ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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井上 馨 2
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井上 馨 像 2
(静岡県 清水区 清水清見潟公園)

撮影日:2010年3月24日
分 類:幕末志士
評 価:☆☆☆

井上馨と長者荘
<長者荘での生活>
 明治22年、皇太子(後の大正天皇)が避暑のため清見寺に滞在し海水浴を楽しみました。
その後、後藤象二郎・伊藤博文・井上馨(長者荘)・松方正義・西園寺公望(坐漁荘)など多くの政治家が別荘を建てたり宿泊するなど、興津は別荘地・避暑地として大変賑わいました。
晩年の井上馨も明治29年(1896)に5万坪ともいわれる広大な敷地に別荘「長者荘」を建て生活していました。
東京と清水との二重生活でしたが、病気療養等で長期間長者荘にて生活しました。
大正4年(1915)に「長者荘」にて81年の生涯を閉じました。
静岡市ホームページから

[感  想]
晩年井上は、ここ清水の別荘で過ごしたそうです。
ゆったりと座った姿で、髭が特徴的です。

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井上 馨 1
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井上 馨 像 1
(山口市 高田公園)

井上 馨(いのうえ かおる)
(1836年- 1915年)
幕末-大正時代の武士,政治家

撮影日:2007年6月17日
分 類:長州藩士、政治家
評 価:☆☆☆

井上馨
井上 馨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天保6年11月28日生まれ。
長門(山口県)萩藩士。
文久3年伊藤博文らとイギリスに渡航して攘夷から開国倒幕派に転じる。
新政府の大蔵大輔となるが,実業界にうつり先収会社(のちの三井物産)を設立。
明治12年外務卿,18年第1次伊藤内閣の外相となり,不平等条約改正のため鹿鳴館を中心に欧化政策をすすめるが,失敗。
のち農商務相,内相,蔵相などをへて元老。侯爵。
大正4年9月1日死去。81歳。
周防(山口県)出身。
一時,志道聞多を名のる。号は世外。
【格言など】政府をしっかりしたものにするには,皆掛りでやらねばならぬ,君もぜひ政府へ入れ(三井物産の益田孝に対して)

[人 物]
◎林学博士中村弥六によると
「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた」という。直情径行で曖昧を許さない。必要な場所に自身で出かけて行き、膝詰談判をした。意にそまぬ事があると一喝にあう。この一喝にあってそれっきり寄り付かぬ者、敵になった者もあるが元来親切から出ているので、一喝にあっても怯まず、自ら偽らず自信のある者は後に出世した者が多い。 叱咤と怒声から『雷』とあだ名されたが、渋沢栄一は井上の信頼を得て雷鳴に対する安全地帯であったから『避雷針』と異名を付けられていた。
◎明治維新から20年間について伊藤博文と井上馨の人物評を、大隈重信が次のように言っている。
「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった」
「井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。
伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。
井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。
井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。
井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事に中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」
◎仕事上で特に深く交際した人は、渋沢栄一、益田孝等はじめ多数。長寿であった為、縁者である若者鮎川義介(実姉常子の孫)や鮎川義介の義弟久原房之助への指導もしている。
◎親友としては、吉富簡一(山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。
高杉晋作と伊藤博文については特に仕事を離れても親しく交際していた事は言うまでもない。
◎仕事外での交際としては、歌舞伎役者の市川團十郎(芝金杉で河原座を営業し失敗、借財の整理に協力した)、落語家の三遊亭圓朝、清元のお葉、義太夫の竹本越後太夫らが挙げられる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
湯田温泉の高田公園に建っています。ここの出身者です。
シルクハットを置いている姿が、印象的です。
大隈重信による「伊藤博文」と「井上馨」の人物評比較は、なかなかおもしろいです。


徳川 家康 4
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徳川 家康 像 4
(静岡県 静岡市葵区 駿府城)

撮影日:2010年3月23日
分 類:大名
作 者:堤 達男
評 価:☆☆☆☆

高さ6.5m(銅像3.5m)

