ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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勝 海舟 1
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勝 海舟 像 1
(東京都 墨田区 墨田区役所うるおい広場)

勝 海舟(かつ かいしゅう)
(1823年‐1899年)
幕末-明治時代の武士

撮影日:2009年9月28日
建設年:平成15年
分 類:武士
評 価:☆☆☆☆

勝海舟
「近代日本人の肖像ホームページ」から

勝海舟
「1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

文政6年1月30日生まれ。
勝惟寅の長男。幕臣。
嘉永3年江戸に蘭学塾をひらく。
長崎の海軍伝習所で航海術を習得。
安政7年遣米使節の随行艦咸臨丸の艦長として太平洋を横断。
帰国後,軍艦奉行にすすみ,神戸海軍操練所をひらき坂本竜馬らを育成した。
慶応4年陸軍総裁となり,西郷隆盛と会見し,江戸無血開城を実現。
明治6年海軍卿兼参議となるが8年免官。
下野ののちは徳川家の後見と旧幕臣の生活救済につとめるとともに,旧幕府史料を編修し「開国起原」「吹塵録」などをあらわした。
21年枢密顧問官。伯爵。明治32年1月19日死去。77歳。
江戸出身。通称は麟太郎。
【格言など】事を遂げるものは愚直でなければならぬ,才走ってはいかぬ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
若いころの勝の志が表わされています。
遠くを指さす姿がよいです。

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榎本 武揚
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榎本 武揚 像
(東京都 墨田区堤通 梅若公園)

榎本武揚(えのもと たけあき)
(1836年‐1908年)
幕末-明治時代の武士,政治家。

撮影日:2009年9月28日
建設年:昭和41年
分 類:武士、政治家
評 価:☆☆☆

榎本武揚1

榎本武揚2
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保7年8月25日生まれ。
榎本左太夫の次男。幕臣。
長崎の海軍伝習所にまなび,文久2年オランダに留学。
帰国後海軍副総裁。明治元年蝦夷地(北海道)箱館に独立政権をたてるが翌年降伏。
5年特赦。8年特命全権公使としてロシアと樺太千島交換条約を締結。
のち逓信,文部,外務,農商務の各大臣を歴任した。
明治41年10月26日死去。73歳。江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
住宅街の中のちょっと分かりにくい所にありますが、なんとか探し当てました。
髭と頭髪が特徴的で、軍服がよく似合っています。

市川団十郎(九代目)
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市川団十郎(九代目)
(東京都 台東区浅草 浅草寺)

市川団十郎(9代)(いちかわ だんじゅうろう)
(1838年‐1903年)
幕末-明治時代の歌舞伎役者。

撮影日:2009年9月28日
建設年:昭和61年
分 類:歌舞伎役者
評 価:☆☆☆☆

市川団十郎2
市川團十郎 (9代目)
『暫』の鎌倉権五郎

天保9年10月13日生まれ。
7代市川団十郎の5男。
6代河原崎権之助の養子となるが,明治7年実家にもどり9代を襲名。
明治期を代表する役者で「劇聖」とよばれる。
演劇改良運動にとりくみ,活歴物という史劇を創始。
新歌舞伎十八番を制定した。
明治36年9月13日死去。66歳。江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎九代目市川團十郎「暫」の像
本堂裏の駐車場隣。
当初、大正8年(1919年)に造立されたもので、彫刻家新海竹太郎の作であったが、第二次世界大戦時の金属供出で失われ、昭和61年(1986年)、十二代目市川團十郎の襲名を期に再建されたものである。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
浅草浅草寺におられます。
刀を手にポーズを決めた姿は、大迫力の像です。

瓜生 岩子
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瓜生 岩子 像
(東京都 台東区浅草 浅草寺)

瓜生 岩子(うりお いわこ)
(1829年 – 1897年)
明治前期の女性慈善事業家

撮影日:2009年9月28日
建設年:昭和30年
分 類: 女性慈善事業家
評 価:☆☆☆

瓜生 岩子
瓜生 岩子
「喜多方市ホームページ」から

陸奥国耶麻郡熱塩村(福島県熱塩加納村)生まれ。
父渡辺利左衛門,母りえ。瓜生は母の姓。
幕末から明治維新にかけて,この地方に行われていた堕胎圧殺,捨て子防止に関心を持った。
維新直後幼学校を開き,妊婦の救済に努め,戊辰戦争戦死者の施餓鬼を行った。
明治24(1891)年渋沢栄一院長を助けて東京市養育院幼童世話係長となり,児童処遇の革新に当たったが,間もなく郷里福島に帰り,産婆看護婦養成所,福島育児院などを設立した。
「朝日日本歴史人物事典」から

