ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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田中 龍夫
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田中 龍夫 像
(山口県 萩市 平安古町 旧田中別邸)

撮影日:2011年8月16日
建設年:平成16年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

田中 龍夫
田中 龍夫(たなか たつお)
(1910年-1998年)
日本の政治家

元自由民主党衆議院議員。男爵。正三位勲一等。
田中義一元首相の長男。
通商産業大臣、文部大臣を歴任。
福田派の幹部として重きをなし、岸派以来の福田赳夫側近として、福田と行動を共にした。
また長らく「日本海外移住家族会連合会」の会長を務め、世界各地の日系移民とその家族の支援に尽力した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
旧田中別邸の中におられます。
眼鏡が特徴的な、茶色の像です。
畳の上に置かれているのも珍しいと思います。


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旧田中別邸
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菊池 武時
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菊池 武時 像
(熊本県 菊池市 隈府 菊池神社)

撮影日:2011年8月7日
建設年:昭和59年
分 類:武将
作 者:田島義朗
評 価:☆☆☆☆

菊池 武時(きくち たけとき)
(不詳-1333年)
鎌倉時代の武将

菊池隆盛の次男。
肥後(熊本県)菊池氏惣領12代。
伯耆(鳥取県)船上山からの後醍醐天皇の討幕の呼びかけに応じて鎮西探題赤橋英時を攻めるが,正慶2=元弘3年3月13日子の頼隆,弟の覚勝とともに敗死した。
享年には42,53,64の諸説がある。
幼名は正竜丸。通称は次郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
菊池神社の境内におられます。
小ぶりな騎馬像ですが、しっかりと作られており、躍動感がある像です。

高木 元右衛門
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高木 元右衛門 像
(熊本県 菊池市 上町)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成22年
分 類:幕末藩士
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

高木 元右衛門(たかぎ もとえもん)
(1833年-1864年)
幕末の武士

天保4年生まれ。
肥後熊本藩の郷士。
文久2年京都で皇居守備につく。
翌年八月十八日の政変では七卿を護衛して長州へいく。
深川策助の変名で活動,池田屋事件では難をのがれたが,
禁門の変で元治元年7月19日戦死。32歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感 想]
わいふ一番館という資料館の前におられます。
刀に手をかけた、堂々とした武士の姿です。
台座の側面には、
辞世の歌が刻まれています。


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宮本 武蔵
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宮本 武蔵 像
(熊本県 熊本市 武蔵塚公園)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成元年
分 類:剣士
作 者:三坂耿一郎
評 価:☆☆☆

宮本武蔵
宮本武蔵像 島田美術館蔵 熊本県指定重要文化財

宮本 武蔵(みやもと むさし)
(1584年-1645年)
江戸時代前期の剣術家

天正12年生まれ。
播磨(兵庫県)または美作(岡山県)の人で,父は一説に新免無二斎。
二天一流をひらく。
生涯六十余度の試合に不敗をほこり,吉岡一門,佐々木小次郎との決闘が名だかい。
晩年は肥後熊本藩の客分となった。
水墨画にもすぐれ,代表作に「枯木鳴鵙図」など。
正保(しょうほ)2年5月19日死去。62歳。
名は玄信。号は二天。
著作に「五輪書」など。
【格言など】我(われ)事において後悔せず(「独行道」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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「武蔵と熊本」
寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。
7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、家老以上の身分でなければ許可されない鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。
同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。
翌年に忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。
『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。
この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。
また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。
墓は熊本市弓削にある通称武蔵塚。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

枯木鳴鵙図
「枯木鳴鵙図」

[感 想]
有名な二刀流の「二天一流」の構えの像です。
よく見る宮本武蔵の肖像画を基に作られたと思われます。
終焉の地である熊本でじっと前を見据えておられます。


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松尾 敬宇
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松尾 敬宇 像
(熊本県 菊池市 隈府 菊池神社)

撮影日:2011年8月7日
建設年:昭和44年
分 類:軍人
評 価:☆☆☆

松尾 敬宇
松尾 敬宇(まつお けいう/よしたか)
(1917年-1942年)
海軍軍人

熊本県山鹿市久原出身。
小学校校長松尾鶴彦の次男として生まれる。
鹿本中学を経て、1938年9月、海軍兵学校を卒業。
特殊潜航艇艇長としてシドニー湾へ突入。
部下の都竹正雄海軍兵曹長と拳銃で自決。
遺骨は駐オーストラリア公使河相達夫に託される。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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[感 想]
菊池神社の境内にある上半身の像です。
涼しげな顔が印象的です。

