ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

時政 鐵之助
IMG_9830.jpg

IMG_9832.jpg

IMG_9828.jpg
時政 鐵之助 像
(山口県 防府市 浜方 防府市武道館前)

撮影日:2011年11月21日
建設年:平成5年
分 類:剣士
作 者:石黒 孫七
評 価:☆☆☆

時政 鐵之助(ときまさ てつのすけ)
(1908年-1992年)

防府市市議会議長、防府市教育委員会委員長、山口県剣道連盟会長等を歴任されており、防府市と剣道の発展に貢献された人です。
剣道八段、剣道師範

[感  想]
防府市武道館の前におられます。
剣道八段の剣士です。
眼鏡をかけた穏やかな表情が印象的です。

スポンサーサイト
野村 望東尼 2
IMG_9745.jpg

IMG_9746.jpg

IMG_9743.jpg
野村 望東尼 像 2
(福岡県 福岡市 中央区 平尾 平尾山荘公園)

撮影日:2011年11月20日
建設年:昭和43年
分 類:歌人
作 者:原田新八郎
評 価:☆☆☆

「平尾山荘」
歌人野村望東尼(俗名モト)が、夫と一緒に世間から離れ、ひっそりと暮らした山荘。
安政6年(1859年)、54歳のときに夫を亡くしたモトは尼となり、 この頃から大政奉還や討幕運動に沸く幕末の状況に心を痛めつつ、 天皇への忠義を誓う「勤皇の志」を燃やすようになります。
当時、山荘には高杉晋作、平野國臣ら藩内外の志士がひそかに集まるようになり、 望東尼は彼らを必死にかくまい、励ましたといいます。
「平尾山荘」の案内板より

[感  想]
福岡の平井山荘公園におられます。
防府天満宮にある1の像と比べるとリアルな感じの像です。

銅像の台座の裏に短歌があります。
IMG_9748.jpg
うき雲の かかるもよしや もののふの 
大和心の かずにいりなば

野村 望東尼 1
IMG_5313.jpg

IMG_5314.jpg
野村 望東尼 像
(山口県 防府市 防府天満宮)

撮影日:2007年8月9日
分 類:歌人
評 価:☆☆☆

野村 望東尼
「防府WEB歴史館ホームページ」から

野村 望東尼(のむら もとに)
(1806年-1867年)
江戸時代後期の歌人

文化3年9月6日生まれ。
筑前福岡藩士の夫とともに大隈言道に入門。
夫の死後出家,平野国臣ら尊攘運動家と交流し,高杉晋作らをかくまう。
慶応元年姫島に流刑となったが,翌年救出され長州にうつった。
慶応3年11月6日死去。62歳。
筑前出身。本姓は浦野。名はもと。別号に招月,向陵。
家集に「向陵集」。
【格言など】独居てつくづくきけば昼まより音に鳴虫もあまたありけり(「もとのしづく」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎高杉晋作辞世の句
IMG_5318.jpg
病床の高杉が
「面白きこともなきよを面白く」 
と、上の句を詠んで、望東尼に下の句を続けよという。
望東尼が
「すみなすものは心なりけり」 
と、続けると、高杉は「面白いのう」と言って笑ったという。

面白いことのない世の中を面白くするにはどうしたら
いいのだろうかという高杉の問いかけに
望東尼は、四囲の状況がどうあるかということではなく、
自分がどう思うかである、それは心のおきどころ次第で
あると答えた。
高杉晋作は慶応3年4月14日、29歳で亡くなった。
(ホームページ野村ひとすじの道から抜粋)

[感 想]
防府天満宮の敷地に歌碑が二つとこの銅像があります。
血気盛んな勤王の志士たちが母のように慕う女性だったようです。
「面白きこともなきよを面白く すみなすものは心なりけり」
何事もこころの持ちようです! 
いい歌です。

IMG_5317.jpg



王 貞治 2
IMG_9700.jpg

IMG_9688.jpg

IMG_9698.jpg
王 貞治 像 2
(福岡県 福岡市 中央区 地行浜
王貞治ベースボールミュージアム内)

撮影日:2011年11月19日
建設年:昭和53年
分 類:スポーツ選手
作 者:佐藤忠良
評 価:☆☆☆

IMG_9689.jpg

[感  想]
1と同じく佐藤忠良の作品で、
「記録をつくった男の顔」という題がついています。
頭だけという珍しい像で、王選手の表情がうまくとらえられています。

王 貞治 1
IMG_9695.jpg

IMG_9692.jpg
王 貞治 像 1
(福岡県 福岡市 中央区 地行浜 王貞治ベースボールミュージアム内)

