ken's銅像探索日誌
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奇兵隊
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奇兵隊 像
(山口県 下関市 吉田)

奇兵隊(きへいたい)
江戸時代後期の幕末に結成された長州藩の部隊

撮影日:2007年11月19日
建設年:平成14年
分 類:長州藩の部隊
作 者:中下  義彦
評 価:☆☆☆

長州奇兵隊
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長州奇兵隊の隊士(一部)

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。
「奇兵」とは藩士・武士のみからなる部隊(撰鋒隊)に対して、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊の意味。「正規兵」の反対語である。
奇兵隊などの諸隊は1863年(文久3年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。
この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。
当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。
奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。
同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は更迭された。
継いだ総督は赤根武人、軍監は山県狂介が務めた。
同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。
翌1864年(元治元年)、新選組が長州藩の攘夷激派を襲撃した池田屋事件の後に長州藩は京都の軍事的奪回を図り、会津藩・薩摩藩の両軍と衝突した。
この禁門の変で長州藩は敗北したため朝敵となった。
幕府は朝敵・長州藩を伐つため、長州征伐(第一次幕長戦争)を行う。
この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。
長州藩が第一次幕長戦争に敗北した後に亡命していた高杉は帰藩。
高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。翌1865年(元治2年)には幕府によって再び長州征伐(第二次幕長戦争、四境戦争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。
1866年(慶応2年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事同盟を結び(薩長同盟)、
1867年11月(慶応3年10月)の大政奉還を経て、
1868年1月(慶応3年12月)に薩長が主導した王政復古が行われた。
奇兵隊ほか長州藩諸隊は官軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。
この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。
奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町民が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居して訓練に励んだ。このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。
高杉は泰平の世で堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収して当時最新の兵器を取り扱い、戦果を上げた。
奇兵隊は、明治維新以降、鎮台の設立に伴って廃止された。
1869年(明治2年)から翌年にかけて、隊士の一部が脱退騒動を起こして山口県庁を包囲した。
騒動の首謀者とみなされた大楽源太郎は、九州の久留米へ逃れる。大楽は、同士を糾合して再起を図ったものの、騒動は木戸孝允(桂小五郎)により武力鎮圧され、大楽はじめ130人あまりが処刑された。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
特定の人物では無い、はじめての銅像です。
でも、誰もが知っている奇兵隊の1人をモデルにした像です。
鉄砲を右手に、刀を腰に差して立っている凛々しい姿と鋭い眼差しが印象的な銅像です。


以下、除幕の新聞記事です。

【無名奇兵隊士の像完成 晋作支えた志継ごう ブロンズ製 14日、下関で除幕】
広島県呉市で銅合金の鋳物工場を経営する中下義彦さんが、高杉晋作ゆかりの下関市吉田地区の観光協会からの依頼で、幕末に活躍した奇兵隊士の銅像を制作した。
広島県内でのブロンズ像制作は珍く、14日に下関である除幕式で披露される。
 像は高さ1・8m、重さ約350㎏。
奇兵隊の特徴とされるかさをかぶり、鉄砲を右手に、刀を腰に差して立っている姿を表現している。
 吉田地区は、高杉が下級武士や農民たちを集めて組織した奇兵隊の訓練所があった所。
地区観光協会が「有名な高杉晋作の像はあるが、無名ながら苦労した一般兵の像もほしい」と企画。
訓練所の跡地に整備構想のある史跡公園の目玉として、入り口に設置する予定にしている。
 中下さんは約40年間、船舶や自動車の金属部品の鋳型を作ってきた。
約20年前に趣味でブロンズの観音像を制作。
奇兵隊士像の企画・製作を請け負ったデザイン会社などが、その精巧な技術に注目し、依頼した。
 「一世一代の大仕事」と引き受けた中下さん。2人の助手と9月初めから約1か月間、かかり切りで制作に励んだ。
 プラスチック製のモデルを基にして鋳型作り。
複雑な型抜きが必要な、腰に置いた手などに気を配り、体を前後2つに分けて作り、銅とスズを混ぜた合金を8㎜の厚さに流し込んだ。
仕上げでは、数日間かけて黒っぽく光るように磨き上げた。
 中下さんは「思い描いた通りの出来栄え。呉海軍工廠から伝わる鋳物の技術を、1000年も2000年も持つブロンズ像に込めた。多くの人に見てもらえるのはうれしい」と、披露を楽しみにしている。(中国新聞2002-10-10)

