ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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長宗我部 元親
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長宗我部 元親 像
(高知県 高知市 若宮八幡宮)

長宗我部元親 (ちょうそかべ もとちか)
(1538年-1599年)
戦国時代の武将

撮影日:2010年9月19日
建設年:平成11年
分 類:武将
作 者:濱田 浩造
評 価:☆☆☆☆☆

長宗我部 元親
長宗我部 元親
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天文(てんぶん)7年生まれ。
長宗我部国親の長男。
永禄3年家督をつぐ。
天正13年四国を統一。
同年豊臣秀吉に攻められ土佐(高知県)だけの領有をゆるされる。
秀吉の九州攻め,小田原攻め,文禄・慶長の役にも出陣。
領内では惣検地をおこない,「長宗我部元親百箇条」をさだめた。
慶長4年5月19日死去。62歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「長宗我部元親初陣の像」
地域おこしを進めようと結成した港南地域の異業種集団「一領具足会」が中心となり、没後400年を記念して平成11年(1999年)に建立された。
銅像は、永禄3年(1560年)、22歳で初陣を迎えた元親が、合戦に挑む前夜、若宮八幡宮に陣取った姿を表現している。
力強く前に伸ばされた左手は、足下に広がる四国をつかみ取ろうとしている形に作られている。
「高知市公式ホームページ」から

初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたという逸話が有る。
秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。
そしていざ戦になると元親はその通りに行動し鬼若子と言われる程の活躍をしたとされる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

「一領具足(いちりょうぐそく)」
戦国時代の土佐国の戦国大名、長宗我部氏が兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称である。
土佐物語では死生知らずの野武士なりと書かれている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
高知市内から桂浜へランニングで行く途中の若宮八幡宮横で発見!
長い槍を斜めに持ち、力強く前に伸ばされた左手の鎧姿は、とても力強く、見る者を圧倒します!
久しぶりの満点の像に感動しました!

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塩見 俊二
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塩見 俊二 像
(高知県 高知市小津町 塩見記念青年プラザ前)

塩見 俊二(しおみ しゅんじ)
(1907年(明治40年)-1980年(昭和55年))
政治家。元参議院議員

撮影日:2010年9月19日
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

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高知市の商店街で立候補演説する塩見俊二さん
(高知新聞社提供)

高知県戸波村浅井で熊吉、良の二男に生まれる。
旧制高知高等学校、東京帝国大学法学部卒業。
1931年、台湾総督府入庁、財務金融課長、主計課長などを歴任。
終戦に伴い1946年に帰国。
戦後は東京財務局直税部長、熊本・広島・大阪国税局長を歴任。
1956年、第4回参議院議員通常選挙、全国区に自民党から立候補し当選。
自民党にて経理局長、参議院国会対策委員長、参議院幹事長などを歴任。
第2次佐藤内閣第2次改造内閣の自治大臣に就任。
第1次田中角栄内閣の厚生大臣に就任。
厚生大臣時、大規模年金保養基地構想を打ち出し、各地にグリーンピアが建設された。
飾り気のない人柄とともに無類の酒好きで知られ、73歳で没す。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
足を組み、深々と椅子に座る姿が印象的です。

山内 容堂
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山内 容堂 像
(高知県 高知市 鷹匠町 山内神社)

山内 容堂(やまうち ようどう)
(1827年-1872年)
幕末の大名

撮影日:2010年9月19日
建設年:平成14年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

山内容堂
「近代日本人の肖像ホームページ」から

文政10年10月9日生まれ。
山内豊著の長男。
山内豊惇の養子となり,嘉永元年土佐高知藩主山内家15代。
将軍継嗣問題に関与し安政の大獄で隠居謹慎となる。
文久2年ゆるされて公武合体に尽力,3年土佐勤王党を弾圧し武市瑞山らを処断。
慶応3年大政奉還を建白,王政復古で議定(ぎじょう)となり幕府勢力の温存をはかるが失敗。
酒をこのみ,鯨海酔侯と自称した。
明治5年6月21日死去。46歳。号は容堂。
【格言など】歳酔三百六十回 鯨海酔侯(脱藩者の坂本竜馬を赦免したときの絵にそえた署名)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。
藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
大河ドラマ「龍馬伝」の近藤正臣の印象が強い容堂公です。
右手に杯を持つ像は、「鯨海酔侯」と自ら称した姿をよくあらわしています。