清浦 奎吾
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清浦 奎吾 像
(熊本県 山鹿市 清浦記念館)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成12年
分 類:政治家
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

清浦奎吾
「近代日本人の肖像ホームページ」から

清浦 奎吾(きようら けいご)
(1850年-1942年)
明治-大正時代の官僚,政治家
第23代内閣総理大臣

嘉永3年2月14日生まれ。
広瀬淡窓創立の咸宜園にまなぶ。
内務官僚として山県有朋に信任され,明治24年貴族院議員。
法相,農商務相,枢密顧問官などを歴任し,大正13年貴族院を母体に超然内閣を組織するが,総選挙で護憲三派に敗れ,5ヵ月で総辞職した。
昭和17年11月5日死去。93歳。
肥後(熊本県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感 想]
清浦記念館の前庭におられます。
実物大よりちょっと小ぶりな感じの像ですが、ステッキと帽子を手にした姿が印象的です。
清浦奎吾という人物も初めて知りました。

加藤 清正 4
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加藤 清正 像 4
(熊本県 熊本市 健軍本町)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成23年
分 類:武将
評 価:☆☆☆

「加藤清正:勇ましい騎馬像 生誕450年で健軍神社が建立」
加藤清正の生誕450年を記念した騎馬像がこのほど、熊本市の健軍神社参道に建てられた。
神社は「神社と清正公のゆかりは参拝者にもあまり知られておらず、生誕450年を機に広まってほしい」としている。
今年は加藤清正の没後400年、12年は生誕450年にあたる。
清正は健軍神社前に軍馬の訓練場を作り、その道を参道として神社に寄付するなどゆかりが深い。
八丁馬場と呼ばれる約1200メートルの参道には、清正時代に植えたと伝えられる杉並木の一部が現在も残っているという
銅像は高さ4・8メートル。
訓練場だったことにちなみ、甲冑姿の清正が馬にまたがった躍動感のある姿にした。
像は参道と国道57号が交わる交差点にある。【結城かほる】
「毎日新聞 2011年8月6日 熊本地方版」記事

[感 想]
熊本市内から菊池温泉へ行く途中に偶然発見しました。
出来たばかりの像で、加藤清正の騎馬像は初めてだと思います。
躍動感は有るのですが、馬と清正公のバランスがちょっと悪い感じがします。
制作は、聖有佛像實業有限公司とあったので中国製のようです。

加藤 清正 3
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加藤 清正 像 3
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和35年
分 類:武将
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆☆☆

加藤清正3
加藤清正画像 江戸時代後期
長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)、片鎌槍(かたがまやり)、虎皮の敷物など、
清正らしい要素を多く描き込んである。
「名古屋市秀吉清正記念館ホームページ」から


[感  想]
熊本市本妙寺山上にある加藤清正像1と同じ銅像です。
こちらの像は、間近に見ることができ、迫力満点です!

加藤 清正 2
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加藤 清正 像 2
(熊本県 熊本市 熊本城)

撮影日:2008年11月29日
建設年:昭和54年
分 類:戦国武士、大名
作 者:高藤 鎮夫
評 価:☆☆☆☆☆

[感 想]
甲冑と長烏帽子姿で、自らが築いた熊本城を背に、戦いの陣中に座るような堂々とした姿には圧倒されます。
本妙寺の銅像といい、立ち姿も座っている姿も絵になる人物です。

加藤 清正 1
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加藤清正1
(下の写真は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から) 

加藤 清正 像 1
(熊本市 本妙寺山上)

撮影日:2006年10月20日
分 類:大 名
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆☆☆

加藤 清正1

加藤清正2
清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

加藤 清正(かとう きよまさ)
(1562年-1611年)
織豊-江戸時代前期の武将,大名

永禄5年6月24日生まれ。
豊臣秀吉につかえ,賤ケ岳の戦いに七本槍のひとりとして活躍。
天正16年肥後(熊本県)半国の領主となる。
文禄・慶長の役で朝鮮に出兵,講和派の石田三成らと対立した。
関ケ原の戦いでは東軍に参加。
戦後,肥後一国の領主となり,堅固な熊本城をきずいた。
慶長16年6月24日死去。50歳。
尾張(愛知県)出身。
通称は虎之助。
【格言など】汝等はひとしく予が股肱腹心なり。使うところはその器に従うのみ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」から