[感  想]
駿府城本丸跡
家康が好んだ鷹狩りの姿で、左手に載せた鷹と鋭い視線が印象的な堂々とした像です。

徳川 家康 3
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徳川 家康 像 3

撮影日:2010年3月23日
建設年:平成21年
分 類:大名
作 者:堤 直美
評 価:☆☆☆

[感  想]
こちらは、大きな堂々とした像で駅の方をしっかりと見つめられています。

徳川 家康 2(竹千代)
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徳川 家康 像 2(竹千代)

撮影日:2010年3月23日
建設年:平成21年
分 類:大名
作 者:堤 直美
評 価:☆☆☆

「静岡駅前に家康、竹千代像完成」
「産経ニュース」2009.3.23
 徳川家康の駿府城入場400周年記念の「大御所400年祭」(平成19年度)事業として、JR静岡駅北口広場に家康公と幼年期の竹千代の銅像が完成。
家康像(高さ約3メートル)は国道1号の静岡中央郵便局近くに、竹千代像(同約1・4メートル)はバスターミナル脇に設置された。
制作した彫刻家の堤直美さん(58)=長泉町=は除幕式で
「静岡に来た人を出迎える存在。渋谷駅(東京都)のハチ公のようになればいい」とあいさつ。
「良い色になる」との説明に参加者は早速親しみを込めて触っていた。
「産経ニュース」より

[感  想]
静岡駅前のバスターミナルにおられます。
家康幼少期の竹千代像は、利口そうな感じがします。

徳川 家康 1
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徳川 家康 像 1
(東京都 墨田区 両国)

徳川 家康(とくがわ いえやす)
(1543年-1616年 )
戦国大名・江戸幕府の初代征夷大将軍

撮影日:2007年6月22日
建設年:平成6年
分 類:大名
作 者:山下恒雄
評 価:☆☆☆

徳川 家康
徳川家康像(大阪城天守閣蔵)

天文11年12月26日生まれ。
松平広忠の長男。
母は於大の方(伝通院)。
8歳で今川氏の人質となって駿府ですごし,永禄3年19歳のとき三河(愛知県)岡崎城にもどる。
4年織田信長と同盟をむすぶ。
7年三河一向一揆をおさめ,9年徳川に改姓。
本能寺の変ののち羽柴(豊臣)秀吉と和睦して秀吉の天下統一に協力。
天正18年江戸にうつる。
秀吉没後,関ケ原の戦いで天下を手中におさめ,慶長8年征夷大将軍となり,幕府を開設。
10年子の秀忠に将軍職をゆずるが,駿府に引退後も大御所として秀忠を後見した。
元和2年4月17日死去。75歳。
追贈正一位。幼名は竹千代。初名は元信,元康。法号は安国院。
諡号は東照大権現。
【格言など】人の一生は,重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず(遺訓)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎新しいもの好きの家康
実は、南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった家康。
裏がつるつるで滑りやすかった南蛮渡来のくつの裏に日本のわらじからヒントを得て滑り止めの溝を彫らせ滑りにくくしたという挿話もある。
◎武術の達人であった家康
剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。
剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ奥山神影流剣術の奥平久賀に師事、文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩(柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退)を召抱える、など、生涯かけて学んでいた。
ただし、家康は「大将は戦場で直接闘うものではない」と息子にいっていたといわれる。
水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露している。
馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流馬術を学んでいる。
また、力も強く、70歳の時に総長4尺7寸(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としている。
◎多趣味な家康
歴史小説等で鷹狩りと薬づくり以外無趣味とされることが多い家康であるが、実はそれ以外にもたくさん趣味があった。
猿楽(現在の名称は能)は、若い頃から世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、「風姿花伝」で学び故実にも通じていた。
なお、家康は武士的な気概や人情味のある猿楽が好きであったが家臣が茶の湯(現茶道)等に凝るのを好まなかった。
また、香(特に伽羅)を好み、海外まで使いを出している。
囲碁も本因坊算砂に師事、特に浅野長政とはよい碁敵だった。
◎家康の身長
家康の身長は推定156~160cmと言われている。また肥満傾向にあり、胴回りは120cmと推測されている。
◎一富士二鷹三茄子
初夢で見ると縁起がいいものとされる、富士山・鷹・茄子は家康の好きなものである。
晩年、駿府に隠居城を構えたのは富士山の眺めがいいから。
鷹は趣味が鷹狩りである事。
茄子は家康の無類の大好物で、天下を獲った男の愛する品と言うのが、一富士二鷹三茄子の由来である。
◎家臣と家康
多くの有能な家臣に恵まれた家康は率直な物言いをする者を好んで重用した。
時につかみ合いの喧嘩をし、罵りあった事もあると言う。
◎家康が尊敬していた人物
家康は、高祖、張良、韓信、太公望、文王、周公、源頼朝、足利尊氏などの人物を尊敬していたと伝えられている。
◎家康が好んだ書物
家康の愛読書は、論語、中庸、史記、漢書、六韜、三略、貞観政要延喜式、吾妻鑑などの書物だと伝えられている。
◎秀吉からの問い
「徳川の宝はなにか?」の問いに対し、「500騎の三河武士である」と返している。
◎武田軍に惨敗した三方ヶ原の戦いの後、家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる。
三方原戦役像
「三方原戦役像」三方原で武田軍に敗れた後に描かせた肖像画

