ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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近藤 勇
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近藤 勇 像
(京都府 京都市 中京区 壬生寺)

近藤 勇(こんどう いさみ)
(1834年‐1868年)
新選組局長

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和46年
分 類:新撰組局長
評 価:☆☆☆

近藤 勇
近藤 勇
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

幕末の武士。
天保5年10月5日生まれ。
近藤周助に天然理心流の剣をまなび、養子となる。
文久3年幕府浪士隊にくわわり京都へゆく。
のち芹沢鴨らと新選組を結成、副長のち局長として尊攘(そんじょう)運動をとりしまる。
鳥羽・伏見の戦いののち、甲府入城に失敗、下総(しもうさ)流山(千葉県)で新政府軍に捕らえられ、慶応4年4月25日処刑された。35歳。
武蔵多摩郡出身。
【格言など】下拙刀(げせつとう)は、虎徹ゆえにや、無事にござ候
(池田屋襲撃後に養父にあてた手紙)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

壬生寺
江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。
その縁で壬生寺境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋

[感 想]
壬生寺境内東方にある池の中の島におられます。
目のつった厳しい顔が印象的です。

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桂 小五郎
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桂 小五郎 像
(京都府 京都市 中京区 京都ホテルオークラ前)

木戸 孝允(きど たかよし)
(1833年 - 1877年(明治10年))
幕末藩士、政治家

撮影日:2008年6月14日
建設年:平成7年
分 類:幕末志士
作 者:江里 敏明
評 価:☆☆☆☆

木戸孝允2

1木戸孝允
「近代日本人の肖像ホームページ」から

萩藩医和田昌景の次男。
桂孝古の養子。
嘉永2年吉田松陰の松下村塾にはいる。
のち江戸に遊学する。
小五郎と称し、新堀松輔の変名もつかった。
慶応元年木戸と改姓。
西郷隆盛と薩長同盟をむすび、倒幕をはかる。
明治新政府の中枢にあって、「五箇条の誓文」の起草、版籍奉還、廃藩置県を主導した。
明治3年参議となり、4年岩倉遣外使節団の全権副使。
内政重視の立場から征韓論に反対、台湾出兵にも反対して、独裁をつよめる大久保利通と対立、政権の主流からはなれた。
西南戦争のさなかの明治10年5月26日病死。45歳。
【格言など】西郷、もうたいていにせんか(末期の言葉)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。
江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
長州藩邸跡地である京都ホテルオークラの玄関前に座っています。
剣豪桂小五郎といわれただけあって、刀を右手に座っている姿は、とてもかっこいいです。
これで、維新の三傑銅像は揃いました!

中岡 慎太郎
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中岡 慎太郎 像
(京都府 京都市 東山区 円山公園)

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)
(1838年‐1867年)
幕末志士、陸援隊隊長

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和37年
分 類:幕末志士
評 価:☆☆☆☆

幕末の尊攘運動家。
天保9年4月13日土佐(高知県)安芸郡柏木村の庄屋の家に生まれる。
文久元年土佐勤王党にくわわる。
3年脱藩し、坂本竜馬らと薩長同盟を成立させた。
慶応3年陸援隊を組織。
同年11月15日京都で竜馬とともに幕府見廻組におそわれ、17日死去。30歳。
【格言など】天下の大事はひとえに岩倉公が負荷せられんことを願うのみ(最期の言葉)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[逸 話]
・生前に着用していた裃から身長は150センチ台であることが判っている。
・笑顔を浮かべた写真は当時としては珍しく、そのイメージ通り普段から気さくな笑顔を絶やさなかった。
中岡
・他藩との会合の後も即座に立ち去る事はせず「お互いに大変だなぁ」と肩を叩いて労った。その人徳は厚く、「中岡は信用に足る」という評判はさまざまな所で語られたという。

※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋
[感 想]
竜馬の横で片膝を立てています。
当初は、肩を組むポーズだったようですが、竜馬と身長の差があるので、このようなポーズになったという噂です。

中井 弘
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中井 弘 像
(京都府 京都市 東山区 円山公園)