[エピソード]
◎藤堂 高虎と並んで築城の名手として知られ、特に大きな反りを持たせた石垣の積み方が美しいといわれた。
三名城の熊本城や、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。
また、領内の治水事業にも意を傾け、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。

◎清正は現在、戦国時代の名将として民衆から現在に至るまで崇められ、愛されている。

◎熊本県(旧肥後藩)においては、現在も県民の尊敬を集め、「清正公(せいしょこさん)」として種々の史跡や祭りなどにも取りあげられており、その人気は高い。

◎6尺3寸(約191cm)の大男だったと言われている。
だが実は5尺3寸(約161cm)にも満たない身長であったが、かぶる兜を長くして全体像を高く見せる事によって、相手に威圧感を与えようとしていたという説もあるようだ。

◎かなりの潔癖症であり、便所で用を足す際は30cmの高さもある下駄を履いてしていた。

◎口の中に拳を入れる事ができたという逸話がある。
その話を聞いた新選組局長・近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていたという。

◎清正は豊臣氏への忠義を終生、忘れなかったが、家康を恐れ、その天下も認めていた。朋友の福島正則が、家康の子・徳川義直が入る尾張名古屋城の普請を命じられたとき、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して、清正は「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と告げたという。

◎清正は朝鮮出兵で三成と対立し、それが原因で秀吉から京都に召還された後、伏見に蟄居させられていた。
しかし慶長元年(1596年)、伏見の大地震が起こって秀吉がいた伏見城が倒壊したとき、清正は300人の手勢を率いていち早く秀吉のもとに駆けつけ、警護を務めたと言われている。
蟄居身分でありながら、これは秀吉の許しもなく駆けつけたものであり、一つ間違えれば切腹となるところだったが、秀吉は清正の忠義を賞賛して朝鮮での罪を許したという。
これにより、清正は「地震加藤」と称された。

◎平時でも、常に腰に米三升と味噌、銀銭300文を入れていた。
ある時親友の正則が「それでは腰が重いだろうが」と述べると、「わしだって軽くしたい。だが、わしがこうしていれば、家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」と答えたという。
また、平時に腰兵糧をつけるのを忘れた小姓を怠慢であるとして免職にしたという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
本妙寺から石段を上っていった高台に立ち、熊本市街をじっと見ておられます。
長い槍を持って、そびえたつこの像を見たときは、鳥肌がたちました!
迫力満点、威圧感をひしひしと感じる素晴らしい像です。
この像を見たことがきっかけとなり、銅像コレクションをはじめました。
記念すべき銅像です!

横井小楠をめぐる維新群像
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○横井小楠をめぐる維新群像
左から、坂本竜馬、勝海舟、横井小楠、松平春嶽、細川護久
横井図

「明治維新の夜明けに影響を与えた横井小楠と縁の人々の群像」
横井小楠、通称平四郎、幕末維新期の大思想家です。
横井家は細川藩士家禄150石の家で、小楠は文化6年(1809年)熊本城下の内坪井で生まれました。
藩校時習館に学び、江戸遊学を命ぜられて天下の俊秀と交わり、帰国後実学を唱えて中級武士と惣庄屋層の支持を得ました。
越前松平春嶽公に招聘され、福井藩にその経論を実現し、後に春嶽の幕府総裁職就任に当たっては、その顧問として幕政改革に貢献しました。
その間に勝海舟と親交を得て、また坂本龍馬にも影響を与えました。
文久3年(1863年)帰国を命ぜられ、士席を除かれて隠栖すること5年、明治元年乞われて新政府の参与に出仕、抱負の実現を図りましたが、翌2年正月京の町で志半ばに凶刃に倒れました。
明治3年熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川護久、大参事細川護美の下に、藩士山田・嘉悦・内藤等及び惣庄屋層の徳富・竹崎・長野等により、肥後の維新の到来を見たのでした。
この群像は横井小楠の生誕190年、没後130年を記念して2000年に、千葉城に近い高橋公園に建立されました。
台座には小楠がアメリカ留学に旅立つ甥に贈った「尭舜孔子の道を明らかにし 西洋の器械の術を尽くさば 何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」の言葉が刻まれています。
「熊本城公式ホームページ」から

