ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

坂本 龍馬 10
坂本龍馬 (33)

坂本龍馬 (39)

坂本龍馬 (35)
坂本 龍馬 像 10
(長崎県 長崎市伊良林 風頭公園)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成元年
分 類:幕末志士
作 者:山崎 和國
評 価:☆☆☆☆

【銅 像】
日本で最初の貿易商社「亀山社中」を長崎に設立した坂本龍馬。
その長崎の地に龍馬の像を建てようという「龍馬の銅像建つうで会」の呼びかけに賛同し
た全国の有志から寄せられた資金で、1989(平成元)年5月、亀山社中跡に近い風頭公園
に『坂本龍馬之像』が建立された。
高さ4.7m(全身像3.2m+台座1.5m)、長崎港を一望できる風頭公園に威風堂々と立ち、
腕組みをして日本の未来を見据えるかのような姿―これには未来を担う青少年へのメッセ
ージが込められ、龍馬の実像に最も近い像とも言われている。
足元には自慢のブーツを履いていて、その片方のブーツは台座からはみ出しています。
坂本龍馬 (5)

坂本龍馬 (8)
これは『型にはまらない自由で革新的な性格』を現しているそうです。

[感  想]
風頭公園山頂におられます。
DSCN0494_201608131244103f1.jpg
腕を組んだ立ち姿で、港をじっと見渡しています。
坂本龍馬 (47)
ブーツが台座からはみ出しているのも、龍馬の人間性を表していて良いです。

スポンサーサイト
坂本 龍馬 9
坂本龍馬 (19)

坂本龍馬 (22)
坂本 龍馬 像 9
(長崎県長崎市 伊良林 若宮稲荷神社)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成3年
分 類:幕末志士
作 者:山崎 和國
評 価:☆☆☆

坂本龍馬 (15)

坂本龍馬 (16)


[感  想]
風頭公園山頂の10像の原型の小ぶりな像です。
坂本龍馬 (25)

坂本龍馬 (24)
詣でたであろう稲荷神社をじっと見つめています。



坂本 龍馬 8
坂本龍馬② (3)

坂本龍馬② (12)

坂本龍馬② (13)

坂本龍馬② (11)

坂本龍馬② (14)
坂本 龍馬 像 8
(長崎県 長崎市船大工町 丸山公園)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成21年
分 類:幕末志士
作 者:小崎 侃
評 価:☆☆☆

坂本龍馬② (7)

来年放映のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて長崎市の丸山公園に建立された坂本龍
馬の銅像の除幕式が15日、現地であった。
新たな観光スポットにすることを目的に5月発足した「丸山公園に龍馬の銅像を建てる会」
(川添一巳実行委員長)が、龍馬像建立資金の一部を募金で集めてきた。当初は700万円
の目標だったが、13日現在で約1250万円が寄せられた。
完成した銅像は、台座も含めた高さが2・4メートル。長崎で活動する版画家、小崎侃さん
が制作した。龍馬の“三種の神器”とされる懐中時計、ピストル、ブーツが取り入れられ、
「丸山の風を受けながら闊歩(かっぽ)している様子を表現した」(小崎さん)。
除幕式では、長崎検番による祝舞などが披露され、銅像をひと目見ようと詰めかけた市民ら
でにぎわった。川添実行委員長は「募金活動を行う中で培われた龍馬への思いを忘れぬよう
地元自治会を中心に龍馬像にかかわる活動を続けていきたい」と話した。
「長崎新聞2015.11.16」

[感  想]
長崎市の中心街の丸山公園におられます。
坂本龍馬② (1)
身長180センチの立ち姿で、花街丸山の風を浴び闊歩する龍馬像です。

坂本 龍馬 7
坂本龍馬 (31)

坂本龍馬 (30)
坂本 龍馬 像 7
(長崎県 長崎市伊良林 龍馬通り入口)
撮影日:2015年3月21日
分 類:幕末志士
評 価:☆☆

[感  想]
龍馬通り入口の階段を上ったところにおられます。
坂本龍馬 (27)
腕を組んだ上半身の像ですが、腰の下辺りで中途半端に切れているところが少し残念です。

坂本 龍馬 6 
IMG_0550.jpg

IMG_0551.jpg
坂本 龍馬 像 6 
(鹿児島県 鹿児島市 大黒町、いづろ交差点)

撮影日:2012年11月17日
建設年:平成22年
分 類:幕末志士
評 価:☆☆

[感  想]
お龍との新婚旅行で鹿児島を訪れた龍馬です。
笠左手に持ち、弁当が入っていると思われる箱を肩からぶら下げている旅姿です。

坂本 龍馬 5
IMG_0883.jpg

IMG_0887.jpg

IMG_0891.jpg
坂本 龍馬 像 5
(鹿児島県 鹿児島市 与次郎)

撮影日:2012年11月18日
建設年:昭和54年
分 類:幕末藩士
作 者:中村 晋也
評 価:☆☆☆

IMG_0894.jpg

[感  想]
龍馬とお龍が鹿児島を新婚旅行した時の姿です。
龍馬は、左手を懐に入れた決まりのポ-ズです。

坂本 竜馬 4
IMG_4604.jpg

IMG_4603.jpg

IMG_4605.jpg
坂本 竜馬 像4
(東京都 品川区 東大井 京急「立会川駅」)

