ken's銅像探索日誌
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島津 義弘
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島津 義弘 像
(鹿児島県 日置市 伊集院町 伊集院駅)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和63年
分 類:武将
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆☆

島津 義弘(しまづ よしひろ)
(1535年-1619年)
戦国-織豊時代の武将

天文4年7月23日生まれ。
島津貴久の次男。
島津氏17代。
兄義久とともに九州をほぼ平定。
天正15年(1587)豊臣秀吉に敗れたが、大隅領有はゆるされる。
文禄・慶長の役で朝鮮に出陣、泗川の戦いで明(中国)の大軍を破る。
関ケ原の戦いでは西軍に属し、敵中を縦断して退却した。
元和5年7月21日死去。85歳。
薩摩(鹿児島県)出身。
初名は忠平、義珍(よしまさ)。通称は又四郎。号は惟新。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎関ヶ原の戦い・島津の退き口
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。
しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人(1000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。
島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。
島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。
このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。
その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
この逃走劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した。
しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。
このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦並びに東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。
生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。
また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。
この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

◎家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。
この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。また敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。

◎祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。

◎許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。
また家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。

◎義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。
このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった。

◎義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した。
また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている。

◎九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。
そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。
この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている。

◎秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。
この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。

◎愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。
朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

◎武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。

◎若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。
弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎打ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。
また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

◎木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。
この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。

◎関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。
しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。

◎義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫ですか?」と尋ねると「大丈夫だ。小姓どもは悪いことばかりして手を焼かせおる」と返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)

[銅  像]
JR九州伊集院駅前には義弘の馬上姿の銅像がある。
関ヶ原でまさに敵中突破をする瞬間をイメ-ジした銅像といわれている。他にも木崎原古戦場跡などにも石像がある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
鹿児島中央駅からJRでわざわざ伊集院駅までへ行きました。
遠いところを来た甲斐があると思わせる素晴らしい像です!
馬上の武者姿で采配を右手に持ち、まさに飛び出してきそうな躍動感あふれる姿です。
多くの武勇伝を持つ猛将であり、また家来や家庭を大切にする人物で好感が持てます。
熊本県菊池市の菊池武光像と同じく中村晋也の作の満点像です。

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島津 斉彬
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島津 斉彬 像
(鹿児島県 鹿児島市 照国町 照国神社)

撮影日:2012年11月17日
建設年:大正6年
分 類:大名
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

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斉彬の写真(1857年撮影、尚古集成館蔵
斉彬の写真(1857年撮影、尚古集成館蔵)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

島津 斉彬(しまづ なりあきら)
(1809年-1858年)
幕末の大名

文化6年9月28日生まれ。
島津斉興(なりおき)の長男。
嘉永4年(1851)薩摩鹿児島藩主島津家11代となる。
藩営の工場集成館を設立し、殖産興業、富国強兵策をすすめる。
養女篤姫(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして、幕府への発言力をつよめる。
将軍継嗣問題では西郷隆盛らをもちいて一橋慶喜擁立運動をすすめたが、
安政5年7月16日急死。50歳。
初名は忠方。通称は又三郎。号は惟敬、麟洲。
【格言など】勇断なき人は事を為すこと能(あた)わず(「斉彬公言行録」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎最も早く写真に撮影された大名であるといわれている。
また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったといわれている。
斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられている。

斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真
斉彬が撮影したといわれる斉彬の娘たちの写真。左から典姫・暐姫・寧姫

◎松平慶永(福井藩主)、山内容堂(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。
しかし慶永は後世において、「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と語ったといわれる。

◎西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ、西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどである。
斉彬の功績は明治時代を築くことになる人材を育て上げたこともその一つといえる。

◎理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見破り、自身もアルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた。

◎『島津斉彬言行録』には「君主は愛憎で人を判断してはならない」、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」など、近代的な人材登用策を示していたことが覗える記述もある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
鹿児島市照国神社の隣接しておられます。
束帯に笏(しゃく)を右手に持った堂々とした立ち姿です。
肖像画から島津斉彬は、太っているイメ-ジでしたが、銅像の顔はやせた感じです。
台座も丸に十の字の家紋と彫刻が施され立派です。

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島津 久光
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島津 久光 像
(鹿児島県 鹿児島市 照国町 照国神社)

撮影日:2012年11月17日
建設年:大正6年
分 類:武士
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

島津久光(近代日本の肖像)
「近代日本人の肖像」から

島津久光

島津 久光(しまづ ひさみつ)
(1817年-1887年)
幕末-明治時代の武士

文化14年10月24日生まれ。
島津斉興の5男。母はお由羅。
薩摩鹿児島藩重富領主。
異母兄斉彬の遺命で子の忠義が鹿児島藩主となると、本家に復帰して国父とよばれ藩政の実権をにぎる。
文久2年(1862)兵をひきいて京都にはいり、藩の尊攘過激派を弾圧(寺田屋事件)。
また、勅使大原重徳を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど、公武合体運動をすすめる。
帰途、生麦事件が発生し、薩英戦争をまねいた。
維新後、内閣顧問・左大臣に就任したが、保守的意見がいれられず、明治8年隠退した。
明治20年12月6日死去。71歳。初名は忠教。通称は又次郎。号は双松など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎藩内における権力拡大の過程では、小松帯刀や中山中左衛門等とあわせて、大久保利通・伊地知貞馨・岩下方平・海江田信義・吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グル-プ「精忠組」の中核メンバ-を登用する。
ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年の率兵上京時には、西郷が無断で上坂したのを責めて遠島処分にし、藩内有志の嘆願により元治元年(1864年)に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、のちのちまで両者のあいだには齟齬があった。

◎生麦事件は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
有名な生麦事件の大名行列のお殿様です。
鹿児島市照国神社隣の庭園におられます。
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紅葉がきれいでした。
島津斉彬像と同じく束帯に笏(しゃく)を
右手に持った堂々とした立ち姿です。
若い時の姿を銅像にしたものだと思われます。

島津 忠義
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島津 忠義 像
(鹿児島県 鹿児島市 照国町 照国神社)

撮影日:2012年11月17日
建設年:大正6年
分 類:大名
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆☆

島津忠義
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

島津 忠義(しまづ ただよし)
(1840年-1897年)
幕末-明治時代の大名、華族

天保11年4月21日生まれ。
島津久光の長男。
安政5年薩摩鹿児島藩主島津家12代となり、父に後見される。
藩の近代化をすすめ、薩英戦争をたたかう。
慶応3年討幕の密勅をうけ大兵をひきいて京都に出、王政復古につとめた。
戊辰戦争では新政府軍の主力となる。
のち公爵、貴族院議員。
明治30年12月26日死去。58歳。
初名は忠徳、茂久。通称は又次郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎15代将軍徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。
そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。
徳川慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。
この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い一日で辞任している。

◎明治維新後は長州・土佐・肥前の三藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。
その後、名を「忠義」と改め薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷隆盛に任せていたと言われている。

◎忠義は犬追物や乗馬を得意とする一方で、写真撮影や花火作りなどにも興味を持つなど、幅広い趣味を持つ人物であった。

◎1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながら髷を切らずにいたことに驚いたと、ドイツの医学者・ベルツは日記に記している(ちなみに当時の首相は旧家臣の黒田清隆)。
西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる。