中井 弘(なかい ひろし)
(1838年- 1894年)
幕末-明治時代の武士,政治家

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和42年
分 類:幕末志士、政治家
評 価:☆☆☆

中井弘
数多くの奇行談を残した中井弘
南日本新聞ホームページから

天保(てんぽう)9年11月生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
安政年間脱藩して土佐高知にゆく。
後藤象二郎の援助で慶応2年渡英。
維新後外国官判事,駐イギリス公使館一等書記生などをつとめ,のち滋賀県・京都府知事となる。
元老院議官,貴族院議員。
明治27年10月10日死去。57歳。
幼名は休之進。号は桜洲山人。別名に弘三。
著作に「漫遊記程」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎英国公使パークス襲撃事件では、パークス公使一行の護衛として襲撃犯の一人朱雀操を自身も頭部に傷つきながらもひるまず斬り殺し、パークスらを救った功績により後藤象二郎とともに英国ビクトリア女王から宝刀を贈られた。
◎井上馨の妻の武子は、中井の妻であったが、ゆえあって離別し、大隈重信にあずけられた。まもなく井上が武子をみそめ、大隈、伊藤博文らの世話で結婚することになった。
式の当夜に中井が大隈邸に顔を出したため、関係者がおおいにあわてたという。
◎奇行も多く、岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際、碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したりした。
また、宴席にて明治天皇の御前で文部官僚の西村茂樹をビール瓶で殴打した事もあった。
◎鹿鳴館の名付け親でもある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


中井の数々の奇行談のなかで、抱腹絶倒したのは大久保利通との逸話(浜谷由太郎「桜洲山人の追憶」)。
精養軒が東京・築地にあったころというから、明治9年前後、中井が工部省の役人だったころだろうか。
精養軒で政治家や官僚たちの午餐会が開かれることになった。中井が同輩たちに呼びかけた。
「諸君は大久保卿を非常に偉い人物だと思っているようだが、我が輩からみれば、大久保のごときは我が輩の馭者のようなものだ。
どうだ、ひとつ論より証拠、大久保に馭者をさせて我が輩が今日の会場に連れてこよう」
大久保はときの内務卿。押しも押されもせぬ明治政府の大黒柱である。同輩たちはまた中井がホラを吹いたと相手にしなかったが、中井が「諸君がそんなに疑うなら、賭けをしようではないか」と呼びかけたため、たちまち賭けが成立。
30人が一人5円ずつ、150円集まった。中井が大久保を迎えに行く。
「閣下、今日は私が英国仕込みの馭者ぶりをおめにかけましょう」
大久保は一度は断ったが、中井の熱心さに負けて馬車に乗り込んだ。
中井は馭者台に立ち、馬に鞭(むち)をくれて馬車を駆った。
ところが、精養軒の手前まで来ると、中井は急に馬車を止めて、苦しそうに呻(うめ)いた。
「痛た、痛た……」
中井が腹を押さえて苦しがっているのを見た大久保は驚き、「もうすぐだから、しっかりせよ」と声をかけたが、中井の苦しみは募るばかり。
「よし、中井。無理をするな。こちらへ乗れ、もうすぐだから、俺が馭してやるから」
見るに見かねた大久保の申し出に、中井は内心してやったりと後ろの座席に移った。
大久保がにわかの馭者となって精養軒に駆けつけた。
その2階から同輩たちが中井と大久保の来着を今か今かと待ち受けていたが、なんと、大久保が馭者台におり、中井は後ろの座席で悠然と葉巻を吹かしているではないか。
あっけにとられる同輩たちに中井は「さあ、5円、5円」と賭け金をすべてせしめてしまった。
中井の痛快ぶりはかくのごとしだった。
(歴史作家・桐野作人)
南日本新聞「さつま人国誌」09/12/21 掲載から抜粋

[感 想]
円山公園で偶然発見。
優しそうな顔の上半身の像です。
中井 弘という人物も知りませんでしたが、調べてみると銅像のイメージとは違い、なかなか豪快な人みたいです。

出雲の阿国
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出雲の阿国 像
(京都府 京都市 四条大橋)

出雲 阿国(いずもの おくに)
(1572年-没年不詳)
歌舞伎の創始者とされる安土桃山時代の女性芸能者。
撮影日:2008年6月14日
建設年:平成6年
分 類:歌舞伎役者
作 者:山崎 正義
評 価:☆☆☆

