ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
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熊谷 直実
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熊谷 直実 像
(兵庫県 神戸市須磨区須磨寺町 須磨寺)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和42年
分 類:武将
作 者:平安美術製作所
評 価:☆☆☆☆

熊谷 直実(くまがい なおざね)
(1141年-1208年)
平安後期-鎌倉時代の武将

永治元年生まれ。武蔵大里郡(埼玉県)熊谷郷の人。
平家方から源頼朝の配下に転じ、本領熊谷郷の地頭職をみとめられる。
平氏追討に活躍し、一ノ谷の戦いで平敦盛を討つ。
建久3年伯父久下直光との領地あらそいに頼朝がくだした裁定を不服として出家、法然の門にはいった。
承元2年9月14日死去。68歳。
通称は次郎。法名は蓮生。
【格言など】浄土にもがう(剛)のものとや沙汰すらん西にむかひてうしろみせねば(「法然上人絵伝」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

一ノ谷の戦いの後、首実検をするとこの公達は清盛の甥・平敦盛と判明、齢十七だった。
討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという。
これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)。
敦盛を討った直実は、出家の方法を知らず模索していた。法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという。
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという。
その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという。
家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家した。
法名は法力房 蓮生(ほうりきぼう れんせい)である。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

呼び止める熊谷直実
呼び止める熊谷直実
永青文庫蔵『一の谷合戦図屏風』より

[感  想]
須磨寺の境内におられます。
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熊谷直実との一騎討ちの様子を表した像です。
左手で手綱を引き、右手で扇子を広げた騎馬像で、平敦盛を呼び止めている様子をあらわしているものと思われます。
髭をはやした表情が特徴的です。

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平 敦盛
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平 敦盛 像
(兵庫県 神戸市須磨区須磨寺町 須磨寺)

撮影日:2016年8月26日
建設年:昭和42年
分 類:武将
作 者:平安美術製作所
評 価:☆☆☆☆

平敦盛像(狩野安信筆、須磨寺蔵)
平敦盛像(狩野安信筆、須磨寺蔵)

平 敦盛(たいらの あつもり)
(1169年-1184年)
平安時代後期の武将

嘉応元年生まれ。平経盛の子。
寿永3年2月7日一ノ谷の戦いで、源氏方の熊谷直実に討たれた。16歳。
笛の名手とつたえられ、謡曲「敦盛」や浄瑠璃「一谷嫩(ふたば)軍記」などで名だかい。
通称は無官大夫。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。
平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。
源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

波際を敗走する平敦盛
波際を敗走する平敦盛
永青文庫蔵『一の谷合戦図屏風』より

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源平の庭
今から八百年前の平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭です。
当時十六歳の無官太夫平敦盛が一の谷の浜辺において、源氏の武将熊谷直実に討たれた話は平家物語の中で最も美しく、最も悲しい物語として古来語り継がれております。
庭前には、「笛の音に波もよりくる須磨の秋」の蕪村句碑があり、庭の角には弁慶が「一枝を伐らば一指を剪るべし」と制札を立てた、歌舞伎「一の谷嫩軍記」にも登場する「若木の桜」があります。
「大本山須磨寺ホームページ」から

[感  想]
須磨寺の境内におられます。
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熊谷直実との一騎討ちの様子を表した像です。
鋭い眼差しできりりとした表情の鎧甲姿の騎馬像は、躍動感があります。

菅原 道真 3
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菅原 道真 像 3
(波乗り祈願像)
(兵庫県 神戸市須磨区天神町 綱敷天満宮)

撮影日:2016年8月26日
分 類:貴族
評 価:☆☆☆

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サーフボードを持たれた菅公さん
時勢の波に乗り、夢が叶うことを祈願します
~波乗り祈願像~
「波乗り祈願」とは、成功を収めるために、うまく時流の波に乗ることを祈願するものです。決して自分本位な行動をとるのではなく、時を読み、流れに逆らわず、自らの平衡感覚によって状況に適応していくことが、人間が生きていく上で大切だと思います。
綱敷天満宮の近くには、古くから風光明媚な景勝地として親しまれている須磨の浦があります。 今も、夏になれば、須磨海岸には、多くの若者や家族が訪れ、賑わいます。
この像は、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せになることを願い、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の菅原道真公をモチーフに制作、建立しました
「綱敷天満宮ホームページ」から

