ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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福沢 諭吉 5
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福沢 諭吉 像 5
(大分県 中津市 留守居 福沢諭吉資料館)

撮影日:2012年2月6日
建設年:昭和9年(昭和23年再建)
分 類:思想家
作 者:和田 嘉平治
評 価:☆☆☆

[感  想]
福沢諭吉資料館の庭におられます。
上半身の像で、前を向いたきりりとした表情が印象的です。

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福沢 諭吉 4
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福沢 諭吉 像 4
(大分県 中津市 豊田町 中津駅)

撮影日:2012年2月6日
建設年:昭和60年
分 類:思想家
作 者:辻畑 隆子
評 価:☆☆☆

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[感  想]
中津駅前のローターリー広場におられます。
全身像で、腕を組んでじっと前を見つめている姿が印象的です。

福澤 諭吉 3
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福澤 諭吉 像 3
(長崎県 長崎市 上西山町 祓戸神社)

撮影日:2010年11月21日
分 類:思想家
評 価:☆☆

[感  想]
長崎公園近くの祓戸神社参道におられます。
眉毛が濃い石像です。
ちょっと福澤諭吉のイメージと違うような気がします。

福沢 諭吉 2
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福沢 諭吉 像 2
(東京都 港区 應義塾大学三田キャンパス)

撮影日:2010年3月15日
建設年:昭和29年
分 類:思想家
作 者:柴田佳石
評 価:☆☆☆

[銅 像]
大学三田キャンパス図書館旧館前~胸像(ブロンズ像)~
昭和二十九(一九五四)年、福澤先生銅像建設会の寄贈で、柴田佳石制作の胸像。
先生歿後五十年を経て、先生の面影を知る者が少なくなったことから、当時先生像のなかった三田山上に据えようとした運動がきっかけとなった。
除幕式は先生の一二〇回目の誕生日である一月十日に挙行された。
柴田は本名福四郎、明治三十三年に東京で生まれ、普通部出身、「長崎平和祈念像」の作者として知られる北村西望に彫塑を学び、昭和二十六年、日本陶彫会の発足時の会員になる。
日展に委嘱出品を続け、後に「珂石」あるいは「珂赤」と称し、同四十三年、六十七歳で歿した。
当初、三田第一研究室前庭に、谷口吉郎の選定で設置されたが、昭和四十二年、研究室棟建て替えのため撤去された後、学生運動の混乱期も含めて長らく義塾の倉庫に納められていた。
昭和五十八年九月二十九日、福澤研究センター設立を機に、図書館旧館正面玄関左側に移設され現在に至っている。
胸像背面銘文に「独立自尊一九五三佳石謹作」とある。
この胸像と同じ塑像による胸像がいくつかあり、その第一作が天本淑朗ら数名の交詢社社員から交詢社に寄贈されたものである。
天本は、当時横浜護謨(ごむ)製造会社の社長で、柴田とは普通部以来の友人であった。
銅像除幕式は昭和二十八年五月二十二日、交詢社において行われた。
作成に当たって、先生の肖像写真を参考に、福澤先生の四女志立タキや四男大四郎、『時事新報』の風刺漫画で活躍した北澤楽天らの助言を受けて、一年有余の時を費やして作られたといわれている。
柴田は、先生の娘婿の福澤桃介などの義塾関係者の胸像や、岐阜公園内にある「板垣退助像」も制作している。
また、余り知られていないが、かつて小田原駅改札脇に設置され、現在同駅東口にある小便小僧のブロンズ像も彼の作品で、有名な浜松町駅ホームのそれより二年前の昭和二十五年の作である。
「慶応義塾大学出版会ホームページ」から

[感  想]
創立大学の應義塾大学三田キャンパスにおられます。
1の應義塾大学病院にあるものと同じ型ではないかと思われます。

福沢 諭吉 1
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福沢 諭吉 像 1
(東京都 新宿区 應義塾大学病院)

撮影日:2008年4月24日
建設年:昭和50年
分 類:思想家
作 者:柴田 佳石
評 価:☆☆☆

福沢諭吉
「近代日本人の肖像ホームページ」から

福沢諭吉 (ふくざわ ゆきち)
(1835年‐1901年)
幕末・明治時代の思想家

豊前中津藩(大分県)藩士。
大坂の適塾でまなび、安政5年江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)をひらく。
英学を独修し、7年幕府の遣米使節に同行して咸臨(かんりん)丸で渡米。
以後2回欧米を視察。
元治(げんじ)元年幕臣となり外国奉行翻訳方をつとめる。
維新後は官職を辞して生涯野にあった。
明治15年「時事新報」を創刊。
人間の独立自尊、実学の必要性を説き、脱亜論をとなえた。
明治34年2月3日死去。68歳。
著作に「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」など。
【格言など】天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり(「学問のすゝめ」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◎1万円札
1984年~2004年の日本銀行券D号1万円札、2004年~のE号1万円札の肖像にも使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。
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◎現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、昭和59年(1984年)11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった。

◎慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅  像]
信濃町キャンパス大学病院中央棟玄関ロビー~胸像(ブロンズ像)~
三田キャンパスと同様、柴田佳石制作のもの。
医学部第三回同級会(大正十四〈一九二五〉年卒業)から寄贈され、昭和五十年四月二十七日に設置された。
「慶応義塾大学出版会ホームページ」から

[感  想]
應義塾大学病院の1階ロビーにおられます。
ここでも先生は、「福澤先生」だけなのでしょうか?

禅海 2
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禅海像 2
(大分県 中津市 本耶馬渓町)

撮影日:2012年2月6日
建設年:平成2年  
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
青の洞門を抜けた、駐車場の一角におられます。
髭と髪が伸びた姿で、一心不乱に岩を掘る姿が印象的です。

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銅像の裏には、「恩讐の彼方」の作者である菊池寛のレリーフがあります。

禅海 1
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禅海像 1
(大分県 中津市 本耶馬渓町 青の洞門内)

撮影日:2012年2月6日
分 類:僧
評 価:☆☆

禅海(ぜんかい)
(1691年-1774年)
江戸中期の禅僧

越後(新潟県)の人
最初江戸浅草で,全国66カ所の霊場に法華経を納めて回る行脚僧の六十六部になる。
諸国行脚の途中,1715年に豊後(大分県)別府に至り,得度して禅海と称した。
豊前国下毛郡耶馬渓の曹洞宗羅漢寺に参詣し,灌漑工事のため参詣路が水没し,断崖にかけられた桟道が通行の難所となっているのを知り,ひとり羅漢寺の塔頭智剛寺に住して開削工事を始めたとされる。
以後30年余の歳月を費やして青の洞門を完成させた。
禅海の業績は菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の題材となった。
「朝日日本歴史人物事典」から抜粋

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「青の洞門」
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれている。
この逸話を元にして書かれたのが菊池寛の『恩讐の彼方に』である。
現在は、自動車を通過させるため(旧国道212号)、完成当時よりかなり変形しているが一部にノミの跡が残っている。
地形の関係上車幅が狭く、信号を使った交通整理(片側交互通行)が行われている。
開通後、禅海が通行人から通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
青の洞門の中におられます。
石像でノミと槌を振るう姿です。
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明り取り窓が当時のまま残っています。

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青の洞門入り口





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