ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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双葉山
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双葉山 像
(大分県 宇佐市 川部 宇佐市総合運動公園)

撮影日:2013年2月4日
建設年:平成5年
分 類:大相撲力士
作 者:山崎 正義
評 価:☆☆☆☆

双葉山 定次

双葉山 2
双葉山 定次(ふたばやま さだじ)
(1912年-1968年)
元大相撲力士

本名・穐吉定次(あきよし さだじ)。
明治45(1912)年宇佐市下庄布津部に生まれる。
天津小学校卒業後、昭和2年に16歳で立浪部屋に入門。
持前の粘り強さで昭和11年より勝ち星を続け、前頭から横綱まで一気にのぼりつめ、昭和14年、前人未踏の69連勝の偉業を成し遂げた。
双葉山は、幼少の頃に右手小指の先を失い、右目を失明したものの、不屈の努力と強い精神力で相撲に精進し、空前の相撲ブームを巻き起こした。
引退するまで日本中の人気を博し、引退後は時津風理事長として角界の近代化を押し進めた。
「双葉の里ホームページ」から

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[エピソード]
◎幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休、勝率.802。
繰上げ入幕のため、通算での勝率では他の大横綱に一歩譲ることになったが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で勝率8割8分2厘(取り直し制度導入以降の最高)、優勝12回(年2場所制での最多)、全勝8回(現在に至るまで最多、年6場所制となってから大鵬と白鵬がタイ記録樹立)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(記録に残っている1757年以降最高)など、不滅の足跡を残した。

◎双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。
武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。
稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることが無かったという。

◎どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。
力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)。
後述のように双葉山自身が無駄な動作を嫌い土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためであるが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。

◎現在の大相撲で、力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。
彼以前の時代には、仕切りなおしのたびに力水をつける者も珍しくなかった。
新弟子の頃、「力水は武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度つければ十分だと考えたという話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。

◎右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては、かすんだり物が二重に見えたりしていたが、やがてほとんど見えなくなったという。
なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っている。
対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。
実際双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。
ちなみに、横綱昇進後に喫した24敗(うち不戦敗が1つ)は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右側から攻められてのものである。右目が見えないことは公表されていなかったが、櫻錦利一に敗戦したとき、飛び違いという決まり手であったことから、双葉山は目が悪いのではないかという噂が広がった。
なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると「我々は皆双葉山の右目のことを知っており、当然そこを狙って作戦を立てていた」という。

◎名言集
「われ未だ木鶏たりえず」
70連勝をかけて臨んだ昭和14年一月場所四日目、約3年間勝ち続けていた双葉山は、ついに安芸ノ海によって黒星を喫する。双葉山はいつもと変わることなく、土俵に一礼をして東の花道を下がっていったが、その日の夜、知人に宛てて打った電報がこの言葉である。
「木鶏」とは中国の故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じることのない最強の状態にある闘鶏をさしている。無心の境地に至れなかった自分を戒めた双葉山だが、相撲道に対する更なる精進を重ね、連勝記録がストップした後も3度の全勝優勝を含む7度もの優勝を数えることとなる。

「後の先」
双葉山は生涯1度も「待った」をしなかったという。立ち合いでの相手を受けて立つ姿勢は、一見、立ち遅れているように見えるが、組んだときには既に先手を取っており、「後の先」と呼ばれている。
双葉山の右目は幼い頃の事故でほとんど見えない状態であった。しかし、双葉山は現役時代、そのことを誰にも悟られぬようにして土俵人生を全うしている。
立ち合いに「待った」をせず、「後の先」を完成させたのも、自分のハンディを乗り越えるために生み出されたものであった。