◎瓜生岩子像 - 「新奥山」にある。
瓜生岩子は、生涯を弱者、貧困者の救済、社会事業に捧げ、日本のナイチンゲールと称される人物である。
銅像は明治34年(1901年)に造立されたが、第二次大戦時の金属供出で失われ、昭和30年(1955年)に再建されたもの。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
日本のナイチンゲールと称される人物だそうで、はじめて知りました。
かわいいおばあちゃんといった感じです。

大谷米太郎 夫妻
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大谷米太郎 夫妻 像
(東京都 台東区浅草 浅草寺)

大谷米太郎(おおたに よねたろう)
(1881年‐1968年)
大正-昭和時代の実業家

撮影日:2009年9月28日
建設年:昭和42年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

大谷米太郎
大谷米太郎
「小矢部市ホームページ」から

明治14年7月24日生まれ。
力士などをへて,大正8年東京ロール製作所をつくる。
昭和15年大谷重工業を創立,戦後急成長させたが,43年業績不振で八幡製鉄(現新日鉄)に経営権をゆずる。
39年東京五輪のときにホテルニューオータニを開業。
昭和43年5月19日死去。86歳。富山県出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

○太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。戦後の一時期は菊池寛実、南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。
○蔵前国技館の建設にあたっては、米太郎が勧進元となり完成にこぎつけた。また浅草寺寶蔵門も、1964年に米太郎の寄進によって再建されたものである。
○浮世絵のコレクターでも知られ、彼のコレクションはニューオータニ美術館で見ることができる。

「大谷米太郎夫妻像 - 本堂裏」
宝蔵門を再建寄進した大谷米太郎夫妻の胸像。
昭和42年(1967年)の造立。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
ホテルニューオータニで有名な大谷氏夫妻の銅像です。
元力士というのも驚きですが、優しい顔です。

木村 安兵衛 夫妻
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木村 安兵衛夫妻 像
(台東区 東浅草 東禅寺)

木村安兵衛(きむら やすべえ)
(1817年‐1889年)
明治時代の実業家

撮影日:2009年9月28日
建設年:昭和34年
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

木村安兵衛
木村安兵衛
「茨城県ホームページ」から

文化14年6月20日生まれ。
下総相馬郡川原代村(茨城県)のもと郷士。
明治2年子の英三郎とともに東京芝に文英堂をひらき,パンの製造・販売にのりだす。
屋号を木村屋にかえ,7年銀座4丁目に進出し,酒種酵母をつかったあんパンを創製,東京名物として評判となった。
明治22年7月26日死去。73歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

あんパン献上
 明治8年、「木村屋」の『あんパン』は、安平衛の知り合いで、明治天皇の侍従であった山岡鉄舟の心をつかみました。鉄舟が安平衛に「陛下に召し上がっていただこう」と申し出たのです。その日から木村安兵衛・英三郎親子は陛下のために、特別な『あんパン』を召し上がっていただくため、試行錯誤を重ねたのです。
 明治8年4月4日、ついにその日がやってきました。明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷を訪問します。その際にお茶菓子として『あんパン』が献上される段取りになっていました。はじめて『あんパン』を口にした明治天皇はお気に召し、ことのほか皇后陛下(照憲皇太后)のお口にあった。そして「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉があったのだ。このあんパンは、パンの中心に桜の塩漬けが乗ったあんパンでした。このパンは今も『桜あんパン』として売られ木村屋で一番の人気になっているとのことです。
出典・参考資料 「木村屋総本店百二十年史」

[感  想]
東浅草 東禅寺の境内に夫婦揃って静かに座っておられます。
髭が印象的です。

乃木 希典 4
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乃木 希典 像 4
(東京都 港区 赤坂8丁目 旧乃木邸)

