ken's銅像探索日誌
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母里 太兵衛
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母里 太兵衛 像
(福岡県 福岡市中央区 西公園光雲神社 )

母里 太兵衛(もりたへえ)友信(とものぶ)
(1556年?−1615年)
戦国武将
「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話で非常に著名。

撮影日:2007年12月5日
分 類:武士
評 価:☆☆☆

[経 歴]
父一信は播磨で勢力を持っていた小寺氏に仕え、黒田孝高の父である黒田職隆の与力的な立場にあったと伝えられる。
そのため子の友信も永禄12年(1569年)黒田孝高に出仕した。
理由は定かではないが、このときに母方の姓である「母里」と名乗ったようである。
1573年の印南野合戦に初陣して以来、常に先鋒を務めて活躍した。
1578年に突如信長に叛旗を翻した荒木村重によって主君孝高が捕らえられた際に忠誠を誓った留守中連著起請文にも名を連ねた。
その後も孝高に従って中国、四国を転戦し、
1587年正月より開始された九州征伐では、豊前宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ、孝高の豊前入国後は6000石を与えられた。
文禄・慶長の役にも長政に従って従軍。
関ヶ原の戦いでは九州切り取りに動いた孝高に従い豊後で蜂起した義兄大友義統を降伏させるなど、随所で類稀なる働きを見せ、後に長政が豊前中津18万石から筑前名島52万石に加増移封となった際には筑前鷹取城1万8000石を拝領した。
生涯に挙げた首級は実に76と家中で一番であった。

[黒田節の逸話]
文禄・慶長の役休戦中の際の出来事とされる。
京都伏見城に滞留中の福島正則の元へ、長政の使者として使わされた友信は、正則の屋敷で酒を勧められる。
友信は家中でも「フカ」と言われるほどの酒豪の者であったが、使者である手前それを固辞した。
しかし本人も酒豪である正則はこれに「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」としつこく勧め、更には黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ、などと家名を貶める発言をした。
そこで友信はこれを敢えて受けて大盃になみなみと注がれた数杯の酒を一気に呑み干すと、褒美として、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望する。
正則は「武士に二言は無い」という言葉を受けてしぶしぶ褒美に差し出した。
これによって「呑取り日本号」という異名と、越天楽(筑前今様)の節回しと供に「黒田節」として、黒田武士の男意気を示す逸話として広く知られるようになった。
これによって友信は博多人形の題材として多く取り上げられ、槍と盃を手にした姿で造型される。また博多駅前や西公園などにはこの逸話を元にした銅像がある。

なお、この日本号は後の慶長の役で窮地に陥った友信を救った後藤又兵衛の手に渡り、又兵衛が出奔する際に黒田家に残されて家宝となったと伝えられ、現在、福岡市博物館に現物が、広島城にレプリカが展示されている。
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

[感  想]
長い槍と杯を持った堂々とした像です。
博多人形のモデルになっています。
「酒は飲め飲め飲むならば日の本一のこの槍を・・・・」


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