[感  想]
綱敷天満宮の境内におられます。
サーフボードを持った幼少時代の菅原道真の像。
サーフボードと菅原道真という異色の組み合わせですが、「波乗り祈願」の像として上手くマッチしている感じです。

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波乗り坂
境内にさしかかる坂に、サーフボード型の石畳があります。
これに乗ると「サーフィーン上達」「人生の波にうまく乗ることができる」

菅原 道真 2
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菅原 道真 像 2
(5歳の菅原道真公像)
(兵庫県 神戸市須磨区天神町 綱敷天満宮)

撮影日:2016年8月26日
分 類:貴族
評 価:☆☆☆

菅原道真公は清公公、是善公と続く文章博士の家系に生まれました。
母は、少納言伴(大伴)氏の出身です。道真公の幼名は、「阿呼(あこ)」。
5才の時、庭に咲く紅梅を見てその花びらで自分の頬を飾りたいと、
『美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある』と歌い、
11歳(斉衡2年/855年)には、初めて漢詩を詠み、神童と称されました
「綱敷天満宮ホームページ」から

[感  想]
綱敷天満宮の境内におられます。
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5歳の菅原道真が和歌を詠んでいる姿を表した像です。

伴氏
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菅公母子(伴氏) 像
(兵庫県 神戸市須磨区天神町 綱敷天満宮)

撮影日:2016年8月26日
分 類:その他
評 価:☆☆

伴氏(ともし)
(?~872年)
平安時代の女性。菅原道真の母。菅原是善の室。
出自に関しては、正確な記録が残されておらず伴氏(大伴氏)出身以外は不明であり、伴氏が菅原是善の室となった時期も一切未詳である。
承和12(845)年、伴氏は道真を出産。
幼少時の道真は、体が弱く、伴氏も苦労したが、道真が学問の道に進むように献身的に導き育てた。貞観4(862)年には、道真は文章生となる。やがて文章得業生となった道真は、貞観12(870)年に、方略試を及第。道真の未来が、これから拓けようとする矢先の貞観14(872)年正月に、伴氏は、その生涯を終える。
「よろパラ ~文学歴史の10~日本史人物列伝」から 

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菅公母子像
(菅原道真公の母君に抱かれる像)
父は菅原是善(これよし)、菅原道真公の母は伴(とも)氏(名は不詳)。菅原氏は、道真公の祖父清公(きよきみ)のとき土師(はじ)氏より氏を改め、祖父と父は文章博士(もんじょうはかせ)を務めた学者の家系でした。母方の伴氏は、家系には大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人がいる。
「綱敷天満宮ホームページ」から

[感  想]
綱敷天満宮の境内におられます。
赤ん坊の菅原道真をしっかりと抱いた像です。

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毛利 秀元
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毛利 秀元 像
(山口県 下関市長府惣社町 長府毛利邸)

撮影日:2016年8月25日
建設年:平成28年
分 類:大名
作 者:楢原 北悠
評 価:☆☆☆

毛利秀~1
毛利秀元像(狩野探幽画)

毛利 秀元(もうり ひでもと)
(1579年-1650年)
江戸時代前期の大名

天正7年11月7日生まれ。
毛利元清の子。備中(岡山県)猿掛城で出生。
毛利輝元の養子となり、朝鮮出兵に名代として出陣した。
のち輝元に実子秀就が生まれたため分家。
関ケ原の戦い後、宗家より3万6000石を分与されて長門府中藩主毛利家初代となる。
古田織部門の茶人としても著名。
慶安3年閏10月3日死去。72歳。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

『長府毛利邸で銅像除幕 初代藩主・秀元』
下関市長府惣社町の長府毛利邸で26日、長府藩初代藩主・毛利秀元(1579~1650年)の銅像の除幕式が行われた。
銅像は高さ約2・3メートル。有志でつくる建立委員会が、全国約700人からの寄付金を活用し、約2200万円かけて建てた。
式では神事の後、秀元の子孫や安倍昭恵首相夫人、中尾友昭市長らが除幕した。
同委員会の勝原一明会長(73)が「(銅像が)新たな観光資源として活用され、下関や長府の観光、経済の発展に寄与できることを願う」とあいさつ。長府毛利家の子孫、毛利陽織(ひおり)さん(47)は「秀元の末孫としてうれしく思っている」と謝辞を述べた。
銅像はこの日、同委員会から下関市に寄贈された。
2016年03月27日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

