ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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雪 舟 4
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雪舟 像 4
(島根県 益田市 乙吉町 雪舟の郷記念館裏)

撮影日:2011年10月16日
建設年:平成2年
分 類:水墨画家
作 者:山名常人
評 価:☆☆☆

雪舟の郷記念館の中に高村光雲作の雪舟座像があります。
カメラ撮影禁止のため、記念館のホームページから抜粋
雪舟像
高村 光雲 作
昭和2年(1927)
木彫(桂)
32.2×24.0×35.0㎝
市指定文化財

この雪舟像は、雪舟425回忌に際して、当時の東京美術学校長正木直彦氏が高村光雲に制作を依頼し、寄贈したもの。 
雪舟の自画像をもとに制作され、シャープでしかもしなやかな衣文線は光雲作の他の仏像と共通する特徴である。
明治末から大正、昭和初期にかけて空前の雪舟ブームが巻き起こり、全国的に雪舟の遺跡保存運動が起こった。
雪舟終焉地益田でも大正7年「雪舟終焉地保存会」を立ち上げて、荒廃していた大喜庵、雪舟の墓などの保存整備に取りかかった。
この運動は全国的な募金活動へと発展し、保存会の会長は平山成信男爵、副会長に正木東京美術学校長が就任し雪舟終焉地遺跡保存に力を尽くした。
現在の大喜庵、大喜庵参道、雪舟の墓などは、その当時復元整備されたものである。
この雪舟像は昭和4年執り行われた雪舟没後425回忌の折に修復が終わった大喜庵本堂に収められた。

[感  想]
雪舟の郷記念館の裏におられます。
ちょっと分かりにくい所です。
これまでの雪舟像3つは、いずれも上半身の像でしたが、
これは全身像で、袈裟と帽子が印象的な像です。
記念館にある高村光雲の木像を基に作られたそうです。

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雪 舟 3
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雪舟 像 3
(島根県 益田市 東町 万福寺)

撮影日:2011年10月16日
建設年:昭和40年
分 類:水墨画家
評 価:☆☆☆

「益田と雪舟の関わり」
画聖雪舟等楊は、室町中期の頃、備中に生まれ、近くの宝福寺に 小僧にやられたと伝えられます。
青年期に京にのぼり、相国寺の 禅僧として修行に励み、寛正二年(1461)に大内氏に招かれて 山口を訪問、その後遣明船に便乗して中国に渡り、中国の景色や 画法について学び続けました。
雪舟は、中国に滞在中、寧波にある禅宗の古刹・天童寺から「天童山第一座」という最高位の栄誉を贈られています。
天童寺で修行した日本人は臨済宗の開祖栄西や曹洞宗の開祖道元などたくさんいましたが、「第一座」の栄誉を授かったのは雪舟唯一人だといわれています。
帰国後、戦乱を避けて九州、さらに山口に渡り、その後益田七尾 城主兼堯の招きにより宗観寺(現在の医光寺)の五代住職となりました。
兼堯の死後、周防の雲谷庵に帰り、その後再び益田を訪れ ています。
そして益田の東光寺(現在の大喜庵)に入って晩年を過ごし、永正三年(1506)87歳の生涯を閉じたと伝えられています 。
雪舟は益田滞在中に、萬福寺、医光寺の両寺に心の庭を築き、さらに「益田兼堯像」「花鳥図屏風」などの名作を描いています。
雪舟《四季花鳥図屏風》(右隻)京都国立博物館蔵
雪舟《四季花鳥図屏風》(右隻)京都国立博物館蔵
「益田市ホームページ」から

[感  想]
雪舟作の庭がある萬福寺の前におられます。
上半身の像は、山口の瑠璃光寺にある雪舟1とよく似ています。

雪 舟 2
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雪 舟 像 2
(山口市 常栄寺 雪舟庭)

撮影日:2007年6月10日
分 類:水墨画家
評 価:☆☆☆

[感 想]
こちらの雪舟像は、雪舟庭のある常栄寺の門のすぐ横にあります。
同一人物で、違う銅像の初コレクションです。
格好は一緒ですが、表情が微妙に違います。
同じ人物の像を比較するのもおもしろいです。

