ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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柏木 幸助
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柏木 幸助 像
(山口県 防府市 桑山 防府市青少年科学館 )

柏木 幸助(かしわぎ こうすけ)
(1856年-1923年)
明治期の発明家,実業家

撮影日:2007年12月25日
建設年:平成10年
分 類:発明家
作 者:吉塚隆一
評 価:☆☆☆

柏木 幸助
「山口県ホームページ」から

薬商の家に生まれ,化学をまなぶ。
はじめマッチ製造に従事し,寒暖計の製造に転じ,さらに体温計の研究にとりくみ,明治16年(1883)苦心の末,水銀体温計の製造に成功。
事業は子の2代柏木幸助にひきつがれ,柏木体温器製造所に発展した。
山口県出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1856年(安政3年)、周防国三田尻(現山口県防府市)の薬種商を営む家に生まれた柏木幸助は、16歳で牟礼村の桂権吾に化学を習い、県立華浦医学校を卒業。
19歳の時、まだ高価な舶来品が主流だったマッチに興味を持ち、独学で成分を解明。
2年後には自宅に工場を設けて自然発火しない安全マッチの製造を開始した。
当時、三田尻には職を失った旧士族が多くいて、柏木はその救済も考えていた。
しかし着火性の良いすぐれたマッチを作っても、舶来崇拝の時代に販売は難しく、大阪と往復する船から売れないマッチの荷を海中に投じて売りさばいたかのように見せかけたり、乗船した船が沈没してあやうく命を落としかけたりというエピソードも残る。やがて工場の火災でマッチ製造は終焉を迎える。
82年、たまたま柏木薬種店の前を通りかかったガラス職人惣兵衛が桂皮水(ニッケ水)の自家製造をもちかけ、マッチ工場の跡地でガラス瓶の製造を始める。
柏木は新たな挑戦として体温計の生産を決意。
惣兵衛は途中で亡くなるが、柏木は自ら職人たちを指揮して細管の製造に成功。
水銀を自家精製したり目盛り板の白色ガラスにランプのかさを使うなど、苦心の末についに身体から離しても水銀柱が下がらない留点式の体温計を実用化した。
柏木は他に醤油速成醸造法の発明、ジアスターゼの発見・製造、三田尻港築堤への貢献、防長実業新聞の発刊など、多くの発明と社会貢献事業を行った。
1910年には4か月近くを費やして世界一周。
帰国してからは三田尻海水浴場開設にも貢献し、1923年に67歳で世を去っている。
※読売新聞ONLINE(07.11.03)から抜粋
体温計
柏木特製体温計(萩市、柏木薬局所蔵)

[感 想]
防府の防府市青少年科学館ソラールに立っておられます。
山口県防府市出身でこんな発明家が居たことは、知りませんでした。
銅像巡りはこういう発見もできるので、うれしいです。
防府市青少年科学館にこの像が存在することも、ぴったりでいいと思います。

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毛利 輝元
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毛利 輝元 像
(山口県 萩市 堀内 萩城跡)