[感  想]
照国神社隣の島津斉彬、久光像とは、ちょっと離れた所におられます。
軍服にサ-ベル姿できりりとした表情が印象的です。
生涯髷を切らなかったということなので、帽子の中は、髷のようです。

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天璋院
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天璋院 像
(鹿児島県 鹿児島市 城山町 黎明館)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成22年
分 類:その他
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

天璋院 てんしょういん
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

天璋院(てんしょういん)
(1837年-1883年)
幕末-明治時代、徳川家定の正室

天保7年12月19日生まれ。
島津斉宣の孫。島津忠剛の娘。
はじめ島津斉彬、ついで近衛忠煕の養女となり、安政3年13代将軍家定と結婚。
5年家定の病死後は出家した。
明治16年11月12日死去。48歳。
薩摩(鹿児島県)出身。名は敬子(すみこ)。通称は篤姫。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても最後尾は依然、藩邸にいたという。
安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。
なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。

◎慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。
その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、これを実現した。
そして、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた。
慶応4年(1868年)4月に新政府から従三位の位階を剥奪されている。

◎明治維新後は、自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していた。
そのため、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったという。

◎明治維新後も、東京を離れることはほとんどなく、明治10年に箱根塔ノ沢で病気療養中の和宮を見舞うため箱根を訪れたのが生涯唯一の旅行となった。
ただし箱根に到着したのは和宮が薨去した後になったため、天璋院は和宮を弔い、和歌を贈っている。

◎2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』では小松帯刀と共に過ごすシ-ンが多くあったが、両者の接点を記す史料は確認されていない。

◎愛犬家であり、結婚前には狆(チン)を多数飼っていたが、夫・家定が犬嫌いだったため大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。
その猫の費用は25両/年、世話係は3人もおり、その一人が大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪にあたり、後に大奥の内情を三田村鳶魚に語った御中臈・ませである。

◎日本人として初めてミシンを扱った人物と言われている。因みにミシンを贈ったのはペリ-提督だという説が一般的である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
薩摩藩主島津氏の拠点となった鹿児島(鶴丸)城本丸の跡に建つ、鹿児島県の歴史資料センタ-黎明館の敷地におられます。
NHKの大河ドラマで一躍人気となった篤姫の像です。
装束姿で、前をしっかり見つめる凛とした姿が印象的です。

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黎明館をじっと見つめておられます。


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像の後ろの石壁には、
「私事一命二かけ是非是非御頼申候事二候」という
嘆願書の一節が彫られています。

菅 実秀
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菅 実秀 像
(鹿児島県 鹿児島市 武二丁目 西郷公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成3年
分 類:武士
評 価:☆☆☆

菅実秀
「山形県生涯学習文化財団ホ-ムペ-ジ」から

菅 実秀(すげ さねひで)
(1830年-1903年)
幕末-明治時代の武士、官吏

文政13年1月8日生まれ。
出羽鶴岡藩(山形県)藩士。
戊辰の敗戦処理に手腕を発揮し、家老にすすむ。
このとき西郷隆盛の厚遇で藩の危機がすくわれたことを知る。
以後西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした。
大泉藩権大参事、酒田県権参事を歴任。
西南戦争後、「南洲翁遺訓」を刊行。
明治36年2月17日死去。74歳。
通称は善太右衛門。号は臥牛(がぎゅう)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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「西郷隆盛と庄内出身の菅実秀の会見」
西郷公園(西郷屋敷跡)の中に西郷さんと庄内出身の菅実秀の会見の像があります。
この菅実秀は、元庄内藩(山形県)の家老であった人です。
会津藩・庄内藩はコテコテの幕府派であった藩で、官軍の西郷たちと激しい戦いを行って敗れたのですが、西郷のはからいで庄内藩の処罰が寛大になったということがあり、以来、菅実秀は西郷を尊敬しました。
それで明治8年に菅実秀が、この屋敷に西郷を訪ねて来て、対話している姿です。
後に菅実秀は「南洲翁遺訓」という本を刊行し西郷の偉大さを全国に知らしめました。
「よかとこBY写真満載九州写真ホ-ムペ-ジ」から

[感  想]
西郷隆盛屋敷跡におられます。
西郷隆盛との会見に臨む、正座している像です。
拳を握りしめた姿勢の良い姿が印象的です。

西郷 隆盛 3
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西郷 隆盛 像 3
(鹿児島県 鹿児島市 武二丁目 西郷公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成3年
分 類:幕末藩士
評 価:☆☆☆

[感  想]
腕を組んで菅実秀を向かい合っている姿です。
西郷の自宅の跡地なので、ここでこの銅像のように対談したのでしょう。

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西郷 隆盛 2
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西郷 隆盛 像 2
(鹿児島県 鹿児島市 城山町 鹿児島市立美術館前)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和12年
分 類:幕末藩士
作 者:安藤 照
評 価:☆☆☆☆

[銅  像]
◎上野公園の西郷像に対して、鹿児島市の鹿児島市立美術館近くに立つ郷土の彫刻家・安藤照が1937年(昭和12年)に作成した西郷の銅像は軍装(陸軍大将)である。
明治より時代が下って鹿児島市に建てられた銅像が、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢であるのは、西郷の名誉回復という観点からすれば、未亡人が本来期待した姿に近いと考えられる。

◎西郷隆盛像昭和3年(1928年)に東郷平八郎より依頼を受けてから、西郷の体格や外見の研究に1年を費やし、さらに国内の古美術や銅像見学に1年かけ、加えて銅像研究のため欧州へ渡った。
帰国後7年を経て安藤は「身長5尺9寸、体重29貫、襟首19インチ、肥満であったが、肉つきは引き締まっており、相撲のため耳だこがあり、首は短く肩が小山のごとく盛り上がっている」との結論に至った。
安藤が思い描いた構図は、故山の大地を、市民と同じ足で踏みしめ、胸を張って桜島と向き合う巨人だった。
かくして銅像は昭和12年(1937年)に完成した。
また、土台製作の為に小根占(鹿児島県肝属郡南大隅町)より大小合わせて150有余の花崗岩を運ばせて、背景に城山と有機的に調和する小山を築き、造園した。

◎西郷銅像について、安藤は『大西郷と銅像』(改造第十九巻九号、1937年)にて、次のように記述している。
「襟は十九インチ、身長は五尺九寸余、体重は二十九貫と云うので胴回りなどの研究を進めることもできた。翁の令孫隆治氏は柔道剣道の達人で相当偉大な体躯の持主であるが、この大将服を着用せられてなお二貫余の綿を入れなければならなかった。また私共が、二人も一しょに入れるような胴回りである」(文中に登場の西郷隆治は、二中において安藤(8回卒)の3年後輩(11回卒)で、卒業後は二中で柔道師範を務めた人物)

◎作家の海音寺潮五郎は、著書『西郷隆盛』にて次のように述べている。
「これはぼくだけの見当だが、安藤は西郷の孫にあたる西郷隆治さんをモデルにし、それを彼の主観でアレンジして造形したのではないかと思っている。安藤は鹿児島二中の出身であるが、隆治さんも二中の出身だ。大体同じころに在学している見当でもある。隆治さんは西郷が奄美大島る流謫中にめとった島の娘アイカナの産んだ菊次郎の子で、西郷に最もよく似ているといわれている人である。(中略)ともあれ、安藤のつくった銅像は隆治さんによく似ている」

◎2008年(平成20年)12月30日の南日本新聞記事によると、西郷のモデルは、元・山形県議の男性であることが判明。安藤のアトリエで撮影された、銅像のひな型や肖像画などが写り込んだモノクロ写真が、男性の遺族宅で発見されたという。遺族は「(祖父の)目は隆治さんに似ていると思う」とも述べている。

[感  想]
軍服姿で左手にサ-ベル手に持った直立不動の堂々とした像です。
夜間は、ライトアップされ、西郷さんが鹿児島市の夜に浮かび上がります。
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身長は、5.257mです!

