ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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重光 葵
20140203 重光葵 (1)

20140203 重光葵 (2)

20140203 重光葵 (3)
重光 葵 像
(大分県 国東市 安岐町下山口 山渓偉人館)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和40年
分 類:政治家
作 者:朝倉 文夫
評 価:☆☆☆

20140203 重光葵 (8)
重光 葵(しげみつ まもる)
(1887年-1957年)

大正-昭和時代の外交官、政治家。
明治20年7月29日生まれ。
中国公使時代の昭和7年上海爆弾事件で右脚をうしなう。
駐英大使などをへて、東条・小磯・東久邇内閣の外相。
20年首席全権としてミズーリ号上で降伏文書に調印。
27年改進党総裁、29年日本民主党結成に参加。
鳩山内閣の副総理・外相として、日ソ国交回復、国連加盟を実現した。
昭和32年1月26日死去。69歳。
大分県出身。東京帝大卒。
【格言など】アメリカはいずれ日本を必要とする(戦犯として拘留されていたときに)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

20140203 重光葵 (5)

[山渓偉人館]
(故)重光葵元外務大臣の遺徳を偲び、後世にその功績を伝えるために建てられたのが「山渓偉人館」です。
重光葵氏は明治20年7月29日、大野郡三重町において、当時大野郡長であった父直愿と母松子の次男として生まれます。しかし、母松子の実家(重光家本家)に子どもがなかったため葵氏が養子(明治31年)となり重光家26代目となります。
杵築中学校から熊本第五高等学校(現熊本大学)へ、明治44年東京帝国大学卒業と同時に外交官補となり、日本の外務省の第一人者としての道を歩みます。
歴代内閣の外務大臣を務めますが、昭和20年東久邇内閣の時ミズリー号艦上で降伏文書に調印し、A級戦犯として巣鴨へ行くことになります。
昭和23年極東裁判にて禁固7年とされ、27年3月に追放解除となり、のち政界の道へと進みます。
大分県から衆議院に3回当選する中、29年鳩山内閣の副総裁兼外務大臣を務め31年の国連総会において、「日本は東西の懸け橋となる」という有名な演説をしました。
葵氏は重要な歴史場面に立ち会った証人であり、幾多の重要な使命を果たした人でもあります。
葵氏を偲ぶため、「山渓偉人館」には戦中、戦後の歴史を証明する貴重な遺品の数々が展示されています。
【主な展示品】巣鴨日記原本、戦争資料、旧宅近くの墓地、スクラップ、巣鴨内作成手工芸品等
「国東市ホームページ」から

[エピソード]
◎重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。

◎重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難だったにもかかわらず、彼自身はその事を気にする素振りはなかった。後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦するアメリカの水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという(もっとも、松葉杖を落とすなど署名にかなりもたつき、これを見苦しい引き延ばしと解釈したハルゼーに一喝されたという逸話も伝えられる)。

◎巣鴨プリズンに収監されている頃に、障害者ながら社会福祉事業家として活躍していたヘレン・ケラーのニュースが耳に入ってきた際、元将官たちが「あれは盲目を売り物にして居るんだよ」とこき下ろしたことに対して、重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判し彼らの見解の偏狭さを嘆いている。

◎戦後、鳩山一郎内閣で外相を務めた際、鳩山が「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と無神経に発言したため外交官出身の重光は鳩山との関係が悪化した。また鳩山が日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
山渓偉人館前におられます。
少し、はにかんだ表情の上半身の像です。
作者は、朝倉文夫氏です。

20140203 重光葵 (6)

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三浦 梅園
2014 三浦(3)

2014 三浦(1)
三浦 梅園 像
(大分県 国東市 安岐町中園 安岐総合支所)

撮影日:2014年2月3日
建設年:平成4年
分 類:哲学者
作 者:小川 誠
評 価:☆☆☆

三浦 梅園(みうら ばいえん)
(1723年-1789年)

江戸時代中期の哲学者。
享保8年8月2日生まれ。
豊後(大分県)国東郡富永村の庄屋、医師。
綾部絅斎、藤田敬所にまなぶ。
独創で天地造化の「条理」をきわめ、梅園三語とよばれる「玄語」「贅語」「敢語」をあらわした。
仕官せず、郷里で門人を教育し、思索と著述の生涯をおくった。
寛政元年3月14日死去。67歳。名は晋(すすむ)。字は安貞。
【格言など】学問は飯と心得べし(「戯示学徒」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