撮影日:2009年9月27日
建設年:昭和43年
分 類:軍人
作 者:鈴木達
評 価:☆☆☆

◆嘉永2年(1849)、長州支藩である長府藩藩士の子として現在の六本木にあった藩邸内で誕生。
長じて長府藩報国隊に入隊(後に長州藩奇兵隊へと編入)し、以後軍人としての人生を歩みつづけました。
西南戦争では歩兵連隊長心得として部隊を率いるものの、撤退の渦中で連隊旗を奪われるという失態を演じます。
これを恥じた乃木希典は、自ら死を求めるがごとき戦いぶりを見せ、自決さえしようとします。
これがかえって「武人の潔さ」として評価されますが、乃木自身は失態の清算を忘れることはなく、大正元年(1912)、崩御した明治天皇に殉死する形で自らを処することになります。
日清戦争では歩兵第十一旅団長として旅順要塞攻略戦に参加(1日で陥落)。
しかし第三軍司令官として臨んだ日露戦争では、大小の銃火器、砲台とコンクリートで強化され近代化された旅順要塞を攻め倦み、最終的には陥落させたもののあまりに大きい損失を出してしまいます。
指揮ぶりには賛否両論がありますが、攻防戦渦中に起こった「指揮官交代」の論に対し、明治天皇は絶対の信頼を示したといわれており、少なくとも当時最も信頼された陸軍指揮官の一人でした。
銅像は、赤坂の乃木邸(乃木神社内)にあります。これは陸軍少将時代の明治28年、金沢を訪れた乃木が、出会った辻占売りの少年が一家の生計を支えていることを知って当時大金だった二円を渡し、これに感激した少年が努力の末に金箔職人として大成したというエピソードを描いたもの。
彫刻家鈴木達の製作で、昭和43年に長府藩邸跡のニッカ池(六本木ヒルズの建築と周辺地域の整備に伴い、現在は毛利庭園内の池の下にある)に建立され、後に現在の場所に移築されました。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
東京都赤坂の旧乃木邸におられます。
乃木将軍の少年を励ます姿が、よく表現されています。

乃木 希典 3
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乃木 希典 像 3
(京都府 京都市 伏見区桃山町 乃木神社)

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和56年
分 類:軍人
作 者:小倉右一郎
評 価:☆☆☆

「学習院院長就任」
明治天皇による勅命
1907年(明治40年)1月31日、乃木は学習院院長を兼任することとなったが、これには明治天皇が大きく関与した。
山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を明治天皇に内奏した。
しかし、明治天皇はこの人事案に許可を与えず、自身の孫(後の昭和天皇ら)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院院長に指名した。
明治天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠んだ
「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」
また、明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
京都市伏見の乃木神社におられます。
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「学習院長時代の乃木将軍」を表しています。
帽子を被って無い、上半身の小ぶりな像です。

乃木 希典 2
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乃木 希典 像 2
(夫婦像)
(山口県 下関市 長府 乃木神社)

撮影日:2007年9月6日
建設年:昭和37年
分 類:軍人
作 者:竹内 不忘
評 価:☆☆☆

乃木 静子(のぎ しずこ)
(1859年-1912年)
明治時代,乃木希典の妻

安政6年11月27日生まれ。
薩摩鹿児島藩医の娘。
明治11年結婚。
明治天皇大葬の日の大正元年9月13日,夫とともに殉死した。
54歳。旧姓は湯地。旧名はお七。
【格言など】出でましてかへります日のなしと聞くけふの御幸(みゆき)に逢ふぞかなしき(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

乃木 希典夫婦
自決当日の乃木夫妻
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[銅 像]
夫婦銅像は、昭和37年(1962年)、乃木神社30周年祭を記念して建立されました。
題字は、内閣総理大臣 岸信介 書。
横の馬は、乃木将軍が乗った名馬「壽号」で、乃木神社創設85年を記念して建立されました。

[感 想]
下関市長府の乃木神社の奥におられます。
軍服姿の乃木将軍と着物姿でおだやかな表情の奥さんの姿がいいです。
初めての夫婦銅像です。

乃木 希典 1
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乃木 希典 像 1
(山口県 下関市 長府 覚苑寺)

