ken's銅像探索日誌
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菅原 道真
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菅原 道真 像
(徳島県 徳島市 新町橋)

菅原 道真(すがわらのみちざね)
(845年-903年)
平安時代前期の公卿,学者

撮影日:2007年11月16日
建設年:平成3年
分 類:学者、公卿
作 者:長田浅雄
評 価:☆☆☆

百人一首 菅家(菅原道真)
百人一首 菅家(菅原道真)
此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

承和12年6月25日生まれ。
菅原是善の3男。
文章博士。宇多天皇に重用される。
寛平6年(894)遣唐使の中止を建議。
昌泰2年(899)右大臣となるが,左大臣藤原時平の中傷により,大宰権帥に左遷され,
延喜3年2月25日大宰府で没した。59歳。
その祟りをおそれて正一位,太政大臣を追贈され,天神として信仰された。
字は三。通称は菅家,菅公。
詩文集に「菅家文草」「菅家後集」,編著に「日本三代実録」「類聚国史」など。
【格言など】このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向山(たむけやま)紅葉の錦神のまにまに(「小倉百人一首」)
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」から

[エピソード]
◎道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
◎菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。
さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
◎清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感 想]
この像は、徳島眉山天神社にあります。
学問の神、菅原道真公をお祀した天神社は全国に約12000あると言われ、いるので、道真像は多いかもしれませんね。
座像は、眉毛がつっていて鋭い顔つきですが、銅の色合いがいい感じです。
IMG_7873.jpg
徳島眉山天神社
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