ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

藤岡 市助
DSCN9265.jpg

DSCN9251.jpg

DSCN9258.jpg

DSCN9249.jpg

DSCN9253.jpg
藤岡 市助 像
(山口県 岩国市 横山 吉香公園 岩国美術館前)

撮影日:2014年9月30日
建設年:平成26年
分 類:実業家
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

藤岡市助
藤岡 市助(ふじおか いちすけ)
(1857年-1918年)
明治時代の電気工学者、実業家
日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。

安政4年3月14日生まれ。
明治17年母校工部大学校の教授。
19年帝国大学助教授となったが、同年実業界に転じ、東京電灯技師長となる。
のち東京電気(東芝の前身)社長。
白熱灯用発電機、タングステン電球の製造など、電気事業の発展につくした。
大正7年3月5日死去。62歳。
周防(山口県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

藤岡市助ものがたり
エジソンの発明から10年後。
一人の男の情熱によって、日本で初めて国産電球が点灯されました。
欧米に負けない電気産業を興し、人々にゆたかな暮らしをもたらすために、彼は生涯にわたり懸命に努力を続けました。
彼が灯した白熱電球の輝きは、文明開化のシンボル。
もう一人の東芝創業者・藤岡市助の偉業に迫ります。

【運命 DESTINY】
それは運命の出会いから始まった ~エジソンとの出会い~
明治17年(1884年)、日本の電気工学の草創期を支えた若き研究者が、国の使節に任命されアメリカに渡った。
電気時代の到来を告げる盛大な博覧会や電気産業を視察した後、彼はエジソンの研究室を訪ねる。そして発明王に自らの想いを語った。
「日本に帰ったら電気事業の創設に我が身を捧げます」と。
青年の大志に、エジソンは「日本を電気国にするのは、大変よいことだ。だがひとつだけ忠告しておこう、どんなに電力が豊富でも、電気器具を輸入するようでは国は滅びる。
まず電気器具の製造から手がけ、日本を自給自足の国にしなさい」と応じた。
およそ120年前、このアドバイスを受けた人物こそ、藤岡市助だった。

【.挑戦 CHALLENGE】
白熱電球の国産化に成功 ~「白熱舎」創設~
帰国後、市助は、国や経済界へ電球の実用化・国産化を積極的に働きかけていく。
2年後の明治19年(1886年)、市助の提言により「東京電燈」(東京電力株式会社の前身)が開業。いよいよ日本でも電気時代が到来した。
同年、市助はついに大学の教職を辞し、東京電燈の技師長へ転身。
英国から電球製造機械を輸入して、白熱電球の試作を開始した。
明治23年(1890年)4月には、同じ岩国出身の三吉正一と共同で「白熱舎」を創設し、本格的な電球製造に着手する。当初、製造は日産数個。日夜苦労を重ねた末、品質も向上し、6年後には生産規模を日産280~290個まで拡大させた。

【.誕生 ADVENT】
「マツダランプ発売」 ~「東京芝浦電気」誕生まで~
マツダランプ
マツダランプ
明治38年(1905年)、市助はエジソンの会社、米国ゼネラルエレクトリック社との提携を図った。
明治44年(1911年)には、タングステン電球「マツダランプ」を発売。
安価で丈夫な国産電球が普及し、市助が理想とした社会が実現する。
その後、市助の情熱を継承する東京電気の技術者により二つの発明(二重コイル/内面つや消し)がもたらされ、現在の白熱電球が完成。東京電気は海外企業に負けない競争力を持つ会社へと変貌を遂げ、昭和14年(1939年)、田中久重が興した会社の流れをくむ「芝浦製作所」と合併。
遂に総合電気メーカー「東京芝浦電気」が誕生する。
日本の技術であらゆる電気製品をつくる市助のスピリットは、今に受け継がれている。
「東芝未来科学館ホームページ」から

[感  想]
岩国美術館の前におられます。
後ろで手を組んだ立ち姿で、電燈をじっと見つめておられます。
台座に彫られた「明るい未来へ」も良いです。

スポンサーサイト
久能 寅夫
DSCN9197_20150207195159782.jpg

DSCN9201_201502071952070c8.jpg
久能 寅夫 像
(山口県 岩国市 横山 吉香公園)

久能 寅夫(ひさのう とらお)
(1890年-1977年)