撮影日:2010年12月18日
建設年:平成22年
分 類:幕末志士
作 者:盛岡 公彦
評 価:☆☆☆

◆坂本龍馬は、倒幕・明治維新へと続く次代の奔流の中で、数多くの志士に大きな影響を与えた幕末を代表する武士の一人です。
NHKのドラマで注目を集めている(2010年現在)こともありますので、経歴は簡単に。
誕生は幕末の天保6年(1836)年で、四国・土佐の郷士の次男でした。
少年期は家庭内で学業に励み、長じて剣の修業(目録の腕)、江戸への遊学を経て尊王攘夷運動に参加します。
武市半平太主宰の土佐勤皇党に在籍する中で諸国の志士たちとの交流を広げ、土佐藩脱藩後は勝海舟とも懇意となって神戸海軍操練所にも在籍するなど、めまぐるしく活動の場を転じながら、独自の日本近代化への方法を模索。
やがて薩長同盟を仲介して幕末維新への大きな転換を演出しました。
しかし、自ら描いた新しい日本の姿を見ることなく、慶応3年(1867)、盟友の中岡慎太郎と共に京都・近江屋に滞留中に刺客に襲われて暗殺されました。
享年31歳。短くも激しい生き方は、今も世代を超えて多くの共感を集めています。
銅像は、やはり出身地の高知県高知市桂浜にある立像がもっとも有名で代表的なものといっていいでしょう。
しかし品川区にも立像が存在します。
龍馬は、品川にあった土佐藩下屋敷に付属する鮫洲抱屋敷の警護に就いたことがあり、その近くには浜川砲台がありました。
近年になり、その浜川砲台の跡地から敷石が発見されたことから、それ記念して高知市から品川区に桂浜の立像を元にした樹脂像(写真下)が贈呈されました。
この像は2004年に立会川駅正面に設置され、浜川砲台跡地に一時移転したのち立会川駅横商店街の児童公園へと移されました。
そして2010年11月に、東京京浜ロータリークラブ有志を中心に寄付が寄せられ、新たに銅像が製作されたのです。
この像は龍馬が鮫洲抱屋敷の警護で滞留していた時期の年齢を想定して製作されており、20歳の龍馬像と言われています(写真上)。
製作は地元品川区にある「立体写真像」会長の盛岡公彦氏の手によります。20歳前後の龍馬は写真等がないため、現存する有名なポートレイト写真(30歳前後)を元に、他の龍馬像を参考にしながら表情に手を加えたそうです。
なお「先代」の樹脂像も、土佐藩の旧下屋敷跡に建てられた品川区立浜川中学校に移転建立されています。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
数年前に龍馬の銅像があると知って、訪れた時銅像では無くFRP製だったのでがっかりした覚えがあります。
今回はしっかりした銅像で、緑に輝いていました。

坂本 龍馬 3
IMG_2899.jpg

IMG_2894.jpg

IMG_2898.jpg
坂本 龍馬 像3
(高知県 高知市 桂浜)

撮影日:2010年9月19日
建設年:昭和3年
分 類:幕末志士
作 者:本山 白雲
評 価:☆☆☆☆☆

坂本 龍馬

[銅  像]
高知県の青年有志が募金活動を行い,当時の金額にして2万5千円を集め建立。
昭和3年5月27日午後2時,除幕式を行い姿を現した龍馬像。
和服姿に懐手,ブーツ姿の龍馬は,はるか太平洋の彼方を見つめています。
像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。
毎年龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日を挟み,約2カ月間,龍馬像の横に展望台を設置し,龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができます。
「高知市公式ホームページ」から

[感  想]
大学生の時に1回訪れたことがあり、2回目の訪問。
上野の西郷隆盛像、札幌のクラーク像と並んで日本で一番有名な銅像でしょう。
建立も高知県の青年有志が頑張って造られたというのが、龍馬らしいです。
桂浜から遠く太平洋を眺める姿に感動!
いい像です。もちろん満点です!


IMG_2909.jpg

坂本 龍馬 2
DSCN3141.jpg

DSCN3143.jpg
坂本 龍馬 像 2
(京都府 京都市伏見区 寺田屋)

撮影日:2008年6月14日
分 類:幕末志士
評 価:☆☆

◎寺田屋事件(坂本龍馬襲撃)
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、「寺田屋遭難」で知られる事件は、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林忠交肥後守の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。
龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の取り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。
捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦しながら乱闘になり、捕り方数名を殺傷するも、自らも左右手の親指を負傷して材木屋に隠れる。
お龍は機転を効かせて伏見の薩摩藩邸(直線距離:約800m)に駆け込み、藩邸からは川船を出してもらい救出され九死に一生を得ることができた。
藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を拒否し続けて、その後伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に匿われていたが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出させた。
そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏する。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋

[感 想]
この像は、有名な寺田屋横の庭にあります。
小さい像で、銅像というより置物みたいな感じです。

DSCN3151.jpg

坂本 龍馬 1
DSCN3075.jpg

DSCN3076.jpg

DSCN3080.jpg
坂本 龍馬 像 1
(京都府 京都市 東山区 円山公園)

