ken's銅像探索日誌
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大隈 重信
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大隈 重信 像
(東京都  新宿区 早稲田大学)

大隈 重信(おおくま しげのぶ)
(1838年-1922年)
明治-大正時代の政治家
第8代、第17代内閣総理大臣
東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者

撮影日:2007年10月26日
建設年:昭和7年
分 類:政治家
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

2大隈重信

大隈重信1
「近代日本人の肖像ホームページ」から

大隈2
アカデミックドレスを着用した大隈
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天保9年2月16日生まれ。
肥前佐賀藩士大隈信保の長男。
長崎でフルベッキに英学をまなぶ。
維新後,明治政府の徴士参与職,外国官副知事,大蔵卿,参議などを歴任。
秩禄処分,地租改正などを推進した。
明治十四年の政変で官職を辞し,翌年立憲改進党を結成し,総裁。
同年東京専門学校(現早大)を創立。
21年第1次伊藤内閣,ついで黒田内閣の外相となり,条約改正にあたるが,反対派の来島恒喜に爆弾をなげつけられ右足をうしなう。
31年板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織。
大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦,4年には対華二十一ヵ条要求を提出した。
大正11年1月10日死去。85歳。
【格言など】文明の凶器は利きめあり(爆弾事件のときの言)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆明治から大正にかけて活躍した思想家・政治家・教育者で、現在の早稲田大学を開設するなど教育の近代化にも大きな足跡を残した偉人です。
天保9年(1838)に肥前国佐賀藩の藩士(砲術師範)の子として誕生。
7歳で藩校弘道館に入学しますが教育方針に反発、のちに改革運動を起こしています。
その一方で、国学、蘭学を熱心に学び、蘭学に関しては後に教授となり藩校弘道館で講義したほか、藩校英学塾で英語やアメリカの文物・思想を学んでいます。
こうして海外の思想・文化・教育に精通し、また語学にも堪能であった大隈重信は、明治政府が誕生すると外国事務局判事として対外諸問題を担当したのをきっかけに、明治6年(1873)には参議兼大蔵卿の要職に就くなど、政府の中枢で活躍します。
大隈重信の周辺には多くの人材が集まりました。
佐賀藩時代からの盟友である江藤新平や、若手官僚として活躍し、後に大隈とは〝政敵〟ともいえる関係になる伊藤博文、家族ぐるみの親交があったという福沢諭吉など、欧米列強をして“アジアの奇跡”といわしめた日本の急速な近代の原動力となった人々がいました。
しかし、後に国家構想を巡り、財政上の問題や閣僚との対立が原因で、大隈は下野(明治14年の政変)します。
閣僚時代、大隈は国会開設の必要を強く訴えており、これに備えて盟友の一人である小野梓とともに明治15年(1882)に政党(立憲改進党)を結成し、また同年に「学門の独立」の精神を基として東京専門学校(早稲田学校と別称された)を開設しました。
明治21年には政府の求めに応じて外務大臣として政界に復帰。
後に総理大臣(第8代、第17代)となります。
大正5年(1916)の総理大臣辞任によって政治の世界を退きましたが、この時の年齢は実に78歳と6ヶ月という高齢で、この最高齢記録は今だ破られていません。
大隈重信が世を去ったのは、政界引退から6年後のことでした。
銅像は、新宿区早稲田の早稲田大学構内にあるガウン姿の立像が有名です。
この像は昭和7年(1932)に早稲田大学創設50周年と大隈重信没後10周忌の節目として建立されたもので、実は構内の銅像としては二代目。
製作は彫刻家の朝倉文夫です。
杖をついている姿が印象的な像ですが、これは明治22年に暴漢に襲われ、爆発物を投げつけられたことが原因で右足を切断していたためです。
この事件で大隈は外務大臣を辞職しており、活動の主軸を教育に置いて精力的に活動していました。
固く結ばれた口元や彫りの深い表情など、人物像として見応えがあります。
角帽とガウンを身に付けた姿は、早稲田入学を目指す多くの学生の憧れにもなっています
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎大正11年(1922年)1月10日に早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。
◎謹厳な表情をし、口をへの字に結んでいる写真が象徴的な大隈であるが、派手好きで見栄坊、かつ負けず嫌いであり、特に伊藤博文をライバル視していたことがよく知られている。
・伊藤博文については以下の話が伝えられている。1897年に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。
様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、1907年には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。
・大隈と同郷で、かれに目をかけられた行政法学者織田萬のエッセイ集『法と人』(1943年、春秋社教養叢書)によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。
・また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのことである。
◎癖は「何々であるんである」。時には「何々であるんであるんである」となる。
◎あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。
◎極めて合理的な考えを持っており、英雄を認めず、そのためか西郷隆盛を全く認めていない。
◎人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。
大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる2007年(平成19年)には記念式典を行っている。
◎お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
早稲田大学の入り口から入った広場の所におられます。
早稲田大学紹介の時には出てくる有名な像ですね。
大熊が、爆弾を投げられて負傷し、右脚を切断したというのは、初めて知りました。
それで、杖をついているのですね。
四角い帽子を被ったガウン姿は、威厳があり、顔の表情もよく分かり、立派な像です。
残念なことに、大隈講堂の中にも大隈の銅像が有るとは知らず、中に入りませんでした。また機会があれば撮りたいと思います。
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大隈講堂

