ken's銅像探索日誌
旅先で出会った銅像達を紹介します!
分類



最近の記事



月別アーカイブ



最近のコメント



ブログ内検索



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

奇兵隊
IMG_7532.jpg


IMG_7534.jpg
奇兵隊 像
(山口県 下関市 吉田)

奇兵隊(きへいたい)
江戸時代後期の幕末に結成された長州藩の部隊

撮影日:2007年11月19日
建設年:平成14年
分 類:長州藩の部隊
作 者:中下  義彦
評 価:☆☆☆

長州奇兵隊
260px-Keiheitai.jpg
長州奇兵隊の隊士(一部)

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。
「奇兵」とは藩士・武士のみからなる部隊(撰鋒隊)に対して、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊の意味。「正規兵」の反対語である。
奇兵隊などの諸隊は1863年(文久3年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。
この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。
当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。
奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。
同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は更迭された。
継いだ総督は赤根武人、軍監は山県狂介が務めた。
同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。
翌1864年(元治元年)、新選組が長州藩の攘夷激派を襲撃した池田屋事件の後に長州藩は京都の軍事的奪回を図り、会津藩・薩摩藩の両軍と衝突した。
この禁門の変で長州藩は敗北したため朝敵となった。
幕府は朝敵・長州藩を伐つため、長州征伐(第一次幕長戦争)を行う。
この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。
長州藩が第一次幕長戦争に敗北した後に亡命していた高杉は帰藩。
高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。翌1865年(元治2年)には幕府によって再び長州征伐(第二次幕長戦争、四境戦争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。
1866年(慶応2年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事同盟を結び(薩長同盟)、
1867年11月(慶応3年10月)の大政奉還を経て、
1868年1月(慶応3年12月)に薩長が主導した王政復古が行われた。
奇兵隊ほか長州藩諸隊は官軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。
この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。
奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町民が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居して訓練に励んだ。このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。
高杉は泰平の世で堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収して当時最新の兵器を取り扱い、戦果を上げた。
奇兵隊は、明治維新以降、鎮台の設立に伴って廃止された。
1869年(明治2年)から翌年にかけて、隊士の一部が脱退騒動を起こして山口県庁を包囲した。
騒動の首謀者とみなされた大楽源太郎は、九州の久留米へ逃れる。大楽は、同士を糾合して再起を図ったものの、騒動は木戸孝允(桂小五郎)により武力鎮圧され、大楽はじめ130人あまりが処刑された。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
特定の人物では無い、はじめての銅像です。
でも、誰もが知っている奇兵隊の1人をモデルにした像です。
鉄砲を右手に、刀を腰に差して立っている凛々しい姿と鋭い眼差しが印象的な銅像です。


以下、除幕の新聞記事です。

【無名奇兵隊士の像完成 晋作支えた志継ごう ブロンズ製 14日、下関で除幕】
広島県呉市で銅合金の鋳物工場を経営する中下義彦さんが、高杉晋作ゆかりの下関市吉田地区の観光協会からの依頼で、幕末に活躍した奇兵隊士の銅像を制作した。
広島県内でのブロンズ像制作は珍く、14日に下関である除幕式で披露される。
 像は高さ1・8m、重さ約350㎏。
奇兵隊の特徴とされるかさをかぶり、鉄砲を右手に、刀を腰に差して立っている姿を表現している。
 吉田地区は、高杉が下級武士や農民たちを集めて組織した奇兵隊の訓練所があった所。
地区観光協会が「有名な高杉晋作の像はあるが、無名ながら苦労した一般兵の像もほしい」と企画。
訓練所の跡地に整備構想のある史跡公園の目玉として、入り口に設置する予定にしている。
 中下さんは約40年間、船舶や自動車の金属部品の鋳型を作ってきた。
約20年前に趣味でブロンズの観音像を制作。
奇兵隊士像の企画・製作を請け負ったデザイン会社などが、その精巧な技術に注目し、依頼した。
 「一世一代の大仕事」と引き受けた中下さん。2人の助手と9月初めから約1か月間、かかり切りで制作に励んだ。
 プラスチック製のモデルを基にして鋳型作り。
複雑な型抜きが必要な、腰に置いた手などに気を配り、体を前後2つに分けて作り、銅とスズを混ぜた合金を8㎜の厚さに流し込んだ。
仕上げでは、数日間かけて黒っぽく光るように磨き上げた。
 中下さんは「思い描いた通りの出来栄え。呉海軍工廠から伝わる鋳物の技術を、1000年も2000年も持つブロンズ像に込めた。多くの人に見てもらえるのはうれしい」と、披露を楽しみにしている。(中国新聞2002-10-10)
スポンサーサイト


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
→http://kendouzou.blog115.fc2.com/tb.php/101-fd42ce45
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。