ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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滝 廉太郎 2
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滝 廉太郎 像 2
(大分県 大分市 大手町 遊歩公園)

撮影日:2008年2月3日
分 類:作曲家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

大分県出身の作曲家滝廉太郎の像。
朝倉文夫による1950年の作品である。
朝倉は竹田高等小学校での滝の3年後輩であり、像の下部には廉太郎との関わりを記した朝倉自筆の文が刻まれている。
遊歩公園は滝廉太郎の終焉の地でもあり、その地を示す標柱も立てられている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
東京都 台東区 上野恩賜公園にある像と同じものと思われます。
滝廉太郎と彫刻家の朝倉文夫が先輩後輩だったとは、驚きです。

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滝 廉太郎 1
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滝 廉太郎 像 1
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

滝 廉太郎(たき れんたろう)
(1879年-1903年)
明治時代の作曲家

撮影日:2007年6月21日
分 類:作曲家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

滝 廉太郎
滝 廉太郎
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

明治12年8月24日生まれ。
ピアノを幸田延に,作曲をケーベルにまなび,東京音楽学校(現東京芸大)研究科卒業後母校の教師となる。
歌曲集「四季」(「花」をふくむ),中学唱歌「荒城の月」「箱根八里」などを作曲。
明治34年ドイツに留学したが,結核にかかり帰国。
明治36年6月29日死去。25歳。
東京出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「作 品」
明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていた。
滝は最も早く、その要望に応えた作曲家と言えるだろう。
彼の代表作である『荒城の月』は、『箱根八里』と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。
また、最も人気の高い曲のひとつである『花』は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。
『お正月』、『鳩ぽっぽ』、『雪やこんこん』などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年に編纂された「幼稚園唱歌」に収められた名曲である。又、『荒城の月』は、ベルギーで讃美歌になった事も判明した。
歌曲に有名な作品が多い滝だが、1900年には日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲している。
肺結核が悪化して、死期が近いことを悟った時、死の4ヶ月前に作曲したピアノ曲『憾』(うらみ)が最後の作品として残された。
また、後に、『箱根八里』は、箱根登山鉄道の発車メロディーになる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
奏楽堂の玄関脇に滝の像が建つ。
作者の彫刻家、朝倉文夫は滝とほぼ同世代。
大分県竹田の小学校の同窓で、滝が通う上野の音楽学校の隣の美術学校彫刻科で学んだ。
滝の没後、少年時代の思い出をもとにして像を彫んだという。
文・名和 修
「NIKKEI 日本の近代遺産50選ホームページページ」から抜粋

[感  想]
上野公園の旧東京音楽大学 奏楽堂の前に座っています。
像は、眼鏡をかけて真面目そうな感じです。
朝倉文夫が早世した滝の少年時代を思い作った像ということで、感慨深いものがあります。

油屋 熊八
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油屋 熊八 像
(大分県 別府市 別府駅前)

油屋 熊八(あぶらや くまはち)
(1863年-1935年)
明治-昭和時代前期の実業家

撮影日:2008年2月2日
建設年:平成19年
分 類:実業家
作 者:辻畑隆子
評 価:☆☆☆

油屋 熊八
油屋 熊八
「九州朝日放送ホームページ」から

文久3年7月16日生まれ。
明治43年郷里の愛媛県宇和島より大分県別府にうつり,亀の井旅館をいとなむ。
少女車掌を乗務させる観光バスの経営,九州横断道路建設の提唱など,別府とその周辺地域の総合的な観光開発につくした。
昭和10年3月27日死去。73歳。

◎熊八のアイデア
・「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案し、このフレーズを刻んだ標柱を1925年に富士山山頂付近に建てたのをはじめ、全国各地に建てて回った。
・1926年に別府ゴルフリンクスというゴルフ場を開き、温泉保養地とスポーツを組み合わせた新しいレジャーの形を提案した。
・1927年に大阪毎日新聞主催で「新日本八景」が選ばれた際に、葉書を別府市民に配って組織的に投票を行い、別府を首位に導いた。
・1928年に日本初の女性バスガイドによる案内つきの日本初の定期観光バスで別府地獄めぐりの運行を始めた。
・1931年から手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」を亀の井ホテルで開催した。
・温泉マークを別府温泉のシンボルマークとして愛用し、一般に広めた(このマーク自体も熊八が考案したという説があるが、真偽は不明である。)。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
別府観光の父・油屋熊八翁の銅像、JR駅前に設置(07.10.26)
「別府観光の父」とされる油屋熊八翁(1863~1935年)の銅像の設置作業が25日、別府市のJR別府駅前広場で行われた。
大分みらい信用金庫が創立70周年記念事業として1991年、本店がある別府駅前通りにモニュメントを設置することを構想し、彫刻家の辻畑隆子さん(日出町在住)に制作を依頼。内容や設置個所などの調整を慎重に進め、熊八翁の銅像を駅前広場に設置することになった。
銅像は高さ約3メートル、重さ900キロで、台座を含めると5メートル近い高さ。作業に立ち会った辻畑さんは「両手を広げて天国から舞い降りて来るイメージ。
市民や観光客に親しまれる像になってほしい」と話していた。
総事業費は約3000万円。11月1日午前9時半から銅像前で同信金から市への寄贈式と除幕式を行う。
毎年この日に別府公園で行われている「油屋熊八翁碑前祭」も午前11時から例年通り実施される。碑前祭会場では、だんご汁の無料サービスがある。
熊八翁は愛媛県宇和島市出身。
大阪やアメリカに渡り、1911年、別府温泉に「亀の井旅館」(別府亀の井ホテルの前身)を創業。
日本初の女性バスガイドによる定期観光バスを運行し、由布院温泉を別府の奥座敷として開発するなど、別府の観光産業の基礎を築いたとされる。
由布院温泉の旅館「亀の井別荘」も熊八翁が手掛けたもの。
読売新聞大分版(07.10.26)

[感  想]
別府駅前におられます。
駅前広場で、ひときわ目立つ黄金の像です。
飛び出しそうな油屋熊八翁のマントに子供がしがみついている、ユーモア溢れる像です。
マントには、油屋熊八が考案したといわれる温泉のマークがしっかり付いています。
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