ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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東京大学校内 銅像
東大マップ
東京大学構内には、配置図のとおり多くの銅像があります。

作者も朝倉文夫、新海竹太郎、武石弘三郎、沼田一雅、長沼守敬などと
そうそうたる有名彫刻家による作品です。

素晴らしいのは、それぞれの銅像の説明文です。
・いつの時代に活躍した人なのか
・どのような功績を残した人なのか
・銅像の作者、制作年
がコンパクトにまとめて掲示されています。
東京大学の銅像に対する思いが分かる気がします。

濱尾 新
古市 公威
下山 順一郎
隈川 宗雄
佐藤 三吉
青山 胤通
山川 健次郎
三好 晋六郎
レオポルド・ミュルレル
エドワード・ダイヴァース
チャールズ・ウェスト
リウス・スクリバ
エルヴィン・ベルツ
ジョサイア・コンドル

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濱尾 新
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濱尾 新 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和7年
分 類:教育者
作 者:堀 進二
評 価:☆☆☆☆

濱尾 新
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

濱尾 新(はまお あらた)
(1849年-1925年)
明治-大正時代の教育行政家

嘉永2年4月20日生まれ。
但馬(兵庫県)豊岡藩士の子。
明治5年文部省にはいり,南校監事,東京開成学校長心得などをへて26年帝国大学総長。
30年第2次松方内閣の文相となる。
38年東京帝大総長。
のち東宮御学問所副総裁,枢密院議長などをつとめた。
大正14年9月25日死去。77歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆濱尾新は、幕末に豊岡藩士の子として生まれ、明治維新後は慶應義塾大学などで学びます。
明治5年(1872)に文部省に出仕してからは教育行政の第一線で活躍し、明治26年に東大(当時は帝国大学)の第3代総長に就任します。
その後、入閣して文部大臣を務めますが、明治38年に第8代総長として東大(当時は東京帝国大学)に復帰し、以後7年間総長職を務め、施設や教育機関としての機能強化を進めました。
現在、多くの学生に愛されている正門から銀杏並木、大講堂に至る施設の配置や意匠は濱尾新のアイデアが反映されたものといわれています。
銅像は、没後7年目の1932年に建立。
ソファーに腰をかけ、足を組んでリラックスした姿は古市公威像も手がけた堀進二の手によるものです。
安田講堂と三四郎池の間の道に面して、安田講堂を見つめるように置かれています。
台座も含めると約4メートルという大きさが目を引きます。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
東京大学安田講堂南側に座っておられます。
台座も立派な大きな像です。
ニヒルな笑いがいいですね。

浜尾のアイデアによる銀杏並木から大講堂を望む

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古市 公威
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古市 公威 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和12年
分 類:学者
作 者:堀 進二
評 価:☆☆☆☆

古市 公威
「デジタル大辞泉」より

古市 公威(ふるいち こうい)
(1854年-1934年)
明治-昭和時代前期の土木工学者

嘉永7年閏7月21日生まれ。
播磨(兵庫県)姫路藩士古市孝の長男。
開成所,大学南校にまなぶ。
フランス留学後,内務省に勤務。
明治19年帝国大学工科大学初代学長となり,のち内務省土木局長をかねる。
日本の土木工学,土木行政の近代化につくした。
土木学会会長,理化学研究所長,万国工業会議会長,日仏会館理事長などをつとめた。
貴族院議員,枢密顧問官。
昭和9年1月28日死去。81歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆古市公威は、幕末に姫路藩士の子として誕生し、開成学校(元は旧幕府学問所)を初めとして学業の道に進みました。
20歳を過ぎて新政府派遣の海外留学生としてフランスに渡り、欧州の進んだ土木・工学を学んで帰国。
内務省(建設省、国土交通省の前身)の技師として職務に就くかたわら、東大講師として教鞭を執りました。
後に統合により東大工学部となる工科大学の初代学長に就任。
日本の土木の技術・行政面の近代化に大きな足跡を残しました。
また日本初の工学博士でもあります。
技師(土木工学技術者)は、技術・行政全般に通じ、兵ではなく将帥、指揮者でなければならない。
将に将たる人であれ、と説いたことでも知られています。
銅像は、長年の業績を称えて製作され、1937年に建立。
堀進二製作の像は、杖を持ちソファーに腰をかけた姿を描いており、穏やかな表情が印象的な像です。
正門を入って左、工学部11号館横に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎古市は公平無私であり、よく学生を導いたといわれる。
また、日本工学会の初代会長として、世界の中で、日本の工学技術の声価を高めることに寄与した。
作家三島由紀夫の本名“公威”は、内務官僚であった彼の祖父平岡定太郎が恩顧を受けた古市の名をとって命名したといわれている。

◎司馬遼太郎は自著『国家・宗教・日本人』において、フランスに留学中、あまりの猛勉強ぶりに体を壊しはしないかと心配した下宿先の女主人が休むように勧めると、古市は「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたというエピソードを井上ひさしとの対談の中で語っている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
杖を持ち椅子に座った姿は、静かな存在感があります。
安田講堂へのイチョウ並木をしっかりと見ておられるような感じがします。
三島由紀夫の本名がこの人の名前からとられたとは驚きです。

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下山 順一郎
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下山 順一郎 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:大正4年
分 類:教育者
作 者:武石弘三郎
評 価:☆☆☆

下山順一郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう)
(1853年-1912年)
明治時代の薬学者

嘉永6年2月18日生まれ。
ドイツに留学後,明治20年帝国大学教授。
生薬学の基礎を確立し,薬学博士第1号となる。
東京赤羽に私設の薬草園を設立。
日本薬剤師会初代会長,日本薬学会副会頭などをつとめた。
明治45年2月12日死去。60歳。
尾張(愛知県)出身。東京大学卒。
著作に「生薬学」「薬用植物学」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆幕末に尾張藩校助教であった犬山藩士の子として誕生。
明治6年(1873)に第一大学区医学校製薬学科に入学、明治11年に首席で卒業しました。
その後ドイツに4年間留学し、帰国後は新設された医科大学校薬学科の教授(新設された生薬学の初代教授)に就任しました。
明治21年には東京薬科大学の前身である私立薬学校になるなど、以後も日本の薬学発展に尽力しました。
日本初の薬学博士号を取得しています。
私財を投じて薬草園を開設するなど、薬用植物の研究や栽培に大きな足跡を残しています。
銅像は胸像で、薬学系総合研究棟東側にミュルレル像の奥に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
武骨な感じの顔でちょっとゴリラーマンに似ています…

隈川 宗雄
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隈川 宗雄 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
分 類:医学者
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