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この維新群像は、熊本城近くの高橋公園にあります。
細川藩士の横井小楠とそのゆかりの人々の群像です。

横井 小楠 2
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横井 小楠 像 2
(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)
(横井小楠をめぐる維新群像)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成12年
分 類:儒学者
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

[感 想]
群像の中央に上下を着け堂々と立っておられます。


坂本 竜馬 5
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坂本 竜馬 像 5
(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)
(横井小楠をめぐる維新群像)


撮影日:2011年8月7日
建設年:平成12年
分 類:幕末藩士
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

[感 想]
地球儀を示して勝海舟に向かって立っている姿で、他の龍馬の像とはちょっと印象が違います。

勝 海舟 2
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勝 海舟 像 2
(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)
(横井小楠をめぐる維新群像)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成12年
分 類:武士
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

[感 想]
龍馬を見上げ座っておられます。
地球儀が机に置いてあることから、勝海舟と坂本龍馬の出会いの逸話を表したものと思います。

松平 春嶽 3
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松平 春嶽 像 3

(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)
(横井小楠をめぐる維新群像)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成12年
分 類:大名
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

[感 想]
横井小楠像から向かって右側に座っておられます。
若い頃の姿と思われますが、1とは違った印象です。

細川 護久
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細川 護久 像
(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)
(横井小楠をめぐる維新群像)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成12年
分 類:大名
作 者:石原 昌一
評 価:☆☆☆

細川 護久
細川 護久(ほそかわ もりひさ)
(1839年-1893年)
肥後熊本藩の第12代(最後の)藩主
幕末-明治時代の華族

天保(てんぽう)10年3月1日生まれ。
肥後熊本藩主細川斉護の子。
慶応4年新政府の議定,刑法事務総督,明治2年参与となる。
3年熊本藩知事として藩政改革に尽力し,洋学校,医学校を創設した。
侯爵。貴族院議員。
明治26年9月1日死去。55歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎護久は弟の護美を重用し、藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など、当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。
一方で体制一新のため、早くから新政府に廃藩を提言した。
明治4年3月と同年5月の2度にわたって藩知事免職を願い出た。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官、同年に白川県(現在の熊本県)知事となる。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
刀を立て横井小楠像を見つめる姿は、小楠に何かを訴えかけているような感じがします。

谷 干城

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谷 干城 像
(熊本県 熊本市 千葉城町 高橋公園)

撮影日:2011年8月7日
建設年:昭和44年
分 類:軍人
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆☆

谷たてき
「近代日本人の肖像ホームページ」から

谷 干城 (たに たてき)
(1837年-1911年)
明治時代の軍人,政治家

天保(てんぽう)8年2月12日生まれ。
もと土佐高知藩士。
維新後陸軍にはいり,熊本鎮台司令長官。
西南戦争の際,熊本城を西郷軍の攻撃からまもりぬく。
明治11年陸軍中将。
第1次伊藤内閣の農商務相となるが井上外相の条約改正案に反対して辞任。
学習院院長。貴族院議員。
明治44年5月13日死去。75歳。
通称は申太郎,守部。号は隈山。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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◎坂本龍馬への尊敬
土佐藩上士の谷干城は、同じ藩の郷士と呼ばれる下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬したとされる。
また彼自身の伝聞では、慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺されたときには、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったという。
谷は事件当初より、犯人は新選組と決めつけていたといわれ、戊辰戦争の際には、流山で捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問について、薩摩藩と殊更対立した。
斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。
明治33年(1900年)、かつての見廻組の一人であった今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は、それを聞き及ぶと「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
高橋公園の維新群像のすぐ近くにおられます。
刀を立て堂々と座っておられます。
軍服と八の字の髭が細部に至るまで表現されています。


谷村 計介
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谷村 計介 像
(熊本県 熊本市 本丸 熊本城天守閣)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成10年
分 類:軍人
作 者:江藤 望
評 価:☆☆☆