撮影日:2008年6月14日
建設年:昭和37年
分 類:幕末志士
評 価:☆☆☆

坂本竜馬
「近代日本人の肖像ホームページ」から

坂本 龍馬(さかもと りょうま)
(1835年‐1867年)
幕末の武士

天保6年11月15日生まれ。
家は土佐高知城下の郷士。
文久元年土佐勤王党にくわわり、翌年脱藩して勝海舟の門にはいって航海術などをまなび、開国論にめざめる。
神戸海軍操練所の塾頭をつとめる。
慶応元年長崎で亀山社中(のちの海援隊)をつくり海運・貿易に従事。
2年西郷隆盛と木戸孝允の間をとりもち薩長同盟を成立させる。
「船中八策」の構想のもとに幕府の大政奉還を実現させ、新統一国家の建設を目ざしたが、慶応3年11月15日京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。33歳。
変名は才谷梅太郎。
【格言など】左様さ、世界の海援隊でもやらんかな
(竜馬がまとめた「新政府綱領」に、本人の役職がないのを西郷に問われて)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[年譜]
1835年 11月15日 龍馬出生
1853年 剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門
1858年 千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授。剣術修行を終えて帰国
1862年 沢村惣之丞とともに脱藩。勝海舟に面会して弟子となる
1863年 勝の尽力により脱藩を赦免される。神戸海軍塾 塾頭をつとめる。
1865年 薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。
中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
1866年 龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)
負傷治療のために妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。
第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。
1867年 亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
後藤象二郎とともに船中八策を策定。
京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。(近江屋事件)
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他から抜粋

◎身長6尺(約182cm。写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。
なお、他の研究では174cmや169cm・62kgという説もある。

◎当時、土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。
あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会した時、龍馬は短めの刀を差していた。
そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。
次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。
納得した檜垣はさっそく拳銃を買い求めた。
三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。
もはや檜垣はついていけなかったという。
龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはなく、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である。

◎龍馬最期の刀は二尺二寸の刀、銘「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」である。龍馬の手紙には、随所に刀の話が出てくる。彼が兄権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、山内容堂に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「吉行」の刀をことづけ、3月中旬頃長崎の龍馬のもとに届いた。京都に行く時は、いつもこれを差して、兄の贈り物だと自慢していた。
銘「陸奥守吉行
銘「陸奥守吉行」

◎龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。
ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。
後日、兄坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。
しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1/2 32口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。
薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。
当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
1SW モデル
「S&W モデル1」


「評価」
◎板垣退助-「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」とその早死を惜しんだ。
桂浜には、板垣・土方久元らによる「坂本龍馬先生彰勲碑」があり撰文は板垣が揮毫している。
また高知の維新の代表である龍馬の銅像が無いのを惜しみ、親戚の彫刻家・本山白雲に依頼して桂浜に龍馬の銅像を建立した。

◎武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)

◎勝海舟
・「聞く薩、長と結びたりと云。又聞く坂本龍馬、長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟の日記)
・「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
・(土佐が大政奉還を建白したのは大勢を洞察した卓見か、ただその場の小策に出たためかと問われ)
「あれは坂本がいたからのこと、土佐はいつも筒井順慶で伏見の時も、全くの日和見をしていた」
・(龍馬が西郷を大きな釣鐘に例え評したことについて)
「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」
・(同じく龍馬の西郷評について)
「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準は自家の識慮に在り。氏が西郷を評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世の事業の如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」

◎西郷隆盛-「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

◎三吉慎蔵-「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

◎関義臣-「相手の話を黙って聴き、否とも応とも言わず、さんざん人にしゃべらせておいた後で、「私の説は」とユーモアを交えて話し、自分が大笑いするという愛嬌家だった」

◎陸奥宗光-「その見識、議論の高さ、他人を説得する能力に関して彼の右に出る者はいない」

[銅 像]
初代の銅像は昭和9年に建立されたが、戦時中に供出され、昭和37年5月3日に再建された。
立ち姿が坂本龍馬で、片膝を立てているのが中岡慎太郎。
揮毫は吉田茂

[感 想]
有名な坂本竜馬の銅像初登場です!
円山公園に堂々と立っています。
近づくと目がちょっと怖い感じです。

親鸞 5
親鸞 (4)

親鸞 像 5
(長崎県 長崎市寺町 深崇寺)

撮影日:2015年3月21日
建設年:平成13年
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
深崇寺の山門横におられます。
親鸞 (1)
笠を被り杖を持った托鉢姿です。

親鸞 4
DSCN9348.jpg

DSCN9346.jpg
親鸞 像4
(山口県 柳井市 柳井津 白潟山誓光寺境内)

撮影日:2014年9月30日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
台座に「親鸞聖人ご幼少の像」とあるように、親鸞の幼少の像です。
小ぶりな像ですが、手を合わせてしっかりと前を見つめる目が特徴的です。


DSCN9350.jpg

DSCN9354.jpg
親鸞 3
DSCN9356.jpg

DSCN9357.jpg
親鸞 像3
(山口県 柳井市 柳井津 白潟山誓光寺境内)

撮影日:2014年9月30日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

[感  想]
白潟山誓光寺境内におられます。
DSCN9365.jpg

せいこうじ
東京にある1、2の像と基本スタイルは、同じです。

親鸞 2
IMG_4582.jpg

IMG_4584.jpg
親鸞 像2
(東京都 港区 元麻布 善福寺)