[エピソード]
◎剛勇の将であり、智略にも優れていたといわれている。22歳でありながら、毛利氏の総大将として関ヶ原の戦いに兵1万5,000を引き連れて参陣したことも、それを証明している。しかし実戦経験が少なく、熟練の将であった従兄の吉川広家の内通を看破できなかった。

◎腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げたという逸話も残っている。

◎関ヶ原後は長府藩主でありながらも、本家の執政として能力を遺憾無く発揮した。37万石の長州藩の知行を実高54万石にまで上昇させることができたのは彼や益田元祥の功績である。但し、大坂の陣における佐野道可派遣の件の首謀者とも言われ、結果的には関ヶ原の戦いにおける吉川広家と同様の所為を行っている。
秀元は6歳になった時に毛利輝元の養子となった。その理由を吉川元春は「今、毛利家に男子は多くいるが、宮松丸に及ぶ者なし」と言い、小早川隆景は「その眼差し・秘めたるものが元就によく似ており、毛利家を継ぐのは宮松丸しかいない」と言ったと伝わっている。

◎江戸時代、江戸城に出仕した際弁当に鮭の切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。

◎茶の湯や和歌に優れ、古田織部の弟子となり、家光の御伽衆に加えられてからは家光に茶を点じている。
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

[感  想]
長府毛利邸の入口におられます。
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全身像で束帯に笏(しゃく)を右手に持った堂々とした立ち姿です。

楫取 素彦
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楫取 素彦 像
(山口県 防府市松崎町 防府天満宮)

撮影日:2016年8月21日
建設年:平成27年
分 類:幕末志士、官僚
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

楫取 

楫取素彦
楫取 素彦(かとり もとひこ)
(1829年-1912年)
幕末-明治時代の武士、官僚

文政12年3月15日生まれ。長門(山口県)萩藩士。
江戸で安積艮斎に師事。
第2次幕長戦争では宍戸璣に随行して広島にいき、幕府側との交渉にあたった。
明治5年足柄県参事となり、熊谷・群馬の県令、元老院議官などを歴任。貴族院議員。
大正元年8月14日死去。84歳。
本姓は松島。初名は希哲。字は士毅。通称は伊之助など。号は耕堂。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

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幕末の時代、松島家の次男として現在の萩市に生まれ、幕末期は小田村伊之助として活躍。
後に群馬県知事、貴族院議員・宮中顧問官を歴任した楫取素彦。彼は、盟友吉田松陰の志を受け継ぎ、明治維新の推進と防府市の発展に尽くした人物でした。
三田尻の地が終焉の地であるほか、防府天満宮、毛利家本邸等での関わりから、防府市と非常に縁の深い人物。
江戸から明治へと激動の時代を経て発展を遂げてきた現在の防府市にとって、忘れることのできない大きな存在です。
吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬をはじめ、幕末の志士達が闊歩した街・防府市。
萩市や下関市と共に、防府市は幕末激動の長州を支えた地として、歴史に大きな足跡を残しています。
三田尻宰判管事などを歴任した楫取は、防府の民心安定と産業振興に心を砕き、妻美和子と共にこの街に暮らしました。
現在も、楫取や維新の志士達ゆかりの史跡が数多く残っています。
「防府市観光協会ホームページ」から

[感  想]
防府天満宮の境内におられます。
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スーツ姿の立ち姿で、夫婦一緒の像です。

楫取 美和子
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楫取 美和子 像
(山口県 防府市松崎町 防府天満宮)

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久坂 文(楫取 美和子)(くさかふみ(かとりみわこ))
(1843年-1921年)
吉田松陰の妹