「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
常に真摯な姿勢で相撲道と向き合い続けた双葉山の言葉は、強い説得力を持っていたことは想像できる。その双葉山が親方となり、弟子たちに説いていたのがこの言葉である。
「稽古は本場所のように緊張感を持って取り組むように。本場所では硬くならず、リラックスして臨みなさい。」と言う意味と考えられるが、あえて最小限の言葉に抑えることにより、弟子たちへの押し付けではなく、個々の自覚を促す教訓に聞こえる。技術面を口にせず、「心気体」を相撲道の理念とした時津風親方(双葉山)を象徴する言葉の一つである。

「勝負師は寡黙であれ」
前人未到の69連勝など、土俵上では無敵を誇った双葉山であるが、失明となった右目と事故で潰してしまった右手小指という2つのハンディを負っていた。しかし、現役中、それを決して他人に語ることなく相撲を取り続け、引退まで黙り通している。
大きなハンディを乗り越えるため、必死の努力を続けてきた双葉山のこの言葉は、勝っても喜ぶ姿を相手に見せることがなかった双葉山の土俵哲学といわれている。

「心・気・体」
一般的にスポーツの世界では「心技体」が重要な理念であるとして知られているが、双葉山は相撲道の理念として「心技体」ではなく、「心気体」が重要であると説いた。また、双葉山が目指した「木鶏」こそ、この「心気体」の象徴であったと考えられている。
稽古場での時津風親方(双葉山)は、ほとんど技術面のことを口にせず、「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」を指導理念とし、「心技体」ではなく「心気体」を強調していた。師匠(双葉山)が稽古場に現れると、私語を交わす者は誰一人と無く、体と体がぶつかり合う音と荒い息づかいが聞こえるばかりで、その指導力は優れていたという。双葉山は、亡くなるまでの25年間親方を務め、1横綱、3大関を含む多くの関取を育成した。


[感  想]
初めての力士像です。
化粧まわしを締め、左手に日本刀を持った堂々とした立ち姿です。
銅像は、実物大では無く、体重122kg、身長1m79cmあった双葉山の1.5倍の大きさの像です。
「心・気・体」は、いい言葉だと思いました。
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相撲場の方をじっと見守っておられます。

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大友 宗麟 6
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大友 宗麟 像 6
(大分県 大分市 勢家町 神宮寺浦公園)

撮影日:2013年2月4日
建設年:昭和33年
分 類:大名
作 者:永谷 秀雄
評 価:☆☆☆

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[銅  像]
『「南蛮貿易場跡 大友宗麟像(神宮寺浦公園)』
公園の付近一帯は埋め立てられていますが、かつては浅瀬の波に洗われる美しい海浜でした。
平安時代、近くに春日神社の神宮寺という寺が建立されたところから、この名がついたといわれています。
天文年間(1532~1555)、ポルトガルや明との貿易を行った大友宗麟は、この浜辺を交易場として利用していたといわれています。
それにちなんだ「南蛮貿易場址」の碑があり、その側に太刀を杖にした大友宗麟像が建てられています。
ポルトガル人の来府は天文14年(1545)、中国のジャンク船に乗船して沖ノ浜に入港したのを皮切りに、天文20年(1551)の7月にポルトガル船が日出沖(神宮寺浦の対岸)に来泊しました。
同年9月にはフランシスコ=ザビエルが宗麟の招きで府内を訪れています。
その後、相次いでポルトガル船が来航し、神宮寺浦を含む別府湾は文字どおり南蛮貿易の表玄関でした。
「大分市観光協会ホームページ」から

[感  想]
立派な高い台座の上に立っておられます。
昭和12年に建設された像が、第二次世界大戦時の金属回収で無くなり、昭和33年に再建されたものです。台座は当時のもののようです。
十字架のペンダントをつまみ、刀をつえ代わりにした堂々とした立ち姿です。

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大友 宗麟 5
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大友 宗麟 像 5
(大分県 津久見市 中央町 津久見駅)

撮影日:2013年2月2日
建設年:昭和61年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

[感  想]
津久見駅前におられます。
津久見は、宗麟の終焉の地でありることから駅前に建てられたものと思われます。
大分駅の銅像よりは、小ぶりの像で、十字架のペンダントをかけ左手で刀をつえ代わりにした立ち姿です。
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じっと津久見駅を見つめられています。

