ken's銅像探索日誌
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菅原 道真
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菅原 道真 像
(徳島県 徳島市 新町橋)

菅原 道真(すがわら の みちざね)
(845年−903年)
学者、漢詩人、政治家
特に漢詩に優れた。
33歳のときに文章博士に任じられる。宇多天皇に重用され右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平 に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷されそこで没し、為に、朝廷に祟りをなし天神として祀られる。現在は学問の神として親しまれる。

撮影日:2007年11月16日
建設年:平成3年
分 類:学者、政治家
作 者:長田 浅雄
評 価:☆☆☆


[生 涯]
喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。
道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)、18歳で文章生となった。
仁和2年(886年)、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。
仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。
寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。
これまでは家の格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。
皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に、このとき有力な者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて、藤原氏を牽制した。
寛平3年(891年)、蔵人頭に補任。ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに翌年には参議式部大輔に補任。左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。
寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。
寛平7年(895年)には従三位権中納言に叙任。
春宮権大夫を兼任。
長女衍子を宇多天皇の女御とした。
翌年、民部卿を兼任。
寛平9年(897年)には娘を宇多天皇の子・斉世親王の妻とした。
同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権(いわゆる「内覧」)を許した。
正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。
また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。
翌年三善清行は道真に、止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。
延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。
宇多上皇はこれを聞き、醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。
長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。
道真は延喜3年(903年)、大宰府で没し、同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」も有名である。

[感 想]
この像は、徳島眉山天神社にあります。
IMG_7873.jpg

学問の神、菅原道真公をお祀した天神社は全国に約12000あると言われ、いるので、道真像は多いかもしれませんね。
座像は、眉毛がつっていて鋭い顔つきですが、銅の色合いがいい感じです。


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