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坪内 逍遥
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坪内 逍遥 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)
(1859年-1935年)
明治-昭和時代前期の小説家,劇作家,評論家

撮影日:2007年10月26日
建設年:昭和37年
分 類:文学者
作 者:長谷川榮作
評 価:☆☆☆

坪内逍遥
「近代日本人の肖像ホームページ」から

安政6年5月22日生まれ。
東京専門学校(現早大)の講師をへて教授。
明治18年評論「小説神髄」,小説「当世書生気質(かたぎ)」を発表し,近代的な写実主義文学をとなえる。
24年「早稲田文学」を創刊。
演劇の改良をこころざし戯曲「桐一葉」などを創作。
39年文芸協会を組織。
シェークスピアの全作品を完訳した「沙翁全集」もある。
昭和10年2月28日死去。77歳。
美濃(岐阜県)出身。東京大学卒。
名は勇蔵のち雄蔵。別号に春の屋おぼろなど。
【格言など】小説の主脳は人情なり,世態風俗これに次ぐ(「小説神髄」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆明治から昭和初期に活躍した小説家・翻訳家・劇作家。
安政6年(1859)に、当時尾張藩領だった美濃国加茂郡で尾張藩士の子として誕生。実家の地元にあった洋学校を卒業後、東京大学予備門を経て東京大学(後の東京帝国大学・東京大学)を卒業。
坪内逍遥の名を世に知らしめたのは評論『小説真髄』でした。
このなかで勧善懲悪に偏重していた江戸期の功利的文学を批判し、人情(人物・心理描写)や、写実的描写の重要さを説きました。
これにより日本に近代文学を芽吹かせたといわれています。
教育者としての活躍は、創設間もない東京専門学校(早稲田学校)の文学講師として招かれたのがきっかけで、後に同校の教授になります。
当時、政府から敵視されていた東京専門学校は、設立者の一人である大隈重信が学生への風当たりを考慮して学校行事に出ない(約15年続いたといわれます)など、厳しい状況でしたが、坪内は文学の講義を担当して、まだ若いこの学校を支えました。
この功績により、創設者・小野梓とともに学校創設期を支えた高田早苗(憲法・行政法ほか)、天野為之(経済学ほか)、市島謙吉(高田を補佐し、財政面や図書館の充実に尽力)とともに“早稲田の四尊”の一人に数えられています。
早稲田大学構内の演劇博物館前に置かれている銅像は、昭和37年に演劇博物館創立70周年を記念して建立されました。
彫刻家・長谷川榮作の製作による胸像で、大学にて「シェークスピア」を題材に講義する姿を描いたものです。
台座は歌碑になっており、會津八一(歌人・美術史家。坪内に招聘されて早稲田中学校教員、後に早稲田大学文学部講師兼任)が坪内逍遥を偲んだ和歌が刻まれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