西郷 隆盛 1
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西郷 隆盛 像 1
(東京都 台東区 上野恩賜公園)

西郷 隆盛(さいごう たかもり)
(1828年-1877年)
江戸後期-明治時代の武士,政治家

撮影日:2007年6月21日
建設年:明治31年
分 類:薩摩藩士
作 者:高村光雲(人物)、後藤貞行(犬)
評 価:☆☆☆☆

西郷隆盛
「近代日本人の肖像ホームページ」から

文政10年12月7日生まれ。
西郷吉兵衛の長男。
薩摩鹿児島藩士。
藩主島津斉彬にみいだされるが,斉彬の没後,尊攘派対策で島津久光の怒りにふれて流罪,のちゆるされて藩政の主導権をにぎり,慶応2年坂本竜馬の仲介で倒幕の薩長同盟をむすぶ。
4年戊辰戦争を指導,江戸城の無血開城を実現。
新政府の陸軍元帥兼参議となるが,征韓論などで大久保利通らと対立し,下野して帰郷。
西南戦争をおこし,敗れて明治10年9月24日城山で自刃した。51歳。
【格言など】天は人もわれも同一に愛す,故に我を愛する心をもって人を愛せよ
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

上野のお山の西郷さん、と呼ばれて親しまれている銅像です。
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の身ながら時の藩主・島津斉彬に見出され、やがて戊辰戦争を主導して倒幕と明治新政府の樹立に大きな役割を果たした人物。
大久保利通、桂小五郎とともに維新三傑の一人に数えられています。
上野の像のモチーフは、犬を連れ、浴衣姿で兎狩りに興じている姿。
この姿を提案したのは従弟の大山巌で、私利私欲のない無垢な人間としての西郷隆盛を表現するという志であったそうです。
また、西郷の愛犬は雌犬の「ツン」でしたが、銅像製作当時はすでに死んでいたため、別の雄犬をモデルに製作されています。
銅像の完成は明治31年で、日本初となる銅像除幕式が行われました。
東京市の名物として市民に愛されただけでなく、地方から訪れる観光客にも人気でしたが、関東大震災に際しては尋ね人の張り紙掲示板の役割も務めました。
現在は周囲に高いビルが建っていますが、明治から昭和初期にかけては遠くからでも目立ったといいます。
余談ですが、西郷隆盛の未亡人は像が兎狩りの姿を模したとは知らず、除幕式の際に「浴衣で散歩することはなかった」と不満をもらして周囲を慌てさせたというエピソードも残っています。
西郷は日本初の陸軍大将となったことでも知られていますが、平服姿で像が作られた背景には、西郷が西南戦争で賊軍になったことが影響していたようです。
なお鹿児島には軍服姿の銅像が作られています。
見所は、浴衣の上からもふくよかな体躯を想像させる肉感表現で、時代の変わり目を激しく生きた人物というよりは、大山巌が意図したように柔和な人物像が随所に感じられます。
像それ自体も大きいですが、人物の大きさ、大らかさを感じさせる銅像です。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[肖 像]
◎大久保ら維新の立役者の絵が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。事実、西郷の顔写真は一切残っていない。
◎死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであり、キヨッソーネは西郷との面識が一切無かったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。
西郷の顔を記憶している人間が当時は多数生きており、特に似ていないとの異論も出ていないので基本的にはキヨッソーネの肖像画は似ているものと思われる。
ただし、実際の西郷の耳は耳たぶが垂れたいわゆる福耳ではなく、平耳であったことが近年の研究で明らかにされている。
実際の西郷にあって描かれた肖像画のいくつかは、明らかに平耳で描かれている。
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[銅 像]
◎肖像画を基に東京都台東区上野の上野公園に高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)の銅像が建設された。
銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている(樺山愛輔『父、樺山資紀』、伝記叢書44、大空社、昭和63年)。
公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(鹿児島弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。
この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」と解釈している。
◎上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、兎狩りをしている姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兔狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した(樺山愛輔、上掲書)。
連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。
一方、鹿児島市の城山公園に立つ銅像は軍装(陸軍大将)である。

西郷銅像
「西郷銅像」
最新東京名所写真帖(明治44.4刊行)
西郷銅像2
「西郷銅像」
最新東京名所写真帖(明治42.3刊行)
「写真の中の明治・大正-国立国会図書館所蔵写真帳ホームページ-」から

[エピソード]
◎幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。
◎身長:182cm、体重:114kg。血液型はB型。喫煙者だった。
◎郷土の名物、黒豚の豚肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと豚骨と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。
◎愛称
「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。
◎「うーとん」「うどめ」などのあだなの由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である。
西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。
その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。
そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。
その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。
◎猟好きと猟犬
西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。
自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。
狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。
西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。
したがって猟犬を非常に大切にした。
東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
「上野の西郷さん」は、「桂浜の坂本龍馬」と並んで、多分日本で一番知られている銅像ですね。
堂々とした姿は、迫力満点です!
さすがは、高村光雲といった感じです。
夫人の「うちの主人はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かしたエピソードは、笑えます。
でも、これだけ銅像のことが、話題となる銅像はなかなか他にありません。やはり西郷の人柄と人気がそうさせるのでしょう。


大久保 利通
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大久保 利通 像
(鹿児島県 鹿児島市 西千石)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和54年
分 類:政治家
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

大久保利通
「近代日本人の肖像ホームページ」から

大久保 利通(おおくぼ としみち)
(1830年-1878年)
幕末-明治時代の政治家

文政13年8月10日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
島津久光に信任され小納戸役となる。
西郷隆盛,岩倉具視とむすんで討幕運動の中心となり,明治政府を樹立。
木戸孝允らと版籍奉還,廃藩置県をおこなう。
明治4年大蔵卿となり,岩倉遣外使節団副使。
6年参議となり西郷隆盛の征韓論をしりぞけ,同年内務卿を兼任。
佐賀の乱,神風連の乱,西南戦争などを鎮圧。
地租改正をおこない,元老院,大審院,地方官会議の設置による立憲制の樹立をめざした。
明治11年5月14日東京紀尾井坂で石川県士族島田一良らに暗殺された。49歳。
初名は利済。通称は正助,のち一蔵。号は甲東。
【格言など】為政清明(暗殺される朝の揮毫)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソード]
◎金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、必要だが予算のつかなかった公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めていたために死後は8,000円もの借金が残った。
ただし残った借財の返済を遺族に求める債権者はいなかった。
政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。