撮影日:2011年11月19日
建設年:昭和53年
分 類:スポーツ選手
作 者:佐藤忠良
評 価:☆☆☆☆

王
王 貞治(おう さだはる)
(1940- ) 
昭和後期-平成時代のプロ野球選手、監督

昭和15年5月20日生まれ。
昭和32年早稲田実業の投打の中心として春の甲子園で優勝。
34年巨人に入団。
3年目に一本足打法となり,長嶋茂雄とともに巨人9連覇に貢献。
39年シリーズ本塁打55本の日本記録,52年には本塁打数で世界記録をぬき,初の国民栄誉賞をうけた。
実働22年,三冠王2回,13年連続をふくめ本塁打王15回,打点王13回,首位打者5回。
通算2786安打,3割1厘,868本塁打。
59-63年巨人監督,62年リーグ優勝。
平成7年ダイエー(現ソフトバンク)監督に就任し,11年日本一,12年リーグ優勝,15年日本一。
18年WBCの日本代表チームの監督となりチームを世界1位の座にみちびいた。
20年ソフトバンク監督勇退。
22年文化功労者に選ばれる。
東京出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

IMG_9694.jpg

[エピソード]
◎本塁打を打っても大はしゃぎするようなことが無かったのは兄の鉄城の影響である。
高校時代、本塁打を打ってホームベース上で喜ぶ王を見た鉄城は「打たれた相手のことを考えろ」と王を叱りつけた。
以来、王は本塁打を打っても喜ぶそぶりをしなくなった、と言う。
ただし、756号の際に「バンザイ」をしたり、1971年の日本シリーズ第3戦の逆転サヨナラ本塁打で手を叩き飛び跳ねたなどの例外はある。

◎上手い打撃で相手側チーム選手が出塁すると「ナイスバッティング!」と声を掛け、相手側チームの打者であってもその技術を評価した。

◎足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。
しかし、腕力は弱く、腕相撲は巨人の野手の中では一番弱かったばかりか(この話は漫画「巨人の星」にも出てくる)、「東洋の魔女」と当時呼ばれていた女子バレー日本代表の選手たちにも負けてしまい、「王さん、手加減しないでくださいよ」と言われてしまったことがある。
そのとき王は、「いや、これで精一杯なんですよ」と弁解した(巨人で一番腕相撲が弱かったのは投手の高橋一三。宿舎などで同僚にコロコロ負けてしまう王はその後必ずといっていいほど高橋を捕まえて腕相撲に勝って機嫌を直していたと言う)。

◎真摯で誠実な人柄で知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。
葬儀に参列した金村義明は、まさか自分のところに王本人から電話がかかってくるとは思わずにいたが、本人の不在中に王からかかってきた電話に出た彼の三男(当時3歳)が「ママ、“ダイエーのおう”から電話!!」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りしたというエピソードを披露している。

◎道具を丁寧に扱うことで現役時代から知られており、同じミットを10年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて慣れるまでに時間がかかる」と自ら裁縫してまで使い続けた(ライバルの長嶋はエラーしたり不調が続くとゲン直しにすぐにグラブを替えたため、現役時代は何十ものグラブが使用された)。

◎若い頃、名古屋の寿司屋で当時中日の人気選手であった板東英二(王とは同学年であり、仲が良かった)と偶然会った際、自分の知人(父親の同胞)が営んでいる小さな中華料理店に連れて行き、「板東もたまには食べに来てやってくれないかな」とお願いした。このことを板東は自分の著書で「王の生い立ちと、優しい人柄が理解できた」と語っている。また、板東が『金妻』シリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度出てみたいよ」とうらやましがったという。

◎律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。
キャンプ地に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。
1960年、初めてオールスターに出場した年に札幌山の手養護学校の生徒からファンレターが送られたが、当時すでにスター選手だった王は大量に来るファンレターの1通として読み流してしまい、後からその学校のことを知り、後悔したという。
これ以後、王はファンレターを必ず丁寧に読むようになった。
なお、王は翌1961年以降、監督を退任する1988年まで毎年札幌遠征の際、必ず山の手養護学校を訪問した。

◎若い頃は門限破りの常連で、夜な夜な銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。
王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。
ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から3年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。その代わりその3年の後は10年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。
長年巨人の寮長として活躍した武宮敏明によると、歴代の3ワルは王、柴田勲、堀内恒夫とのこと。3人とも名球会入りしている。

◎若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。
ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜かし続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。
ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。
ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。
また、愛車及び送迎車は共にレクサス・LSである。

◎大食漢として知られる。子供の頃はおやつ代わりにラーメンやカレーを平らげ、夕食を食べた後もうどんを平らげていた。
大人になってもそれは変わらず、中華料理屋でも出てきた料理を片っ端から平らげる。
そのため、誰も隣に座りたがらなかったという。
大食漢で知られる川上哲治さえも「王はもっとすごい。朝飯が終わると『今日の昼飯は何かな』と言い、昼飯が終わると『今日の夕飯は何かな』と言う。あれにはかなわん」と“敗北宣言”している。
さらに酒豪でも知られ、若い頃は毎晩のように銀座の高級クラブに繰り出し、浴びるように酒を飲んでいた。
飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけという(王と大鵬は同じ1940年5月生まれという縁もあり、長年にわたる親交がある)。
福岡に来てからはグルメに凝り出して体重が激増。
更にテレビのグルメ番組や料理番組も見始めたという。
第1回WBCの優勝時には、部屋にあったビールを全部1人で飲み干してしまった程である。
胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と体重が減って喜んでいるような発言をした。