「家 族」
妻センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫で、学生であった逍遙が数年間通いつめ、1886年に結婚した。
これをテーマにした松本清張『文豪』がある。
二人には子がなく、逍遙は兄義衛の三男・士行(元宝塚歌劇団職員で演劇評論家)を養子としたが後に養子縁組を解消した。(士行の妻は宝塚歌劇団1期生の雲井浪子、その子は女優・坪内ミキ子)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
早稲田大学の演劇博物館前にあります。
シェイクスピアの講義の姿を表した像で、生き生きとした逍遙の熱弁が伝わってきます。


高田 早苗
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高田 早苗 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

高田 早苗(たかた さなえ)
(1860年-1938年)
明治-昭和時代前期の教育家,政治家

撮影日:2007年10月26日
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

高田 早苗
高田 早苗
「早稲田大学ホームページ」から

安政7年3月14日生まれ。
大隈重信に協力し立憲改進党の結成や東京専門学校(現早大)創立に参画。
明治23年衆議院議員(当選6回,改進党)。
外務省通商局長,第2次大隈内閣の文相などを歴任。
大正12年から昭和6年まで早大総長。
昭和13年12月3日死去。79歳。
江戸出身。東京大学卒。
号は半峰。著作に「教育時言」「半峰昔ばなし」など。

[エピソード]
◎妻は前島密の長女
◎早稲田大学の式服や式帽、校旗などを定めることを発案し、職制なども定め、また、早稲田大学教旨の制定を発議した。
◎現在、早稲田大学にある高田早苗記念研究図書館は、高田の早稲田大学への功績をたたえて名づけられた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
早稲田大学の大隈像の近くの中庭に座っておられます。
足を組んだ座り姿は、きりりとした感じです。

塩澤 昌貞
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塩澤 昌貞 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

塩澤 昌貞(しおざわ まささだ)
(1870年-1945年)
明治-昭和時代前期の経済学者

撮影日:2007年10月26日
分 類:教育者
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

塩澤 昌貞
塩澤 昌貞
「早稲田大学ホームページ」から

明治3年10月20日生まれ。
アメリカ,ドイツに留学後,早大で経済学をおしえ,大正12年同大学総長に就任。
大隈重信の知恵袋とよばれ,国際連盟協会国際会議の日本代表,協調会付属社会政策学院院長などをつとめた。
昭和20年7月7日死去。76歳。
常陸(茨城県)出身。東京専門学校(現早大)卒。
旧姓は関。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
この胸像は、昭和15年古希の寿として後輩の寄付金により建てられたそうです。
髭と頭の特徴を良く表した像です。

安部 磯雄
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安部 磯雄 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

安部 磯雄(あべ いそお)
(1865年-1949年(昭和24年))
明治-昭和時代の社会運動家、教育者
日本における野球の発展に貢献した人物としても知られる。

撮影日:2007年10月26日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

安部磯雄の肖像写真
安部磯雄の肖像写真
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

元治2年2月4日生まれ。
アメリカ留学後キリスト教社会主義をとなえ,明治34年社会民主党,大正13年日本フェビアン協会を創立,のち社会民衆党,社会大衆党の委員長。
昭和3年衆議院議員(当選4回)。この間早大教授となり,野球部を創設した。
昭和24年2月10日死去。85歳。
筑前(福岡県)出身。同志社英学校卒,ハートフォード神学校卒。
旧姓は岡本。著作に「土地国有論」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「野球との関わり」
「知識は学習から、人格はスポーツから」形成されると考え、特に日本に伝えられて日の浅い野球の普及・発展に力を注いだ。
1901年には早稲田大学野球部の初代部長に就き早慶戦の糸口をつくっただけでなく、日露戦争まっただ中の1905年には同部で野球史初の海外遠征を強行し野球発祥国アメリカで行われている数多くの技術・練習法などを持ち帰った。
安部らはこれを早稲田部内の秘伝とせず著書や指導などによって日本全国に伝えた。
このことによって日本の野球技術発展の基礎をもたらしたほか、嘉納治五郎らとともに大日本体育協会を創立した。
1930年東京六大学野球連盟初代会長就任(1932年の早稲田大学野球部の連盟脱退問題で引責辞任)
1946年日本学生野球協会初代会長就任。
こうした数々の功績から「日本野球の父」と呼ばれる。
早稲田野球部の本拠地であった戸塚球場は安部が創設者大隈重信を説得して築いたもので、没後「安部球場」合宿所を「安部寮」と名称を改められた。
没後の1959年、この年創設された日本野球殿堂入り(特別表彰)。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
日本野球の父と呼ばれた人物だそうで、初めて知りました。
台座には、野球道具をモチーフにした飾りがはめ込まれています。