隈川 宗雄
隈川宗雄像 黒田清輝作
「博士の肖像ホームページ」より

隈川 宗雄(くまがわ むねお)
(1858年-1918年)
明治-大正時代の医学者

安政5年10月13日生まれ。
原有隣の次男。隈川宗悦の養子。
ドイツに留学し,ベルリン大にまなぶ。
明治24年帝国大学医科大学教授となり,医化学講座を担当。
大正6年東京帝大医科大学学長。学士院会員。
大正7年4月6日死去。61歳。
陸奥福島出身。東京大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆隈川宗雄は、幕末に福島藩医の次男として誕生しました。
明治2年に医師・隈川宗悦の養子となり、医学の道に進みます。
明治16年(1882)に東大医学部を卒業。
翌年から6年間ドイツのベルリン大学に留学します。
帰国後は帝国大学医科大学教授として生化学などを担当しました。
銅像は、医学部総合中央間(図書館)と医学部2号館に挟まれた道沿いに設置されています。
スマートな台座付きの胸像で、木陰に静かにたたずんでいます。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
八の字の髭が特徴的な像です。

佐藤 三吉
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佐藤 三吉 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
分 類:医学者
評 価:☆☆☆

佐藤 三吉
佐藤 三吉
「大垣市立東小学校ホームページ」より

佐藤 三吉(さとう さんきち)
(1857年-1943年)
明治-昭和時代前期の外科学者

安政4年11月15日生まれ。
ドイツ留学後,明治20年帝国大学教授となり,同大付属医院長をへて,大正7年東京帝大医科大学長。
内臓外科手術に防腐無菌法を採用した。
のち宮内省御用掛,貴族院議員。
昭和18年6月17日死去。87歳。
美濃(岐阜県)出身。東京大学卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆幕末に大垣藩士の子として誕生。
明治15年(1882)に東大医学部を卒業したのちドイツへ留学して最先端の医学を学びました。
帰国後は医科大学教授として後進の育成に努め、明治34年(1901)には東京帝国大学付属病院の院長に就任。
外科の権威として、日本の医学界の近代化に尽力しました。
胸像は胸像で、構内バス通りの売店の向かいに置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
斜め上を見つめる姿が印象的です。
少し汚れているのが残念です。

青山 胤通
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青山 胤通 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:大正9年
分 類:医学者
作 者:新海 竹太郎
評 価:☆☆☆☆

青山 胤通
青山 胤通(あおやま たねみち)
(1859年-1917年)
明治-大正時代の内科学者

安政6年5月15日生まれ。
青山景通の3男。青山徹蔵の義父。
ベルリン大に留学,明治20年帰国して母校帝国大学医科大学の教授となり,34年同大学長。
癌研究会をおこし会長,伝染病研究所長などをつとめる。
27年香港で流行したペストを出張研究。
また明治天皇の診療にもあたった。
大正6年12月23日死去。59歳。
江戸出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆青山胤通は、幕末に苗木藩士の三男として誕生。
1882年に東京大学医学部を卒業後、恩師であったエルヴィン・ベルツの推挙を受けてドイツへ留学、内科を専攻しました。
帰国後は東京帝国大学医学大学校内科学教授(のち学長)として教鞭を執る一方で、伝染病研究所所長などを歴任し、日本の医学発展に尽力しました。
日本最初の癌研究機関である癌研究会の設立者の一人でもあります。
銅像は胸像で、佐藤三吉像の左並びに置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎北里柴三郎と野口英世の排斥者、批判者として知られる。

◎東京大学医科学研究所の前身である伝染病研究所の東京大学医学部統合を推進し伝染病研究所の創設者である北里柴三郎と激しく対立した。

◎森鴎外とも親交があり、彼の親友である原田直次郎の治療も行っている。

◎脚気は感染症であるという説を生涯主張し当時の日本医学会では定説となっていたが、現在では否定されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
新海竹太郎の代表作の1つ。
葉巻を持つ手を上手く台座に乗せています。
台座も含めていいデザインだと思います。

山川 健次郎
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山川 健次郎 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和5年
分 類:教育者
評 価:☆☆☆

山川 健次郎
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

山川 健次郎 (やまかわ けんじろう)
(1854年-1931年)
明治-大正時代の物理学者,教育者

嘉永7年閏7月17日生まれ。
山川浩の弟。大山捨松の兄。
エール大にまなび,東京開成学校教授補をへて明治14年東京大学教授。
日本初の理学博士のひとり。
東京帝大,九州帝大,京都帝大の総長を歴任。
貴族院議員。枢密顧問官。
昭和6年6月26日死去。78歳。
陸奥会津(福島県)出身。
【格言など】物理学を学ぶ者の心得は「一に数学,二に数学,三に数学」
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆幕末に会津藩士の三男として生まれました。
しかし会津戦争の敗北の結果、謹慎・逃亡の末に長岡藩士の書生となり、それをきっかけに学業を志すことになります。
明治維新後に国費留学生に選抜されて渡米。
エール大学で物理学を学び、学位を得て帰国。東京大学設立後は、外国人教授の助手を経て、明治12年(1879)日本人初の物理学教授になりました。
明治21年には東大初の理学博士号を得るなど、物理学の普及と後進育成に尽力しました。
途中、辞任なども経験しましたが、1920年まで東大(東京帝国大学)総長を務めました。
胸像は昭和5年(1930)の製作で、曾孫から大学に寄贈され、台座を新造して安田講堂真裏(理学部1号館前)に設置されました。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
安田講堂近くにおられます。
かくしゃくとした感じの上半身の像です。

三好 晋六郎
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三好 晋六郎 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:大正3年
分 類:教育者
作 者:武石 弘三郎
評 価:☆☆☆

三好 晋六郎(みよし しんろくろう)
(1857年-1910年)
明治時代の造船学者

安政4年7月21日生まれ。
明治12年イギリスに留学。
16年帰国して工部大学校助教授,19年帝国大学教授となり,造船学を担当。
20年築地工手学校を設立して校長となった。
明治43年1月28日死去。54歳。
江戸出身。工部大学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆幕臣の子として誕生。
明治維新後は造船の近代化を志し、1879年に工学大学校機械工学科を卒業したのちイギリスへ留学しました。
グラスゴーの造船所で当時世界をリードしていたイギリスの造船技術を実地で学び、その経験と知識を日本へ持ち帰ります。
帰国後は造船技術科助教授を経て、1886年に教授へ昇格しました。
明治中期以降、日本海軍はその近代化と戦力拡充の課程でイギリス式の造艦技術に範をとるようになりましたが、こうした技術的な基礎確立や新技術の導入に大きな功績がありました。
銅像は、書籍に手を乗せた姿を描いた胸像で、工学部5号館の奥に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
積み重ねられた書籍に手を乗せた姿が印象的です。
荒い感じで仕上げられています。