撮影日:2016年8月21日
建設年:平成27年
分 類:その他
作 者:小川 幸造
評 価:☆☆☆

はじめ文(文子とも)と称し、のちに美和子と改称した。
1857年、15歳のときに久坂玄瑞と結婚するも、元治元年(1864)禁門の変で夫が落命し、22歳の若さで寡婦となる。
同年9月、玄瑞の生前に養子としていた楫取素彦・寿子夫妻の次男道明(久米次郎)が家督を継ぐと、文は彼を支え久坂家の復興に努めた。ところが、道明は明治12年(1879年)に楫取家を継いだ。なお、時期は不明だが、毛利元徳の夫人安子に女中として仕え、元徳の嫡子元昭の誕生後はその守役として仕えたといわれる。
明治14年(1881年)群馬県令の任にあった素彦の妻、姉寿子が逝去し、明治16年、41歳のときに素彦と再婚。群馬を去った後も貴族院議員などの公務で多忙な素彦を支えた。明治30年、素彦が明治天皇第十皇女貞宮の御養育主任に任じられると、貞宮に御付として仕えた。晩年は防府市で過ごした。
「萩市観光協会 萩の人物データベース」から

『山口・防府に楫取素彦・文夫妻の銅像 地味な2人知名度アップを』
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主役で吉田松陰の妹の文と、準主役で文の再婚相手である楫取素彦。
松陰や久坂玄瑞、高杉晋作など幕末の逸材を多数輩出した長州藩においては、かなり地味な存在だ。
楫取夫妻の終焉の地、山口県防府市では、大河ドラマを機に2人の知名度アップを図るキャンペーンが展開されており、29日には同市の防府天満宮に銅像が初めて完成した。(将口泰浩)
楫取素彦は文政12(1829)年、長州藩医の松島家の次男として萩に生まれ、小田村家の養子となって小田村伊之助と名乗る。
後に幕府の追及を逃れるため、藩命で「楫取」に改名した。藩主の毛利敬親の側近として薩長同盟を推進し、維新を迎える。松陰が「正直者すぎて困る」と評すほどの、まさに「至誠の人」だった。
維新後、群馬県の初代県令(現在の県知事)に任じられ、蚕糸業の発展などに尽くす。
だが、明治14年に最初の妻を亡くし、16年、文と再婚した。
文も、夫である松陰門下の久坂玄瑞を明治維新期の禁門の変で亡くしていた。
再婚した楫取と文は明治26年、防府に移住し、2人ともここで亡くなった。
大河ドラマでは、文を井上真央さん、楫取を大沢たかおさんが演じている。
松陰の志を受け継ぎ、大きな功績を残した楫取だが、知名度は低い。
大河ドラマは地味な夫妻の知名度アップ、そして縁の深い防府をアピールするのに絶好の機会だ。
このため、地元のライオンズクラブが2人を顕彰する銅像の建立を計画し、29日、除幕式を迎えた。
銅像は、防府天満宮にある貞宮遙拝所のそばに建つ。
楫取は明治天皇皇女、貞宮多喜子内親王の御養育主任も務めていたが、内親王は3歳で夭逝。
楫取は防府天満宮に遺品を奉納し、遙拝所が建った。
楫取夫妻の銅像は優しい表情で遙拝所を見守っている。
除幕式には山口県の村岡嗣政知事が出席し、「県内外から多くの観光客に足を運んでいただきたい。
銅像建立を契機に地域全体が元気になってほしい」とあいさつした。
2015.3.30産経新聞

[感  想]
防府天満宮の境内におられます。
着物姿の立像で、夫婦一緒の像です。
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遙拝所を見守っておられます。

吉田 松陰 4
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吉田 松陰 像 4
(山口県 防府市華浦 華浦小学校)

撮影日:2016年8月21日
建設年:昭和15年
分 類:幕末志士、思想家
評 価:☆☆☆

[感  想]
防府市の華浦小学校の敷地内におられます。
本を持った座像で、珍しい石像です。
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小学校の学び舎をじっと見守っておられます。

吉田 松陰 3
吉田萩道の駅 (1)

吉田萩道の駅 (3)
吉田 松陰 像 3
(山口県 萩市大字椿 道の駅萩往還「松陰記念館」)