◎口数こそ少ないが他を圧する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かってまともに大久保に意見できる人間は少なかった。

◎人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も大久保に対しては、怖くてまともに顔を見ながら話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払い気持ちを大きくした上で意見しようとしたが、大久保に一喝されるやすぐに引き下がったと言われる。

◎大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返ったと千坂高雅が語っている。

◎福地源一郎は大久保の人物を「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」と評した。

◎大隈重信は大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。
さらに同じく維新の三傑の一人木戸孝允とともに「維新時代の二大英傑」と評している(大隈は西郷を評価していなかった)。

◎明治6年(1873年)に五代友厚に浜寺公園へ案内された大久保は、堺県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、
「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」
と反対する歌を詠んだ。
税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。
なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。

◎西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったようだ)。
西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。
また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。

◎家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。
出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。
また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子ども達が争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。
平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。
大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。

◎趣味は囲碁。
碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだのがきっかけで生涯の趣味となった。
なおそれ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある。

◎ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。
また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた。

◎写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、写真が好きで多くの肖像写真がある。
大久保 サンフランシスコ
サンフランシスコにて撮影

◎大久保は西郷を殺し、西南戦争で薩摩を滅ぼそうとした張本人として地元でのイメージは高くない。
近年まで地元への納骨すら避けられていたというからよっぽどのことである。
現在鹿児島市には大久保の銅像があるが、西南戦争百周年の頃に県外から「なぜ大久保の銅像がないのか」と言われて半ば渋々作ったものだという風説がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[銅 像]
銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日に設置されました。
台座からの高さは9.7mです。(像のみは4.3m)

[感  想]
2007年に一度会っていますが、5年後に再び訪れ、後ろの細工も確認しました。
この銅像は、維新ふるさと館から200mくらい離れた川沿いに建っています。
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大久保は、西郷さんに比べて鹿児島ではあまり人気がないようです。
台座が高いのもイタズラされないためという噂もあるようです。
像は、確かに高く、コートをなびかせた姿は、堂々として立派です。

銅像の後ろ足元には、大久保さんが暗殺されたときに一緒に殺されてしまった馬車夫と馬の像が小さいけれどあるということで、
銅像の後ろにまわり、足元を見ると、
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確かに台座のところから突き出た、馬と人の一部が確認できました!
こういった細工をすることは、おもしろいと思いました。

小松 帯刀
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小松 帯刀 像
(鹿児島県 鹿児島市 山下町 県文化センタ-)

撮影日:2012年11月18日
建設年:平成5年
分 類:幕末藩士
作 者:西俣 敏弘
評 価:☆☆☆☆

小松帯刀
「近代日本人の肖像」から

小松 帯刀(こまつ たてわき)
(1835年-1870年)
幕末-明治時代の武士、官僚

天保6年10月14日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
文久2年家老となり、大久保利通らと藩政改革を推進。
慶応2年(1866)西郷隆盛とともに、木戸孝允(たかよし)らとの間で薩長同盟をむすぶ。
維新後は新政府の総裁局顧問などに就任、大久保らと版籍奉還も画策した。
明治3年7月20日死去。36歳。
本姓は肝付。名は清廉。幼名は尚五郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[エピソ-ド]
◎愛妻家で、新婚時代の安政3年4月23日から5月6日(1856年5月26日から6月8日)にかけて当時珍しい新婚旅行で霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。この滞在には千賀の父も同行した。
ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬は寺田屋事件直後の慶応2年(1866年)であり、実際には帯刀清廉のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる。

◎寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、若くして薩摩藩の重職に取り立てられた。
西郷隆盛に初めて会いに行った際、西郷が、身分としては遥かに上とはいえ自らより7歳若い小松の度量を試そうと、わざと部屋で横になり小松を待っていたところ、小松はその姿を見て立腹することなく、むしろ西郷のために枕を持って来るよう従者に促したため、西郷はその一言を聞くや居住まいを正し小松に詫び、忠誠を誓ったという。
新政府においても将来を嘱望された。

◎坂本龍馬の新政府の人事構想では、西郷や大久保、桂らを抑えて、筆頭に挙げられていた。

◎2008年(平成20年)のNHK大河ドラマ『篤姫』では帯刀の存在がクロ-ズアップされ、主人公・篤姫の幼馴染という設定で篤姫との友情・恋慕が描かれた。
しかし、実際には両者が接点を持っていたという記録はなく、これらのシ-ンは全てドラマ内の創作である。

◎乗馬の達人であったとされる。夜、馬乗り提灯をさして馬に乗っても、提灯が揺れなかったという記述がある。

◎幕末に英国の外交員として派遣されていたア-ネスト・サトウの著書において、「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」と評されている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
鹿児島県文化センタ-の敷地内におられます。
「大政奉還すべき」と記帳に真っ先に署名した姿を表した像です。
きりりとした表情で、島津三公銅像のある照国神社の方角を見ているというのもいいです。

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若き薩摩の群像
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若き薩摩の群像
(鹿児島県 鹿児島市 中央町 JR鹿児島中央駅前広場)

撮影日:2012年11月18日
分 類:薩摩藩士
建設年:昭和57年
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆☆

JR鹿児島中央駅前の広場に建つ、幕末に英国に密航留学した青年薩摩藩士たちの勇気と功績を称える17人の銅像。

17人の名前(密航当時の年齢)は、
1 新納 久脩  (34歳)
2 町田 久成  (28歳)
3 松木 弘安  (23歳)
4 五代 友厚  (29歳)
5 名越 時成 (19歳)
6 吉田 清成 (20歳)
7 中村 博愛 (24歳)
8 市来 和彦 (24歳)
9 森 有礼  (21歳)
10 村橋 直衛 (23歳)
11 畠山 義成 (23歳)
12 鮫島 尚信 (23歳)
13 田中 盛明 (24歳)
14 東郷 愛之進(21歳)
15 町田 実積 (19歳) 
16 町田 清次郎(15歳)
17 磯永 彦助 (14歳)

銅像になっていない留学生
◎高見 弥一(34歳)土佐藩出身
◎堀 孝之(21歳)長崎出身通訳

倫敦到着後の留学生
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(後列左から)高見弥一・村橋直衛・東郷愛之進・名越時成
(前列左から)畠山義成・森有礼・市来和彦・中村博愛 

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(後列左から)田中盛明・町田実積・鮫島尚信・松木弘安・吉田清成
(前列左から)町田清次郎・町田久成・磯永彦助 
「薩摩藩英国留学生記念館(仮称)準備室ホームページ」から