「評 価」
江戸時代に家康は「神君家康公」と呼ばれ、彼を評価対象とした評論を公式に発表すれば処罰の対象となったため、必然的に明治時代以降の評価となっている。
◎奸君説
司馬遼太郎は家康について記した小説「覇王の家」あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」としているが、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」「大航海時代の潮流から日本をとざし(略)世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった」と功罪比べてみれば罪の方が大きいと批判的である。
そしてその功罪の原因は「徳川家という極端に自家保存の神経に過敏な性格から出て」いて、「かれ自身(家康)の個人的性格から出ているところが濃い」と家康に原因があるとしている。
このように司馬は家康について極めて批判的であり、また極端に嫌悪していたようで、そのため司馬の作品中、例えば『関ヶ原』や『城塞』などの中で、家康は「謀略に長けた狡猾な、そして何の面白みもない現実主義者」として描かれる事が多い。
なお司馬遼太郎の小説内での家康は、彼を陥れるかのごとく意図的に事実を曲解していることも多く、注意が必要であるが、司馬の家康観は司馬作品の人気の影響もあってか、今なお支持する人間は多い。
◎名君説
山岡荘八の小説、「徳川家康」では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。
この小説によって家康の再評価が始まり、それは現在も続いている。
そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。
◎凡君説
天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作りえなかったことから、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。
家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、家臣の使い方が多少優れ、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。
武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。
家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが、これは逆に家康が小心な人物だったのではないかとされている。
事実、短気で神経質な一面も持ち、家康は関ヶ原の序盤戦で東軍が不利だったとき、門奈長三郎という小姓の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。
さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。
古記録にも、「公(徳川家康)、おおいに気をいらだちたまい、左の御指の爪を食い切る。血しぶき噛みたもうように見えさせたもう」とある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
当館に徳川家康像が寄贈されたのは平成6年4月25日。
現在都内にある家康像は、この一体だけと言うことになります。
製作者は山下恒雄氏、像の高さは3.7メートル(台座からの高さ7.76メートル)、重量30トン。
台座の亀は水の都としての江戸を表現しているとも言われています(亀に見えるが「贔屓」ではないかとの説も。『世界大博物図鑑3』(4803/2/3 平凡社)よると「贔屓」は石碑の下にかたどられ「不動」の象徴とされることが多い幻獣)
「江戸東京博物館ホームページから」

[感  想]
実は、この家康像の写真を撮るのには苦労しました。
両国の江戸東京博物館に有るという情報で、広場を探したのですが、見つかりません。
博物館の中にも無く、係員に訪ねて、やっと博物館横の学校の前にあるのを発見しました。
でもその日は、土砂降りの雨で、写真はあまりきれいに撮れませんでした。
亀みたいな物に乗っている鷹狩りの姿の家康像は、大きく迫力があります。