撮影日:2010年12月18日
建設年:昭和11年
分 類:僧
評 価:☆☆☆

◆元麻布にある麻布山善福寺は、真言宗の開祖空海により創建。
鎌倉時代に親鸞が布教に訪れ、以後浄土真宗に改められて現在に至っています。
親鸞上人像は、昭和11年7月に建立。
幼い我が子を亡くした廣瀬精一氏が、これをきっかけに真宗の教えに深く感じ、像を作って寄進したといわれます。
境内には他に福沢諭吉夫人の墓や、初代アメリカ公使、タウンゼント・ハリスの記念碑(公使館が置かれていた)、樹齢約750年という天然記念物の逆さ銀杏などがあります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
善福寺の敷地内におられます。
築地本願寺別院にある1と同じ旅姿でよく似ていますが、こちらが小さめです。

親鸞 1
IMG_4151.jpg

IMG_4146_20110801075755.jpg

IMG_4150.jpg
親鸞 像1
(東京都 中央区 築地 築地本願寺)

撮影日:2010年12月12日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

親鸞
親鸞聖人 熊皮の御影
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

親鸞(しんらん)
(1173年-1263年)
鎌倉時代の僧

承安3年生まれ。
日野有範の子。
妻は恵信尼。浄土真宗の開祖。
比叡山で修学し,建仁元年源空(法然)の門にはいり,専修念仏に帰依。
念仏教団禁圧により越後(新潟県)に流罪となる。
建暦元年ゆるされ,関東で布教。
60歳ごろ京都にもどり,著述と門弟の指導につとめた。
絶対他力・悪人正機説をとなえ,肉食妻帯の在家主義を肯定した。
弘長2年11月28日死去。90歳。
著作に「教行信証」「和讃」,語録に唯円編「歎異抄」など。
【格言など】善人なおもて往生をとぐ,いわんや悪人をや(「歎異抄」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

◆親鸞は鎌倉時代初期の僧です。浄土宗の開祖といわれる法然を師とし、その教えを継承し、昇華させて浄土真宗開宗への道を拓きました。
布教・教化のため、各地に念仏道場を開きましたが、その教えが広まるにつれて既存の仏教勢力や宗派の攻撃の的となりますが、これが逆に浄土真宗の教義と信徒の結束をより強固なものとしたようです(浄土真宗の開宗は親鸞没後)。
銅像は、築地本願寺別院(京都西本願寺の別院)の正門を入って左の駐車場脇にあります。
台座も含めて5メートル余りの立像で、各地の仏教道場を巡って教えを広めていたであろう旅の姿を描いています。
築地本願寺は元和3年(1617年)に浅草近くに建立されましたが、明暦の大火で焼失。
同地に再建することが叶わなかったため、八丁堀沖を埋め立てて代替地とし、再建されました(この埋め立て工事が築地の名の由来)。
なお、現在の伽藍は関東大震災後の火災により焼失したものを1934年に再建したもので、古代インド様式の造りは一見の価値があります。
「歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ」」から

[感  想]
築地本願寺別院の敷地内におられます。
笠を被った旅姿のい像は、大きくじっと寺院を見守っているような感じです。

IMG_4144_20110801075755.jpg
日蓮 4
本蓮寺 (9)

本蓮寺 (8)
日蓮 像 4
(長崎県 長崎市筑後町 本蓮寺) 

撮影日:2015年3月21日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

寺院の歴史日本最初のキリシタン大名大村純忠は大村の藩主ですが長崎のこの地にはじめ
サンラザロ病院(日本で最初のハンセン氏病の病院)が建てられ、それに続いて修道院が
でき、サンジョアン・バウチスタ教会ができたのでした。
純忠の子喜前は加藤清正公と親交があり、法華経の素晴らしさを知ることになります。
大村領内を見直し、大村の地には本経寺を建て、本経寺の二代目本瑞院日恵上人は本蓮寺
を建てるに至ります。
キリシタンでいっぱいの長崎の布教には、清正公より拝領の兜をかぶり、身を守って活躍
したと伝わります。
加藤清正公はお題目の五文字に因み、九州に五ヶ寺を建てようと発願されました。
即ち、熊本に本"妙"寺、大分、鶴崎に"法"心寺、長崎に本"蓮"寺、水俣に法"華"寺、大村に
本"経"寺の五山であります。
元和六年(1620)長崎港を一望できる丘の上、サンジョアン・バウチスタ教会のあとに本
蓮寺は建立されました。
山号の『聖林山』は清正公の母君の法号『聖林院殿天室日光大法尼』より二字をいただい
たものです。
それは、開山本瑞院日恵上人が幼少の頃、加藤清正公の母君に撫育された時期があり、そ
の御恩を思い山号に聖林の二字をいただいたのです。
正面に座られている日蓮上人像は、開山上人が脇差と共に徳川秀忠公より拝領致しました。
江戸より長い道中を運んで参ったものです。
途中箱根の関所をはじめて通った荷であると伝えられます。元禄の大火にも難を逃れました。
前の大戦にては長崎に原爆が落ちた時に本蓮寺は堂宇が灰となりましたが、この祖師像は
無事でした。
「日蓮宗本蓮寺ホームページ」から

[感  想]
本蓮寺の境内おられます。
本蓮寺 (3)
左手に巻物を持った堂々とした立ち姿で迫力があります。

日蓮 3
IMG_4258.jpg
日蓮 像 3
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園 彫刻館)
(一人立正)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和55年
分 類:僧
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

[感 想]
彫刻園の中に展示されています。
小さい像ですが、袈裟を着て、巻物か何かを右手に持ち、訴えかける表情で立っている姿が印象的です。

日蓮 2
IMG_4218.jpg

IMG_4221.jpg
日蓮 像 2
(東京都 武蔵野市 御殿山 井の頭自然文化園)
(快傑日蓮)