飛田 穂洲
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飛田 穂洲 像
(東京都 新宿区 早稲田大学)

飛田 穂洲(とびた すいしゅう)
(1886年-1965年)
明治-昭和時代の野球人
日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、「学生野球の父」と呼ばれる。

撮影日:2007年10月26日
分 類:野球評論家
評 価:☆☆☆

飛田 穂洲
飛田 穂洲
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治19年12月1日生まれ。
早大野球部で主将。
大正8年早大野球部監督となり,その黄金時代をきずく。
15年朝日新聞社にはいり,大学野球と高校野球(戦前は中等学校野球)評論に健筆をふるい,「学生野球の父」とよばれた。
昭和35年野球殿堂入り。昭和40年1月26日死去。78歳。
茨城県出身。本名は忠順(ただより)。著作に「熱球三十年」など。
【格言など】甲子園の浜風心して吹け
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

一球入魂(いっきゅうにゅうこん)は、野球に取り組む姿勢を穂洲が表した言葉である。
西洋伝来のスポーツであるベースボールを、穂洲は日本発祥の武道に通じる「野球道」と捉え、試合よりも練習に取り組む姿勢を重要視し、学生野球は教育の一環であると説いた。
また、試合でいかなる状況においても実力を発揮しうるために、練習では常に最善をつくすべしという「練習常善」の言葉を作り、過酷な猛練習の末に真の実力が備わると説いた。
こうした考えの背景には早慶の台頭前に全盛期を誇っていた一高の存在(晴雨寒暑にかかわらず、あたかも修行のごとき厳しい練習をしていた)と、「知識は学問から、人格はスポーツから」と説いていた早大野球部長安部磯雄の影響が大きい。
穂洲の評論は日本の野球指導者・ジャーナリストたちの間で長い間教本として扱われた。
そのため、穂洲は日本の精神野球の源ともいえる。
穂洲は早大監督を辞任した後も新聞記者として自らの主張を訴え、また母校の後輩たちにことある毎に訓示を行ってきた。
特に早慶戦前は選手たちを前にその歴史と心構えを長時間滔々と述べ、決戦の重みを訴え続けた。
彼の教えは、野球技術(プレーだけでなく選手の体格・力量、トレーニング理論なども)が進化した現代においては古い時代の精神論として軽視、ときには敵視される事が多い。
しかし練習でできないことは試合ではできない、といった考えや目の前の一球の大切さを説く穂洲の主張は決して色あせてはおらず、プロからアマに至るあらゆる野球チームの中に息づいている。
早大野球部においては石井連藏を経て孫弟子野村徹へと引き継がれている。
早稲田大学のグラウンドを見下ろせる地に建立された穂洲の胸像の側に「飛田穂洲先生を偲ぶ」と題されたサトウハチローの詩碑が置かれ、ひとつのものを貫き、ひたむきにそれと取り組む姿勢を賛美する詩が刻まれている。
飛田の像は、かつて主戦場としていた戸塚球場跡にもあり、安部磯雄の傍らに寄り添うようにして建っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
「学生野球の父」といわれる人です。
「一球入魂」は、この人が言った言葉だったとは驚きでした。
早稲田大学のグラウンドを見下ろせる地にある上半身の像です。


萩原 朔太郎
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萩原 朔太郎

萩原 朔太郎 像
(群馬県 前橋市 千代田町)

萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう)
(1886年-1942年)
大正-昭和時代前期の詩人