ちなみに
江戸東京博物館の中には、「家康座像」がありました。
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「家康座像」慶長6年(1601)/造
複製 芝東照宮原蔵
還暦を迎える家康の長寿を願ってつくられた寿像。生前の家康の風貌を伝える資料として貴重。

笠井 信一 2
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笠井 信一 像 2
(静岡県 静岡市葵区 いこいの広場)


撮影日:2008年3月22日
分 類:政治家
評 価:☆☆☆
笠井 信一(かさい しんいち)
(1864年‐1929年)

明治-昭和時代前期の官僚,政治家。
元治元年6月19日生まれ。
内務省にはいり,岩手県知事をへて大正3年岡山県知事となる。
6年済世顧問制度を設立。
同制度は戦後の民生委員制度におおきな影響をあたえた。
のち北海道庁長官,貴族院議員。昭和4年7月25日死去。66歳。
駿河(静岡県)出身。帝国大学卒。著作に「済世顧問制度の精神」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から


[感  想]
笠井 信一の2つ目の像で、こちらは上半身です。
静岡県が出身地です。

笠井 信一 1
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笠井 信一 像
(岡山県 岡山市 丸の内)

笠井 信一(かさいしんいち)
(1864年-1929年)
明治-昭和時代前期の官僚,政治家

撮影日:2008年4月6日
建設年:昭和33年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

笠井 信一

元治元年6月19日生まれ。
内務省にはいり,岩手県知事をへて大正3年岡山県知事となる。
6年済世顧問制度を設立。
同制度は戦後の民生委員制度におおきな影響をあたえた。
のち北海道庁長官,貴族院議員。
昭和4年7月25日死去。66歳。
駿河(静岡県)出身。帝国大学卒。
著作に「済世顧問制度の精神」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」より

[感  想]
岡山城のすぐ下に立っておられます。
シルクハットを手に持ち、優しそうな顔が印象的な銅像です。
岡山城内は、桜が満開できれいでした!


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ベーブ・ルース
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ベーブ・ルース 像
(静岡県 静岡市 県営草薙球場)

ベーブ”ジョージ・ハーマン・ルース(George Herman “Babe” Ruth)
(1895年-1948年)
メジャーリーグのプロ野球選手。

撮影日:2010年3月23日
分 類:プロ野球選手
評 価:☆☆☆

ベーブ・ルース
ヤンキース時代
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

野球の神様と言われていて、アメリカ合衆国の国民的なヒーローでもある。
最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人で、ホームラン50本以上のシーズン記録を初めて立てた選手でもある。
1927年に記録したシーズン60ホームランの記録は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまで34年間、また生涯通算ホームラン714本は、1974年にハンク・アーロンに破られるまでの39年間、メジャーリーグの頂上であった。
ブラックソックス事件による球界への不信感を豪快な本塁打の連発により払拭し、さらに以前にも増す人気をもたらし、いくつものプロスポーツの一つに過ぎなくなっていたかもしれないベースボールを最大の人気スポーツにした事で“アメリカ球界最大の巨人の1人”と評されている。

