ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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狩野 芳崖 2
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狩野 芳崖 像 2
(山口県 下関市 長府黒門東町 下関市立美術館)

撮影日:2012年12月31日
建設年:昭和年
分 類:日本画家
作 者:中村 辰治
評 価:☆☆☆

[感  想]
kaIMG_0562 (2)
下関市立美術館敷地の植え込みの中におられます。
上半身の像で、細かいところまでよく表現されています。
昭和8年に制作された古い像です。

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狩野 芳崖 1
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IMG_6076.jpg
狩野 芳崖 像
(山口県 下関市 長府 覚苑寺)

撮影日:2007年9月6日
建設年:昭和8年
分 類:日本画家
作 者:藤田 文蔵
評 価:☆☆☆

狩野芳崖
「近代日本人の肖像ホームページ」から

狩野 芳崖(かのう ほうがい)
(1828年-1888年)
幕末-明治時代の日本画家

文政11年1月13日生まれ。
弘化3年江戸にでて狩野養信,狩野雅信に師事。
明治17年フェノロサの主宰する鑑画会に参加。
以後,フェノロサや岡倉天心と協力して日本画の近代化運動に力をそそいだ。
東京美術学校(現東京芸大)の設立にも尽力。
明治21年11月5日死去。61歳。
長門(山口県)出身。
名は延信。字(あざな)は貫甫。別号に皐隣,松隣。
作品に「悲母観音」「不動明王」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。
由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。
日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。
フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。
この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。
芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。
墓所は東京谷中の長安寺。
芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[代表作品]
hibokanons.jpg
「悲母観音」の記念切手
●「悲母観音」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)一面絹本著色 1888年

不動明王 狩野
●「不動明王」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)1887年
原図はフリーア美術館が所蔵している
「東京藝術大学美術館ホームページ」から

[感  想]
絵筆と紙をを持って座っている姿は、堂々として立派です。
命をかけて描いた、「悲母観音」は素晴らしいものです。


谷 玉仙尼
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谷 玉仙尼 像
(山口県 下関市 吉田 東行庵)

撮影日:2012年12月31日
建設年:平成21年
分 類:その他
作 者:田村 務
評 価:☆☆☆

谷 玉仙尼(たにぎょくせんに)
(1920年-1989年)
東行庵の3代目 庵主

本名 末成チカ。
大正9年 下関市外浜町(現中之町)に生まれ、5~6歳の時に相次いで両親を亡くし、親戚の手によって東行庵につれてこられた。
26歳のときに、3代目庵主となり、昭和41年 東行100年記念事業として、維新の志士たちの功績を人々に伝えるため、県内だけでなく東京、大阪の企業をまわっては、頭を下げて寄付金を集め、東行記念館を設立。
さらに昭和46年からは、各地を訪ね歩いて、忘れ去られた諸隊士の墓を持ち帰り、東行庵に安置して供養した。
また東行庵の隣接地に、吉田保育園をつくり、東行120年祭の記念イベントとして「海峡ウォーク」を行った。
「ぶちしものせきホームページ」から

「晋作の慰霊と顕彰に尽力 東行庵3世庵主・玉仙尼の銅像完成」
東行庵に完成した3世庵主、谷玉仙尼の銅像。
建立実行委員長の古川薫さんらが除幕した
吉田の東行庵に1日、高杉晋作の慰霊と顕彰に尽力した3世庵主、谷玉仙尼(1920~89年)の銅像が完成した。
除幕式があり、関係者や地元住民ら約150人が出席した。
玉仙尼は1946年に庵主となり、晋作の墓所の整備や遺品の保存、奇兵隊の慰霊墓地開設に心血を注いだ。
吉田緑保育園の設立やカンボジアの難民キャンプ支援など教育、福祉にも力を入れた。
今年10月で没後20年となる。
銅像は市内の有志らでつくる実行委員会が建立。制作は梅光学院大教授で、彫刻家の田村務さん(61)が担当した。
高さは台座と合わせて約1.7メートルで、池のほとりに座して訪れた人を静かに見守る様子を表現している。
制作費約650万円は協賛企業や賛助者から募った。
「山口新聞 2009年10月2日(金)掲載」から引用

[感  想]
gyoIMG_0568.jpg
東行庵の敷地内の池のほとりおられます。
袈裟を着て座っている姿でやさしい表情が印象的です。
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じっと東行庵や晋作のお墓を見つめられています。



安徳天皇
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安徳天皇 像
(山口県 下関市 みもすそ川町 みもすそ川別館)

撮影日:2012年12月30日
建設年:昭和45年
分 類:天皇
評 価:☆☆

安徳天皇画像 泉涌寺所蔵
安徳天皇画像 泉涌寺所蔵
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

安徳天皇(あんとくてんのう)
(1178年-1185年)
平安時代後期,第81代天皇。
在位1180-85

治承2年11月12日生まれ。
高倉天皇の第1皇子。
母は平徳子(建礼門院)。
平清盛の後押しにより3歳で即位。
翌年清盛が死に,各地で平氏追討の動きが出,寿永2年平氏は天皇と神器を奉じて西国へ脱出,後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ,天皇がふたりたった。
2年後,長門(山口県)壇ノ浦の戦いで平氏は敗れ,元暦2年3月24日天皇は入水。8歳。
墓所は阿弥陀寺陵(山口県下関市)。
名は言仁(ときひと)。別称は西国天皇。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

安徳天皇は、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられると、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。
二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。
安徳天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。
安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4ヶ月、6年124日)で崩御した。
(『平家物語』「先帝身投」より)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
入水前、二位尼に抱えられて手を合わせている姿です。


平 時子
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平 時子 像
(山口県 下関市 みもすそ川町 みもすそ川別館)

撮影日:2012年12月30日
建設年:昭和45年
分 類:その他
評 価:☆☆

平 時子(たいらのときこ)
(1126年-1185年)
平安時代後期,平清盛の妻

大治元年生まれ。
平時信の娘。宗盛,知盛,重衡,徳子(建礼門院)の母。
出家後,従二位をおくられて二位尼とよばれた。
平氏一門とともに都落ちし,元暦2年3月24日壇ノ浦の戦いで,安徳天皇をだいて海に身をなげた。60歳。
【格言など】浪のしたにも都のさぶらうぞ(「平家物語」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
みもすそ川別館の庭におられます。
二位尼が安徳天皇を抱いて入水しようとしている姿を表している備前焼の像です。





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