撮影日:2016年7月14日
分 類:幕末志士、思想家
作 者:疋田 雪州(原型)
評 価:☆☆☆

吉田萩道の駅 (4)

[感  想]
道の駅萩往還「松陰記念館」におられます。
吉田萩道の駅 (2)
2と同じ型での銅像だと思われますが、微妙に表情が違う気もします。

吉田 松陰 2
吉田 (1)

吉田 (2)
吉田 松陰 像 2
(山口県 柳井市柳井 柳井市立図書館)

撮影日:2015年2月26日
分 類:幕末志士、思想家
評 価:☆☆☆

[感  想]
柳井市立図書館の2階におられます。
正座した全身の小ぶりな像です。

吉田 (3)

吉田 松陰 1
幕末志士 吉田松陰・金子重輔の像

幕末志士 吉田松陰・金子重輔の像2
吉田 松陰 像 1
(山口県 萩市 椿東)

撮影日:2007年8月23日
建設年:昭和43年
分 類:幕末志士、思想家
作 者:長嶺武四郎
評 価:☆☆☆。

吉田松陰
「近代日本人の肖像ホームページ」から

吉田松陰
吉田松陰像(山口県文書館蔵)

吉田 松陰(よしだ しょういん)
(1830年-1859年)
幕末の武士,思想家,教育者

文政13年8月4日生まれ。
杉百合之助の次男。杉民治の弟。
長門(山口県)萩藩士。
山鹿流兵学師範の叔父吉田大助の仮養子となり,兵学と経学をまなぶ。
9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授。
嘉永3年から諸国を遊学して会沢正志斎,安積艮斎らに従学。
6年から佐久間象山に砲術,蘭学をまなぶ。
7年下田沖のアメリカ軍艦で密航をはかるが失敗。
幽閉された生家に,安政4年松下村塾(もとは外叔父玉木文之進の家塾)をひらき,高杉晋作,伊藤博文らにおしえるが,安政の大獄で6年10月27日刑死した。30歳。
名は矩方。通称は寅次郎。別号に二十一回猛士。
【格言など】身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂(辞世)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎「晋作の識、玄瑞の才」 ~なぜ高杉晋作は英雄になれたのか?
吉田松陰は人を感化させる天才でした。
松下村塾の門下生はもちろんのこと、萩の野山獄や江戸の伝馬町獄などで松陰と出会った人々は、不思議なほど松陰に感化されていきました。
その松陰のもう一つのたぐいまれな能力は、周囲に集まるひとりひとりの資質と能力を見分けて自在に対応する力を持ち合わせていた点です。
例えば、松下村塾の双璧と謳われた高杉晋作や久坂玄瑞も決して松陰を師と仰いで入門したわけではありませんでした。
ところが、その感化力によってすぐに二人を感化させた松陰は、この二人の異なった資質と能力を素早く見抜き、「晋作の識、玄瑞の才」と二人を評価しながら、お互いを競わせたのです。
幼いころから英才の誉れ高く、利発であった玄瑞に対して、晋作は学問では決して玄瑞にかなうことがありませんでした。
しかし、晋作には松陰が識と称した資質が備わっていたのです。
その識とは、現代でいう数学ができるとか記憶力がよいというような、いわゆる勉強のできる能力とは異なったもので、炯眼(けいがん)、洞察力、直感力に近い意味、つまり先を正しく見通す力、状況に応じ、特に危機に際して機敏で的確な判断と行動ができる能力のようなものを表現していたと考えられます。
明日をも知れぬ動乱の世にあって、この識を持ち合わせていたおかげで、才を持ちながら蛤御門の変に殉じた玄瑞とは違い、幾多の危機を乗り越え、奇兵隊を結成して大田絵堂の戦いや四境戦争を勝利に導き、維新回天の立役者となった晋作が、日本史上最大の英雄のひとりと成り得たのです。

