ken's銅像探索日誌
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日 蓮
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日 蓮 像
(福岡県 福岡市博多区 東公園)

日蓮(にちれん)
(1222年−1282年)
鎌倉時代の仏教の僧

撮影日:2007年12月4日
建設年:明治37年
分 類:僧
作 者:竹内 久一
評 価:☆☆☆☆


[年 譜]
1222年 
安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。
1233年 
清澄寺(せいちょうじ)の道善を師として、入門する。
1238年 
出家、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1240年 
比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。
1254年 
清澄寺を退出し、鎌倉に出て弘教を開始する。このころ日蓮と名のる。
1257年 
鎌倉の大地震の悲劇を体験し、改めて実相寺で一切経を読誦・思索する。
1260年 
立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。
安国論が建白されて40日後、批判に恨みを持っていた他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。
1261年 
幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。
1264年 
安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難)
1268年 
蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。
日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
1271年 
平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけるが、球電現象らしきことが起こり、太刀取や兵が恐れてしまい処刑は断念される。10月 評定の結果佐渡へ流される。
流罪中の3年間に日蓮当身の大事という人本尊開顕の「開目抄」、法本尊開顕の「観心本尊抄」などを著述。
さらにこのころ末法の時代に即した法華曼荼羅を完成させた。この法華曼荼羅が、後世の人々に多大な影響を与えることとなる。
1274年
赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなうが幕府は聞く耳をもたなかった。
蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後であった。
1281年
兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。
1282年
病をえて、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸(ひたち)国へ湯治にいくため身延を下山。
1282年
日蓮は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定めた。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。
池上宗仲邸にて61歳で遷化(死去)。

死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。 そのため、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

像本体10.6m。
市指定文化財。
元寇記念碑建設運動に触発された日蓮宗僧侶の佐野前励(日菅)が提唱。
東京美術学校の岡倉天心に依頼、竹内久一が原型制作、岡崎雪声が鋳造。
1904年11月8日に除幕式を挙行。
本体は分割して鋳造したものをボルトで結合する工法がとられる。
奈良・鎌倉の大仏に次いで日本で3番目に大きい銅像。

[感  想]
東公園を走っていると、突如大きい頭が見えてきました。
IMG_7642.jpg

とにかくこの像は、でかいです!
大きさで圧倒されます!
台座にもレリーフが施されており、皆が触るためか日蓮上人の部分だけ黒光りしていました。
IMG_7659.jpg


日蓮絵はがき

東公園の日蓮上人像(大正時代〜昭和前期)の絵はがき。
福岡市博物館ホームページから


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