撮影日:2010年12月12日
建設年:昭和29年
分 類:僧
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

[感 想]
武蔵野市の井の頭自然文化園内彫刻園におられます。
快傑日蓮と題が付いるとおり、口を大きく開けて何かを叫んで、すごい形相でこちらを指差す裸のポーズに圧倒されます。
気合いを入れられる銅像です。

日蓮 1
IMG_7667.jpg

IMG_7644.jpg

IMG_7646.jpg
日蓮 1 像
(福岡県 福岡市 博多区 東公園)

撮影日:2007年12月4日
建設年:明治37年
分 類:僧
作 者:竹内 久一
評 価:☆☆☆☆

Nichiren.jpg
波木井の御影
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

日蓮(にちれん)
(1222年-1282年)
鎌倉時代の僧

承久4年2月16日生まれ。
日蓮宗の開祖。
安房(千葉県)の天台宗清澄寺で出家し,是聖房蓮長と称した。
建長5年4月28日清澄寺で立教開宗。
このころ日蓮と改名。
文応元年「立正安国論」をあらわして浄土教を非難,はげしい弾圧をうけ伊豆,佐渡に流される。
赦免後は甲斐身延山に隠棲し,弟子の育成につとめた。
弘安5年10月13日死去。61歳。
安房出身。墓所は久遠寺(山梨県身延山)。
幼名は薬王丸。
著作に「開目鈔」「観心本尊鈔」など。
【格言など】われ日本の柱とならん,われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん(「開目鈔」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[銅  像]
像本体10.6m。
市指定文化財。
元寇記念碑建設運動に触発された日蓮宗僧侶の佐野前励(日菅)が提唱。
東京美術学校の岡倉天心に依頼、竹内久一が原型制作、岡崎雪声が鋳造。
1904年11月8日に除幕式を挙行。
本体は分割して鋳造したものをボルトで結合する工法がとられる。
奈良・鎌倉の大仏に次いで日本で3番目に大きい銅像。

◎死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。
そのため、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
東公園を走っていると、突如大きい頭が見えてきました。
IMG_7642.jpg

とにかくこの像は、でかいです!
大きさで圧倒されます!
台座にもレリーフが施されており、皆が触るためか日蓮上人の部分だけ黒光りしていました。
IMG_7659.jpg


日蓮絵はがき
東公園の日蓮上人像(大正時代~昭和前期)の絵はがき。
福岡市博物館ホームページから

シーボルト 2
シーボルト① (5)

シーボルト① (6)

シーボルト① (9)
シーボルト像 2
(長崎県 長崎市鳴滝2丁目 シーボルト記念館前)

撮影日:2015年3月21日
建設年:昭和54
分 類:外国人
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆

[感  想]
シーボルト記念館の前におられます。
シーボルト① (12)
「若き日のシーボルト」像という題のとおり、軍服を着て、サーベルを持った若いシーボ
ルトの立ち姿です。

シーボルト 1
シーボルト② (16)

シーボルト② (8)

シーボルト② (10)
シーボルト像 1
(長崎県 長崎市鳴滝2丁目 シーボルト宅跡地)

撮影日:2015年3月21日
建設年:昭和38年
分 類:外国人
作 者:原型:水谷鉄也(大正13年)
評 価:☆☆☆

250px-シーボルト_川原慶賀筆
シーボルト肖像画(川原慶賀筆)
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
シーボルト【Philipp Franz Balthasar von Siebold】
(1796年-1866年)
ドイツの医師、博物学者

1796年2月17日生まれ。楠本いねの父。
文政6年(1823年)長崎出島のオランダ商館医として来日。
鳴滝塾などで医学、博物学をおしえ、日本の洋学発展につくす。
11年国禁の地図の海外持ち出しが発覚し、国外追放となる(シーボルト事件)。
帰国後「日本」「日本植物誌」などをあらわす。
安政6年再来日。長男、次男ものち日本で外交官として活躍。
1866年10月18日死去。70歳。ビュルツブルク出身。

シーボルト生誕200年を記念した日本の切手
シーボルト生誕200年を記念した日本の切手

シーボルト生誕200年を記念したドイツの切手
シーボルト生誕200年を記念したドイツの切手

シーボルト② (7)

シーボルト② (1)

■日本学における貢献
シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理
学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。
シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。
この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボ
ルトの研究継続を経済的に助けた。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残
されている。
また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師と
して来日していたハインリッヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査を続
行するよう依頼した。これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与した。日本語に関
しては記述は少なく、助手だったヨハン・ヨーゼフ・ホフマンが多く書いている。
2005年にはライデンでシーボルトが住んでいた家が資料館として公開され、シーボルトの
事跡や日蘭関係史を公開している。

■生物学
生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物に
ついて重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。
これらの多くはライデン王立自然史博物館に保管されている。
植物の押し葉標本は12,000点、それを基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で
『日本植物誌』を刊行した。その中で記載した種は2300種になる。植物の学名で命名者が
Sieb.et Zucc.とあるのは、彼らが命名し現在も名前が使われている種である。アジサイなど
ヨーロッパの園芸界に広まったものもある。
動物の標本は、当時のライデン王立自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、
シュレーゲル、デ・ハーンらによって研究され、『日本動物誌』として刊行された。
日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、日本動物誌で初めて学名が確定して
いる。