◎通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで“やしろ”となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
福岡ヤフードーム内にある王貞治ベースボールミュージアムにある、
「バッティング」という題の佐藤忠良作の銅像です。
一本足打法を見事に表現している像です。
台座に飾られている王貞治選手の言葉がかっこいいです。
IMG_9697.jpg


母里 太兵衛 2
IMG_9644.jpg

IMG_9652.jpg
母里 太兵衛 像 2
(福岡県 福岡市 博多区 博多駅)

撮影日:2011年11月19日
建設年:昭和45年
分 類:武士
作 者:米治一
評 価:☆☆☆

[銅 像]
『「酒は飲め飲め」母里太兵衛像、4年半ぶり博多駅前に
民謡「黒田節」に歌われた武将、母里太兵衛(ぼり・たへえ)の銅像がJR博多駅前に4年半ぶりに姿を見せた。
九州新幹線関連の駅前整備で撤去され、倉庫で眠っていた。
70年に福岡博多ライオンズクラブの5周年記念で造られた駅の名物。
移設の除幕式で深川貞祐会長は「博多のシンボルとして今後も可愛がってほしい」とあいさつした。
「酒は飲め飲め」の歌詞の通り、左手に長槍、右手に大きな杯を持つ。
参加者の一人は「4年半前より何だか大きくなった気がする。倉庫で酒でも飲んでいたのかも」。 』
『2011年3月3日 asahi.comより引用』

IMG_9648.jpg

IMG_9650_20111231211433.jpg

[感  想]
博多駅前の像ですが、博多駅に来る度に見つからないなあと思っていました。
倉庫に眠っていたようです。
大きな杯と切れ味鋭そうな槍を持った堂々とした立ち姿が印象的です。

母里 太兵衛 1
IMG_7675.jpg

IMG_7673.jpg
母里 太兵衛 像
(福岡県 福岡市 中央区 西公園光雲神社)

撮影日:2007年12月5日
分 類:武士
作 者:中ノ子 富貴子
評 価:☆☆☆

母里友信
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

母里 太兵衛(もり たへえ)
(1556年-1615年)
織豊-江戸時代前期の武士

弘治2年生まれ。
筑前福岡藩士。
黒田孝高・長政につかえ,先手大将をつとめた。
朝鮮出兵,関ケ原の戦いなどに従軍。
のち嘉麻郡大隈城の城主となる。
福島正則の酒宴で大杯の酒をのみほし,名槍をえたという逸話で知られ,のち黒田節にうたわれた。
慶長20年6月6日死去。60歳。
播磨(兵庫県)出身。名は友信。通称は別に但馬。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「黒田節の逸話」
文禄・慶長の役休戦中の際の出来事とされる。
京都伏見城に滞留中の福島正則の元へ、長政の使者として使わされた友信は、正則の屋敷で酒を勧められる。
友信は家中でも「フカ」と言われるほどの酒豪の者であったが、使者である手前それを固辞した。
しかし本人も酒豪である正則はこれに「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、更には黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ、などと家名を貶める発言をした。
そこで友信はこれを敢えて受けて大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干すと、褒美として、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望する。
正則は「武士に二言は無い」という言葉を受けてしぶしぶ褒美に差し出した。
これによって「呑取り日本号」という異名と、越天楽(筑前今様)の節回しと供に「黒田節」として、黒田武士の男意気を示す逸話として広く知られるようになった。
これによって友信は博多人形の題材として多く取り上げられ、槍と盃を手にした姿で造型される。
また博多駅前や西公園などにはこの逸話を元にした銅像がある。
なお、この日本号は後の慶長の役で窮地に陥った友信を救った後藤又兵衛の手に渡り、又兵衛が出奔する際に黒田家に残されて家宝となったと伝えられ、現在、福岡市博物館に現物が、広島城にレプリカが展示されている。

[銅 像]
子孫ナヲが博多人形宗家の中ノ子六助に嫁いでおり、福岡県無形文化財技術保持者 中ノ子富貴子の母親である。福岡市西公園の母里友信像は中ノ子タミのエスキース(下絵)を元に中ノ子富貴子が銅像として完成させたものである。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
長い槍と杯を持った堂々とした像です。
博多人形のモデルでもよく目にします。
「酒は飲め飲め飲むならば日の本一のこの槍を・・・・」
博多駅前の銅像を探していますが、工事中で見つかりません。





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。