「ベーブ・ルースの伝説」
◎ファンサービスにも熱心だったことでも知られている。ファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、その後見舞いに行ったことがあった。
◎またある病弱な少年の両親が医者に「何か彼が熱中できることがあれば、元気になれるかもしれない」と言われて、少年が好きだったルースに見舞ってもらおうと無理を承知で球団事務所に電話して頼んでみたら、本当にルースが来て少年を驚かせたこともあった(「約束のホームラン」というタイトルで、ルースの伝記にはほぼ全て取り上げられている)。
しかも少年とその日のホームランを打つ約束までしたのである。
結果は三打席凡退の後、ホームランを放っている。
この病弱な少年とルースが再会したのは、ルースの晩年、病気のために入院していた時で、かつての病弱な少年はたくましく成長し、海軍に入隊するまでになっていた。
なお、この少年は1990年代まで生存しており、亡くなった時は日本の新聞の死亡記事にも、本エピソードの少年として掲載された。
◎前述されているように、ルースは子供に優しかった。
ルース見たさにヤンキースタジアムに来るものの、入場料がなく外に立ち続ける子供たちに対し、係員に札束を渡して「あの子達に入場券を買ってやれ」といったという。
また友人とゴルフ場に行った際は、入り口付近でルースを見つめる子供2,3人に「君らも来いよ、今日はいいプレーができそうだぞ」と誘い、子供たちと談笑しながらラウンドを回り、休憩時にはお菓子とジュースを振る舞ったという。
◎また、ある時、試合が終わってルースが帰りのバスへ向かう途中、路上に停まっていた1台のオープンカーの座席に元気のない少年が座っているのを見て、何気なく、「坊や、こんにちは」と声をかけると、少年は目を輝かせてルースの名を叫びながら立ち上がった。
すると、周りの人々が驚いたように歓声をあげ、傍にいた親らしき人物は涙を流しながら、「立った、立った!」と叫んでいる。
その歓声を聞いてルースは何事かと思ったが、急いでいたのでそのままバスへ向かって去って行った。
あとで分かったことだが、その少年は小児麻痺のために足の機能が失われ、2年間も立つことができない状態であった。
それが、憧れのルースから声をかけられたので嬉しさのあまり夢中になって立ち上がったのだという。
この出来事は当時の新聞にも載り、「子供たちにとって、ベーブ・ルースという名前はどんな薬よりも良く効く薬のようである」と評された。

「日本球界とのかかわり」
1934年全米選抜チームの一員として来日している。
航空便もなかった時代、長い船旅を当初はしぶっていたが、鈴木惣太郎が彼の似顔絵をメインにしたポスターを見せて説得したところ、快諾した。
いざ来日すると、雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のショーマン・シップを発揮、日本に野球人気を根付かせるのに大いに一役を買った。
沢村栄治の名を今日まで伝説化することになった、「全米軍クリーンナップを4連続奪三振」の逸話では、最初に沢村から三振に斬り捨てられている。
尚この試合は秋口に行われ気温は高くなく、ヒットで出塁した沢村にセーターを着せにいくなどのスポーツマンシップを見せ、「さすが大リーガーはやることが違う」と観客を感心させた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
沢村選手と対戦するベーブ・ルースの像。
大きいたれ目が、優しそうな雰囲気を出しています。
記録も数々の伝説もすごい選手です。

沢村 栄治
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沢村 栄治 像
(静岡県 静岡市 県営草薙球場)

沢村栄治(さわむら えいじ)
(1917年‐1944年)
昭和時代前期のプロ野球選手。

撮影日:2010年3月23日
分 類:プロ野球選手
評 価:☆☆☆

沢村 栄治 (澤村 榮治)
沢村 栄治 (澤村 榮治)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大正6年2月1日生まれ。
昭和9年全日本軍の投手として全米大リーグ選抜と対戦,ゲーリッグの本塁打1点におさえた。
同年,日本初の職業野球団大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)に入団。
速球を武器に11年プロ野球初のノーヒットノーランを記録。
12年春最高殊勲選手。3度目の召集で,昭和19年12月2日台湾沖で戦死。28歳。
22年沢村賞がもうけられ,34年第1回野球殿堂入り。
三重県出身。京都商業中退。
【格言など】どんな球でも一投,これすべて創造だと思います(「強者の行動訓」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「静岡市・県営草薙球場」
日本のプロ野球が始まるより以前の1934年12月に開催された日米野球大会で、当時日本チームのエースで後巨人の初代エースとなる沢村栄治がベーブ・ルースを三振に打ち取るなどアメリカ大リーグ選抜相手に8回で9奪三振無失点、失点は最終回のルー・ゲーリッグのホームランによる1失点のみと球史に残る快投を見せた場所でもあり、球場前にはその史実を伝えるべく、対峙する沢村とルースの像が建立されている。
IMG_0288.jpg
また球場事務所内に、当時の球場のマウンド跡を示す標識が床面に設けられている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
沢村賞で有名な沢村選手の像。
ベーブ・ルースとの対決の場面が銅像で再現されています。
足をあげたピッチングフォームが印象的です。
若くして亡くなったのが非常に残念です。