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菅原 道真
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菅原 道真 像
(徳島県 徳島市 新町橋)

菅原 道真(すがわらのみちざね)
(845年-903年)
平安時代前期の公卿,学者

撮影日:2007年11月16日
建設年:平成3年
分 類:学者、公卿
作 者:長田浅雄
評 価:☆☆☆

百人一首 菅家(菅原道真)
百人一首 菅家(菅原道真)
此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

承和12年6月25日生まれ。
菅原是善の3男。
文章博士。宇多天皇に重用される。
寛平6年(894)遣唐使の中止を建議。
昌泰2年(899)右大臣となるが,左大臣藤原時平の中傷により,大宰権帥に左遷され,
延喜3年2月25日大宰府で没した。59歳。
その祟りをおそれて正一位,太政大臣を追贈され,天神として信仰された。
字は三。通称は菅家,菅公。
詩文集に「菅家文草」「菅家後集」,編著に「日本三代実録」「類聚国史」など。
【格言など】このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向山(たむけやま)紅葉の錦神のまにまに(「小倉百人一首」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
◎菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。
さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
◎清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
この像は、徳島眉山天神社にあります。
学問の神、菅原道真公をお祀した天神社は全国に約12000あると言われ、いるので、道真像は多いかもしれませんね。
座像は、眉毛がつっていて鋭い顔つきですが、銅の色合いがいい感じです。
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徳島眉山天神社

明治天皇
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明治天皇 像
(徳島県 徳島市 眉山町)

明治天皇(めいじてんのう)
(1852年-1912年)
第122代天皇
(在位1867年-1912年)

撮影日:2007年11月16日
建設年:昭和54年
分 類:天皇
評 価:☆☆☆

明治天皇1
明治天皇
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

嘉永5年9月22日生まれ。
孝明天皇の第2皇子。母は中山慶子。
父の死により16歳で践祚(せんそ)。
その10ヵ月後幕府は大政を奉還。
五箇条の誓文を公布し,新政府の基本方針をしめす。
明治と改元して一世一元とさだめ,京都から東京へ遷都。
欧米の制度や文化をみならい,政治,経済,社会,教育,軍事を改革し,大日本帝国憲法や教育勅語などを発布して,立憲国家・近代国家確立に献身した。
在位中,日清・日露両戦争,大逆事件がおこり,韓国併合がおこなわれた。
和歌をこのみ,約10万首の詠歌をのこした。
明治45年7月29日死去。61歳。
墓所は伏見桃山陵(京都市伏見区)。
幼称は祐宮。諱は睦仁。
【格言など】四方(よも)の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「人柄と影響」
明治天皇は、近代の天皇制が確立した時期の天皇である。
若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府の最高権力者として祭り上げられ、絶対君主として国民から畏敬された。
日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。
また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。
しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。
写真嫌いは有名である。
現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。
ただ、最晩年の1911年(明治44年)に軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした物が残っており、これが明治天皇の最後に撮影された姿である。
明治天皇は明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉と認識された。
大喪の日には、陸軍大将:乃木希典将軍夫妻を始め、多くの人が殉死した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

明治天皇
最も有名な御真影、キヨッソーネ作による肖像版画

明治天皇2
晩年の明治天皇
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感 想]
この像は、徳島の眉山中腹の山の麓にひっそりと建っておられます。
明治天皇が写真嫌いだったとは、おもしろいエピソードですね。
軍服を着た立ち姿は、きっりとした感じです。

蜂須賀 家政
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蜂須賀 家政 像
(徳島県 徳島市 徳島町 徳島中央公園)

蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)
(1558年-1638年)
織豊-江戸時代前期の武将

撮影日:2007年11月15日
建設年:昭和40年
分 類:武将
評 価:☆☆☆

永禄元年生まれ。
蜂須賀正勝の長男。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国攻めで軍功をたて阿波徳島17万6000石を領した。
関ケ原の戦いでは西軍に属したが出陣せず,長男至鎮を東軍につかせ,本領をたもった。
徳島藩藩祖。
寛永15年12月30日死去。81歳。
尾張(愛知県)出身。
幼名は小六。号は蓬庵。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「人 物」
◎伊達政宗に「阿波の古狸(ふるだぬき)」と評されたという。
◎関ヶ原では親家康的な一面があったとはいえ、それは「石田三成憎し」から出た感情的行動だったと思われる。
家政自身は豊臣家に対する忠義心が残っていたものと思われる。
関ヶ原や大坂の陣における消極的な行動が、それを物語っている。