■献名
シーボルトに対する献名として、学名に"sieboldi"または"sieboldii"が命名されている生物
は数多い。
植物
サクラソウ Primula sieboldii
ミセバヤ Hylotelephium sieboldii
ヘビノボラズ Berberis sieboldii
キセルアザミ Cirsium sieboldii
ウスバサイシン Asiasarum sieboldii
スダジイ Castanopsis sieboldii
チョロギ Stachys sieboldii
ゴマギ Viburnum sieboldii
ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii

動物
アコメガイ(イモガイの一種)Conus sieboldii (Reeve,1848)
ベニガイ(サクラガイに近縁の二枚貝)Pharaonella sieboldii (Deshayes,1855)
シーボルトミミズ(大型のミミズ)Pheretima sieboldi (Horst,1883)
オニヤンマ(日本最大のトンボ)Anotogaster sieboldii Sélys,1854
ヌマムツ(コイ科の淡水魚)Nipponocypris sieboldii (Temminck et Schlegel,1846)
ヒメダイ(フエダイ科の海水魚)Pristipomoides sieboldii (Bleeker,1857)
アオバト(森林性のハトの一種)Treron sieboldii (Temminck,1835)

[感  想]
シーボルト宅跡地の広場におられます。
髭が特徴的な胸像で、斜め前方をしっかりと見つめています。
身近な植物・動物の学名に「sieboldii」が付いているのには驚きました。

トーマス・グラバー
グラバー (17)

グラバー (24)

グラバー (16)

グラバー (32)
トーマス・グラバー 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:外国人
作 者:富永 直樹
評 価:☆☆☆☆

トーマス・グラバー
トーマス・グラバー【Thomas Blake Glover】
(1838年-1911年)

イギリスの貿易商。スコットランドのフレーザーバラ生れ。
父はイギリス沿岸警備隊一等航海士。
アバディーンのギムナジウムに在学した後、上海を経て、1859年(安政6)9月19日長崎に
来日。
61年5月にグラバー商会を設立し、ジャーディン・マセソン会社の代理店もかねた。
設立当初はおもに日本茶を輸出したが、64、65年ころより薩摩、佐賀、土佐、熊本等西南
雄藩をはじめ幕府諸藩への艦船武器類の販売を中心に発展し、上海にも支店をもつ長崎最
大の貿易商となった。
「世界大百科事典 第2版」から

グラバー (20)

スコットランド出身のグラバーは1859年、彼が21歳の時、開港と同時に長崎に来日し、
グラバー商会を設立しました。
幕末の激動の時代の中、志士達を陰で支え、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど、若い人
々への多大な援助を惜しみませんでした。
また明治以降は純経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献しています。
とび色の瞳と赤い顔のため、彼が経営した炭坑の坑夫からは「赤鬼」とあだ名されました
が、その性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情
の持ち主だったようです。
同様に家族に対しても、妻ツルとの間に子供をなし、温かな家族をつくり、仲むつまじく
日本で終生を過ごしました。
1911年、73歳の生涯を閉じたグラバーは現在でも長崎市の坂本国際墓地でツルと、息子
の倉場富三郎夫婦とならび眠っています。
「GLOVER GARDEN」ホームページから

[エピソード]
◎経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟
麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。

◎太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打
診していた。
キリン

◎キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。

◎龍と馬が組み合わさった麒麟(きりん)は、中国の伝説上の生き物で、幸運の象徴とさ
れています。グラバーは、ジャパン・ブルワリ・カンパニーというビール会社を発足させ
ましたが、温室のそばに座っている愛嬌のあるこま犬がその時のラベルに使われた麒麟の
絵のモデルだといわれています。そしてラベルの麒麟のヒゲはグラバーの口ヒゲを元にし
たものとか…。

◎私生活では五代友厚の紹介で、ツルとの間に長女ハナをもうけている。また、息子に倉
場富三郎(Tomisaburo Awajiya Glover)がいる。


[感  想]
グラバー園の旧グラバー住宅の近くにおられます。
グラバー (42)

グラバー (39)

上半身の像で、もみ上げと髭が特徴的です。
グラバー (27)
邸宅を見守っておられます。


倉場 富三郎
倉場 (11)

倉場 (2)
倉場 富三郎 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
分 類:実業家
評 価:☆☆☆

oldglover_kuraba_03_20160813090347fd3.jpg
倉場 富三郎(くらば とみさぶろう)
(1871年-1945年)
明治-昭和時代前期の実業家

明治3年12月8日長崎生まれ。T.B.グラバーの次男。
明治40年長崎汽船漁業を設立し、汽船トロール業をおこす。
萩原魚仙らに依頼して描写させた魚類図鑑「グラバー図譜」はたかく評価されている。
昭和20年8月26日死去。76歳。
旧名はトマス=アルバート=グラバー(Thomas Albert Glover)。
苗字の倉場はグラバーをもじったもの。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

倉場 (4)

