ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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大村 能章
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大村 能章 像
(山口県 防府市 緑町 防府市公会堂前庭)

撮影日:2014年5月14日
建設年:平成3年
分 類:作曲家
評 価:☆☆☆

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1948年(左)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

大村 能章(おおむら のうしょう)
(1893年-1962年)
大正-昭和時代の作曲家

明治26年12月13日生まれ。
昭和10年代に東海林太郎のうたう「野崎小唄」がヒットし、以後純日本調の作品を数おおくのこした。
12年日本歌謡学院を設立。
58年、作曲者不詳といわれていた「同期の桜」の作曲者とみとめられた。
昭和37年1月23日死去。68歳。
山口県出身。本名は秀弌。
作品はほかに「明治一代女」「麦と兵隊」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

中山晋平、古賀政男、江口夜詩とともに歌謡界の四天王として昭和の歌謡界にその名を残した。約8000曲を作曲し、多くの歌手を育てた。

[感  想]
防府市公会堂の前庭におられます。
上半身の像で、眼鏡と髭が特徴的です。
コンサートも行われる公会堂をじっと見つめておられます。

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児玉 源太郎 3
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児玉 源太郎 像 3
(山口県 周南市 花畠町 周南市美術博物館)

撮影日:2014年5月14日
分 類:軍人
作 者:大熊 氏広
評 価:☆☆☆

[銅 像]
この作品は大熊氏広作と伝えられています。
ブロンズ製の像で 
奥行 12㎝
横  35.3㎝
高さ 43.0㎝
ブロンズ部分の重さは10.3㎏。

[感  想]
周南市美術博物館で特別展示されていました。
小ぶりな像ですが、人馬ともに精巧に作られており、馬上の姿が凛々しいです。
靖国神社の大村益次郎を制作した大熊氏広の作です。
公園等に大きい像を建立してもらいたいです。


児玉お知らせ

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児玉 源太郎 2
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児玉 源太郎 像 2
(山口県 周南市 児玉町 児玉公園)

撮影日:2011年11月20日
建設年:平成23年
分 類:軍人
作 者:林昭慶(原型:新海竹太郎)
評 価:☆☆☆

[銅 像]
『児玉源太郎の銅像を建立、命日に除幕式
明治期の軍人・政治家の児玉源太郎の銅像が、山口県周南市の児玉公園に建立され、命日の2011年7月23日(土)、除幕式が行なわれた。
児玉は周防国都濃郡徳山村(現周南市)で生誕。明治政府では陸軍大臣など要職を歴任。日露戦争では満州軍総参謀長として日本を勝利に導いたとされる。
銅像は彫刻家の新海竹太郎が制作した国立台湾博物館の銅像を基に、台湾の彫刻家、林昭慶さんが複製を制作、今年2月から市美術博物館に仮展示されていた。
NHKで「坂の上の雲」が放映されたのをきっかけに、市民が像の製作設置委員会を結成、約510万円の寄付金を集めて制作費をまかなった。』
『2011年7月26日 毎日jpより引用』

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[感  想]
周南市出身の児玉源太郎の今年夏に設置されたばかり像です。
軍服を着て、右手で帽子、左手でサーベルを持った立ち姿です。
髭をたくわえた穏やかな表情が印象的です。

児玉 源太郎 1
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児玉 源太郎 像 1
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和13年
分 類:軍人
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

児玉源太郎
「近代日本人の肖像ホームページ」から

児玉 源太郎 (こだま げんたろう)
(1852年-1906年)
明治時代の軍人

嘉永5年閏2月25日生まれ。
明治20年陸軍大学校初代校長となり軍制を整備。
陸軍次官,台湾総督,陸相,内相,文相などを歴任。
日露戦争では満州軍総参謀長をつとめ,大山巌満州軍総司令官を補佐。
39年参謀総長。陸軍大将。
明治39年7月23日死去。55歳。
死後伯爵。周防(山口県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎性格的には情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。
しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。

◎日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。

◎児玉と乃木は旧知の間柄であった。
千葉県佐倉における東京鎮台第二連隊長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。
「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。

◎児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。
己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。
児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。

◎晩年、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩き寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。

[感  想]
日露戦争で活躍した山口県徳山出身の軍人です。
像は、北村西望の彫刻園の中に展示されています。
馬に跨り敬礼する姿が印象的です。

孔子 5
20100514孔子 (3)