大友 宗麟 4
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大友 宗麟 像 4
(大分県 津久見市 津久見 大友宗麟墓所公園)

撮影日:2013年2月2日
建設年:昭和52年
分 類:大名
評 価:☆☆☆

[感  想]
墓の近くの説明碑の隣に立っています。
小ぶりな像ですが、
ペンダントの十字架をつまみ、への字の眉毛と髭が特徴的な覇気が感じらる像です。

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キリスト教式の墓

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墓をじっと見守っておられます。

大友 宗麟 3
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大友 宗麟 像 3
(大分県 津久見市 津久見 大友宗麟墓所公園)

撮影日:2013年2月2日
分 類:大名
評 価:☆☆

[感  想]
大友宗麟墓所公園にある上半身の像です。
丸坊主で、かなり後年の姿と思われます。
他の像に比べて、覇気が感じられません。
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宗麟は、花押を度々変えたようで、背後の壁には歴代の花押の石碑が埋め込まれています。

大友 宗麟 2
2008.2~3 015
2008.2~3 025

2008.2~3 021
大友 宗麟 像 2
(大分県 大分市 大分駅前)

撮影日:2009年1月31日
分 類:キリシタン大名
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆☆

[感  想]
大分駅前にどんと立っておられます。
刀を杖にした立ち姿は、堂々しており立派です。

大友 宗麟 1
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大友 宗麟 像 1
(大分県 大分市 大分城址公園)

撮影日:2008年3月22日
建設年:昭和44年
分 類:キリシタン大名
作 者:長谷 秀雄
評 価:☆☆☆

大友 宗麟
大友宗麟画像(瑞峯院所蔵)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大友 宗麟(おおとも そうりん)
(1530年-1587年)
戦国-織豊時代の武将

享禄3年生まれ。
大友義鑑の長男。
豊後,肥後など九州6ヵ国の守護と九州探題をかねる。
キリスト教を保護し,南蛮貿易をおこなう。
天正6年受洗,10年少年使節をローマにおくる。
薩摩(鹿児島県)の島津氏の圧迫をうけ,豊臣秀吉の救援をもとめた。
天正15年5月23日死去。58歳。
名は義鎮。別号に宗滴,三非斎など。洗礼名はフランシスコ。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎キリシタン大名としても知られる義鎮だが、若き日の天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであった。
27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。
領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。
また、博多商人の島井宗室と交友し、日明貿易や日朝貿易も行う。
その他、文化的活動も幅広く行う。
当初は貿易目的のためにキリシタンを保護していたが次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、遂には入信し、ムシカ(理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近)の建国を夢見て、耳川の合戦を引き起こすことになる。

◎他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており、家臣の妻(一萬田親実の妻)を略奪したり、キリスト教をめぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。
政務を拒否し遊び惚けた宗麟を立花道雪が戒めたという逸話も残っている。
しかし大友氏は結果として、立花道雪ら優秀な家臣団を持った事と、大内氏滅亡により北九州の大内領を継承するという幸運によって大成したのである。

◎天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。

◎かなりの好色家であったようで、わざわざ京都に赴いて美女を探し、目星をつけると見境無く略奪婚のようなことを繰り返したとされる。
最初の正室・一色夫人とは家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。
継室の大友イザベルとはキリスト教の信仰対立で離婚している。

◎日本で初めて大砲(当時は国崩し)を使ったのは、宗麟であったとされる。

◎文化人としてもその活動は活発で書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。例を挙げると、永禄12年(1569年)狩野松栄を、元亀2年(1571年)には狩野永徳を豊後に呼び寄せ、障壁画を制作させている。
また、このような多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集している。
さらに楢柴肩衝、初花肩衝と共に天下三肩衝といわれる新田肩衝も所有していた。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残る程であった。