[銅 像]
戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていましたが、戦時中に供出されてしまい、1965年に裃姿の蜂須賀家政の銅像に生まれ変わっています。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
『偉人の俤』という本で、戦前にあった、家政の父、蜂須賀小六正勝公の像の写真を見ましたが、こちらの方がかっこよかったです。
阿波踊りを広めたお殿様としての功績は、素晴らしいです。
写真は、夕方暗くなってからだったのであまり写りがよくありませんが、裃姿で何か指揮をしている姿のようです。

伊藤 博文 4
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伊藤 博文 像 4
(山口県 下関市 阿弥陀寺町 日清講和記念館)

撮影日:2007年11月13日
建設年:昭和13年
分 類:政治家、外交官
作 者:河内山 賢祐
評 価:☆☆☆

[感  想]
日清講和記念館の横に陸奥宗光と並んでいる上半身の像です。

伊藤 博文 3
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伊藤 博文 像 3
(山口県 萩市 椿東)

撮影日:2007年8月23日
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

[感  想]
伊藤博文生家の庭におられます。
萩焼で出来ており、着色されています。
珍しく、おもしろい像です。
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伊藤 博文 2
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伊藤 博文 像 2
(山口県 光市 束荷 伊藤公記念公園)

撮影日:2007年8月16日
建設年:昭和35年
分 類:政治家
作 者:河内山 賢祐
評 価:☆☆☆

[感  想]
2つ目は、公園を上がっていった広場にあります。
これは、昭和35年に伊藤神社跡地に建立されたものです。
座って大日本帝国憲法を広げた姿です。
古いだけあって、銅像としていい味が出ています。

伊藤 博文 1
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伊藤 博文 像 1
(山口県 光市 束荷 伊藤公記念公園)

伊藤 博文(いとう ひろぶみ)
(1841年-1909年)
幕末-明治時代の政治家
初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣

撮影日:2007年8月16日
建設年:平成16年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

伊藤1
「近代日本人の肖像ホームページ」から

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フロックコートを着用した伊藤
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天保12年9月2日生まれ。
周防(山口県)の農民の子で,松下村塾にまなぶ。
イギリス公使館焼き打ちに参加するなど尊攘運動にしたがうが,文久3年渡英。
帰国後は開国をとなえ倒幕運動に活躍。
明治4年岩倉遣欧使節団の全権副使となる。
大久保利通の没後,内務卿となり,14年の政変で政府の実権をにぎる。
内閣制度を創設して,18年初代の首相(組閣4回)となり,枢密院の設置,大日本帝国憲法の制定など,天皇制近代国家の枠組みをつくった。
条約改正を実現し,日清戦争を遂行。
33年政友会を創立して総裁。
38年日露戦争後,統監府の初代統監となり朝鮮併合をすすめた。
明治42年10月26日ハルビン駅で安重根に暗殺された。
公爵。69歳。
本姓は林。前名は俊輔。号は春畝など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎芸者好き
伊藤の女好きは当時から非常に有名であり、あまりの好色ぶりに明治天皇から直々に注意を受けたという逸話がある。
女性と遊んでは捨て去ることから、「箒」という綽名がついた。
また、宮武外骨の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた松方正義である)。
地方に行った際には、一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱でうなされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員松本剛明は子孫の一人という。
◎幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「俊輔、周旋(政治)の才あり」と評された。
◎よく同じ長州閥の山縣有朋と対比され「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの仲は非常に良く、お互いの良き相談役であった。二人が長州志士の中でもきわだって貧しい出身(木戸、井上、高杉らは中下級武士とはいっても家柄のはっきりした上士であり、足軽や農民である山縣、伊藤とは当時の意識としても雲泥の差があった)であったことも重要である。
◎同時代人が両者の特徴を評した言葉に次のようなものがある。「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」
◎当時大礒には伊藤をはじめ、政治家の別邸が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。「山縣は護衛の人が付き、陸奥は仕込み杖をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた。」
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
伊藤公記念公園には、2つの銅像があります。
1つ目が、旧伊藤博文邸前に建つ、立ち姿の像。
これは、伊藤公が完成をみることができなかった旧邸を、末永く見守ってもらうために、平成16年に建立されたものです、
丸めた巻物(大日本帝国憲法)を左手に持ち、旧邸をしっかり見ておられます。
よく見る肖像と旧千円札に一番近い顔です。