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孔子 像 5
(山口県 周南市 安田 徳修館)

撮影日:2014年5月10日
建設年:平成21年
分 類:思想家
評 価:☆☆☆

20100514孔子 (5)

[感  想]
徳修館前におられます。
20100514孔子 (2)
中国の山東省政府から贈られた石像です。
表情や着物などが、日本の銅像とは少し違う中国的雰囲気を醸し出しています。


2010510孔子説明文

孔子 4
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孔子 像 4
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和8年
分 類:思想家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

[感  想]
井の頭自然文化園の庭におられます。
長い髭が特徴的で、着物も中国的な感じがします。

孔子 3
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孔子 像 3
(東京都 新宿区 早稲田 大隈庭園)

撮影日:2010年12月12日
建設年:平成20年
分 類:思想家
評 価:☆☆☆

大隈庭園の孔子像
2008年6月16日、大隈庭園では中国政府より贈られた孔子像設置のための式典が行われました。
青々とした緑の中、大隈庭園の孔子像は日中友好のゆくすえを見守るようにして佇んでいます。
「早稲田大学ホームページ」から

[感  想]
庭園に入れなかったので、写真が横からしか撮れませんでした。
中国から贈られた像で剣を差し、手を組む姿が印象です。

孔子 2
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孔子 像 2
(山口県 山口市 吉敷 維新公園)

撮影日:2007年11月27日
建設年:平成19年
分 類:思想家
作 者:王 黎明
評 価:☆☆☆
[感  想]
平成19年に山口県と友好関係にある中国山東省から贈呈された「孔子杏壇講学像」(孔子が5人の弟子にレクチャーしている様子)が山口維新公園の広場にあります。
巻物を手に持った孔子を中央に五人の弟子が取り囲んでいる中国的雰囲気の像です。

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弟子も真剣に聴いています。

孔子 1
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孔子 像 1
(東京都 文京区 湯島 湯島聖堂)

撮影日:2007年6月21日
建設年:昭和50年
分 類:思想家
作 者:開 明徳
評 価:☆☆☆

孔子
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

孔子(こうし)
(前552年~前479年)
中国、春秋時代の学者・思想家

魯の陬邑(山東省曲阜)に生まれる。
名は丘。字は仲尼。諡は文宣王。
早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。
晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。
後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。
弟子の編纂になる言行録「論語」がある。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆孔子は、紀元前の中国・春秋時代の思想家です。
氏は孔、字は仲尼(ちゅうじ)ですが、一般的には孔子(孔先生という意味)と呼ばれています。出自には諸説あり、またどのように学問を積んだのかも不明な点が多いのですが、有名な歴史書『史記』では52歳で魯国の宰相になったという記述があります。
のちに国政を離れて多くの弟子とともに諸国を巡る旅に出ますが、これは苦難の旅になりました。
この間に仁・礼を規範とする国家の理想像を得るに至りました。
官僚として国政にたずさわることを望みましたが叶わず、不遇のうちに世を去りました。
しかし孔子とその高弟の言行録『論語』は、後にヨーロッパの啓蒙思想家に大きな影響を与え、また国家経営や官吏の道を学ぶテキストともされました。
銅像は、湯島聖堂の敷地内にあります。
湯島聖堂は儒学振興を目的として徳川綱吉が建設を命じたもので、後に幕府直轄の教育機関「昌平坂学問所」へと発展します。
明治維新により儒学教育の機関としての歴史は幕を閉じますが、その地には日本初の博物館(現在の東京国立博物館)や日本初の図書館が置かれたほか、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)などが設置され、近代教育萌芽の苗床となりました。
現在は国の史跡に指定されています。
像の場所は、仰高門から入り、楷の巨木が見える通路を少し入った斯文会館の真裏になります。
昭和50年(1975)に中華民国台北市ライオンズ・クラブより贈られたもので、台湾師範大学の開明徳教授の製作です。
高さは4.5メートルあり、孔子の銅像では世界最大のものだそうです。
また楷の木は孔子と縁が深く、孔子の墓所や孔子を祀った孔子廟や像のそばに植えることが習わしとなっているようです。
枝葉の様子に均整のとれた美しさがあり、楷書体の元になったといわれます。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
湯島聖堂におられます。
世界最大の孔子の銅像というだけあって大きさに圧倒されます。
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孔子を祀っている大成殿
中国的な建物です。





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