雪 舟 1
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雪舟 像1
(山口県 山口市 香山町 瑠璃光寺)

撮影日:2007年6月10日
分 類:水墨画家
評 価:☆☆☆

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雪舟自画像(模本) 重要文化財 藤田美術館
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

雪舟(せっしゅう)
(1420年- 1506年)
室町-戦国時代の画家
画聖とも称えられる

応永27年生まれ。
出家して京都相国寺にはいり,画を周文にまなんだ。
40歳すぎ,大内氏の周防山口にうつり雲谷庵をひらく。
応仁元年明(中国)にわたり,2年後に帰国。独自の山水画を追究し,日本の水墨画を大成した。
永正3年死去。87歳。
備中(岡山県)出身。俗姓は小田。
作品に「秋冬山水図」「山水長巻」「破墨山水図」「慧可断臂図」「天橋立図」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

日本の水墨画を一変させた。
備中国に生まれ、京都・相国寺に入ってから周防国に移る。
その後遣明使に随行して中国(明)に渡って中国の水墨画を学んだ。
作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画や花鳥画もよくした。
大胆な構図と力強い筆線は非常に個性的な画風を作り出している。
現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。
このため、花鳥図屏風などに「伝雪舟筆」される作品は大変多い。
真筆であるか専門家の間でも意見の分かれるものも多々ある。

雪舟 山水
秋冬山水図(冬景図)

雪舟 天橋立
天橋立図

[エピソード]
◎涙で描いた鼠
雪舟についてこんな伝説が残っている。
「宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。
しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。」
これは雪舟について最もよく知られた話であると思われる。
初出は江戸時代に狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)である。

◎雪舟は外国の切手に描かれた最初の日本人である。
昭和31年(1956年)に開かれた世界平和会議で世界平和文化人として日本から選ばれたのが雪舟だった。それを記念してソビエト連邦とルーマニアで切手が発行された。
切手
上:ルーマニアの切手
下:ロシアの切手 「益田市ホームページ」から

◎山口市の雲谷庵跡には庵が復元されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
五重の塔で有名な山口市瑠璃光寺の池の近くにおられます。
上半身の銅像ですが、帽子をかぶった姿が、雪舟のイメージにピッタリです。

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島田 暉山
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島田 暉山 像
(島根県 益田市 乙吉町)

撮影日:2011年10月16日
建設年:平成3年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

島田 暉山
(1918年-2003年)
元益田市長

昭和39年(1964年)から12年間益田市長
益田市名誉市民

[感  想]
益田運動公園近くの山陰線の線路近くにおられます。
眼鏡など細かい部分もリアルに出来ている像です。

伊藤 正男
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伊藤 正男 像
(島根県 益田市 常盤町 益田市役所)

撮影日:2011年10月16日
建設年:昭和48年
分 類:政治家
評 価:☆☆

伊藤 正男(いとう まさお)
(1906年-1965年)
元益田市長

昭和27年(1952)から12年間益田市長
益田市名誉市民

[感  想]
益田市役所前の植え込みにおられます。
彫りの深い顔が特徴的です。

小野澤 勝太郎 2
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小野澤 勝太郎像 2
(島根県 益田市 あけぼの東町)

撮影日:2011年10月16日
建設年:昭和58年
分 類:実業家
評 価:☆☆

[感  想]
マスダセントラルホテルの植え込みにおられます。
こちらは、全身の立ち姿で、亡くなった後建てられた像です。
同じ敷地に同じ人の像が2つあるのは、珍しいと思います。

小野澤 勝太郎 1
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小野澤 勝太郎 像 1
(島根県 益田市 あけぼの東町)