野村 茂久馬
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野村 茂久馬 像
(高知県 高知市 丸ノ内)

野村 茂久馬 (のむら もくま)
(1870年-1960年)
明治-昭和時代前期の実業家

撮影日:2010年9月19日
建設年:昭和26年
分 類:実業家
作 者:浜口 青果
評 価:☆☆☆

明治2年12月28日生まれ。
30年ごろ郷里の高知県で交通運輸業をはじめ,陸海に事業を拡大。
四国のバス事業の統合,高知鉄道,土佐商船などの設立に力をつくし,土佐の交通王とよばれた。
桂浜の坂本竜馬銅像建立にも協力した。
昭和7年貴族院議員。昭和35年2月11日死去。90歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅 像]
実業家野村茂久馬の銅像は、昭和26年12月8日に除幕されたもので、制作者は香美郡夜須町出身の彫刻家浜口青果、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂。
像の高さは2.15メートル、台座1.59メートル、総高3.74メートル。
除幕式には当時83歳の野村茂久馬本人も出席、銅像建設記念東京大相撲高知場所のめ来高中の羽黒山・照国・東富士・千代ノ山の四横綱も出席したと伝えています。
岩崎義郎著「高知城を歩くより」

[エピソード]
○坂本龍馬・中岡慎太郎・板垣退助らの銅像を建てるため奔走する青年達に、乗合自動車の無料乗車券を発行する等の支援をした。
○ライオン宰相、濱口雄幸(高知市出身)とは同級生であった。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
杖をついたコート姿が印象的です。
坂本龍馬・中岡慎太郎・板垣退助らの高知県の銅像建立を支援した人で、高知県の銅像に関する功績は大きいものがあります。

片岡 健吉
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片岡 健吉 像
(高知県 高知市丸ノ内 高知県議会議事堂前)

片岡 健吉(かたおか けんきち)
(1844年-1903年)
明治時代の政治家

撮影日:2010年9月19日
建設年:昭和38年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

片岡 健吉
片岡健吉(1898年)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天保14年12月26日生まれ。
もと土佐高知藩士。
海軍中佐となったが,明治7年征韓論政変で帰郷。
立志社の創立に参加して自由民権運動を推進,同社社長に就任し,10年国会開設建白書を提出した。
13年国会期成同盟の代表として請願書を提出。
自由党結成にくわわり,23年の第1回総選挙以来衆議院議員に連続8回当選。
明治36年10月31日死去。61歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
高知県議会議事堂前におられます。
手を胸に真っ直ぐ見つめる姿が印象的です。

板垣 退助
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板垣 退助 像
(高知県 高知市 丸ノ内 高知公園)

板垣退助(いたがき たいすけ)
(1837年-1919年)
政治家

撮影日:2010年9月19日
建設年:昭和31年
分 類:政治家
作 者:浜口 青果
評 価:☆☆☆

板垣退助

2板垣退助
「近代日本人の肖像ホームページ」から

天保8年4月17日生まれ。
土佐高知藩士。
戊辰戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。
6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。
翌年民選議院設立建白書を提出。
帰郷して立志社をおこし,自由民権運動を指導した。
14年自由党を結成して総理。
24年再結成された自由党の総理。
29年第2次伊藤内閣の内相。
31年大隈重信と隈板内閣をつくり,内相。伯爵。
33年政界を引退し,社会改良運動につくした。
大正8年7月16日死去。83歳。
【格言など】われ死すとも,自由は死せず(明治15年,刺客に斬りつけられて)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「岐阜事件」
明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した。
その際、板垣が述べたことは、広く人々に、そして後世にまで伝わることになった。
板垣は襲われた後、起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った。
やがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。
つまり、「板垣死すとも、自由は死せず。」という言葉で、板垣本人が言った訳ではない。
なお、このとき板垣を診察した医者は後藤新平であった。
板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったという。
後藤は後に、板垣の希望通り、政治家となった。