[感  想]
大分城址公園におられます。
髭と胸の十字架が特徴的な上半身の像です。

大井 憲太郎
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大井 憲太郎 像 
(大分県 宇佐市 院内町 宇佐市役所院内支所)

撮影日:2013年2月4日
建設年:昭和45年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

大井憲太郎2
フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大井憲太郎1
「近代日本人の肖像」から


大井 憲太郎(おおい けんたろう)
(1843年-1922年)
明治期の自由民権運動家、政治家

大分生まれ。
政治家、社会運動家。
長崎で蘭学、化学を学んだ後、箕作麟祥に師事、大学南校でフランス学を学ぶ。
フランスの法律書を数多く翻訳。
明治7年(1874)の民撰議院論争で、最も急進的な即時開設論を主張し注目される。
8年(1875)元老院少書記官となるが翌年免官。
15年(1882)自由党常議員となり、自由民権運動の理論家として急進派を指導した。
18年(1885)大阪事件を起こし投獄されたが、22年(1889)大赦により出獄。
25年(1892)東洋自由党を結成、対外強硬論を主張する一方、労働問題・小作問題等にも尽力した。
「近代日本人の肖像」から

宇佐市院内町役場に建つ大井憲太郎像。
昭和45年2月、明治100年記念事業で町が設置した。
天保14年、大井憲太郎は宇佐郡高並村(宇佐市院内町)の農家の三男坊に生まれ、大正11年東京の寓居に死ぬまでの80年を自由民権の旗の元に火のように燃えて生きた。
幕末から明治維新へ、封建日本が近代日本へ生まれ変わろうとする波瀾激動の時代であった。
薩長の藩閥政治に真っ向から挑戦、人民の政治関与を根本とする民選議員の早期開設を唱える。
これに対し時期総称を訴える加藤弘之(ドイツ学者)と派手な論争を演じ、その名は天下に喧伝され、民衆の喝采を浴びる。
このとき大井は馬城台二郎のペンネームを使ったので、人呼んで「馬城将軍」。
馬城は郷里宇佐の馬城山(御許山)による。
若い頃から、漢、蘭、仏学を学び仏法典を多数翻訳、その幅広い学識と仏法典研究で得た自由の心が一人の激情の思想家を生んだ。「人存スレバ即チ自由アリ、自由滅スレバ即チ人死ス」の主張は現在では当然だが、時代が百年早すぎた。
明治初めに彼の目は百年先の今を見ていた。
「大分県ホームページ」から

[感  想]
宇佐市役所院内支所前におられます。
髭が特徴的な上半身の像です。

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小幡 英之助
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小幡 英之助 像
(大分県 中津市 二ノ丁 中津城公園)

撮影日:2013年2月4日
建設年:昭和41年
分 類:歯科医師
作 者:溝口 寛
評 価:☆☆☆

小幡 英之助
小幡 英之助(おばた えいのすけ)
(1850年-1909年)
明治時代の歯科医師

嘉永3年8月生まれ。
明治4年横浜に行きアメリカ人歯科医エリオットにまなぶ。
8年東京医学校(東大医学部の前身)の歯科試験に合格し、わが国最初の歯科医開業免状を得、東京で開業した。
明治42年4月26日死去。60歳。
豊前中津(大分県)出身。慶応義塾卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[銅  像]
現在、中津城にほど近い中津市公園に小幡英之助の銅像が建っている。
これは地元歯科医師会が中心になって建立したもの。
中津歯科医師会ではこの像の前で毎年5月の第2日曜日に歯科祭を行い、英之助の遺徳を顕彰している。
英之助が切り開いた近代歯科の道は、いまも脈々と受け継がれているのである。

小幡 英之助2
胸像完成記念写真 昭和12年5月18日
「Vient~大分の風」から抜粋

[感  想]
中津城近くで立派な石垣の上におられます。
日本で初めての歯科医師です。
モーニングを着た立ち姿で、やさしそうな顔が印象的です。

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前野 良沢
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前野 良沢 像
(大分県 中津市 二ノ丁 中津城内)