◎「草莽の崛起(そうもうのくっき)」
開国後の日本では、外国のいいなりになって屈しているかのように見える弱い態度の幕府に対し、外国を追い払い日本国をどうやって守るかという強い気持ちをもっている人たちがいました。それを攘夷といいます。
その中心になったのが松陰を始めとする長州藩の志士たちでした。
松陰は幕府を倒すための力を、はじめは藩に期待しましたが、封建制度から抜け出ることのできない藩に失望し、残るは民衆の力しかないと思っていました。
そして民間からすぐれた人物があちこちからわき出るように出て、その力を結集して自由を勝ち取るという大きな期待を民衆にかけました。
これを「草莽の崛起」といいます。
松陰が処刑され、その亡き後、松下村塾から巣立った松下村塾生グループの高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの博文)などの若者は、「強い勢力を動かして、幕府を倒し、自由を勝ち取らなければならない」という松陰の志をうけついで、幕末維新の激動期に活躍していったのです。
ホームページ「知っちょるやまぐち!?」(山口県教育委員会)から

[銅 像]
松陰と金子重輔の銅像は、1968年(昭和四十三年)、明治維新百年を記念して建たてられました。
題字は、内閣総理大臣佐藤栄作のものです。

[感 想]
吉田松陰、この人無しに幕末維新は、あり得ませんでした。
松陰の考え方は、今の世の中でも見習うべきところが多い素晴らしいものだと思います。
銅像は、萩の市内をじっと見据えておられます。
萩城のある指月山と菊ヶ浜とその先の海をよく見渡すことができます。

幕末志士 吉田松陰・金子重輔の像3

久坂 玄瑞
久坂1

久坂2

久坂3

久坂4

久坂6
久坂 玄瑞 像
(山口県 萩市江向 萩市中央公園)

撮影日:2016年7月14日
建設年:平成27年
分 類:幕末藩士
作 者:江里 敏明
評 価:☆☆☆☆

久坂 玄瑞
久坂 玄瑞(くさか げんずい)
(1840年-1864年)
幕末の武士

天保11年5月生まれ。久坂玄機の弟。
生家は長門萩藩医。松下村塾にまなび、吉田松陰の妹と結婚。
文久2年高杉晋作らとイギリス公使館を焼き討ちし、3年下関外国船砲撃に参加するなど、尊攘運動をすすめる。
禁門の変で負傷し、元治元年7月19日自害。25歳。
名は通武。通称は義助。
【格言など】諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎吉田松陰による評
●『久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。』
-安政4年(1857年)12月5日
「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」
●『久坂玄瑞は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。
しかも、その志気を才で運用する人物である。
僕はかねてから長州藩の若手中では、君を第一流の人物であると、つねに、推奨してきた。
今、京都をすぎて江戸にゆこうとしている。
すでに、世の中は大変革する兆候があらわれている。君は僕たち仲間の中心人物である。
僕は、君の出発にあたって、君に非常の言葉を贈りたい。
京都や江戸には、この大変革ととりくむ英雄豪傑が大勢いる。
ゆえに、君は、彼らと大いに論じて、何をし、何をすべきかをはっきり見定めて、日本のゆくべき道をあきらかにしてほしい。
それができないで、僕が第一流の人物と推奨してきた言葉を単なる私見におわらせるようなことがあれば、君は、天下の有志に対して、大いに恥ずべきである。』
-安政5年(1858年)2月
「久坂玄瑞の壮行を祝して」
●『僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。
その後、高杉晋作を同志として得た。
晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。
しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。
そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。
そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、皆もそれを認めるようになった。
玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、晋作を推すようになった。晋作も率直に玄瑞の才は当世に比べるものがないと言い始め、二人はお互いに学びあうようになった。
僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発したものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはないと思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。
晋作よ、世に才のある人は多い。
しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。』
-安政5年(1858年)7月
「高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞」

◎西郷隆盛による評
お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんがなア。
-「明治維新後、木戸孝允に対して」
※出典: フリ-百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

【銅 像】
久坂玄瑞進撃像
▽設置場所 中央公園(江向)の平安古・萩城城下町側
▽銅像本体の高さ 約1.8m(台座を含めた高さは約3m)
▽銅像制作者   江里敏明(日展審査員、京都市在住 萩城跡の毛利輝元公銅像、晋作広場の高杉晋作立志像を制作)
「ぶらり萩あるきホームページ」から

[感  想]
萩市の中央公園広場におられます。
久坂5
尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の像で、右手を上げて力強く東を指す、りりしい立ち姿です。





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