ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

和泉式部 
和泉 (1)

和泉 (2)

和泉 (4)
和泉式部 像
(佐賀県 嬉野市塩田町 和泉式部公園)

撮影日:2016年3月28日
建設年:平成7年
分 類:歌人
作 者:橋本 次郎
評 価:☆☆☆

和泉式部
和泉式部(いずみしきぶ)
生没年不詳
平安中期の女流歌人

越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。
和泉式部は女房名で、江式部、式部などとも呼ばれた。
すぐれた抒情歌人として知られ、「和泉式部集」正・続1500余首の歌を残し、「和泉式部日記」の作者として名高い。「後拾遺集」をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。
式部の父は、朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に、太皇太后宮大進として仕え、母も同内親王に仕えていたから、式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。
「世界大百科事典 第2版の解説」から

恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。
また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。
真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛された。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

『和泉式部公園』
平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。
その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています。
「一般社団法人 佐賀県観光連盟ホームページ」から

[感  想]
和泉式部公園におられます。
和泉 (3)

十二単衣を着て、扇子を持った立ち姿で、高さ5mの巨大な像です。
和泉 (5)

和泉 (6)
両側に和泉式部の歌碑が有ります。
現代人っぽい美人の顔立ちだと思いました。

スポンサーサイト
鍋島 茂義
なべしま (2)

なべしま (3)

なべしま (4)

なべしま (5)
鍋島 茂義 像
(佐賀県 武雄市武雄町 武雄市文化会館庭園)

撮影日:2016年3月28日
建設年:平成3年
分 類:武士
作 者:武藤 三男
評 価:☆☆☆

sigeyosi02.jpg
鍋島 茂義(なべしま しげよし)
(1800年-1863年) 
江戸時代後期の武士

寛政12年10月25日生まれ。肥前佐賀藩家老。
天和3年同藩武雄領主となる。
高島秋帆に洋式砲術をまなび、領内でモルテ-ル(臼砲)を鋳造。のち藩砲術師範となり、軍備の近代化につくした。
文久2年11月27日死去。63歳。
別名は紀義。通称は十左衛門。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

なべしま (6)

『茂義の科学研究』
武雄には現在も138冊の蘭書コレクションや、地球儀や天球儀、測量器具や時計、薬品などの輸入物品が残されているが、これは茂義の時期にオランダから購入されたものである。
それに加えて、武雄では、天保年間、塚崎城(武雄領主の館、現武雄高校)で理化学実験用シリンダーなどのガラス製品や、蘭引(蒸留装置)や乳鉢、乳棒などの磁器が製造されている。
茂義やその家臣は、これらの実験器具を用いて理化学実験を行っており、特に、火薬や雷管の研究を行っていたと言われる。
佐賀藩では、嘉永4年(1851年)に精煉方(理化学研究所)を設け、本格的に理化学研究に取り組むが、このような武雄領の研究結果は、その際、大いに参考にされたものと思われる。
また、嘉永7年(1854年)に、茂義は斉正から精煉方における蒸気船建造の責任者に任命されるが、これも茂義がすでに蒸気機関についての知識を有していた表れと考えられる。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

武雄鍋島邸の庭園(現在の武雄市文化会館)
江戸時代、武雄鍋島家の屋敷は、武雄のシンボル御船山の北麓にあった。1868(慶応4)年に、この屋敷が火災で焼失したため、別邸に移った。
別邸跡は現在、武雄市文化会館となっているが、庭園は残されている。
武雄領主第28代鍋島茂義によって造られた、九州屈指の庭園。
写真右手に武雄への蘭学導入に功績のあった鍋島茂義の像、左手には、多くの貴重かつ膨大な資料が保管されていた蔵が見える

[感  想]
武雄市文化会館庭園におられます。
なべしま (1)
本を左手に、扇子を右手に持った立ち姿です。
研究熱心だった姿をよく現しています。

鍋島 直彬 2
鍋島2 (4)

鍋島2 (1)
鍋島 直彬 像2
(佐賀県 鹿島市大字高津原 佐賀県立鹿島高等学校)

撮影日:2016年3月27日
分 類:大名、華族
作 者:雨宮 治郎
評 価:☆☆☆

[感  想]
佐賀県立鹿島高等学校の敷地内におられます。
鍋島2 (2)

鍋島2 (3)
ここは、旭ヶ岡公園に隣接する旧鹿島鍋島藩の鹿島城跡で、その城門(赤門)は現在も校門として使用されいます。
1の像と同じと思われますが、こちらは小ぶりで、穏やかな感じがします。

鍋島 直彬 1
鍋島1 (2)

鍋島1 (3)

鍋島1 (4)

鍋島1 (5)
鍋島 直彬 像1
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和44年
分 類:大名、華族
作 者:雨宮 治郎
評 価:☆☆☆

鍋島 直彬1

nabeshima02.jpg
鍋島 直彬(なべしま なおよし)
(1844年-1915年)
幕末-大正時代の大名、華族

天保14年12月11日生まれ。
鍋島直永の長男。嘉永元年肥前鹿島藩(佐賀県)藩主鍋島家11代となる。
文久3年本藩の佐賀藩主鍋島閑叟の代理で京都にはいり、公武合体を進言した。
維新後、初代沖縄県令、貴族院議員。子爵。
学校をつくり育英事業につくす。
大正4年6月14日死去。73歳。幼名は熊次郎。号は絅堂(けいどう)。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
モーニングコートを着用している全身像で、かなり大きく圧倒されます。
鍋島1 (1)
鹿島の街を見守っておられます。