谷村計介
「近代日本人の肖像ホームページ」から

谷村 計介(たにむら けいすけ)
(1853年-1877年)
明治時代の軍人

嘉永6年2月13日生まれ。
熊本鎮台にはいり,佐賀の乱,台湾出兵などに出動。
西南戦争の際,谷干城の命で西郷軍に包囲された熊本城から脱出,城外の政府軍との連絡をはたす。
明治10年3月4日田原(たばる)坂で戦死。25歳。
日向(宮崎県)出身。本姓は坂本。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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「西南戦争の戦火をくぐり抜け、籠城軍の窮状を伝えた英雄」
谷村計介は西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城の命を受け、城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも逃げ出し、官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた宮崎県出身の陸軍伍長で、後に自ら進んで田原坂戦に加わり戦死しました。
この話は戦前の修身の教科書に載り、広く国民に親しまれました。
戦前は今の行幸橋際に銅像がありましたが、大戦中に金属供出で撤去されてしまいました。
現在の銅像はそれを惜しんだ熊本ライオンズクラブから、平成10年に熊本市に寄贈されたものです。
現在は天守閣の入口で皆様をお待ちしています。
「熊本城ホームページ」から

[感 想]
熊本城天守閣の入口に入ってすぐのところにおられます。
一口城主の名前の札にバックに拳を握り堂々と立っている姿が印象的です。

静御前
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静御前 像
(山口県 山口市 阿東徳佐上 道の駅・願成就温泉)

撮影日:2011年8月5日
建設年:平成17年
分 類:その他
評 価:☆☆☆

静御前(しずかごぜん)
(生年-生没年不詳)
平安後期-鎌倉時代,源義経の愛妾

母は磯禅師。
もと京都の白拍子。
文治元年(1185)源頼朝と対立した義経の都落ちにしたがったが捕らえられ,鎌倉におくられる。
頼朝夫妻の求めで歌舞を演じた折,義経を追慕する歌をうたう。
義経の子を生んだが殺され,自身はのち放免。
その後の消息は不明。
後世,能「吉野静」,浄瑠璃「義経千本桜」などの主題となった。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感 想]
道の駅敷地内におられます。
終焉の地は、徳佐という説もあるようです。
像は、扇子を手に舞う姿で、顔は幼く感じがします。

小林 和作 2
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小林 和作 像 2 
(山口県 山口市 秋穂東)

撮影日:2011年8月1日
建設年:平成13年
分 類:画家
作 者:吉塚 隆一
評 価:☆☆☆

[感  想]
尾道市に銅像のある小林和作。
生まれ故郷の秋穂にも銅像がありました。
道路沿いの一画が、ポケットパークのように整備されおり、手入れも行き届いています。
ソテツの前の上半身の像は、尾道に移住する前の若いころの姿だと思われます。
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和作書「天地豊麗」

小林 和作 1
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小林 和作 像 1
(広島県 尾道市 千光寺公園 尾道市立美術館前)

撮影日:2010年5月28日
分 類:文化人
評 価:☆☆☆

小林 和作
「おもしろ山口学」から

小林 和作絵
自画像

小林 和作(こばやし わさく)
(1888年-1974年)
大正-昭和時代の洋画家

明治21年8月14日生まれ。
日本画で文展に入選するが,大正7年洋画に転じ,梅原竜三郎らにまなぶ。
昭和2年春陽会会員。翌年渡欧。
9年独立美術協会にはいる。
広島県尾道に転居し,風景画をえがいた。
昭和49年11月4日死去。86歳。
山口県出身。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。
作品に「海」「春の山」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。
大正7年、日本画から洋画に転向し、
大正9年(1920年)鹿子木孟郎の画塾に通う。
翌年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。
昭和9年春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、広島県尾道市に移り住む。
以後亡くなるまで40年間尾道にあって創作活動を続ける一方、地方美術界に於いて指導的役割を果たす。
尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。

◎広島に原爆が投下された昭和20年(1945年)8月6日には、訪れていた郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車。
その15分後に原爆が投下され汽車が緊急停車し、被爆の難を逃れている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
山口県の旧秋穂町出身です。
スケッチブックと筆を持ち遠くを眺める立ち姿が印象的です。





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