撮影日:2007年10月25日
分 類:詩人
評 価:☆☆☆

萩原朔太郎
萩原朔太郎(1930年撮影)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治19年11月1日生まれ。
父は医師。
大正2年北原白秋主宰の「朱欒(ザンボア)」に詩を発表し,同誌を通じて室生犀星と生涯の親交をむすぶ。
第1詩集「月に吠える」,第2詩集「青猫」で口語自由詩を完成させた。
昭和17年5月11日死去。57歳。
群馬県出身。前橋中学卒。
作品はほかに詩集「純情小曲集」,アフォリズム集「新しき欲情」など。
【格言など】どんな真面目な仕事も,遊戯に熱している時ほどには人を真面目にし得ない(「新しき欲情」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[作 品]
北原白秋に師事し、1917年2月刊行の処女詩集『月に吠える』で全国に名を知られるようになった。
続いて1923年1月に『青猫』を刊行。これは『月に吠える』と並ぶ、朔太郎の代表作とされている。
この他、『蝶を夢む』、『萩原朔太郎詩集』、それらを集成した『定本青猫』がある。
これらの作品は、口語体によって書かれ、高村光太郎と共に「口語自由詩の確立者」とされる。
一方、実生活上では医師の長男でありながら、生涯定職に就かなかった負い目の意識や、2度の離婚。
最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残るなど、過失の意識を強めていった。
1933年6月に刊行された『氷島』では、漢文調の文語体に立ち帰り、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく二分されている。最後の詩集は、散文詩と抒情詩(行わけ詩)をまとめた綜合詩集『宿命』であった。

[余 談]
「世界の中心で、愛をさけぶ」の主人公の名前はこの朔太郎から名付けられた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
この像は、「萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち前橋文学館」の前にあります。
川を見て、何か考えているようなしぐさが、詩人らしい朔太郎像をよく表現してします。
夜だったので、ちょっと残念でした。

下村 善太郎
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下村 善太郎 像
(群馬県 前橋市 前橋市役所)

下村 善太郎(しもむら ぜんたろう)
(1827年-1893年)
幕末-明治時代の実業家、前橋市初代市長

撮影日:2007年10月25日
建設年:昭和58年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

文政10年4月28日生まれ。
上野(群馬県)前橋で家業の小間物屋をつぐ。
米相場に失敗し,武蔵八王子(東京都)で熨斗糸商をはじめ,横浜開港後,生糸輸出で財産をきずく。
のち前橋へもどり,生糸商店を経営し,明治10年製糸会社昇立社を設立。
高崎から前橋への県庁移転につくし,25年初代前橋市長。
明治26年6月4日死去。67歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
銅像は、前橋市役所の北、県庁通りに面して立っています。
帽子を片手に持ち、きちっと着物を着こなした立ち姿がいいです。

濱崎 太平次
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濱崎 太平次 像
(鹿児島県 指宿市 太平次公園)

濱崎 太平次(はまざき たへいじ)
(1814年-1863年)

撮影日:2007年10月21日
分 類:商人
評 価:☆☆☆

浜崎家は、国分郷鹿児島神宮の神官の出で、指宿郷湊村に移り第三代新平の代に広く商業を営み、第四代太左衛門は父の海運業をつぎ、寛政年間の『長者番附』に大阪鴻池や大阪平野屋、伊勢三井八郎などと肩を並べて出せるほどの富豪となった。
その後第七代で傾き、第八代の太平次の少年時代までには、そうとう窮迫していたが太平次14歳のときに商船の乗組員として琉球に行き、大阪との間で商才を発揮した。
その後は,大きく海運業・造船業・貿易で力を発揮し『安政年度長者鑑』の筆頭者となった。
指宿十二町湊の海岸に大造船所を設け、30数隻の大船を建造したらしい。
また藩の財政を支え、明治維新の際に献金をするなどして、大きく貢献した。
「鹿児島県のホームページ」から

[感  想]
指宿市に泊まった朝、宿からジョギングで太平次公園へいきました。
船に乗った太平次は、朝日を浴びて、いい感じでした。

若き薩摩の群像
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若き薩摩の群像
(JR鹿児島中央駅前広場)