レオポルド・ミュルレル
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レオポルド・ミュルレル 像 
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和50年
分 類:外国人、医学者
作 者:藤田 文蔵
評 価:☆☆☆

レオポルド・ミュルレル(Leopold Muller)
(1824年-1893年)
ドイツ帝国の陸軍軍医
お雇い外国人

◆ドイツ陸軍軍医で、日本の医学教育の整備とドイツ式医学の普及に大きな影響を与えた人物です。
明治4年(1871)に、ドイツ海軍軍医のテオドール・ホフマンとともに来日。
ミュルレルは解剖学・外科学・眼科・婦人科などを担当、ホフマンは内科学を担当しました。
ミュルレルの日本滞在は3年ほどでしたが、当時の日本の医学は漢方から西洋医学へと大きく舵を切り始めた頃で、大学教育に先進のドイツ医学の教育を根付かせた功績は大きかったといわれています。
銅像は、ピッケルハウベを被ったドイツ(プロイセン)伝統の軍服姿の胸像で、薬学部の東側の木立の中に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

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[胸 像]
1895年三回忌にあたってミュルレルの胸像が帝国大学構内に設置された。
作者は藤田文蔵で、台座に島田重礼撰、田口米舫筆の碑文が彫られた。
第二次世界大戦中の金属供出の準備としてコンクリートによる複製が作成されたが、結局供出に至る前に終戦を迎えた。
しかしこの胸像は1959年に何者かにより盗まれてしまった。
1964年ミュルレルの縁者が来日するということで、コンクリート複製像を着色して設置したが、十年あまりで老朽化してしまった。
1975年に改めてブロンズ像が設置されて現在にいたる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
なんといっても、この像の特徴は、頭にかぶった帽子です。
恰幅のいい髭の軍服姿が印象的です。

エドワード・ダイヴァース
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エドワード・ダイヴァース 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治33年
分 類:外国人、化学者
作 者:長沼守 敬
評 価:☆☆☆

エドワード・ダイヴァース(Divers,Edward)
(1837年-1912年)
明治期に来日したお雇い外国人
イギリス人化学者

ロンドン生まれ。
王立化学カレッジを卒業後,アイルランドで教職につきながらダブリンのクイーンズ・カレッジで医学博士を取得。
その後も病院付属医学校に勤務しつつ,次亜硝酸塩類を発見した。
明治6(1873)年,工学寮の実地化学の教師として来日し,ダイアーを助けて同校の発展に寄与した。
15年にダイアー帰国後はそのあとを継いで教頭となり,工部大学校が東大に合併後も引き続いて化学の研究と教育に貢献し,32年まで在職。
31年勲2等に叙せられたが,昇叙の上申書につけられた論文一覧には,来日前に発表のもの9件,来日後門弟と共同執筆したもの52件,彼の指導で門弟が発表したもの11件が挙げられている。
実験中の事故で右眼の視力を失ったが,1日の欠勤もなく研究に打ち込み,日本における無機化学の基礎を築いた。
帰国時に,東京帝大はその功績をたたえ,名誉教師とした。
32年に帰国後はイギリス学士会員,イギリス化学会副会長,化学工業会長など学界や産業界で活躍した。
東大で工学教師を務めたスミスが工部大学校の教育を批判したことに対し,『エンジニア』誌に反論を載せ,ダイアーの教育実験を弁護したことは有名である。
死没時には日本においても追悼会が催された。
「朝日日本歴史人物事典の解説」から

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◆明治6年(1873)に化学の講師として来日したイギリス人理化学研究者・教師。
工部大学校、理科大学で教鞭を執りました。
来日時は36歳の若さでしたが、本国イギリスでは次亜硝酸塩の発見などですでに研究者としての名声も高く、ヨーロッパの理学・化学研究の最先端に立つ人物の一人でした。
日本滞在は26年の永きに渡りました。
銅像は、帰国の翌年に長年の功績を顕彰して建立されました。
豊かな髭を蓄えた姿が印象的な胸像で、理学部7号館のバス通り側角に置かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
建造されて110年も経っている像ですが、古さを感じさせません。
髭が特徴的で、台座も含めスマートな感じがします。

チャールズ・ウェスト
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チャールズ・ウェスト 像
(東京都 文京区 東京大学)

ウェスト (West, Charles Dickinson)
(1847年-1908年)
イギリスの機械工学者

撮影日:2010年12月18日
分 類:外国人、機械工学者
作 者:沼田 一雅
評 価:☆☆☆

1847年1月生まれ。
明治15年(1882)工部大学校(のち東京帝大)教師として来日。
造船学科創設に尽力。
舶用機関学などをおしえ,おおくの造船技術者をそだてた。
明治41年1月10日東京で死去。61歳。
アイルランド出身。ダブリン大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆チャールズ・ウェストは、1847年にアイルランドのダブリンで生まれました。
大学で機械工学を修めたのち、製鋼所で働くかたわら造船技術を修得しています。
日本政府の招きで明治15年(1882)に来日。
工部大学校講師として機械工学、造船学を教えました。
周囲を海に囲まれた日本においては、産業の根幹となる機械工業の発展と同時に造船と海運の近代化もまた急務であり、チャールズ・ウェストの教壇で学んだ学生の多くがこれらの分野に巣立ち、その近代化に邁進しました。
来日後はそのまま日本に滞在しましたが、1908年、惜しまれつつ世を去っています。
銅像は、台座付きの胸像で彫刻家・沼田一雅(ぬまたいちが)の手によるものです。
像の周囲にはライトが設置されており、夜間はコンドル像とともにライトアップされますが、胸像でライトアップの設備を持つものは非常に珍しいといえるでしょう。
なお、この像の原型となった石膏像も工学部機械工学科に所蔵(非公開)されています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
工学部1号館前におられます。
ちょと斜めを向いた姿が、いい感じです。
台座も凝っています。

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リウス・スクリバ
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リウス・スクリバ 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治40年
分 類:外国人、医学者
作 者:長沼守 敬
評 価:☆☆☆☆