IMG_0094_201410182300226e4.jpg

[エピソード]
◎梅園は三度旅をした以外は、故郷の大分県国東半島を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、その坦々とした生涯を終えた。複数の藩主から招聘の声もあったが、断ったという。
◎地元安岐町に梅園自身が設計した旧宅があり、近くには宿泊施設、キャンプ場、天文台、梅園などが整備された梅園の里があり、設備の完備した資料館に膨大な自筆稿本類すべてが保存されている。
メルカトル図法で描かれた世界地図(梅園自身の筆写)や南天図・北天図(南半球・北半球の星図。同前)などがある。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
国東市安岐総合支所前の庭におられます。
優しそうな表情の上半身の像です。

2014 三浦(2)

八坂 善一郎
2014八坂 (3)

2014八坂 (1)

2014八坂 (2)
八坂 善一郎 像
(大分県 杵築市 杵築 杵築城)

八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう)
(1953年-1980年)

撮影日:2014年2月3日
分 類:政治家
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

大分県八坂村に生まれる。
昭和8年早稲田大学を卒業、昭和21年から22年まで衆院議員。
昭和30年杵築市誕生と共に、5期20年に渡り杵築市長を務める。
日の丸バッジを市の職員につけさせたことから「日の丸市長」、「タカ派市長」として有名だった。
[感  想]
杵築城内の公園におられます。
しっかりと前を見つめる上半身の像です。

2014八坂 (4)

河合 操
2014河合 (4)

2014河合 (3)

2014河合 (2)
河合 操 像
(大分県 杵築市 杵築 杵築城内)

撮影日:2014年2月3日
分 類:軍人
作 者:日名子 実三
評 価:☆☆☆

河合操
河合 操(かわい みさお)
(1864年-1941年)

明治-大正時代の軍人。
元治元年9月26日生まれ。
日露戦争では満州軍参謀として出征。
陸軍省人事局長、陸軍大学校長、第一師団長、関東軍司令官などを歴任し、大正10年大将、12年参謀総長となった。枢密顧問官。
昭和16年10月11日死去。78歳。
豊後(大分県)出身。陸軍大学校卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
杵築城内の展示スペースにおられます。
2014河合 (5)
軍服を着た立ち姿で、髭が特徴的です。
八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことで有名な日名子実三の作。

一松 定吉 2

一松② (1)

一松② (2)
一松 定吉像 2
(大分県 杵築市 南杵築 一松邸)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和16年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

[感  想]
玄関脇におられます。
勲章を多く付けた上半身の像で、1に比べ若い頃の姿だと思われます。

一松② (3)

一松 定吉 1
一松① (8)

一松① (9)

一松① (10)
一松 定吉像 1
(大分県 杵築市 南杵築 一松邸)

撮影日:2014年2月3日
建設年:昭和42年
分 類:政治家
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

一松定吉(ひとつまつ さだよし)
(1875年-1973年)

大正-昭和時代の司法官、政治家。
明治8年3月18日生まれ。
大審院検事をつとめ、大正9年退官。弁護士となる。
昭和3年衆議院議員(当選8回、民主党)。
第1次吉田内閣の国務・逓信相、片山内閣の厚相、芦田内閣の建設相。
25年参議院議員(当選2回)。
昭和48年6月8日死去。98歳。
大分県出身。明治法律学校(現明大)卒。旧姓は波多。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

IMG_0143.jpg


一松① (7)
「一松邸」
一松邸は、杵築市の初代名誉市民となった一松定吉氏の邸宅で、昭和32年に杵築市に寄贈され、その後は「一松会館」として市民の憩いの場として開放されていた。その後、市庁舎の移転に伴って、杵築城と海を望む絶景の場所(現在地)に移築されたもの。
一松氏は現在の豊後高田市にあたる美和村の出身。杵築藩の剣術や槍術の指南役であった一松家の家督を継ぐ養子として入り、その後政界で活躍。昭和初期には、国務大臣ほか、通信、厚生、建築大臣などを歴任。
その邸宅は、杉の柾目の一枚板を敷いた縁側、二条城二の丸御殿や日光東照宮外陣や城、著名な寺や神社で特徴的に見ることができる格天井(ごうてんじょう)を客人用のトイレに施すなど、贅沢で洗練された趣が屋敷を包む。その一方で、取り外し可能な掛障子、戸袋を減らすために雨戸を直角に回転させる工夫を施した「回り戸」など、機能的で合理的な技術は現在でも十分に通用する。
「大分県杵築市観光協会公式ホームページ」から

[感  想]
一松邸の庭におられます。
一松① (11)

一松① (6)
モーニングを着た立ち姿で、杵築城をじっと見つめておられます。





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