JR鹿児島中央駅前の広場に建つ、幕末に英国に密航した青年薩摩藩士たちの勇気と功績を称える17人の銅像。

※17人の名前(密航当時の年齢)とその後の職は、
新納 久脩(34)  家老・司法官
寺島 宗則(34)  外務卿
五代 友厚(31)  大阪商工会義所初代会頭
町田 久成(28)  わが国初の博物館局長、元老院議官
村橋 久成(23)  戊辰の役の砲隊長、サッポロビール創始者
畠山 義成(23)  東京開成学校(現在の東大)初代校長
名越 時成(21)  語学教師
鮫島 尚信(21)  フランス特命全権公使、外務大輔次官
田中 盛明(23)  生野鉱山局長
中村 博愛(25)  オランダ公使
森 有礼(19)  初代文部大臣
吉田 清成(21)  農商務大輔次官、枢密院顧問官
市来 和彦(24)  海軍中将
東郷 愛之進(23) 戊辰の役で戦死
町田 実積 (19) 不明
町田 清次郎(15) 不明
長沢 鼎(14) アメリカのぶどう王

撮影日:2007年10月20日
分 類:薩摩藩士
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

昭和57年3月建立。
高さが12.1m(台座部分9.49m)

「若き薩摩の群像」
 九州新幹線の終着駅・鹿児島中央駅に降り立つと、桜島を背景にしてそびえ立つ「若き薩摩の群像」の銅像がまず目に飛び込んでくる。
鹿児島の玄関口ともいうべき鹿児島中央駅の正面に立つこの銅像は、郷土の英雄西郷隆盛でもなく大久保利通でもない、幕末に鎖国の国禁を破ってイギリスに渡り、その後日本の近代化に大きな役割を果した十九名の薩摩藩英国留学生を顕彰するモニュメントである。

薩英戦争から留学生の派遣へ
 薩摩藩の欧米への留学生派遣については、集成館事業で知られる島津斉彬がすでに構想を抱いており、実際に計画も進めていた。
攘夷思想が主流の時代にあって、世界の動きを正確に把握していた斉彬は、日本の近代化を進めるために留学生の派遣を模索していたのである。
 その後再び留学生派遣の件が話題に上るのは、文久三年(一八六三年)に起った薩英戦争の後である。この戦いではイギリス艦隊に搭載された開発されたばかりのアームストロング砲が容赦なく鹿児島城下を襲い、集成館や台場などがことごとく破壊された。
身を以て大英帝国の軍事力・技術力を知った薩摩藩は、その後急激にイギリスに接近し、近代化を進めていく。
長崎を拠点とするイギリス商人グラバーと親密な関係を持つのもこの頃からである。
元治元年(一八六四年)には、欧米の技術・学問・語学などを学ぶための開成所が創設され、教授陣には全国からの一流の学者に加え、アメリカ帰りの中浜万次郎(ジョン万次郎)なども招かれた。留学生はその開成所の生徒から選抜された。
 ところで、留学生派遣について詳細なビジョンを持っていたのは、五代友厚であった。五代はすでに海外渡航の経験もあり、藩内きっての開明派として知られた逸材である。人選等は難航したが、五代の案をもとに、最終的には家柄・年齢・思想面などの点で各層から幅広く選ばれ、それに随伴の使節と通訳を加えた陣容となった。