毛利 輝元(もうり てるもと)
(1553年-1625年)
織豊-江戸時代前期の武将

撮影日:2007年12月21日
建設年:平成16年
分 類:大名
作 者:江里敏明
評 価:☆☆☆

毛利 輝元
毛利輝元
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天文22年1月22日生まれ。
毛利隆元の長男。
永禄6年(1563)家督をつぐ。
織田信長の勢力に対抗,本能寺の変後は豊臣秀吉と講和した。
中国9国に112万石を領し,豊臣政権の五大老のひとり。
関ケ原の戦いで西軍の総大将格となり,戦後は周防,長門の2国に減封された。
寛永2年4月27日死去。73歳。
法名は宗瑞。
【格言など】将軍家への御奉公をおこたらず,家名存続を第一に考えよ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「人 物」
◎関ヶ原合戦では総大将でありながら実際には戦場に赴かず、戦後は家康に改易されかけた。
吉川広家の働きでかろうじて存続することになったが、「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」と自らの非力を嘆いたという(福原家文書)。
◎大坂の役では宍戸元続の実弟である内藤元盛を佐野道可と改名させて大坂城に入城させた。
このとき輝元は佐野に豊臣家が勝利したなら10カ国を与えて一族を末代まで取り立てるという起請文まで出した。
佐野は大坂の役で自害したが、家康はこのことを知って激怒し毛利家に問い詰めた。
ところが輝元は何も知らなかったと述べ、家康の下に釈明に赴いていた佐野の遺児2人が萩に戻ってくると殺害した。(佐野道可事件)
(萩藩閥閲録・内藤孫左衛門家譜・別本吉川家譜)。
◎現在でも愚かな大将とする風潮が強いが、「佐野道可事件」についても関ヶ原での失策に対する意地の反抗であり、「徳川憎し」の感情がこのような事件を引き起こしたとも言える。
また当時、家臣に命じ熊本城等の九州諸城の図を密偵により作成させるなどもしている。
知力に劣るイメージのある輝元であるが、上記のように謀略・策略の類も好み、関ヶ原の敗戦後、輝元自身が自らを律して、内政を適材適所の配置で家臣に委任したことにより、長州藩の基礎を固めることに成功したのである。
そして長州藩内に残った「徳川憎し」の感情は260年の間に凝縮され、江戸幕府打倒、そして明治維新へと向かうのである。
毛利輝元の最大の功績は「徳川憎し」の感情を長州藩に植え付けたことかもしれない。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
「毛利輝元銅像を建立へ 萩開府400年記念 萩城跡に11月10日除幕」
毛利輝元公銅像建立実行委員会は、萩市堀内の国指定史跡・萩城跡に輝元の銅像を建立し、11月10日(水)に除幕式を行うことを決めた。
関ヶ原の戦い(慶長5年=1600)に敗れた輝元が、防長2か国に減封され、萩に開府して今年11月で400年になるのを記念した事業の1つ。
除幕日は城跡近くにオープンする「萩博物館」の開館前日となる。
設置場所は、指月駐車場から城内に向かう萩藩時代に二の丸南門があった石垣付近。
制作は、「親鸞聖人童形像」(京都市西本願寺)や「桂小五郎像」(同市長州藩邸跡)などの作品で知られる、日展評議員の彫刻家江里敏明氏(京都市在住)が当たる。
江里氏は、防府毛利報公会(防府市)所蔵の「毛利輝元肖像」をモデルに、このほど4分の1のひな型を作り、今は実際に建立する像を制作中。
銅像は縦横各130㎝で、台座と合わせると高さ3mになるという。
(西日本新聞2004-01-04)

[感  想]
萩城跡の入り口に座っておられます。
萩開府400年記念して、2004年に建設された新しい銅像です。
座っている姿は、堂々として立派です。

田中 義一
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田中 義一 像
(山口県 萩市 堀内)

田中 義一(たなか ぎいち)
(1864年-1929年)
明治-昭和時代前期の軍人,政治家
第26代内閣総理大臣

撮影日:2007年12月21日
建設年:昭和6年
分 類:軍人、政治家
作 者:原型鋳造 大塚樂堂
    再建像原型作者 山畑阿利一
評 価:☆☆☆

田中義一1

田中義一2
「近代日本人の肖像ホームページ」から

元治元年6月22日生まれ。
大正10年陸軍大将。
14年政友会総裁,昭和2年首相兼外相となり,山東出兵を断行,東方会議で対支政策綱領を決定するなど,中国に対する強硬外交を展開。
また治安維持法を改正,社会主義運動を弾圧した。
昭和2年若槻内閣は総辞職し、代わって立憲政友会総裁の田中が内閣を組閣した。
張作霖爆殺事件の責任をとって4年総辞職。
昭和4年9月29日死去。66歳。
長門(山口県)出身。陸軍大学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎オラガビール(寿屋がかつて発売したビール)
「オラが(俺が)」は田中の口ぐせで「おらが総理」と呼ばれた。
◎落語家の雷門福助は田中義一が陸軍大臣時代に運転手の助手を務めていた。
◎タモリ
本名の森田一義の名前は田中義一の「義一」が由来。
当初はそのまま命名しようとしたが「畏れ多い」として名前をひっくり返し「一義」とした。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
旧田中邸には、初代銅像の写真があります。
初代は、軍服姿の銅像でしたが、2代目はコート姿となったそうです。
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[感  想]
最近出来た、萩博物館の駐車場近くに建っています。
台座も高く、大きな像です。
田中義一自身も身長が、180㎝あったそうです。
やさしい顔立ちが印象的です。

厚東 常吉
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厚東 常吉 像
(山口県 萩市 椿東 松陰神社内)

厚東 常吉(ことう つねきち)
(1884年-1968年)
政治家

撮影日:2007年12月21日
建設年:昭和42年
分 類:政治家
作 者:長嶺 武四郎
評 価:☆☆

[略歴]
衆議院議員、萩商工会議所会頭、松陰神社維持会会長として松陰神社の復興発展に尽力した、昭和四十三年没。

[感  想]
松陰神社の入り口のところにひっそりと佇んでおられます。
表情をよく表している像で、台座の名前は、内閣総理大臣の岸信介の書です。

進藤 一馬
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進藤 一馬 像
(福岡県 福岡市中央区 福岡市美術館)