由比 正雪
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由比 正雪 像
(静岡県 静岡市葵区 菩提樹院)

由井 正雪(ゆい しょうせつ)
(1605年-1651年)
江戸時代の軍学者

撮影日:2010年3月23日
分 類:軍学者
評 価:☆☆☆

現在の静岡県静岡市清水区由比(駿府宮ケ崎町との説もある)の紺屋の子として生まれる。
幼い頃より才気煥発で17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰(楠木不伝)の弟子になるとその才能を発揮し、やがてその娘と結婚し婿養子となった。
楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」と名のり、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)。
道場は中々の評判で、一時は3000人もの門下生を抱えたとされる。
門下生の中には大名の子弟や旗本なども多く含まれていた。
慶安4年(1651年)に、「由井正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47。
正雪の首塚が静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する。

・慶安の変
江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を集めて幕府転覆を計画した事件。
しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に発覚したため、正雪は駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
この事件は、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つ、とも言われている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
髪が長い姿が印象的です。
若い頃の像と思われます。

市川 紀元二
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市川 紀元二 像
(静岡県 静岡市葵区 静岡護国神社)

市川 紀元二(いちかわ きげんじ)
(1873年‐1905年)
明治時代の軍人

撮影日:2010年3月23日
分 類:軍人
作 者:新海竹太郎
評 価:☆☆☆

明治6年2月17日生まれ。
京浜電鉄の技術部長。
明治37年日露戦争に歩兵少尉として出征し,遼陽の首山堡の戦闘で功をたてる。
陸軍中尉。奉天の会戦で明治38年3月7日戦死。33歳。
静岡県出身。東京帝大卒。旧姓は青山。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
静岡護国神社におられます。
サーベルを手にした戦闘中の銅像です。

大石内 蔵助
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大石内 蔵助 像
(東京都 港区高輪 泉岳寺)

大石 良雄(おおいし よしお)
通称は内蔵助
(1659年‐1703年)
江戸時代前期の武士

撮影日:2010年3月15日
分 類:武士
評 価:☆☆☆

大石良雄の肖像画
大石良雄の肖像画
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

万治2年生まれ。
播磨(兵庫県)赤穂藩家老。
儒学を伊藤仁斎に,兵学を山鹿素行にまなぶ。
元禄14年藩主浅野長矩が吉良義央にきりつけて切腹・領地召し上げとなったため,城をひきわたし京都山科にうつる。
翌年同志46名を指揮して江戸の吉良邸に討ち入り主君の仇を討った。
元禄16年2月4日切腹。45歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

【泉岳寺】
浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られていることで有名であり、現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年12月13日、12月14日には義士祭が催される。
また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。
義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
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[感 想]
赤穂浪士が葬られている泉岳寺の境内に
巻物を手に堂々と立っておられます。

ヘボン
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ヘボン 像
(東京都 港区 明治学院大学)

ヘボン(Hepburn, James Curtis)
(1815年‐1911年)
アメリカの宣教師,医師,語学者

撮影日:2010年3月15日
建設年:昭和41年
分 類: 外国人
作 者:瀬戸 団治
評 価:☆☆☆

ヘボン
ジェームス・カーティス・ヘボン
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

1815年3月13日生まれ。
安政6年(1859)長老派の宣教師として来日,横浜にすみ,診療と英語教育をおこなう。
慶応3年日本初の和英辞典「和英語林集成」を出版,この第3版にもちいられたローマ字がヘボン式ローマ字として日本で普及した。
明治22年明治学院初代総理,25年帰国。
1911年9月21日死去。96歳。
ペンシルベニア州出身。ペンシルベニア大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
ヘボン式ローマ字を考案したヘボンの像です。
明治学院大学のヘボン館前におられます。
聡明な感じの顔立ちです。





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