リウス・スクリバ(Scriba, Julius Karl)
(1848年-1905年)
ドイツの医学者

1848年6月5日生まれ。
明治14年(1881)来日し,シュルツェの後任として東京大学の外科教師となる。
皮膚病学,梅毒学,眼科学,裁判医学も担当。
34年大学を退職し,聖路加病院の外科主任となる。
日本外科学の恩人といわれる。
明治38年1月3日鎌倉で死去。56歳。
ワインハイム出身。ハイデルベルク大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆1881年から東京大学医学部で外科の教鞭を執った(眼科・皮膚科も担当)ドイツ人医学者です。
ベンツ同様、当時、日本人教授が不足していた状況で外科教育の発展に残した功績は大きく、退職後は聖路加病院の外科主任も務めましたが、1905年、57歳の若さで亡くなりました。
銅像は、1907年に日本医学界への貢献を称えて建立されました。
ベンツ像・スクリバ像ともに台座を備えた胸像で、画家・彫刻家の長沼守敬の製作です。
ほぼ同時期に東大に在籍し教壇に立った2人の像は、並んで御殿下グラウンド脇に設置されています。
像の解説文には「内科学外科学を教授指導しわが国近代医学の真の基礎を築いた恩人」とあります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[[エピソード]
◎下関での李鴻章負傷事件、ロシアの皇帝が負傷した大津事件などで、日本政府の要請により現地に出張した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
100年以上も経っている像です。
ベルツ像とともに並んでおられます。
後ろの台座も素晴らしく、シンメトリーで優れたデザインの像です。

エルヴィン・ベルツ
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エルヴィン・ベルツ 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治40年
分 類:外国人、医学者
作 者:長沼守 敬
評 価:☆☆☆☆

エルヴィン・フォン・ベルツ
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

エルヴィン・ベルツ (Bälz, Erwin von)
(1849年-1913年)
ドイツの医学者

1849年1月13日生まれ。
ベルツ花の夫。
明治9年(1876)東京医学校の教師として来日し,生理学,内科学,病理学などをおしえた。ツツガムシ病,脚気(かっけ),日本人の身体的特徴などを研究し,温泉の効用も紹介した。
宮内省御用掛。
38年帰国。
「ベルツの日記」をのこした。
1913年8月31日死去。64歳。
ビーティヒハイム出身。ライプチヒ大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◆ベルツは、ドイツ人の医師・医学者で、1876年に来日。
最初は東京医学校で生理学と薬物学を教えましたが、翌年の東京大学医学部発足に伴って内科学の教壇に立ちます。
当時の医学教育は、まだ日本人教授が足りなかったため外国人教授に期待するところが大きく、ベルツは産婦人科学まで任されていたそうです。
教授職は1902年に退きましたが、そのまま日本に留まり、宮内庁侍医も務めました。
1905年帰国。1911年没。
銅像についてはスクリバ像を参照してください。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[エピソード]
◎蒙古斑
1885年(明治18年)、エルヴィンの医学的貢献でよく知られているのは蒙古斑の命名である。
◎ベルツ水
1883年(明治16年)、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、「ベルツ水」を処方する。
現在ではグリセリンカリ液として日本薬局方・薬価基準に収載されており、17.80円/10ml。

◎草津温泉との関わり
草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。
1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。
「もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。

◎エルヴィンは、親友のシーボルトの影響を強く受け蒐集活動にも取り組む。
花夫人(シーボルト夫人の名も同じ(岩本)ハナ)の協力を得ながら、江戸時代中後期から明治時代前半にかけての日本美術・工芸品約6000点を収集した。
特に、絵師の河鍋暁斎を高く評価し、親しく交わった。
ベルツ・コレクションは現在、シュトゥットガルトのLinden-Museum(リンデン民族学博物館)に収蔵されており、2008年(平成20年)-2009年(平成21年)には「江戸と明治の華-皇室侍医ベルツ博士の眼」展として日本各地で公開された。
展覧会図録がある。

◎文化の面にしてもシーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞に出掛け、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流の榊原鍵吉に弟子入りもしている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
※夏目漱石の有名な小説「三四郎」の中にこの銅像が登場します。
『二人はベルツの銅像の前から枳殻寺の横を電車の通りへ出た。
銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱った』

[感  想]
スクリバ像と並んでいますが、髭を生やした顔は二人よく似ており、同時期に教壇に立った当時間違えられなかったのでしょうか?
蒙古斑の命名者というのも驚きです。
漱石が三四郎の中でこの銅像はどうですか?と問っているのも面白いと思いました。

ジョサイア・コンドル
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ジョサイア・コンドル 像
(東京都 文京区 東京大学)

撮影日:2010年12月18日
建設年:大正11年
分 類:外国人、建築家
作 者:新海 竹太郎
評 価:☆☆☆☆

コンドル
建築學會発行「建築雑誌」より

ジョサイア・コンドル (Conder, Josiah)
(1852年-1920年)
イギリスの建築家

1852年9月28日生まれ。
明治10年(1877)来日,工部大学校(現東大)で建築学をおしえ,辰野金吾ら多くの建築家をそだてる。
建築教育の制度をととのえ,鹿鳴館,ニコライ堂など70以上の建物を設計した。
大正9年6月21日東京で死去。67歳。
ロンドン出身。ロンドン大卒。
作品に東京帝室博物館,三井倶楽部(クラブ)など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆ジョサイア・コンドルは、1852年にイギリス・ロンドンに住む銀行員の子として誕生。
父の死後、建築家を志します。
ロンドン大学などで建築学を学んだのち、1876年にイギリスの名建築家に因んだソーン賞を受賞したことをきっかけに、日本政府の招きを受けて明治10年(1877)に来日しました。
日本では工部大学校(現在の東大工学部建築学科)などで教鞭を執った後に建築事務所を開いて数多くの建築物を手がけました。
手がけた作品の多くは解体・震災や空襲などによる損壊で失われましたが、1891年竣工のニコライ堂や、三菱財閥の岩崎久弥本邸(現在は旧岩崎庭園内の建築物として現存)など、重要文化財になっている建築物を数多く手がけました。
有名な鹿鳴館(1940年に解体)も代表的な作品です。
日本の建築学の発展に多くの足跡を残したジョサイア・コンドルは1893年に日本人女性と結婚、1914年には工学博士号を取得しましたが、1920年に脳溢血で世を去りました。
銅像は、没後2年の大正11年(1922)に、長年の功績を称えて製作が決定し、翌年除幕されました。製作は新海竹太郎で、東大内の銅像では比較的数が少ない台座付きの立像になっています。また台座には2体の邪鬼も描かれています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

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台座の邪鬼

[主な作品]
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コンドルの設計による初代の神田ニコライ堂(1910年頃)

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旧岩崎邸(正面)
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旧岩崎邸(南側)
岩崎久弥邸(1896年頃、湯島、旧岩崎邸庭園)重要文化財

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古河邸(1917年、旧古河庭園)

日本の近代建築に残したコンドルの足跡は不滅である。
また、コンドルの真価が発揮されたのは工部大学校での教育・人材育成であろう。
日本銀行本館や東京駅などを設計した辰野金吾、
のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊(かたやまとうくま)、
慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣(せんしょうかく)」を手掛けた曽根達蔵(そねたつぞう)など、
そうそうたる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献した。
【三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」から抜粋】