[銅  像]
昭和57年3月建立。
高さが12.1m(台座部分9.49m)
中村晋也制作

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「若き薩摩の群像」
九州新幹線の終着駅・鹿児島中央駅に降り立つと、桜島を背景にしてそびえ立つ「若き薩摩の群像」の銅像がまず目に飛び込んでくる。
鹿児島の玄関口ともいうべき鹿児島中央駅の正面に立つこの銅像は、郷土の英雄西郷隆盛でもなく大久保利通でもない、幕末に鎖国の国禁を破ってイギリスに渡り、その後日本の近代化に大きな役割を果した十九名の薩摩藩英国留学生を顕彰するモニュメントである。

「薩英戦争から留学生の派遣へ」
薩摩藩の欧米への留学生派遣については、集成館事業で知られる島津斉彬がすでに構想を抱いており、実際に計画も進めていた。
攘夷思想が主流の時代にあって、世界の動きを正確に把握していた斉彬は、日本の近代化を進めるために留学生の派遣を模索していたのである。
その後再び留学生派遣の件が話題に上るのは、文久三年(一八六三年)に起った薩英戦争の後である。この戦いではイギリス艦隊に搭載された開発されたばかりのアームストロング砲が容赦なく鹿児島城下を襲い、集成館や台場などがことごとく破壊された。
身を以て大英帝国の軍事力・技術力を知った薩摩藩は、その後急激にイギリスに接近し、近代化を進めていく。
長崎を拠点とするイギリス商人グラバーと親密な関係を持つのもこの頃からである。
元治元年(一八六四年)には、欧米の技術・学問・語学などを学ぶための開成所が創設され、教授陣には全国からの一流の学者に加え、アメリカ帰りの中浜万次郎(ジョン万次郎)なども招かれた。留学生はその開成所の生徒から選抜された。
ところで、留学生派遣について詳細なビジョンを持っていたのは、五代友厚であった。五代はすでに海外渡航の経験もあり、藩内きっての開明派として知られた逸材である。人選等は難航したが、五代の案をもとに、最終的には家柄・年齢・思想面などの点で各層から幅広く選ばれ、それに随伴の使節と通訳を加えた陣容となった。

「遙かなる大地へ」
慶応元年三月二十二日(一八六五年四月十七日)、薩摩藩留学生一行十九名を乗せたグラバー商会所有の蒸気船オースタライエン号は、串木野郷羽島浦を出航した。
当時はまだ鎖国下で海外渡航は厳禁であるため、表向きは大島・甑島へ出張ということにして、万が一幕府に露見した場合も想定して、全員変名を用いることにした。
日記を読むと、出航時の彼らの心境は、まるで戦場に向かうようなものであったと察せられる。現在ならば宇宙旅行に旅立つようなものであろうか。
ここで一行の顔ぶれを見てみよう。
正使は大目付の新納久脩(三十四歳)で、帰国後は家老に就任し、藩政を担った人材である。副使は町田久成(二十八歳)で、開成所掛(学頭)という立場上、他の留学生十四名の監督役を務めた。帰国後は東京国立博物館を創設したことで知られている。その他、随伴使節として寺島宗則(三十三歳)と五代友厚(二十九歳)、そして通訳の堀孝之(二十一歳)を加えて総勢十九名である。
一行は、各寄港地でガス灯や蒸気機関車に驚いたり、西洋人が人前で堂々とキスすることに驚嘆しながら、二カ月余りかけてイギリス南部のサウサンプトン港に入港した。
ロンドン到着後、一行は大学への入学に備え語学の特訓に励んだが、鉄工所や農園などの視察なども精力的にこなしていることが分かる。
留学生たちはロンドン大学に入学し、それぞれの専門分野を学んだ。
当時の学籍簿が今でも大学資料室に残っている。
その間、寺島はイギリス外務省筋との外交交渉を行い、同国の対日政策を薩摩藩に有利な方向へ導き、五代は産業視察や紡績機械の購入、さらには貿易会社「ベルギー商社」設立に向けて精力的に動いた。
新納・町田・寺島・五代は、国元(薩摩藩)にヨーロッパ情勢や留学の成果を逐一書き送っている。それらの情報は、倒幕を進める薩摩藩にとって、日本を取り巻く欧米の動向を分析する上で、極めて重要な情報となった。
なお、留学生中最年少の長沢鼎(十三歳)については、一人スコットランドのアバディーンにあるグラバーの実家に引き取られ、そこから地元の中学に通った。地元の新聞に成績優秀者として長沢の名前が掲載されており、真剣に勉学に励んだことが察せられる。
留学生の大半は二年間ほどで帰国するが、森有礼などはその後アメリカへ渡り、明治初めまで見聞を広め近代的な知識や思想を学んだ。彼らの培った知的財産は、明治日本が近代化を進めるにあたって、あらゆる分野で極めて重要な役割を果すことになった。
まず外交の面では、外務卿として不平等条約の改正に尽力した寺島宗則を筆頭に、鮫島尚信・中村博愛などがヨーロッパ外交に大きな足跡を残している。教育界では、初代文部大臣として教育制度の基礎を作った森有礼をはじめ、東京開成学校(後の東京大学)初代校長の畠山義成等が特筆される。
生野銀山の開発に尽力した朝倉盛明やサッポロビールの創設に尽した村橋久成、大阪商工会議所を設立し初代会頭に就任した五代友厚などは、殖産興業の面で大きな功績を残している。

「銅像がない二人」
ところで、冒頭に十九名の薩摩藩英国留学生と書いたが、鹿児島中央駅前の銅像をよく数えてみると、十七人しかなく二人足りない。銅像を建立する際、二人は鹿児島出身でないという理由で除かれたという。
一人は土佐藩出身の高見弥一で、本名を大石団蔵といい、土佐から薩摩藩に亡命した人物である。文久年間に薩摩藩士として抱えられ、開成所に学び留学生に選抜された。帰国後は鹿児島高等中学造士館などで数学を教え、明治二十九年(一八九六年)年、鹿児島で五十三歳の生涯を閉じている。
もう一人は長崎出身の堀孝之である。臨時的に通訳として雇われたのではなく、パリ万博に薩摩藩が参加した際にも同行している。堀と薩摩藩との繋がりは曾祖父の代から続いており、帰国後も薩摩藩の船奉行見習として長崎において重要な役割を果した。
薩摩藩は一般には極めて閉鎖的なイメージがあるが、実際には人材登用・情報収集などについては力を入れており、幕末期においては薩摩藩を中心としたネットワークは群を抜いていた。薩摩藩が明治維新において主導的な役割を果たせた背景には、このような点があることも見過ごしてはならない。

「語り継がれる功績」
昭和五十八年(一九八三年)十一月に来日したアメリカのレーガン大統領は、国会演説の中で「サムライから実業家になった長沢鼎の功績は、日米両国の友好の歴史の中で特筆すべきことがらである」と紹介した。
長沢はイギリスからアメリカに渡り、カリフォルニア州サンタ・ローザでブドウ園とワインの製造を手広く経営している。地元では名士として人々の尊敬を集め、昭和九年(一九三四年)に八十三歳で同地で亡くなった。レーガン演説を機に改めてその功績を顕彰する動きが高まってきた。
留学生の渡航から百四十年目の今年、地元鹿児島ではご子孫なども招待しての記念イベントや企画展が盛大に開催される。また、九月には村橋久成の胸像が、北海道庁の知事公舎に建立される予定である。
百四十年の時空を経て、彼らの精神や功績は脈々と語り継がれていく。
「あっと九州ホームページ」から