進藤 一馬(しんとう かずま)
(1904年-1992年)
昭和時代の政治家

撮影日:2007年12月5日
建設年:平成4年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

進藤 一馬
進藤 一馬
「福岡市ホームページ」から

明治37年1月1日生まれ。
父進藤喜平太が後援していた東方会にはいり,中野正剛に師事し,総務部長。
九州日報社取締役,東方時報社長をつとめ,昭和19年玄洋社社長となる。
33年衆議院議員(当選4回,自民党),47年福岡市長。
平成4年11月28日死去。88歳。
福岡県出身。早大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎1984年(昭和59年)早春、道路拡張工事のため、南区桧原の沿道の桜並木が切り払われることになった。それを惜しんだ住民が、和歌を詠んで桜の木に掲示した。
「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬 ついの開花をゆるし給え」。
これが西日本新聞に報道されるや、多くの人たちが桜を惜しんで歌を木に下げた。
その中にこのようなものがあった。
「桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は 香瑞麻」
香瑞麻は「かずま」、進藤市長の雅号であった。
このような多くの人々の思いが行政を動かし、工事が変更され、桧原の桜は残された。
福岡市民たちは進藤を「花守り市長」と呼んだ。
この話は「リーダーズダイジェスト」誌や小学校の道徳副読本にも掲載されている。
この桜は現存しており周囲は公園として整備されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
福岡市立美術館の入り口辺りに座っておられます。
やさしそうな感じの表情が印象的です。

貝原 益軒
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貝原 益軒 像
(福岡県 福岡市中央区 金龍寺)

貝原 益軒(かいばら えきけん)
(1630年-1714年)
江戸時代前期-中期の儒者,教育家

撮影日:2007年12月5日
建設年:昭和40年
分 類:儒学者
作 者:津上昌平
評 価:☆☆☆☆

貝原 益軒
貝原益軒像
「中村学園ホームページ」から

寛永7年11月14日生まれ。
貝原寛斎の5男。
筑前福岡藩主黒田光之につかえ,京都に遊学。寛文4年帰藩。
陽明学から朱子学に転じるが,晩年には朱子学への疑問をまとめた「大疑録」もあらわす。
教育,医学,本草などにも業績をのこした。
正徳4年8月27日死去。85歳。
名は篤信。字は子誠。通称は久兵衛。別号に損軒。
著作はほかに「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など。
【格言など】心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にする。これ身を養い徳を養う工夫なり(「養生訓」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
金龍寺の境内に座っておられます。
とても精巧に出来た銅像で、表情がよく分かり、小物もよく作られています。
温厚そうな表情には好感が持てます。

中野 正剛
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中野 正剛 像
(福岡県 福岡市中央区 鳥飼八幡宮)

中野 正剛(なかの せいごう)
(1886年-1943年)
大正-昭和時代前期の政治家

撮影日:2007年12月5日
建設年:昭和59年
分 類:政治家
作 者:木戸 龍一
評 価:☆☆☆

中野正剛
「近代日本人の肖像ホームページ」から

明治19年2月12日生まれ。
「東京朝日新聞」記者をへて東方時論社主筆となり,のち社長。
大正9年衆議院議員(当選8回)。
昭和11年東方会を結成,南進論を提唱。
18年東条内閣打倒を画策して逮捕され,釈放後の同年10月27日自殺。58歳。
福岡県出身。早大卒。
号は耕堂。
著作に「明治民権史論」「国家改造計画綱領」など。
【格言など】東方九拝,平静にして余裕綽々(しゃくしゃく),自笑(遺書)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

中野正剛
中野正剛の肖像写真
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[エピソード]
◎中学修猷館時代に、玄洋社の初代社長平岡浩太郎に援助を頼んで仲間と柔道道場を設立するほど柔道を愛好しており、足が不自由ながらその技量も高く、早稲田大学在学中には、史上最強の柔道家といわれ黒澤明の監督作品『姿三四郎』のモデルの一人とされている講道館の徳三宝と試合をして勝ったほどである。
なお、中野が設立したこの柔道道場「振武館」は現在でも運営されており、大相撲九州場所の際は、毎年九重部屋の宿舎となっている。

[感  想]
拳を握りしめた立ち姿は、凛々しく、力が入った感じが伝わってきます。

平野 国臣
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平野 国臣 像
(福岡県 福岡市中央区 西公園)