撮影日:2011年10月16日
建設年:昭和39年
分 類:実業家
評 価:☆☆

小野澤 勝太郎(おのざわ かつたろう)
実業家

小野沢興行の創設者
島根県議会議員

[感  想]
マスダセントラルホテル前におられます。
ホテルの他、レジャー産業を行っている小野沢興行の創設者の上半身像です。
紺綬褒章受領記念に建てられたと思われます。胸にメダルがあるのが印象的です。

益田 兼尭
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益田 兼尭 像
(島根県 益田市 七尾町 妙義寺前)

撮影日:2011年10月16日
建設年:平成4年
分 類:武将
評 価:☆☆☆

15代兼堯
雪舟作「益田兼堯像」
「益田市ホームページ」から

益田 兼尭(ますだ かねたか)
(生年不詳-1485年)
室町時代の武将

石見(島根県)の豪族益田兼理の子。
幕府の引付衆。
将軍足利義政の命にしたがい,畿内,中国,九州などを転戦した。
雪舟等楊と交遊があった。
文明17年5月23日死去。
通称は孫次郎。別名に兼広。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

15代兼堯は応仁の乱(1467年)をはじめとした数々の戦乱で多くの武勳をたてるなど、その一生は戦いの連続でしたが、文化への深い理解者でもありました。
大内氏の保護下にあった雪舟が、兼堯の招きで益田を訪れたのも、大内氏との関係によるものでした。
雪舟作「益田兼堯像」(重要文化財・益田市蔵)は厚遇してくれた兼堯に対するお礼といわれています。

[感  想]
妙義寺前の広場におられます。
髭と鎧甲の堂々とした立ち姿が印象的です。

福原 越後
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福原 越後 像
(山口県 宇部市 中宇部 宇部護国神社)

撮影日:2011年10月10日
建設年:平成22年
分 類:幕末藩士
作 者:古谷 博
評 価:☆☆☆

福原越後像(宗隣寺[宇部市]蔵)
福原越後像(宗隣寺[宇部市]蔵)
「山口県ホームページ」から

福原 越後(ふくはら えちご)
(1815年-1864年)
幕末の武士

文化12年8月28日生まれ。
周防(山口県)徳山藩主毛利広鎮の6男。
宗藩萩藩の国家老をつとめ尊攘運動を推進。
みずから兵を指揮した禁門の変で敗れる。
第1次幕長戦争に際し,幕府への恭順をきめた藩から,益田右衛門介,国司信濃とともに切腹を命じられた。
元治元年11月12日死去。50歳。
名は元。号は翠崖。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「人 物」
寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
『福原越後公の銅像復活 宇部護国神社に女性寄進で
幕末、禁門の変の敗北と幕府による長州征伐の責任を負わされて切腹死した、長州藩永代家老で長門国厚狭郡宇部村の領主福原越後公の銅像が、主祭神である宇部市中宇部の宇部護国神社に建立され、23日に除幕式があった。
銅像は高さ1.6メートルで、台座を含めると高さ4メートル。
烏帽子に陣中ばかま姿で太刀を持った越後原公が、旧領の宇部市内を見守るように立っている。
越後公の銅像は、1928年(昭和3)に市民の浄財で市内の神原公園に建立されたが、戦時中の金属類回収令で拠出され、その後再建されていなかった。
同神社の野村好史宮司によると、約2年前、銅像の建立を願って市内の女性篤志家が資金を寄進。
同市東岐波の彫刻家、古谷博さんが制作を担当し、越後公の優しさと厳しさを直線と曲線で表現した銅像が完成したという。
除幕式には、女性篤志家や福原家関係者、銅像建立を記念して同神社が公募した「言葉に出せない感謝の言葉」の選考委員を務めた直木賞作家の古川薫さんら約百人が出席。
神事の後、除幕して完成を祝った。
野村宮司は「銅像の建立によって、無念の死を遂げた越後公の存在を市民が再認識してくれれば」と話した。』
『2010年11月24日(水)山口新聞ホームページより引用』

[感  想]
最近出来たばかりの銅像で、実家から近い位置にあります。
地元でありながら、福原越後という人物をはじめて知りました。
烏帽子を被った、りりしい姿が印象的です。





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