【鹿児島市 県外出身の2人追加を 若き薩摩の群像完成させる会 市長に要請書】
鹿児島市のJR鹿児島中央駅前にある、薩摩藩英国留学生のモニュメント「若き薩摩の群像」に、県外出身者2人の像の追加を求める「若き薩摩の群像を完成させる会」(島津修久会長)は26日、同市の森博幸市長に、要請書を提出した。
要請書では「出身地こそ違うが2人は紛れもない薩摩藩士との文献もある」「(県外出身者ということで2人が除外されている現状では)市民に誇れるはずのモニュメントが、鹿児島の閉鎖性を表すシンボルになる」などと指摘。島津会長らは「建立25年、60万都市になった今こそ追加建立を」と求めた。
森市長は「市民や専門家、制作者の意見などを聞き、できれば新幹線鹿児島ルートの全線開業までには結論を出したい」と述べた。
モニュメントは、幕末に国禁を犯して英国に留学、明治維新後の近代国家づくりに貢献した薩摩藩留学生の17人の群像。市が1982年、50万都市達成を記念して建立したが、19人の留学生のうち、通訳として同行した長崎出身の堀孝之と、土佐藩を脱藩後、薩摩藩士となった高見弥一の2人は除かれた。
「2007/09/27付 西日本新聞朝刊」から引用

[感  想]
鹿児島の玄関にふさわしい若さと躍動感にあふれる銅像です。
有名人は、いませんが、その後の活躍は素晴らしいものがあります。
17人もの人が一緒の銅像というのもこれだけでしょう!
あと、2人追加という動きも有るようです。
2007年に一度写真に撮りましたが、
2012年に再度詳しく個々の写真を撮影しました。

新納 久脩
新納久
1 新納 久脩 像

新納 中三(にいろ なかぞう)
(1832年-1889年)
幕末の武士

天保3年4月15日生まれ。
薩摩鹿児島藩の重臣。
慶応元年大目付となり,石垣鋭之助の変名で藩留学生をひきいてヨーロッパ各国を視察。
帰国後家老となり,開成所,外交事務をつかさどる。
維新後は判事,大島島司などをつとめた。
明治22年12月10日死去。58歳。
字は久脩。通称は刑部。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎島津斉彬・茂久2代の藩主に仕え、はじめ軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用。
文久2年(1862年)には軍役奉行となる。翌年7月に起きた薩英戦争で兵制改革の実績を発揮し、賞賛された。

◎ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)のモンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッセルにおいて薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、翌慶応2年(1866年)に帰国した。

◎明治18年(1885年)奄美大島島司となり、特産品である黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したが、翌年突然免官された。これは黒糖流通を独占していた鹿児島県商人による画策といわれる。しかしその後も中三は島民から救世の恩人と敬慕された。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

町田 久成
2町田久成2
2 町田 久成 像

町田 久成(まちだ ひさなり)
(1838年-1897年)
幕末-明治時代の武士,官僚

天保9年1月生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
元治2年藩命で森有礼らと渡英。
維新後,文部大丞などを歴任。
のち内務省博物局長として博物館創設につくし,初代帝国博物館館長となる。
晩年は仏門にはいった。
古美術研究で知られる。
明治30年9月15日死去。60歳。
通称は民部。号は石谷。変名に上野良太郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎ヨーロッパ滞在中に博物館事業の重要性を認識し、維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わる。
官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。
書画篆刻を自らよくし、美術品の鑑定眼が優れていた。

◎町田は美術品の中でも特に和楽器に関心を持っていた。
ある時祇園の茶屋で遊んでいた際に芸妓が持っていた古い琴に惚れ込み、ゆずってもらえないかと頼みこんだものの断られたので、琴を芸妓ごとを身受けし、琴だけを手元に残して芸妓には暇を出したと伝えられている。

◎音楽にも造詣が深く山井景順に師事して横笛を学んだ。
内山下町博物館の時代には舞楽の会や管弦の会を宮内省の宮中の令人たちを招いて定期的に展示物の和楽器を使って開催していたほか、個人でも隅田川にて舟遊合奏会を開催するなどしていた。

◎井上馨が町田に伊万里の土を使ってフランスの陶工に焼かせた花瓶を見せたところ町田は土は日本のものだが焼き方は日本や中国のものではないので自分にはわからないと答えた。
後日九鬼隆一にも同じことを聞いたところ伊万里焼だと答えたので、井上は町田が分からないと答えたのは確かに理解している証拠だとして九鬼の鑑識は町田には遥かに及ばないと言ったという。

◎明治天皇の銀婚式に杉に参加するように請われたところこの時既に出家していた町田は貧しい姿をして宮門に参上した。
警備のものが不審者と思いこれを止めたところ町田はその通りである。
乞食坊主がこのような尊い儀式に参加するのは最も恐れ多い次第である。
初めは参賀は恐れ多いので断ったのだが、参賀を厳達されたのでやむを得ず着た次第なりと答え警備の者の言うとおり引き返そうとするところで連絡を受けた杉孫七郎が町田の悪戯には困ると言って通すように言ったという。

◎ある骨董商が、庵を立て月に200円の布施をするので自分以外の骨董商の品の鑑定をやめてくれないかと頼んだところ。
好意はありがたいが自分はようやく世間の煩を免れたところであり、自らの如き乞食坊主を金儲けの餌に使うのは友人としてあまりに過酷ではないか。御免被ると答えた。

◎ある日知り合いの料理屋の主人が町田のもとを訪れ、ある玉の鑑定書を請うた。
町田がその鑑定書をなんに使うのかと聞いたところ、町田の鑑定書があればある銀行家が2万5千円で買う約束があると答えたので、それは面白い。
乞食坊主が書いた紙切れにそんな価値があるとは恐れ入る。
それではあなたはいかほど布施をするのかと併せて聞いたところ、一般の商習慣に則って1割2千500円を布施するとのことだった。
町田はそれに対して2万5000円を布施すれば立派な奉書紙に書いてやると答えたので聞いていたものらは大笑いしたという。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

寺島 宗則
3寺島宗則
3 松木 弘安 像

3寺島宗則 肖像
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

寺島 宗則(てらじま むねのり)
(1832年-1893年)
幕末-明治時代の武士,外交官

天保3年5月23日生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
蘭学をまなび,幕府の蕃書調所教授手伝となり,文久元年第1回幕府遣欧使節の随員として渡欧。
維新後,外務大輔,駐英公使をへて明治6年参議兼外務卿となり,条約改正交渉にあたる。
のち元老院議長,枢密院副議長などを歴任。
明治26年6月6日死去。62歳。
本姓は長野。前名は松木弘安(こうあん),寺島陶蔵。変名は出水泉蔵。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎日本の電気通信の父と呼ばれる。

◎1889年(明治22年)の枢密院での憲法制定の御前会議において、当時枢密顧問官であった寺島宗則は、伊藤博文議長の提出した憲法草案には、帝国議会に発議権を付与する項目がないことを問題としこれを付与すべきと主張した。
そして議論の結果、ついに憲法上に帝国議会の発議権を明記させることに成功した。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