乃木 希典(のぎ まれすけ)
(1849年-1912年)
明治時代の軍人

乃木
「近代日本人の肖像ホームページ」から

乃木 希典
乃木 希典
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

撮影日:2007年9月6日
建設年:昭和33年
分 類:軍人
作 者:長谷川栄作
評 価:☆☆☆

嘉永2年11月11日生まれ。
長門(山口県)府中藩士の子。
明治4年陸軍少佐となり,西南戦争に従軍。
歩兵第一旅団長,台湾総督などをへて,日露戦争では第三軍司令官として旅順攻撃を指揮。
37年陸軍大将,40年学習院院長。
明治天皇大葬の日の大正元年9月13日,妻の静子とともに殉死した。64歳。
号は静堂,石林子など。
【格言など】うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「概 観」
乃木は、日露戦争において旅順要塞を攻略したことから、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
しかし、旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、明治天皇が崩御した際に殉死したことなど、その功績及び行為に対する評価は様々である。
例えば、司馬遼太郎は、著書『坂の上の雲』『殉死』において、福岡徹は著書『軍神 乃木希典の生涯』において乃木を愚将と評価した。
他方で、司馬遼太郎らに対する反論や、乃木は名将であったとする主張など乃木を擁護する意見もある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
この銅像は2代目で、初めの銅像は、昭和14年竣工。
昭和18年戦局の苛烈に伴い供出され、
昭和33年に再建された。 

[感 想]
下関市長府の乃木神社におられます。
大きく迫力があり、秋は、紅葉が栄えてきれいだと思います。

高橋 是清
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高橋 是清 像
(東京都 港区 赤坂7丁目 高橋是清記念公園)

高橋 是清(たかはし これきよ)
(1854年‐1936年)
明治-昭和時代前期の政治家
第20代内閣総理大臣

撮影日:2009年9月27日
建設年:昭和30年
分 類:政治家
作 者:齋藤素巌
評 価:☆☆☆

高橋是清
「近代日本人の肖像ホームページ」から

嘉永7年閏7月27日生まれ。
明治44年日銀総裁。
大正10年暗殺された原敬のあと首相・政友会総裁となる。
13年衆議院議員。
昭和2年の金融恐慌では蔵相として支払猶予令を施行,6年金輸出再禁止を実施。
11年2月26日二・二六事件で暗殺された。
83歳。江戸出身。
著作に「経済論」「高橋是清自伝」など。
【格言など】景気がよくなれば,公債は漸減する
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆建立:1940年(初代)・1955年(2代目)
明治から昭和初期にかけて活躍した政治家です。
嘉永7年(1854)、徳川幕府の御用絵師の子として生まれ、間もなく仙台藩の高橋家へと養子に出されます。
成長して後、アメリカ人ヘボンの私塾(後の明治学院大学)で学んだことから渡米留学の志を持ち、勝小鹿(勝海舟の子)とともに旅立ちますが、騙されて奴隷生活を余儀なくされ、明治元年(1868)にようやく帰国しました。
しかし、留学で得た知己から文部省に入省。
それを皮切りに官僚として活躍し、やがて日銀総裁に就任。
日露戦争にあたっては戦費となる戦時外債の募集にも尽力します。
明治38年に貴族院議員に当選したのをきっかけに政治の道に進み、大蔵大臣として昭和金融、世界恐慌といった難局に手腕を示して乗り切りました。
柔和な表情と恰幅のいいその姿から「だるまさん」と呼ばれて庶民から愛されましたが、岡田内閣で6度目の蔵相を務めていた昭和11年(1936)、折からのインフレ回復のために行おうとした軍事予算縮小の方針が軍部若手将校の恨みを買います。
そして2・26事件で襲撃を受けた高橋是清は、銃撃された後、さらに斬りつけられて絶命。享年82歳でした。
銅像は、港区赤坂にある旧高橋是清邸の敷地に造営された高橋是清翁記念公園内にあります(旧邸の一部は小金井市の江戸東京たてもの園に移築)。
晩年の姿を描いた座像で、昭和15年に彫刻家齋藤素巌の製作で建立。
しかしこの初代は戦時中に金属供出で失われ、昭和30年に同じ作者の習作を元に再建されました。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎高橋はそのふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」、「達磨さん」と呼ばれて親しまれた。
◎旧高橋邸の跡は高橋是清翁記念公園(東京都港区赤坂七丁目)となり、建物の一部は江戸東京たてもの園(東京都小金井市)に移築されて一般公開されている。
◎酒好きで有名。国会本会議場の席でも堂々と茶碗酒をすすっていたが、誰も咎める者はなかった。
◎高橋是清は歴代日銀総裁のなかで唯一その肖像が日本銀行券に使用された人物。1951年から58年にかけて発行された五十円券がそれである。
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日本銀行券B50円券
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
公園の中に静かに佇んでおられます。
柔和な顔がいい像です。





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