ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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小沢 儀明
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小沢 儀明 像
(山口県 美祢市 秋芳町 秋吉台山)

撮影日:2011年12月31日
建設年:昭和44年
分 類:学者
作 者:久間 秋夫
評 価:☆☆☆

小沢 儀明
小沢 儀明(おざわ よしあき)
(1899年-1929年)
大正-昭和時代前期の地質学者

明治32年3月31日生まれ。
大正14年東京帝大助教授。
日本の造山運動を研究。
15年学士院恩賜賞。
翌年欧米に留学し,有孔虫類の系統分類の研究で成果をあげた。
昭和4年12月28日死去。31歳。
山梨県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「小沢儀明と秋吉台」
小沢博士は31歳の若さで亡くなりましたが、わずかの期間にたくさんの研究をされ、秋吉台を世界的に有名にし、古生物の研究の基礎を作られました。
フズリナ、サンゴ、こけ虫などの化石研究を行い、特にフズリナ化石の分類体系やその生層序の確立により、秋吉台は日本の古生層を代表する模式地となりました。
秋吉台が特別天然記念物に指定されるにいたった経緯は、小沢博士の研究成果の重要性によるものが大きく寄与しています。
また、博士は日本で最初のカルスト地下水系の論文も公表されています。
「秋吉台科学博物館ホームページ」から
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[感  想]
秋吉台科学博物館の前におられます。
眼鏡をかけた上半身の像で、秋吉台をじっと見守られている感じがします。
小沢博士が研究していたフズリナの化石がある石灰岩も銅像と一緒に展示してあります。
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紙本 榮一
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紙本 榮一 像
(山口県 山口市 香山町)

撮影日:2011年12月25日
建設年:昭和59年
分 類:剣士
評 価:☆☆☆

紙本 榮一(かみもと えいいち)
(1903年-1995年)
剣道、居合道、杖道の範士

明治36年生まれ。
海軍入隊後、中山博道範士に入門し剣居一体を悟る。
古流居合の統合を提唱し昭和43年居合道研究委員長、制定居合確立に尽力。
昭和57年体育功労者、勲五等双光旭日章。
明治から昭和にかけて剣聖と呼ばれた剣道、居合道、杖道の範士。

紙本

[感  想]
五重の塔で有名な瑠璃光寺の駐車場におられます。
剣を持った立ち姿が、凛としています。
子供と同じクラスの友達のおじいちゃんだということで、親近感も有ります。
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野村 恒造
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野村 恒造 像
(山口県 周南市 岐山通 周南市役所)

撮影日:2011年12月20日
建設年:昭和34年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

野村 恒造(のむら つねぞう)
(1850年-1920年)

嘉永3年徳山小沢町の素封家に生まれる。
野村家は富日に野村開作の地名が残っているように、殖産のために開作を行い、広大な土地を所有し、県内では指折りの資産家であった。
温厚で気品があり、若いころから私財をなげうって公共事業に身をささげ、徳山村長および町長に就任すること前後四回、またしばしば選ばれて国会議員となった。
その卓抜した明智をもつて、山陽鉄道の開通に活躍し、明治37年海軍練炭製造所の誘致に成功、さらに徳山・岩国間の岩徳線開通に努力するなど終生、徳山発展のために尽力した人である。
大正9年71歳で死去したが、昭和7年翁の功績をたたえ、有志のかたの企画により徳山公園に銅像が建立された。しかし第二次世界大戦で、昭和18年銅像も供出され、台石は残っていたが、昭和33年動物園設置のため取り除かれ、翌年12月市役所前に胸像が建てられた

[感  想]
周南市役所の駐車場のおられます。
木々に囲まれて、木漏れ日の中での髭と和装が印象的な像です。
徳山、周南のために尽力された人物です。

阿米
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阿米 像
(山口県 周南市 速玉町)

撮影日:2011年12月20日
建設年:平成14年
分 類:その他
評 価:☆☆

阿米(およね)
(1791年-1852年)
「都濃の三孝女」の一人

父は日庸の金左衛門。母は河内村の農民・茂左衛門の娘。
1791年、徳山の貧しい家に生まれる。
1796年、母が死去し、母方の祖父である茂左衛門に引き取られて養育された。
1802年に父が病気となったので、父の看病のために帰宅し、父の看病をしながら、昼は近所の米つきに雇われ、夜は父の側で糸を紡ぐという生活が続いた。
米つきをする際には、体が軽いため、石を腰につけたと伝えられている。阿米は純孝な性格で、労苦を厭わず、父が満足するのを自分の楽しみとした。このことが藩主・毛利広鎮の耳に入り、たびたび表彰され、米穀や恩賞を賜った。
1832年、阿米の31年にわたる看病の末、父の金左衛門は68歳で死去する。
後に阿米が病にかかり、病状が重くなると、近所の人々に多年の厚意を拝謝し、自分の死後に遺骨を父母の墓の傍に埋めるよう頼み、1852年に62歳で死去する。
法名を慈順といい、川端町の徳応寺に葬られた。
1860年11月28日、阿米の孝養を称えるために石碑が建立された。
碑文は安積艮斎が撰文し、書は楷書の大家である中村春秀による。
また、「阿米顕彰会」では、毎年阿米の命日に徳山市(現在は周南市)内の親孝行な児童・生徒を表彰し、今もその孝養を称えている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

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[感  想]
孝女阿米という人物も初めて知りました。
父を背負っている珍しい像で、阿米のやさしい表情が印象的です。





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