五代 友厚 2
4五代
4 五代 友厚 像 2

名越 時成
5名越時成
5 名越 時成 像

名越 平馬(なごし へいま)
(1845年-?)
幕末の武士

弘化2年生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
元治2年藩派遣の15人の留学生のひとりとして三笠政之介の変名でイギリスにわたる。
ロンドン大にまなび,慶応2年に帰国した。名は時成。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

吉田 清成
6吉田清成
6 吉田 清成 像

6吉田 清成 肖像

6吉田 清成 肖像2

吉田 清成(よしだ きよなり)
(1845年-1891年)
明治時代の外交官

弘化2年2月14日生まれ。
元治2年薩摩鹿児島藩留学生となり英,米でまなぶ。
明治4年大蔵省にはいり,外債募集に成功。
7年駐米公使となり,11年関税自主権回復の日米新条約(吉田・エバーツ条約)を締結した。
のち農商務次官,元老院議官,枢密顧問官。
明治24年8月3日死去。47歳。
幼名は巳之次。通称は太郎。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎生前、多数の手紙・日記・記録などを遺しており、これら2,700通は「吉田清成文書」として京都大学日本史研究室に保管されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

中村 博愛
7中村博愛

7中村2
7 中村 博愛 像

中村 博愛(なかむら ひろなり)
(1843年-1902年)
幕末-明治時代の武士,外交官

天保14年11月生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
藩の留学生として吉野清左衛門の変名でイギリス,フランスにわたる。
帰国後,藩開成所のフランス語教授となる。
その後外交官となりフランスのマルセイユ領事,外務大書記官,デンマーク公使などを歴任した。貴族院議員。
明治35年10月30日死去。60歳。
前名は宗見。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

市来 和彦
8市来和彦
8 市来 和彦 像 

8松村 淳蔵 肖像
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

松村 淳蔵(まつむら じゅんぞう)
(1842年-1919年)
幕末-明治時代の武士,軍人

天保13年5月18日生まれ。
横井小楠の甥。
元治2年薩摩鹿児島藩の留学生としてイギリスに密航。
慶応3年アメリカにうつり,明治6年アナポリス海軍兵学校を日本人として最初に卒業,同年帰国。
10年海軍兵学校校長。24年中将。
大正8年1月7日死去。78歳。
本名は市来勘十郎。名は政盛。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

森 有礼
9森有礼
9 森 有礼 像

9森 有礼 肖像
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

森 有礼(もり ありのり)
(1847年-1889年)
明治時代の外交官、政治家

弘化4年7月13日生まれ。
もと薩摩鹿児島藩士で、藩命で英米に留学。
新政府につかえたが廃刀案を否決され辞職。
明治3年ふたたびむかえられ、外務大輔、イギリス公使などを歴任。
この間明六社を結成、「明六雑誌」を刊行して啓蒙活動をおこなった。
18年初代文相となり、諸学校令を制定して教育制度を確立。
刺客西野文太郎におそわれ、明治22年2月12日死去。43歳。
通称は金之丞。
【格言など】女子は天然の教員なり(持論)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎一橋大学創設者、初代の文部大臣、明六社会長、東京学士会院初代会員、明治の六大教育家。

◎福澤諭吉が証人となり、広瀬常との結婚に際して婚姻契約書に署名し結婚(日本における最初の契約結婚といわれる。ただし、山本七平は「欧米で結婚が契約だというのは二人がそれぞれ神と契約するのであって二人が相互に契約するのではない。欧米人が森の『契約結婚』を聞いたらひっくりかえっただろう」と述べている)。

◎1885年(明治18年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わる。
また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。
翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

◎英語の国語化を提唱したこと(国語外国語化論)でも有名で、1872年(明治5年)にはイェール大学の言語学教授のウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛てに「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送っている。だが、ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語のローマ字化を除いては日本語の廃止に反対している。

◎森の急進的な考えには当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもしたが、近代国家としての教育制度の確立に尽力したその功績は大きい。

◎1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に切りつけられ、翌日死去。43歳だった。
当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な洋化主義者であった森は人々から疑いの目が向けられる事となった。
この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。
木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると書き残している。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

村橋 直衛
10村橋久成

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10 村橋 直衛 像

10村橋 久成 肖像

村橋 久成(むらはし ひさなり)
(1840年-1892年)
幕末-明治時代の武士、官吏

天保11年生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
藩命でイギリスに留学し、帰国後、戊辰戦争に参加。
のち開拓使につとめ、北海道開拓事業の指導にあたる。
明治14年開拓使を辞し、雲水となり行脚放浪。
明治25年9月28日神戸で死去。53歳。
通称は直衛。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

サッポロビールの前身創始者
「村橋久成小伝」
村橋久成は天保11(1840)年、薩摩藩加治木島津家の分家に生まれ、将来は家老職を約束されていた。
慶応元(1865)年、薩摩藩が森有礼ら15人を留学生としてイギリスへ派遣したとき、その一人に選ばれ、ロンドン大学に入学。
翌年に帰国し、幕末維新の動乱期には官軍に参加した。
明治4(1871)年11月、開拓使に10等出仕として採用され、七重村官園(現・七飯町)や、屯田兵のさきがけとなった琴似兵村(現・札幌市)の測量や境界、道路、家屋などの建設に当たった。
村橋を今もサッポロビールに強く結びつけるのは、開拓使麦酒醸造所の建設を東京から札幌に変更させた功績によるものであろう。
開拓使は明治15(1882)年に廃止が予定されていたが、その前年、黒田長官を辞任に追い込んだ「開拓使官有物払下げ事件」が起こる。
村橋は、目前で繰り広げられた“官財癒着”に我慢ができなかったのか、同僚たちが止めるのも聞かず、7等出仕の職を辞した。
それから約10年後の明治25(1892)年10月、「鹿児島 村橋久成」という名の雲水が路上で行き倒れ、仮埋葬されたという死亡広告が神戸の新聞に掲載された。
(サッポロビール120年史より抜粋引用)

畠山 義成
11畠山義成
11 畠山 義成

11畠山 義成 肖像
「畠山義成 みじかい半生の足跡」から

畠山 義成(はたけやま よしなり)
(1843年-1876年)
幕末-明治時代の武士、教育者

天保14年生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
慶応元年留学生としてロンドン大でまなび、のち渡米してラトガーズ大に入学。
帰国後、三等書記官となり、明治4年岩倉遣外使節に随行。
6年開成学校初代校長、8年東京書籍館・博物館館長となった。
明治9年10月20日死去。34歳。
変名は杉浦弘蔵。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

日本がまだ留学を禁止していた1865年、薩摩藩からイギリスに渡った留学生のひとり、畠山義成は、杉浦弘蔵と名を変え、KoZo Soogiwooraとして第二の人生を歩みます。
木戸孝允、大久保利通の大きな信任を得て、のちに開成学校長、博物館長、図書館長を兼任し、文部省、内務省、外務省、太政官で活躍する輝かしい未来を約束されながら、1876年、派遣されたフィラデルフィア万博の帰路、畠山は結核で34年の短い一生を閉じます。
「畠山義成 みじかい半生の足跡ホームページ」から