遙かなる大地へ
 慶応元年三月二十二日(一八六五年四月十七日)、薩摩藩留学生一行十九名を乗せたグラバー商会所有の蒸気船オースタライエン号は、串木野郷羽島浦を出航した。
当時はまだ鎖国下で海外渡航は厳禁であるため、表向きは大島・甑島へ出張ということにして、万が一幕府に露見した場合も想定して、全員変名を用いることにした。
 日記を読むと、出航時の彼らの心境は、まるで戦場に向かうようなものであったと察せられる。現在ならば宇宙旅行に旅立つようなものであろうか。
 ここで一行の顔ぶれを見てみよう。
正使は大目付の新納久脩(三十四歳)で、帰国後は家老に就任し、藩政を担った人材である。副使は町田久成(二十八歳)で、開成所掛(学頭)という立場上、他の留学生十四名の監督役を務めた。帰国後は東京国立博物館を創設したことで知られている。その他、随伴使節として寺島宗則(三十三歳)と五代友厚(二十九歳)、そして通訳の堀孝之(二十一歳)を加えて総勢十九名である。
 一行は、各寄港地でガス灯や蒸気機関車に驚いたり、西洋人が人前で堂々とキスすることに驚嘆しながら、二カ月余りかけてイギリス南部のサウサンプトン港に入港した。
 ロンドン到着後、一行は大学への入学に備え語学の特訓に励んだが、鉄工所や農園などの視察なども精力的にこなしていることが分かる。
留学生たちはロンドン大学に入学し、それぞれの専門分野を学んだ。
当時の学籍簿が今でも大学資料室に残っている。
その間、寺島はイギリス外務省筋との外交交渉を行い、同国の対日政策を薩摩藩に有利な方向へ導き、五代は産業視察や紡績機械の購入、さらには貿易会社「ベルギー商社」設立に向けて精力的に動いた。
 新納・町田・寺島・五代は、国元(薩摩藩)にヨーロッパ情勢や留学の成果を逐一書き送っている。それらの情報は、倒幕を進める薩摩藩にとって、日本を取り巻く欧米の動向を分析する上で、極めて重要な情報となった。
 なお、留学生中最年少の長沢鼎(十三歳)については、一人スコットランドのアバディーンにあるグラバーの実家に引き取られ、そこから地元の中学に通った。地元の新聞に成績優秀者として長沢の名前が掲載されており、真剣に勉学に励んだことが察せられる。
 留学生の大半は二年間ほどで帰国するが、森有礼などはその後アメリカへ渡り、明治初めまで見聞を広め近代的な知識や思想を学んだ。彼らの培った知的財産は、明治日本が近代化を進めるにあたって、あらゆる分野で極めて重要な役割を果すことになった。
 まず外交の面では、外務卿として不平等条約の改正に尽力した寺島宗則を筆頭に、鮫島尚信・中村博愛などがヨーロッパ外交に大きな足跡を残している。教育界では、初代文部大臣として教育制度の基礎を作った森有礼をはじめ、東京開成学校(後の東京大学)初代校長の畠山義成等が特筆される。
 生野銀山の開発に尽力した朝倉盛明やサッポロビールの創設に尽した村橋久成、大阪商工会議所を設立し初代会頭に就任した五代友厚などは、殖産興業の面で大きな功績を残している。

銅像がない二人
ところで、冒頭に十九名の薩摩藩英国留学生と書いたが、鹿児島中央駅前の銅像をよく数えてみると、十七人しかなく二人足りない。銅像を建立する際、二人は鹿児島出身でないという理由で除かれたという。
 一人は土佐藩出身の高見弥一で、本名を大石団蔵といい、土佐から薩摩藩に亡命した人物である。文久年間に薩摩藩士として抱えられ、開成所に学び留学生に選抜された。帰国後は鹿児島高等中学造士館などで数学を教え、明治二十九年(一八九六年)年、鹿児島で五十三歳の生涯を閉じている。
 もう一人は長崎出身の堀孝之である。臨時的に通訳として雇われたのではなく、パリ万博に薩摩藩が参加した際にも同行している。堀と薩摩藩との繋がりは曾祖父の代から続いており、帰国後も薩摩藩の船奉行見習として長崎において重要な役割を果した。
 薩摩藩は一般には極めて閉鎖的なイメージがあるが、実際には人材登用・情報収集などについては力を入れており、幕末期においては薩摩藩を中心としたネットワークは群を抜いていた。薩摩藩が明治維新において主導的な役割を果たせた背景には、このような点があることも見過ごしてはならない。

語り継がれる功績
 昭和五十八年(一九八三年)十一月に来日したアメリカのレーガン大統領は、国会演説の中で「サムライから実業家になった長沢鼎の功績は、日米両国の友好の歴史の中で特筆すべきことがらである」と紹介した。
長沢はイギリスからアメリカに渡り、カリフォルニア州サンタ・ローザでブドウ園とワインの製造を手広く経営している。地元では名士として人々の尊敬を集め、昭和九年(一九三四年)に八十三歳で同地で亡くなった。レーガン演説を機に改めてその功績を顕彰する動きが高まってきた。
 留学生の渡航から百四十年目の今年、地元鹿児島ではご子孫なども招待しての記念イベントや企画展が盛大に開催される。また、九月には村橋久成の胸像が、北海道庁の知事公舎に建立される予定である。
 百四十年の時空を経て、彼らの精神や功績は脈々と語り継がれていく。