100円札
日本銀行券B100円券

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50銭政府紙幣
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
初代は大正12(1923)年12月5日除幕。
製作は坂本龍馬の銅像も作った高知県宿毛市出身の本山白雲。
本山白雲(高村光雲の弟子)は、退助の親族でもある。
総工費15,646円99銭。銅像の高さは2,46m。
銅像本体は戦時中、金属回収のため供出されることになり、昭和18(1943)年9月2日に壮行式が行われた。
現在の銅像は、昭和31(1956)年5月11日に再建除幕されたもの。
製作は夜須町出身の浜口青果、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。
銅像の高さは2,20m、台座4,205m、全高6,405m。

[感  想]
高知城へと上がる途中におられます。
高知城をバックに右手を掲げる姿が絵になっています。

山内 千代
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山内 千代 像
(高知県 高知市丸ノ内 高知公園)

山内 千代(やまうち ちよ)
(1557-1617)
安土桃山時代の武家の女性

撮影日:2010年9月18日
建設年:昭和40年
分 類:武家女性
評 価:☆☆☆

山内一豊の妻。千代。見性院
浅井家家臣若宮喜助友興の娘。
父の討死後,美濃(岐阜県)不破重純氏の養女となる。
一豊の母に仕えて嫁に見込まれたともいわれる。
一豊が,目にとめた名馬を求めたいと望んだ折,夫の大事にと実家から持参した黄金10枚を用立てた。のち馬揃のとき,これが織田信長に認められ,一豊の出世のきっかけになったとの逸話がある。
天正13(1585)年に長浜城主夫人となり,のち大坂に居住した。
慶長5(1600)年,一豊は徳川家康に従って会津に出陣,千代はそのもとへ石田三成の挙兵を知らせ,自身は人質となれば自決の覚悟なので心置きなく徳川氏に忠誠を尽くすよう助言したという。
関ケ原の戦の功績として一豊は土佐一国を与えられたが,翌10年死去。
千代は落飾して妙心寺から見性院の法号を受け,翌年京都に戻った。
「朝日日本歴史人物事典」から

[銅 像]
夫である山内一豊を内助の功で支えたと言われ、その伝説を顕彰して、1965年に高知商工会議所婦人会により建立された。
「山内一豊之妻」の題字は元総理大臣吉田茂の筆によるもの

[感  想]
「内助の功」の話をもとにした銅像です。
大きな馬と差しのばした手が印象的です。

山内 一豊
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山内 一豊 像
(高知県 高知市 丸ノ内 高知公園)

山内 一豊(やまうち かずとよ)
(1545年-1605年)
戦国-江戸時代前期の武将,大名。

撮影日:2010年9月18日
建設年:平成8年
分 類:大名
評 価:☆☆☆☆

天文14年生まれ。
織田信長,豊臣秀吉につかえる。
近江長浜城主などをへて,天正18年遠江掛川城主。
慶長5年関ケ原の戦いの功により,土佐高知藩主山内家初代となる。20万2600石。
高知城をきずき,支配体制をかためた。
慶長10年9月20日死去。60歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「土佐一国の領主として」
慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。
大幅な加増があり余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。
これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要なポストを主に旧臣で固めて長宗我部勢力を排除した。
さらに、長宗我部氏の遺臣らを桂浜の角力大会に招いて捕縛して73名を磔にして殺すなど、あくまで武断措置で対応した。
このために命を狙われる危険性があり、高知城の築城の際などには6人の影武者と共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例である)。
各地にくすぶりを残し、この課題(以前からの山内家家臣を上士、旧長宗我部氏の家臣を郷士とした差別的扱い)は次代から幕末になるまで引き継がれ、坂本龍馬などの人物が生まれることになる。
また、高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し(慶長8年(1603年)完成)、城下町の整備を行った。
また、このころに官位が従四位下土佐守に進んでいる。
また、領民に対して食中毒を気にし、鰹を刺身で食べることを禁じた。
それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。
慶長10年(1605年)、高知城にて病死。享年60。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
槍を持って、馬にまたがった姿は、堂々としています。
にらみが効いたいい像です。





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