グラバーには倉場富三郎、ハナという二人の子どもがいました。
倉場富三郎はアメリカ留学から長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に入社すると、蒸気ト
ロール漁船をイギリスから輸入し、日本の水産業の振興に大いに貢献しました。
底引き網にかかる膨大な魚を見た富三郎は、分類学的研究ができる魚類図鑑をつくろうと
思い、私費を投じて5人の画家に魚の絵を描かせ、25年の歳月をかけてグラバー図譜を完
成させました。
旧スチイル記念学校、旧グラバー住宅の奥の廊下にその一部が展示されています。
混血として生まれた富三郎は、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと懸命な努力を重ね、
内外倶楽部という外国人との親睦団体をつくり、日本初のパブリックコース、雲仙ゴルフ
場の設立にも力を注ぎました。
しかし第二次世界大戦の最中、同じ混血の境遇に生まれた妻ワカが急死。
やがて長崎に原爆が落とされ、絶望のなか終戦を迎えた富三郎は、その11日後の8月26
日に自ら命を絶ちました。
遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付するよう記されていました。
「GLOVER GARDEN」ホームページから

[感  想]
グラバー園の旧グラバー住宅の中におられます。
倉場 (14)

大きな目と髭が特徴的な上半身の像です。
倉場(クラバ)はグラバーをもじった名前というのはおもしろいと思いました。

三浦 環
三浦環 (9)

三浦環 (10)
三浦 環 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和38年
分 類:歌手
作 者:深川 剛一
評 価:☆☆☆

三浦環
三浦 環(みうら たまき)
(1884年-1946年)
明治-昭和時代のソプラノ歌手

明治17年2月22日生まれ。
東京音楽学校(現東京芸大)在学中、明治36年日本初のオペラ公演に参加。
同校助教授、帝劇歌劇部をへて大正3年夫三浦政太郎とともに渡欧。
翌年ロンドンで「蝶々夫人」をうたって好評を博し、以後昭和10年の帰国までに欧米各地
で2000回出演を記録した。
昭和21年5月26日死去。63歳。
東京出身。旧姓は柴田。著作に「歌劇お蝶夫人」。
【格言など】日本は文化では何一つ一等国の仲間入りをしてない(「自叙伝」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

三浦環 (12)

[エピソード]
1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に
客演する。
1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開い
た。三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園
に建っている。
作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演
技で評価された。
少女時代に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができ
たといわれている。
その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーやヤン・パデレフスキといったスター芸術家とも共
演する。
著名な門弟に原信子、長坂好子、柳兼子、鈴木乃婦、関屋敏子、小林千代子、由利あけみが
いる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
グラバー園の中央付近の広場の池の中におられます。
『蝶々夫人』の舞台の一場面を表した子供と一緒の着物姿の像です。
三浦環 (1)

三浦環 (5)
『蝶々夫人』の作曲家プッチーニに見守られています。

プッチーニ
プッチーニ (4)

プッチーニ (5)

プッチーニ 像
(長崎県 長崎市南山手町 グラバー園)

撮影日:2015年3月20日
建設年:平成8年
分 類:外国人
作 者:ジルベール・ルビーブル(Gilbert Lebigre)フランス人
評 価:☆☆☆

GiacomoPuccini.jpg
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
プッチーニ【Giacomo Puccini】
(1858年-1924年)
イタリアの作曲家。

ベルディ以後イタリアの生んだ最大のオペラ作曲家。
5代続いた音楽家の家系に生まれ、ミラノ音楽院でA.ポンキエリに学び、学友P.マスカー
ニと親しくなった。
1884年最初のオペラを発表。
93年3作目のオペラ《マノン・レスコー》で成功を収め、《ラ・ボエーム》(1896)、《トスカ》
(1900)、《蝶々夫人》(1904)と傑作を書き続け、《トゥランドット》(未完。F.アルファーノが
完成させて1926年初演)まで10曲のオペラを作曲した。

プッチーニ (8)

プッチーニ (3)

「蝶々さん」は誰か?
揚羽蝶「蝶々夫人」の舞台となった日本では長らく「『蝶々夫人』のモデルは誰か?」とい
うことが議論されてきた。
ロングの実姉サラ・ジェニー・コレルは、1890年代初頭から鎮西学院五代目校長で宣教師
でもあった夫とともに長崎の東山手に住んでいた。
ロングは、姉のコレル夫人から聞いた話から着想を得て、小説を執筆したとされている。
長年、有力視されていたのは、幕末に活躍したイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバー
の妻、ツルである。これは彼女が長崎の武士の出身であることや、「蝶」の紋付をこのんで着
用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する。長崎の旧グラバー邸が長崎湾を見下ろす南山
手の丘の上にあることも、物語の設定と一致する。しかし、ロングの小説で具体的に記述さ
れている蝶々夫人の経歴に、ツルの生涯と似ている部分があるが、重要部分で異なる点も多
いため、モデルと考えるのは不自然との意見もある。
一方、グラバーとツルの間に生まれた長男の倉場富三郎がペンシルバニア大学に留学してい
たこと、ロング本人が、「姉は倉場富三郎に会ったことがある」と語ったと言われることな
どは、「蝶々夫人=グラバー・ツル」説を裏付ける要素とされている。但し、ロングは小説
が実話に基づくとは明言しておらず、また、彼自身がアメリカ士官を貶めているともとれ
る小説の人物設定について多くの批判を受けていたこともあり、真相は曖昧にされたまま
現在に至る。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
グラバー園中央付近の広場の植え込みの中におられます。
プッチーニ (1)
左手をズボンのポケットに入れ、右手にハットを持った立ち姿で、空を見上げています。
白い大理石で造られています。大理石の肖像も蝶々夫人像の近くに有ります。