[感 想]
日本の近代建築に大きな影響を与えた人物です!
東京大学の工学部の前庭に立っておられます。
手をポケットに突っ込んだスーツの立ち姿が、かっこいいです
バックの銀杏の木がいい感じです。

安井 誠一郎
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安井 誠一郎 像
(東京都 台東区 上野公園 東京文化会館前)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和41年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

安井 誠一郎
「日本財団図書館ホームページ」から

安井 誠一郎(やすい せいいちろう)
(1891年-1962年)
官僚、政治家

明治24年3月11日生まれ。
安井謙の兄。
内務省にはいり,東京市社会局長をへて宇垣一成(かずしげ)朝鮮総督の秘書官などを歴任。
昭和15年新潟県知事。
22年公選による初代東京都知事となる。
以後34年まで3期の在任中,首都の戦災復興につとめ,巨大都市化を推しすすめた。
35年衆議院議員。
昭和37年1月19日死去。70歳。
岡山県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆安井誠一郎は、戦前・戦後にかけて活躍した官僚・政治家で、厚生事務次官や初代東京都知事(1946年より東京都長官を務めていましたが、任期中の1947年に地方自治法改正に伴って、それまでの東京都長官から東京都知事に名称変更されたため初代都知事に)など多くの要職を務めました。
特に都知事として戦後の食糧難や復興対策、東京オリンピックの招致に尽力したことで知られており、都知事退任後、その功績により名誉都民に推されています。
この胸像は上野駅公園口前の東京文化会館前にありますが、安井家の墓所がある多摩霊園内には立像があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
左側の肩が無い珍しい像です。
仕上げがちょっと変わっていて、荒々しい感じがします。

柴田 清
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柴田 清 像
(東京都 港区 恵比寿 サッポロビール本社)

撮影日:2010年12月18日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

柴田 清(しばた きよし)
(1887年-1961年)
実業家

明治20年7月10日生まれ。
明治精煉,日本硝子(ガラス)工業をへて,大日本麦酒(ビール)に転じ,常務となる。
昭和24年過度経済力集中排除法により同社が朝日麦酒と日本麦酒に分離した際,日本麦酒(現サッポロビール)初代社長に就任。
昭和36年9月11日死去。74歳。
栃木県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
恵比寿のサッポロビール本社の公園に高橋 龍太郎像と並んでおられます。
少し微笑んだ顔が印象的な像です。

高橋 龍太郎
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高橋 龍太郎 像
(東京都 港区 恵比寿 サッポロビール本社)

撮影日:2010年12月18日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

高橋 龍太郎
「日本サッカーアーカイブホームページ」から

高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう)
(1875年-1967年)
実業家、政治家
日本のビール王と呼ばれる。

愛媛県内子町生まれ。
旧制松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年同卒。
大学卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒(現アサヒビール・サッポロホールディングス))に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。
後に社長となり、ビールを日本の大衆文化に成長させた。大日本麦酒分裂後はサッポロビールの役員となっていたが、不調に終わったアサヒ・サッポロ両社の再統合に向け働きかけていたとされる。
またプロ野球への造詣も深く、戦前にはイーグルス(現存しない東京の球団)、戦後には高橋ユニオンズ(1955年だけトンボユニオンズ。現存しない)のオーナーとなった。
また戦死した子息が学生時代にサッカーをしていた縁もあり、第3代日本サッカー協会会長(1947年~1954年)に就任、2005年には第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。
留学やビール、サッカーでの縁もあり、日独協会会長に就任(1955年4月~1965年7月)。
政治家としての経歴は、1946年に貴族院勅選議員を務めるも、日本国憲法施行による改組のため翌1947年に参議院議員に転じ、1951年には通産大臣に就任した。
また財界人としては、1947年に日本商工会議所会頭に就任した。
上記各界での功績により、1964年に勲二等旭日重光章を受章。
1967年12月22日死去、享年92。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
恵比寿のサッポロビール本社の公園に柴田清像と並んでおられます。
髭やしわなどリアルな感じの像です。

有栖川宮熾仁親王
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有栖川宮熾仁親王
(東京都 港区 南麻布 有栖川宮記念公園)

撮影日:2010年12月18日
建設年:明治36年
分 類:皇族
作 者:大熊 氏廣
評 価:☆☆☆☆

陸軍大将大礼服着用の熾仁親王
陸軍大将大礼服着用の熾仁親王
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみやたるひとしんのう)
(1835年-1895年)
明治時代の皇族、政治家、軍人

有栖川宮幟仁親王の第1王子。
天保6年2月19日生まれ。
国事御用掛となるが,尊攘運動を支持し,禁門の変ののち失脚。
王政復古後新政府の総裁となり,戊辰戦争に東征大総督,西南戦争に征討総督として出征した。
明治10年陸軍大将,22年参謀総長。
明治28年1月15日死去。61歳。幼称は歓宮(よしのみや)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆有栖川宮熾仁親王は、明治新政府発足に際して政治・軍事の面で大きな役割を果たした皇族です。
「皇女和宮」として知られる親子内親王の最初の婚約者であり、後に徳川慶喜の妹にあたる徳川斉昭の娘貞子と結婚しています。
天保6年(1835)に京都御所内北東の有栖川宮邸で誕生。
若くして倒幕運動に理解を示し、長州藩士を始めとする反幕勢力の結集に協力しました。
明治天皇の厚い信任を得て、暫定政治指導体制として設けられた三職のトップである総裁を務め、戊辰戦争では江戸を目指す新政府軍を率いる東征大都督の要職にも就きました(品川弥二郎作詞のトコトンヤレ節に唄われている「宮さん」は熾仁親王である)。
しかし西南戦争では、鹿児島県逆徒征討総督として九州に渡り、かつて東征の路を共に歩んだ西郷隆盛と対峙する立場になっています。
政治家としての実績も多く、西南戦争の渦中で行われた博愛社(後の日本赤十字社)設立の建策に独自の判断で許可を与え、また福岡を中心として経済を混乱に陥れた贋札事件の沈静化に尽力。元老院議長も務めました。
日清戦争勃発に際し、広島に置かれた大本営に日本軍総司令官として着任しましたが、腸チフスを発症し、明治28年(1895)1月15日、逝去しました。享年61歳。
銅像は、大山巌ら陸海軍の重鎮から建立の建策が出され、陸海軍軍人と一般からの献金を集めて明治36年(1903)、千代田区三宅坂の陸軍参謀本部前で除幕。
製作は彫刻家大熊氏廣で、日本の最高勲章である大勲位菊花頚飾(だいくんいきっかけいしょく)を佩用した礼装姿の堂々たる乗馬像です。
除幕式典には縁深き徳川慶喜も招かれました。
後に道路拡張に伴う区画整理で移築され、現在は港区広尾の有栖川記念公園内にあります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
有栖川記念公園の広場におられます。
馬に跨った姿は、堂々としていて、帽子の羽が印象的な像です。