歌舞伎の創始者とされる女性。
出雲大社の巫女(みこ)を称したが、出自には諸説がある。
芸能団を組織して諸国をめぐる。
慶長8年(1603)から女性が男装して簡単な筋にそってうたいおどるかぶき踊り(阿国歌舞伎)を演じる。
京都北野神社、四条河原などで興行して人気を得、女歌舞伎発展のもととなった。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
京都四条大橋のたもとにおられます。
歌舞伎を演じているしなやかな姿が印象的です。

豊臣 秀吉
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豊臣 秀吉 像
(京都府 京都市 東山区 高台寺)

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
(1537年-1598年)
織豊時代の武将

撮影日:2008年6月14日
分 類:武将
評 価:☆☆☆

天文6年生まれ。
尾張(愛知県)の足軽木下弥右衛門の子。
母はなか(天瑞院)。
織田信長に足軽としてつかえ,浅井・朝倉両氏との戦いで功をたて,天正元年近江長浜城主となる。
本能寺の変後,明智光秀,柴田勝家をやぶり,11年大坂城を築城。
徳川家康を臣従させて18年(1590)全国を統一。
この間関白・太政大臣となり豊臣姓を名のる。19年太閤。
文禄元年と慶長2年の2度朝鮮に出兵するが失敗。
太閤検地,刀狩りなどの新政策で兵農分離を促進し,近世封建社会の基礎を確立した。
慶長3年8月18日死去。62歳。
幼名は日吉丸,のち木下藤吉郎,羽柴秀吉。
【格言など】露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

秀吉
豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵 重文)

[エピソード]
◎容姿
・秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書『まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白』などを見るに付てもの中で「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するという説もある。
・毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。
・秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告している(『懲録』)。
・信長は「猿」と呼んでいないとの主張もある。「禿げ鼠」の呼び名も、信長のねねへの書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが1つ現存しているのみで、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。
・秀吉は指が1本多い多指症だったとルイス・フロイスの記録や前田利家の回想録『国祖遺言』に記されている。後者によれば右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時は(現在もそうだが)、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるものの、いまだにこのことに触れない秀吉の伝記は多い。
・身長は小柄であったが詳しい数字は不明。150cm下から160cm余まで諸説ある。
・髭が薄かったため、付け髭をしていた。当時の戦国武将が髭を蓄えるのは習慣であり、髭の薄いものが付け髭をするのは普通のことであった。
◎九州征伐において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を渡している。同様に小田原の役でも遅参した伊達政宗に佩刀を渡し石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも秀吉のあまりの度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかった。
◎小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。
◎賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別無く被せて回った。『賤ヶ岳合戦記』は「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」と伝えている。
◎賤ヶ岳の戦いの後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。
ただし、徳川家康や伊達政宗を筆頭に豊臣政権に牙をむいた者はおり、少なくとも全員の心を掴んでいたわけではない。
◎秀吉に直接会ったこともあるルイス・フロイスは「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった」と記している。
◎人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加したと伝えられている。武将たちも喜んで通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。
◎今で言う美食家であり、食事には贅沢をした。ただ、後年家来に対し、「位が高くなっていろいろ贅沢なものを食べたが、貧しい時代腹が減ったときに食べた、麦飯ほど美味いものはなかった」と語っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
高台寺は、豊臣秀吉を弔う為、正室北政所ねねが創建した寺院です。
建物の畳の上におられます。
杖を左手に床机に腰をおろした姿は堂々としています。
高台寺の庭がきれいでした。
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和気 清麻呂 2
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和気 清麻呂 像 2
(京都府 京都市 上京区 護王神社内)

撮影日:2008年6月14日
建設年:平成10年
分 類:高級官僚
作 者:松本 繁来
評 価:☆☆☆

[感  想]
和気清麻呂像は、東京に続き2つめ。
京都護王神社におられます。
1の巨大な像に比べると、等身大の像ですが、きりりとした表情で立っておられます。
和気清麻呂の守護神とされている猪が多くいました。

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和気 清麻呂 1
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和気 清麻呂 像 1 
(東京都 千代田 気象庁前)