プッチーニ肖像


佐々野 富章
佐々野 (1)

佐々野 (2)
佐々野 富章 像
(長崎県 長崎市江戸町 長崎県庁)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和32年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

佐々野 富章(ささの とみあき)
(1865年-1935年)
明治-昭和時代前期の政治家

慶応元年4月26日生まれ。
長崎市で代言人(弁護士)を開業。
明治23年県会議員となり、40年から5期18年間にわたって県会議長をつとめた。
昭和6年長崎日日新聞社長。
昭和10年8月19日死去。71歳。肥前福江(長崎県)出身。旧姓は御厨。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」から

[感  想]
長崎県庁の敷地内におられます。
佐々野 (9)
上半身の像で、大きな目が特徴的です。県庁舎をじっと見つめておられます。


田川 務
田川 (2)

田川 (4)

田川 (5)
田川 務 像
(長崎県 長崎市 魚の町 長崎市民会館)

撮影日:2015年3月20日
建設年:昭和62年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

田川 務(たがわ つとむ)
(1897年-1977年)
元長崎市長(在任1951年 - 1967年)

長崎県北高来郡小長井村(現諫早市小長井町)出身、弁護士。
1951年(昭和26年)4月の長崎市長選挙で現職の公選初代市長大橋博らを破り当選、以
後4期16年に及び市長を務めた。
市長在任中、1955年(昭和30年)にアメリカ合衆国セントポール市と日本国内では初と
なる姉妹都市提携を結んだ。
また、1958年(昭和33年)に原爆投下時に全壊した浦上天主堂(浦上教会)の廃墟の撤
去を決定。撤去後の跡地に翌1959年(昭和34年)に被爆前の天主堂を模した新しい天主
堂が建てられた。
1967年(昭和42年)、4期目の任期切れに伴う市長選に出馬せず政界引退。
1968年(昭和43年)、勲四等旭日小綬章受章。
1969年(昭和44年)3月29日、長崎市名誉市民の称号を受けた。
1977年(昭和52年)9月5日、長崎市内の病院で死去(享年79)。
同月19日、長崎市公会堂にて長崎市による公葬が営まれた。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

田川 (8)

[感  想]
長崎市民会館の敷地内におられます。
田川 (10)
蝶ネクタイをした上半身の像で、長崎市民が集うであろう市民会館前の広場をじっと見つ
めておられます。

黙子如定
黙子 (4)

黙子 (5)
黙子如定 像
(長崎県 長崎市諏訪町 眼鏡橋近く)

撮影日:2015年3月20日
分 類:僧
評 価:☆☆☆

黙子如定(もくすにょじょう)
(1597年-1657年)
明末清初に来日した中国僧

江西省建昌府建昌県の生まれ。
揚州にある興福禅院において出家。
1632年(寛永9年)に来日し、長崎の興福寺に入寺した。
明版の大蔵経を持参していた。真円の没後に第2代の住持となった。
1634年には、眼鏡橋の建設指導にあたったともされる。
同様に、象嵌技術などにも通じており、中国の先進技術の導入に一役買った。
また、能書家でもある。
その後は、興福寺の諸堂の造立に尽力した。
1645年、逸然性融に法席を譲り、東盧庵に隠退するも、逸然が傾注した隠元隆琦の招致運
動を援助した。
1657年12月、自坊で没した。享年61。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

黙子 (8)

[感  想]
眼鏡橋近くの川沿いにおられます。
黙子 (1)
袈裟を着た全身像です。

黙子 (11)
眼鏡橋をじっと見守っている感じがします。

日本二十六聖人
日本二十六聖人 (17)

日本二十六聖人 (1)

日本二十六聖人 (11)

日本二十六聖人 (12)

日本二十六聖人 (13)

日本二十六聖人 (7)
日本二十六聖人 像
(長崎県 長崎市西坂町 日本二十六聖人殉教地(西坂公園))

撮影日:2015年3月21日
建設年:昭和37年
分 類:その他
作 者:舟越保武
評 価:☆☆☆

日本二十六聖人は、1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された
26人のカトリック信者。
日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初め
てであった。
この出来事を「二十六聖人の殉教」という。
26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」
と呼ばれることになった。

1962年には、列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)
と彫刻家の舟越保武による記念碑が建てられた。

[感  想]
二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑です。
豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師
6人と日本人信徒20人が処刑された丘にある、悲しい記念碑です。

日本二十六聖人 (18)

ルドピコ茨木
聖ルドビゴ (7)

聖ルドビゴ (2)

聖ルドビゴ (8)
ルドピコ茨木 像
(長崎県 長崎市本尾町 浦上天主堂)

撮影日:2015年3月20日
分 類:その他
評 価:☆☆☆

ルドビコ茨木
スケッチ/茨木舟越
(日本二十六聖人記念館蔵)

ルドビコ茨木(1585~1597)
<26聖人殉教者・聖ルドビコ茨木像>
殉教の1年前に受洗。
京都の聖フランシスコ会修道院で侍者として仕える。
司祭が逮捕された時、彼は除外されたが、捕えるよう願い出た。
「自分の十字架はどこ」と刑場で尋ねた話しは今も語り継がれる、最年少者。
殉教時の年齢12歳

[感  想]
浦上天主堂の敷地におられます。
十字架を胸に抱いた立ち姿です。
しっかり前を見つめる、きりりとした表情が印象的です。





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。