ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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菊池 武光 2
菊池 太刀洗 (7)

菊池 太刀洗 (3)

菊池 太刀洗 (6)

菊池 太刀洗 (9)

菊池 太刀洗 (1)

菊池 太刀洗 (10)

菊池 太刀洗 (4)




菊池 武光 像 2
(福岡県 三井郡 太刀洗町山隈 太刀洗公園)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和12年
分 類:武士
作 者:緒方 敏雄
評 価:☆☆☆☆☆

【菊池武光 銅像】
正平14年(1359)8月7日大保原(小郡市)で武家方の小弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、さらに敗走する敵を追って山隅原まで進出した。
この方面で戦っていた小弐方の大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。
武光はさらに小川を渡り(菊池渡りという)深く追撃しようとした。
しかし夜明け前からの激戦で死傷者は小弐方1万8千人、菊池方6千9百人と伝えられるように味方も損害が大きくまた疲れきっていたので、進撃することを止め、軍を山隈原にまとめた。
朝からの戦いで血まみれの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにこぼれており、川の水は真っ赤に染まった。
「帰来河水に笑って刀を洗えば、血は奔湍にほとばしって、紅雪をふく」頼山陽
「そのかみの血しおの色とみるまでに、紅葉流るる大刀洗川」乃木希典
古人は、このありさまをこのように詠じている。
この故事によって、本町は大刀洗町と名づけられた。
勇ましい姿のこの銅像はゆかりの菊池渡りの地に昭和12年建立されたものである。
なお、馬腹や台石の弾痕は昭和20年3月の大刀洗飛行場爆撃時の名残。
「大刀洗町ホームページ」から
菊池 太刀洗 (2)

[感  想]
大刀洗町という地名の由来にもなっている逸話を表した像。
右手に刀を左手に手綱をしっかりと持った菊池武光の立ち姿が素晴らしいです。
馬も躍動感あふれる姿です。

菊池 太刀洗 (5)
大戦の弾痕も生々しく見ることができます。
菊池武光像は、1に続き、2も満点の5つ星です!


菊池 太刀洗 (11)

菊池 太刀洗 (12)

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菊池 武光 1
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菊池 武光 像
(熊本県 菊池市 亘 菊池市民広場)

撮影日:2011年8月7日
建設年:平成4年
分 類:武将
作 者:中村晋也
評 価:☆☆☆☆☆

菊池 武光(きくち たけみつ)
(不詳-1373年)
南北朝時代の武将

菊池武時の子。
肥後(熊本県)菊池氏惣領15代。
貞和4=正平3年征西将軍懐良親王を肥後にむかえ,九州の南朝勢力の中核となる。
九州探題一色範氏らをやぶり,大宰府に征西府をうつす。
のち新探題今川貞世に追われて大宰府を放棄した。
応安6=文中2年11月16日死去。
通称は豊田十郎。法名は聖巌。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

「菊池武光騎馬像」
今から約650年程前の南北朝時代の武将、第15代当主菊池武光公の騎馬像。
後醍醐天皇の御子である懐良(かねなが)親王を征西将軍に迎え、南朝方として室町幕府と戦い、一時は九州を平定するなど活躍しました。
菊池市のシンボルとして建てられたこの騎馬像は、日本有数の大きさを誇り、騎馬像のある菊池市民広場は、市民や訪れる人々の憩いの場となっています。
「菊池観光協会ホームページ」から

[感 想]
菊池市民広場の中央に堂々とおられます。
騎馬像、大きさ、迫力、細かい部分の表現と非の打ち所が無く、満点です!
一見価値有りです。
作者である中村晋也氏は、鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」の作者でもあります。
これからも多くの素晴らしい銅像を造ってもらいたいと思います。

本田 保
本田  (3)

本田  (5)
本田 保 像
(福岡県 三井郡 太刀洗町 今村カトリック教会)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:司祭
作 者:中田 秀和
評 価:☆☆☆

本田
本田保(ほんだ たもつ) 
(1855年-1932年)

1896(明29)年9月今村教会の主任司祭となる。立派な教会堂をつくることが、宣教布教の第一歩であるとの信念を固め、老朽教会の改築を計画した。(建設予算3万円)
本田師は自分の食事までも倹約したり、節約して貯蓄に努める一方、ドイツの雑誌「カトリッシェン・ミッショネン」にラテン語で寄稿するなどの活動で、フランスやドイツの信者からも建築資金が寄付された。
また今村から海外移民した人々の協力も得て、今村信徒の労働奉仕により工事が進められた。
1912(大1)年着工、1913(大2)年12月
双塔ロマネスク赤レンガ造りの現聖堂を完工。
本田師は(昭3)年までの32年間、主任司祭(在任善牧者)を務めた後、長崎蔭ノ尾教会に転任、聖堂を改築して司祭館を建てた。
本田  (4)