撮影日:2014年9月30日
建設年:昭和60年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

岩国町錦見(現在の岩国市)に生まれる。
大正4年九州帝国大学工学部を卒業して商工省東京試験場に入り、大正8年から3年間米国に留学したのち。呉海軍工廠に就職。
大正14年のジュネーブ国際労働会議には海軍連盟中央委員長として代表顧問で参加した。
昭和4年海軍技官に任官。
その後舞鶴海軍火薬廠製造部長・東洋曹達徳山工場長を歴任した。
戦後、昭和26年岩国市長に就任し、台風で流失した錦帯橋の再建や国鉄岩日線の着工などに尽くした。市長退職後岩国商工会議所会頭を一期務め、49年に名誉市民になった。

[感  想]
錦帯橋近くの錦川河畔におられます。
DSCN9204.jpg
上半身の像で、錦川をじっと見つめておられます。

久原 房之助
IMGP3645.jpg

IMGP3649.jpg
久原 房之助 像
(山口県 下松市 下松工業高校)

撮影日:2014年9月27日
建設年:昭和31年
分 類:政治家
作 者:長嶺 武四郎
評 価:☆☆☆

久原房之助
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

久原 房之助(くはら ふさのすけ)
(1869年-1965年)
明治-昭和時代の実業家、政治家

明治2年6月4日生まれ。
久原庄三郎の4男。
明治24年藤田組にはいり小坂鉱山を再建。
日立鉱山を開発して久原鉱業、日立製作所を創立する。
昭和3年経営を義兄鮎川義介にゆだね衆議院議員に転身(当選5回)、同年田中義一内閣逓信相、14年政友会総裁。
昭和40年1月29日死去。95歳。
長門(山口県)出身。慶応義塾卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。

[感  想]
下松工業高校の中庭におられます。
着物姿の上半身の像で、萩市出身の彫刻家である長嶺武四郎の作です。

アンデルセン 2
DSCN8835.jpg

DSCN8837.jpg

DSCN8848.jpg
アンデルセン像 2
(岡山県 倉敷市 JR倉敷駅北口)

撮影日:2014年9月14日
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

[感  想]
JR倉敷駅北口のアンデルセン広場からちょっと外れた、ロータリーの植え込みの中におられます。
DSCN8845.jpg
右手に本、左手にステッキを持ち、椅子に座った姿で、横を向いて遠くを見つめています。
シルクハットと鷲鼻が印象的です。

アンデルセン 1
DSCN8824.jpg

DSCN8828.jpg

DSCN8834.jpg
アンデルセン像 1
(岡山県 倉敷市 JR倉敷駅北口 アンデルセン広場)

撮影日:2014年9月14日
建設年:平成10年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

アンデルセン
アンデルセンの肖像(1869年)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

アンデルセン 【Hans Christian Andersen】
(1805~1875)
デンマークの童話作家・小説家・詩人

創作童話で世界的に有名。
小説「即興詩人」「絵のない絵本」、童話「親指姫」「マッチ売りの少女」など。
デンマーク語名アナセン。

[エピソード]
◎大学を卒業しなかったアンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴー、シュポーア、ケルビーニ、ダヴィッドなど旅先で多くの作家や学者、芸術家と交友を深めた。生涯独身(未婚)であった。

◎アンデルセンが亡くなった時は、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになった。世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続だった。要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューした事、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。この著作は死後約50年経て発見された。それ等によると生涯に三度、こうした手紙類を記したことが分かっている。探検家デイヴィッド・リヴィングストンの娘との文通は有名である。

◎彼の肖像は、デンマークの旧10クローネ紙幣に描かれていた。
10クローネ

◎首都コペンハーゲンには人魚姫の像とダンス博物館に王立バレエ団時代の資料が、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家(一般公開)とアンデルセン博物館がある。また、1956年には彼の功績を記念して国際児童図書評議会 (IBBY) によって「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として国際アンデルセン賞が創設され、隔年に授与が行われている。この賞は「児童文学のノーベル賞」とも呼ばれ、高い評価を得ている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
JR倉敷駅の北側にある、倉敷駅周辺第一土地区画整理事業の記念として作成されたアンデルセン広場の階段の途中に座っておられます。
DSCN8853.jpg
本を片手に持ち、バイキング像とからくり時計の童話の主人公たちをやさしく見つめておられます。

蒋 介石
DSCN8819.jpg

DSCN8815.jpg
蒋 介石 像
(岡山県 倉敷市 鶴形 昭和大戦博物館準備展示室前)

撮影日:2014年9月14日
建設年:昭和60年
分 類:外国人
評 価:☆☆☆

蒋介石2

蒋介石
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
蒋 介石(しょう かいせき)
(1887年-1975年)
中国の軍人、政治家