岩崎 きみ
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岩崎 きみ 像
(東京都 港区 麻布十番)

撮影日:2010年12月18日
建設年:平成元年
分 類:その他
作 者:佐々木 至
評 価:☆☆☆

岩崎 きみ(いわさき きみ)
(1902年-1911年)

明治35年(1902)7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。
きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。
母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。
当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。
かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。明治40年(1907)のことです。
鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。
明治41年(1908)、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」
雨情は明治41年(1908)に長女を生後わずか7日で亡くしています。
おそらくそんな日常の生活の中でかよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。
「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。
こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではないでしょうか。
雨情は 、また夭折した長女を「・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・・」と「シャボン玉」に詠ったと言われています。
後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうです。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。 
ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻(右写真)とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。
しかし、意外な事実がわかったのです。
きみちゃんは船に乗らなかったのです。
ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核 に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。
薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜でした。
3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。
母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月28日(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。

◎きみちゃん
 佐々木 至 作 1989.2.28.完成
 像 600mm  台座 700mm
 頭部と足:ブロンズ  胴部分:赤御影石  台座:御影石
「麻布十番商店ホームページ」から

◆麻生十番駅から善福寺に向かう途中には、物悲しい由来の小さな女の子像もあります。
佐野きみ(1902-1911)は、静岡県清水市で生まれた女の子で、生活苦から外国人宣教師に預けられたものの、栄養失調で結核を発症し、麻布の教会に併設された孤児院で亡くなりました。
この経緯が、後に作詞家・野口雨情により『赤い靴』として描かれました。
なお、神奈川県横浜市の山下公園には座像が、生誕の地の静岡県清水市には、母との別れの場面を描いた母子像があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
赤い靴の歌は、聞くと物悲しい感じがしていましたが、本当は異人さんに連れられていかなかったという事実には驚きました。
像は、顔と足がブロンズで、体の部分が御影石というちょっと変わった像です。

法然
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法然 (勢至丸)像
(東京都 港区 芝公園 増上寺)

撮影日:2010年12月18日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

法然
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

法然 (ほうねん)
(1133年-1212年)
平安後期-鎌倉時代の僧

長承2年4月7日生まれ。
比叡山で源光,皇円,叡空に師事し,黒谷で法然房源空と称した。
源信や唐(中国)の善導の思想的影響によって,安元元年専修念仏の教えを確立し,比叡山をくだり東山大谷で浄土宗をひらく。
帰依者がふえると,既成仏教教団の反感をまねき,念仏は禁止され,承元元年四国へ流されたが,のちゆるされて京都にかえった。
建暦2年1月25日死去。80歳。
著作に「選択(せんちやく)本願念仏集」など。
【格言など】一丈の堀を越えんと思わん人は,一丈五尺を越えんと励むべし(「勅修御伝」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆芝公園の増上寺の境内には、浄土宗の開祖、法然(法然房源空・1133-1212)の幼少時代(勢至丸)の像があります。
9歳で父を亡くした勢至丸は比叡山延暦寺に上り、出家して仏門に帰依します。
延暦寺より下った後は浄土宗を開いて教えを広め、親鸞も法然の弟子でした。
昭和57年(1982)に当時の増上寺執事長が寄進したものです。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
法然の幼少時代の像が、増上寺の前にあります。
手を合わせた座った姿が印象的です。
幼少期の像は、徳川家康に次いで2像目です。

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増上寺と東京タワー

平櫛 田中
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平櫛 田中 像
(東京都 小平市 小平市役所)

撮影日:2010年12月15日
建設年:昭和55年
分 類:文化人
作 者:濱田 泰三
評 価:☆☆☆

平櫛 田中
「小平市 平櫛田中 彫刻美術館ホームページ」から

平櫛 田中(ひらくし でんちゅう)
(1872年1979年)
明治-昭和時代の彫刻家

明治5年1月15日生まれ。
30年上京して高村光雲にまなぶ。
40年日本彫刻会を結成,同会展の出品作で岡倉天心にみとめられた。
日本美術院再興につくす。
昭和19年東京美術学校(現東京芸大)教授。
彩色木彫作品がおおい。37年文化勲章。
昭和54年12月30日死去。107歳。
岡山県出身。
旧姓は田中。本名は倬太郎。
作品に「転生(てんしょう)」「鏡獅子(かがみじし)」など。
【格言など】六十,七十はなたれこぞう,おとこざかりは百から百から(99歳での書「不老」の添書き)

[感  想]
小平市役所の中庭におられます。
107歳の長寿には驚きです。
杖をつきながらしっかりとした姿が印象的な像です。
東京藝術大学の岡倉天心1の銅像の作者です。
国土交通大学の中に田中の詩が飾ってあります。

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北村 西望
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北村 西望 像
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:大正7年
分 類:彫刻家
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆

北村 西望(きたむら せいぼう)
(1884年-1987年)
明治-昭和時代の彫刻家

明治17年12月16日生まれ。
大正5年文展で「晩鐘」が特選となる。
10年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授。
14年帝国美術院会員。
昭和30年長崎の「平和祈念像」を完成。
33年文化勲章。
力づよい男性裸像にすぐれた。
昭和62年3月4日死去。102歳。
長崎県出身。
本名は西望(にしも)。
著作に「百歳のかたつむり」。
【格言など】たゆまざる歩みおそろしかたつむり―自分は天才ではない。
他人が五年でやることを十年かけてでもやる
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
北村西望の自刻彫像です。
彫刻家にしかできない自分の銅像ですが、自刻彫像は初めてです。
荒い感じの像で、髭が特徴的です。

平和
平和祈念像
平和祈念像は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像。
神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は原爆の恐怖を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。
被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成。
像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さは約30トンあり、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツをステンレスのボルトで縫ってある。
右手の人差し指には避雷針が設置されている。
この像の原型は、東京都武蔵野市の井の頭公園内の「北村西望彫刻館」にある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
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北村西望彫刻館の原型

寺内 正毅
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寺内 正毅 像
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:大正10年
分 類:軍人
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

寺内正毅
「近代日本人の肖像ホームページ」から

寺内 正毅(てらうち まさたけ)
(1852年-1919年)
明治-大正時代の軍人,政治家
内閣総理大臣(第18代)

