ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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頼 山陽
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頼 山陽 像
(広島県 尾道市 千光寺公園)

頼山陽(らい さんよう)
(1781年-1832年)
江戸時代後期の儒者

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成5年  
分 類:文化人
作 者:橋本 次郎
評 価:☆☆☆

頼山陽
頼山陽像 帆足杏雨筆 広瀬旭荘賛
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

江戸で尾藤二洲らにまなぶ。
21歳で安芸広島を出奔,脱藩の罪で自宅幽閉となる。
赦免ののち,京都で開塾。
詩,書に才能を発揮。
幽閉中に起稿した「日本外史」は,幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。
天保3年9月23日死去。53歳。大坂出身。別号に三十六峰外史。著作はほかに「日本楽府」など。
【格言など】われに一腔(いっこう)の血あり。其色はまさに赤く,其性は熟す(結核闘病中にうたった「喀血の歌」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「尾道と頼山陽」
山陽の活動は、地方の門人やパトロンによって支えられており、芸備には門人が多く、後に福山藩に登用された門田朴斎、江木鰐水、関藤藤陰や、尾道の橋本竹下、宮原節庵、平田玉蘊らがいる。
 尾道は、山陽道の宿場町、瀬戸内海航路の港町として繁栄し、備後地方の商業の中心地であった。
近世後期には、経済的な実力を蓄えた商人のなかで、文芸への関心が高まり、それを反映して、多くの文人墨客が立ち寄っている。
彼らは、商人たちの求めに応じて、多くの書や絵画を製作し、潤筆料を受け取っている。
山陽に限らず、この時代に学者や文人が職業として成り立つようになった経済的背景には、尾道のような地方の豪商や豪農の存在があったのである。
「尾道文学芸術探訪」から

[感  想]
本と筆を持った立ち姿が印象的です。
頼山陽の像近くの岩に頼山陽の歌が刻まれています。
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頼山陽が、千光寺山に登ったときの作品です。
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隣の「岩割の松」もすごいです!

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田能村 竹田
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田能村 竹田
(広島県 尾道市 千光寺公園)

田能村 竹田(たのむら ちくでん)
(1777年-1835年)
江戸時代後期の画家

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成4年  
分 類:文化人
作 者:矢形 勇
評 価:☆☆☆

田能村 竹田
田能村竹田 自画像
「武蔵美術ホームページ」から

安永6年6月10日生まれ。
豊後(大分県)岡藩医の次男。
藩校由学館の頭取となる。
藩内の農民一揆の際,藩政改革の建言がいれられず隠退。
絵を谷文晁らにまなび,繊細な筆致の独自の画風を確立。
幕末文人画壇の代表的な作家。
頼山陽らと親交をもち,詩や書にもすぐれた。
天保6年8月29日死去。59歳。
作品に「亦復一楽帖」,画論に「山中人饒舌」。
【格言など】筆を用いて工(たく)みならざるを患(うれ)えず,精神の到らざるを患う(「山中人饒舌」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

田能村
月夜山水図 紙本淡彩
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
田能村竹田は、「なんでも鑑定団」でよく耳にする名前です。
本物はほとんど出ないですね…
近くに銅像がある頼山陽と親交が深かったようで、帽子をかぶり、杖をつく姿は頼山陽を訪ねてきた姿かもしれません。

林 芙美子
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林 芙美子 像
(広島県 尾道市 東御所町)

林 芙美子 (はやし ふみこ)
(1903年-1951年)
昭和時代の小説家

撮影日:2010年5月28日
建設年:昭和59年  
分 類:文化人
作 者:高橋秀幸
評 価:☆☆☆☆

林2
林芙美子肖像(提供:新宿歴史博物館)
山口県ホームページ「ふるさとの文学者63人」から

明治36年12月31日生まれ。
行商人の子として貧しさのなかで各地を転々とする。
大正11年上京,種々の職業につきながらアナーキストの詩人や作家の影響をうける。
昭和5年刊行の自伝的小説「放浪記」がベストセラーとなった。
昭和26年6月28日死去。47歳。
山口県出身。
尾道高女卒。本名はフミコ。
作品はほかに「風琴と魚の町」「晩菊」「浮雲」など。
【格言など】花のいのちは短くて,苦しきことのみ多かりき(「放浪記」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
林芙美子は、小学校から高校までを尾道市で過ごしました。
この像は、尾道駅の東、商店街アーケード入り口にあります。
像の前に「放浪記」の一節が書かれています。
「海が見える 海が見えた 五年振りに見る尾道の海は懐かしい」
久しぶりに尾道に帰ってきた時の感じが良く表されている像です。

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西郷 四郎
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西郷 四郎 像
(広島県 尾道市 東久保町)

西郷 四郎(さいごう しろう)
(1866年-1922年(大正11年))
明治時代の柔道家

撮影日:2010年5月28日
建設年:平成2年  
分 類:柔道家
作 者:今城 國忠
評 価:☆☆☆

西郷 四郎
若かりし頃の、「西郷四郎」氏の肖像

会津藩(会津若松市)藩士志田貞次郎の子。
明治15年旧会津藩家老西郷頼母の養子となる。
15歳で単身上京,陸軍予備校成城校に学ぶかたわら,天神真揚流柔術を修めた。
小柄なため陸軍士官学校への進学を断念,嘉納治五郎に見いだされて講道館に入門した。
必殺の立ち技「山嵐」で不世出の天才児といわれ,富田常次郎,横山作次郎,山下義韶と並んで講道館四天王のひとりに数えられる。
23年講道館を去り,35年鈴木力主宰の「東洋日之出新聞」記者となり,この間に中国大陸にも渡っている。
晩年は尾道市で過ごした。
富田常雄の小説『姿三四郎』のモデルとされる。
「朝日日本歴史人物事典」から

西郷の得意技は「山嵐」だが、これは幼少の頃から漁船上で仕事をしていた関係で影響で身についた「タコ足(足指が吸盤のような強い力を持っていたことから、この名で呼ばれる)」を生かしたため、相手の足を刈る際の技の切れは他者よりも格段に鋭かったと言われる。
このことから、山嵐は大東流の技法が活用されていたとする説も一部にあるが、現在、講道館に伝えられている山嵐の技法を見る限りでは、大東流の影響は余り感じられない。なお、その技は嘉納治五郎に「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
西郷四郎のことは、今野敏著の「山嵐」を読んだのでよく知っていました。
銅像は、道路の脇のちょっと分かりにくいところにありますが、逝去の地ということです。
柔道着で、すくっと立っている姿が印象的です。

谷川 豊
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谷川 豊 像
(山口県 宇部市 宇部かま工場)

谷川 豊(たにがわ ゆたか)
(1913年-2008年)
宇部蒲鉾株式会社 名誉会長

撮影日:2010年5月9日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

[感  想]
宇部かまの工場の奥に記念館と立派な庭園が有り、そこにおられます。
上半身のしっかりした像です。

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