本田  (6)

本田  (1)

[感  想]
今村カトリック教会の敷地内におられます。
髭が特徴的な、上半身の像です。
本田  (2)

本田  (7)
じっと、レンガ造りの教会を見つめておられます。

聖徳太子
聖徳太子 久留米 (1)

聖徳太子 久留米 (5)
聖徳太子 像
(福岡県 久留米市 篠山町 久留米城跡)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和46年
分 類:皇子
評 価:☆☆☆

聖徳太子(しょうとくたいし)
(574年-622年)
飛鳥時代、用明天皇の皇子

敏達天皇3年生まれ。
母は穴穂部間人皇女。
推古天皇の皇太子、摂政となり、十二階冠位の制定、憲法十七条の発布、遣隋使の派遣などをおこなう。
また慧慈にまなび、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」をあらわした。
豊聡耳命、上宮王ともいう。
推古天皇30年2月22日死去。49歳。
墓所は磯長墓(大阪府太子町叡福寺)。名は厩戸(うまやどの)皇子。
【格言など】財物は亡び易くして永く保つべからず。
ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし(遺詔)

聖徳太子 久留米 (2)
「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画

聖徳太子1万円札
聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)

聖徳太子500
聖徳太子の肖像が描かれた500円収入印紙(1948年発行)

[紙  幣]
聖徳太子の肖像画は1930年、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。
また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。
特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。
なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。
1948年発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画が採用されている。

[エピソード]
◎豊聡耳
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。
我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。
この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から


[感  想]
久留米城跡の石垣の上の広場におられます。
小ぶりな像ですが、昔の1万円札の肖像と同じで懐かしさを感じる像です。

聖徳太子 久留米 (3)

聖徳太子 久留米 (4)

真木 和泉
真木 (4)

真木 (2)

真木 (3)
真木 和泉 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和43年
分 類:尊攘運動家
作 者:豊田 勝秋
評 価:☆☆☆

真木 和泉(まき いずみ)
(1813年-1864年)
江戸時代後期の尊攘運動家。

文化10年3月7日生まれ。真木旋臣の長男。
筑後(福岡県)久留米の水天宮祠官。
江戸、水戸に遊学し、会沢正志斎の影響をうける。
尊攘を説き、嘉永5年久留米藩政改革をめざしたが失敗、幽閉の身となった(嘉永の獄)。
文久2年脱藩し討幕に奔走するが、禁門の変に敗れ、元治元年7月21日天王山で自害。52歳。
名は保臣。字は興公、定民。号は紫灘。変名に浜忠太郎。
【格言など】我一歩を退くれば彼一歩を進め、我一日優游すれば彼一日精熟す(「魁殿物語」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

楠木正成の崇拝者として知られ、今楠公と呼ばれた。
毎年、楠木正成の命日には楠公祭をおこない、その思想と実践は、のちの湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた

「辞世の歌」
大山の 峯の岩根に 埋にけり わが年月の 大和魂
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
水天宮の境内におられます。
堂々とした立ち姿で、台座も立派でかなりの高さがあります。
真木 (1)

宗像 小平太
宗像 (1)

宗像 (3)

宗像 (2)
宗像 小平太 像
(福岡県 久留米市 瀬下町 水天宮)

宗像 小平太(むなかた こへいた)
(1876年-1926年)
撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和28年
分 類:警察署消防主任
評 価:☆☆☆

明治33年福岡県警察官となり、
大正5年(1916)久留米警察署消防主任を拝命。
消防における献身的努力が認められ昭和6年功績をたたえ銅像建立、
第2次大戦に伴い銅を供出されたが昭和28年再建立された。

[感  想]
水天宮の境内におられます。
久留米の消防活動に尽力された方のようです。
制服制帽姿の上半身の像です。

米田 正文
米田 (3)

米田 (2)
米田 正文 像
(福岡県 福岡市 直方市 下境 遠賀川水辺館近く)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和49年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

米田 正文(よねだ まさふみ)
(1904年-1984年)
日本の内務・建設官僚、政治家。
参議院議員(3期)。
福岡県田川郡添田町出身。

米田 (1)

[感  想]
遠賀川沿いを走る「のおがた水辺マラソン」に出場した後、水辺館近くで偶然発見しました。
眼鏡をかけた上半身の像です。





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