嘉永5年閏2月5日生まれ。
寺内寿一の父。
母方の寺内家をつぐ。
明治35-44年陸相をつとめ,この間の39年陸軍大将。
43年初代朝鮮総督をかねる。
大正5年元帥となり超然内閣を組織するが,シベリア出兵による米騒動などで,7年総辞職した。
大正8年11月3日死去。68歳。周防(山口県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「ビリケン内閣」
大正5年(1916年)6月24日、元帥。
10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。
朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。
時は第一次世界大戦の最中であり、寺内首相は大正7年(1918年)8月2日シベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日総辞職した。
だが、この内閣末期には既に病気がちであり、翌年に病没する。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
山口県山口市出身の軍人です。
像は、北村西望の彫刻園の中に展示されています。
コートを着て馬に跨る姿が印象的です。
銅像は帽子を被っていますが、写真を見ると確かにビリケンに似てますね。


織田 信長
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織田 信長 像
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和45年
分 類:武将
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

織田 信長
紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

織田信長 (おだ のぶなが)
(1534年-1582年)
戦国-織豊時代の武将

天文3年生まれ。
織田信秀の子。
永禄2年尾張(愛知県)を統一。
3年桶狭間の戦いで今川義元を破る。
徳川家康と同盟し,10年美濃を征服して岐阜を拠点とする。
11年足利義昭を擁立して京都にはいるが,のち対立。
天正元年義昭を追放し,室町幕府をほろぼす。
浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し,伊勢長島の一向一揆を鎮圧,武田軍との長篠の戦いにも勝利。
4年近江に安土城をきずく。
天下統一を目前にして,明智光秀の謀反にあい,天正10年6月2日京都本能寺で自刃した。49歳。
尾張出身。
【格言など】人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか(「信長公記」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
武蔵野市の井の頭自然文化園内には、北村西望の彫刻園が有り屋外に作品が数多く展示されています。
題:「若き日の織田信長」
馬に跨り、後ろに向かって弓を引く若き日の信長の姿です。
躍動感あふれる像です。

北条 時宗
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北条 時宗 像
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和16年
分 類:武将
作 者:北村西望
評 価:☆☆☆

北条 時宗(ほうじょう ときむね)
(1251年-1284年)
鎌倉時代の武将

建長3年5月15日生まれ。
北条時頼の子。母は北条重時の娘。
文永元年連署となり,3年将軍宗尊親王を廃し,惟康親王を擁立。
5年8代執権につく。
9年庶兄の北条時輔らを討ち,得宗としての地位を確定。
九州の防備体制をかため,2度の蒙古軍の来襲を撃退(文永・弘安の役)。
禅宗に帰依し,無学祖元をまねき円覚寺を建立した。
弘安7年4月4日死去。34歳。
幼名は正寿。通称は相模太郎。法名は道杲(どうこう)。
【格言など】御家人已下,軍兵等は守護の命に随い,防戦の忠を致すべし(弘安の役で御家人へ発した教書)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
彫刻園の中に展示されています。
小さい像ですが、左手で刀を杖に、立っている姿は堂々としています。

ペリー
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ペリー 像
(東京都 港区 芝公園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和28年
分 類:外国人
作 者:フェリックス・ウエルドン
評 価:☆☆☆

ペリー
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)
(1794年-1858年)
アメリカの軍人

1794年4月10日生まれ。
海軍大佐。
東インド艦隊司令長官となり,嘉永6年(1853)浦賀沖に来航。
日本に開国をもとめるフィルモア大統領の国書を幕府にわたし,翌年再来日して日米和親条約を締結した。
帰途,琉球王国とも修好条約を調印。
1858年3月4日死去。63歳。ロードアイランド州出身。
著作に『ペリー提督日本遠征日記』。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆ペルリはオランダ語読みで、英語ではペリー。
黒船を率いて日本を訪れ、その後の日本の国策を一気に〝開国〟へと傾けたアメリカ海軍軍人マシュー・カルブレイス・ペリーその人です。
ペリーの父はプライバティア(私掠船)の船長出身、兄(次兄)は米英戦争の英雄で、自身も1809年に海軍に入り、海軍工廠の所長としてアメリカ海軍初の蒸気軍艦『フルトン』の建造を手がけるなど、蒸気船の建造と人材育成に尽力して『蒸気船海軍の父』、『アメリカ海軍近代化の父』と呼ばれました。後に東インド艦隊の司令官となり、日本を訪れることになります。
いわゆる黒船来航の際、ペリーが率いていた4隻のうち2隻は測量用の艦船でした。
ペリーの来日目的は日本に開国を求めること(寄港地確保のため)にあり、同時に港湾の測量を計画していました。
ペリーはアメリカの国威をもって迫れば日本は要求に従うだろうと考えていたようですが、結局は幕府が示した開国の返答延期を受け入れます。
理由は諸説ありますが、港湾測量をするうちに、手元にあった日本地図が科学測量を駆使する自分たちの測量と寸分たがわぬ正確さを持っていることを知ったためといわれます。
この地図は、かつてシーボルトが国禁を破って持ち出した『大日本沿海輿地全図』を元にしたもので、このことによって、日本が予想以上の文明国であるとの認識を持ち慎重姿勢になった理由といわれます。
銅像は、日比谷通り沿いの芝公園内(増上寺正門前あたり)にあります。
1952年に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地であるロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られたもので、イギリス海軍の影響が色濃かった18~19世紀前半頃の高襟の軍服姿を描いた胸像です。
ペリーの顔は、軍服姿の肖像画の、貫禄を感じさせる風貌が知られていますが、像のほうは若々しく精悍さ溢れる表情になっています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
幕末の日本を震撼させた黒船に乗ってきたアメリカ人ペリーの像です。
歴史の教科書などでよく目にする下の写真とはだいぶ印象が違います。
首から上だけで顔が異常に大きいのは、アメリカ製だからかもしれませんが、日本の銅像とはちょと違う感じがします。

シーボルト
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シーボルト 像
(東京都 中央区 明石町 あかつき公園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和63年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

