ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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魁皇
魁皇 (6)

魁皇 (2)

魁皇 (4)

魁皇 (5)

魁皇 (3)


魁皇 像
(福岡県 直方市大字山部 JR直方駅)

撮影日:2016年5月31日
建設年:平成26年
分 類:力士
作 者:片山 博詩
評 価:☆☆☆

Kaio_Hiroyuki_2008_May.jpg
魁皇 博之(かいおう ひろゆき)
(1972- )
昭和後期-平成時代の力士

昭和47年7月24日生まれ。
友綱部屋に入門。昭和63年3月初土俵。
平成4年1月新十両にのぼり、四股名を古賀から魁皇にあらためる。
5年5月新入幕。得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ。怪力でしられる。
6年5月新三役小結となる。
12年5月14勝1敗で幕内初優勝。12年9月大関に昇進。
23年7月場所で歴代1位の幕内在位107場所・大関在位65場所を数えたが、10日目琴欧
洲戦を最後に引退。
幕内通算879勝・通算1047勝(いずれも歴代1位)。
幕内優勝5回、殊勲賞10回、敢闘賞5回、金星6個。
引退後、年寄浅香山。福岡県出身。本名は古賀博之。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

魁皇

[エピソード]
◎四股名に入っている「皇」の文字は出身の直方市がかつて「皇方」と表記されていたことに由来し、これをとって師匠の友綱がつけた。

◎大関昇進前の1999年に結婚、子供はいない。5歳年上の妻・充子は元タレントであるが、
それ以前は女子プロレスラーであった。そのためか、女子プロレス関係者の中にもファンを有した。また現役当時の力士の中では、高見盛(最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。

◎その人気はとどまることを知らず、2001年10月に九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線・篠栗線(福北ゆたか線)博多駅 - 直方駅間で運行を開始した特急列車の名称「かいおう」にも採用された。力士の四股名に限らず、人名、しかも存命中の人物の名前がJRグループの列車名に採用されることは極めて異例。その特急「かいおう」の出発式には魁皇本人も出席し、テープカットも行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした2001年7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。前述の通り魁皇本人は2011年7月場所で現役引退したが、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている。

◎魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に花火が打ち上げられていた[26]。当初は花火の打ち上げ免許を持つ男性が花火の打ち上げを担当していたが、2011年1月にその男性が亡くなってからは、地元の魁皇後援会の若者たちが花火の打ち上げを引き継いでいた(最後には、魁皇が引退した翌日の2011年7月20日に、魁皇と花火の打ち上げを行っていた男性に向けた感謝の花火打ち上げが行われた)。また、直方市の銘菓「成金饅頭」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。

◎高砂部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった皇牙(元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身中学校(直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、鳴戸部屋出身の元前頭・力櫻が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。

◎俳優の堺雅人は同じ九州出身ということで、好きな力士に「魁皇」を挙げており、NHK
大相撲中継にゲストで呼ばれた際にも「魁皇を応援している」とコメントした。

◎2014年には地元直方市の直方駅前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われ
た。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、
12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
直方駅前広場におられます。
魁皇 (1)
まわしを締め、胸を張った堂々とした立ち姿です。

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佐藤 慶太郎
佐藤 (1)

佐藤 (2)
佐藤 慶太郎像
(福岡県 北九州市若松区 佐藤公園)

撮影日:2016年5月31日
建設年:平成21年
分 類:実業家
作 者:朝倉文夫
評 価:☆☆☆

佐藤 慶太郎
佐藤 慶太郎(さとう けいたろう)
(1868年-1940年)
実業家

1868年(明治元年)、筑前国遠賀郡陣原村(現・福岡県北九州市八幡西区陣原])に出生。
1886年(明治19年)、福岡県立英語専修修猷館(現・修猷館高等学校)に入学。
その後、法律家を志し修猷館を中退。明治法律学校(現・明治大学)に入学。
卒業後、帰郷し筑豊炭田の積出港であった福岡県遠賀郡若松町において石炭商の仕事に従
事、独立後に炭鉱経営者として成功を収めた。
しかし持病の胃腸病が悪化したため経営の第一線から退き、1918年(大正7年)に若松市
議会議長に就任。
第一次世界大戦後の戦後恐慌下、石炭鉱業連合会の設立構想を三井、三菱、古河等の財閥や
有力者に熱心に説いてまわり、創設に尽力した。

佐藤 (3)

1921年(大正10年)、連合会創設のために上京した折り、目にした時事新報社説で、東京
府美術館(現・東京都美術館)の建設計画が資金難のため頓挫しつつあることを知り、面識
があった東京府知事阿部浩に即座に100万円(現在の約33億円相当)の寄付を申し出た。
これにより、岡倉天心や横山大観らの「美術館が欲しい」という明治以来の日本美術界の悲
願が実現することとなった。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