光緒13年10月31日生まれ。
日本に留学し、孫文の中国同盟会にはいる。
帰国して辛亥革命に参加。
黄埔軍官学校校長、国民革命軍総司令などをへて1928年国民政府主席となる。
共産党を弾圧したが、西安事件で抗日のための第2次国共合作に合意。
1948年中華民国総統。
翌年国共内戦に敗れて台湾にのがれ、以後その死まで中華民国総統をつとめた。
1975年4月5日死去。89歳。
浙江省出身。字は中正。
【格言など】怨みに報いるに徳を以てす(敗戦国日本に対して)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎陽明学の信奉者だった。

◎戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。

◎遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。

◎総統に就任してからも、毎朝5時に起床し、朝食までの時間を漢書を主とした読書などといった勉強の為にあてるなど、普段から規則正しい生活を送り続け、終生生真面目さを失わなかったと伝えられている。

◎慈湖紀念雕塑公園-中華民国の民主化に伴い、次々と撤去され始めた蒋介石像を収集して展示している公園。
蒋介石の遺体が安置された慈湖にある。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上ると言われている。

◎紙幣-没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蒋介石の肖像が使われてきた。
李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。
ただし、日本の2000円札同様、市中での流通量は極めて少ない。
なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。
twd1000f.jpg

[銅 像]
蒋介石による「暴をもって暴に報ゆる勿れ」の演説が行われた四十周年を記念して建立されたものです。

[感  想]
昭和大戦博物館準備展示室前におられます。
DSCN8816.jpg
右手に山高帽、左手にステッキを持ち、座った像で、引き締まった表情が印象的です。


星野 仙一
DSCN8781.jpg

DSCN8782.jpg

DSCN8778.jpg
星野 仙一 像
(岡山県 倉敷市 中央1丁目 星野仙一記念館)

撮影日:2014年9月14日
分 類:プロ野球選手・監督
評 価:☆☆☆

星野 仙一 (ほしの せんいち)
(1947- ) 
昭和後期-平成時代のプロ野球選手、監督。

昭和22年1月21日生まれ。
44年中日に入団。投手。
49年与那嶺要監督のもとで先発、リリーフに活躍し、優勝に貢献。
巨人戦につよく「燃える男」とよばれた。
実働14年、通算146勝121敗34セーブ、防御率3.60。
62-平成3年中日監督(63年リーグ優勝)。
8年からふたたび中日監督(11年リーグ優勝)。
14年阪神監督となり、15年リーグ優勝。
19年北京五輪野球日本代表監督。
22年東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任。
25年楽天をリーグ優勝、日本シリーズ優勝に導く。
同年正力松太郎賞。岡山県出身。明大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
星野仙一記念館の前におられます。
DSCN8774.jpg
顔の像ですが、ちょっと、はにかんだ感じで、
テレビ等で良く見る表情を上手くとらえています。

山田 方谷
DSCN8364.jpg

DSCN8377.jpg
山田 方谷 像
(岡山県 高梁市 向町 高梁市郷土資料館)

撮影日:2014年9月13日
建設年:昭和51年
分 類:儒者
作 者:宮本 隆
評 価:☆☆☆

山田方谷
山田 方谷(やまだ ほうこく)
(1805年-1877年)

江戸後期-明治時代の儒者
文化2年2月21日生まれ。
佐藤一斎らにまなび、天保8年備中(岡山県)松山藩藩校有終館学頭。
藩主板倉勝静のもとで財政改革をおこない、勝静が老中につくと顧問となる。
維新後は岡山県閑谷学校の再興につくした。
明治10年6月26日死去。73歳。
名は球。字は琳卿。通称は安五郎。著作に「古本大学講義」など。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎方谷の思想は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという。
安岡正篤は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している。

◎嘉永5年(1852年)に牛麓舎の隣家に住まう一藩士が病没し、その寡婦が方谷宅の門を叩いた。寡婦は父を亡くした自らの7歳の娘に、母子家庭の娘と侮られぬよう、男性と互して能うほどの学問を施してもらうよう方谷に請うた。方谷は忙しい最中ではあったが、それを快く引き受けて男女の別を気にする事無く、その才気ある娘を牛麓舎に通わせ、自らの学を与えたとされる。その娘こそが、後に高梁の地で女子教育の普及に努める事となる福西志計子であった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
高梁市郷土資料館の前におられます。
DSCN8361.jpg
裃を着て、右手に扇子を持った立ち姿で、おだやかな表情が印象的です。





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。