松尾 静磨
松尾 (2)

松尾 (4)

松尾 (3)
松尾 静磨 像
(佐賀県 武雄市若木町大字川古)

撮影日:2016年3月28日
建設年:昭和51年(平成15年移設)
分 類:官僚
作 者:立体写真像
評 価:☆☆☆

松尾 静磨
松尾 静磨(まつお しずま)
(1903年-1972年)
昭和時代の官僚、経営者

明治36年2月17日生まれ。
東京瓦斯(ガス)電気から逓信省にうつり、大阪飛行場長、航空局次長をつとめる。
昭和24年航空保安庁初代長官。26年日本航空の設立で専務、36年社長、46年会長となる。
安全運航のための整備を重視し、現場主義を説いた。
昭和47年12月31日死去。69歳。
佐賀県出身。九州帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

九州最大のゼネコン松尾建設会長で、弘学館中学校・高等学校を創設した松尾幹夫は甥にあたる。御巣鷹の尾根での日本航空123便墜落事故を主題にした山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』に登場する名経営者「桧山社長」のモデルとも言われる。

『語 録』
臆病者と言われる勇気を持て。安全航行こそ、最大の使命であり、責任である。 臆病者と言われるのを恐れないと言われることも多い。
企業というものは社長一人が優れていても、たいしたことではないんです。全社員がそれぞれの能力を十分に発揮できるような、一人一人が気持ちよく働けるような職場づくりをしなければ業績は上がりません。 ワンマン経営を批判した発言としてよく引用される。
… 祖先のこころうけついだ この空この地このからだ はえあるその名 若木のように 希望明るく手をとって つくるよい郷(さと)よい日本 母校・武雄市立若木小学校の校歌の締めくくり部。57歳の時に頼まれて作詞したもので、日本の未来を託す子供たちに寄せる靜磨の温かい期待があふれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
若木公民館近くにおられます。
松尾 (1)
上半身の像で、彫りの深い顔立ちと口髭が印象的です。

田中 鐵三郎
田中 (5)

田中 (1)

田中 (6)
田中 鐵三郎 像
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和43年
分 類:財界人
評 価:☆☆☆

田中 鐵三郎(たなか てつさぶろう)
(1883年-1974年)
大正-昭和時代の銀行家
明治16年1月20日生まれ。
大蔵省から日銀にうつり、第一次大戦中ヨ-ロッパ駐在員をつとめる。
日銀理事、満州中央銀行総裁をへて昭和17年朝鮮銀行総裁。
戦後は日本海外移住振興社長、日本外交協会会長。
昭和49年12月2日死去。91歳。佐賀県出身。東京帝大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

田中 (2)

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
田中 (3)

上半身の像で、鼻の下の髭が特徴的です。

愛野 興一郎
愛野興 (3)

愛野興 (4)

愛野興 (5)

愛野興 (2)
愛野 興一郎 像
(佐賀県 鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園)

撮影日:2016年3月27日
建設年:平成17年
分 類:政治家
作 者:高岡鋳芸社
評 価:☆☆☆

愛野 興一郎(あいの こういちろう)
(1928年-1998年)
実業家・政治家
父は実業家で元衆議院議員の愛野時一郎。

愛野興 (6)

衆院議員(民政党)、元・経済企画庁長官
経歴民政党代議士だった父の跡を継ぎ、農協組合長、県議。
昭和47年自民党から衆院議員に当選。
外務政務次官、総理府総務副長官、衆院文教委員長を経て、平成元年竹下改造内閣の経済企画庁長官に就任。
竹下派、羽田派、5年6月新生党を経て、6年新進党、10年1月国民の声結成に参加。
9期務めた。
平成10年3月20日死去。
佐賀県鹿島市出身。中央大学法学部卒
家族父=愛野 時一郎(衆院議員) 弟=福岡 政文(佐賀日産社長) 愛野 克明(東日本観光バス社長) 愛野 孝志(愛野耳鼻咽喉科院長)
「政治家人名事典 明治~昭和の解説」から

[感  想]
旭ヶ岡公園におられます。
愛野興 (1)
上半身の像で、丸い顔が特徴的です。

愛野 時一郎
愛野時一郎 (7)

愛野時一郎 (3)

愛野時一郎 (4)

愛野時一郎 (2)
愛野 時一郎 像
(佐賀県 鹿島市古枝 祐徳博物館近く)

撮影日:2016年3月27日
建設年:昭和43年
分 類:政治家
評 価:☆☆☆

愛野 時一郎(あいの ときいちろう)
(1900年-1952年)
大正-昭和時代の実業家・政治家

明治33年2月19日生まれ。
佐賀県農業会初代理事長、佐賀米穀取引所理事長などを歴任。
祐徳自動車、東日本観光バス社長をつとめた。
昭和11年衆議院議員(当選4回、改進党)。
昭和27年12月31日死去。52歳。佐賀県出身。中央大卒。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[感  想]
祐徳稲荷神社敷地の祐徳博物館近くにおられます。
愛野時一郎 (1)
上半身の像で、祐徳稲荷神社をじっと見守っておられます。

愛野時一郎 (6)





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。