ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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伊東 マンショ
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伊東 マンショ 像
(大分県 大分市 大手町 遊歩公園)

伊東 マンショ(いとう まんしょ)
(1570年-1612年)
織豊-江戸時代前期のキリシタン
天正遣欧少年使節の正使

撮影日:2008年3月22日
分 類:その他
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆☆

伊東 マンショ
右上の人物が伊東マンショ
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

元亀元年生まれ。
天正8年(1580)受洗。
10年大友宗麟の名代として天正遣欧使節の正使となり,長崎を出発。
スペイン国王,ローマ教皇に謁見,18年に帰国した。
のちイエズス会司祭。
一説に名は祐益。
慶長17年10月21日死去。43歳。
日向(宮崎県)出身。
洗礼名は満所ともかく。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「天正遣欧少年使節」
巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)はキリシタン大名であった大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直すため、また次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。
そこでヴァリニャーノに白羽の矢をたてられたのが、セミナリヨで学んでいた四人の少年たちであった。
伊東マンショは大友宗麟の名代として選ばれた。
事実、彼は「大友宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子」という遠縁の関係にあった。
本当は義益の息子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったが、当時祐勝は安土にいて出発に間にあわないため、マンショが代役となったという。
その選考基準は容姿端麗であり、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることであった。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
大分遊歩公園の中で、馬にまたがっておられます。
北村西望の作品で、かしこそうなやさしい顔が印象的です。

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上田  保
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上田  保 像
(大分県 大分市 大分城址公園外苑)

上田 保(うえだ たもつ)
(1894年-1980年)
昭和時代後期の政治家

撮影日:2008年2月22日
建設年:昭和57年
分 類:政治家
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆

明治27年8月25日生まれ。
東京で弁護士として活動後,昭和22年から16年間大分市長をつとめた。
野猿の餌づけによる高崎山自然動物園,大分生態水族館マリーンパレスなどを開設し,アイディア市長といわれた。
昭和55年6月6日死去。85歳。
大分県出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「奇抜なアイデア」
彼は在任中奇抜で独創的なアイデアで大分市を復興させ「アイデア市長」の名で親しまれた。 主なアイデアは以下の通りである。
◎臨港線の設置、大道トンネル建設の建設、大分鉄道管理局(現九州旅客鉄道大分支社)の誘致
◎鶴崎市、坂ノ市町、大在村等周辺町村との合併
◎当時作物を荒らしていたサルに餌付けを行い観光資源とする(高崎山自然動物園として現在に至っている)
◎大分生態水族館マリーンパレス(現在の大分マリーンパレス水族館、愛称:うみたまご)を建設し、世界初の回遊式水槽の設置と餌付けショーを行う(これも見事に成功、日本国内で最も入場者数の多い水族館となる)
など、今日の大分市の発展基盤を築いたものと言っても過言ではない。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
遠くを指さしておられます。
高崎山自然動物園、大分マリーンパレス水族館などをこの人が、発案したとは、驚きです。

木下 郁
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木下 郁 像
(大分県 大分市 大分城址公園外苑)

木下 郁(きのした かおる)
(1894年-1980年)
日本の政治家。
元衆議院議員、元大分市長、元大分県知事。

撮影日:2008年2月22日
建設年:昭和57年
分 類:政治家
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆

[略 歴]
大分県宇佐郡安心院村(現宇佐市)出身。
旧制宇佐中学校(現宇佐高校)、旧制第五高等学校を経て、
1918年に東京帝国大学法科を卒業。
三井物産、兵役、英語教師(旧制大分中学校(現大分上野丘高校))、イギリス・ドイツ留学を経て、1926年に弁護士となる。
太平洋戦争下の1942年に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選。
終戦後の1945年10月には大分市長となるが、翼賛議員であったため公職追放を受ける。日本社会党に入党し、追放解除後は、2度にわたり衆議院議員に当選した。
1955年4月には、革新統一候補として知事選挙に立候補し、官選時代からの現職である保守系の細田徳寿らを破って初当選。
以後、1971年まで4期16年にわたって県知事を務めた。
大分県で初めての革新知事であったが高度経済成長に合わせた産業政策を採り、大分臨海工業地帯の造成によって大分県の産業構造の工業化が飛躍的に進んだ。
また、大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)の開学、九州横断道路の着工、大分県立図書館の建設、第21回国民体育大会の開催、新大分空港の着工等を行った。
『美味求真』でも知られる元衆議院議員、元関東長官の木下謙次郎は叔父。
前大分市長、元衆議院議員の木下敬之助は甥にあたる。

[感  想]
大分県知事と大分市長が並んで立ついるという珍しい像です。
杖をついて、遠くを見つめています。

ルイス・デ・アルメイダ
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ルイス・デ・アルメイダ 像
(大分県 大分市 大手町 遊歩公園)

ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida)
(1525年 -1583年)
ポルトガルの宣教師,医師

撮影日:2008年3月22日
分 類:ポルトガル人医師
作 者:古賀忠雄
評 価:☆☆☆

貿易商として天文21年平戸にくる。
イエズス会に入会,ザビエルの後継者トルレスについて布教に従事。
豊後(大分県)の大友宗麟の保護のもと,育児院,病院などを建設,みずからも診療にあたった。
天正11年10月天草で死去。58歳。
リスボン出身。

「生涯」
アルメイダは、1525年ごろリスボンで、「新キリスト教徒」(レコンキスタ後、ユダヤ人あるいはムスリムからキリスト教に改宗した人々)の家庭に生まれた。
1546年ポルトガル王から与えられる医師免許を取得したあとで、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年貿易目的で初来日。
日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。
山口でアルメイダはイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。
彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。
アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた。
これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。
さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、
1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。
これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。
また、大分において「ミゼリコルディア」(ラテン語で「憐れみ」の意)といわれたキリスト教徒の互助組織を発足させた。
日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1566年には五島の領主宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた。
1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階された。
再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、
1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。
享年59。
冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。

[銅 像]
西洋医術発祥記念像
1557年に日本で初めての西洋式の病院が府内に開かれ、西洋式外科手術が行われたことを記念する像。
病院を開いたポルトガル人医師ルイス・デ・アルメイダが日本人助手とともに外科手術を始めようとする様子を表している。
彫刻家古賀忠雄による作品。

[感  想]
ポルトガル人医師ルイス・デ・アルメイダが、外科手術をしようとしている像です。
場面をとらえためずらしい像です。
大分市にアルメイダ病院という病院がありますが、この名称は彼にちなんでいるそうです。





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