撮影日:2013年2月4日
建設年:平成16年
分 類:蘭学者
作 者:永原 陽宝
評 価:☆☆

前野良沢
前野 良沢(まえの りょうたく)
(1723年-1803年)
江戸時代の蘭学者、蘭方医

享保8年生まれ。
豊前中津藩(大分県)藩医前野東元の養子。
青木昆陽、吉雄耕牛らにオランダ語をまなぶ。
明和8年杉田玄白らと刑死者の解剖を参観して「ターヘル-アナトミア」の翻訳を決意し、「解体新書」を刊行にみちびいた。
門弟に大槻玄沢、江馬蘭斎ら。
享和3年10月17日死去。81歳。
本姓は谷口。名は熹。字は子悦。号は楽山、蘭化。
著作に「和蘭訳筌(オランダやくせん)」など。
【格言など】経営漫費人間力、大業全依造化功
(経営みだりについやす人間の力、大業はすべて造化の功による)(自画像の賛)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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[感  想]
中津城の中におられます。
肖像画の特徴を良くとらえられている木像です。

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稲尾 和久
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稲尾 和久 像
(大分県 別府市 鶴見 別府市民球場)

撮影日:2013年2月2日
建設年:平成19年
分 類:プロ野球選手
作 者:坂井 文雄
評 価:☆☆☆

稲尾
稲尾 和久(いなお かずひさ)
(1937年-2007年)
昭和時代後期のプロ野球選手、監督

昭和12年6月10日生まれ。
昭和31年西鉄に入団し、21勝で新人王。
剛腕のエースとして、中西太らと西鉄の黄金時代をきずく。
32年から3年連続30勝以上、36年は42勝。
33年巨人相手の日本シリーズで3連敗のあと4連投、逆転優勝につくし「神様、仏様、稲尾様」とよばれた。
実働14年、通算276勝137敗、防御率1.98。
西鉄(のち太平洋)、ロッテ監督をつとめた。
平成5年野球殿堂入り。
平成19年11月13日死去。70歳。
大分県出身。別府緑丘高(現芸術緑丘高)卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソ-ド]
◎神様、仏様、稲尾様
1958年、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、稲尾を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。
しかし翌日が降雨で試合が順延となった第4戦、三原監督は稲尾を先発投手に起用し、シリーズ初勝利。第5戦にも稲尾は4回表からリリーフ登板し、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。
そして後楽園球場での第6・7戦では2日連続完投勝利し、逆転日本一を成し遂げた。
実に7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。
うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った。
三原はこのシリーズで稲尾を使い続けたことについて、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白した。
後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。

◎投球術
足の裏を全て地面に付けず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。

◎現在では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。また、同シリーズで「長嶋は何も考えず、感性で体が投球に反応している」と気づいた稲尾は、自分も長嶋の体の微妙な動きから瞬時に狙い球を読みとり、球種を変更するという作戦で押さえ込むことに成功した。

◎マウンド上のマナーが優れていたことで知られる。イニングが終わって相手投手にマウンドを譲るときは、必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。対戦した杉浦忠はこれに感銘し、真似するように努力したという。その杉浦は「しかしどうしても、私はピンチの後などにマウンドのことなど忘れてしまうことがあったのだが、稲尾は一回たりとも荒れた状態のマウンドを渡したことはなかった」と振り返っており、稲尾のマウンドマナーを絶賛している。

◎当時「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2・3回の登板や連投も珍しくなかった。稲尾が42勝を挙げた1961年には登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合、リリーフで48試合に登板している。当時は中3日で「休養十分」と見なされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合に過ぎなかった。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋


[感  想]
別府市民球場の玄関を入ったロビーにおられます。
豪快なフォームで、今まさに投げようとしている迫力ある像です。

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