ホームページ「あっと九州」から

[感  想]
鹿児島の玄関にふさわしい若さと躍動感にあふれる銅像です。
有名人は、いませんが、その後の活躍は素晴らしいものがあります。
17人もの人が一緒の銅像というのもこれだけでしょう!
あと、2人追加という動きも有るようです。

【鹿児島市 県外出身の2人追加を 若き薩摩の群像完成させる会 市長に要請書】
 鹿児島市のJR鹿児島中央駅前にある、薩摩藩英国留学生のモニュメント「若き薩摩の群像」に、県外出身者2人の像の追加を求める「若き薩摩の群像を完成させる会」(島津修久会長)は26日、同市の森博幸市長に、要請書を提出した。

 要請書では「出身地こそ違うが2人は紛れもない薩摩藩士との文献もある」「(県外出身者ということで2人が除外されている現状では)市民に誇れるはずのモニュメントが、鹿児島の閉鎖性を表すシンボルになる」などと指摘。島津会長らは「建立25年、60万都市になった今こそ追加建立を」と求めた。

 森市長は「市民や専門家、制作者の意見などを聞き、できれば新幹線鹿児島ルートの全線開業までには結論を出したい」と述べた。

 モニュメントは、幕末に国禁を犯して英国に留学、明治維新後の近代国家づくりに貢献した薩摩藩留学生の17人の群像。市が1982年、50万都市達成を記念して建立したが、19人の留学生のうち、通訳として同行した長崎出身の堀孝之と、土佐藩を脱藩後、薩摩藩士となった高見弥一の2人は除かれた。

=2007/09/27付 西日本新聞朝刊=

重源
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重源 像
(山口県 山口市 徳地)

重源(ちょうげん)
(1121年-1206年)
平安後期-鎌倉時代の僧

撮影日:2007年10月18日
分 類:僧
評 価:☆☆

保安2年生まれ。
仁安2年宋(中国)にわたり,明庵栄西とともに帰国。
焼失した東大寺再興の大勧進職を命じられる。
文治元年大仏開眼会を,建久6年大仏殿落慶法要をおこなった。
建永元年6月5日死去。86歳。京都出身。
俗名は紀重定。字は俊乗坊。号は南無阿弥陀仏。法名は「じゅうげん」ともよむ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

治安四年(1180年)平重衡の兵火により東大寺が焼失すると、東大寺再建の議が起こり、翌年、重源上人が東大寺勧進職に任ぜられた。
その時、重源上人は61歳の高齢であった。
まず大仏の鋳造がはじまり、文治元年(1185年)8月・大仏開眼供養がいとなまれた。
文治2年3月、東大寺再建のため、周防国が東大寺営科国にあてられ、重源上人がその国務管理に任ぜられた。
直ちに周防国に下向し、4月18日には宗人の陳和卿、日本の大工物部為里等十余人を率いて、佐波川をさかのぼり、佐波郡の奥地(現徳地町)で杣始めの式を行った。
柱1本の長さ30m、直径1.5mの巨木をはじめ多量の材木を山から伐り出す作業は困難をきわめたが、重源上人のたゆみない努力によって再建事業はすすみ、建久元年(1190年)10月大仏殿上棟、正治元年(1199年)6月南大門上棟、建仁3年(1203年)11月東大寺総供養が行われた。
重源上人は建永元年(1206年)東大寺において86歳の生涯を終わった。
東大寺の再建によって徳地町は重要文化財月輪寺薬師堂をはじめ、法光寺の仏像、佐波川関水、石風呂等多くの遺跡と重源に関する言い伝えを残し、この時期に飛躍的発展をしたのである。
『徳地町ホームページ』から

[感 想]
防府市から徳地町(合併して今は山口市ですが)へ入る玄関口にこの銅像は、おられます。
東大寺の材木を佐波川で運んでいる姿です。
よく見ると、銅製では無いので塗装がはがれているところがあるのが、少し残念です。






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