鮫島  尚信
12鮫島尚信

12鮫島2
12 鮫島 尚信 像

12鮫島 尚信 肖像
「博士の肖像 東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻」から

鮫島 尚信(さめしま なおのぶ)
(1845年-1880年)
明治時代の外交官

弘化2年3月10日生まれ。
もと鹿児島藩士。
イギリス留学後、慶応4年外国官権判事となる。
のち少弁務使、外務大輔などを歴任。
明治13年12月4日駐仏公使在任中、パリで客死。36歳。
通称は誠蔵。変名は野田仲平。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎在仏公使在任中にパリで持病の肺病に倒れ、35歳の若さで病没した。
終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ、弔辞で「気高き働き人」と述べたという。パリのモンパルナス墓地に日本式の墓がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

田中 盛明
13田中盛明
13 田中 盛明 像

田中 静洲(たなか せいしゅう)
(1842年-?) 
幕末-明治時代の武士、鉱山技術者

天保13年生まれ。
薩摩鹿児島藩士。
元治2年藩の留学生にえらばれ、朝倉省吾の変名でイギリスとフランスに留学。
朝倉盛明と改名し、明治元年フランス人技師コワニーの通訳をつとめて生野鉱山の調査にかかわる。
鉱山司生野出張所長、生野鉱山局長などをつとめた。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

東郷 愛之進
14東郷愛之進
14 東郷 愛之進 像

東郷 愛之進(とうごう あいのしん)
(1845年-1868年)

諱は実吉、愛之進は通称。
慶応元年薩摩藩派遣留学生の一人として岩屋虎之助の変名でイギリスに留学し、海軍機械術を学ぶ。
帰国後明治元年戊辰戦争に出陣し、東北を転戦し、陣中で死亡。

町田 実積
15町田実積
15 町田 実積 像

町田 申四郎(まちだ しんしろう)
(1847年-?)

町田久成の弟
留学当時、薩摩藩開成所諸生。蘭学専修。
慶応2年夏、帰国。
明治3年10月、島津久光の声がかりで小松帯刀の養子になりましたが、明治5年9月25日(1872)小松帯刀の長男清直に家督を譲り、その後はよくわかっていません。
「薩摩藩英国留学生記念館(仮称)準備室ホームページ」から

町田 清次郎
16町田清次郎
16 町田 清次郎 像

町田 清蔵 (まちだ せいぞう)
(1851年-?)

町田久成の末弟。
留学当時、薩摩藩開成所諸生。蘭学専修。
慶応2年夏フランスに渡り、普墺戦争を見学しています。
8月、帰国。
その後の経歴はあまりわかっていませんが、財部家に養子に入った彼が、後年留学当時のことを思い出して語った「財部実行回顧談」という史料は、留学生関係の史料のなかでも非常におもしろい史料として知られています。
「薩摩藩英国留学生記念館(仮称)準備室ホームページ」から

長沢 鼎
17長沢
17 磯永 彦助 像

17長沢 鼎 肖像
「鹿児島国際大学考古学ミュージアム」から

長沢 鼎(ながさわ かなえ)
(1852年-1934年)
明治-昭和時代前期の海外農場経営者

安政元年生まれ。
慶応元年薩摩鹿児島藩の留学生としてイギリスへ派遣される。
2年後森有礼らとアメリカにわたり、ひとりカリフォルニア州サンタローザにとどまって葡萄園の経営に成功。
昭和9年3月1日死去。81歳。
本名は磯永彦助。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。

◎1900年長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。
彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。

◎生涯独身を貫き、83歳で死ぬと、ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。
その一部はパラダイスリッジ・ワイナリーとして継承されている。

◎禁酒法時代、密売を持ちかけた業者の前で樽を割って拒絶した。

◎主君筋である島津忠重がサンフランシスコに海軍の士官候補生として寄港したとき、土下座をして歓迎した。

◎2007年、サンタローザ市は長澤の功績を讃え、彼のワイン醸造所と農園跡地に市民公園Nagasawa Community Parkをつくった。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

五代 友厚 1
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五代 友厚 像 1
(鹿児島県 鹿児島市 泉町 泉公園)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和36年
分 類:実業家
作 者:坂上 政克
評 価:☆☆☆☆

五代友厚
「近代日本人の肖像」から

五代 友厚(ごだい ともあつ)
(1836年-1885年)
明治時代の実業家

天保6年12月26日生まれ。
もと薩摩鹿児島藩士。
元治2年藩命で渡欧、武器や機械類を輸入。
維新後官界から実業界に転じ、大阪を本拠に鉱山、製藍、鉄道などの事業をおこす。
明治11年大阪商法会議所を設立し、会頭。
14年開拓使官有物払い下げ事件をおこした。
明治18年9月25日死去。51歳。
幼名は徳助、才助。号は松陰。
【格言など】男児、財産をつくるためにこの世に生をうけたのではない(信条)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソ-ド]
◎14歳のとき、琉球公益係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。
見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図だった。
友厚は父からこの世界地図の複写を命じられる。
友厚は2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げて日夜眺めていたようで、地図を眺めながら特にイギリスに目をつけていた。
世界地図には薩摩はおろか日本すら載っていないことに気づくと同時に「なぜ日本と同じように小さい島国であるイギリスが世界を制覇できたのか」、そして国内で起こっている薩摩や長州の藩同士の争いがとても小さい争いであり「同じ日本国民として手を取り合い、外国に負けないような国力と技術力をつくろうではないか」という熱意をもつようになる。

◎安政元年(1854年)、ペリ-が浦賀沖に来航し天下は騒然となる。
その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。

◎五代は小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通などの要人と知り合いだった。
長州藩の高杉晋作や土佐藩の浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。
このように一流の人物たちと関わり合える条件をもっていたことが五代の後の功績へと役立った。
加えて、五代が役立てたものは英語力である。
当時から外交に英語力は欠かせなかった。
特に薩摩藩城代家老小松帯刀には重用されて恩義を感じ、小松死後はその妻(側室)子の面倒を見たことでも知られる。

◎友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まった。
新政府が諸外国との交渉窓口として外国事務掛を大阪に設け、五代を任命したのが起点である。
この頃、大阪では日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかった。
条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていた。
五代はこのような不正に対しては断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒んだ。
次第に五代が駐在する大阪港では外国船の荷物検査があまりにも厳しいという抗議が政府まで届き、政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展した。
しかし、五代は外国商人の要求の真意が荷物検査が行われることによる不満(脱税や不正行為ができなくなる為)であることを見抜いていたので全く動じなかった。
商売人にとって【信用】は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその「信用」を勝ち取ろうとする五代の信念があった。
五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
銅像は、昭和56年に長田陸橋袂から現在の県産業会館前の泉公園に移設されました。
左手を腰にあて、握りしめた右の拳をちょっと前に出した立ち姿は、示現流の使い手がい つでも拔刀できるポ-ズのようです。
彫りの深い顔も意志の強さを表しています。
IMG_0780.jpg
県産業会館をじっと見守っているようです。





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