『佐藤慶太郎像:若松で除幕 炭鉱の富で社会貢献 /福岡』
炭鉱経営で築いた富を、東京府美術館(現東京都美術館)や病院建設に寄付した佐藤慶太郎の胸像が若松区の邸宅跡「佐藤公園」に建てられ、14日、除幕式があった。
胸像は、私財を社会貢献のために使い続けた慶太郎の生き方を広く知ってほしいと地元有
志が計画。昨年11月、実行委員会が発足し、準備を進めていた。
不況にもかかわらず80の法人や個人から約560万円が寄せられ都美術館が保管する朝倉
文夫作のブロンズ像の複製が、公園の入り口近くに建てられた。
除幕式には、実行委の岡部秀年会長や慶太郎の孫の佐藤浩さん、北九州市の北橋健治市長のほか、慶太郎が晩年移り住んだ大分県別府市の浜田博市長ら約150人が出席。その後、若松市民会館で、胸像設置のきっかけとなった「佐藤慶太郎伝」の著者、斉藤泰嘉筑波大教授(57)が記念講演。約700人を前に「死後70年たってなお、このように胸像が建つ慶太郎は幸せな人。像には一切寄付者の名前がない。無名の篤志事業(フィランソロピー)を実践した彼の生き方が、地元に根付いていると思う」と語りかけた。
宮若市竜徳、小森良一さん(87)は「炭鉱の技術者として働いていたので、どんな人物なのか興味があった。若松には当時、石炭で財をなした人がたくさんいたけれど、すごい人ですね」と話していた。【長谷川容子】
毎日新聞 2009年6月16日 地方版
〔北九州版〕

[感  想]
旧邸宅敷地である「佐藤公園」におられます。
佐藤 (4)
上半身の像で、おだやかな表情と口髭が特徴的です。
東京都美術館にも同じ銅像があるそうです。

吉田 磯吉
吉田 (1)

吉田 (8)

吉田 (2)

吉田 (4)
吉田 磯吉 像
(福岡県 北九州市若松区大字修多羅 高塔山公園)

撮影日:2016年5月31日
建設年:昭和35年
分 類:実業家
作 者:佐藤 忠良
評 価:☆☆☆

吉田 磯吉
吉田 磯吉(よしだ いそきち)
(1867年-1936年)
実業家・政治家

芦屋鉄道、平山炭礦、吉田商事、若松魚市場、若松運輸の社長を歴任し、石炭鉱業互助会顧問となる。
この間、大正4年衆院議員となり当選5回。立憲政友会総務を務めた。
「新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説」から

吉田 (5)

吉田 (7)

火野葦平の『花と竜』に描かれる磯吉親分とは吉田磯吉のことである。
ヤクザの研究家である猪野健治によれば、(単なる暴力団ではなく、侠客の意味合いで)近代ヤクザは吉田磯吉をはじまりとする。
遠賀川流域の男伊達の気性をいう川筋気質の川筋モン(かわすじ者)の典型人物の一人とされる北九州から対岸の山口県への進出も目論んだとされるが、吉田磯吉が憲政会に所属したことにより、同じく近代ヤクザの嚆矢とも目される衆議院議員の保良浅之助(籠虎)が政友会の支援にて衆議院議員に当選するという構図となり、下関から西への進出は出来なかった。
尚、吉田磯吉と保良浅之助は互いに認め合う「侠と侠」の関係であったと伝えられている。※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
高塔山公園の高台におられます。
吉田 (6)

着物姿で座った姿で、じっと見つめる表情には凄味があります。

吉田 (3)
洞海湾を見下ろしておられます。

貝島 太助 2
貝原 (2)

貝原 (3)

貝原 (5)

貝原 (4)
貝島 太助 2
(福岡県 直方市殿町 多賀町公園)

撮影日:2016年5月31日
建設年:昭和29年
分 類:実業家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

多賀町公園は、明治時代、炭鉱で財をなした貝島太助の本宅跡です。
木造三階建ての豪華な建物であったといいます。
また、同氏の銅像は、長崎の平和記念像の作者、北村西望の作品です。
「福岡県ホームページ」から

[感  想]
多賀町公園におられます。
1と同じ銅像と思われます。
貝原 (1)
本宅跡から直方の街を見つめています。

貝島 太助 1
貝島 (2)

貝島 (3)
貝島 太助 像 1
(福岡県 直方市 山部 雲心寺境内)

撮影日:2013年10月20日
建設年:昭和29年
分 類:実業家
作 者:北村 西望
評 価:☆☆☆

貝島
貝島 太助(かいじま たすけ)
(1844年-1916年)
明治-大正時代の実業家

天保15年1月11日生まれ。
明治3年炭鉱事業に従事。
西南戦争で巨利をえて17年大之浦炭鉱を入手。
のち井上馨の援助を得、日清戦争を契機に事業をひろげ31年貝島鉱業合名を設立、貝島炭鉱の基礎をきずいた。
大正5年11月1日死去。73歳。
筑前(福岡県)出身。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

筑豊御三家と称された貝島財閥の創始者であり、「筑豊の炭坑王」の異名を取った。

[感  想]
雲心寺の境内裏におられます。
羽織、袴を着た、堂々とした立ち姿です。
北村西望の作です。

貝島 (1)





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