千円伊藤
日本銀行券千円紙幣C号券
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

陸奥 宗光
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陸奥 宗光 像
(山口県 下関市 阿弥陀寺町 日清講和記念館)

陸奥 宗光(むつ むねみつ)
(1844年-1897年)
明治時代の政治家、外交官

撮影日:2007年11月13日
建設年:昭和13年
分 類:政治家、外交官
作 者:河内山 賢祐
評 価:☆☆☆

陸奥宗光
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保15年7月7日生まれ。
伊達宗広の6男。
坂本竜馬の海援隊に参加。
維新後新政府につとめたが,明治10年の土佐立志社事件により5年の刑に服す。
のち駐米公使,農商務相をへて,25年第2次伊藤内閣の外相。
27年日英条約改正に成功し,同年の日清開戦から三国干渉にいたる難局に対処した。
明治30年8月24日死去。54歳。
紀伊和歌山出身。通称は陽之助。
著作に「蹇蹇録(けんけんろく)」。
【格言など】他策なかりしを信ぜむと欲す(「蹇蹇録」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。
◎陸奥宗光が、藩閥打倒、議会民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが・・・」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。
◎「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」と自著『蹇々録』の中で語っている。
◎坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。しかしこれは西郷と龍馬のやりとりも含めた後世の創作ともいわれる。

※日清戦争後は伊藤博文とともに全権として1895年(明治28年)下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。
講和会議が行われた割烹旅館「春帆楼」の敷地内には1937年に日清講和記念館が設置され、会議に関係する資料が公開されているほか、館内には会議の様子が再現されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
日清講和記念館の横に伊藤博文と並んでおられます。
2人の偉人が並んでいる像というのも珍しいです。
髭が特徴ある像です。
妻の陸奥亮子の美貌も気になるので、調べてみました。
確かに美しいですね。
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月性
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月性 像
(山口県 柳井市 大畠)

月性(げっしょう)
(1817年-1858年)
江戸時代後期の僧

撮影日:2007年11月12日
分 類:僧
評 価:☆☆☆。

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月性肖像(柳井市月性展示館蔵)

文化14年9月27日生まれ。
周防(山口県)浄土真宗本願寺派妙円寺の住職。
諸国を遊歴し,帰郷して私塾清狂草堂をひらく。
吉田松陰,頼三樹三郎らと親交をむすぶ。
尊王攘夷,海防の必要をとなえて海防僧とよばれた。
安政5年5月11日死去。42歳。
字は知円。号は清狂。
著作に「仏法護国論」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

長門国萩では益田弾正・福原越後・浦靭負(うらゆきえ)などに認められ、吉田松陰とも親しかった。
1856年(安政3年)西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、和歌山藩へ赴き海防の説得にあたるなどしたが病没した。
「人間到る処青山有り」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」の作者としても名高い。
著書に「仏法護国論」がある。

男児立志出郷関 
学若無成不復還 
埋骨何期墳墓地 
人間到処有青山 

<読み下し文>
男児(だんじ)志(こころざし)を立てて郷関を出づ
学、もし成るなくんば、また還らず
骨を埋(うず)む、何ぞ期せん墳墓(ふんぼ)の地
人間(じんかん)到る処(ところ)青山(せいざん)あり

<意訳>
男子が一度(ひとたび)志を立てて故郷を旅立つからには
目的が成就しない限り2度と故郷の地を踏むことはできない
骨を埋めるのに、どうして墓所を決めておく必要などあろう
世の中にはどこにでも青山(墓地)があるというのに
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
この像は、国道188号沿いにあります。
黄金色に輝きながら、右手に刀を持ち、瀬戸内海をじっと見つめておられます。
上記漢詩は、すごいです。
肖像と銅像は、ちょっと違うような気がします。
肖像の方が、いいですね。





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