陰にまなび,嘉永7年(1854)松陰にしたがって伊豆下田から海外密航をはかったが捕らえられる。
萩に護送され,安政2年1月11日獄死した。25歳。
名は貞吉。通称は別に卯之助,重輔。変名は渋木松太郎,市木公太。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
銅像は、両手で望遠鏡をもち右側のひざを地面につけて、松陰を見上げています。
松陰は、同じ罪を犯したのに身分の違いから、金子が獄でひどい扱いを受け、亡くなったことを大変悔やみ、悲しんだそうです。
もし、彼と松陰が米国に船で渡っていたら、日本は、今とは違う日本になっていたかもしれません。

山田 顕義
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山田 顕義 像
(山口県 萩市 椿東 顕義園)

山田 顕義(やまだ あきよし)
(1844年-1892年)
明治時代の軍人,政治家
日本大学、國學院大學の学祖

撮影日:2007年8月23日
建設年:昭和54年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

山田 顕義
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保15年10月9日生まれ。
長門(山口県)萩藩士。
岩倉遣外使節に随行して欧米の兵制を視察し,東京鎮台司令長官。
明治11年陸軍中将。
工部卿,司法卿などを歴任し,第1次伊藤内閣から4代の内閣の法相となる。
日本法律学校(現日大),国学院の創立にかかわった。枢密顧問官。
明治25年11月11日死去。49歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「日本の小ナポレオン」といわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の建立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした。
◎昭和54年、日本大学が建学90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられた。園内には「山田顕義先生之像」などが設けられている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
日本大学の創設者が、山口県萩市出身者とは、初めて知りました。
銅像の顔は、きっりとした男前ですね。
緑の苔が、せっかくの男前を台無しにしてしまっています。
掃除したら、もっといい感じになるはずです。

ランキング
銅像お気に入りベスト10
(2007年8月22日現在)

銅像名をクイックすると詳細を見ることができます。


☆☆☆☆☆
1 楠木 正成

2 加藤 清正

☆☆☆☆
3 西郷 隆盛

4 小松宮彰仁親王

5 北白川宮能久親王

6 大村 益次郎

7 岡倉 天心

8 ジョサイア・コンドル 

9 伊能 忠敬

10 佐々木 小次郎

毛利重就
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毛利 重就 像
(山口県 防府市 防府天満宮)

毛利 重就(もうり しげたか)
(1725年-1789年)
江戸時代中期の大名

撮影日:2007年8月9日
分 類:大名
評 価:☆☆☆

享保10年9月10日生まれ。
毛利匡広(元平)の10男。
享保20年長門(山口県)府中藩主8代となるが,毛利宗広の死去で寛延4年(1751)宗家をつぎ,長門萩藩主毛利家7代。
撫育方を新設し,宝暦検地による増収を別途会計で運用。
干拓,塩田開発など殖産興業につとめた。
藩中興の名君とされる。
寛政元年10月7日死去。65歳。
初名は匡敬。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
防府天満宮の奥におられます。
若いときの姿のようで、端整でスマートな感じです。





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