平野 国臣(ひらの くにおみ)
(1828年-1864年)
幕末の武士、福岡藩士

撮影日:2007年12月5日
建設年:昭和39年
分 類:幕末藩士
作 者:安永良徳
評 価:☆☆☆

平野国臣肖像
平野国臣肖像
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

文政11年3月29日生まれ。
筑前福岡藩士。
安政5年脱藩,京都で尊攘運動にかかわる。
文久3年(1863)八月十八日の政変で京都を追われ,沢宣嘉を擁して但馬(兵庫県)生野で討幕の挙兵(生野の変)をするが,捕らえられ,元治(げんじ)元年7月20日処刑された。37歳。
通称は次郎。号は月廼舎,独醒軒。
著作に「回天管見策」「尽忠録」など。
【格言など】年老いし親の嘆きはいかならん身は世のためと思ひかへても(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
福岡市西公園の入り口辺りに立っておられます。
台座も銅像も大きく、堂々とした立ち姿が、いい感じです。

亀山天皇
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亀山天皇 像
(福岡県 福岡市博多区 東公園)

亀山天皇(かめやまてんのう)
(1249年-1305年)
鎌倉時代の第90代天皇
(在位:1259年-1274年)

撮影日:2007年12月4日
建設年:明治37年
分 類:天皇
作 者:山崎朝雲
評 価:☆☆☆

建長元年5月27日生まれ。
後嵯峨天皇の皇子。
母は藤原姞子(大宮院)。
大覚寺統最初の天皇。
同母兄後深草天皇の譲位により即位。
父が院政をおこなう。
子の後宇多天皇に譲位して,兄をさしおいて院政をしいたことなどもあり,大覚寺(亀山),持明院(後深草)両統対立がおこる。
嘉元3年9月15日死去。57歳。
墓所は亀山陵(京都市右京区)。諱は恒仁。法名は金剛眼。
【格言など】世のために身をばをしまぬ心ともあらぶる神はてらしみるらむ(「亀山院御集」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「元寇との関わり」
文永2年(1265年)に、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。
幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。
院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮で祈願するなど積極的な活動を行った。

[銅 像]
亀山上皇像
像本体4.8m。
県指定有形文化財。
高村光雲弟子の山崎朝雲によって木彫原型が制作。
福岡警察署長の湯地丈雄が長崎事件(1886年)を期に主唱した元寇記念碑建設運動に端を発し、日露戦争中の1904年(明治37年)12月25日に除幕式が挙行された。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
東公園中心の高みにあり、県庁の方を見下ろしておられます。
台座に「敵国降伏」の文字が刻まれてあり、何だろう?と思いましたが、元寇関係ということで納得しました。
亀山えはがき
東公園の亀山上皇像(大正時代~昭和前期)の絵はがき。
「福岡市博物館ホームページ」から
昔は、絵はがきにもなっていました。

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福岡県庁に県庁とその周辺の模型がありますが、
亀山上皇像と日蓮像もちゃんと造ってあります。

種田 山頭火 2
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種田 山頭火像 2
(山口県 防府市 防府駅前)

撮影日:2007年12月1日
建設年:昭和60年
分 類:俳 人
評 価:☆☆☆


[感 想]
山頭火は、防府市出身であるゆかりでここに建立されたのでしょう。
像は、多分実物大で、托鉢している姿です。
台座の句は、
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「ふるさとの水をのみ水をあび」
この句にあやかり、水をイメージした銅像の周りの造りはいい感じです。


種田 山頭火 1
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種田 山頭火 像 1
(山口県 山口市 新山口駅前)

種田 山頭火(たねだ さんとうか)
(1882年- 1940年)
大正-昭和時代前期の俳人

撮影日:2007年9月8日
分 類:俳人
作 者:吉塚 隆一
評 価:☆☆☆

種田 山頭火
種田山頭火肖像
山口県ホームページ「ふるさとの文学者63人」から

明治15年12月3日生まれ。
山口県の大地主の長男。
荻原井泉水に師事し,「層雲」に投句。
大正14年熊本の報恩寺で出家,放浪の托鉢生活のなかで独特な自由律の俳句をつくる。
のち山口県小郡に其中庵をむすぶが,遍歴をやめず昭和15年10月11日松山市一草庵で死去。59歳。
早大中退。
本名は正一。
別号に田螺公。法名は耕畝。
句集に「草木塔(そうもくとう)」など。
【格言など】歩くこと―自分の足で。作ること―自分の句を(「其中日記」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[代表句]
●鴉啼いてわたしも一人
●霧島は霧にかくれて赤とんぼ
●まつすぐな道でさみしい
●また見ることもない山が遠ざかる
●わけいってもわけいっても青い山
(出典「草木塔」「俳句検索」)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
「まったく雲がない笠をぬぎ」
この句を詠んだ姿、そのままを銅像にしています。
台座の俳句も直筆を復元して刻んでいるのがいいです。
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