和気 清麻呂(わけのきよまろ)
(733年- 799年)
奈良-平安時代前期の公卿

撮影日:2007年6月4日
分 類:公卿
作 者:佐藤朝山
評 価:☆☆☆☆

天平5年生まれ。
和気乎麻呂の子。姉に和気広虫。
神護景雲3年道鏡が皇位をのぞんだとき,宇佐八幡宮の神託をうけてこれを阻止した。
そのため名を別部穢麻呂とかえられ,大隅(鹿児島県)に流された。
光仁天皇の即位で召還され,のち桓武天皇にもつかえた。
造宮大夫として平安遷都につくす。
従三位,民部卿。
延暦18年2月21日死去。67歳。
備前(岡山県)藤野郡出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎和気清麻呂と猪
1899(明治32)年に発行された日本銀行券甲十円券の裏面には「猪」が描かれており、甲十円券は通称「いのしし札」と呼ばれています。
また甲十円券の前、1888(明治23)年に発行された日本銀行券改造十円券の表の肖像は和気清麻呂で、その周りに8匹の小さないのししが描かれいることから通称「表いのしし」と呼ばれています。

甲十円券(通称:いのしし札)
1899(明治32)年発行
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表面 肖像:和気清麻呂  
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裏面 中央に猪の図柄

改造十円券(通称:表いのしし)
1888(明治23)年発行
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表面 周囲に8匹の猪の図柄
肖像:和気清麻呂
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裏面

◎和気清麻呂(733~799年)は、称徳天皇の皇位を護り、平安遷都に功績があり、「忠義の英雄」として戦前の国定教科書に掲載されていました。
清麻呂は称徳天皇に重用されていましたが、当時、天皇に寵愛されていた道鏡がまさに飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていました。
そして、ある時、道鏡一派の九州太宰府の神職が、宇佐八幡の神託として、「道鏡が皇位につけば、天下太平となろう」と伝えてきたのです。
そこで、称徳天皇は清麻呂を宇佐八幡に出張させて神託を確認させたところ、
「わが国では昔から君子と臣下は決まっている。臣下を君子とすることはない。」と、先の神託とは全く逆の内容を告げられたのでした。
このため清麻呂は道鏡の怒りを買い、大隅国(現在の鹿児島県)へ流されることになりました。
清麻呂は大隅国へ行く途中で、皇位の安泰を祈願するため宇佐詣でをしようとしたところ、道鏡の手先に暗殺されそうになりました。
その時、約300頭の猪が突然現われて、清麻呂の御輿の前後を護衛しながら宇佐八幡までの道を無事に案内したということです。
なお、清麻呂をまつる京都の護王神社では、この話を基に「猪は清麻呂の守護神」として、拝殿の前に狛犬の代わりに雌雄2頭の猪を安置しています。
「ホームページ 日本銀行金融研究所 貨幣博物館」から

[銅 像]
現在でも忠臣とされ、東京都千代田区大手町の気象庁付近や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。
この銅像は、佐藤朝山の作で昭和15(1940)年に紀元2600年を記念し建立されたものです。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
とにかく、この像は、でかくて圧倒されます!
猪の話は、おもしろいですね。
和気神社の「狛猪」も、ぜひ本物を見てみたいです。

村野 山人
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村野 山人 像
(京都府 京都市 伏見区桃山町 乃木神社)

村野 山人(むらの さんじん)
(1848年1921年(大正10年))
明治-大正時代の実業家。

撮影日:2008年6月14日
建設年:大正14年
分 類:実業家
作者 :大塚 樂堂
評 価:☆☆☆

村野 山人
村野 山人
「神戸村野工業高等学校ホームページ」から

薩摩鹿児島藩士村野伝之丞の3男。
兵庫県警部、神戸区長をつとめたのち鉄道事業をはじめ、山陽鉄道、豊州鉄道、神戸電気鉄道などを経営。
明治20年神戸商法会議所会頭、25年衆議院議員(当選2回)。
大正10年1月13日死去。74歳。遺志により村野徒弟学校(現神戸村野工)が設立された。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

乃木神社
京都市伏見区の伏見桃山陵(明治天皇陵)の麓にある神社で、乃木希典を祀る。
大正5年(1916年)9月に創建された。
村野山人は、明治天皇の大葬の際、京阪電車の会社代表として参列。
その場において乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。
そして、乃木希典の1周忌に会社の職を辞し私財を投じて、乃木将軍の人となり・日本人の心を後世に伝えることに尽くそうと考えた。
それが明治天皇の陵の麓に神社を立てることであり、精神の高揚を図ることであった。ここに京都の乃木神社の由縁がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋

[感 想]
銅像を見たとき、その恰好から神主さんかと思いましたが、乃木神社の創建者ということで、建てられているようです。
髭とやさしそうな顔が印象的です。





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