シーボルト肖像
シーボルト肖像画 (附属図書館所蔵)
「県立長崎シーボルト大学ホームページ」から

シーボルト(Siebold, Philipp Franz von)
(1796年-1866年)
ドイツの医師,博物学者

1796年2月17日生まれ。
楠本いねの父。
文政6年(1823)長崎出島のオランダ商館医として来日。
鳴滝塾などで医学,博物学をおしえ,日本の洋学発展につくす。
11年国禁の地図の海外持ち出しが発覚し,国外追放となる(シーボルト事件)。
帰国後「日本」「日本植物誌」などをあらわす。
安政6年再来日。
長男,次男ものち日本で外交官として活躍。
1866年10月18日死去。70歳。ビュルツブルク出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆江戸時代末期に来日し、医学などヨーロッパの知識を伝えたドイツの医師・博物学者です。
現在のドイツ南部ヴュルツブルグで医学の名門の家庭に生まれ、医学を学んだのち、文政6年(1823)に長崎の出島にあったオランダ商館付きの医師として来日します。
翌年には鳴滝塾という私塾を開設して日本人に西洋医学を教えますが、1828年に帰国する際、国禁とされた日本地図(大日本沿海輿地全図の縮図)を持ち出そうとしたことが発覚。
追放処分になりますが、日本が1854年に開国した後にこの処分は解かれて再来日しています。
最初の日本滞在中に生物・民族・地理・気候に関する情報を集め、帰国後に『日本』を執筆。
これは日本研究の書として欧米の知識人や軍人たちが愛読し、1853年に浦賀に来航したペリー提督も『日本』を携えており、シーボルトのアドバイスを受けていたといわれます。
銅像は、築地のあかつき公園内にあります。
シーボルトの銅像は、やはり長崎に数多く存在しますが、実は出島だけでなくオランダ人の随員として江戸・日本橋の長崎屋に滞留しており、その間に日本人蘭学者に講義を行っています(江戸蘭学所縁の地という)。
また、彼が日本でもうけた娘いねが近隣の築地で産院を開業したことなど、縁の深い地であることから都内にもシーボルト銅像が置かれているのです。
台座付きの胸像で、昭和63年(1988)に、日蘭友好を目的としてオランダのライデン大学とイサーク・アルフレッド・エリオン財団より寄贈されたものです。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

シーボルト切手
シーボルト生誕200年を記念したドイツの切手
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
築地のあかつき公園で公園を眺めておられます。
髭と濃いい眉毛が特徴的で、ちょっと横を向いている像です。

可美真手命
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可美真手命 像
(東京都 中央区 浜離宮庭園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:明治27年
分 類:武神
作 者:佐野 昭
評 価:☆☆☆☆

可美真手命(うましまでのみこと)
武神、物部氏らの伝説上の先祖

『古事記』『日本書紀』『旧事本紀』によると,神武天皇の東征に先立って,天磐船で天降り大和の地にあった天神饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が,土着の勢力である長髄彦の妹と結婚して生んだ。
長髄彦は,神武東征の際,神武の軍にとって最も手強い敵だったが,ニギハヤヒ(『旧事本紀』ではウマシマデ)が長髄彦を殺して神武の側についたので,最終的に大和の平定が成った。
天皇はその功績をほめてウマシマデに神剣を授け,これが石上神宮(天理市)の御神体だという。
ウマシマデは天からもたらされた10種の神宝を天皇に献じ,以後武をもって仕えた。
物部氏独自の歴史と伝統を象徴する人物である。
「出典:朝日日本歴史人物事典」から

◆可美真手尊は物部氏の祖といわれ、古代日本を記した歴史書の一つである『 旧事本紀(くじほんぎ)』では神武東征において神武軍に協力し、平定に寄与したとされています。
以後は、もっぱら武将として天皇に仕えたことから、武神ともいわれます。
銅像は、浜離宮恩師庭園にあります。
台座付きの立像で、腕に霊剣「布都御霊(フツノミタマ)」を抱えています。
この剣は神武東征の後に下賜された(『旧事本紀』)もので、荒ぶる神を鎮める力を持つといわれ、後には御神体として祭られたといわれます。
明治27年(1894)の明治天皇大婚二十五年(銀婚式)の祝典に際し、陸軍省が行った懸賞募集に応えたもので、国会議事堂の柱の彫刻などを手掛けた佐野昭の製作により献納されたものです。
この銅像がある浜離宮庭園は、1654年に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の実弟で甲府藩主徳川綱重が芦原を埋め立てて屋敷を設けたのが始まりで、現在では国の特別名勝と特別史跡に指定され、一般に公開(有料)されています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
明治27年建立で、なんと117年も経っている像です。
剣を右手に持ち左手で包むさっそうとして姿と髭が印象的です。

春日局
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春日局 像
(東京都 文京区 春日 礫川公園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:平成元年
分 類:その他
評 価:☆☆☆

春日局
春日局(斎藤福)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

春日局(かすがのつぼね)
(1579年-1643年)
大奥の女中

徳川家光の乳母。
明智光秀の臣斎藤利三の女で,名はお福。
稲葉正成に嫁し稲葉正勝ら4男を生む。
家光出生とともに乳母となる。
家光の将軍継嗣問題では駿府の大御所家康に直訴するなど尽力,後に大奥内外に勢力を振るう。
「百科事典マイペディア」から

◆春日局(かすがのつぼね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の女性で、徳川幕府三代目将軍、徳川家光の乳母を務め、家光が父秀忠の後継者となり、将軍職に就任するにあたって大きな功のあった人物です。
春日局は美濃守護代を務めた名族、斎藤氏の一流の出身で、天正7年(1579)、明智光秀の重臣・斉藤利三の娘として誕生しました(母は戦国武将として知られる稲葉一鉄の娘)。
本名は福といいます。
父が明智光秀の謀反に連座して処刑されると一族はばらばらになりますが、福は難を逃れて一時母方縁者の公家の下で養育され、後に伯父の稲葉重通の養女になります。
成長した福は、稲葉一鉄の係累である稲葉正成と結婚。
武将の妻としての幸せを手にしたかに思われましたが、公家教育を受けた福の高い教養に注目した徳川将軍家が秀忠の子・竹千代(後の家光)の乳母に指名したため、夫と離縁して江戸城に入りました。
春日局の名は、後に宮中に参内した際、朝廷から賜ったものです。
竹千代の乳母としては、弟の国松が両親の寵愛を受けていることに悲観して自害しようとする竹千代を諌め、将軍後継者としての自覚を諭した、というエピソードが有名です。
その一方で、大奥では御年寄りとして公務を仕切るなど、実務や統率の面でも力を奮いました。
その後も大奥の制度の整備や、家光の側室探しにも尽力するなどし、寛永20年(1643)年、64歳で世を去りました。
銅像は文京区春日の礫川公園(文京区役所の向かい)にあります。
春日の地名は、春日局が家光より土地を拝領したことに由来するそうです。
昭和64年(平成元年/1989)にNHK大河ドラマ『春日局』が放映されたことを契機として、地域振興などを目的とする事業の一環として製作が決定。平成元年に建立されました。
台座付きで、扇を持った立像です。
春日局(福)が乳母になったのは25歳ごろのことですが、銅像も若さを感じさせる姿で、お局様というよりお福様と呼びたいような像です。
時代が新しいだけあって、現代的な雰囲気の面立ちが印象的です。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
着物を着て、扇子で前を指し示す立ち姿は、気品があります。





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